歴史・音楽・過ぎゆく日常のこと
日日の幻燈





太宗寺の裏手にある成覺寺は浄土宗のお寺です。家康が江戸に入って間もなくの1594年の創建とのこと。
境内は木々が生い茂って、鬱蒼とした感じです。でも、夏はいい具合に木陰になって涼しいのかな?

【本堂】

境内に入って、うろうろしていると、ちょうどご住職が境内にお出でになり、お手製のパンフレットと、成覺寺オリジナル焼き菓子(!)を頂きました。そのパンフレットを片手に境内散策です。


【子供合埋碑】

境内を入って本堂へ向かう左手にあります。
「子供」とは遊女のこと。遊女が亡くなると、彼女たちの亡骸は投げ込むように葬られました。宿場町や岡場所といわれた場所にはそういうお寺があるもので、投げ込み寺と呼ばれました。内藤新宿の投げ込み寺は、ここ、成覺寺でした。
1776年から遊女の「投げ込み」が始まり、明治5年まで217名を過去帳からたどれるそうです。1776年といえば、内藤新宿が明和の立返りで再度宿駅として認可された直後のこと。宿駅の繁栄の裏には遊女たちの悲しい運命があったのですね。
そんな彼女たちのために、旅籠屋仲間が建てた供養碑がこの「子供合埋碑」。1860年のことです。正面の中ほどに「旅籠屋中」と刻まれています。


【旭地蔵】

江戸時代、宿場内で不慮の死を遂げた人たちを供養したお地蔵さまで、1800年の造立です。もともとは玉川上水沿いにあったものが、明治になって成覺寺に移されました。

【旭地蔵建立者の銘】

台座の左側面。旅籠屋や茶屋の有志たちによってこの地蔵が建立されたことが記されています。高松氏とは内藤新宿の中心的な名主。

台石の部分(地蔵と台座の間の円柱の部分)には戒名が刻まれていますが、全部で19名分とのこと。不慮の死とはいうものの、その実、14名(=7組)は心中によって亡くなった人たちだそうです。宿場の飯盛女(=遊女)と恋仲になった男たち。当時、心中は厳しく取り締まられていたので、遊郭で心中事件があった場合は変死として届け出たそうです。
しかし、いつの時代も悲しい死を選んだ者に対して、人々の憐みの心は変わらない、ということなのでしょう。暗黒の地獄にせめて光を…との想いから「旭地蔵」と名付けられたと察せられる…成覺寺のパンフレットには記されています。


【恋川春町の墓】

旭地蔵と並んで、恋川春町(1744-1789)の墓があります。
恋川春町は駿河小島藩士で、本名は倉橋格。戯作者・狂歌師・浮世絵師として活躍しましたが、黄表紙というジャンルを確立した人物として有名…だとか(このあたり、全く知識がないもので…)。黄表紙とは大人向けの読み物で、世相や政治を風刺するような内容も盛り込んだもの。本業(武士)をはじめ、多才な人物だったのでしょうね。
春町の黄表紙の代表作品は「金々先生栄華夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)」「鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶふたみち)」。
この「鸚鵡返文武二道」が幕政を批判しているとして、寛政の改革を断行した時の老中・松平定信の逆鱗に触れ、春町に出頭命令が下ります。春町は病気を理由に出頭せず、ほどなく没しました。当時、自殺説もあったようです。
春町が成覺寺に葬られているのは、ここが唐橋家の菩提寺だったからだそうです。
墓石の左側面に辞世が刻まれてるようですが、読み取れませんでした。


【塚本明毅の墓碑】


塚本明毅(1833-1885)は、太陽暦への改暦を建白した人物。
元は幕臣で幕府海軍で重きをなしたのち、御一新で徳川宗家とともに静岡に移り沼津兵学校の教頭となります。その後、明治政府に出仕し兵学大教授。さらに内務省地理局に勤め「日本地誌提要」を編纂。内務省地理局は国土の測量とともに、当時、暦も司っていたようです。彼が改暦の建白を行ったのは、そんな勤め先の事情からでしょうか。それとも、何か彼自身を突き動かす確固たる意志があったのかな?
全国的には有名ではなくても、こうして重要な役割を果たした「郷土の人物」って、けっこういるのでしょうね。
ちなみに、明毅の墓石は区画整理で存在せず、その代わりに塚本家の墓所には、榎本武揚が揮毫した立派な墓碑が建っています。


