日日の幻燈

歴史・音楽・過ぎゆく日常のこと

【note】甲州街道・鶴川宿から下鳥沢宿まで歩いてみた(2)-大椚を経て野田尻宿へ-

2018-09-24 | 旧甲州街道を往く

【鶴川宿を出発】


鶴川宿を出て、次の宿場・野田尻を目指します。本陣跡で左折して細い砂利道を進み、さらに左折します(方角的には元来た東へUターン)。宿場内も何となく上り坂でしたが、ここからはさらに上り坂が続きます。左下、今通ってきた鶴川宿を木々の間から望むことができます。

【蔵1】


宿場を出てすぐ、左手に屋号付きの蔵。

【鶴川宿西郊】


鶴川宿を出たあとも、しばらくは家々の間を進んで行きます。

【蔵2】


こちらはモダンというかレトロな蔵。村のほとんどが宿屋を経営していた、いわゆる一村一宿の名残なのか、それとも他の事業で栄えた証か?宿場のメインストリートを出た後でのこういった大きな蔵の存在に、ちょっと意表を突かれたのでした。

【鶴川宿を抜けて】


道は相変わらず上り坂が続いていきます。鶴川宿を出て10分ほど歩くとだいぶ鬱蒼としてきて、山中へ分け入っていく感じが、これぞ甲州街道!って雰囲気で良き哉。

【中央道に合流】


木々の間を歩いているうちに、車の通行音が徐々に聞こえてきます。と、思っていたら、いきなり目の前が開けて中央道にぶつかりました。旧甲州街道をぶった切るように中央道が通っています。右折してそのまま中央道に沿って歩き、前方の鳶ヶ崎橋で中央道を横断します。
ちなみに1814(文化11)年に編纂された『甲斐国志』の鶴川村の項には、「西は鳶ヶ崎に至り大椚に界す」との記述があり、この辺りまでが鶴川村だったようです。

【鳶ヶ崎橋より】


上野原・江戸方面。ここを越えると鶴川村のお隣、旧大椚(おおくぬぎ)村へと入ります。

【大椚一里塚・推定地】


鳶ヶ崎橋を渡ってすぐ、道は右へ緩やかにカーブして行きます。鶴川村から大椚村への入口付近、この辺りが江戸から19番目の大椚の一里塚があった場所と推定されるとのこと。

【大椚一里塚・モニュメント】


一里塚推定地から数分歩いた場所に、立派なモニュメントが建っています。ガイドブックによると、一里塚に付き物の塚木は無かったとのこと。上野原市の「旧甲州街道ぞいにあるく」によると、塚木が何であったか不明…だそうです。

【廿三夜塔】


1800(寛政12)年の建立。毎月決まった日の夜に人々が集まり、月を拝み邪気を払うというのが月待ちの行事。飲食もセットだったとのことなので、今でいう飲み会による親睦も兼ねていたのでしょう。幾つもある月待ちのうち、二十三夜待ちは全国的に見られるそうです。そう言えば、今までも街道脇に二十三夜塔はかなりありましたね。

【大椚宿発祥の地】


大椚村は中世以前からの古い集落です。『甲斐国志』によると、隣の鶴川宿よりも家数、人口ともに多く、村内の家数82軒、人口は348人と記されています。寛文(1661~73)の検地の際、鶴川村と分かれて別村になったとも。大椚村から鶴川村=鶴川宿が分れたということでしょうね。
ちなみに大椚宿は間の宿(あいのしゅく)です。間の宿とは幕府が定めたな公式な宿場ではありませんが、簡単な休憩所や飲食を提供する集落のことです。ただし宿場町保護のため、宿泊は認められていなかったとのことです。

【大椚から眺望】


南の方角の眺望。旧街道は河岸段丘の上。ここより低い位置を桂川が流れ、JR中央線が通っています。

【大椚風景1】


長閑な旧街道風景です。太陽が燦燦と照りつけ、もしかしたら肌寒くなるのでは?って着ていた上着を脱ぎ、Tシャツ1枚になったのですが、すでに汗が滲んできています。この日は暑さとも戦うことになります。

