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「火を喰う者たち」

2010-11-13 23:07:53 | デイビィッド・アーモンド

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 『火を喰う者たち』、デイヴィッド アーモンド著、金原 瑞人訳、河出書房新社



<あらすじ>
 ボビーは母親と街の市場に行ったときに、大道芸人のマクナルティーと出会い、彼の大道芸に衝撃を受けた。
 ボビーは試験に受かり、上流階級の子供が通う中学に入学することになる。幼なじみのエイルサも合格するが、彼女は学校には行かないと言う。
 親友のジョゼフは、近頃、近隣に越してきたダニエルを毛嫌いしている。そのダニエルは、体罰が公然とおこなわれる中学の教育方針に納得がいかず、ささやかな反抗を試みることにした。ボビーもダニエルの反抗に巻き込まれていく。


 時は1962年の10月。世界はキューバ危機に瀕し喘いでいた。人々は未来に希望が持てず、少なからず不安を抱える。
 そんな時、ボビーとマクナルティーが出会い、奇跡を起こす―― 。




<感想>
 反戦をテーマにした作品であり、海辺の貧しい町に住む一少年と、少し頭のおかしい一介の大道芸人との出会いが、どんな奇跡を起こすのかが見物になっておる。


 最近気がついたのだが、アーモンドの文体は、ヘミングウェイのハードボイルド手法・文体に似ている。
 ハードボイルド手法とは、反道徳的・暴力的な内容を、批判を加えず、客観的で簡潔な描写で記述する手法のことで、特に客観的で簡潔な描写で記述する辺りがヘミングウェイを髣髴させる。


 アーモンドの作品は、主人公の視点で書かれることが主であるが、主人公の主観をあまり入れずに、どこが客観視しているところがあるので、そのように感じたのかもしれない。



「ヘヴンアイズ」

2010-11-02 17:59:32 | デイビィッド・アーモンド

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 『ヘヴンアイズ』、デイヴィッド アーモンド著、金原 瑞人訳、河出書房新社



<あらすじ>
 エリンは、ホワイトゲートという孤児院に暮らす少女。周りには自分と同じような境遇の子供たちがいて、そんな子供たちを憐れむ大人もいるのだが、彼女はそれを良しとはしなかった。
 自分と同じ考えを持つジャニュアリーと偶然に居合わせたマウスと一緒に、ジャニュアリーが作ったイカダに乗って脱走する。


 川を下り3人がたどり着いた場所は、真っ黒な泥が広がり悪臭が漂う黒沼ブラック・ミドゥンだった。
 そこには、かつて印刷工場だった大きな廃屋に両手に水かきのある女の子ヘヴンアイズと奇妙な老人グランパが、二人きりで暮らしていた。




<感想>
 アーモンドのかもし出す異質な雰囲気に溢れ、その語り口は独特の透明感に満ちている。
 彼の作品には、脇を固める魅力的な少女が登場するが、本作では、主人公として活躍している。


 エリンは、ホワイトゲートでの世話人であるモーリーンとそりが合わない。彼女は、幼かった頃の母との暮らしの思い出を大事にしていて、その過去を否定するモーリーンが許せないのだ(この想いはエリンの一方的な感情である)。


 そこでいつも相棒のジャニュアリーと脱走を繰り返す。彼女の母に対する感情は頑なであり、ティーンエイジのもつ特有の頑固さであろう。もう少し大人であれば、もっとうまく折り合いをつけたであろうし、逆に幼ければ従順であったろうに感じる。
 このあたりの表現の仕方は、アーモンドの得意とするところであろうか。


 ブラック・ミドゥンでの体験をとおし、エリンら3人とヘヴンアイズは、心の歯車(精神の成長)が少しずつ回り始める。それは、ラストにおけるジャニュアリーのエピソードに結実する。


 アーモンドの文章は、ほとんど説明を入れない。それによって小説でありながら詩を読んでいるような雰囲気を持つ。つまり読者に感情の余韻をもたらす文章であると思う。


 冒頭にも述べたが、本作品は少女が主人公であり、今まで取り上げた作品と一線を画している。


 文学理論の立場からいえば、ジェンダー、もしくはフェミニズム批評を用いることができる。
 アイリーン・ダッシュの言葉を借りるならば、女は性的存在として自分を発見するとき、自分が自由でないことを知る―― いわゆる「第二の性」である。


 思春期まえの少女は、自分が主体的で能動的に自由であると考えているが、思春期に入ると、受動的な客体として受け入れようとする性衝動と社会的圧力が高まり、これがお互いにせめぎ合う。
 これがホワイトゲートでの世話人であるモーリーンとの衝突である。
 本来であれば、母親など周りから社会的役割を学びながら、大人としての自己意識を確立していくのだが、過去に囚われているエリンには、なかなかうまくいかないのだ。
 よって彼女の行動は、ある意味思春期の少女特有の傲慢さと不安がつきまとっているのだ。
 これが、作中における母親の幻となって表現されている。