歴史・音楽・過ぎゆく日常のこと
日日の幻燈




引越し先の八王子は、実はご先祖様と浅からぬ縁があることが判明しました。
今まで、母方の祖母のルーツで神丹波守という人物を探ってみよう!と何度か気勢をあげましたが(その割には何も行動しなかったのですが)、八王子に縁があるのは母方の祖父のルーツ。
簡単に言うと、母方の祖父のルーツをたどっていくと、大江広元という鎌倉時代の人物に行きつきます。この大江広元が八王子に住んでいたかもしれないらしい…とのこと。

ホント、偶然にわかったのです。

近所に八雲八幡神社という古い神社があります。初詣はここに行こうと思い、一応、由緒をネットで調べていたら、この神社は平安時代後期、横山党という武士団の本拠地だったとのこと。この横山党が神社の創建にも関わっていたようですが、鎌倉時代に没落しました。

へぇ~そうなんだ。

で、横山党が没落した後に八王子を領地にしたのが大江広元で…云々。
大江広元!?
え、ご先祖様!八王子にいたの?

もっと例えるなら、長い間連絡が取れなかった知人と偶然に駅で出会って、その人に
「オレ、今、この街に住んでるんだよね~」
「え、マジ?知らなかったよ、どこどこ?」
そんな感じ。


広元は、もともとは京都に住んでいた下級公家か学者みたいな人だったようですが、頼朝が鎌倉幕府を開いた際に招かれて政所の別当(長官)を務めました。そして領地として拝領したのが八王子。市内には、広元が住んでいた(かもしれない)館もだいたいこの辺かな~という、まことしやかな伝承の地もあるようです。
実際は、幕府の首脳として鎌倉に住んでいたのだと思いますが、去年、八王子に引っ越したのは、ご先祖様に呼ばれ時を越えてゆかりの地に回帰したのか!と思うと、不思議な因縁みたいなものを感じるのです。

これは、なんだか面白くなってきた。
今年は、気合を入れて八王子探検をしなければなるまい…と、気持ちをあらたにしたのでした。


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先回は、ご先祖様・神丹波守が

【1】津軽為信の家臣だったこと。
【2】石田三成の遺児・隼人正源吾を津軽信建の密命で匿った。

この2点が本に載っていたことを発見したというところまででした。
で、ご先祖様にゆかりのある人たちについて、簡単に調べてみました。


【津軽為信】
もともとは奥州南部氏の家臣だった大浦為信は、津軽において独立を志して南部氏と争いました。南部氏から見たら謀反人ということでしょうか。
その後、着実に勢力を拡大し、ついに秀吉から津軽の領主として認められ、南部氏から独立を果たします。1590年のことです。この時、苗字を大浦から津軽に変えたとか。
関ヶ原の戦いでは東軍・徳川家康に味方して、江戸幕府が成立すると弘前藩の初代藩主となりました。
尚、有名な弘前城は為信の子の2代藩主・信枚(のぶひら)の時代に建てられたそうです。


【津軽信建】
為信の嫡男。関ヶ原の戦いの際は父・為信とは別に西軍に属して大坂城にいたそうです。西軍の敗報に接し、三成の子・隼人正源吾を津軽へ脱出させたのは信建といわれています。
為信が東軍に属したため、戦後、とくに処罰されなかったようですが、家督を継ぐ前に為信に先立って亡くなりました。


【石田隼人正源吾】
三成の子。関ヶ原の戦いのとき大坂城にいましたが、西軍が敗れると北陸を海路津軽へ落ち延びたとのこと。津軽で匿ったのがご先祖様・神丹波守ということのようです…。
源吾は深味で若くして亡くなったようですが、その子・吉成は弘前藩の家老になり、子孫は弘前藩士として明治を迎えたそうです。


津軽為信と信建父子が関ヶ原で東西両軍に分かれたのは、真田父子を思い出させます。
津軽為信は石田三成に対し、南部家からの独立の際に何かと世話になったため、恩義を感じていたといわれています。秀吉への取り成し役が三成だったようです。そのため、源吾を津軽へ匿ったのだと。
石田隼人正源吾の津軽行きとご先祖様。う~ん、何か歴史のロマンを感じさせる話です。

嘘かまことか…。

いや、真実であってほしいです。そうすれば、ご先祖様の面目躍如といったところなんですけどね~。


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ご先祖様・神丹波守(じん・たんばのかみ)

子供の頃は無邪気に喜んでいただけですが、大人になって、じゃあ調べてみようと。
でも、なかなか「神丹波守」なる人物の記録に出会えない。
そもそも青森のほぼ無名の人物を東京で探すのに無理があったのか。でも、青森は遠くてそう簡単に足を運ぶわけにもいかないし…そこまでしようとも思わなかったけど。