【大椚観音堂と吾妻神社】


写真の右が観音堂、境内の奥、石段を上ると吾妻神社です。
観音堂には大日如来坐像と千手観音菩薩坐像が安置されています。お参りした際に中を覗いてみましたが、暗くて確認できませんでした。ここの境内にあった大きな椚の木が、大椚の地名の由来となったそうですが、残念ながら枯れてしまいましたとさ。
公衆トイレがありますので、ちょっと休憩するにはもってこいの場所です。

【大椚観音堂境内の杉の木】


地名の由来となった椚の木は枯れてしまいましたが、その代わりに、樹齢300年と推定される大きな杉の木が木陰をつくっています。

【大椚風景2】


観音堂から歩き始めると、再び中央道。談合坂SA(下り線)まで1キロの地点。左側を中央道に沿って進みます。

【芭蕉句碑】


道端に松尾芭蕉と弟子の各務支考の句碑。すでに摩耗・損傷していて句は読み取れませんが、以下の2句が刻まれているそうです。

「古池や蛙とびこむ水の音」(芭蕉)
「あがりてはさがりあけては夕雲雀」(支考)

句碑は日野の花岳寺16世八峰によって建てられたとあります。日野?随分離れた場所の和尚さんが建てたんだなぁ…と、東京の日野市を思い浮かべましたが、帰ってから調べてみたらこの付近の地名でした。

【長峰砦跡】


芭蕉の句碑と同じ敷地内に長峰砦跡の石碑。戦国時代、武田信玄が東方の北条氏に備えて築いたとされます。中央道開通によって遺構の多くは消失していますが、それでも発掘調査によって、おぼろげながらも全貌が見えてきたようです。
付近に、濁っていても涸れることがなかった「濁り池」、やはり日照りでも水が尽きなかった「殿の井戸」があったとされます。芭蕉の句碑はこの池や井戸と関連して建てられたのでしょうか?

【新栗原橋】


長峰砦跡から目と鼻の先、新栗原橋で再び中央道を渡ります。大きな「野田尻宿→」の標識が、いよいよ間近に迫る宿場を予感させます。

【野田尻宿を目指して】


中央道を越えると、また鬱蒼とした雰囲気に旧街道は包まれます。日差しを遮るような薄暗い木々のトンネルの向こう、いよいよ野田尻宿近し!

【野田尻宿・江戸側入口付近】


この辺り、地名はすでに野田尻のようです。そして、もう間もなく宿場の江戸側入口に到着です。
長閑な旧街道の雰囲気が続きます。鶴川宿から5キロ弱、約1時間。順調なペースで歩いてきています。


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【note】甲州街道・鶴川宿から下鳥沢宿まで歩いてみた(1)-鶴川宿を往く-

2018-09-23 | 旧甲州街道を往く

2018年9月22日土曜日。
旧甲州街道を歩く旅、何と1年ぶりに開催となりました。前回は鶴川宿へ到着したところまででした。集まっては飲み会ばかりしていた我々、旅の仲間4人ですが、この日は決意も固く1年振りの街道歩きに臨むものの、前回の記憶をたどりつつの旅立ちとなりました。

前回はこちら

【上野原駅ステンドグラス】


どんよりとした雲、ところどころの青空という、どっちつかずの天気の下、9時40分に上野原駅に集合、そのままタクシーで鶴川宿の入口へ向かいます。バスもあることにはあるようですが、2時間に1本、3時間に1本という感じ。車だと駅から10分程度なのでタクシーを使うのが吉。江戸時代なら駕籠を雇ったといったところでしょうか。
ちなみに上野原駅は最近新しくなったようで、バスやタクシーはすべて南口での乗降となるようです。前回、鶴川から上野原駅までバスに乗った際は、狭く不便な北口で降りたので、広々とした駅前ロータリーが完成してめでたしめでたし。
写真は駅改札階のステンドグラス越しに眺めた南口。「日本では数少ない本格的なステンドグラスであり規模においても国内最大級の一作品」とのこと。

