歴史・音楽・過ぎゆく日常のこと
日日の幻燈




多摩御陵を出発した我々ですが、日ごろの運動不足がたたり、けっこう疲れも出てきている状況で、誰も参道を引き返して甲州街道に復帰しよう!とは言いださなかったのでした。多摩御陵内を歩くのも結構な距離となりましたし…。
そんなわけで、不本意ながらもショートカットして、高尾駅への最短ルートを選択した私たちでした。

【JR高尾駅前】


JR高尾駅前から、気持ちも新たに駒木野宿を目指して甲州街道を西へ進みます。

【JR高尾駅付近の甲州街道】


高尾駅前を越えてからの甲州街道は、それまでの並木道とは雰囲気が変わって、少々雑然とした、というか込み入った感じになってきます。

【川原の宿辺り】


江戸時代、ここは上椚田村(かみくぬぎだむら)で、とくにこの辺りは川原の宿と呼ばれていました。
そもそもは浅川が流れていたのですが川筋が北へ変わり、江戸時代前期に川の跡を整備して、ここに甲州街道を通しました。その街道筋にできた集落が川原の宿。「宿」とついていますが、幕府が公認した(宿駅業務をこなす)宿場町ではありませんでした。
今もバス停に地名が残っています。

【駒木野宿の入口・両界橋】


しばらく進むと、JRの高架の下を街道は潜ります。この高架の下に架かっている橋が両界橋で、東の上椚田村と西の駒木野宿の境界という意味だそうです。ここから先、いよいよ駒木野宿に入ります。

ここで駒木野宿の概略を-
天保14(1843)年の「甲州道中宿村大概帳」によると、
・本陣…1軒
・脇本陣…1軒
・旅籠…12軒
・問屋…3ヶ所
・宿場の家数…73軒
・宿場の人口…355人

駒木野宿は、西に連なる小仏宿との合宿で、毎月16日から晦日まで宿駅業務を勤めました(1日~15日までが小仏宿)。八王子側から下宿・中宿・上宿に分かれ、問屋は下宿に1ヶ所、中宿に2ヶ所あったとのこと。
本陣をはじめとする旅籠も、専業ではなく大きな農家が兼業という形をとっていたようです。山間部ということもあり、宿駅業務を果たすには経済的にかなり困難だったようで、度々、幕府に対して援助を願い出ています。
小さく貧しい宿場でしたが、宿内に小仏関所を擁し、背後には小仏峠が控えるという、重要な宿場、交通の要衝でした。

それでは、駒木野宿を散策していきましょう。

【獅子渕】


両界橋は、JRの高架の古い煉瓦がいい感じでノスタルジックな雰囲気を出していて、人気の写真スポットとなっているようです。
小仏川と案内川が合流した、そのすぐ下流に当たるこの辺りは、江戸時代には獅子渕と呼ばれました。江戸時代の記録によると獅子岩という巨岩があり、水深はおよそ1丈(約3メートル)だったそうです。今よりずっと深かったのですね。
江戸後期、最上某さんは、ここに小庵を建てて移り住んだそうです。なんか、風流ですね~。

この辺りには成敗場、いわゆる処刑場があったと言われています。小仏関所で捕えられ、死罪を言い渡された者はここで処刑されたといいます。
江戸初期から寛文のころ(17世紀後半)にかけて3度の処刑が行われたが、それ以降、刑の執行は聞いていない…と、江戸後期の記録に残されています。

【両界橋の古仏】


JRの高架のたもとにひっそりとたたずんでいました。今でも花が供えられているのを見ると、地元の人たちの温かさを感じますね。

【甲州街道と高尾山道の分岐点】


西浅川の交差点で現在の甲州街道(国道20号線)と分かれて、旧街道は右側へ入ります(都道516号線)。国道20号線はかつての高尾山道。
両界橋からこの交差点付近までが、駒木野宿の下宿と呼ばれていた地域にあたります。

【問屋場辺り…かな?】


交差点を右折して、すぐの辺り街道の右側に問屋場、左側に立場があったとされます。現在はそれを示すものは何もありません。

【高尾駒木野庭園】


戦前の家屋(病院長の自宅だったそうです)を中心にした日本庭園。開園したのは平成21年とのこと。
ちょっと気になったものの、中には入らずに通過しました。

【新しいお地蔵様と古いお地蔵様】


道沿いに新旧のお地蔵様。
古いお地蔵様はいつ頃建てられたのでしょうか?とくに案内板などはないので、わからないままです。

【駒木野橋の碑】


区画整備によって撤去された駒木野橋の碑。小仏関所のすぐ手前にあります(写真の右奥が関所跡)。
関所の東側の入口には谷川の板橋あり、と江戸時代の記録に残されています。この「板橋」こそ、区画整備で撤去されてしまった駒木野橋のことなのでしょうね。

