日日の幻燈

歴史・音楽・過ぎゆく日常のこと

【note】大久保長安の聖地巡礼・八王子(3)-大和田の庚申塔-

2022-05-15 | 進め!大久保長安


大久保長安の聖地巡礼at八王子、第3回目は八王子市街から北東方面、浅川を渡って大和田地区に残る庚申塔です。東光寺の塀沿いに古い石の塔が3体並んでいます。JR八王子駅から徒歩だと30分程度。バスなら10分弱、大和田坂下のバス停で下車。
「大久保長安に迫る」(揺籃社・2013年)の記述には、長安が甲州街道の大和田坂から高幡不動尊に向かう分かれ道に建立したと云われている、とあります。出典がわからないので、そういう伝承が残っている程度にとらえておくといったところでしょうか。道路や住宅地の整備により、元の場所から今の位置に移されたと思われます。

大和田は現在は八王子市ですが、江戸時代、この辺りは上大和田村(その南側に下大和田村)。江戸方面から歩いてくると八王子宿に入る直前の集落です。
東光寺は「新編武蔵風土記稿」など、江戸時代の地誌や紀行文に短いですがその名が記されています。

【大和田の庚申塔】


3つのうち、真ん中にあるのが庚申塔。青面金剛(しょうめんこんごう)と、その下に三猿(見ざる・言わざる・聞かざる)が彫られています。802ちず楽会様のサイトによると、この庚申塔は「甲州街道の大和田坂の坂上から稲城へ向かう道の分岐点にあったものだという」とのことです。

【三界萬霊塔】


左側の石碑は「三界萬霊(さんがいばんれい)塔」と刻まれています。三界とは仏教で無色界・色界・欲界を指し、そこに棲むすべての霊を供養するための塔とのこと。寺院にはよくあるそうですが、今までは意識していなかったので、スルーして気付いていませんでした。
台座には玉川連と彫られています。側面には年月が刻まれているようですが、摩耗していることもあり、素人の私には読み取れませんでした。

【高幡不動道標】


右側の石碑は「高幡山不」とあります。802ちず楽会様のサイトによると、「元は甲州街道の南側、八王子往還の日野市の高幡不動へ通じる道の分岐点にあったという」とのこと。文字が「不」で終わっているのは、下部が破損してしまったということでしょうか。


調べた範囲では、長安との直接の関連を示すような資料などは見当たりませんでした。彼は八王子の町づくりを差配し、また全国的な街道整備にも中心的な役割を果たしたことから、長安に絡めた伝承となったということかな、と思います。


今回、記事を参照・引用させていただいた、802ちず楽会様のサイトはこちらです↓

802ちず楽会 様






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【note】大久保長安の聖地巡礼・八王子(2)-浅間神社・富士塚-

2022-05-08 | 進め!大久保長安
大久保長安聖地巡礼の旅in八王子、2回目は浅間神社・富士塚です。
八王子市街から西方の台地上に、市民の憩いの場として親しまれている富士森公園があります。四季折々の自然に触れられ、また野球場などのスポーツ施設もあり、休日になると、散策する親子連れや、スポーツを楽しむ人たちで、けっこう賑わっています。夏には花火大会の会場にもなります。
その富士森公園の一角にある、浅間神社と富士塚を目指します。

富士塚とは、江戸時代に富士山信仰に基づき、富士山に見立てて造られた小さな山や塚のことです。関東各地に、今でも残っているものが多くあるようです。

【浅間神社・拝殿】


拝殿横にある案内板によると、浅間神社は木花咲耶姫を祭神とし、富士浅間様とも呼ばれ、駿河国の本宮浅間神社を分社したものだそうです。
そして、長安の登場です。案内板は以下のように続きます。
「慶長年間、大久保石見守長安が高さ約2丈(約6m)、周囲60間(約109m)余りの塚を築き、頂上に浅間神社を勧請したのが当社の起源」
とのこと。
江戸時代初期、長安は八王子の町づくりと同じ時期に、浅間神社を建てたということですね。
なお、現在の拝殿は昭和28(1953)年に大正殿(大正天皇のご大葬の時多摩御陵に造られた式典用の建物)を移築し建て直したものだそうです(案内板より)。

