歴史・音楽・過ぎゆく日常のこと
日日の幻燈



【犬目宿西郊の風景1】


犬目宿を後にして、いよいよ最終目的地・下鳥沢宿へと向かいます。4キロちょっと。かなり足にきていますが、こうなったら最後まで歩ききるしかありません。

【白馬不動尊鳥居】


道端に白馬不動尊の赤い鳥居。ガイドブックによると、鳥居をくぐってこの先へ進むと不動院と白滝があるらしい。もちろんパスしました。

【白馬不動尊像】


鳥居の傍らに白馬にまたがる不動尊像。1803(享和3)年の建立。白馬にまたがっている?う~ん、疲れているからなのか、それとも信心が足りないのか…よくわかりませんでした。

【犬目宿西郊の風景2】


これぞ日本の原風景って感じ。あの庵は何だろう?と思って、帰ってからネットで調べると、完全予約制のお蕎麦屋さんらしい。池波正太郎の小説に出てきそうな雰囲気ですね。

【君恋坂1】


県道30号線と分かれ、細い山道を進みます。ここからの坂を君恋坂と呼ぶそうです。ガイドブックによると、日本武尊が東国征伐の帰途、海神の犠牲となった妃・弟橘姫(おとたちばなひめ)を偲んだことに由来する…とのこと。なかなかロマンチックなネーミングですな。ちなみに『甲斐国志』には君ガ尾と記載されています。

【君恋坂2】


ロマンチックなネーミングですが、現状はこんな感じ。疲れた足腰にはけっこう厳しい。所詮、恋なんて茨の道か、山道か…。それを越えてこそ想いが叶うのか、なんてね。

【恋塚付近の風景】


山道を往くこと約10分、県道30号線に合流します。この辺りはかつて恋塚と呼ばれた集落で、犬目宿同様、街道が開かれた際に集落ごとこの地に移ったそうです。

【恋塚一里塚1】


県道をしばらく歩くと、日本橋から21番目の恋塚一里塚。南側の塚だけ残っていて、当時の姿に近い形を保っているようです。これはお見事!

【恋塚一里塚2】


解説板によると、直径12メートル×高さ5メートル。甲州街道を通す際に掘割をした結果、道の両側に小高い地形が出来て、それをそのまま一里塚に利用したとのこと。

【山住神社】


ここで県道から細道へと入ります。
山住神社は『甲斐国志』によると、「塚上に小祠あり山住明神と号す。民家6、7戸あり是を産神とす」
すみません、ここも鳥居前を通過します。寄り道する気力も体力もすでにない状況です。

【馬宿跡】


大場家は江戸時代の馬宿(農業と兼業)。恋塚の西端に位置していたので屋号を「西」としたそうです。組頭、百姓代、明治以降は村長を勤めた家柄。確かに大きな敷地で、改築はされているようですが、昔の面影を留める家屋も迫力あります。荷駄が行き交った甲州街道に相応しいポイントです。

【江戸時代の石畳?】


馬宿を過ぎると、僅かな距離ですが江戸時代の石畳が残っている…との情報なのですが、これがそれ?確かに大き目の石が敷き詰められているようにも感じますが、何しろ枯葉や枯枝などで埋もれていて、道はかなり荒れている様子。しっかりと確認できませんでした。台風の通過後、間もなかったので仕方ないのかな…。ちょっと残念。

【大月市へ到達】


山住神社から石畳を経て県道30号線に合流、少し歩くと大月市に入ります。上野原市とはここでお別れです。

【山谷】


山谷(さんや)は恋塚の西に当たる集落で、江戸時代は立場(たてば・茶屋などの休憩施設のある場所)でした。
上野原宿からここまで、短い距離に宿場だけで4つもあるのに、さらに間の宿や立場まで設けられているのは、かつての甲州街道が余程難儀な道のりだったという証なのかもしれません。

【さんや坂付近の風景】


この辺りの坂は、かつて「さんや坂」と呼ばれ、富士山の眺望が素晴らしかったとか。この日は雲に隠れているようで、残念ながらその雄姿は拝めませんでした。
途中、県道から細道へ入りますが(写真の右の小道)、このポイントがなかなか判りにくいので注意です。

【ロボット兵!】


こんなところに、ラピュタのロボット兵!街道の警備か?
ただひたすら歩くことに徹していた私たちですが、思いもよらぬ遭遇に大いに盛り上がって、疲れも一時忘れたのでした。