【鶴川宿入口】


江戸方面から歩いてくると、鶴川を越えてすぐ宿場入口となります。現在はきれいなモニュメントが建っています。午前10時過ぎ、今回はここからスタートです。

1843(天保14)年の「甲州道中宿村大概帳」によると、鶴川宿の概略は以下の通りです。

本陣…1軒
脇本陣…2軒
問屋…1ヶ所
旅籠…8軒
宿場内の家数…57軒
宿場内の人口…295人

小さい宿場ですが、東側を流れる鶴川が川留になると賑わったそうです。名物は鮎。



【水天宮】


宿場に入ってすぐ、左側にある小さな水天宮の祠。

【鶴川宿風景1】


宿場内を進んでいきます。静かな雰囲気で時折車は通るものの、のんびりと歩くことができます。

【鶴川神社】


左手の小道の奥に鶴川神社の鳥居が見えます。ガイドブックによると、1661(寛文元)年の創建で鶴川宿の鎮守だったそうです。境内には駒つなぎ石が残されているとのことですが、あっという間に旅の仲間たちの背中が遠くなってしまい、呼び戻すのもどうかと思ったので、ここはそのまま素通りしました。

【問屋跡】


鶴川宿の問屋跡。大きな敷地には立派な家屋・蔵が見えます。ガイドブックによると、江戸時代の高札が保存されているとのこと。

【鶴川宿風景2】


問屋跡の前で、歩いて来た上野原方面を振り返るとこんな感じです。この辺りが宿場の中心だったのかな?左に見える家屋が脇本陣(屋号柏屋)のようですが、とくに案内や標識も出ていないので、ガイドブックなどからの推測です。

【鶴川宿風景3】


雰囲気のある家屋が街道の両側に並びます。ただ大正時代に大火があり、建物はそれ以降の再建のようです。

【鶴川宿風景4】


上野原市が無料配布している「旧甲州街道ウォーキングマップ」によると、村のほとんどが宿屋を経営していたとのこと。江戸時代の「旅籠8軒」という記録からすると、それは明治以降、近年を含めてのことだと思いますが、確かにそんな雰囲気の家屋が目につきました。

【本陣跡】


一直線に続く宿場の西はずれに位置した本陣。現在はマンションが建っています。
その奥に立つ建物は、鶴川宿の名を冠したサービス付き高齢者向け住宅「あいらーく鶴川宿」。

【鶴川宿風景5】


本陣跡地に建つマンションの向い側に、細い砂利道があります。旧甲州街道は左折してこの細い道を入っていきます。そのまま舗装道(県道30号線)を進まないように注意。
ここまでがかつての宿場のメインストリート。ゆっくりと歩いても10分程度です。

本陣や問屋場などの案内標識は皆無なので(旧甲州街道を示す道標は、随所で見かけますが…)、かなり綿密に下調べをしてから臨まないと、個々の特定は絶望的です。また、ガイドブックと上野原市のホームページにUPされている案内でも、記載内容が微妙に異なっていて混乱してしまいます。

【A】『ちゃんと歩ける甲州街道』(ガイドブック)
■柏屋脇本陣跡
建坪57坪で門構え無く玄関付で問屋を兼ねた。川端家。
■問屋跡
加藤家。高札を残している。

【B】「旧甲州街道ぞいにあるく」(上野原市HPより)
■問屋
屋号柏屋。脇本陣をも務める。間口24間、奥行き18間、当時西街道筋にある。間数、建築様式等不明であるが「上段の間」はあった模様。大正10年の大火後間口を半減、南向きにして現在に至る。
(加藤家については記述無し)

ブログなどでは【A】に沿った記事が多く、現地の案内板は【B】に準じています。   
ま、細かいことにこだわらずに、宿場の雰囲気を味わうだけなら、なかなか良い感じです。


それでは、鶴川宿のメインストリートを抜けて、次の宿場・野田尻宿へ向かいましょう。5キロ弱の道のりです。


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【note】甲州街道・関野宿から鶴川宿まで歩いてみた(5)-鶴川宿へ-

2017-10-13 | 旧甲州街道を往く

【上野原宿~鶴川宿の甲州街道1】


上野原宿の西端(と思われる)三差路を小道に入り、鶴川宿へと向かいます。この近辺で、声をかけてきた近所の方が鶴川宿へ向かう道筋を教えてくれました。感謝!

