歴史・音楽・過ぎゆく日常のこと
日日の幻燈






曲も詞もタイトルも、すべてノリと勢いで作ったボカロ楽曲。
それでもあとから、ああでもない、こうでもない、と手直しを重ねた結果、結局は初めに戻った。その場の勢いで作ったなら、最初のそれがいちばんしっくりくるということでした。


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【6】9月10日(日)旧開智学校校舎

【旧開智学校校舎1】


馬刺し旅行最後の目的地は、松本城から歩いて10~15分、旧開智学校校舎(重要文化財)です。松本へ行くんだったら、絶対に連れて行ってくれ~と、私が強く希望した開智学校。長野県民にその名は轟けど(小学校の頃からもちろん知っていました)、実際に見るのは初めてです。見学料は300円。

ところで、開智学校って何ぞや?って方。
長野県民以外にはあんまり知られていないかも。

開智学校は松本藩の藩校の流れを汲む学校で、学制発布の翌年、1873(明治6)年5月に開校。当初の校舎は廃仏毀釈で廃寺となったお寺を使用していましたが、1876(明治9)年に、この擬洋風(和風と洋風画混ざり合った建築)の校舎が完成しました。
もともとは市内の別の地に建っていましたが、昭和38年から翌年にかけて、現在地へ移築・復元されたとのこと。建築史上貴重な遺構として、1961(昭和36)年に重要文化財に指定されています。

【旧開智学校校舎2】


それにしても、学校というより貴族の洋館といった外観。明治の初期、こんな建物がいきなり出来たら、そりゃ、松本の人々もビックリだったでしょうね。しかも学校。
学校?なんじゃそりゃ?寺小屋の大きくしたようなもんか?
近代国家の礎を築こうとした明治政府と庶民のギャップが、なかったわけないと思うのです。ちょっと可笑しい(あ、政府は大真面目だったでしょうから、笑っちゃいけませんね)。
こんなオシャレな学校に通っていたのは、袴姿のキリっとしたハイカラさん?う~ん、実際は近所の鼻たれ小僧や、幼い弟や妹をおんぶした女の子たちだったようです。

【旧開智学校校舎3・内部】


内部は資料館として開放されています。昔の教室が再現されている部屋も。そういえば、自分の小学校も木造校舎だったのでこんな雰囲気でした。なんだか懐かしい光景。自分の小学校は壁まで木造で、床や壁から隙間風が入ってきましたが…。

【旧開智学校校舎4・内部】


階段の踊り場から2階をパチリ。学校というより、ほんと、貴族の館かホテルって感じです。
この立派な校舎で学んだ効果がいかんなく発揮されたからなのかどうか、長野県は長らく教育県としてその名を高めてきました。現在はどうなんでしょうね?

【旧開智学校校舎5・照明】


廊下の照明もオシャレ。明治の初期、学校も政府の文明開化政策の一環として重要な位置を占めていたのでしょう。諸外国へのアピールもしなければいけなかったでしょうし。明治天皇もここへ行幸されたそうです。正面玄関を入ってすぐのこの照明がその当時のものなら、そりゃ、こういった小道具(?)ひとつにも凝りますよね。


尚、隣には現役の開智小学校があります。校舎も旧校舎をモダンにアレンジした感じ。明治から脈々とその流れは続いているのでした。


そんなわけで、2日間に渡る馬刺し旅行も終了。
帰りは中央道をひたすら東京を目指しましたが、途中で渋滞に遭遇、やむなく下道へ。夕方、無事帰宅しました。
松本、ほんと、綺麗になっていました。私の30年前の印象とは大違い。市街をゆっくりと散策す時間はなかったので、いつか機会があれば…と思いました。


-馬刺し旅行・完-


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9月10日(日)松本城

朝から晴れ渡った日曜日。昨日の酒も全く残っていません。やっぱりわけのわからない飲み放題の日本酒とは違って、美味しい酒は翌日に響かないんですよね。
さて、今日は東京へ戻るわけですが、松本へ来たら、もちろん松本城でしょう。

【松本城1】


ホテルから松本城まで、歩いて15分くらい。松本に来たのは30年ぶり(!)ですが、とてもきれいな街並でした。松本城を中心にしてよく整備されている印象です。

【松本城2・天守閣など】


さて松本城。
写真だと中央に天守閣、その右側には乾小天守。左奥が辰巳附櫓でその手前に月見櫓。
戦国時代に築城された深志城が始まりで、秀吉の時代にここを治めた石川氏によって、天守閣の築造と城下町の整備が行われたとのこと。天守閣が造られたのは、まだ戦国の余燼が燻っていた頃。実践に備えた造りとなっているようです。それと対照的に江戸時代に築造された辰巳附櫓と月見櫓は、戦いとは無縁。
あれ?月櫓が修復中だ…。あの朱色の欄干が松本城をさらに優雅に見せているのに。ちょっと残念。なんでもこのままだと耐震性に問題があると診断されたとのこと。熊本城の例もあるし、ここはしっかりと補強を。そのためならば、いたしかたあるまいというもの。

