静かな場所

音楽を聴きつつ自分のため家族のために「今、できることをする」日々を重ねていきたいと願っています。

1990年のブルックナー/交響曲第8番(アルトゥス盤)

2010年05月19日 22時48分59秒 | ブルックナー

ブルックナー/交響曲第8番


管弦楽:ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団



指揮:セルジュ・チェリビダッケ


録音:1990年10月20日、サントリー・ホール



 チェリビダッケと言えば、それはもう本当に空前絶後の存在感と「これしかない」と思わされる圧倒的で特異で、それでいて極めて自然な演奏・・・というイメージ。1974年の夏、FMで彼のライヴを聴いて雷に打たれたような衝撃を受けて以来、彼のつくり出す音楽は、ある部分で他との比較を絶していると、今でも思っている。時々見る「人工的」という表現は、私には彼のスタイルにふさわしいとは思えない。うぅぅぅん、「人工的」「自然」・・・何がどうなんだろう?音楽を語るって難しいなぁ。
 彼の実演には7回接することができた。読響が2回(77年、78年)、ロンドン響が2回(80年)、ミュンヘン・フィルが3回(90年に1回、93年に2回)、彼の実演に「居合わせる」ことができた。地方暮らしの私にしてみれば、外来アーティストを聴いた回数としては多い方だ。そして、そう、彼の演奏会はいつも、「居合わせる」という言葉が似つかわしい、どこか儀式めいた雰囲気があった。それは、自分達も「信者」みたいになってるからか???とにかく、どれも、一生の宝みたいな思い出である。

 1990年に聴いたのはブルックナーの8番。大阪フェスティバルホール。2階の前方下手側、私的には「特等席」と思っていた場所で聴いた。伊勢管のメンバーや友人達と連れ立って、聴きに行った。1階席上手側には空席が目立った。
 チェリビダッケを実際に見るごとに、その風貌が変化していく様(衰えていく様)に驚いた。77年と78年は、足取りはゆっくりではあったが、あのスリムな身体と鋭い動きは、当時の私たちには無茶苦茶カッコ良かった。「ローマの松」で腕をブンブン回し、「ジュピター」ではバネのように上半身が揺れた。
 80年、ロンドン響との公演で、舞台に登場してきた彼のお腹の出っ張り具合に驚き、さらにゆっくりとなった歩みに寂しささえも感じた。初来日時の読売新聞の一連の「キャンペーン」や、音楽雑誌の記事等で、彼が「自然食志向」であるとか、日本滞在中のホテルの自室にも日本食を持ち込んでいる写真が出てたりとか、早朝の散歩、寺の境内での庭掃除などなどの写真を見たりして、彼は健康管理にはかなり神経を遣っているとの印象があったのだが、見るごとに肥大していく彼の風貌は、その印象とは合致しないものであり戸惑った。そして、90年。彼は椅子に座って指揮した。顔も丸くなり、あの読響を振った時の鬼のようでもありドラキュラのようでもあった顔つきは、もうなかった。

 さて、今回のディスクの印象だが・・・・すばらしい演奏だ。そして、クリアな録音。当時、全然気付かなかった細かな動きや、微細な部分まで目の行き届いたニュアンス豊かな表情が、今、目の前で繰り広げられているかのようで、聴いていて心が高ぶる。しかし、しかしである。正直言って、あの時大阪フェスで聴いた演奏の印象とはかなり違う。あの時聴いたのは、大伽藍のような大阪フェスで、まろやかで耳に全然きつくなく、それでいて足元から揺らぐような大音響の中での奇蹟みたいな演奏。その片鱗はかすかにしか感じられない。「記憶付加聴き」によって、想像しつつ聴いているが、このディスクを聴いただけで「チェリのブル8ってこういう演奏」とインプットされたら、ちょっと違うんだけど・・・とか言いたくもなる。ルール違反かも知れないけど。ふだんから、当たり前のようにライヴ音源も聴いているけども、こういうことなんだろうね。演奏そのものの実像から何割か間引きされたものを私達は聴いて、それでああだこうだと言っている。音盤鑑賞ってのは、所詮そんなものなのだろう。でもなぁ、同じアルトゥスでも、あの録音状態の良くないムラヴィンスキーは、けっこう会場での印象を再現してたけど、今回のN○K録音は音は良いんだけど、演奏の実像とは違うんじゃないかと思えた。ティンパニも妙に遠いし・・・。だから、と言うわけでもないが、会場ではあまり気にならなかったテンポの遅さが、ディスクではえらい目立つ。サントリーと大阪フェスっていう会場の違いはあるけども、(どういうわけか私の手元に大阪でのブル8演奏のテープの一部があるけども、それと比べた限りでは)テンポはそんなに違わないから、やっぱりその場に「居合わせた」場合と、後で録音で聴く場合とではえらい違いなんだなと、あらためて納得。