【上野原宿~鶴川宿の甲州街道2】


段丘の上にある上野原宿を出ると、徐々に下り坂になっていきます。道沿いは長閑な感じ。

【上野原宿~鶴川宿の甲州街道3】


この辺り、古碑古仏が道端に続きます。
ガイドブックによると、文政10(1827)年の木食白道上人の井戸跡碑(完全に見落としました)、同じく文政10年の大乗妙典廻国供養塔(何の碑かわからずに深く考えずに通過)、文政5(1822)年の馬頭観音(前に車がデデーンと駐車していて、ほとんど見えませんでした)。わずかに写真に撮れたのが、この道祖神。いつのものなのかな?

【上野原宿~鶴川宿の甲州街道4】


道祖神のすぐ先で、道は左右に分かれます。旧街道は右側です。標識が出ているので迷うことはないかと思います。そういえば道を教えてくれた方も、ここを右だよ!って念を押していました。間違えてしまう人もいるのかな?確かにぼーっと歩いていたら、そのまま左へ行ってしまうかもしれない…と、ボチボチ疲れが出てきた私は思うのでした。

【上野原宿~鶴川宿の甲州街道5】


道はまだまだ下ります。道端の小川(用水路かな?)の水も、かなりの速さで流れ下っていきます。

【上野原宿~鶴川宿の甲州街道6】


秋です。柿の実の下のトンネルをくぐるように進んでいきます。まだまだ下り坂が続きます。

【上野原宿~鶴川宿の甲州街道7】


柿の実のトンネルを抜けると、歩道橋となり国道20号線を越えます。その先、県道30号線を進みます。

【甲州街道案内板】


歩道橋の先に甲州街道の案内板。国道を越えると、目指す鶴川宿はそう遠くないようです。こういったガイドブック的な案内図は、視覚的にも親切です。素人の私でも、位置関係がよ~くわかりました。

【遥かに鶴川を望む】


そうこうしているうちに、木々の切れ間から鶴川と、川に架かる鶴川橋が見えてきました。あの橋を渡れば本日のゴール・鶴川宿です。それでも、まだかなり下るような感じです。上野原宿、ほんとに高い段丘上にあるのですね。

【上野原宿~鶴川宿の甲州街道8】


県道から分かれる小道を行くのが旧街道のようです。結局は大きくS字を描いて下っていく県道に、また合流するのですが…。

【鶴川橋】


鶴川に架かる鶴川橋に到着。川を渡れば鶴川宿です。もちろんこの橋は後世になってかけられたもので、鶴川は甲州街道で唯一、増水時には川越し人足による渡河が行われる川だったそうです(冬の間だけ仮橋が架けられたとのこと)。通常の水量の時は、人足の世話にならずに、旅人が歩いて渡河したということでしょう。濡れちゃうけど仕方ないのかな?それとも飛び石伝い?

【鶴川】


鶴川橋の上から見た下流方面です。現在の橋の位置よりやや下流の地点が、川越しのポイントだったそうです。
なんでも、ここの川越し人足は番所役人より恐れられていたとのこと。荒くれ者どもがそろっていたのでしょうね。渡し賃のトラブル(ゆすり・たかり・ぼったくりの部類でしょう)もあったようです。

◆◆2017.10.14追記◆◆
日野宿方面から歩いてきて八王子宿に入る手前の浅川も、一部徒歩渡しで、増水時には川越し人足による渡河が行われていたそうです(「新八王子市史」など)。
すると、鶴川が「甲州街道で唯一、増水時には川越し人足による渡河が行われる川」ではないことに…。ガイドブックやネットを鵜呑みにしてはいけないということか…。