【白糸塚】

子供合埋碑の左側、繁る草木に隠れるようにありました。
この碑は、幕末、歌舞伎役者・坂東志うか(二代目)が、興行の成功のお礼に造立したものです。
成功した歌舞伎興行というのが、ここ内藤新宿での、鈴木主水という武士と遊女白糸の情死を題材にしたもの。この白糸の話が事実なのかどうかは、はっきりしないそうで、今では一応伝説・作り話的な扱いになっているそうです。
ただ、武士と遊女の心中事件は、成覺寺の過去帳をたどっていくと実際にあったそうなので、その事件をヒントにしたのかもしれませんね。


【成覺寺オリジナル焼き菓子】

この焼き菓子、ご住職のデザインだそうです。


というところで散策終了。
そんなに大きくはないお寺ですが、内藤新宿の繁栄の裏側の、陰の部分を色濃く伝えている…そんな雰囲気の成覺寺でした。






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追分から次に目指したのは、内藤新宿の仲町に位置する太宗寺。

【太宗寺】

これまた広い境内。そして奥にモダンな本堂。ここも想像していたよりも大きなお寺でした。
太宗寺は浄土宗の寺院で、1596年頃に太宗という僧がこの辺りに建てた草庵「太宗庵」を起源とします。その後、新宿に下屋敷(現在の新宿御苑ですね)を置いた信州高遠藩・内藤家とのつながりを深め、1668年に内藤重頼から寺領の寄進を受け建立されたのが現在の太宗寺とのこと。

【銅造地蔵菩薩坐像】

境内に入って、まず右手に鎮座ましますのが、江戸六地蔵の3番目として、1712年に造立されたお地蔵さん。像の高さは267センチ、六地蔵では小さい方とのことですが、それでも見上げるとじゅうぶんに迫力があります。
ちなみに六地蔵、深川の地蔵坊正元という僧侶が地蔵菩薩に祈願したところ、不治の病が治ったことから造立を思い立ったそうです。太宗寺のほかに、品川寺、東禅寺、真性寺、霊巌寺、永代寺にありましたが、永代寺の地蔵は明治の廃仏毀釈の犠牲となり残っていないそうです。
この六地蔵、五街道のそれぞれ江戸の出口付近に建てられたとか。そういえば品川寺のお地蔵さんは、随分前に偶然に見ていたのでした。

【閻王殿】

境内右手には閻王殿。モダンな本堂に対して、こちらはなんとなく中華風。そしてこの中におわすのが、泣く子も黙る閻魔様。そして妓楼の信仰を集めた奪衣婆像。
中を覗いても真っ暗ですが、扉のボタンを押すと1分間、中の灯りがともります。

【閻王殿の扁額】

江戸末期の中国人官吏の筆によるとか。

【閻魔像】

まずは閻魔様。高さ550センチ!これは迫力満点。1814年に安置されたそうですが、火災や関東大震災などにより、当時のものは頭部のみとのこと。
写真では伝わりにくいかと思いますが、ほんと、見下ろされるというか、迫ってくるというか、そんな感じです。
「内藤新宿のお閻魔さん」として庶民の信仰を集め、1月と7月の16日には縁日が出て賑わったそうです。
1847年には、酔っ払いが閻魔さまの目の玉を取ってしまうという事件が発生して、錦絵にもなったとか。
ちなみにこの不届き者、閻魔さまの目を取った代償に、自分の舌を取られたかどうかは定かではありません…。

【奪衣婆像】

閻魔大王像の左側に安置されています。高さ240センチで、こちらもかなりの迫力ですが、ちょっと見にくい位置にあるのが惜しい。
1870(明治3)年に作られたので、江戸時代にはありませんでした。
奪衣婆とは三途の川を渡る亡者から衣服を剥ぎ取った婆様。衣服を剥ぎ取るということから、妓楼の商売神として信仰を集めたそうです。なるほどね。
コードネームは「しょうづかのばあさん」。

【不動堂】

閻王殿と向かい合うように、境内に入って左手にあります。
お堂の中には、布袋尊像と三日月不動像が安置されています。

【布袋尊像と三日月不動像】

不動堂の中は、暗くて布袋様も不動像もよく見えませんでした。
手前が布袋さん。昭和初期に創設された新宿山の手七福神のひとつです。他のお寺を巡って七福神をコレクションしてみるのも楽しそうです。
ちなみに、新宿山の手七福神のお寺は次の通りです。

