久しぶりの大阪。生まれ変わったフェスティバルホールで聴くのは、もちろん初めて。
前回、大植&大フィルを聴いて以来、約4年(3年と9か月)ぶりでした。
第51回大阪国際フェスティバル2013
大植英次指揮
大阪フィルハーモニー交響楽団
マーラー/交響曲第2番「復活」
スザンネ・ベルンホルト(ソプラノ)
アネリー・ペーボ(アルト)
大阪フィルハーモニー合唱団、大阪新音フロイデ合唱団
神戸市混声合唱団、ザ・カレッジ・オペラハウス合唱団
(合唱指揮:本山秀毅)
2013年4月26日(金) 19時開演
フェスティバルホール
新ホールの印象とか、この日までの私と我が家のいろいろとかもあるのですが、それは別エントリに譲ることにして、とりあえず演奏の感想(みたいなもの)を綴っておきます。
全体に、この日の演奏はオーソドックス(正調)なアプローチを主軸にしたものでありながら、室内楽的部分でのデリカシーに満ちた美しい仕上げの素晴らしさ、曲中に何度もおとずれる超強音部でのホール全体を揺るがすような鳴りっぷり、打楽器の実に多彩な音色感などが私の耳を捉えて離しませんでした。
テンポは「やや遅い目」でしたが、その遅さが気になることはなく、絶えず「自然」で必然性が感じられ、フィナーレなどは、私的には「もっと遅くてもよかったよ」とも思えたほどでした。
第1楽章の冒頭、アタックの角は丸く、しかしずっしりと重いもの。生き物みたいなトレモロの漸強弱は指揮者の意思が隅々まで透徹していることを感じさせ、その時点で「今日は、何か、すごい演奏になる」と思わせました。
中ほどよりちょっと後の「モルト・ペザンテ」で2発の打撃を食らった後に残るヴィオラのトレモロはフォルティシモのままであり(練習番号20以降)、一瞬、冒頭に舞い戻ったかのような効果を生んでいました。
先に書いたように、静かなところ、デリケートなところは常に見事で、何度も涙腺が緩みました。
大植氏の振りも、強奏部分よりもむしろ、そういう部分での動きの方がが大きいくらいで、両手両足、全ての指、顔、頭、もうすべてを駆使して、音符全部の表情や意味付けを放出しているような指揮でした。ときに見せる舞踊的な動きは、全盛期のチェリビダッケを彷彿とさせました。(そういえば、かつて大植さんが参加した数々の指揮ゼミで、最も参加期間が長かったのがチェリの講座とのことです)
第1楽章が終わると、以降に出番がある奏者、合唱、そして、ソリストが入場。
ステージマネージャー(?)氏がソリスト用のペットボトルを置くと、大植さん、「足でうっかり蹴ってしまうよ」みたいなジェスチャーをして数人の団員の笑いを誘っているかのように遠目には見えました。
第2楽章以降はアタッカで、一回も棒を下すことはありませんでした。
第2楽章の幻夢のようなエンディングから一瞬の空白を経て瞬時に現実に突き戻されるティンパニの打音の恐ろしさに震えました。
3階席でしたので、ステージの全容が見渡せる(かなりの急角度で見下ろして)わけですが、このホール、この位置(3階5列目)でも驚くべき良質の音でした。
音も、それほど小さくないし、強奏時でもダンゴにならず、管弦はもちろん、打楽器やハープの細かい音の一粒一粒も目に見えるように聴こえました。
聴きどころ・ツボ満載の第5楽章は圧巻でした。
強烈なオーラを発する大植氏の指揮は、タムタムの微細な音量差まで完璧にコントロールしているようであり、たとえば、例の「ゴジラ登場」なんて喩えられた箇所(練習番号14)での上限知らずの大音響への上り坂途中でも、2つのタムタムが交互に鳴る効果が見事でした。
しかし、あの爆音はすごかったなぁ・・・。
その後に続く、最高にヒロイックな部分のなんとも最高にヒロイックなこと!(???)