【鶴川宿】


鶴川を渡ると、本日のゴール・鶴川宿の入口に到着です。何だか立派なモニュメント。
時刻は午後2時半少し前。藤野駅を出発してから4時間弱。もう少しかかるかと思いましたが、あまり寄り道をしなかったので早い到着となりました。
それでも、久しぶりだから疲れました。どんだけ、普段運動不足なのでしょうかね…情けなや。

さて、ここからどうしようか?
やはり上野原駅に戻るのが無難という意見にまとまりました。幸い1時間に1本のバスがもう間もなく来るとのことですし。さすがに歩いて戻ろうとは誰も言い出しませんでした。



反省会は、最近のお決まりコース・八王子にて。
4時前から開始です。
ところで、酒飲みには少なくとも2パターンあるようです。飲むときはモノを食べない人。飲んでも大いに食べる人。私は後者。食べないで飲むと酔いが一気にまわり、記憶をなくすなどロクなことにならない。でもこの日、昼に食べたラーメンと餃子とチャーハン+酒まんじゅうが、いまだに胃の中に居座り、とても食べるどころではありません。
そして、食べずに飲み続けた私は…

その夜の記憶をなくしましたとさ。

翌日、反省会の「反省」をひとりする羽目になったのでした。


おしまい。


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【note】甲州街道・関野宿から鶴川宿まで歩いてみた(4)-上野原宿を往く-

2017-10-10 | 旧甲州街道を往く

【上野原宿内の甲州街道】


ラーメンと餃子とチャーハンで空腹も満たされた我々は、いよいよ上野原宿に入ります。国道20号線と合流する辺りから、かつての上野原宿が始まるようです。JR上野原駅とは、ちょっと離れた位置関係にありますので、要注意です。

上野原宿の概略
(「甲州道中宿村大概帳」天保14(1843)年)

本陣…1軒
脇本陣…2軒
問屋場…2ヶ所
旅籠…20軒
宿場内の家数…159軒
宿場内の人口…784人

上野原宿を含む郡内地方の特産は、郡内織と呼ばれた絹織物。江戸時代の領主・秋元氏の殖産興業政策によって大いに発展したそうです。江戸の越後屋(現在の三越)でも、店頭に並べて商っていたとか。
そして上野原宿は、郡内地方で唯一、六斎市(月に6回開かれる定期市)が開かれる町として賑わったとのこと。しかしながら当時の宿並みは、ご多分に漏れず、明治以降の火災で焼失…だそうです。

ちなみに上野原という地名の起こりは、
「四方岸高く新田辺りよりは岸上の広原と見ゆ故に上の原と称せるなるべし」(「甲斐国志」)
地形からきているわけですね。

【上野原名物・酒まんじゅう1】


そしてこの地の名物といえば、「酒まんじゅう(さかまんじゅう)」なのだそうです。…という情報を事前に仕入れていましたが、確かにかつての宿場に入った途端、道の両側に「酒まんじゅう」のお店が目につくようになりました。
酒まんじゅうとは、「小麦粉の生地に酒を入れて作った皮であんを包んで蒸した饅頭」とのこと。この近辺ではかつて、祭りやお盆など、人が集まる折に各家庭で作られていたようですが、さすがに今はそういう風習もなくなっているそうです(以上、ネット情報の受け売りです、悪しからず)。

【上野原名物・酒まんじゅう2】


そんなわけで、最初に通りかかったお店で、満腹にもかかわらず我々も食べてみました。そう言われてみれば、ほのかに酒の香りというか味がするかなぁ…?

