歴史・音楽・過ぎゆく日常のこと
日日の幻燈






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八王子市の禅東院の縁日・とうがらし地蔵大祭に行ってきました。

禅東院は曹洞宗の寺院で、そもそもは禅東庵という小庵でした。寺院になったのは江戸時代初期(慶長年間)の頃のようです。八王子十五宿のうち、本宿にありました。
明治以降、火災や戦災で被害を受けながらも、今では立派な本堂が建っています。また、小さいながらもきれいに整えられた庭園は一見の価値ありです。



そして禅東院といえばとうがらし地蔵。
寛文11(1671)年に建立された地蔵で、当時、この地には唐辛子が多く栽培され、地蔵へのお供えも唐辛子だったそうです。また、内藤新宿の内藤とうがらしはここ、八王子の唐辛子が起源とも言われ、内藤新宿へ唐辛子を商って繁盛し、お礼に人々は、地蔵に唐辛子をお供えしたとか。
そんなことから、いつからか禅東院のとうがらし地蔵と呼ばれるようになったそうです(境内の「唐辛子地蔵尊起縁」より)。



境内では唐辛子を販売していました。
辛さや山椒の有無などを指定すると、その場で調合してくれます。もちろん、八王子で採れた唐辛子です。辛いもの好きな私としては黙ってられない。
マイ唐辛子をお買い上げ!



こちらも、いかにも「唐辛子!」的な色合い。

訪れたとき、ちょうど三味線の演奏会が行われていました。この後、落語が続いたようですが今回は断念。

戦中・戦後と長らく行われていなかった縁日ですが、平成15(2003)年から、地元の商店街と協力して再び復活させたそうです。
小さな縁日でしたが、外国人も着物姿で来ていたり、それなりの賑わいでした。毎年10月の最終日曜日の開催とのこと。来年もまた来てみよう。


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寄り道から街道へ復帰して、西へ進みます。

【旧八幡宿辺り1】


八王子十五宿のうち、八日市宿の西側には八幡宿。写真は八幡町の交差点付近です。
八幡宿は、十五宿のうち横山宿、八日市宿に次ぐ地位にあったそうですが、あくまで加宿。本宿の横山宿、八日市宿に対して対抗心を燃やしていたらしいです。

【八王子織物工業組合】


八王子は「桑都(そうと)」とも称されるとおり、昔から養蚕や織物が盛んでした。江戸時代、付近の農民は副業として織物を市に出していましたが、のちには江戸や京、大坂の商人とその仲買人によって問屋制家内工業が組織され、八王子宿は織物の集積地としても繁栄しました。
明治32(1899)年に設立された八王子織物同業組合が、現在の八王子織物工業組合の前身だそうです。
現在は「多摩織」として経済産業省より伝統工芸品に認定されています。ちょっと高いけど、ネクタイが欲しいなぁ…。

【旧八幡宿辺り2】


八王子の市街地から少し離れたこの辺りは、趣ある建物が散見されます。こちらは頑丈そうな蔵造り。

【本郷横丁交差点】


街道は直進。右折して北へ向かうと、十五宿のうちの本郷宿。写真は撮り忘れたので、後日、こっそりと。

【旧八木宿辺り1】


八幡宿の西隣は八木宿。北条氏照の家臣だった八木源左衛門という人物が、八王子城落城後、この地に住居を構えたことが地名の起源だとか。江戸時代の後半には、その子孫がどうなったかはわからない…と記されています。虎は死して皮を残し、八木氏は滅して地名を残す…そんなところでしょうか。

【旧八木宿辺り2】


こんにゃく屋さんです。ここも趣のある素敵な建物です。

【追分(旧久保宿)】


市守大鳥神社から出発して、街道は一直線に西へ続いてきましたが、ここ追分(十五宿のうち、久保宿)で分岐し南西方面へと向かいます。この追分町の交差点を左折すると甲州街道、直進すると陣馬街道(案下道)です。

【追分道標】


追分町の交差点の交番前に、文化8(1811)年に建てられた道標。
「左甲州道中高尾山道」
「右あんげ道」
あんげ道(案下道)とは現在の陣馬街道のことで、川を渡り峠を越えて、相模の津久井方面へと続いていました。
空襲により4つに折れてしまいましたが、近年再建されました。2段目と4段目が当時のものだそうです。

