1900年9月11日、東京に
日本初の公衆電話ボックス
が設置されました。
インターネットが広まって、
電話ボックスや公衆トイレ
の落書きが減ったという
話があります。
匿名ではなく、自分の責任
で言いたいことを言う大人
でありたいものですね。
1900年9月11日、東京に
日本初の公衆電話ボックス
が設置されました。
インターネットが広まって、
電話ボックスや公衆トイレ
の落書きが減ったという
話があります。
匿名ではなく、自分の責任
で言いたいことを言う大人
でありたいものですね。
ミスや新コロナ・ウイルス
で不運がつづいたときは、
ただ落ち込んだりイライラ
するのではなく、
それらをどうにか活かせ
ないか考えてみるといい
かもしれません。
視点を変えてみると、以
外な解決方法が思いつ
くかも。
アニバーサリー休暇、課題
解決休暇、新コロナ負けな
い休暇などユニークな休暇
が増えています。
ちなみに、失恋した翌日か
ら、20代前半なら1日、20
代後半なら2日、30代なら
失恋休暇を取れる会社も
あるようです。
やさしい人でした
どう聞かれても
それしか答えられません
乱暴で
強情で
弱虫で
ひとりよがりだったけど
どうしてか
思い出すのは
やさしいところばかり
他の誰にもそんなところはみせ
なかったし
誰も信じてくれないでしょうが
私にだけは時々とても
悲しいくらいやさしかった
ひどいところもたしかにたくさん
あったけど
やさしい人でした
不思議だけど
それしか思い出せないのです
小川洋子さんの「博士
の愛した数式」を読んで、
驚いた箇所がある。博士
が、数学者の仕事につい
て「私」に語る場面。
「そう、まさに発見だ。
発明じゃない。自分が
生まれる以前から、誰
にも気づかれずそこに
存在している定理を、
掘り起こすんだ。神の
手帳にだけ記されてい
る真理を、一行ずつ、
書き写してゆくような
ものだ(後略)」
数学になぞらえることに
気おくれするのだが、こ
れは、僕が文章の書き方
について考えていたこと
と同じだった。すなわち、
「文章はつくるものでは
ない、見つけるものだ」と、
もちろん、言葉に、数学の
世界の「定理」などという、
絶対的で唯一無二の解答は
ない。見る角度を変えれば、
いくつもの答えが出てくる
はずである。それでも、そ
のいくつもの答えの中で、
何人もの人が心の底から、
「そうだ、その通りだ」と
うなづけるものはそんなに
多くはない。むしろ希少で
ある。
この空中のそここに、人知
れずにひっそり浮遊してい
る「ほんとうのことたち」を、
ひょいとつかまえ、誰の心
にも入りやすいカタチにし
て人々の前に呈示する。
それが、僕の考えることば
たちである。
後になって「あれはこうなる
べくしてなったんだ」
と思えるような“偶然”と
いうのがあります。
偶然の力を信じていると、そ
のような意味のある偶然が
次々と身の回りで起こり始め、
その偶然がまた新たな偶然を
呼ぶようになります。
それを「偶然力」と呼ぶので
すが、この力を身につけるに
は、なんでもいいから、
とにかく行動を起こすこと
です。
家でじっとしていても
偶然の神さまはやってきません。
あなたにとっての
唯一の“優しいひと”も・・・・。
女の人が、男の人と肩を
ならべてがんばる時代は、
いい時代だと思う。
お年寄りが、若い人とも
っと気軽に話せるように
なったら、
今よりも住みやすい世の
中になると思う。
きれいなものや、楽しい
ことや、あこがれや、幸せ
に、誰もが同じように。
手の届く距離でいられます
ように。
ならんでいきたい
優しい人と別れて、京都から
東京に出てきたわたしは、三
十九歳になっていた。
ある秋の休日の午後のことだっ
た。会社の車を借りて、奥多摩
に住んでいる友人の家に遊びに
行ったその帰り道。
西の空には夕焼けの名残りが
うっすら残っていたけれど、
彼方の山の端には黒雲が渦
巻いて、雨になりそうな気配
だった。
友人に教わった通りの道を選ん
で、走っていたつもりだったの
だけれど。でも、偶然に迷い
込んだ道は、美しくつかのまの
紅葉狩りを楽しんだ。
やがてとっぷり陽が暮れて、あ
たりの樹木が濃い闇に染まり
始めた。最初は幹、次に枝、そ
して最後は葉っぱに、闇がひっ
そり落ちてきた。
ガソリンスタンドで道を尋ねて、
正しい道路に乗り入れたときに
は、時計はすでに夜の十時を
回っていた。
小雨の降る夜道と、明かりに
照らされた橋と、ゆるめたス
ピード。
その組み合わせあがゆっくりと、
わたしの身の内に、温かい液体
のような何かを運んできた。そ
れはひたひたと波のように寄せて
きて、躰中に広がっていった。
ああ、優しい人だ!