【上野原宿内の案内板】


道沿いには、こういった案内標識があちこちに立っています。古い町の記憶を残そうとしていることに、温かみを感じたのでした。

【上野原宿脇本陣跡】


ホテルルートインコート上野原のある場所が、かつての脇本陣・若松屋の跡。ガイドブックによると、和宮が江戸に降嫁する際の荷を扱い、屏風が下賜されたとのこと。現在は脇本陣の面影は皆無でした。

【上野原宿商人宿(あきんどやど)跡】


脇本陣と街道を挟んでちょうど向かいあう位置に、商人宿(主に行商人を泊める比較的お安い旅籠)「たち花屋儀兵衛」があったそうです。現在は駐車場になっていて、とくに面影はありませんが、ガイドブックには門を残しているとありました。最近、変わってしまったのですね。

【上野原宿本陣跡】


脇本陣から少し歩いて、消防団の脇の小道を入ると、かつての本陣跡に出ます(かつては街道に面していたらしいです)。立派な門が残されています。明治天皇行幸の際には行在所となりました。いろんなエピソードがありそうな感じなのですが、ネットで調べてみても、あまり詳しいことは出ていないようです。

【本陣付近の甲州街道】


ちょっと奥まった本陣の門から街道に復帰して、さらに西へ向かいます。駅から離れていることもあってか、とても静かで、一昔前の懐かしさを感じさせる町並みです。ただ、国道は車の通行量は多いので注意しながら歩きましょう。

【屋号】


道沿いに「三井屋」の屋号。どういったお店なのか、帰ってからネットで調べてみましたが、これといった情報にヒットしませんでした。それにしても、なかなかの重厚感です。

【上野原宿の西端辺り?】


しばらく進むと、道は三差路となります。真ん中が国道、右は県道、そして左に入る小道が旧甲州街道となります。
ところで、上野原宿の西の端はどの辺りになるのだろうか?ガイドブックによると、宿並み6町18間(約700メートル)とあるので、この三差路辺りがそうでしょうか。
ネットで調べてみても、上野原宿についてのストライクな記事にヒットしないのが残念です。それは上野原宿だけのことではなく、いよいよこの先、ディープな街道歩きになるのでしょうか?
ま、とにかく、ここで上野原宿を出た…ということにして、本日のゴール・鶴川宿へと向かいます。


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【note】甲州街道・関野宿から鶴川宿まで歩いてみた(3)-上野原宿を目指して-

2017-10-08 | 旧甲州街道を往く

【諏訪番所を越えて】


甲斐に入って最初の難関・諏訪番所を無事に通過したあと、今少し、上野原へ向かう坂道が続きます。

【慈眼寺】


10分程歩いたところで、街道から右手の小道に入っていくと曹洞宗のお寺、慈眼寺(じげんじ)。慶長7(1602)年開山の古いお寺です。

【慈眼寺・愚痴聞地蔵】


この慈眼寺の境内の一角にあるのが「愚痴聞地蔵」。建てられたのは10年程前のようですが、ガイドブックにも載っていたということは、地元では有名スポットなのかな?大きな耳で愚痴を聞いていただけるのだとか。
普段から愚痴ばかりこぼしている私たちとしては、それぞれが、これ幸いとばかりに
「ちょっと聞いてくださいよ、お地蔵様…」
となりました。少しはみんな、スッキリしたのかな?

【慈眼寺付近の甲州街道】


お地蔵様に愚痴を聞いてもらって、心も軽やかに街道に復帰します。

【船守寺】


慈眼寺から街道に戻って歩き出すと、すぐのところに船守寺(ふなもりじ)があります。日蓮宗のお寺です。
日蓮上人は、鎌倉幕府の弾圧にあい、伊豆のまな板岩(満潮になると海面下に沈んでしまう!)に流罪、というか置き去りにされました。その時、日蓮を救い出したのが上野原出身の漁師・弥三郎でした。ここ、船守寺には弥三郎の遺骨が分骨されておさめられているそうです。それにしても弥三郎、山国の甲斐出身で、伊豆で漁師か…。180度真逆の生活ですね。
私たちは、境内には入らずに先へ進みました。

