静かな場所

音楽を聴きつつ自分のため家族のために「今、できることをする」日々を重ねていきたいと願っています。

カミさんの症状と二男の今までのことなど・・・

2010年05月24日 23時59分08秒 | 家族(こども・しょうがい・学校・介護他)
 介護休暇に入って4週間が過ぎた。
 今日はカミさんの受診日。いつも、二人で主治医先生と面談する。彼女がうまく言えなかったり言い足りなかったりしている(と思われる)部分や、私から見た様子などを伝える。神経を病んでいる場合、本人が「できること」から症状がだいたい推し量られる。
 かなり重くても洗濯はできる。次に掃除。もうちょっと楽になると炊事(料理)。そして「買い物」、となる。「先の見通しが立てにくい」、「考えなければいけない」ことほど難しいのだそうだ。なるほど、カミさんの場合、洗濯に関しては、今まで通りやっている。洗濯機回したり干したりは私もするが、たたんで片付けるのは、ほとんどカミさんがやっている。「掃除」はもともと、あんまりやっていなかった。(って言うか、そんなヒマと気力、ないのですよ、我が家では・・・)でも、先日、「あのホコリが気になって仕方ない」とか言って、廊下の一部にクリーナーかけていた。料理も、朝食は私と半々でできる。昼と晩は、私が主にやっている。買い物は、まだまだであるが、今日、病院の帰り、大型店に寄って店内を歩き、三男や自分の服を買った。少し疲れたみたいだった。食材の方は、私が買って、カミさんは車で待っていた。
 まあ、ゆっくりと快復していることは確かだ。テレビも、ひどい時は全然見ていられなかったが、けっこう見続けられるようになっている。昨日は「龍馬伝」をほとんど全部観ていた。「文字も随分と読めるようになった」とは本人の談。20年来の苦労と無理からきている今回の症状だから、そんなに短期間で治らないだろうと、デンと構えて病気と向き合っていけばよい・・・って、私は思っている。

 
 二男「けん」のしょうがい者年金の関係で、彼の生まれてから今までの生育を辿って書類を書いている。日記や母子手帳をひも解くと、いろんなことが思い起こされ、しばし感慨にふけってしまう。

 2980gで生まれた二男「けん」。

 3~4ヶ月検診の際の母親のメモ(1990年7月)・・・・「首がきちんとすわっていないが大丈夫か?」「少し発達が遅れているように思うが・・・・」「ミルクの時間が来ても、あまり泣かないし、眠くてもねあまりぐずらずにひとりで眠っていく。母親への訴えがないように思う・・・」

 6ヶ月検診は大学病院の発達外来へ。足の変形もあり、平行してリハビリテーション・センターにも通うようになった。
 
 月日は流れて2001年11月23日の拙日記・・・・朝食中、「けん」が発作を起こす。初めてだった。軽度だったようで5分くらいで(意識は)戻ったが眠り込んでしまい、起きてからは嘔吐が続き休日診療のバカ医者に診てもらい、また夜に中央病院に走る。楽しみも少なく、悪いことも何もしない、こんな子が、なんでこんなに苦しまなければならないのか!やりきれない。夜10時40分頃帰宅。A(長男)は髪を切った。「りゅう」は、まあふつうの一日だった。

 その後、すぐに薬を飲ませるようにしたが、昨今の「りゅう」と同様で、薬を嫌がることから「食べること」自体を拒絶するようになってきたので、薬は止めてしまう。
一年後、2度目の発作があり、いろいろと(途中は省略するが)あって、今は錠剤をバリバリと噛んで食べるようになっている。
「けん」との日々に「りゅう」が加わり、我が家は側から見れば「特別」な毎日が「普通」な家族として、やっている。
 今回のカミさんの症状は、「ちょっと一息つきましょう」というサインだろうと思っている。


拙日記中に「バカ医者」との表現があります。当日、休日診療に当番で来ていた老医師は、口では偉そうことばかり並べたてながら、点滴の針を「けん」の細い血管に入れることができず看護師にやらせようとしてたのです。そして、結局は「大きい病院で・・・」とか言って紹介状を書いてくれたのです。目の前で弱りながらも自分の腕を指差して「ちくっ、ちくっ」(「早く注射で楽にして」の意)と言い続ける「けん」がかわいそうで腹が立ったのでした。