【山谷~中野付近の風景】


一時忘れた疲れもすぐに復活。
太陽が照りつける道中はけっこう汗だくなのですが、それでも道端には秋の風情。

【古い石仏】


竹藪の前の古い石仏。ガイドブックによると馬頭観音とのこと。文政の年号が刻まれているので、江戸後期のもののようです。

【石仏・石塔】


バス停「中野神社」の脇に並ぶ石仏・石塔。ガイドブックによると、1707(宝永4)年の道祖神、1717(享保2)年の供養塔など。道路拡張や宅地整備などで周辺から集められたのかな?
ちなみに、バス停名の中野神社なる神社は存在しないのでしょうか?帰ってからネットで調べてもヒットしませんでした。近くに山ノ神社があるので、この神社のことを指しているのでしょうか?
『甲斐国志』の山ノ神社の項には「恋路窪」という場所が記されています。君恋坂、恋塚、恋路窪…。恋多き土地柄ですな。

【中野周辺の風景1】


さらに進んで行くと、中央道が見えてきました。あの向こう側に目指す下鳥沢宿があります。もうひと踏ん張り、ゴールは近いぞ!

【中野周辺の風景2】


県道と分かれて細い道へ。ガイドブックによると中央道の向こう側へ出るのはもうすぐです。

【中央道】


中央道の下を潜ります。いよいよ下鳥沢宿へ。

【下鳥沢宿入口付近】


中央道を越えれば、下鳥沢宿はすぐです。
道端、少し高くなった場所に石仏と石塔が並んでいます。昔からこの場所にあったとしたなら、宿場に出入りする旅人たちもここで道中の無事を祈ったことでしょう。

【下鳥沢宿江戸側入口付近】


歩いてきた県道30号線が国道20号線に合流する地点で、旧街道はほぼ直角に右へ曲がります。いよいよ下鳥沢宿へ到着です。
ヘロヘロだったので、写真だってこの通り、はい、ピンボケです。

【鳥沢駅】


いや~、マジで長かった。疲れた。
本日のゴール、鳥沢駅。
午後4時10分。
もうダメ。本気で動けない。
そんな情けない旅人たちですが、なんだかんだ言いながら踏破しました。

あとは電車で八王子に戻り、本日の反省会に臨むのみ。
でも、きっと山帰りのハイカーたちで電車は満員で座れないだろうなぁ…と思っていたところ、日ごろの行いが良いため電車はガラガラ。東京駅までの直通電車だったので、高尾で乗り換えることなく、八王子まで爆睡の旅となったのでした。

【旧甲州街道ウォーキングマップ】


ところで甲州街道を歩く旅ですが、毎回集合場所が遠くなり、スタート地点への移動も苦痛になり始めている今日この頃。次回、大月まで歩いて締めようじゃないか、ということに相成りました。
颯爽とした姿で最後を締めくくるためにも、今から日々、体力の強化に努めることが肝要。

ということで次回(いつになるかはわかりませんが)、甲州街道を歩く旅、いよいよグランドフィナーレを迎えます。
乞うご期待!


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【犬目宿・安達野付近の風景1】


安達野で県道30号線と合流した地点から、犬目宿へと向かいます。合流地点に「この先、犬目宿→」の案内が出ています。実際の宿場の入口がここだったのか何とも言えませんが、江戸側の入口はもう少し先になるのでは?と推測。

【犬目宿・安達野付近の風景2】


街道沿いの家屋も、かつての旅籠や宿屋を思わせる造りです。

【犬目宿・下宿付近の風景】


かつての宿場町の名残を留めるかのような地名。犬目宿の内、この辺りが江戸側の入口辺りになるのかな…と、これまた勝手に推測しながら歩きます。

【犬目宿碑】


午後2時過ぎに、犬目宿直売所の前に建てられている犬目宿碑に到着。途中昼食をとりましたが、野田尻宿から2時間半、約3.5キロの道のりでした。

【犬目宿案内板】


犬目宿碑の傍に案内板が出ています。ここがちょうど宿場町の中心にあたるようです。
この案内板の解説などによると、もともと付近にあった集落が1712(正徳2)年にこの地に移転、1村1宿として翌年宿場町となりました。宿場以外の家数は僅か5軒だったそうです。街道の整備・拡張に合わせて新たに創設された宿場町ということでしょうか。
この辺りは富士山の眺望が素晴らしく、広重も北斎も犬目からの富士山を浮世絵に残しています。