バンダとのやり取りを挟んで何度かの「大崩落」に仰け反らされながらも、合唱が入る前の静かな部分へと移り、バンダのトランペットのビブラートと舞台上の瞑想的なフルート、ピコロとの対話に「息もできない」くらいの緊張が続き、そして、いよいよ「無」の中から「声」が聴こえてきました。
合唱団は座ったまま。
「ちょっと音量大きいかな?」と感じられたのは、聴いていたポジションとの関係かも知れません。
無伴奏からトロンボーンのコラールと重なるあたりも、ちょっと響きが微妙に溶け合わない(と、私には聴こえました)ながらも、そんなことはほとんど気にならず、「声」とオーケストラのやりとりは丁寧に編み進められていきました。
ずっと座ったままのソリストと合唱がやっと立ち上がったのは、最後の上り坂に入った番号44から。
そこから最後までの最高に高揚したひとときの印象は、とても書けるものではありません。
私が、心のどこかで期待していた「激遅のエンディング」ではなかったのはちょっと肩すかしみたいにも思ったけども、きっと大植さんは、この交響曲の持つ「新しい始まり」の面を強調したかったのではないか、そんなふうにも思え、物足りなさはありません。
合唱が役目を終えて楽器だけが残ったあたりからは、新たにスタートを切るために駆けだしたかのようであり、ド迫力でありながら、どこからか爽快な風が巻き起こったような新鮮な終幕でした。
惜しむらくは、大植さんの手がまだ降ろされていないのに、拍手やブラボーが始まってしまったこと。
あの熱演では仕方ないと言えますが、あそこで「ちゃんと」出立を見届ける間があってこそ、指揮者の意図した「復活」が完結したのだと思い、それだけは残念でした。
拍手が始まり、時刻を確かめると20時41分。
合唱指揮の(三重バッハ合唱団でもおなじみの)本山秀毅先生がステージに呼ばれてカーテンコールに応えられるのを見届けて席を立ちました。終電ひとつ前に滑り込むことができました。
パイプオルガンはないので、電気式オルガンでしたが何の不自然さもありませんでした(当たり前か)。
この日の大フィルが調子よかったのかどうだったのか、普段の演奏を聴いていないので分かりませんが、4年前に聴いたときと同じか、あるいは細やかさはさらに磨きがかかっているかと感じました。何度もコンサートに通っている人に言わせれば、いろいろと突っ込みどころもあったかと思いますが、私は大満足、感動感動の演奏会でした。
以前のフェスティバルホールには懐かしい思い出がいっぱいですが、こうして生まれ変わった「新」フェスティバルホールの音響も素晴らしく今後も楽しみです。
合唱指導を担当された本山先生のフェイスブックが当夜、更新されていました。
「公開」設定となっていますので、引用させていただきます。
以下、引用・・・
今宵は、本物の「ドイッチェロマンティーク」を目の当たりにした。
大植英次指揮大阪フィルのマーラー「復活」。
伝統ある「大阪国際フェスティバル」の催しの一つである。
自在に操縦されるディナーミク、それに豊かなダイナミックスが加わり、音の渦が大きなうねりとなってホールを席巻する。
単なる音の効果だけではない。その先には明確な表現意図が示されている。マーラーの楽譜にあれだけこと細かに記されているテンポや強弱の指示が、見事に彼が意図した音の世界に収斂されてゆく。
新装なったフェスティバルホールの「復活」も、ホールの素晴らしい音響とともに見事に感じさせる名演であった。
オーケストラのメンバーもそれぞれが辿って来た音楽の道を背負って、本気のぶつかり合いの様相を呈していた。特にソロの頻出する管楽器のセクションは、それぞれが自身の最高のものを発信しようという意気込みが凄みを持って伝わった。もちろんオーケストラ全体が一つのエネルギーとなり、極めて発信力の強い音楽を奏でていた。
この交響曲の最後を飾る合唱。実は私が大学1年生の時に、京都芸大の合唱団として、山田一雄指揮、京都市交響楽団で初めて歌った懐かしい合唱である。華やかなステージに相応しく4団合同の大合唱団は、素晴らしい集中力で弱声から最強奏までを鮮やかに歌いきった。クライマックスでマエストロが信じられないアゴーギグを要求したが、合唱団は本当にブレスを保ってよくついていった。「歯磨き粉はなくなったと思ってももう一度必ず使える」のセオリーを証明していた。
マエストロの「山の向こう側に向かって歌うように、歌い上げて欲しい」の指示を斟酌して、後半部分を合唱団に「2階席、あるいは3階席を見て、歌声に大きな放物線を描いて歌って」と直前にアドバイスしたが、クリーンヒットに繋がった。
年度始めの大きなステージだったが、本物のドイツロマン派の響きの中に浸ることが出来て、後味の良い爽やかな感動が残る演奏会であった。
・・・引用、終わり
前回、大植&大フィルを聴いて以来、約4年(3年と9か月)ぶりでした。
