ツイッター任せばかりじゃなく、自前の記事も書かなくちゃ、って思ってたら二日続いてgooさんの「ツイッターまとめ投稿」が機能していないみたい。まあ、所詮「つぶやき」「独り言」なので、「どうしても」ってほどでもないのですが、昨日の分、一応こっちに新着順で出ています。忙しくて音盤鑑賞の時間もしっかり取れない中で、先日来、マーラーをよく聴いてます。スラトキンの「復活」に続いて、聴いたのがこれ。
マーラー/交響曲第1番二長調
管弦楽:バイエルン放送交響楽団
指揮:ラファエル・クーベリック
録音:1979年、於ミュンヘン、ライヴ
クーベリックと言えば、実演やFMなどで聴くライヴとディスクの(セッション)録音とでは、けっこう受ける印象が違います。二度聴いた彼の実演、1975年来日公演(名古屋)と、91年のチェコ・フィルとの「わが祖国」(大阪)は、どちらも圧倒的で、熱風が顔面に吹き付けてくるような趣がありましたが、彼のディスクの多くは(そういう要素も聞き取れるけれども)ずっと「大人しく」「整理された」ものに聴こえます(と、私は感じているのです)。
で、この第1交響曲ですが、DGへのセッション録音に比べると、やはり、かなり「熱い」演奏でありますが、録音された音として聴いてみると、クーベリックらしい「温和さ」、「節度」のようなものが感じられるのです。そこがクーベリックの魅力の不思議なところで、この「爆発一歩半手前」みたいなアプローチは、ジュリーニの「緩さ」とは、また違う、彼独特の世界だと思います。それでいて、聴いていて物足りなさを全然感じないのが不思議なところです。
演奏の実体は、マイクを通してしまうと大きく間引きされてしまうという一面がありますが、それにしてもクーベリックの場合は、そういう傾向が強いのではないでしょうか。
バイエルン放送響の、あの水圧の強いホースが振動しているかのような、やや野太くて光沢のある木管や、対抗配置によって眼前でめまぐるしく対話したり交錯したりする弦の魅力を堪能しながら、激しいけれども、常にどこか「ノーブル」な感じを保って盛り上がるクーベリック独特の世界、というのが自室で鑑賞した私の感想ですが、実際に会場で聴いた人はどうだったのでしょうね。たぶん、会場にいた人たちは、あの75年の私達みたいに、打ちのめされるほどに圧倒されたのではないでしょうか。そして、そういう人は、このCDを聴いても私たちとは全く違う印象を持つことでしょう。私たちが、実際に聴いたコンサートのライヴ盤を聴くときのように・・・。
↓私が買った時よりも随分とお安くなっています。
マーラー/交響曲第1番二長調
管弦楽:バイエルン放送交響楽団
指揮:ラファエル・クーベリック
録音:1979年、於ミュンヘン、ライヴ
クーベリックと言えば、実演やFMなどで聴くライヴとディスクの(セッション)録音とでは、けっこう受ける印象が違います。二度聴いた彼の実演、1975年来日公演(名古屋)と、91年のチェコ・フィルとの「わが祖国」(大阪)は、どちらも圧倒的で、熱風が顔面に吹き付けてくるような趣がありましたが、彼のディスクの多くは(そういう要素も聞き取れるけれども)ずっと「大人しく」「整理された」ものに聴こえます(と、私は感じているのです)。
で、この第1交響曲ですが、DGへのセッション録音に比べると、やはり、かなり「熱い」演奏でありますが、録音された音として聴いてみると、クーベリックらしい「温和さ」、「節度」のようなものが感じられるのです。そこがクーベリックの魅力の不思議なところで、この「爆発一歩半手前」みたいなアプローチは、ジュリーニの「緩さ」とは、また違う、彼独特の世界だと思います。それでいて、聴いていて物足りなさを全然感じないのが不思議なところです。
演奏の実体は、マイクを通してしまうと大きく間引きされてしまうという一面がありますが、それにしてもクーベリックの場合は、そういう傾向が強いのではないでしょうか。
バイエルン放送響の、あの水圧の強いホースが振動しているかのような、やや野太くて光沢のある木管や、対抗配置によって眼前でめまぐるしく対話したり交錯したりする弦の魅力を堪能しながら、激しいけれども、常にどこか「ノーブル」な感じを保って盛り上がるクーベリック独特の世界、というのが自室で鑑賞した私の感想ですが、実際に会場で聴いた人はどうだったのでしょうね。たぶん、会場にいた人たちは、あの75年の私達みたいに、打ちのめされるほどに圧倒されたのではないでしょうか。そして、そういう人は、このCDを聴いても私たちとは全く違う印象を持つことでしょう。私たちが、実際に聴いたコンサートのライヴ盤を聴くときのように・・・。
↓私が買った時よりも随分とお安くなっています。
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