・善国寺…毘沙門天
・経王寺…大黒天
・厳島神社…弁財天
・永福寺…福禄寿
・法善寺…寿老人
・太宗寺…布袋和尚
・稲荷鬼王神社…恵比寿神

奥の三日月不動尊はまったく見えませんでした。額の上に銀製の三日月を戴くことから、この名がついたそうです。江戸時代の制作ですが詳細不明とのこと。高尾山へ運ばれる途中、ここで動かなくなり不動堂を建立し安置したとか。

【塩かけ地蔵】

お地蔵さんを覆う白い物質は塩。かなりカチカチになっています。
願掛けの返礼に塩をかける珍しい風習のあるお地蔵様。造立年代や由来については、はっきりしない…と、お寺でいただいたパンフレットには記されています。

このお地蔵様をしげしげと見ていたところ、
「いよ~兄ちゃん、元気?」
と威勢よく声をかけてきたのは、近所の飲み屋のマスター。朝10時前なのに営業中だって。新宿らしい。抜け出してきたのかな?
マスター曰く、
「お賽銭を供えて、ほんのちょこっと塩をいただいて、財布とか持ち物に振り掛けると、悪い奴が寄ってこないんだよ」
とのこと。
私もお賽銭を供えて、ひとつまみ、財布に振り掛けました。

【内藤家墓所】

太宗寺と縁の深い信州高遠藩主・内藤家の墓所です。
中央が5代正勝の墓で、新宿区指定史跡。正勝の時代の内藤家はまだ高遠藩ではなく、安房勝山藩(千葉県)の藩主でした。
正勝、亡くなったときはまだ20代。ここ、太宗寺で葬儀が執り行われました。子の重頼は幼少だったため、いったん、内藤家は大名としては廃絶となります。
その後、成長した重頼は若年寄、大坂城代などを歴任し、晴れて大名に返り咲きました。

めでたしめでたし。

ちなみに、内藤家が信州高遠に転封されたのは重頼の子、清枚(きよかず)のときでした。

【切支丹灯籠】

境内の奥、事務所(?)の建物の前にあります。
内藤家の墓所から出土したそうです。出土したのは竿部分(脚部)で、笠と火袋部は修復して補っているとのこと。
江戸時代中期の制作と推定され、全体の形状が十字架を表し、竿部の彫刻はアリア像だとか…。
さあ、あなたはマリア様に見えますか?

【マリア様?】

内藤家の墓所から出土した…ということは、意図的に埋められた?
内藤家は隠れキリシタンだったのか?
う~ん…埋められていたというのが、なんともミステリアス。しかも大名家の墓所に。
誰か、謎解きをしたひと、いないのかなぁ?


以上、長くなりましたが見どころいっぱいの太宗寺でした。
毎年7月15日・16日には閻王殿の扉が開けられるそうです。間近での閻魔大王と奪衣婆像。見に行ってみようかな…。





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新宿三丁目の交差点、伊勢丹の角はかつて追分と呼ばれ、甲州街道と青梅街道(成木街道)との分岐点でした。ここに追分の地を記念する「新宿元標」があります。

【新宿元標】

交差点の歩道、ちょうどJTBの前に標柱とモニュメント。平成11年3月設置と記されています。今までに何度となくここを通っていたのに、全く気づきませんでした。
でも、こうしてよくよく見ると、けっこう立派です。

【新宿元標・標柱の上面】


【新宿元標・歩道のモニュメント】

四谷方面から内藤新宿に入った甲州街道は、ここで左に折れ新宿駅南口方面へ。そのまま直進する道は青梅街道で、伊勢丹の前を通り新宿駅東口方面へ続いていきます。
青梅街道は、江戸時代前期は成木街道と呼ばれ、青梅から江戸へ石灰を運ぶ道として整備されたそうです。また甲州への道中が甲州街道よりも短く、関所もなかったことから庶民にも利用されたとのこと。甲州裏街道なんて呼ばれたそうです(…青梅街道についてはWikipediaを参照しました)。