 以下24日(月)のつぶやき記録です。

06:50 from TweetDeck
今日も雨の朝・・・。プチ寝坊、台所の時計電池切れ。二男二度寝に突入・・・・。
09:42 from TweetDeck
昨日は一日ほぼニコニコだった二男が一夜明ければ、なんとも不機嫌モード。分からんもんだなぁ・・・~。
09:44 from TweetDeck
山下達郎聴きながら台所片付け。さて、ぼちぼち出かける準備。今日は通院日(カミさん)。雨の中伊勢まで車を走らせる。
15:17 from TweetDeck
病院終わって、義父母宅へ回り、王将で昼食べて買い物して帰宅。
18:31 from TweetDeck
ラッシャー木村氏死去かぁ・・・・一時期プロレス好きだったな。http://bit.ly/aQxWuk
18:33 from TweetDeck
(続き)友達にプロレス・オタクがいて随分とビデオをコピーさせてもらったけど、全部ベータだから見れない。ローラン・ボックが好きだった。叫び声がチェリ似。シュトゥットガルト出身ってのも、当時、強くインプットされたっけ。
19:41 from TweetDeck (Re: @knabaka
@knabaka 豊登(とよのぼり)ってのもいましたね。いつも裸足で・・・。
19:45 from TweetDeck
僕は前田日明が離脱してなてはUWF作った頃、だんだんプロレスから離れました。前田はすごかったけど、UWFのスタイルはマジすぎて僕達凡ファンはついて行かなかった。
19:50 from TweetDeck
訂正・・・離脱してなては→離脱して
19:53 from TweetDeck
遊びで四の字固めとかやっちゃうと相手が泣いてケンカになったことも・・・小学生の頃の話RT @knabaka コブラ・ツイストのかけ方が分からなかったけど、グレート草津の緩やかな動きで(^^;、どうやって技を仕掛けるか分かったっけ。あ、ザ・デストロイヤーで分からなかった四の字固め・
20:38 from TweetDeck (Re: @knabaka
@knabaka プロレスごっこは決して本気でやってはいけない、子どもにとっては究極のシュミレーション・ゲームでしたね。ちゃんばらごっこ、撃ち合いごっこ、怪獣ごっこ、みんなそうか。最近の子は群れてごっこ遊びする経験が少ないから、都合悪くなるとすぐに「抜けた」って子が多い気がする。
20:39 from TweetDeck
でも、パイルドライバーなんて、マネじゃなくて一度はホンマにやってみたかったりしました。
20:51 from TweetDeck (Re: @knabaka
@knabaka おおっ、微妙に世代の違いが・・・コンバットもしっかり観ましたが、私はアニメ系が多かったかな。鉄人とかビッグX・・・。コンバットで思い出したけど、住んでた商店街に外国人が通りかかって、持ってた銀玉鉄砲で撃つ真似したら向こうも手で打つマネしてきてマジで恐ろしかった。
20:53 from TweetDeck
なりきってしまうんですよね。子どもの頃って。遊ぶ時でも、オープニングのナレーションをみんなで唱えたりしてました。
20:55 from TweetDeck
「う~や~た~~」ですね。
20:59 from TweetDeck (Re: @knabaka
@knabaka いやいや大先輩との間は大きいですよ(笑)。鉄人の実写版は記憶ないです。アトムはかすかに有り。まぽろし探偵の頃ですかね?
21:04 from TweetDeck
東映動画は、もっぱらテレビ放送で観ました。何度も観たのは「わんぱく王子の大蛇退治」(てしたか?)伊福部音楽との出会いでもありました。いや、ゴジラ系の方が先に観てたかな?
21:07 from TweetDeck (Re: @knabaka
@knabaka いやはや、プロレス談義から楽しいお話をありがとうございました。ちょいとチビの学校へ出す書類書いてきます。また、よろしく♪
21:53 from TweetDeck
子どもの学校に出す文書、完了。しかし、集金の5百円がない!札しかない。「おつり」ってのは先生困るからねぇ、待ってもらおう。さて、次は市役所に出す文書・・・これ、面倒だなぁ。



by oyajiryu on Twitter



最新の画像もっと見る

6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
>バニラさん (親父りゅう)
2010-05-29 15:42:47
ですよね。

いろいろと改善されてきている部分もあるのでしょうが、まだまだ、「少数派」は大事にされていないって思うことが多いですね。生活のいろんなところで・・・。
返信する
ほんと・・・ (バニラ)
2010-05-29 00:14:10
>幼少時のカルテなんて無いし、通った病院をいちいち訪ね歩くなんてことも煩わしくてやってられないのですよね

↑全く同感です(>_<)

「カルテ保管期限(5年)」を設けるなら、救済措置もしっかり定めてほしいものですよね・・・

初診証明が出来ないというだけで、受給出来ないでいる方たくさんいらっしゃると思います

・・・もっとこう、親父りゅうさんが仰ったように年金番号みたいに各人の受診歴等が公的機関で記録されるような仕組みを作ってほしいものです
返信する
>バニラさん (親父りゅう)
2010-05-27 17:57:56
ありがとうございます。
はい、少しずつ快復していると思います。
ですが、焦ってはいけないと思います。ゆっくりゆっくりと・・・です。

申請の書類、ホントにややこしいって言うか、記憶と記録がイイカゲンなものですから大変です。訂正箇所の多いこと!
本当にどうにかならないものでしょうかね?
通院とか判定とか、実際に受けてるのですから、その都度、行政と連動して記録されていくとかね・・・。
「けん」も二十歳ですから、幼少時のカルテなんて無いし、通った病院をいちいち訪ね歩くなんてことも煩わしくてやってられないのですよね。
返信する
おつかれさまです (バニラ)
2010-05-27 08:08:30
奥様、「できること」が少しずつ増えておられるようで良かったです

私も数年前しょうがい年金の申請をしました

書類の種類と記載する箇所の多さ、手続きの煩雑さに辟易しました(-_-;

生まれつきの病だったのでカルテが破棄されていたり、廃院していたりで大変でした

もっとどうにかならないものかと思います
(自分語りすみません 汗)
返信する
>ぱんださん (親父りゅう)
2010-05-25 18:12:20
いつも、ありがとうございます。

「しょうがいを認める」「認めない」・・・難しいですね。ダメでもなんでもないでしょう。当然の道筋ではないでしょうか。
私はどうだったのだろうか?今でも、よく分からないのです。「あったとして、それが何?」という感覚を持とうとしていたかも?
それと、「諦め」のような感情もあったかも?
とにかく一言では言えないです。親には見えない(分からない)ということもありますしね。
でも、母親の勘と言うか、母性本能ってのはすごいものですね。生後一ヶ月も経たないうちから、「何かが違う・・・」こればかり呟いていました。そして「認める」「受け入れられない」の間で自問自答を繰り返していたのですね。
返信する
Unknown (ぱんだ)
2010-05-25 06:39:21
どうぞお大事に
ゆっくりゆっくり歩んでください

ところで息子は2940gでした
はっきり覚えています
でも私自身が障がいを認められるようになったのは
小学校2年生の秋までかかりました
ダメ親父です
返信する

コメントを投稿