 でも、でも・・これは素晴らしい演奏である。実演の物凄さはあまり伝わらないけども、それを差し引いても、並み居る同曲の演奏の中でもひときわ高くそびえている孤高の名山ではある。
 ああ、また聴きたくなってきた。



 以下、いつものツイッター記録。昨日(18日)の分です。



06:52 from TweetDeck
朝~!
07:43 from TweetDeck (Re: @miitacat
@miitacat おはようございます。今日は暑くなりそうです。
11:37 from TweetDeck
今日は、ひとつの部屋の大掃除をしている。枕元の非常持ち出し袋をチェック。子どもの衣類や紙パンツがサイズ合わなくなってる。非常食も期限切れなので出す。そういうことをバリリとスコダのモーツァルト聴きながらやってる。
11:41 from TweetDeck
今日はマーラーの命日かぁ。。。聴くヒマはないな。
13:11 from TweetDeck
で、昼飯は、その期限切れてる非常食から「五目御飯」と「わかめご飯」を食べた。これが、なんとも美味いじゃないか!見直したよ、非常食。
16:54 from TweetDeck
さあ、子ども達が帰宅。部屋の片付けして午後からちょっとバテたな。さっき買い物に出たけど、外は暑い。転げて聴いてたのはベートーヴェンのピアノ・ソナタ28番と29番、父ゼルキンで。ゼルキンの29番、74年にレコードで買った、思い出の演奏。
19:44 from TweetDeck
9日間出てなかったので三男に浣○を為す。
19:45 from TweetDeck
やれやれ・・・・。よく食うのになぁ。
20:02 from TweetDeck
著作権(?)のこともありアイコンを変える。
23:05 from TweetDeck
さっき聴いてたのは、やはり父ゼルキンの弾くベートーヴェン、ソナタ30番。76年の録音。余分な力の抜けた絶妙の開始部にすぐさま引き込まれた。今日はゼルキンで28~30を聴いたってことで幕。ちょっとバテ
23:06 from TweetDeck
(続き)た一日でした。TweetDwck、便利だけど、よく途中送信してしまうな・・・。
by oyajiryu on Twitter






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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (レイチェル)
2010-07-10 20:31:21
小生もこのCDは購入しました。たしかこの演奏会はNHKが放送もし、LDにもなっていたかと思います。気に入っていたのでその後EMIで販売していたCDを購入しましたがいまいちであまり聴かなくなりました。その後ようやく今回その演奏会がCD化に!良かったですけど、どうも大阪の演奏会と違うようで・・・聴きたかったですね大阪での演奏会。

チェリビダッケは名古屋で運命と悲愴を聴きましたがとうとうブルックナーは聴けずじまい・・・残念でした。実は数年前に名古屋でブルックナーをやっていたのですがその当時は嫌いな指揮者だったんですね・・・まだ修行が足りませんでした・・・
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>レイチェルさん (親父りゅう)
2010-07-11 16:04:58
実際のコンサートと録音・録画されたものとでは、大きく印象が異なるのはよくあること、と言うか、そういうパターンの方が私は多いです。俗に「マイクに入りきらない」とか言うのとも通じるかと思います。このディスクも、もちろん悪くはないと思います。
ところで、私も名古屋の「悲愴」を聴きました。チェリの後姿に往年のキビキビしている頃を思わせる鋭い動きが時々あって、引き込まれました。
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Unknown (レイチェル君)
2010-07-11 17:13:04
生と録音の違いは往々にしてあるのでしょうね。小生も名古屋フィルのCDを聴いて愕然とした経験があります。録音だと実に立派な演奏になっていて・・・そんなはずはないと思うけどと思うこともありましたね(笑)
チェリビダッケは録音ごとに違う印象をもちます。親父りゅうさんの感性が優れているのではないでしょうか。
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>レイチェル君さん (親父りゅう)
2010-07-12 21:15:13
「ディスクの方が良い」と思える例もありますね。いろいろです。

コンサートでも座席によって印象は大きく違ってくるし、ディスク鑑賞であっても、あくまでも「そのとき、私は、こう聴いた」ということなのですね。
絶対的な尺度は自分の中に持てないのではないでしょうか。
まあ、そこが音楽との一期一会の素晴らしさでもあると言えますね。
だから、人さまと「あれは良かった悪かった」などと意見を交わすのも、ほどほどでよろしいかと、最近は思っています。
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