1843(天保14)年の『甲州道中宿村大概帳』によると、宿の概略は以下の通り。

本陣…2軒*
脇本陣…なし*
問屋場…1ヶ所
旅籠…15軒
宿場内の家数…56軒
宿場内の人口…255人

*上野原市の「旧甲州街道沿いにあるく」によると、本陣1軒、脇本陣1軒。あとで紹介する明治天皇が巡幸した際に小休止した場所は、脇本陣・笹屋と言われていることから、こちらのほうが正しい?

【犬目宿直売所】


犬目宿碑の後ろにある直売所。山梨と言えば葡萄。ここで巨峰を一房買ってしばし休憩。直売所の方からいただいたお茶を飲みながら、喉の渇きを潤します。昔の茶屋もこんな感じだったのでしょうか。
公衆トイレもあり、これといった休む場所が見当たらないこの付近の街道歩きでは、貴重な休憩ポイントです。

ここで葡萄を頬張りながら、さてどうしたものか?と作戦会議。予定では犬目宿までは歩く、そこから先に進むかは犬目に着いた時点で決めようとのことでした。直売所の方に聞くと、ここから最寄りの駅までは、歩くとかなりあるとのこと。
次の下鳥沢宿までは4キロ強。

帰る?バスを待つのか?(次のバスまで2時間あるぞ)
帰る?タクシーを呼ぶのか?
行く?それとも先へ進むのか?

鶴川宿を出発してから8キロあまり。座頭転がしの難所越えなど、普段運動不足の我々は、かなりへばっているのですが、出した答えは
「各々がた、先へ進もうぞ!」
とても前向きで、アグレッシブな旅の仲間にお茶で乾杯!

【犬目宿兵助生家跡】


犬目宿兵助(いぬめじゅく・ひょうすけ、犬目兵助とも)って誰?
解説板によると、旅籠・水田屋を営んでいた兵助は、天保の大飢饉と米商人たちの買い占めに苦しむ農民たちを救うため、1836(天保7)年に一揆をおこします(天保の甲州一揆)。しかし一揆は暴徒化してしまい、兵助は離脱し逃亡の旅を続けました。最後は定かではないようですが、一説によると犬目に戻って家族とひっそり暮らし、1867(慶応3)年、71歳で亡くなったとも言われている…そうです。
一揆の途中から無頼の徒なども加わり、困窮してる農民を救うという当初の目的から大きく逸脱し、略奪、放火、村々に対して一揆への参加の強要と、ただの暴力集団となってしまったようです。兵助は逃亡している最中に日記を残しているそうですが、それによると、北陸から瀬戸内、中国地方まで逃亡しています。現在なら全国指名手配犯ということですね。その後、千葉の木更津に落ち着き、そこで寺小屋を開き、明治維新後にようやくこの地に戻ったとも。
そんなわけで、ここに水田屋があったということですね。兵助の墓は犬目宿の東側にありますが、残念ながら今回は見落としてしまいました。

【脇本陣跡】


お馴染みの「明治天皇御小休所址」の碑が建つのは、脇本陣・笹屋の跡。本陣ではなく脇本陣でご休息されたのか。こちらのほうが明治になってからは羽振りがよかったのかな?

【本陣跡】


犬目バス停のあるところが、本陣(岡部家)があった場所。道の反対側には問屋場がありました。東側より西側の方に宿場の中心的な施設が集まっていたようです。

【犬目宿・西側付近】


この先で道はほぼ直角に右側へ曲がっています。ここが西側の出入口。

【宝勝寺】


犬目宿を出てすぐのところに宝勝寺があります。曹洞宗のお寺で、1618(天和元)年に開山。甲州八十八霊場第六番札所。境内は犬目宿を見下ろすような小高い丘の上にあります。

【葛飾北斎・富嶽三十六景甲州犬目峠】


【歌川広重・不二三十六景甲斐犬目峠】


【歌川広重・富士三十六景甲斐犬目峠】


犬目から見る富士山は、犬目富士として人気があり、北斎も広重も浮世絵に描いています(広重は同じテーマで2種類)。そしてふたりの作品は、この宝勝寺の境内から描いたとも伝わります。北斎も広重もタイトルに犬目峠と入れていますが、そもそも犬目峠ってどこなのか?実はそれに該当するような峠は、付近にはなさそうなのだとか。標高が高く、富士山の眺望が素晴らしい犬目宿付近のイメージが生み出したのが、「幻の犬目峠」なのかもしれませんね。