【松本城3・天守閣】


間近で見上げると、すごい迫力。のしかかってくるようです。白亜一色の天守閣もいいけれど、松本城のように黒と白のコントラストも、ちょっとビターな感じで魅力的です。
それでは30年ぶりに、松本城天守閣へ登城します。

【松本城4・天守閣からの眺望】


まだ10時前なのに、けっこう観光客が来ています。天守閣の中も行列になり始めています。とくに階段は狭くて急なこともあって、係員が登城制限をしている階も。
それにしても古い城の階段は急だよなぁ。こりゃ、絶対に明日は筋肉痛だわ…って思いながら登っている最中に、すでに筋肉痛発症。運動不足だな。
それでも、苦労して登った天守閣からの眺めは絶景。よく晴れていて、遠くの山々まではっきりと見えました。
松本平を手中にした殿様気分を少々。

【松本城5・埋橋と天守閣】


松本城といえば、小学校のころ、長野県の昔話みたいな物語の中に、多田加助と松本城の話があったのを思い出しました。
江戸時代、重税に喘ぐ百姓を救うため、多田加助は殿様に直訴しました。直訴などとは不届き千万、とばかりに加助は磔にされました。絶命の間際、加助が天守閣を睨むと、音を立てて天守閣が傾いたとも言われ、後年、天守閣が傾いたとき、これは加助の怨念だと人々は恐れましたとさ…みたいな話。子供向けの本だったのですが、磔にされた加助の挿絵が、ぼんやりとよみがえってきます。
多田加助は江戸時代中期に実在した人物で、年貢減免を願い出て処刑されたのも事実(貞享騒動)。そして、明治時代、松本城が大きく傾いてしまったのもこれまた事実(古写真が残されています)。加助の呪いかどうかは別として、優雅な姿の天守閣の裏には、影の部分もあるということですな。

そんなところで、観光客(けっこう欧米系の外国人も目立ちました)で賑わう松本城をあとにして、この旅最後の目的地・開智学校へと向かいます。


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【4】9月9日(土)馬刺しと地酒で松本の夜

龍岡城を後にして、今度こそ松本へ!
声高に主張するナビのお勧めルートに負けて、結局は上信越道から長野まわりで松本へ。
松本に着いたのが午後6時ころ。ホテルでシャワーを浴びて、いざ、夜の飲み屋街へ!

以前、W氏とM氏が入ったというお店を探して、駅周辺をウロウロ。そうしたらなんと、お店が見つからないという想定外の事態に。なんか、お店がなくなっているみたい…なんて呟きも。仕方ない、時間ばかり経っていくので、適当なお店に入ろうか?といことになったのですが、どこも満席。



で、ようやくたどり着いたのがこちらの居酒屋。「お母さんの味」を売りにする、郷土料理を出してくれる飲み屋さんのようです。もちろん馬刺しもOK。暖簾をくぐって座敷に座ったところで、W氏とM氏、
「お店の名前が変わっているけど、前に来たのはここだったんじゃないの?」
「内装も微妙に違うけど、ここだった気がする」
という会話がささやかれ、そういうことに落ち着いたようでした。奇遇というかなんというか。以前、というのが、もうずいぶん前だったようなので、店の名前が変わってしまっていたら、そりゃ、わからないですよね(でも真偽のほどは闇の中)。
だいぶ歩きましたけど、旅先で飲み屋街を彷徨するのもまた楽し。ただし、怖い場所と怖いお兄さんには用心しなければ。

ま、とりあえず、お疲れさまでした。



さて、ようやく本日のメインイベント、馬刺しです。
馬刺しで有名なのは熊本県と、ここ長野県。私は長野出身ですが、馬刺しにはまったく縁もゆかりもない身でした。多分、両親が東京近辺の出身なので、馬刺しには興味を示さなかったのが大きかったのかな、と。確か母は、馬肉を食べるなんてとんでもない…というようなことをよく言っていました。
まあ、それはそれとして。
はるばる松本までやって来ての、お目当ての馬刺し。それはそれは美味しかったです。馬刺しって、こんなに美味しいものだったんだって。東京に出てから桜鍋は何度か食べましたが、馬刺しもいいですねぇ。私には母の馬肉アレルギー的DNAは受け継がれなかったようです。馬肉コロッケもよかったなぁ~。



美味しい馬肉とくれば、美味しいお酒。
せっかくだから長野の地酒を!というリクエストに応えて、お店の女将が薦めてくれたのが、こちら「大國」。長野県の北方、大町市の北安酒造のお酒。お味は…もうこの時点でかなりアルコールがまわっていたので、細かいことは覚えていませんが、美味しかった!と言っておきましょう。

美味しいもの尽くしの松本の夜。

居酒屋に入ったのが7時半前、そこから飲み続けて11時。お店も閉店の時間です。普段なら、明日の仕事もあるし、じゃあ、この辺で-となります。東京だと飲み終わってから、下手すれば2時間かけて家まで帰らなければならないですしね。でも、ここは松本。終電を気にする必要もなし。

じゃあ、行きますか?

