暗闇検校の埼玉県の城館跡

このブログは、主に、私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話しするブログです。

こいしつ 久下氏・市田氏館跡 ④

2018-02-25 11:29:15 | 城館跡探訪
熊谷市久下地区における、久下氏尊崇の念が強いということを、③において述べました。

市田氏に対しては、比較的どうでも良いというか、元荒川締め切り工事後、二つに分割された

旧大里村市田地区のイメージが強いせいなのか、地元でもご存じない方がいらっしゃるようです。


さて、久下地区には熊久(ゆうきゅう)という地域があります。

ここは、久下郷と熊谷郷の境界争いの舞台となったとされる場所です。熊谷直実は、平敦盛を討ったことで、

歴史的・文学的に後世に名を残しましたが、久下氏との関係で言えば、久下直光は母方の伯父であり、

幼い時に父を亡くした直実にとって、久下直光は養い親でもありました。

久下直光は直実を自分の郎党としてみていたようです。自分の処遇に不満を持った直実は、久下直光のもとを去り、

源頼朝挙兵後、頼朝に仕えて、熊谷郷の支配権を安堵されたのですが、境界を接する直光とは不仲で、境界争いが

続いていたことは、皆さまがご存じのとおりです。


所領争いの舞台となった熊久地区は、熊谷駅の南口を通る旧中山道を、東に徒歩で10分ほど下った場所にあります。

写真は、八丁と呼ばれる地域で、旧中山道は元荒川上を通過して、久下地区に向っています。





元荒川源流付近は、いくつかの支流があり、元荒川を横切る小さな橋を「熊久橋」と呼んでいます。



地元では、この橋を境界として、「熊谷直実と加藤清正が対陣した」という口碑が残されています。

もちろん、加藤清正は誤って伝えられたものですが、「横暴な加藤清正」像がこうした形で後世に

反映されていたことは興味深いです。

さて肝心の熊久橋ですが、実は3本あり、最初の写真は、旧中山道をバイパスさせるために作られたもので、

八丁の集落内を通過する旧中山道上にかかる下の写真の橋が、口碑に残された熊久橋であるということは、

祖母からよく聞かされました。





旧中山道を最近開通したバイパス道の交差点を通過すると、元荒川の本流が現れます。



ここも熊久橋であり、なんだかよくわからんという感じにもなります。



ちなみに、かつての元荒川はこの上流にある源流付近がきれいなだけで、この付近では家庭廃水が垂れ流しに

なっていました。


元荒川の源流は、荒川堤防下にある県水産試験場支場の池に噴出する伏流水です。






さて、先ほどの旧中山道と新道の交差点付近が熊久地区の入り口です。交差点を新道に沿い、

東に50メートルほど入ると、元荒川に沿った広大な水田地帯が広がっています。









新道が通って、この地域は見学しやすくなりました。


治水技術の未熟であった中世においては、元荒川クラスの平野の中小規模の河川は格好の農業用水源であり、

その周囲に広がる低地こそが農業生産力の基盤であった訳で、この地域をめぐって所領争いが行われたことは、

直実と直光のメンツの問題を超えた、領地経営の根幹にかかわる問題であったということができます。

こいしつ 久下氏・市田氏館跡 ③

2018-02-24 11:32:25 | 城館跡探訪
堤防上で待っていてくれた男性に、かねてから温めていた三島神社に関する質問をしてみました。

質問に答えてくださった男性を仮にAさんとしましょう。

以下は聞き取りの内容です。


私:外三島神社についてご存じですか?

A:外三島?

私:ええと、三島神社のことです。堤外にあるので外三島と呼ばれているそうです。

A:ああ、三島神社のこと・・。

私:どこにありましたか?

A:三島神社はその辺りにあったというね(伝久下氏館跡を指さす)

私:外三島はその辺りにあったのですか?

A:そういう話だね。大正10年頃に廃社にして、久下神社に統合した。

私:新川の三島神社は?

A:それはこの下のゴルフ練習場の近くにある。鳥居は半分以上も土に埋もれているけど。

私:久下氏館跡の三島神社は、今でも何か残っていますか?

A:何もない。全然ない。

私:内三島は?