【八王子千人同心屋敷跡記念碑】


追分の交差点を陣馬街道へ進むとすぐのところにあります。
この辺りに、八王子千人同心たちの拝領屋敷が連なっていたといわれます。彼らはもともと武田家の家臣で、主家滅亡後、家康に召し抱えられ八王子の守りにつきました。普段は農業を営んでいて有事の際には武士としてその任に当たったというのは、坂本竜馬で有名な土佐藩の郷士のような感じだったのでしょうか。
戦乱が収まり平和な世の中になると、主な任務は「日光火の番(日光東照宮の警護)」となったそうです。また、幕末には蝦夷地の開拓も任されたそうですが、これは悲惨な結果に終わったとのこと。
これが縁で、八王子市は日光市、苫小牧市と姉妹都市となっています。

【千人町辺り】


今もこの辺り(JR西八王子駅の北側)は千人町という地名です。バス停だってこの通り。

【JR西八王子駅】


現在の甲州街道と一旦別れて、旧街道はJR寄りの細道に入ります。西八王子駅前を通って西へ。

【JR西八王子駅を過ぎた辺り】


駅周辺は店舗で賑わっていますが、ちょっと往くと、静かな通りになります。

【お昼の休憩】


八王子を出発した当初から、同行者のひとりが、蕎麦を食べたい!と言い続けていました。なので、蕎麦屋を探しながら歩いてきたのですが、なかなか見つかりませんでした。
蕎麦屋なんてどこにでもありそうなものなのに。さすが八王子、蕎麦よりやっぱりラーメンなのか?
で、ようやく西八王子駅を過ぎて蕎麦屋を発見。我々のような一見さんが入っていいのかな?的な店構えでしたが、とても美味しかったです。
ランチメニューは蕎麦と小どんぶりで1300円。ご馳走さまでした。

時間はちょど午後の2時。
腹ごしらえも終わったところで、いざ、八王子宿から高尾・駒木野宿方面へと歩を進めましょう!


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八日市宿を進み、西に連なる八幡宿に入ったところで、ちょっと寄り道。街道を左折して、八幡宿の南側、かつての小門(おかど)宿へと向かいます。小門宿は八王子十五宿の中でも加宿とされた小さな集落だったようですが、かつては、ここに八王子宿の基礎を築いた大久保長安の陣屋がありました。


【産千代稲荷神社(大久保長安陣屋跡)】


産千代稲荷神社が、かつての大久保長安の陣屋跡です。
長安は、もともと猿楽師の出身で甲斐武田家に仕え、武田家滅亡後、家康に召し抱えられました。武人というよりは行政官として頭角をあらわし、佐渡金山や石見銀山の経営にも手腕を発揮しました。
家康は、長安の実力を高く評価して八王子の再興を任せたのでしょうね。何しろ、江戸の西の固めとなる地なのですから。

【産千代稲荷神社・社殿】


江戸時代に書かれた「武蔵名勝図会」にも記載があります。
この書物が書かれた頃(文政年間=1820年頃)には、
「陣屋跡はかつて西南三方に土手があって、井戸もあったけれど、近年、切り崩して西の隅の土手の上に稲荷の小さな祠があるのみ」
という状況だったようです。
この稲荷の祠が産千代稲荷神社なのでしょうね。

【陣屋の井戸】


社務所の傍らに残る井戸。「武蔵名勝図会」に、かつて井戸もあった…と記されている、まさにその井戸でしょうか?見落とし注意です。

こちらも参考までに→ 産千代稲荷神社と大久保長安


【信松院】


産千代稲荷神社から、さらに南へ10分ほど歩きます。十五宿のうちの上野原宿の西端、目指す信松院は異国情緒漂う本堂が目を引く曹洞宗の寺院です。
開基は武田信玄の娘・松姫。織田信長の嫡男・信忠と婚約を結びながら、結局は嫁ぐことなく武田家は滅亡。甲斐から八王子へ逃れ、この地に隠棲しました。

【信松院・本堂】


立派な本堂です。青瓦と壁の白、ところどころの金箔(?)のコントラストがいい感じです。境内では庭木の手入れ中でした。市守大鳥神社、そして信松院、寺社にとってこの時期は、庭の手入れの季節なのでしょうかね?