【小仏関所跡】


そしてやって来ました。駒木野宿最大のスポット、小仏関所跡です。
もともとは小仏峠の頂上にありましたが、江戸時代になり甲州街道が整備されると、この地に移転しました。
関所番は4人。
橋(駒木野橋?)を渡った辺りに東の門を設け、その先に小さな茅葺の番屋を建て旅人の通行を吟味したそうです。その先には西の門があり、東西の門の距離は20メートル程度だったようです。門の両脇より四方に柵をめぐらせてあったとのこと。う~ん、意外とこじんまりした感じですね。
関所の通過は明け六つ(朝6時~7時ころ)から暮れ六つ(夕方5時~7時ころ)までと決められていました。

【小仏関所跡・手形石と手付石】


関所の碑の前に、平べったい台座のような石がふたつあります。手形石と手付石と呼ばれ、旅人は通行手形を手形石の上に置き、手付石に手をついて、通行の許可がおりるのを待ったとのこと。奥が手形石、前が手付石でしょうか。ちゃんと残っているんですね。

【駒木野宿の碑】


小仏関所跡の西側に駒木野宿の碑が建てられています。ここはかつての関所の敷地内でしょうか。
関所番を勤めた佐藤家・落合家は関所の西隣に住んでいたとのことなので、両家の屋敷跡かもしれませんね。

【中宿辺り】


関所の辺りが、かつての中宿。古風な家が残っていて街道気分に浸れます。
ただし道幅が狭く、小仏峠へ向かう路線バスも走っていますので、歩く際には車に注意しましょう。

【念珠坂・高札場跡】


年中坂とも言うらしいです。
ガイドブックによると、昔ここに住んでいた鬼が老婆を襲ったところ、老婆の持っていた念珠のひもが切れて珠が散らばり、それに足をとられた鬼は坂道を転がり大穴に落ちてしまった。それ以来、鬼は現れなくなった…ということです。
ここに江戸時代、高札場があったとのこと。
「甲州街道念珠坂」の碑と並んで、古仏、古碑が建っています。

【念珠坂2】


鬼が転がる念珠坂。西側に下っていきます。

【荒井バス停】


駒木野宿の真ん中あたり、荒井のバス停に着いたのが午後4時20分頃。
バス停で時刻を確認したところ、ぼちぼち高尾駅へ戻るバスが来そうだったので、ここをこの日の終着地点としました。バス1本乗り過ごすと、結構待ちますからね。
八王子の市守大鳥神社を出発したのが、午前11時。まずまずのペースでしょうか。
次回は、ここが西へ向けてのスタート地点。甲州街道の難所のひとつ小仏峠に挑むことになります。

【番外編】


そのままバスに乗り、JR高尾駅北口(終点)で下車。反省会は高尾駅周辺のお酒も料理も美味しいところで…と探したのですが、なかなか見当たりませんでした。
どうも南口の方に飲食店は多いみたいです。
ところが、北口から南口へ行くには、駅を大きく迂回して踏切を渡らなければならないようです。
これはちょっと不便。
結局、駅の入場券を買って駅構内を通ったのですが、観光地という観点からすると、どうなのかな?
高尾帰りの観光客(登山者)のグループが、八王子まで出て祝杯を挙げるのことが多いのは、そのためでしょうか?

ま、それはさておき。

旅の仲間、Wさんのお土産、瀬戸焼のおちょこで固めの盃を。
この日の旅の反省と次回に向けての作戦会議は、この後、カラオケ屋に場所を移し、夜遅くまで続いたのでした。


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前回から少々時間が開きましたが、甲州街道を歩いてみた記録の続きを。歩いたのは10月22日です。もう1ヶ月も経ってしまったのか…。

【道標】


西八王子駅近くで昼食をとった後、再び西へと進みます。
長房団地入口の信号を北へ入ってすぐのところに、大きな道標があります。
「右高尾山 左真覺寺」
と刻まれています。道標が建てられたのは大正時代になってからのことだそうです。

【散田の枡形】

この道標のある場所は散田の枡形と呼ばれ、今まで歩いてきた千人町と散田村との境界でした(左側の草の生えている場所に道標が建っています)。
江戸時代、ここで甲州街道は左へ折れ、散田村を通って西へ続いていました。写真で見える直進する道は、江戸時代には小道程度のものだったようです。

【旧散田村辺り】


散田の枡形を左折して、江戸時代の散田村を西へと向かいます。とくにこの辺りは新地と呼ばれた地域で、その名があらわすように、江戸時代に甲州街道がここを通るようになってから、道に沿うようにできた新しい集落でした。
黒塀のお屋敷がいい感じを醸し出しています。
そのまま進んでいくと再び現在の甲州街道(国道20号線)と合流します。

