この前の日曜日、5月15日は沖縄の祖国復帰50周年にあたっていた。NHKなどで特別番組をやっていたし、「ちむどんどん」でも暢子の上京の日に当たっていた。
わたしなりに50年前の祖国復帰について述べたいと思ったがなかなか筆が運ばない。いずれということにして、今回は「ちむどんどん」の話題にしよう。
沖縄を扱った久しぶりの朝ドラで期待していたが、今のところ脚本に意見がある。
まず、「ウージタオシ(サトウキビ刈り取り)」は夫婦だけではやらない。家族総出の仕事である。時には親戚一同が駆り出されることもあるぐらいだ。だから賢秀や良子、暢子がのんびり家にいるはずがない。身体の良くない歌子だってお茶の準備ぐらいはするだろう。
貧乏なら貧乏なりに助け合っていかなくちゃいけないのだ。
しかし、父親が亡くなった後に優子が共同売店に働きに出たのは、おそらくキビ畑を売却し借金返済のために現金収入が必要だったからだろう。ささやかに暮らしていくのは可能だったが、連帯保証人の叔父夫婦に責められてはそうせざるを得ない。
いよいよ暢子が東京に立つ時、バス停にバスがやってきた。
気づかない人がほとんどだったと思うが、運転席は右側にあった。にもかかわらずお客さんの乗降口は右側にあった。きっと撮影のために特注したんだろうね。(これはいちゃもんじゃないよ。感心しているんだ)
復帰当時はアメリカと一緒でまだ右側通行のままである。だからバスも何もみんな運転席は左ハンドル(側)である。
昭和53(1978)年ナナ・サン・マル(730)ではじめて右側通行から本土と一緒の左側通行に変わったのだ。
わたしは復帰前の昭和51年に運転免許を取ったが、いずれ左側通行になるということが決まっていたので教習所ではすでに右ハンドルの車になっていた。
右ハンドルで右側走行をしていたのである。
変更後も違和感はなかった。むしろ左ハンドルの車に乗った時に左側に何もないのが気持ち悪かった。
バスやタクシーの運転手だけは乗降口が右側になるので事前に練習ができずぶっつけ本番となった。そのため当日、何台もバスが側溝にはまったりする事故が多発したのだ。
そして東京に出てきた暢子が銀座から鶴見へなんの障害もなく移動している。まぁ、話の展開上、はしょったのだろうが、ウチナーンチュが上京してまず戸惑うのが電車だ。切符の買い方がまずわからない。案内図(料金表示)を見ても見当もつかない。ホームもわからない。
沖縄では戦前に嘉手納まで汽車が走っていたらしいが、戦争でなくなった。
ようやくゆいレール(沖縄モノレール)が平成15(2003)年8月に開業している。
小・中学校生が夏休みに乗車体験をするなど賑わったようだ。(だからその後は戸惑うことも少なくなったのではないか?)
わたしは中学の時東京に転校した。
ある時、兄の通う九段中学校の運動会を見たいと思って、高円寺から電車に乗った。当時近距離は100円だった。
水道橋とお茶の水の途中のお堀端で運動会は催されていた。何度も往復して兄はどこにいるかと探したがもちろんわかるわけがない。
諦めたというより、ちょっとした冒険に満足して帰った。もちろん100円の切符を改札で返して帰ったのだ。
何度往復しても100円というシステムが素晴らしいと感動したものだ。
蛇足かもしれないが、歩行者天国の銀座で暢子がしゃがみ込んでぼやいていたが、2、3年後、わたしはそこで三越地下のサンフルーツのアルバイトとして、パインをカットしたものを冷凍しただけのアイスバインを路上で売っていたことがある。
わたしなりに50年前の祖国復帰について述べたいと思ったがなかなか筆が運ばない。いずれということにして、今回は「ちむどんどん」の話題にしよう。
沖縄を扱った久しぶりの朝ドラで期待していたが、今のところ脚本に意見がある。
まず、「ウージタオシ(サトウキビ刈り取り)」は夫婦だけではやらない。家族総出の仕事である。時には親戚一同が駆り出されることもあるぐらいだ。だから賢秀や良子、暢子がのんびり家にいるはずがない。身体の良くない歌子だってお茶の準備ぐらいはするだろう。
貧乏なら貧乏なりに助け合っていかなくちゃいけないのだ。
しかし、父親が亡くなった後に優子が共同売店に働きに出たのは、おそらくキビ畑を売却し借金返済のために現金収入が必要だったからだろう。ささやかに暮らしていくのは可能だったが、連帯保証人の叔父夫婦に責められてはそうせざるを得ない。
いよいよ暢子が東京に立つ時、バス停にバスがやってきた。
気づかない人がほとんどだったと思うが、運転席は右側にあった。にもかかわらずお客さんの乗降口は右側にあった。きっと撮影のために特注したんだろうね。(これはいちゃもんじゃないよ。感心しているんだ)
復帰当時はアメリカと一緒でまだ右側通行のままである。だからバスも何もみんな運転席は左ハンドル(側)である。
昭和53(1978)年ナナ・サン・マル(730)ではじめて右側通行から本土と一緒の左側通行に変わったのだ。
わたしは復帰前の昭和51年に運転免許を取ったが、いずれ左側通行になるということが決まっていたので教習所ではすでに右ハンドルの車になっていた。
右ハンドルで右側走行をしていたのである。
変更後も違和感はなかった。むしろ左ハンドルの車に乗った時に左側に何もないのが気持ち悪かった。
バスやタクシーの運転手だけは乗降口が右側になるので事前に練習ができずぶっつけ本番となった。そのため当日、何台もバスが側溝にはまったりする事故が多発したのだ。
そして東京に出てきた暢子が銀座から鶴見へなんの障害もなく移動している。まぁ、話の展開上、はしょったのだろうが、ウチナーンチュが上京してまず戸惑うのが電車だ。切符の買い方がまずわからない。案内図(料金表示)を見ても見当もつかない。ホームもわからない。
沖縄では戦前に嘉手納まで汽車が走っていたらしいが、戦争でなくなった。
ようやくゆいレール(沖縄モノレール)が平成15(2003)年8月に開業している。
小・中学校生が夏休みに乗車体験をするなど賑わったようだ。(だからその後は戸惑うことも少なくなったのではないか?)
わたしは中学の時東京に転校した。
ある時、兄の通う九段中学校の運動会を見たいと思って、高円寺から電車に乗った。当時近距離は100円だった。
水道橋とお茶の水の途中のお堀端で運動会は催されていた。何度も往復して兄はどこにいるかと探したがもちろんわかるわけがない。
諦めたというより、ちょっとした冒険に満足して帰った。もちろん100円の切符を改札で返して帰ったのだ。
何度往復しても100円というシステムが素晴らしいと感動したものだ。
蛇足かもしれないが、歩行者天国の銀座で暢子がしゃがみ込んでぼやいていたが、2、3年後、わたしはそこで三越地下のサンフルーツのアルバイトとして、パインをカットしたものを冷凍しただけのアイスバインを路上で売っていたことがある。
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