【浅間神社・富士塚】


拝殿の後ろ、富士塚とその上に鎮座する本殿です。
「新編武蔵風土記稿」には、
「杉、樫、その他の雑木陰森として…その林中に高さ2丈ばかり、周廻60間あまりの塚あり。頂上の平垣4間半ばかり、是に浅間の社あり。往昔、大久保石見守が勧請せしと云う」と記述されています。
「武蔵名勝図会」では、ほぼ同様の記述の後、
「小高き丘地の上に高さ2丈の塚を築きたれば、富嶽を望む勝地なるが、近来は塚の四辺の杉その外雑木成木せしゆえ、いまは土人富士森と唱う」
とあります。
この地誌が書かれた江戸後期、すでに社殿はなく、小さな石の祠となっていたようです。「武蔵名勝図会」によると、社殿は人家から離れていて、悪党の住まいとなったため取り壊して石の祠にした、と。
それでも土地の人たちによって、その信仰は守られ続けていったということですね。

【富士塚頂上】


石段をのぼった富士塚の頂上には、本殿と「八王子富士」があります。本物の富士山は木々に覆われ望むことはできませんが、長安が建立した当時は、素晴らしい眺望がひろがっていたのでしょうね。


境内の案内板には、昔からこの地は藤森、藤塚と呼ばれていたが、長安が浅間神社を勧請後、富士森、富士塚と書くようになったとあります。
地名が先か、勧請が先か?
個人的には浅間神社ができたからこそ、富士森、富士塚という地名がおこったのかなと、何の証拠もなく、ただ漠然と思ってみましたが、さて、どうなのでしょうか?

それと…
Wikipediaによると、安永9(1780)年に江戸の高田水稲荷に造られたものが最古の富士塚とされている、とのこと。
え?長安の富士塚の方がずっと古いでしょ?
それとも、ここでも長安の事績は抹殺されているのか?
恐るべし、江戸幕府。
…なんて、ほんのちょっとだけ、陰謀説を疑ってみたりする私でした。



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【note】大久保長安の聖地巡礼・八王子(1)-開運灯篭-

2022-05-03 | 進め!大久保長安
八王子と縁が深い大久保長安とは言いながら、では彼に関する遺物・遺構・伝承はどれだけ残っているのだろうか?
…という素朴な疑問に端を発し、では辿ってみようと思い立ちました。まずはネットで下調べしてみたところ、「大久保長安マップ」なるものがヒット。地元の出版社が作成したようです。マップそのものは未入手ですが、まずは、そこに記されている13か所をターゲットにしてみようかと。

そんなわけで、いざ、大久保長安の聖地巡礼の旅に出発!ただし、出不精の私のこと、どれだけの期間を費やすことになるのか、ちょっと不安…。気長にお付き合いいただければ幸いです。

さて、記念すべき1回目は「開運灯篭」。
JR八王子駅の南口から徒歩10分弱の興林寺にあります。

【興林寺】


江戸時代後期の「新編武蔵風土記稿」の興林寺の項に、次のような記述があります。
「本堂の後に旧き宝塔に似たるもの破壊してあり。これは昔大久保石見守が、越後の上杉謙信が建置しと云う石灯篭をこの地に持ち来れるなりと。其後大久保が家断絶せしゆえ、彼の石灯篭も取捨となりしかば、ここの境内に移せしなりと寺伝に残りおれり」
要するに、長安が越後(今の新潟県)から上杉謙信の石灯篭を持ち帰ってきたけど、お家が断絶したのちは打ち捨てられ興林寺の境内に移した、ということのようです。長安は佐渡の金山・銀山を統括する代官に任じられているので、佐渡へ赴いた際、越後にも立ち寄り持ち帰ったのでしょう。
案内していただいたお寺の方に、興林寺に移されたいわれをお伺いしましたが、戦災で古い記録などは焼失してしまい、そのあたりのことはわからないそうです。

【開運灯篭1】


さて、こちらがその石灯篭です。
境内に案内板は出ていません。場所が分かりにくいので、お寺の方に尋ねてみましょう。親切に案内していただきました。
「新編武蔵風土記稿」にあるとおり、「破壊」されています。基礎と笠の部分だけが今に残されているとのこと。

で、なぜこの壊れた灯篭が「開運灯篭」と呼ばれているのか?