A:うーん・・・。わたしは、内三島、外三島といわれるとよくわからないんだ。しかし、新川の三島神社が

  あるのは知っている。久下神社が三島神社というなら、それは旧中山道沿いにあるね。

  実はね、新久下橋を通すにあたって、発掘が行われたんだが、久下氏館跡からは何も出なかったんだよ。




私:何も出なかった?

A:そう。館跡も遺物も何にも出なかった。だから、あそこに館跡があったと言われても、怪しい気がするんだよな。


Aさんは、三島神社については誤認をしていらっしゃるのですが、久下氏館跡と(外)三島神社の関係を

セットの関係としてとらえている点、伝承される久下氏館跡を、怪しいと考えている点は重要なポイントです。

また、実際、久下氏館跡の発掘調査が行われたかについては記録がありません。

参考資料

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000048925


引用のレファレンス協同データベースによれば、2008年4月18日付作成事例で、「久下直光(クゲナオミツ)の館跡

(久下氏館・埼玉県熊谷市)の発掘調査が3年前くらいに行われたが、何も出てこなかったと聞いた。①いつ発掘が

行われたのか。②発掘の成果はどうだったのか。」

という質問があり、「久下地区では、発掘調査は行われていない。市田地区では、平成16年7月16日に発掘調査が

行われているが、埋蔵文化財の位置が住宅建設に影響するかしないかを確認する調査だった。影響しないことが

わかった時点で調査を終了したため、埋蔵文化財の詳細は不明。」との回答が記載されています。

それとも、久下氏館跡発掘と誤認させるような、あるいは有志による私的な発掘が行われたのか?

それは、わかりません。

熊谷市といえば、熊谷直実が有名なのですが、久下に限っては、久下氏に対する崇敬の念が篤く、

その崇敬の念が勢い、市田氏館跡の発掘調査を久下氏館跡の発掘として誤認させているのだと思います。


さて、わたしは新川の外三島神社に向いました。

外三島神社探訪は2度目になります。初訪問は1986~87年頃のことです。

当時はこんな様子でした。







砂に埋もれた鳥居が見えます。

1枚目の写真左のやぶは、旧新川集落の民家あとで、もとは質屋さんだったそうです。


さて、現在の、外三島神社周辺についてみたいと思います。





外三島神社は、久下小学校の向い側、荒川土手に向って斜めに入り、土手を超えてそのまま河川敷の

道を直進した、打ちっぱなしのゴルフ練習場の隣にあります。

境内には、ゴルフ練習場のプレイヤー席の後ろにある野良道を通らなければならないので、

一応、練習場の方に道の確認を兼ねて挨拶をします。

旧新川集落はすでに何もない廃村ですが、旧住民有志が清掃など、保存活動の手が入っています。



手製の見学案内看板に、じーんとしますね。

ゴルフ練習場の方も、気前よく通してくれます。



質屋さん跡の前を通過すると、外三島神社が見えてきます。



この日は、大雪のあとでかなり寒かったのですが、この風景を見た時には寒さが倍増した気がしました。



参道脇の陸田跡です。昔の写真で、麦が植えられていたところですね。

足元がぬかるんで、動きが取りにくいです。背後の神社の森も見えます。




前回来たよりも、大分、篠やぶが繁茂しています。鳥居をくぐるのは厳しそうなので、脇にできた踏み跡の参道に沿って、

境内に踏み入っていきます。

有志の外三島神社の解説板です。



解説板には、三島神社は2か所だったとあり、先ほどのA氏の伝久下氏館跡付近にあったとされる、

三島神社は無かったことがわかります。

解説板には、幼き日の熊谷次郎直実が叔父の直光のもとを訪ねた折、この神社の境内で遊んだと想像を膨らませています。


有志が管理しているとはいえ、境内の中の空気はずしりと重く冷たいです。

社も朽ちてボロボロです。ちょっと怖いですね。




境内中には、石碑、石塔が集められていました。








下の写真は、質屋跡を裏から撮影したものです。




外三島神社脇の陸田跡をもう一度撮影しました。




足元がよくなかったのですが外三島神社の背後の森にも接近してみます。







上の写真でもわかりますが、外三島神社及びその森は周囲よりもはっきりと盛り上がり、久下氏館跡の

もう一つの比定地としてもいいのではないかと思います。

むしろ神社との関係を踏まえれば、こちらの方が久下氏館跡にふさわしい気もします。

伝久下氏館跡が完全な誤伝だということではありませんが、市田氏館のように、久下氏館も

かなり大きな規模を持っていたのではないかと思います。

もっと細かな踏査をすれば、遺構と考えられる痕跡も見つかるのではないかと思います。

(つづく)

