
国家には主権があることを前提とした上で、国家の意思の最終的かつ最高の決定権が国民に帰属することを示す憲法上の原理もしくは政治理念を国民主権と呼ぶ(『三省堂憲法辞典』)。一般的には主権在民とも称される。
大日本帝国憲法(明治憲法)では、天皇主権であった。日本国憲法は、「主権が国民に存することを宣言し」(憲法前文)、第1条で天皇の地位が「主権の存する日本国民の総意に基く」と規定しており、国民主権主義である事は明白だ。
ところが、自民党などの国会議員には、国民主権を国会議員主権と勘違いする者が多い。恥じ入るばかりだ。去る3月、いわゆる「一票の格差」訴訟で、高裁・支部が「違憲・無効」(2件)、「違憲」(12件)、「違憲状態」(2件)の厳しい判決を宣告した。
一票の価値の平等を実現する選挙制度改革の怠慢を続ける立法府(国会)の責任が問われたのだ。この一連の判決に、自民党中谷元議員が憲法審査会で、「国会が決めた選挙のあり方について、違憲とか無効とか、司法が判定する権利が、三権分立上許されるのか疑問だ。立法府への侵害だ」と息巻いたらしい(3月27日付朝日新聞「天声人語」)。
この論理こそ、まさに国会議員主権の考え方。そして、国会議員主権の考え方を基本に、憲法96条改正の主張がある。恐ろしやー、恐ろしやー、憲法96条改正。
(2013年4月1日 衆議院議員 照屋寛徳)