ってことで、このあとは男3人でカラオケ大会。年齢的にフォークソングなんて選曲が多くなりますが(私はフォークソングより1世代あとですが)、これで湿っぽくなるかと思いきや大間違い。弾けましたなぁ~お互い。たまにはこういう飲み会旅行もいいもんだ、と思いながら熱唱しているうちに、松本の夜は更けてゆくのでした。


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富岡製糸場を後にして、いよいよ馬刺しが誘う松本へ。富岡市から国道254号を西進し、内山峠を越えて長野県の佐久へ入ります。ここから先、ナビは上信越道を長野方面へ北上して、そこから南下して松本へ行くのがいいんじゃない?と盛んに勧めてきますが、当初の予定では、佐久からそのまま西へ進み美ヶ原を経由して松本へ抜けようとしていたので、さてどうしたものか?
心で迷い、道にも迷い、ウロウロしていると、標識に「龍岡城」の文字が。

おお、龍岡城が近いのか!

これは行くしかあるまい。松本へのルートは改めて考えるとして、一路、龍岡城へ。


【3】9月9日(土)龍岡城

五稜郭といえば函館。ところが、長野県の片隅にもうひとつ五稜郭があることを、世間のみんなは知っているのかいないのか?
それが、龍岡城。
長野出身の私とW氏は、知ってはいるけど見たことはない。いつか見に行きたいぞ…と語り合っていた仲なので、千載一遇のチャンス!とばかりに心を躍らせたのでした(もうひとりの同行者M氏は、さほど興味なさそうでしたが…)。

【龍岡城1・大手門付近】


龍岡城の大手門付近の堀です。大手門の前には、であいの館(観光案内所)があるので、ここで城に関する知識を得てから向かうとよろしいかと(お茶をごちそうになりました)。
龍岡城の築城が始まったのは、幕末の1864(元治元)年。当時ここを治めていた田野口藩1万6000石の藩主・松平乗謨(まつだいら・のりかた)は、小大名、しかも20代という若さで若年寄、老中(格)、陸軍総裁を歴任した人物です。西洋の知識にも触れていたようなので、混迷を深める時代の中、旧来の城よりも、今後を見据えて西洋式を取り入れたということなのでしょうか。
そしてこの龍岡城が、歴史上「最後の築城」とされるそうです。ただ、ここには天守閣や櫓といった、一般的な城を連想させるものは造られず、藩主の住居も兼ねていた政務を執り行う御殿、藩士の小屋、番屋、火薬庫などが置かれたとのこと。田野口藩は城を持つ資格がない大名だったためだとか。
完成したのは1867(慶応3)年の4月。とは言いながら、実際には未完成の部分も多かったようです。

【龍岡城2・城内】


大手門から城内へ入ると、目の前に広がる景色は…何と、小学校の校庭。城内は現在、田口小学校の敷地となっています。平日の昼間に、もし観光客が押し寄せたら、どうなるのかな?(押し寄せるほど観光地化されていないようですが)
特に入場(入城?)規制については出ていませんでした…。

【龍岡城3・お台所】


城内の隅、というか校庭の隅に、御殿の一部「お台所」が残されています(校庭の写真の右奥の建物です)。この建物、明治になり城が取り壊された後、校舎として使用され、昭和になってから半解体復元工事が行われたとのこと。内部は事前予約すれば見学可能とのことですが、この日はもちろん見られませんでした。資料館のようになっているそうです。

【龍岡城4・大給恒(松平乗謨)像】


龍岡城を築城した松平乗謨は、明治になると大給恒(おぎゅう・ゆずる)と姓名を改め、元老院議官など明治政府で要職に就きました。また、メダル取調御用掛(後には賞勲局総裁に就任)として日本の勲章の導入に大いに貢献したそうですが、何といっても彼の功績として第一に挙げられるのは、日本赤十字社の創設に寄与したこと。殿様と赤十字社。何だかイメージに合わない気もするのですが、封建制度が終わり文明開化の時代、進む道は多岐に渡ったということなのでしょうか。

【龍岡城5・北側の堀】


城は廃藩置県とともに廃城となり、石垣を残して取り壊しとなりましたが、お台所をはじめ、転用、移築された建物もあったようです。
函館の五稜郭よりも規模はかなり小さいのですが(小学校の敷地ひとつ分+αといえばイメージが湧くかと)、それだけに、堀端を歩けば城の形を実感できるというメリットはあります。もちろん全景を確認するには高いところから見るしかないのですが…。
国史跡に指定されているとはいえ、もっと全国的に名が知れてもよいのでは?と思う、もうひとつの五稜郭なのでした。


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