今日も一日暑かったです。でも、暦の上ではセプテンバーらしくて、スーパーで「富良野の秋」なんて買っちゃいました。
チャイコフスキー/幻想序曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」
管弦楽:イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:レナード・バーンスタイン
録音:1978年10月23日(テルアヴィブ、ライヴ)
レコード時代は「ロメオとジュリエット」と2曲を収めたものを所持していましたが、CDは最近(数年前)買いました。
これはもう、この曲のダントツと言っていい演奏です。私はニューヨーク・フィルとのふたつの録音よりも、このイスラエル盤を採ります。初めて聴いた時の中間部の「泣き」と終結部の断末魔の恐ろしさは、今聴いても同じです。
今とは比較にならないほど「市民権」などなかった「特別な愛の形」ゆえに苦悩していたチャイコフスキーが、その題材に心から共感し、おそらくは我が事のように没入して作曲したこの曲を、レニーも「我が事」の如く没入して指揮しているようです。命がけの不倫の末の血の清算。荒れ狂う地獄の風景に挟まれた、絶望的な、しかし、この上なく甘美で天国的な愛の時間、それは、先のことに目を閉ざした出口のない法悦でありますが、作曲者の共感のほとばしる筆致をそのままなぞるようなレニーの指揮が圧倒的です。
録音されたのは1978年10月。妻フェリシアの死から4か月ほど後のことです。
当時、バーンスタインとその妻との間に起った諸々について、ここでは書きませんが、彼がほとんと立ち直れない程の相当の痛手を心身ともに負ったことは明らかです。そんな中でも指揮活動をいくらか続けていたことについて、伝記の著者ハンフリー・バートンは「指揮こそが、彼の生命線だった」と記しています。
贖いつくせない妻への罪悪感(彼は、妻や家族を大事にする一方、自らが同性愛者であることを隠さず「恋人たち」との交際も広く知られていました)、自らの業、そんなこんなをこの曲に投影し、ほとんど私的感情だけで指揮していたのではないか、とさえ思ってしまいます。悲愴の時にも書きましたが、ここでも「一人称で語っている」と思えるのです。最後の数十秒の凄まじさは尋常ではなく、こっちの体もえぐられるかのような恐ろしさがありました。
この年、予定されていた来日も中止になるなど(ラインスドルフに交代)かなりの落ち込み状態の中でのこの演奏は、やはりいろんな意味でアイデンティティーを共有するイスラエル・フィルが相手だったからこそ可能だったのでしょうか?このコンビのレコーディングは77年ころから飛躍的に増えていますが、もしかしたら、彼にとって、ここを指揮することが最も太く安心できる「生命線」だったのかも知れません。
チャイコフスキー/幻想序曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」
管弦楽:イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:レナード・バーンスタイン
録音:1978年10月23日(テルアヴィブ、ライヴ)
レコード時代は「ロメオとジュリエット」と2曲を収めたものを所持していましたが、CDは最近(数年前)買いました。
これはもう、この曲のダントツと言っていい演奏です。私はニューヨーク・フィルとのふたつの録音よりも、このイスラエル盤を採ります。初めて聴いた時の中間部の「泣き」と終結部の断末魔の恐ろしさは、今聴いても同じです。
今とは比較にならないほど「市民権」などなかった「特別な愛の形」ゆえに苦悩していたチャイコフスキーが、その題材に心から共感し、おそらくは我が事のように没入して作曲したこの曲を、レニーも「我が事」の如く没入して指揮しているようです。命がけの不倫の末の血の清算。荒れ狂う地獄の風景に挟まれた、絶望的な、しかし、この上なく甘美で天国的な愛の時間、それは、先のことに目を閉ざした出口のない法悦でありますが、作曲者の共感のほとばしる筆致をそのままなぞるようなレニーの指揮が圧倒的です。
録音されたのは1978年10月。妻フェリシアの死から4か月ほど後のことです。
当時、バーンスタインとその妻との間に起った諸々について、ここでは書きませんが、彼がほとんと立ち直れない程の相当の痛手を心身ともに負ったことは明らかです。そんな中でも指揮活動をいくらか続けていたことについて、伝記の著者ハンフリー・バートンは「指揮こそが、彼の生命線だった」と記しています。
贖いつくせない妻への罪悪感(彼は、妻や家族を大事にする一方、自らが同性愛者であることを隠さず「恋人たち」との交際も広く知られていました)、自らの業、そんなこんなをこの曲に投影し、ほとんど私的感情だけで指揮していたのではないか、とさえ思ってしまいます。悲愴の時にも書きましたが、ここでも「一人称で語っている」と思えるのです。最後の数十秒の凄まじさは尋常ではなく、こっちの体もえぐられるかのような恐ろしさがありました。
この年、予定されていた来日も中止になるなど(ラインスドルフに交代)かなりの落ち込み状態の中でのこの演奏は、やはりいろんな意味でアイデンティティーを共有するイスラエル・フィルが相手だったからこそ可能だったのでしょうか?このコンビのレコーディングは77年ころから飛躍的に増えていますが、もしかしたら、彼にとって、ここを指揮することが最も太く安心できる「生命線」だったのかも知れません。
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