日日の幻燈

歴史・音楽・過ぎゆく日常のこと

【note】甲州街道・日野宿から八王子宿まで歩いてみた(5)-八王子宿へ到着!-

2016-06-28 | 旧甲州街道を往く

早く宿場へたどり着いて美味しいビールが飲みたい!という、今も昔も変わらぬ想いを抱きながら、高倉稲荷神社を後にして、いよいよ八王子宿へラストスパートです。


【八王子市・大和田町付近の甲州街道】


高倉稲荷神社を過ぎると、街道は国道20号線と合流します。
道はその辺りから下り坂。日野台から降りて行くってことですね。付近のバス停も「大和田坂上」「大和田坂下」と、そのままのネーミングだったりします。

【日枝神社・鳥居】


この辺りは、江戸時代の大和田村の東端にあたります。ここの日枝神社は「山王さま」と呼ばれて大和田村の人々に崇敬された云々…と、鳥居前の案内板にありました。

【日枝神社・参道】


鳥居から急な石段を上ります。けっこう疲れてきている身には辛いのですが、これも美味しいビールのため…などと罰当たりなことは、もちろん考えてはいません。あくまで信心、信心。

【日枝神社・社殿】


石段を上りきると、小ざっぱりした境内に出ます。
創建年代はわからないようですが、3代将軍家光から社領に関する朱印状をもらっているとのことですから、それなりに由緒ある神社ですね。現在の社殿は1975(昭和50)年に造られたそうです。

【大和田町四丁目交差点】


日枝神社を出てすぐの交差点。
街道は国道20号線沿いに真っ直ぐ進みます。その上を国道16号線が通ります。
ここで車道の左側に渡っておきましょう。すぐに20号線から細い道に入ります。

【旧道】


大和田町四丁目の交差点を進み、いったん20号線と分かれて左手の細い道へ入ります。
まさに旧道といった趣。なんだかホッとした感じになります。

【古い石仏】


道端に古い石仏たちが集められていました。多分、再開発などで行き場がなくなった仏様たちなのでしょう。

【大和田橋】


旧道を数百メートル進むと、浅川に架かる大和田橋に出ます。ここでまた国道20号線に合流します。
浅川は、夏は徒歩で渡り、冬は仮設の板橋を設けて渡ったそうです。きちんと橋ができたのは1905(明治35)年で木の橋でした。コンクリート橋になったのは1927(昭和2)年です。
大和田橋には空襲時の弾痕跡が残されています。
詳しくはこちらを → 大和田橋に残る八王子空襲の痕跡

【浅川を渡河中】


そして浅川を越えると、いよいよ八王子宿に入ります。江戸時代、今の季節だったら歩いて渡ったのですね。この日は暑かったので、川の水、気持ちよかったかもね。

【竹の鼻一里塚跡】


浅川を越えると、再び国道20号線と分かれて川沿いの道を進み、さらにその道から左手へ折れます。
しばらく行くと、江戸から11里目の竹の鼻の一里塚跡。立派な碑が建っています。この辺り一帯は、江戸時代には竹の鼻と呼ばれ、まさに八王子宿の東の入口にあたります。
一里塚の痕跡は残っていませんが、江戸時代には塚の上にお稲荷さんの祠があったそうです。
今は竹の花公園(鼻ではなく花です)となっています。けっこう子供たちが遊んでいて、ママさんが木陰になったベンチで読書していたのが印象的でした。

【永福稲荷神社】


一里塚のすぐ脇にある神社で、この辺り(新町)の鎮守でした。
1756(宝暦6)年に、八王子出身の力士・八光山権五郎によって勧請されたそうです。
9月の第一土曜日には「しょうが祭り」が行われ、縁起物としてしょうがか売られるそうです。今年は行ってみようかな。

【永福稲荷神社・八光山権五郎像】


神社の境内に八光山権五郎の像が建っています。
像の脇の案内板によると、彼は身長191センチ、体重は不明。絹問屋の跡取りで、商売をしながら江戸や大坂など各地で相撲をとったそうです。相撲が開かれる場所へ旅立つ際には、永福稲荷神社に参拝して旅の安全と必勝を祈願し、八王子に戻ると勧進相撲を奉納したとのこと。
歌舞伎役者とか力士とか、当時はヒーローだったのでしょうね。八光山権五郎も、八王子宿の期待を背に相撲をとり続けたことでしょう。


【市守大鳥神社】


八王子の宿場が開かれたのに合わせて、市の守護として建てられたのが市守神社。1590年代のことです。
その後、江戸時代の中期に天日鷲命が合わせて祀られ、市守大鳥神社となりました。
11月の酉の市は、ものすごい人出で賑わいます。
詳しくはこちらを → 市守大鳥神社