第51回大阪国際フェスティバル2013
大植英次指揮
大阪フィルハーモニー交響楽団
マーラー/交響曲第2番「復活」
スザンネ・ベルンホルト(ソプラノ)
アネリー・ペーボ(アルト)
大阪フィルハーモニー合唱団、大阪新音フロイデ合唱団
神戸市混声合唱団、ザ・カレッジ・オペラハウス合唱団
(合唱指揮:本山秀毅)
2013年4月26日(金) 19時開演
フェスティバルホール
新ホールの印象とか、この日までの私と我が家のいろいろとかもあるのですが、それは別エントリに譲ることにして、とりあえず演奏の感想(みたいなもの)を綴っておきます。
全体に、この日の演奏はオーソドックス(正調)なアプローチを主軸にしたものでありながら、室内楽的部分でのデリカシーに満ちた美しい仕上げの素晴らしさ、曲中に何度もおとずれる超強音部でのホール全体を揺るがすような鳴りっぷり、打楽器の実に多彩な音色感などが私の耳を捉えて離しませんでした。
テンポは「やや遅い目」でしたが、その遅さが気になることはなく、絶えず「自然」で必然性が感じられ、フィナーレなどは、私的には「もっと遅くてもよかったよ」とも思えたほどでした。
第1楽章の冒頭、アタックの角は丸く、しかしずっしりと重いもの。生き物みたいなトレモロの漸強弱は指揮者の意思が隅々まで透徹していることを感じさせ、その時点で「今日は、何か、すごい演奏になる」と思わせました。
中ほどよりちょっと後の「モルト・ペザンテ」で2発の打撃を食らった後に残るヴィオラのトレモロはフォルティシモのままであり(練習番号20以降)、一瞬、冒頭に舞い戻ったかのような効果を生んでいました。
先に書いたように、静かなところ、デリケートなところは常に見事で、何度も涙腺が緩みました。
大植氏の振りも、強奏部分よりもむしろ、そういう部分での動きの方がが大きいくらいで、両手両足、全ての指、顔、頭、もうすべてを駆使して、音符全部の表情や意味付けを放出しているような指揮でした。ときに見せる舞踊的な動きは、全盛期のチェリビダッケを彷彿とさせました。(そういえば、かつて大植さんが参加した数々の指揮ゼミで、最も参加期間が長かったのがチェリの講座とのことです)
第1楽章が終わると、以降に出番がある奏者、合唱、そして、ソリストが入場。
ステージマネージャー(?)氏がソリスト用のペットボトルを置くと、大植さん、「足でうっかり蹴ってしまうよ」みたいなジェスチャーをして数人の団員の笑いを誘っているかのように遠目には見えました。
第2楽章以降はアタッカで、一回も棒を下すことはありませんでした。
第2楽章の幻夢のようなエンディングから一瞬の空白を経て瞬時に現実に突き戻されるティンパニの打音の恐ろしさに震えました。
3階席でしたので、ステージの全容が見渡せる(かなりの急角度で見下ろして)わけですが、このホール、この位置(3階5列目)でも驚くべき良質の音でした。
音も、それほど小さくないし、強奏時でもダンゴにならず、管弦はもちろん、打楽器やハープの細かい音の一粒一粒も目に見えるように聴こえました。
聴きどころ・ツボ満載の第5楽章は圧巻でした。
強烈なオーラを発する大植氏の指揮は、タムタムの微細な音量差まで完璧にコントロールしているようであり、たとえば、例の「ゴジラ登場」なんて喩えられた箇所(練習番号14)での上限知らずの大音響への上り坂途中でも、2つのタムタムが交互に鳴る効果が見事でした。
しかし、あの爆音はすごかったなぁ・・・。
その後に続く、最高にヒロイックな部分のなんとも最高にヒロイックなこと!(???)
バンダとのやり取りを挟んで何度かの「大崩落」に仰け反らされながらも、合唱が入る前の静かな部分へと移り、バンダのトランペットのビブラートと舞台上の瞑想的なフルート、ピコロとの対話に「息もできない」くらいの緊張が続き、そして、いよいよ「無」の中から「声」が聴こえてきました。
合唱団は座ったまま。
「ちょっと音量大きいかな?」と感じられたのは、聴いていたポジションとの関係かも知れません。
無伴奏からトロンボーンのコラールと重なるあたりも、ちょっと響きが微妙に溶け合わない(と、私には聴こえました)ながらも、そんなことはほとんど気にならず、「声」とオーケストラのやりとりは丁寧に編み進められていきました。
ずっと座ったままのソリストと合唱がやっと立ち上がったのは、最後の上り坂に入った番号44から。
そこから最後までの最高に高揚したひとときの印象は、とても書けるものではありません。
私が、心のどこかで期待していた「激遅のエンディング」ではなかったのはちょっと肩すかしみたいにも思ったけども、きっと大植さんは、この交響曲の持つ「新しい始まり」の面を強調したかったのではないか、そんなふうにも思え、物足りなさはありません。