【信松院・松姫墓所】


本堂の裏手に松姫の墓所があります。
武田家の遺臣からなる八王子千人同心の心のよりどころでもあったと言われる松姫。後々まで慕われたようで、没後100年たった延享5(1748)年に、墓所を囲む玉垣が、千人同心たちによって寄進されています。

【松姫マッピー】


そして現代。
八王子のゆるキャラとしてよみがえった松姫。特技は「みんなを笑顔にする魔法」だそうです。残念ながら、まだお目にかかったことがありません。それは私が御目見(おめみえ)以下の身分だからかな…。
ちなみにマッピーは、信松院とは直接には関係ありません。八王子商工会議所が生みの親のようです。


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夏を避けて休止中だった甲州街道を歩く旅、いよいよ再開です。前回は八王子宿に入ったところまででした。

前回はこちら↓
【note】甲州街道・日野宿から八王子宿まで歩いてみた(5)-八王子宿へ到着!-

【note】甲州街道・日野宿から八王子宿まで歩いてみた(5)-八王子宿へ到着!-

早く宿場へたどり着いて美味しいビールが飲みたい!という、今も昔も変わらぬ想いを抱きながら、高倉稲荷神社を後にして、いよいよ八王子宿へラストスパートです。【八王子...

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まずは八王子宿の概略を。
今の八王子市街地の原型となった八王子宿は、秀吉の小田原攻めで北条氏照が守る八王子城が落城後に出来た宿場町です。町づくりには、佐渡金山で有名な大久保長安が深く関わっていました。
八王子宿はひとつの宿場というよりも、街道沿いの15の宿(村落)が集合して宿場町を形成していました。そのため、八王子十五宿とか、中心だった横山宿の名を冠して横山十五宿とも呼ばれます。
「宿の往還およそ一里。残らず町並」と言われるほどで、内藤新宿と並んで甲州街道で1,2を争う規模の宿場町でした。

「甲州道中宿村大概帳」の記録によると
・本陣…2軒
・脇本陣…3軒
・旅籠屋…34軒
・問屋場…2ヶ所
・宿場の家数…1548軒
・宿場の人口…6026人

それでは、八王子宿を巡りながら、西へ向かいましょう!


【市守大鳥神社】


午前11時。
前回の終着地点、市守大鳥神社からスタートです。来月は酉の市で賑わう神社も、この日はひっそりとしていました。職人さんが境内の樹木の手入れ(?)をしていましたが、それも酉の市に向けての準備だったのかもしれません。


【市守大鳥神社前の甲州街道】


真っ直ぐ西(写真だと奥の方向)へ甲州街道が延びています。この交差点を左折するとJR八王子駅です。この辺りに、かつて宿場の東の木戸があったようです。


【本陣跡】


八王子十五宿の中でも最大の規模を誇る横山宿の中心辺り。八王子横山町郵便局が、かつての本陣跡といわれています。


【高札場跡】


横山宿と、西側に続く八日市宿の境界がこの八日町交差点。札の辻とも呼ばれ、江戸時代には高札場があったそうです。
西へは街道が延び、八日市宿、八幡宿、八木宿…と続きます。南へ向かうと(左折すると)、馬乗宿、寺町、上野原宿といった、十五宿の中でも街道から外れ、少々寂れた宿場へと。これらの集落は、メインストリート沿いの横山宿と八日市宿を支えた「加宿」という扱いでした。
尚、横山宿、八日市宿は「本宿」と呼ばれ、宿駅の業務はこのふたつの宿が交代で受け持ち、あとの13の宿場はこれを補佐・支援する「加宿」だったそうです。


【八日市宿の記念碑】


八王子十五宿の中で、横山宿とともに中心的な位置にあった八日市宿の記念碑。
明治以降、大火や空襲に見舞われた八王子市街では、江戸時代の宿場の痕跡は皆無です。この記念碑が、最近建てられたものとはいえ、宿場を偲ぶ唯一かもしれません。
ちなみに、江戸時代は八日市宿でしたが、現在は八日町で、地名から「市」の字は外されています。


さて、本来ならこのまま街道を西に進むべきところ、このあとちょっと寄り道を…ということで、いったん本道を離れ南へ向かいます。
今回、街道を離れて寄り道が多かったのですが、まずはその第一弾。それは次回にて。


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