【宝勝寺・境内からの眺望】


そんなわけで、境内の「この付近から描いたといわれている」ポイントから眺めてみたのですが…残念ながら富士山は見えず。それとも見当違いの方角を見てしまったのか?
そう言えばこの日は、全体的には晴れてはいるものの雲もあったりして、道中、富士山とはまだ相対していないのでした。


犬目宿も全体の案内地図はありましたが、本陣など個々を探そうとするなら、事前に下調べしてから臨むことをお勧めします。
それでは、犬目宿を出てもうひと踏ん張り、下鳥沢宿を目指しましょう!


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【矢坪橋】


談合坂SAでの昼食を終え、矢坪橋まで戻って街道歩きに復帰します。ここで中央道を横断します。

【大乗妙典日本廻国供養塔】


矢坪橋を渡ってすぐのポイント。ガイドブックによると、1813(文化10)年の建立で、六部と呼ばれる行者が法華経を納めながら全国66ヶ国を巡礼した達成記念碑とのことです。

【矢坪坂古戦場跡1】


「大乗妙国日本廻国供養塔」のすぐ先、矢坪坂の古戦場跡の解説板の前で、道は県道30号線と分かれて山道へと入ります。事前調査によると何となく歩きにくそうな、そんな雰囲気を漂わせていましたが果たして…?

【矢坪坂古戦場跡2】


この辺り一帯で武田方の小山田信有(おやまだ・のぶあり)と北条軍が戦ったのは、1530(享禄3)年のことでした。
ちなみに小山田信有という武将、子も孫も同じく信有と名乗ったとか。よほど縁起の良い名前だったのか、一族の内の「頭領は信有と名乗るべし!」という決め事でもあったのか?ま、ややこしいですな。

【矢坪付近の甲州街道1】


道順を示す標識に従い、細い道を進みます。この辺りはまだ歩きにくいということはありません。しかし、道は県道30号線を見下ろしながら、確実に山間に向かっている感じなのです。

【西ノ原古墳】


道は徐々に高さを増して、集落を見下ろすように進みます。
矢印の位置は西ノ原古墳。平成11年、畑を耕していた人が偶然に石積みを発見。調査したところ、墳丘部や天井部、側壁部は失われているものの、横穴式石室と確認されました。石室の全長は3.3メートル、横幅は最大1.7メートル、7世紀のこの地の有力者一族のものと思われるそうです(「上野原市公式観光情報」より)。
現在は埋め戻されて、解説板が出ています。県道30号線から行ける?ちなみに副葬品は発掘されなかったとのこと。ま、長い間耕され続けてきたのでしょうから、畑の土に還ってしまったのかな。

【武甕槌(たけみかづち)神社】


立派な鳥居が出現。ここが武甕槌神社。武甕槌命は雷、剣の神。鹿島神宮の主神でもあるそうです。
『甲斐国志』には軍勢権現として「箭壷(やつぼ=矢坪)にあり、産神」と見えます。先程通過した矢坪坂の古戦場の解説板に、一説には矢坪坂の戦いの際に祀られた、との記述がありました。剣の神様なら、確かにその説もありかな、と。
鳥居をくぐってから本殿はかなり先のようです。これはきついだろうということで、やはり本殿への参拝はパス。鳥居前で手を合わせました。

【矢坪付近の甲州街道2】


武甕槌神社を過ぎると、いよいよ雰囲気が出てきました。道幅も狭くなり足を滑らせたら谷底へ真っ逆さま…。竹のガードがあるのでめったなことはないと思いますが、昔の旅人はそれこそ命がけだったのでしょう。歩きスマホ(江戸時代だったら歩き道中記?)なんてもってのほかですな。

【庚申塔】


山道の途中に庚申塔。苔むした感じが古道にお似合いです。

【県道30号線】


旧街道の下を付かず離れずといった感じで、県道30号線が通っています。この県道、明治天皇がこの地を巡幸された際、馬車で通れるように開かれた道で、地元では新道と呼ばれているとか。確かに旧街道に馬車は無理。