【市守大鳥神社・社殿】


さて、今回の旅は八王子宿のどこをゴールにしようか、決めていませんでした。
宿場の入口、竹の鼻の一里塚?
八日市宿のモニュメント?
で、結局、八王子駅に近い(=飲み屋街に近い)という暗黙の了解と無言の圧力により、ここがゴール地点となりました。
日野宿を歩き出したのが13時ころ、市守大鳥神社到着が16時30分。とにかく暑かったこの日、なんとか歩き切りました。

さ、この後はお待ちかねの冷たいビールと日本酒で、旅の疲れを癒しに行こう!
今日は飲むぞ!!!!
何たって八王子市民の私、どんなに深酒しても歩いて帰れるので、いつもに増して超強気なのでした。


そんなわけで、八王子宿へも無事にたどり着きました。
次回は八王子宿の先、険阻な道に挑むことになりますが、たぶん、涼しくなってからだなぁ~というのが、夜の反省会での一致した意見でした。

また相見える日まで、鋭気を養い給え、旅の仲間たちよ!


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【note】甲州街道・日野宿から八王子宿まで歩いてみた(4)-日野台から八王子市高倉町へ-

2016-06-26 | 旧甲州街道を往く

日野宿を出た私たち、旅の仲間一行はまずは日野台へと続く長い坂道を登ってゆきます。

【大坂上通り(日野駅北側)】


日野宿の西のはずれにある坂下地蔵(西の地蔵)から先、旧来の街道は線路で分断されて渡れませんので、一旦戻ってJR中央線の高架をくぐり線路の反対側(北側)へ出ます。
そこから日野駅のホームに沿って、大坂上通りを歩いていきます。
写真の左側がちょど日野駅のホームになります。かつての街道は踏切で線路を渡り、途中でこの大坂上通りに合流していました。

【大坂上通り・中央自動車道下】


けっこう勾配のある坂道が続いていきます。
正面の高架が中央自動車道。その下をくぐり、今年一番の暑さの中、坂道を上ります。
長閑な雰囲気ですけどね…暑さに坂道はちょっとキツイ。

【日野台】


坂道を上りきってしばらく歩くと、都道256号線に再び合流します。長閑な雰囲気から一転、交通量は激増です。
この辺りは多摩川の河岸段丘上で、日野台(古くは日野台地)と呼ばれています。河岸段丘をえっちらおっちら、上ってきたわけですね。

【上人塚(日野自動車敷地内)】


都道256号に合流してすぐ、街道沿いに日野自動車の広大な敷地が広がっています。
この日野自動車の敷地内に、上人塚と呼ばれる塚があります。普段は見ることはできませんが、年に1回、東京都文化財ウィークに合わせてのイベントで公開されるのだとか。
で、上人塚。
実は私、もうずいぶん前になりますが、見たことがあります。盛り土がされた小さな古墳?みたいなイメージでした。
日野用水を開削した佐藤隼人を称えて造られたとも、この地が荒れ地だったころ、狐が上人に化けて人をたぶらかしたことに由来するとも言われています。
古い本には、烽火台かもしれないとも記されていました。そもそも日野という地名は、烽火台があった土地を意味する飛火野からきているといわれています。河岸段丘上のこの辺りだったら、烽火台を築くには絶好のロケーションだったのでしょうね。

【日野台の一里塚】


江戸から10里目の一里塚。日野自動車のフェンスに説明文が掛かっていますが、それ以外には何もなし。昭和30、40年代までは塚の痕跡が残っていたようですが、今は住宅地に変わってしまっています。もう少し西へ進むと一里塚公園があるようですが、今回はパス。
8里目の本宿、9里目の万願寺と、ふたつ一里塚を見ていないので、お久しぶり~って感じです。

【日野市から八王子市へ】


日野台の一里塚を過ぎてしばらくすると、いよいよ八王子市。でも宿場まではまだまだ距離があります。

【八王子市高倉町付近の甲州街道】


かつてこの辺りは高倉野とか高倉原と呼ばれ、それこそ草茫々の地だったそうです。狐が上人に化け、狸がポンポコリンを踊るだけならまだしも、追剥や野党が跋扈する魑魅魍魎、物騒な場所だったとか。
江戸時代中期(享保年間ころ)に新田開発が行われ、集落ができました。粟須新田(八王子の粟之須村からの移住)と日野本郷新田(日野からの移住)です。その後、街道沿いに茶屋なども出来て、休憩する旅人もあったようです。
粟須新田は戸数21、日野本郷新田は戸数7。多いのか少ないのか、どうでしょうか?

