暗闇検校の埼玉県の城館跡

このブログは、主に、私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話しするブログです。

こいしつ 久下氏ゆかりの寺社

2018-02-25 18:27:13 | 城館跡探訪
しつこく熊谷市域の久下氏・市田氏の遺跡について追いかけて参りましたが、

最後に、久下氏に所縁のある寺社について紹介いたします。

久下氏所縁の寺社は久下地区の旧中山道沿いにあります。

菩提寺としては東竹院が有名です。



参道脇には大きな駐車場が整備されて、参拝しやすくなっております。

また、駐車場傍には古い石塔も集められております。



参道からの遠景。




そして、東竹院の本堂です。




境内には小さな祠もあります。




久下氏の墓所は、この祠から少し離れた、本堂の南脇にあります。墓苑の入り口付近にあるので、お参りが容易です。













中世武将の墓所と一口に言っても、様々ですが、久下氏の墓所は、こじんまりしてはいますが綺麗で、今でも

参拝者がいると思われます。

東竹院には、だるま石と呼ばれる奇岩も安置されています。

その形がいかにもだるまのようなのでその呼び名がついたそうです。



確かに、だるまによく似ています。



久下氏に所縁のある神社として、三島神社があります。三島神社のうち、堤外地の外三島については、

ご紹介いたしましたので、内三島について紹介いたします。

内三島は、今の久下神社です。久下神社は、旧中山道沿い、久下小学校の脇にあります。





現在の久下神社は、内三島神社を村内の稲荷社の敷地に移転したものだと言います。








本殿脇には、合祀された神社の諸神が祀られておりました。










久下氏館跡については、地元の地誌の検討などを行う必要があると思いますが、ここまでで、一旦この項は

終わりにしたいと思います。追加情報があれば、新たに記事を書きたいと思います。



こいしつ 久下氏・市田氏館跡 ④

2018-02-25 11:29:15 | 城館跡探訪
熊谷市久下地区における、久下氏尊崇の念が強いということを、③において述べました。

市田氏に対しては、比較的どうでも良いというか、元荒川締め切り工事後、二つに分割された

旧大里村市田地区のイメージが強いせいなのか、地元でもご存じない方がいらっしゃるようです。


さて、久下地区には熊久(ゆうきゅう)という地域があります。

ここは、久下郷と熊谷郷の境界争いの舞台となったとされる場所です。熊谷直実は、平敦盛を討ったことで、

歴史的・文学的に後世に名を残しましたが、久下氏との関係で言えば、久下直光は母方の伯父であり、

幼い時に父を亡くした直実にとって、久下直光は養い親でもありました。

久下直光は直実を自分の郎党としてみていたようです。自分の処遇に不満を持った直実は、久下直光のもとを去り、

源頼朝挙兵後、頼朝に仕えて、熊谷郷の支配権を安堵されたのですが、境界を接する直光とは不仲で、境界争いが

続いていたことは、皆さまがご存じのとおりです。


所領争いの舞台となった熊久地区は、熊谷駅の南口を通る旧中山道を、東に徒歩で10分ほど下った場所にあります。

写真は、八丁と呼ばれる地域で、旧中山道は元荒川上を通過して、久下地区に向っています。





元荒川源流付近は、いくつかの支流があり、元荒川を横切る小さな橋を「熊久橋」と呼んでいます。



地元では、この橋を境界として、「熊谷直実と加藤清正が対陣した」という口碑が残されています。

もちろん、加藤清正は誤って伝えられたものですが、「横暴な加藤清正」像がこうした形で後世に

反映されていたことは興味深いです。

さて肝心の熊久橋ですが、実は3本あり、最初の写真は、旧中山道をバイパスさせるために作られたもので、

八丁の集落内を通過する旧中山道上にかかる下の写真の橋が、口碑に残された熊久橋であるということは、

祖母からよく聞かされました。





旧中山道を最近開通したバイパス道の交差点を通過すると、元荒川の本流が現れます。



ここも熊久橋であり、なんだかよくわからんという感じにもなります。



ちなみに、かつての元荒川はこの上流にある源流付近がきれいなだけで、この付近では家庭廃水が垂れ流しに

なっていました。


元荒川の源流は、荒川堤防下にある県水産試験場支場の池に噴出する伏流水です。






さて、先ほどの旧中山道と新道の交差点付近が熊久地区の入り口です。交差点を新道に沿い、

東に50メートルほど入ると、元荒川に沿った広大な水田地帯が広がっています。









新道が通って、この地域は見学しやすくなりました。


治水技術の未熟であった中世においては、元荒川クラスの平野の中小規模の河川は格好の農業用水源であり、

その周囲に広がる低地こそが農業生産力の基盤であった訳で、この地域をめぐって所領争いが行われたことは、

直実と直光のメンツの問題を超えた、領地経営の根幹にかかわる問題であったということができます。