お寺の方いわく、江戸時代、ある商人がこの灯篭に触れたところ、幸運が続いた(商売繁盛した、ということでしょうかね)ので「開運灯篭」と呼ばれるようになったそうです。

【開運灯篭2】


「どうぞ、撫でていってください」
とのことでしたので、私も今以上に幸運が舞い込みますように、と触らせていただきました。

今は一部しか残っていませんが、完全な形なら、さぞ見栄えのする灯篭だったことでしょう。長安の権力が絶大だったころ、陣屋を訪れる客人に
「これが、あの上杉謙信公の石灯篭でござる」
なんて、長安も鼻高々にお披露目していたかもしれませんね。



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【note】「長安祭」at 八王子2022

2022-04-24 | 進め!大久保長安


八王子市の産千代稲荷神社で行われた長安祭にお邪魔してきました。
現在の八王子市の基礎をつくった大久保長安の命日(4月25日)にあわせて、例年4月に、長安の陣屋があった産千代稲荷神社で慰霊祭が催行されています。



ところで、大久保長安って誰?という人も多いでしょうから、簡単に解説を。
…と言っても、実は私もほとんど知らないので、手元の資料やネットの情報をまとめてみました。

猿楽師の家に生まれた大久保長安(1545-1613)は、最初は甲斐武田氏、武田氏の滅亡後に徳川家康に仕えました。家康にその才能を認められ、関東・奈良・岐阜などの幕府直轄領の代官として民政にあたり、「天下の総代官」とも称されました。かなりの権勢を誇ったようです。
また佐渡や石見などの金山・銀山の経営にも手腕を発揮しました。彼のもと、新技術の導入などにより金銀の産出量は激増し、幕府の財政を潤すことに大いに貢献しました。
戦場で華々しい活躍をみせる武将というより、優れた民政官・官僚といったイメージですね。

ただ、彼の死後、生前に不正疑惑ありとされ、彼の子供7名は死罪、その権勢と名声は地に堕ちました。この一件、真相は闇の中で、幕府内の権力闘争の結果などと言われていますが、いずれにしろ、長安のイメージと知名度がイマイチな大きな要因でもあります。

そんな長安が陣屋が構えたのが、産千代稲荷神社のある場所。秀吉の関東征伐で荒廃した八王子を再建し、甲州街道沿いに宿場を整備しました(八王子十五宿)。これが現在の八王子市の繁栄へと繋がっていきます。ということで八王子と長安は切っても切れない縁なのですね。



11時過ぎに着いたのですが、鳥居の横でのお囃子が祭りを盛り上げていました。そういえば、ここ2年程、各地でコロナの影響でお祭りは軒並み中止、あるいは縮小開催なので、この雰囲気に触れるのも久しぶりです。
まずは本殿にお参りして、それからグッズを買って、境内にある記念館を見学。地元の建築屋さんが収集した大工道具の墨壷がたくさん展示されていました。装飾にかなり凝ったものもあり、インテリアとしても飾ってもいいなぁ…思いました。

さて、何か長安に関しての展示があるかな?と期待していたのですが、残念ながらそれはありませんでした。気づかなかっただけ?ただ、記念館の壁には長安を題材にした大きな版画が掛けられていました。



神社内外には多数の地口行灯。夜には点灯されるそうです。手作り感がいいですね。明かりが灯ればそれは壮観でしょうね。来年は夕刻に来てみようかな。



購入した絵葉書。記念館に飾られている版画の5枚セットで、「長安公と産千代稲荷」と書かれた和紙に包まれています。



そしてクリアファイル。大久保長安のクリアファイルって、ここだけ?かなりのレア感が。通常のクリアファイルより大きめのサイズで、持ち手があり、ファイルっていうよりクリア袋?


そんな感じで、初めての長安祭でした。
これから大久保長安については、いろいろ勉強していきたいと思っています。なにしろ現在の八王子を築いた郷土の英雄。もっと注目されてもいいと思うのです。早速、彼に関する本を2冊買いました。なかなか難しそうな本ですが、彼の汚名を雪ぐためにも、頑張って読破するぞ!



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【note】「長安祭」があるそうです

2022-04-17 | 進め!大久保長安


彼の陣屋があったとされる、八王子市の産千代稲荷神社にて。

あまり名前を知られていない彼。
知っている人も金山・銀山との関連程度の彼。
戦国時代に興味ある人からは、ダーク、あるいはマイナスイメージを持たれている(?)彼。
八王子にしてみれば、現在の町の基礎をつくった重要人物なのに、八王子城など北条氏照関連に隠れて、市民的にはいまいち注目されていない感のある彼。

個人的には、最近、とても興味のある彼。

彼の名は-

大久保長安。

4月24日。お邪魔してみようかと思います。



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