こいしつ 久下氏・市田氏館跡 ②

2018-02-24 01:08:31 | 城館跡探訪
さて、久下氏館跡のイメージとしては、下の写真に一括できると思います。

即ち、手前の木の生えた荒地から、橋を挟んで向う側の篠やぶです。



これ等の土地は周囲よりも一段高く、相互の関連性があるように見えます。


さて、本日の課題の市田氏館跡ですが、これは、新久下橋をくぐって東側、堤防の集落側になります。

市田氏館跡は、素人目にもわかりやすいものでした。


写真は土手の上から見た市田氏館跡の遠景です。







ここは、久下氏館跡をご教示頂いた地元の方に、あわせて教えていただいた場所です。

城館跡巡りをしていると、些細な人造の土地改変等に敏感になります。

こうなると、何でも城館跡に見えてしまうものですが・・・・。

それにしても、この場所は、城館跡のにおいがします。

念のため、通りがかった年配の方に、再確認をしましたが、この方は久下氏館のことは少しご存じでしたが、

市田氏館跡についてはご存じありませんでした。

久下氏館跡についても、伝承には疑いを持っている御様子でした。

こういう実感は結構大事だと思います。


さて、市田氏館跡は微高地になっており、土手側を微高地沿いに水路が走っています。

土手下に降りての一枚です。



水堀遺構と思しき水路です。



これは、遺構の水路を利用したものと考えていいのではないかと思いました。

もちろん、その後の水利事業で若干の変更を受けている可能性はありますが、

それでも、遺構をなぞっているのではないかと思います。



市田氏館跡とされる微高地は東に長く続いています。






地形の変化に注意しながら、水路沿いに歩いていきます。下の写真左側の民家の塀を見ると、

ブロック塀下の土止めのコンクリートはかなり腰高になっており、多少の土入れを行った可能性はあるにせよ、

館跡地は、かなり土地が高かったと思われます。




いつの間にか、最初に館跡について教えてくださった地元の方が土手の上から私を見ていました。

少し心配だったのでしょうか?




水路は、微高地に沿うように進路を変えています。



夕陽を背に写真をとっているので、自分の影が映り込んでしまいます。

この辺りが、館跡の東端のようです。





水路まで歩いていき、微高地との段差を記録撮影します。

下の写真を見ると、水堀を埋め戻した痕跡があります。水路は、元々は、微高地にさらに寄った場所にあったようです。







次いで、東端の境界も確認します。








東端の境界には、かなりの大きな段差があるのがわかります。

それにしても土の盛り上がりは土塁でしょうか?