【追分(現在の新宿三丁目交差点)】

日曜の朝早い時間だったため、まだ人通りはまばらでしたが、もう少し時間がたつと人、車ともにものすごい量に。新宿元標に目を留める人なんて、まずいないでしょうね。

【内藤新宿・上町】

追分から、かつての内藤新宿を四谷方面に向かって眺めるとこんな感じ。このあたりは上町。四谷方面に仲町、下町と続いていきます。

【追分だんご本舗】

交差点のすぐそばにある「追分だんご本舗」。
何でも太田道灌がここのお団子を食べた…なんて言い伝えがあるそうです。朝早かったのでまた開店前でした。
このお団子屋さん、実は前からちょっと気になっていたんです。
新宿のど真ん中にお団子屋さん?ちょっと場違いじゃない?って。
今度、食べに行ってみよう。


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1862年に再版された切絵図によると、天龍寺の門前に高札場が記されています。
現在の地図に置き換えてみると、ちょうど甲州街道と明治通りが交差する付近、新宿四丁目の交差点あたりです。

【高札場跡(新宿四丁目交差点付近)】

写真、真っ直ぐ進めば甲州街道、新宿駅南口へ。左は明治通りで、天龍寺門前を通ります。このあたり、かつては追分とも呼ばれ、甲州街道と青梅街道の分岐点でした。だから高札場にはもってこいの場所だったと思われます。
1852年、追分の女郎屋から出火、高札場にも延焼し高札2枚を焼失したそうです。幕末期には太宗寺の向かい側に設置されているようなので、この火事がきっかけで場所が移動したのかもしれませんね。
1862年の切絵図は「再版」とあるため、1852年以前の絵図をそのまま擦り直したということでしょうか?
ちなみに、記録を追うと立返り後、高札場の普請は5回あったそうです。
新宿四丁目、太宗寺門前、いずれも高札場の痕跡は皆無です。


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新宿駅南口を出て、四ツ谷方面へかつての内藤新宿を歩いてみました。
まずは天龍寺です。
新宿駅南口から歩いて数分。
付近には高島屋や伊勢丹などがありますが、大通り(甲州街道)から道一本奥に入っているため(明治通り沿い)、若干静か。私が訪れたのは日曜の朝10時前だったので、ほとんど人通りもなく、ひっそりとしていました。

【山門】

天龍寺は曹洞宗の寺院です。最初は江戸の裏鬼門を守る寺として牛込に建てられましたが、1683年に火事で焼失、現在の地へ移転したそうです。
この山門、前から気になっていました。新宿にもこんな立派なお寺があるなんて。道を歩いていると、突然目の前にどーんと出現する、そんな感じです。
ただ、この山門の前には柵が設けられているので、境内に入るには山門の横からお邪魔します。

【本堂】

ビルの合間にある天龍寺ですが、境内は思ったより広いです。しかも都心のお寺にふさわしく(?)、きれいに整備されています。
そういえば、「ブラタモリ」で渋谷川の源流をたどってみたら、ここにたどり着いたってやっていましたね。天龍寺にあった池がそれだったそうですが、今は存在しないそうです。
それと、1805年の記録に天龍寺の境内に一里塚があると記されています(「壱里塚宿内西之方天竜寺境内ニ壱ヶ所 但江戸より左之方片塚立木焼木」)。日本橋から2つ目の一里塚ということになります(ひとつめは半蔵門付近)。境内と言っても、門前の街道沿いということでしょうか?残念ながらこちらもその痕跡は残っていないようです。

【追い出しの鐘】

天龍寺で有名なのがこの梵鐘。
時刻を知らせる時の鐘で、1700年に常陸笠間藩主・牧野貞長が寄進しました。現在の鐘は改鋳された2代目に続く3代目の鐘(1767年鋳造)とのこと。江戸三名鐘のひとつに数えられています。残りふたつは、上野寛永寺と市ヶ谷八幡の鐘。但し、違う鐘を組み合わせる場合もあるようです。
そしてこの鐘、江戸っ子たちに「追い出しの鐘」とネーミングされていました。
内藤新宿で夜通し遊興にふけった遊び人たちは、朝、この鐘の音に追われるようにこの地を出て行ったことから(あるいは、実際に鐘を合図に追い出されたとも)、「追い出しの鐘」と呼ばれたとか。
また、この鐘は明け六つを時刻より早めに撞いたそうです。江戸城へ登城する武士が時間に遅れないように…との配慮だったとも言われています。

そうそう、私も目覚まし時計は通常の時計より少し進ませてあるし、その音に急かされるように布団から追い出されるし、まるで現代版・追い出しの鐘。
または「追い出しの目覚まし時計」。
なんてね。





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