【お屋敷】


街道沿いに立派な門の家がけっこうあります。
高倉野にできた新田の名主さんのお屋敷かな?なんて想像しながら歩くのも楽しいものです。

【高倉稲荷神社】


1718(享保3)年に建てられた高倉新田の鎮守様とのこと。それ以上の情報はネットで調べてもヒットしませんでした。
高倉新田、先ほどの高倉野にできた粟須新田と日野本郷新田の総称のことでしょうね。まさにふたつの新田が開発されたのとぴったり一致する創建年代です。

【高倉稲荷神社・社殿】


境内はシーンと静まり返っていました。木々が木陰を作っていて、まさに村の鎮守様って雰囲気です。

【火の見櫓】


高倉稲荷神社の横に、今はあまり見なくなった火の見櫓が建っています。
子供の頃、どこにでも普通に火の見櫓ってあった気がしますが、もう最近はそんなもの使わないのでしょうね。いつの日か、火の見櫓を文化財に指定にしよう!なんて動きも出てくるのかな?


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【note】甲州街道・日野宿から八王子宿まで歩いてみた(3)-日野宿を往く-

2016-06-25 | 旧甲州街道を往く

本陣を先に紹介しましたが、日野宿全体を歩いてみましょう。以前の記事とかぶるところもありますが、ご容赦のほどを。

日野宿は大久保長安によって開かれたと言われます。「甲州道中宿村大概帳」によると
・本陣…1軒
・脇本陣…1軒
・旅籠屋…20軒
・問屋場…1ヶ所
・宿場の家数…423軒
・宿場の人口…1556人

1839(天保10)年の「諸渡世議定連名帳」には、質屋7軒、居酒屋12軒、食物屋20軒などが記録されているそうです。ただ、飯盛旅籠はなかったようで、遊興の地的な繁華街は形成されなかったとのこと。
また、日野の渡しの管理も任されていました。


【東の地蔵】


江戸から歩いてくると、この辺りが日野宿の東端にあたります。そこに建てられたから「東の地蔵」。福地蔵とも呼ばれています。宿場の安泰と旅人の無事を祈って1809(享和9)年に建てられました。


【本陣】


宿場の中ほど、名主を勤めた佐藤家の屋敷が本陣として公開されています。
詳しくはこちらを → 日野宿本陣


【問屋場・高札場跡】


街道をはさんで本陣の反対側に問屋場跡と高札場跡の碑が建っています。

【本陣・問屋場・高札場前の街道】


この辺りが、かつて宿場の中心地でした。今は交通量は多めですが、高層ビルなどもなく、のんびりとした雰囲気です。


【八坂神社】


日野宿の中心から日野駅へ向かって歩いていく途中に八坂神社があります。
言い伝えによると、多摩川の洪水のあと、金色に輝く牛頭天王の像が拾い上げられ祀られたのが起源だとか。五穀豊穣、厄病除け、子孫繁栄に「霊験無双」の神なり、と鳥居脇の案内板には記されていました。
新選組ファンには、天然理心流の奉納額でお馴染みでしょうか。本陣に開かれた佐藤道場で学ぶ門人たちが奉納した額で、近藤勇、沖田総司の署名がされているそうですが、公開は年に1回だけのようです。


【宝泉寺】


鎌倉時代末期の創建で臨済宗のお寺です。
山門は1853(嘉永6)年に建てられました。

【宝泉寺・本堂】


本堂は平成になって建て替えられたもの。

【宝泉寺・井上源三郎顕彰碑】


井上源三郎は日野市出身で新選組六番隊組長。鳥羽伏見の戦いで戦死しました。すぐそばにお墓もあります。
新選組ファンでなければ、井上源三郎って誰?って話。
私も大河ドラマの「新選組!」を見て、初めて知った人物でした。ドラマでは人の良さそうなおじさんキャラでしたが、実際のところ、剣術は免許皆伝の腕前だったとか。新撰組で組長を勤めるほどですからね、このくらいはやっぱり当然なのかと。


【飯綱権現社・鳥居】


宝泉寺を出ると、JR中央線沿いに街道は上り坂になっています。
そしてほどなく飯綱権現社。地元では「いづなさま」と呼ばれているそうです。鳥居をくぐって、石段を上ると小さな祠があります。

