無であり空である
空海の言葉
最近、頭に浮かぶ
肉体を持つと同時に、実は「有」に傾いている。
肉体を維持するために、働き、食し、就寝し。
人間社会の中で常識という知識を頭に詰め込み、感情の記憶をため込んでいく。
わたしは若いころに働いていた時、自信満々であった。技術も習得した。きっと今でも現場にでたら通じるかもね。
だがこれら、思いでは、結局は無意味であり、我、が強くなるだけであり、他人に訴えるものでもないなら、結局は自分のごみである。
背負ってきたゴミ、頑固でこだわりがつよくなるゴミは、そろそろ、私は捨てようかと思う。
そんななか、鈴ヶ神社に舞を奉納できたらいいなあ、なんて、考えていた。ふと友人の天麻那舞の奉納の写真を目にした。なんのとりえもない私でも、舞を奉納できるのかな?
そう思って不意に体験学習を申し込んでみた。
そして実際に舞の練習に参加させてもらった昨日の日曜日。
想像以上に厳かなのだと知った。神様の前で踊るのだから当然なんだな。
講師のかたが言っていた。
舞を出来た、と思ったらそれは我だからそれを脱がないといけない。何回もそれを繰り返す作業です。
無であり空である存在が舞うとき、
神は宿るのだな
結局私もついつい、カルマに引っ張られるなあ
巫女としていきていた前世とおさらばするはずが・・・
無であり空である魂になると、客観的な視野が広がる
自分軸は、自分でしかなく、誰とも交わらず、だたそこにあるだけ
子供の時私はそれはそれは、頭が悪くてぼーっとしながら幼稚園、小学校生活を送っていた。
自分がもともと頭がよくないし、実は何も持っていなかったなあ
持っていないけれど、心は清くて、客観的で、思慮深かったのだ
また、子供の頃の神聖な気持ちにもどろうかな
もう、十分に人の感情というものを知ったから
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