たまには記事書かないと。
ホンマに、ただのツイッター記録帳ではブログやってる意味ないもんね。
ベートーヴェン/交響曲第3番「英雄」
管弦楽:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:ヴィルヘルム・フルトヴェングラー
録音:1952年11月30日(ライヴ)、アルトゥス盤
これは、お馴染みのEMIセッション録音の数日後の演奏会ライヴ。EMI盤はLP時代に擬似ステ盤で出会い、その後、モノ盤を買い直し。CD時代になって再び擬似ステ盤を入手、そしてイタリアEMI盤も手元に。なつかしい、時々聴きたくなる演奏である。
当盤の演奏はEMI盤と基本的に同じだけど、こっちはライヴということで、テンポの変化や表情付けなどが、より振幅大きく、また即興的である(と思われる)。今風のびゅんびゅん行く演奏どころか、60年代70年代のたくさんある名盤と比べても、これは独特な表情の演奏だ。
テンポの変化は、まるで自分の脈拍が知らぬ間に変化しているような自然さを感じさせる所と、思いっきり意思の力が働いているようなところと両方あり、まあ、どっちもすごいと思った。
第1楽章の各部分の濃厚な描き分けは、まるで劇的な物語の朗読を聴いているようであり、はじめてEMI盤を聴いた時、その伸縮自在な運び方に驚いたことを思い出した。
第2楽章は、冒頭から音の鳴りっぷりが尋常でない。センチメンタルっぽさは無く、凄惨な廃墟の中を眺めつつ淡々と歩き続ける冷徹な趣がある。恐ろしさと甘美な音色のコラボ。
第3楽章は伴奏部のキザミのリアルさが新鮮であった。
最も即興的な扱いが目立つ終楽章は、決して笑ってはいけない怖い遊びがある。千変万化の変奏のあとに来るコーダは、あの鳴り切らずに上滑りしてしまったセッション盤とは違って、堂々たるエンディング。素晴らしい。
録音(マスタリング)は乾燥肌テイストで、高音部はややカサカサしているが、管の響きや中低音の弦の艶やかさはよく出ていて、ちゃんと聴けるものであった。
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ベートーヴェン/交響曲第3番「英雄」
管弦楽:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:ヴィルヘルム・フルトヴェングラー
録音:1952年11月30日(ライヴ)、アルトゥス盤
これは、お馴染みのEMIセッション録音の数日後の演奏会ライヴ。EMI盤はLP時代に擬似ステ盤で出会い、その後、モノ盤を買い直し。CD時代になって再び擬似ステ盤を入手、そしてイタリアEMI盤も手元に。なつかしい、時々聴きたくなる演奏である。
当盤の演奏はEMI盤と基本的に同じだけど、こっちはライヴということで、テンポの変化や表情付けなどが、より振幅大きく、また即興的である(と思われる)。今風のびゅんびゅん行く演奏どころか、60年代70年代のたくさんある名盤と比べても、これは独特な表情の演奏だ。
テンポの変化は、まるで自分の脈拍が知らぬ間に変化しているような自然さを感じさせる所と、思いっきり意思の力が働いているようなところと両方あり、まあ、どっちもすごいと思った。
第1楽章の各部分の濃厚な描き分けは、まるで劇的な物語の朗読を聴いているようであり、はじめてEMI盤を聴いた時、その伸縮自在な運び方に驚いたことを思い出した。
第2楽章は、冒頭から音の鳴りっぷりが尋常でない。センチメンタルっぽさは無く、凄惨な廃墟の中を眺めつつ淡々と歩き続ける冷徹な趣がある。恐ろしさと甘美な音色のコラボ。
第3楽章は伴奏部のキザミのリアルさが新鮮であった。
最も即興的な扱いが目立つ終楽章は、決して笑ってはいけない怖い遊びがある。千変万化の変奏のあとに来るコーダは、あの鳴り切らずに上滑りしてしまったセッション盤とは違って、堂々たるエンディング。素晴らしい。
録音(マスタリング)は乾燥肌テイストで、高音部はややカサカサしているが、管の響きや中低音の弦の艶やかさはよく出ていて、ちゃんと聴けるものであった。
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