【飯綱権現社・祠と煉瓦】


祠の土台、煉瓦で作られています。神社にはちょっと見慣れない感じ。
明治時代、日野では甲武鉄道(現在の中央線)の工事のため煉瓦を生産しました。その数、50万個。鉄橋などの土台として使われたそうで、今でも多摩川を渡る鉄橋に見ることができます。
そして、この祠の土台もこの時に作られた煉瓦と考えられています。飯綱権現社は、鉄道の開通のために今の場所に遷りました。1889(明治22)年、工事に着手したと記録が残っているそうです。


【坂下地蔵堂・街道沿いのお地蔵様】


飯綱権現社の西隣です。坂下地蔵堂の前、街道沿いに1737(元文2)年に建てられたものも含めて、大小のお地蔵様が並んでいます。

【坂下地蔵堂】


坂下地蔵堂は1713(正徳3)年に、江戸小舟町の井田八左衛門によって建てられました。小舟町といえば江戸のど真ん中、日本橋あたり。江戸の人なのに、わざわざ遠い日野に建てたのですね。日野と縁のあった人物なのでしょうか?説明文には日野、八王子はじめ多摩一帯の人たちの合力で建てられたとあります。
ここが日野宿の西端にあたることから、西の地蔵と呼ばれました。
お堂の中に、本尊の延命地蔵尊が祀られています。


本来は、この坂下地蔵堂から中央線を横切るルートが旧街道のようですが、今は閉鎖されて渡ることができません。
なので、せっかく上ってきた道をいったん戻って、線路の高架の下をくぐり駅の反対側に出ます。
そこからまた坂道を上り、日野台と呼ばれる台地、そしてその先の八王子へと向かいます。

日野宿、お地蔵様に始まりお地蔵様に終わる…そんな感じでした。
では、次回、日野宿を後にして八王子へと歩いていきましょう。


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【note】甲州街道・日野宿から八王子宿まで歩いてみた(2)-日野宿本陣-

2016-06-20 | 旧甲州街道を往く

高幡不動をお参りした私たちは、バスで日野駅まで移動しました。この日は今年一番の暑さ。とても高幡不動から日野まで歩く気力も体力もありません。もっとも天気に関係なく、はなからバス移動のつもりでしたが…。

日野宿、何と言っても見どころは日野宿本陣。
都内で本陣の建造物が残っているのは、ここ、日野宿だけ。

【日野宿本陣・表門】


日野宿には本陣と脇本陣が1軒ずつあって、東西に隣り合って建っていました。本陣、脇本陣ともに佐藤家。交代で日野宿の名主を勤めた家柄です。人々は本陣のほうを上佐藤家、脇本陣のほうを下佐藤家と呼んだそうです。当時は2軒の間に塀などは存在せず、自由に行き来できたとか。同じ敷地内に建っていたような感じですね。
で、本陣建築が残っているのは下佐藤家です。

【日野宿本陣・主屋】


表門を入るとすぐ主屋。現在の本陣の建物は、1864(元治元)年に再建されたもの。
内部を観覧できますが、正面の玄関からは入れません。左手にまわって土間から上がります。ここに受付があって入場料は200円。
ボランティアのガイドさんが室内を丁寧に説明してくれました。ただぐるっと見るよりは、本陣にまつわるいろいろなエピソードが聞けるので、おススメです。いつも待機しているのかはわかりませんが…。

【日野本陣・屋内】


灯りがともっている部屋は玄関の間。玄関から上がってすぐの部屋になります。写真の右側が玄関になります。玄関から上がれるのは、参勤交代の大名や幕府公認の役人など、身分の高い人たちに限られたようです。

ちなみにこの玄関の間、佐藤家と親戚関係の土方歳三が、少年の頃よく遊びに来て、ここで昼寝していたそうです。別名「土方歳三昼寝の間」といったところ。
また、いちばん奥に見える部屋には、函館で戦死した歳三の遺品(写真と刀)を持ち帰った市村鉄之助が匿われていたそうです。
ガイドさんからの説明がなかったら、そんなエピソードを知りもせずに、ぐるっとまわっておしまい…だったことでしょう。やっぱり直接話を聞くと面白い!

【本陣・床の間の透かし彫り】


床の間の壁にはめ込まれている透かし彫りは、天気が良い日には写真の通り、あざやかな六角形が浮かび上がります。天気が悪いと見られないのだとか。ラッキー!
うす暗い部屋に、なんとも幻想的な日本の美です。

【天然理心流佐藤道場跡】


表門の脇に、佐藤道場跡の碑が建っています。新選組でお馴染みの天然理心流は、日野を含む多摩の地で広まり、幕末の佐藤家当主で名主を勤めた彦五郎は、自らも剣術を習い屋敷内に道場を建てました。日野近辺は追剥や強盗など、けっこう物騒な土地だったようで、自衛のためでもあったようです。
そしてこの道場に、近藤勇、土方歳三、沖田総司ら新選組の面々が稽古に来ていたのだとか。新選組出会いの地でもあるわけですね。

【疑惑の(?)入場券】


さて、約30分のガイドさんの説明を聞き終えて、本陣を後にしましたが、ここでちょっと気になることが。
ネットで調べても、みんなここが「日野宿本陣」といい、表門にも「日野宿本陣」となっています。が、入場券には「日野宿脇本陣」。
ここは本陣なの?脇本陣なの?