【オオツクバネガシと散田の一里塚跡】


国道20号線に合流してしばらく歩くと、左手に八王子市役所横山事務所があります。その敷地内にドーンと立っている巨木は、八王子市の天然記念物・オオツクバネガシ。現地の案内板によると、樫の木の仲間(アカガシとツクバネガシの間種)で高尾が原産地と認定されています。高さは約18メートル。
江戸時代にも、この木はちゃんと記録に残っているそうです。
この辺りに江戸から12番目の一里塚があったようですが、今は跡形もなし。街道の左右に塚が築かれていた模様。

【イチョウ並木】


現在の甲州街道(国道20号線)は、高尾駅までイチョウ並木が整備されています。昭和2(1927)年に多摩御陵が造営された際に植樹されました。交通量は多いものの、歩いていて清々しい感じです。

【多摩御陵入口】


並木道をしばらく進むと、多摩御陵入口の交差点に差しかかります。
このまま甲州街道を直進すれば、高尾駅へ。
ここで旅の仲間から、
「せっかく近くまで来たのだから、御陵に参拝しよう!」
という声があがりました。私も含め、4人ともまだ御陵に参拝したことがないとのこと。
そんなわけで、甲州街道を大きく北へ迂回して(右折して)多摩御陵へと向かいます。

【参道入口】


甲州街道を右折して御陵への参道を進みます。当然のことながら、きれいに整備されています。途中、南浅川を越えます。
参道は大きな公園(陵南公園)を迂回するように進みますが、公園を突っ切ると若干近道になります。

【武蔵陵墓地(多摩御陵)1】


参道を20分ほど進むと、御陵の入口に到着します。
多摩御陵と呼んでいますが、正式名称は武蔵陵墓地。
昭和2(1927)年に大正天皇陵(多摩陵)が築かれたのが最初で、大正天皇・皇后、昭和天皇・皇后の4つの御陵があります。関東で御陵が造営されたのはここが初めてとのこと。
とくに入口で手続きをするわけでもなく、そのまま中へと進めます。

【武蔵陵墓地(多摩御陵)2】


雰囲気としては明治神宮に似ているなぁ…と思いました。森閑にして厳かというのでしょうか…。
それにしても広い!

【昭和天皇御陵(武蔵野陵)】


昭和天皇の御陵は武蔵野陵と呼ばれています。
上円下方墳なのだそうです。
木々に覆われる前の古代の古墳も、きっとこういった造りになっていたのでしょうね。
武蔵野陵の他、多摩陵(大正天皇陵)、多摩東陵(大正天皇の皇后・貞明皇后陵)、武蔵野東陵(昭和天皇の皇后・香淳皇后陵)にも参拝して、武蔵陵墓地をあとにしたのでした。


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八王子の市守大鳥神社の酉の市へ行ってきました。
去年は出勤日で、夜9時過ぎに通りかかったら露店の撤収作業が粛々と進んでいて、祭りのあとの寂しさを味わいながらも、来年こそは!と思ったのでした。

あれから1年…。
念願かなってのお参り。酉の市初体験です。



噂ではかなりの賑わいだとは聞いていましたが、これほどだとは思いませんでした。お参りするのにも長蛇の列。



ところで酉の市ってよく耳にするけど、結局なんなのか?
ネットでちょこっと調べてみました。
酉(鳥)と縁が深い神社やお寺(○鳥神社とか、△鷲神社…みたいな)で11月の酉の日に開かれるお祭り。商売繁盛・開運を祈願するとのこと。もともとは関東発祥のようですが今では全国区。市で売られている縁起物の熊手は、福や金銀をかき集めるという意味があるのだそうです。

へぇ~

もちろん境内には熊手を売る露店が並び、頻繁に威勢のいい拍子木と手締めの三三七拍子が響いていました。



こういう大きな熊手は、それこそ商売をしている人たちが買っていくのでしょう。でも、酉の市に来たからには、直接商売とは関係ない(…否、サラリーマンなので関係大アリか…)私も、小さいのをひとつ買いました。
会社の繁盛(=私の給料UP)と家内安全を祈願して…。


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東京駅の大丸に用事があって出かけたついで、夜の日本橋を散歩。夜と言っても、まだ6時ころです。
日本橋に来ること自体久しぶりですが、夜景は初めてじゃなかったかなぁ。



三越前にはクリスマスツリー。ついこの前、ハロウィンだったのに早いものだ…。


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Sireniaのニューアルバム「Dim Days of Dolor」からの新作MV。
新しいボーカリストも、バンドの雰囲気に溶け込んでいるようで一安心。というか、彼女はこれまでもSireniaのアルバムにコーラスとして参加していたとのことなので、馴染んでいて当然なのかも。
ツアー、日本には来ないよなぁ、やっぱり…。




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