【諏訪神社】


船守寺に続いて、諏訪神社。
現地の案内板によると、平安時代末期に武蔵国横山党の横山忠重がこの地で古郡忠重と名を改め、一族の氏神として古郡神社を創建したのが始まりとされます。鎌倉時代、古郡氏は和田義盛の乱に連座して滅亡しますが、建長寺開山の大覚禅師が荒廃した社殿を再建し、諏訪大社の御霊を分霊して祀り、古郡神社諏訪大明神と称したと伝わるそうです。
そうそう、先程無事に通過した諏訪番所は、もともとはこの辺りにあったのだとか。

【諏訪神社・拝殿】


横山党?八王子のわが家のすぐ近くではないですか。
あれ?こんなところで奇遇ですね!って、旅先でご近所さんに偶然会ったような、そんな感じ。
拝殿には古郡神社の扁額が掛かっています。

【諏訪神社・芭蕉句碑】


拝殿前にある松尾芭蕉の句碑。
「稲妻や悟らぬ人の尊さよ」
崩し字で、しかも摩耗しているから読みにくい(そもそも崩し字という時点で、私には判読不能です)。

【諏訪神社・古い石碑】


街道に向かって古い石碑が立っています。真ん中は二十三夜待ちの碑でしょうか?あとふたつは何かな?

【上野原宿を目指す甲州街道1】


諏訪神社を後にして、再び上野原宿を目指します。途中「油屋」の屋号の大きな門構えのお宅。立派な蔵もあります。奥で何かを販売している雰囲気でしたが通過します。

【旧甲州街道碑】


街道沿いに立派な石碑。
「あいさつをかわす思いやりの道」
「昔をしのぶ思いでの道」
と刻まれています。
個人的に立てたのかな?とも思える石碑です。

【上野原宿を目指す甲州街道2】


静かな住宅街の真ん中を街道を進みます。たまに畑なんかもあったりして、長閑な雰囲気。

【上野原宿を目指す甲州街道3・中央道越え】


中央道を越えます。高架を歩くというより、街道の下に中央道が潜り込んでいるような感じです。

【疱瘡神社】


中央道を越えるとすぐ、疱瘡神社と塚場一里塚跡に到着。
まずは疱瘡神社。万治4(1661)年の創建。案内板によると、この地で行倒れた老婆が村人の手厚い介護に感謝して、生国の越前から疱瘡神を勧請して祀ればこの地を疫病から守る、と言い残して亡くなったとか。その遺言通りに、ここに疱瘡神社が建てられました。
ここで言う疱瘡とは天然痘のこと。今では聞かなくなりましたが、江戸時代にはそれこそ死の病として恐れられていたことでしょう。

【塚場一里塚跡】


疱瘡神社の裏手に一里塚跡と伝わる小さな墳丘が残っています。拝殿の右側の狭いスペースを進むと見ることができますが、塚そのものへの立ち入りはできません。神社の鳥居の前、街道沿いに案内板が出ていますので、見落とすことはないと思います。
江戸から18番目、塚の上にはカヤの木が植えられていたとも。そもそもこの一里塚、古代の古墳の可能性もあるとか。

【上野原宿を目指す甲州街道4・塚場一里塚付近】


一里塚を過ぎると、街道は気持ちいいくらいに真っ直ぐ、上野原宿に向かって伸びていきます。

【上野原宿を目指す甲州街道5・上野原宿入口】


一里塚から10分弱で国道20号線と合流し、この先は再び国道を歩くことになります。この辺りから、かつての上野原宿となるようです。いよいよ到着しました。
ところで、藤野駅を出発したのが10時45分頃。今は午後1時。上野原宿を歩く前に、どこかこの辺で昼食を…となりました。

【来々軒】


どこか、食べる場所はないかな?
周辺を探すと、国道20号線を少し戻ったところに発見したのがラーメン屋さん。
ここでボリュームたっぷりのラーメンと餃子をそれぞれがオーダー、さらに大盛りチャーハンを4人でシェア。かなりの満腹度で、そして味も文句なし、とても美味しかったです。
でも結果的に言うと、ここで腹が大いに膨れてしまったことが、この日の夜の、とある悲劇につながることになるのですが-それはまた別の機会に。


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