【座頭転がし】


盲人が声のするほうへ歩いたところ、深い沢の底へ落ちてしまったという「座頭転がし」のポイントに到着。
この辺り、道は山に沿って大きく湾曲し、江戸時代は道幅3尺(=約90センチ)以下の細道だったそうです。現在は多少広くなっています。
歌川広重は道中記に「…座頭ころがしという道あり…」と記し、『甲州道中記』にも「山道難所あり、座頭ころばしという坂あり」との記述があります。諸書に載るほど有名な難所だったということでしょう。

わざわざフェンスが開いているのは、どういうことなんだろう…まさか、実際に体験してみろと?
ちなみに反対側の崖上には「天王様」が小さな祠に祀られています。

【座頭転がし付近の甲州街道】


座頭転がしを過ぎた後も、もうしばらく山道が続きます。

🌙2018.10.8追記
『甲斐国志』によると
「犬目・野田尻間の坂上に蛇木新田、坂下に箭壷(=矢坪)という集落があり、この間は甚だ険路である。中でも道が屈曲して谷深いところを座頭転ばしという。昔、盲人が過って深い谷に転落して死んだことによって名付けられた。今は道端に垣根を作り転落に備えている」
とのこと。

【蛇木新田付近の甲州街道】


ようやく山道を抜けて人里にたどり着きました。江戸時代には蛇木新田(蛇木村)と呼ばれ、慶長年間(=江戸時代初期)に甲州街道が開通したときに形成された集落だそうです。地図で確認すると、現在は単純に新田という地名のようです。

【尾張徳川家定宿跡】


ここ米山家は尾張徳川家の参勤交代の際の定宿。あれ?尾張徳川家って、参勤交代には東海道を使ったのでは?現地の説明文によると、行列が他の大名と重ならないよう、調整のため甲州街道を使うこともあったのだとか。すぐそばの犬目宿の本陣に宿泊せず、米山家が定宿になった理由は、ここからの富士山の眺めの素晴らしさをお殿様が気に入ったから…とのこと。要はお殿様の気分次第。いつの時代も権力者やお金持ちはいろいろと我儘が言えるんだね、ということで。
道幅も付近は6尺(約1.8メートル)だったのが、宿の前は9尺(約2.7メートル)と広かったそうです。

【彼岸花と石塔】


庚申供養塔と念仏石経塔。彼岸花が秋らしさを添えます。

【庚申塔と馬頭観音】


街道脇の少し高くなった側壁上に並ぶ、1789(寛政元)年の庚申塔と馬頭観音。細道から行くことができますが、ここで蛇に遭遇。注意しましょう。

【県道30号線に合流】


安達野バス停付近で県道30号線に合流します。

【犬目宿入口】


ここから先、いよいよ犬目宿に入ります。


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【野田尻宿・西郊】


野田尻宿を出発して、次の宿場・犬目を目指します。ガイドブックによると、犬目までは3.5キロほど。ただ、途中昼食のため談合坂SAを経由する予定です。では、いざ往かん!

【お玉ヶ井の碑】


野田尻宿を出てすぐ、中央道の防音壁が見えてきます。そして中央道をバックにまず現れるのが「お玉ヶ井」の碑。

昔、旅籠の美しすぎる女中・お玉が長峰の池の龍神と結ばれ、奉公を辞することになりました。去り際、お玉が地面に置いた手桶から水が湧き出てきました。水不足に悩んでいた人々は大いに喜んだとのこと。めでたしめでたし(お玉自身が龍神の化身だったとも言われています)。

そんな伝説が残っているそうです。龍神が棲んでいた長峰の池って、先程通ってきた長峰砦の「濁り池」のこと?だとすると、池の水がけして涸れることがなかったのは、間違いなく龍神様のご加護ですな。その「濁り池」、中央道の建設とともに姿を消したとか。龍神様も現代の重機には敵わなかったということかな?国の事業と地元の伝説。どちらに重きを置くのかとなれば…。宮●駿監督のアニメの題材になりそうなお話でした。

【西光寺】


西光寺の創建は824(天長元)年、平安時代までさかのぼります。当初は真言宗でしたが、鎌倉時代に臨済宗に改め現在に至るそうです。
『甲斐国志』に「西光寺門前に東野田尻と云う地あり村名是に起これり」とあります。ただし、寺は中央道の建設により移転し、江戸時代とは場所が変わっているようです。