と、わたしは感じた。
優しい人が今、ここにいる、
わたしのすぐそばにいる。
いいえ、優しい人は座席に座って
いる。
今、わたしが座っているこの場所
に。
わたしたちはふたりで、この車に
乗っている。
忘れもしない、あれは、やはりこ
んな雨振りの夜。琵琶湖の畔にあ
る町までドライブに出かけた帰り
道。わたしたちは車の中で言い争
いをした。
わたしは家を出た直後に、あらか
じめ必要事な事柄をすべて書き込
んだ離婚届けを、夫に送ってあっ
た。
夫がついに観念して、離婚届を
役所に出したということを、わ
たしに伝えていたのだった。
優しい人の運転する車が、琵琶湖
に架かっている長い橋の手前で
信号待ちをしているとき、わたし
はその話しを切り出して、今夜は
わたしの部屋に泊まっていって
欲しい、と頼んだ。
その夜、独りぼっちで眠るのは
あまりにも心細く、あまりにも
つらいことのように思えていた。
「お願い。今夜だけでいいから。
わがままを聞いて」
わたしの必死の懇願に対して、
優しい人は「それはできない」
と、即座に応えた。
「今夜は予定通り、あっちに戻
らないと」。
それから、言い争いが始まった。
人は誰もが、愛する人に巡り
合いたいと思って生きています。
そして愛する人に巡り合ったと
きは、たとえその人に妻子があ
ったとしても自分のものにした
いと思うでしょう。
そうすると、そこに欲が出る。
永久にこの人を離したくにと思う。
“愛すれば執(しゅう)す、執
すれば着(ちゃく)す“のです。
人はいつでも、自分の都合のいい
ことや快いものが永遠につづくこ
とを願うし、永遠につづくと思い
たがります。
愛の芽生えのころ、燃えさかって
いるところの愛人同士はこの愛が
冷めるなど予想することもできま
せん。
自分の情熱は永遠につづくように
思うし、相手の愛も、自分以上に
長つづきすると信じこんでいます。
世の中のことは諸行無情。人の
心も人の愛も一時もじっとひとと
ころにとどまっているものではあ
りません。
愛は必ずおとろえ、やがて冷める。
情熱は燃えたら灰になります。
二人の愛が度合いや時間で歩調を
あわせてうつろえばいいのですが、
時間にどちらかが先にうつろうと、
とり残されたほうが“失恋”した
ことになります。
失恋というのは、恋の成就しない
ときの片想いだけをいうのでは
なく、恋の成就したあとの破局
のときにもいいます。
愛したとたん、人は苦しむという
覚悟を持つべきです。
ある女性が「カレシは背が高いの」
というときは標準の身長から考え
て、「大体170センチ以上かなー
?」思い浮かべることができる。
そこに共通の基準があるからだ。
イケメンというルックスだって、
もっと抽象的な優しさだって、
大体のことは想像がつく。それ
は皆にとってオープンとなって
いる基準があるからだ。
古いがキムタクがイケメンだっ
たというのは周知の事実だし、
ヨン様のように優しい人がいい、
と言えば「ああいう優しさね」
と納得できる。
ところが、「カレシはセックス
が上手」と言われても、それが
どの程度の上手さで具体的に何
を指すのかは、よくわからない。
大体カレシのセックスを自慢す
る女なんか、見たことないし、
もしも存在したとしても根掘り
葉掘り聞くわけにはいかない。
勝手に想像を膨らませるしかな
いのだ。
でもその想像だって自分の中の
経験値による物差しが基準とな
る。
だから、もしも「カレシはセッ
クスが上手」と三十歳のA子
さんがのたまったとき、五人
の同い年の女友達が「ふうん
」と聞いたとしても、それぞ
て頭の中で想像している「上
手」は皆全然違うことになる。
一人は「サイズが大きいのね」
と思っているかもしれないし、
「テクニシャンなのね」と勝
手に四十八手を想像している
かもしれないし、
「手先が器用なのかしら?」
と考える人もいるだろう。
その物差しもすべて、その
女性が培ってきた経験による
ものなのだ。
三十人以上経験した女性なら、
あんなこともこんなことも考
えて「上手」ということをと
らえるだろう。
でももし一人の男性しか知ら
なければ、それが基準にとな
ってしまう。そもそも自分の
カレシが上手か下手かもわか
らないかもしれない。
女友達が酒のさかなに「実は
ね・・・・」という前置きの
後に吐露する話しで多いのが、
この「基準」が変わったとい
う告白。
柔らかく表現するなら「やっと
目覚めた」という話しである。
例えば、二十代のときに長い
付き合いをしていた同い年のカ
レシとのセックスがずっと
「スタンダード」だと思ってい
た女性が、たまたま三十代にな
って年上の男性とひょんなこと
からエッチをしてしまったとす
る。
それがもうびっくりするくらい
良くて、「セックスってこんな
イイものだったの!」と開眼し
てしまうという経験。この手
の話しは負け犬からよく聞く。
多分、勝ち犬ならば、その自
分が勝手に誤解していたスタ
ンダードの同い年のカレシと
そのまま結婚しているだろう。
そして、永遠に目覚めること
なく、その夫とのセックスが
基準だと思って余生を生きる
のである。
ところが目覚めちゃった負け
犬はいまさら同い年のカレシ
とのあっさりしたセックスで
は満足できなくなる。
果たして、女にとってどちらが
幸せなのであろうか?