この人生、なかなか大変だぁ

日々の人生雑感をつれづれに綴り、時に、人生を哲学していきます。

対馬丸の陰謀論

2024-08-23 15:52:52 | つれづれ記
昨日(22日)学童疎開船対馬丸の沈没から80年目を迎えたというニュースがあった。
戦争中悪石島付近で米国潜水艦の魚雷を受けて沈没し、学童784人、教員・付き添いなど700人の合計1,484人が犠牲となった。
わたしの叔父も当時10歳、学童疎開行っている。
その叔父の話だが、はじめ対馬丸に乗っていたものが、出航前にみんな降ろされて別の船に乗り換えさせられたらしい。
なんでも那覇の子どもたちが対馬丸に乗って行ったと言うのだ。
叔父は当時具志川村(現うるま市)の田舎出身。対馬丸は大きかったので安全性から那覇の子弟を乗せたのではないかと、差別されたと考えたらしいのだ。

船が出てから叔父たちははじめ船倉にいたらしいが、暑いので甲板に出てザコ寝をしていたらしい。すると夜中(22時過ぎらしいが)ドカンという爆発音とともに大きな火柱が立ったらしい。対馬丸が魚雷攻撃を受けたのである。
対馬丸にそのまま乗っていたら、叔父の子どもたちは「奇蹟の子」(ブログ「誰でもみんな奇蹟の子))になれなかったかもしれない。
幸い叔父は生きながらえて熊本の疎開先で終戦を迎えている。
満足な食事を与えられず、だから僕は兄弟と比べて背が低いのだとボヤいている。これはまた別の話。

ネットで調べていたら、和浦丸に「与那原・南風原・玉城・兼城(糸満)・真壁・摩文仁などの国民学校の生徒」(これは沖縄本島南部の地域だ)、そして暁空丸には「津覇・北玉などの国民学校生徒と一般疎開者」(沖縄本島中部地域になっている)が乗船していたとしている。和浦丸に学童疎開者1514名、暁空丸に一般疎開者約1400名が乗船していたらしい。
地域を分けて船を決めていたのは否めない。

ただ、今日(23日)NHKの取材を受けた知名ユキ子さん(90)の談話では、「(最初に)対馬丸に乗せられたんですよ。『第二小学校(首里第二国民学校)はここだ』と。乗ったんですけど、あとから、『第二小学校はね、隣の暁空丸だ。間違ってる』と」話している。
とすると、首里市(当時)の第二国民学校の生徒たちは、初めから中部地域の暁空丸に予定されていたのかもしれない。つまり対馬丸は初めから那覇の子弟が乗る予定だったのかもしれない。急に乗り換えさせられたという叔父の話は勘違いだったようだ。
因みに対馬丸の総トン数は6754トン、暁空丸は6854トン、和浦丸は6804トン。対馬丸の方が小さい。

ずっと政治的な陰謀が働いていたと考えていたことが、知名ユキ子さんの証言でようやく晴らされた思いである。叔父さんに伝えてあげよう。

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