で、本当は「神丹波守」なんて人物はいなかったのでは?あれは、祖母や母が歴史に興味を持ち始めた少年りすにゃを喜ばせるために作ったお話しだったのかな?
そんなことも思い始めていた矢先。

見つけました。

本にちょっとだけ出ていました。ほんとうにちょっとだけ。



●「歴史と旅臨時増刊 戦国大名家臣団総覧」
 秋田書店 1992年

その中の「津軽家臣抄伝」という項目にこう記されていました。

「桜田宇兵衛、梶仁右衛門、奈良岡豊後、小比内藤蔵、神丹波、阿保中務、相馬伊賀、八木橋左衛門四郎、新岡源次郎、同弥三郎兄弟、宮舘与五郎の面々は大浦十勇士と呼ばれる。為信決起の初めから側近にあって働き、みな身命をかえりみず、いずれも為信の危機に身を挺して敵をしりぞけている。」

※為信…弘前藩初代藩主・津軽為信のこと。



●「歴史群像NO.13」
 学研 1994年

「石田三成の子孫は生きていた」という小特集が載っています。
三成の子・隼人正源吾が、関ヶ原の戦いの後に密かに津軽に逃れた。子孫は津軽家の重臣として存続し現在に続いている…といった内容なのですが、その隼人正源吾が津軽へ来た経緯に関してこうありました。

「9月15日、三成敗報を聞くや敦賀港を出港。(中略)信建の本城・堀越城に入ったのである。
時を待たず、源吾は深味の地に移った。深味には、信建の密命を受けた神丹波がいた。丹波は津軽氏生え抜きの功臣であり、この辺り一帯の知行を得ていた。」

※信建…津軽為信の子。



以上、2冊。
たったこれだけでも、それはそれは嬉しかったのを覚えています。
とくに、石田三成の子・隼人正源吾とご先祖様の関係については、三成ファン(でも、あんまり知識は持っていない)の私にとっては、なにか不思議な因縁めいたものを感じさせたのでした。

では、ここに登場するご先祖様に関係の深い人物はどういう人たちなのか…。
それを次に調べてみたのですが、それはまたの機会に。


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今年、ご先祖様を探してみようかな…と。
なんでか知らないけど、ここのところ、そんな気分が沸々と。
私もご先祖様に感謝する年齢になってきたということ?

まぁ、それはさておいて。

私のご先祖様。
ここで言うご先祖様とは母方の母方の家系。
なぜ母方の母方か?といえば、小さなころからご先祖様について祖母や母から聞かされていたから。

よく、
「あんたのご先祖様は…」
って。
でも、これといった逸話があるわけでもなく、ただ単に
「あんたのご先祖様は武士だった。世が世なら…」
「だから、あんたもしっかりしなさい!」
そんな感じ。

母も、今は亡き祖母もすでに記憶が曖昧だった。
それでもふたりから聞いたことを箇条書きにすると、だいたいこんな感じ。


【1】名前は神丹波守(じん・たんばのかみ)という。
【2】津軽氏に仕え、弘前藩家老だった。
【3】江戸時代の家禄を記した証書が残っていた(祖母が見た)。
   →そこには驚きの2万石(!?)と記されていた。
【4】明治になると、家はとても窮乏した。
【5】津軽家関係者の集まりがあった際、旧藩主のすぐ近くに席が設けられた。祖母の母だか祖母はそれをとても喜んでいた。


さあ、どうだ?

これが私が小さなころから聞かされてきたご先祖様の情報。
なんか、もっといろいろと聞いた気がするけど、こうやってまとめてみると案外情報量は少ないぞ。
神丹波守…ご先祖様って偉い人だったんだ…って、歴史に興味を持ち始めていた子供のりすにゃは大喜びでした。
2万石なんてのは、今になって考えると子供に対するリップサービスみたいなものだったと思うけど(それにしても2万石は言い過ぎでは…?)、疑うことを知らない純真な少年は、へぇ~ご先祖様ってすげぇ~と思ったわけですね。

その後、これをもとに私も独自に調べてはみたんです。
随分前の話だけど。
調べたっていっても、本屋で青森県の歴史や津軽為信関係の本を探してみたり、大学の図書館でパラパラ…と資料を漁ってみた程度だけど。
そしたら、津軽藩家老に神丹波守なんて人物は見当たらない。本当にそんなご先祖様、いたのかな?…と。
でも、ちょっとだけプラスの情報も出てきたんですね。
そのあたりは、次回にでも。

さあ、どこまでご先祖様に近づけるんだろう?
そう言えば、青森県には一度も行ったことがない。
ご先祖様を探す以上、やっぱり行ってみたい!と、今さらながら血が騒ぐのでした。

でも、東京から青森の弘前ってどうやって行くのがいいんだろう?


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