難しいですが、この辺りはあとで土を積んだ場所かもしれませんね。


以上のように、市田氏館の南側を巡検してみたわけです。

30年前、わたしが館跡として撮影したのは、今回の巡検で確認した館跡の東端だったようです。

あくまで推定ですが、市田氏館は南側の1辺が100メートル以上はあったようです。

もちろん館跡はこれより小さい可能性もあります。

館跡と思われる微高地も、周囲と30センチ~1メートルほど段差がありました。


土手に上がると、先ほどの男性が立っていて「市田氏館はあなたの写真撮影した通りの場所だよ。いい線行ってた」

と、褒めてくれました。

そこで、久下氏館跡についての追加情報を伺うことができました。

それについては、また、明日の記事で。


最後になりましたが、「こいしつ」とは、「しつこい」のバンドマン用語です。

こいしつ 久下氏・市田氏館跡 ①

2018-02-23 14:52:58 | 城館跡探訪
わたしは、帰郷の日が1月22日の大雪の日に当たってしまい、雪の中を駅から徒歩で

歩く羽目になりました。

今年の冬は痛みを感じるほど空気が冷たく、フィールドに出るのが億劫でしたが、どうしても、

この件に決着をつけたくて、いささかしつこいようですが、フィールドに出たのでした。

決着をつけたかったのは、この図の真偽でした。



これは、『増補忍名所図会』に描かれた久下氏館跡です。

この図には、堤外地、新川の三島神社(いわゆる外三島)に隣り合う形で久下氏の館跡が描かれています。

もちろん、昔の書籍の挿絵ですから、距離感が正確だとは限りませんが、しかし、久下氏館は、

外三島との関係を考えたうえで改めてとらえ直したいと考えたのでした。


久下氏及び市田氏の館跡と関連遺跡探訪は、2月4日、5日、15日にかけて行いました。

小回りを利かせるために自転車と自家用車を使いました。



ここでまず復習です。

過去の記事では、久下氏館跡、市田氏館跡として、以下の写真を紹介いたしました。

久下氏館跡




市田氏館跡。下の写真は今回の資料整理で見つけた、1986~87年頃のものです。





市田氏館については、下の写真の辺りが中心になると考えていました。


この当時は『埼玉の館城跡』所載の地図データに基づき、ゼンリンの住宅地図を参照しながら探索したのですが、

今回は、地元の方々から聞き取りをしながら探しました。

『埼玉の館城跡』によれば、久下氏館は、堤外地、久下の渡し場跡の傍にあったということになっており、

一方の、市田氏館跡は、そのやや下流の土手を挟んだ反対側にあったことになっております。

そこで、今回、わたしは久下の渡し及び権八地蔵付近から探索をはじめました。

熊谷駅南口付近を通過する旧中山道に沿って、久下に向い、久下氏と熊谷氏の所領争いのあった熊久地区を通過し

旧久下橋跡のある荒川土手に登ります。






土手の反対側には渡し場跡があります。





もし、この付近に久下氏館があったのならば、あの辺りの叢林が館跡でしょうか?




実は、この付近は私の子供の頃の川遊び場だったところです。

現在では、跡形もありませんが、かつては河川の流路変化によって取り残された、三日月形の池がいくつもあった場所で、

伏流水によって水が供給される、水の澄んだ、良いエビ釣り場でした。

あの叢林は河川改修整備の過程で埋め立てによってつくられたものということになります。

どうも、久下氏館跡はあそこではないようです。

この辺りには、土手を散歩している地元の方がたくさんいます。

年配の方に声をかけ、お話を伺います。

4人目に尋ねた方が、地元の地誌に詳しくご教示くださいました。

新久下橋の1本目と2本目の間にある竹藪とその付近が、昔から、古城(こじょう、ふるしろ)と呼ばれ

久下氏の館跡があったと言われているとのことでした。

早速、現場に向かいます。

土手を降りてみると、微高地があり、館跡らしい雰囲気があります。




付近の地形の細かな変化も確認しながら、竹やぶに近づきます。






館跡といわれる地域は、周囲よりも明らかに一段高く盛り上がっており、堀跡と捉えてもおかしくないような、

排水路用の溝もあります。あぜ道は土塁のようにも見えます。








さて、久下氏館跡と伝えられる場所です。







伝館跡は、やはり周囲よりもやや小高く、南に向ってやや傾斜があります。

伝館跡をぐるりと一周します。













確かに館跡の趣きはかろうじてとどめられているように見えます。

ですが、周囲に残る堀や土塁のような遺構状のものも、実際に当時のものの再利用と判断するには頼りない感じがします。

ここから今度は新久下橋の反対側にある市田氏館跡に向うことにします。

(つづく)


ブログを再開いたします。

2018-02-23 13:53:30 | 城館跡探訪
長い間お休みをしておりましたが、ブログを再開いたします。

実家の資料整理が少し進み、行方不明になっていた資料が出てきて

2か月は毎日更新できるだけの話題があると思います。

また、久しぶりに実際にフィールドに出て、城館跡探訪をしてまいりました。

遺跡として厳格な開発規制がかかっている場所が増えているようで、

想像以上に破壊が抑えられていることに、驚きました。

もちろん消失してしまった遺構もあるわけですが・・・。

本日中に記事をアップロードできればいいと思います。

よろしくお願いいたします。