実は8月までに終えようと目論んでいた「そのとき、マーラーを聴いた」シリーズ、結局、お盆を過ぎてもまだ続いてます。
でも、もうじき終わり。
マーラー/交響曲第10番(クック版第二稿)
管弦楽:フィラデルフィア管弦楽団
指揮:ユージン・オーマンディ
HMVレビュー↓
1965年11月に、オーマンディ&フィラデルフィア管によるクック全曲版のアメリカ初演直後におこなわれたレコーディングで、クック版による世界初録音となったものです。現在一般的な「クック版」は、1972年に改訂された第3稿に基づいており、このオーマンディ盤は第2稿を使用した唯一の録音となります。
10番は、ごく最近になって聴きだした曲。
第1楽章「アダージョ」だけは、以前から耳にしてきた。
最初に聴いたのは、9番の時に書いたカセット・テープで。
あのときは、なんか「シェーンベルクみたいやなぁ」と思った。シェーンベルクって言っても「浄夜」と「ペレアス・・」くらいしか聴いたことなかった頃の話だ。
レコードはセル指揮のものを買った。これは第3楽章付き。
CDは、箱物に付いている都合でいくつか集まってきたが、長らく積極的に聴きたいという気持ちはなかった。
伊勢管の定演でも聴いている。
あれはよかった。
この曲は、(第1楽章の)例の不協和音の部分が何とも不快で、ずっと、あんまり好きではなかった。
そのへんのことは5年前にも書いた。
でも、今、読み返すと、いかにも自分の無知・無理解をさらけ出していて恥ずかしい限りだ。
10番の補筆全曲版を聴いて、ピンと来なかったのをすりかえているみたいなところがある。
でも、いまさら削っても仕方ないしなぁ、晒しておきます。
持っている全曲盤はラトル、オーマンディ、ザンデルリンクの3種。
これからの出会いが楽しみな曲である。
というわけで、実は、ワタクシ、最近になって10番の全曲版に急接近しています。
ラトルBPO盤が出たばかりの時、すぐに買って聴いたのだけど、2楽章以降がいまいちピンと来なかったので(1回聴いただけなのに)勝手に封印。
数年後、オーマンディ盤を聴いて開眼しました。
これは、ラトルよりオーマンディの方がよかったと言うのではなく、封印中の数年間で自分の聴き方・感じ方が少しは変化(進化?)したということでしょうか?
「こんな素晴らしい音楽を知らなかったなんて、なんともったいないことをしていたのか!」
それが、オーマンディ盤を聴いた時の実感でした。
クックの補筆がどの程度とか、出版までのいきさつがどうとか、そういうことについては詳しく綴られているサイトや金子さんや村井さんの著書でプチ・スタディしました。
真ん中の3つのスケルツォ(的)楽章の特異さ、妖しくうごめく魅力。
9番を超えてなお、未開の地へと進んだマーラーの新しい世界。
たぶんに私的な背景を持ちながらも、音楽はどこか無感情の面構えを呈しています。
旧来の表現から脱皮して実現した、一見無表情な音響の連なりでこそ、マーラーが描きたかった何かがあったのでしょう。
葬列の出発を告げるようなバス・ドラムの連打で始まる終楽章は、「大地の歌」や9番よりも、あきらかに「死」を近くに感じさせます。
終楽章の「アルマのA」の再現も、どこか過ぎ去った出来事の残像のようであり、必死で受容しようとする優しさのようでもあります。
死を前にした未練のようなものも生々しく感じられますが、それでいて、あっけらかんとした平明さであろうとする姿勢が胸を打ちます。
極めて私的な感情が創作の元となっているようですが、それを知らなかったとしても、マーラーが書いたのは4段~5段の簡易総譜であったとしても、この音楽はすばらしい。
感動させられます。
交響曲第10番全曲[クック版] オーマンディ&フィラデルフィア管
でも、もうじき終わり。
マーラー/交響曲第10番(クック版第二稿)
管弦楽:フィラデルフィア管弦楽団
指揮:ユージン・オーマンディ
HMVレビュー↓
1965年11月に、オーマンディ&フィラデルフィア管によるクック全曲版のアメリカ初演直後におこなわれたレコーディングで、クック版による世界初録音となったものです。現在一般的な「クック版」は、1972年に改訂された第3稿に基づいており、このオーマンディ盤は第2稿を使用した唯一の録音となります。
10番は、ごく最近になって聴きだした曲。
第1楽章「アダージョ」だけは、以前から耳にしてきた。
最初に聴いたのは、9番の時に書いたカセット・テープで。