合唱が役目を終えて楽器だけが残ったあたりからは、新たにスタートを切るために駆けだしたかのようであり、ド迫力でありながら、どこからか爽快な風が巻き起こったような新鮮な終幕でした。
惜しむらくは、大植さんの手がまだ降ろされていないのに、拍手やブラボーが始まってしまったこと。
あの熱演では仕方ないと言えますが、あそこで「ちゃんと」出立を見届ける間があってこそ、指揮者の意図した「復活」が完結したのだと思い、それだけは残念でした。
拍手が始まり、時刻を確かめると20時41分。
合唱指揮の(三重バッハ合唱団でもおなじみの)本山秀毅先生がステージに呼ばれてカーテンコールに応えられるのを見届けて席を立ちました。終電ひとつ前に滑り込むことができました。
パイプオルガンはないので、電気式オルガンでしたが何の不自然さもありませんでした(当たり前か)。
この日の大フィルが調子よかったのかどうだったのか、普段の演奏を聴いていないので分かりませんが、4年前に聴いたときと同じか、あるいは細やかさはさらに磨きがかかっているかと感じました。何度もコンサートに通っている人に言わせれば、いろいろと突っ込みどころもあったかと思いますが、私は大満足、感動感動の演奏会でした。
以前のフェスティバルホールには懐かしい思い出がいっぱいですが、こうして生まれ変わった「新」フェスティバルホールの音響も素晴らしく今後も楽しみです。
合唱指導を担当された本山先生のフェイスブックが当夜、更新されていました。
「公開」設定となっていますので、引用させていただきます。
以下、引用・・・
今宵は、本物の「ドイッチェロマンティーク」を目の当たりにした。
大植英次指揮大阪フィルのマーラー「復活」。
伝統ある「大阪国際フェスティバル」の催しの一つである。
自在に操縦されるディナーミク、それに豊かなダイナミックスが加わり、音の渦が大きなうねりとなってホールを席巻する。
単なる音の効果だけではない。その先には明確な表現意図が示されている。マーラーの楽譜にあれだけこと細かに記されているテンポや強弱の指示が、見事に彼が意図した音の世界に収斂されてゆく。
新装なったフェスティバルホールの「復活」も、ホールの素晴らしい音響とともに見事に感じさせる名演であった。
オーケストラのメンバーもそれぞれが辿って来た音楽の道を背負って、本気のぶつかり合いの様相を呈していた。特にソロの頻出する管楽器のセクションは、それぞれが自身の最高のものを発信しようという意気込みが凄みを持って伝わった。もちろんオーケストラ全体が一つのエネルギーとなり、極めて発信力の強い音楽を奏でていた。
この交響曲の最後を飾る合唱。実は私が大学1年生の時に、京都芸大の合唱団として、山田一雄指揮、京都市交響楽団で初めて歌った懐かしい合唱である。華やかなステージに相応しく4団合同の大合唱団は、素晴らしい集中力で弱声から最強奏までを鮮やかに歌いきった。クライマックスでマエストロが信じられないアゴーギグを要求したが、合唱団は本当にブレスを保ってよくついていった。「歯磨き粉はなくなったと思ってももう一度必ず使える」のセオリーを証明していた。
マエストロの「山の向こう側に向かって歌うように、歌い上げて欲しい」の指示を斟酌して、後半部分を合唱団に「2階席、あるいは3階席を見て、歌声に大きな放物線を描いて歌って」と直前にアドバイスしたが、クリーンヒットに繋がった。
年度始めの大きなステージだったが、本物のドイツロマン派の響きの中に浸ることが出来て、後味の良い爽やかな感動が残る演奏会であった。
・・・引用、終わり
私にとって、大変意味深く、永遠に忘れられないコンサートでありました。
感慨ひとしおでした。
今年もまた伊勢管の定期が近づいてきました。
ほかに、県文に新日本フィルが2回、センチュリーが1回来てくれるので楽しみです。
また、ご一緒できるといいですね。
すばらしい演奏会でしたね。
「復活」は、(家でも)けっこうよく聴いているのですが、やはり生だと桁違いのスケールです。
個人的には以前にシンフォニーホールで聞いたアバドBPOよりも感銘度は高かったです。
やはり大植さんは期待を裏切らない・・・その思いを新たにしました。
次の大阪遠征はいつになるか分かりませんが、ぜひ、会場でお会いしたいものですね。
楽しみにしています。
感動がいっぱいあったようで明日の力になりますよね!
私はかれこれ5ヶ月ご無沙汰になっています(^^ゞ
親父りゅうさんと、こうして同じあの瞬間に立ち会えたこと、そしてこの記事によってふたたび反芻させていただけたこと、感謝いたします。
復活賛歌のあと、まるで巨大な音楽が自らの意志でゆっくり動いているような感覚になりました。あんな夢のような世界に没入する経験、次はいつ来るのかな・・・と思います。
確かにあの拍手は3秒ほど早かったですね。大植さんが背中で「まだ早いよ!」と語っていたのが印象に残っています。