【西光寺付近の甲州街道】


由緒あるお寺ですが、ここも参拝せずに先を急ぎます。道は門前で左右に分かれていますが、右側が旧街道です。

【西光寺裏手付近の甲州街道】


西光寺を過ぎると上り坂になります。自然の中を進むような風景ですが、すぐ近くの中央道の車の音が響いてきます。

【石仏・石塔群】


右手に石仏と石塔の一群。ガイドブックによると、お地蔵様、庚申塔、馬頭観音など。どれがどれかは確認することなく通過しました。付近にあったものをここに集めたのでしょうか。

【北久保橋】


ここでまたまた中央道を横断します。石畳風につくられた橋がちょっとお洒落です。

【北久保橋付近の甲州街道】


北久保橋で中央道を渡ると、僅かな距離ですが未舗装の道となります。旧街道ぽくて良きかな。

【嶽大先達白倉宝行碑】


未舗装道から舗装された道へ合流してすぐの場所にある碑。ガイドブックによると「富士講の修験者を統率する行者を讃えたもの」とあります。富士講とは富士山を崇拝する人々で作られた講で、とくに関東で流行したそうです。甲州街道と富士講、まさに富士山のお膝元にふさわしい組み合わせです。碑には明治28年とありました。嶽の文字の上に富士山の形が刻まれているのがわかりますか?

【荻野一里塚跡1】


「嶽大先達白倉宝行碑」からすぐ、街道を見下ろすように荻野一里塚の標柱。この辺りに一里塚があったといわれています。そしてこの先のカーブをまわると、案内板が出ています。

【荻野一里塚跡2】


日本橋から20番目の一里塚。塚は街道の両脇(南北)にあり、北側の塚の上には「ヒラマツ」と呼ばれた松が植えられていた…とあります。今は残念ながら当時の面影は皆無です。

【荻野近辺の甲州街道1】


この辺り、江戸時代には荻野という集落があった場所。『甲斐国志』の野田尻村の項には、「西支村荻野」との記述があります。道端の花々に秋の風情を感じながら進みます。

【荻野付近の甲州街道2】


かつての地名をたどれるので、バス停名を確認するのはけっこう楽しみだったりします。とくに下調べしていた地名に出会えた時はうれしいものです。おお、まだ生きていたのか!ってね。

【矢坪橋】


矢坪橋でまたまた中央道を横断するのがルートなのですが、すぐには渡らずに左手へ進み談合坂SAへ向かいます。そう、昼食です。この辺り、ここを逃すとお昼を食べられ場所はなさそうです。

【談合坂SA1】


談合坂サービスエリアは、上り車線用と下り車線用が別々の場所にあります。今回向かったの上り車線用。一般道からも利用可能なので、サービスエリア内には地元の買い物客と思われる人たちも多く見受けられました。

【談合坂SA2】


談合坂って面白い地名だよなぁ…って、以前からその名を聞くたびに思っていたのですが、地名の由来をネットで調べてみると、以下の4つの説があるようです。

■1.付近の村々の寄り合いの場所だったから
■2.武田氏と北条氏の争いの調停が行われたから
■3.武田信玄の娘が北条家へ嫁ぐ際の合議が行われたから
■4.桃太郎が犬、猿、雉に団子を配ったから

桃太郎まで出てくるのか?確かに付近に犬目、ちょっと先には猿橋と、それっぽい地名はありますが…。ん、雉はどこだ?
『甲斐国志』では団子坂という地名を挙げているようですが、その記述は見つけられませんでした。

🌙2018.10.14追記
実はこの辺りから大月にかけては、知る人ぞ知る、桃太郎伝説の地なのだそうです。
犬目、鳥沢、猿橋、周囲には百蔵山(ももくらさん)。鬼が棲んでいたのは岩殿山(戦国時代、武田勝頼を裏切った小山田信茂の城跡で有名ですね)などなど。
桃太郎を描いた昔の絵には富士山が描かれていたり…なんてのもあるようです。

【ランチタイム】


12時45分、お待ちかねのランチタイム。
W氏の「山梨と言えば、ほうとうだろ!」という、かねてからの強い要望のもと、暑さにもめげずにいただきました。
我々4人、この後の道のりの談合をしつつ、腹ごしらえをして後半戦に備えるのでした。


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