あのときは、なんか「シェーンベルクみたいやなぁ」と思った。シェーンベルクって言っても「浄夜」と「ペレアス・・」くらいしか聴いたことなかった頃の話だ。
レコードはセル指揮のものを買った。これは第3楽章付き。
CDは、箱物に付いている都合でいくつか集まってきたが、長らく積極的に聴きたいという気持ちはなかった。
伊勢管の定演でも聴いている。
あれはよかった。
この曲は、(第1楽章の)例の不協和音の部分が何とも不快で、ずっと、あんまり好きではなかった。
そのへんのことは5年前にも書いた。
でも、今、読み返すと、いかにも自分の無知・無理解をさらけ出していて恥ずかしい限りだ。
10番の補筆全曲版を聴いて、ピンと来なかったのをすりかえているみたいなところがある。
でも、いまさら削っても仕方ないしなぁ、晒しておきます。
持っている全曲盤はラトル、オーマンディ、ザンデルリンクの3種。
これからの出会いが楽しみな曲である。
というわけで、実は、ワタクシ、最近になって10番の全曲版に急接近しています。
ラトルBPO盤が出たばかりの時、すぐに買って聴いたのだけど、2楽章以降がいまいちピンと来なかったので(1回聴いただけなのに)勝手に封印。
数年後、オーマンディ盤を聴いて開眼しました。
これは、ラトルよりオーマンディの方がよかったと言うのではなく、封印中の数年間で自分の聴き方・感じ方が少しは変化(進化?)したということでしょうか?
「こんな素晴らしい音楽を知らなかったなんて、なんともったいないことをしていたのか!」
それが、オーマンディ盤を聴いた時の実感でした。
クックの補筆がどの程度とか、出版までのいきさつがどうとか、そういうことについては詳しく綴られているサイトや金子さんや村井さんの著書でプチ・スタディしました。
真ん中の3つのスケルツォ(的)楽章の特異さ、妖しくうごめく魅力。
9番を超えてなお、未開の地へと進んだマーラーの新しい世界。
たぶんに私的な背景を持ちながらも、音楽はどこか無感情の面構えを呈しています。
旧来の表現から脱皮して実現した、一見無表情な音響の連なりでこそ、マーラーが描きたかった何かがあったのでしょう。
葬列の出発を告げるようなバス・ドラムの連打で始まる終楽章は、「大地の歌」や9番よりも、あきらかに「死」を近くに感じさせます。
終楽章の「アルマのA」の再現も、どこか過ぎ去った出来事の残像のようであり、必死で受容しようとする優しさのようでもあります。
死を前にした未練のようなものも生々しく感じられますが、それでいて、あっけらかんとした平明さであろうとする姿勢が胸を打ちます。
極めて私的な感情が創作の元となっているようですが、それを知らなかったとしても、マーラーが書いたのは4段~5段の簡易総譜であったとしても、この音楽はすばらしい。
感動させられます。
交響曲第10番全曲[クック版] オーマンディ&フィラデルフィア管
Mahler: Symphony No. 10 [Performing Version by Deryck Cooke]Sonyamazonサイトへ |
マーラー:交響曲第10番(クック版)(紙ジャケット仕様)オーマンディ(ユージン)ソニー・ミュージックジャパンインターナショナルこちらは国内盤(紙ジャケ) |
連日の「第10」チクルス、とても楽しみであり、またためになります。
私的なことと繋がった音楽は、これはもう、単に「聴く」とか「良い」とか「悪い」とか、そんなこととは別の次元で互いが求め合うみたいな感じですね。
音楽(芸術)が持つ、最も根源的な役割のひとつだと思います。
そういう曲はたくさんは要らないかも知れませんが、文字通り「掛替えがない」のでしょうね。
私もこの終楽章はいつも泣けて仕方がありません。
個人的な事になりますが、過去に失敗から何物にも代えがたい愛するものと取り返しのつかない別れをした自分としては、その悲しみをマーラーやアルマほどではないにしろ体験した自分としては、ここはいけません。
マーラーのように私にはまだ乗り越えることはできません、その知性も勇気も持てないでいます、残念ながら。
アルマがはじめてクック版を聴いたとき、この曲の終楽章をどのような気持ちで聴いていたのか。
最後の場面はミュージカルのCATSと同じなんですよね。地獄から天国へ、その大変な苦しい変化を客席から目の当たりに観ることに於いて。
そして主人公が変化するその立ち会い者、証言者としてその場にいることが。
あのミュージカルでもいつも最後泣けちゃうんですけど、この曲も。。。
自分にとり切なすぎる1曲です。