ガイドブックには、もともと脇本陣だったが幕末に本陣になった、とあります。で、受付でもらったパンフレットをよくよく見ると、片隅にこんな説明が。

「日野市教育員会では、都内唯一の本陣建築であることから、市指定有形文化財「日野宿本陣」として指定しておりますが、東京都教育委員会では、長期間脇本陣として営業していたことから、東京都指定史跡「日野宿脇本陣」として指定しております」

日野市と東京都で見解が違うわけか…。
でも、幕末の短期間でも本陣であったのなら(現地の案内板には「幕末には本陣を称している」という微妙な言い回しでしたが)、本陣を名乗ってもいいんじゃない?建物だって残っているんだからね。
なんだか混乱してしまうから、統一した方がいいと思うのでした。


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【note】甲州街道・日野宿から八王子宿まで歩いてみた(1)-まずは高幡不動尊へ-

2016-06-19 | 旧甲州街道を往く

先月、旅の仲間たちと甲州街道を府中宿から日野宿まで歩きましたが、本格的な夏の暑さが来る前に、日野宿から八王子宿を目指そう!ということで、6月18日、歩いてきました。
日野宿から歩く前に、ここまで来たら、ちょっとルートから外れるものの、高幡不動をお参りしないわけにはいかないだろうということで、集合場所は京王線の高幡不動駅。

私にとっては初めての高幡不動です。

高幡不動尊(正式には高幡山明王院金剛寺)は関東三不動のひとつに数えられます。平安時代初期の創建で、江戸時代には36もの末寺を持つ大寺院だったそうです。「江戸名所図会」によると、創建は奈良時代以前で、弘法大師や慈覚大師による再興があったとか。いずれにしても、関東屈指の名刹ですね。
本尊の不動明王坐像(重要文化財)は平安時代の作です。

【参道入り口】


11時に高幡不動駅に集合。すぐに駅前ロータリーから続く参道へ向かいます。

【参道】


参道はお土産店が軒を連ねているというより、普通の飲食店街って感じでした。お蕎麦屋さんが多かったですが、蕎麦と高幡不動、何か関係があるのでしょうか?ま、寺院の参道わきにはお蕎麦屋さんがどこでも多い気もしますので、とくに名物ってわけではないのかも。

【仁王門と五重塔】


参道は歩いて5分程度でしょうか、信号の向こうに仁王門。

【仁王門】


仁王門は室町時代の建立で国の重要文化財です。
この仁王門をくぐり、境内へ出ます。

【不動堂と五重塔】


仁王門をくぐると境内。正面には不動堂。こちらも重要文化財。1342(康永元)年にそれまで山中にあったものを、この地に移築したそうです。

【五重塔】


高幡不動というと、私が真っ先にイメージするのがこの五重塔。近くを通ると目立ちますから。
建立は比較的新しく、1980(昭和55)年。ずっと昔からあったというわけではないんですね。

【新選組記念碑】


この辺り、新選組とは切っても切れない縁の土地柄。このモニュメントは近藤勇・土方歳三の顕彰碑で、1888(明治21)年に建立されました。
篆額は旧会津藩主・松平容保、書は元幕府典医頭の松本順。容保も順も、新選組とともに戦火を潜り抜けた仲ですね。
明治当初、賊軍とされた幕府方の戦死者は、追悼・慰霊が許されなかったそうです。明治政府から公式に許可が出たのは1874(明治7)年のこと。多摩の人々は、ようやく…という思いだったでしょう。

【土方歳三像】


土方歳三はこの辺りの生まれで、家は高幡不動の檀家頭の格式だったそうです。

【境内のあじさい1】


ちょうど、あじさいまつりが開催されていました。
見事なあじさいが境内を彩っています。今がちょうど見ごろでしょうか。

【境内のあじさい2】


それにしても境内は広すぎる!
いろいろと見どころを巡っていたら、半日くらい、すぐ過ぎてしまいそうです。これから日野宿へ移動して八王子まで歩く我々としては、そんなに時間がとれないので、名残惜しくもお寺を後にしたのでした。


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