
連休ということで、昨夜は夜更かしして映画を観た。「時をかける少女」・・・・昨年の映画かな?
なかなか面白かった。設定が荒唐無稽であっても、そこに描かれる人間の心持ちは「真実」であり共感を呼ぶ。そして何より、タイムスリップした先の1974年という時代は、余りに懐かしく、登場人物のファッションや彼らの下宿での生活形態は、自分のそれとよく似ていてうれしかった。あっ、自分は「流し」で行水するなんてことはしなかったが、でも、大学のボロ寮のシャワーは水しか出なくて、夏場以外はそれはもう覚悟が要るものだった。実際は、自分が学生だったのは1976年からであり、映画とは少し時期はズレるが、まあ、だいたいよく似たもの。
で、最近聴いたこの音盤も、その懐かしい時代へとタイムスリップさせてくれる1枚だった。
カラヤン=ベルリン・フィル、1977年の東京ライヴ。
70年代から80年代前半にかけて、なんとしても実際に聴きたいと思う指揮者たちが何人かいた。バーンスタイン、クーベリック、ムラヴィンスキー、チェリビダッケ、ベームは聴くことがてぎたが、カラヤン、ショルティ、ジュリーニ、マタチッチは叶わなかった。マタチッチが亡くなったときは本当に落胆したし、悲しかった。(今、とても気に入っているオーマンディは、当時は余り関心がなかった)
1977年・・・当時、二十歳だった。この時の来日公演を、本当は聴くはずだった。
東京がベートーヴェン・チクルスだったのに対して、大阪はブラームス・チクルスだった。(ほとんどダブリ無しの連続公演を、よくもやってくれたものだと思う)
その大阪公演の、たしかブラ1の日のチケットを買うべく、前日の深夜から大阪フェスティバルホールのチケット売り場に徹夜の準備を持って友人と出かけた。ところが、私は知らなかったのだが、チケット販売方法が葉書による抽選に変わったのだったか、前売り日が変更になったのだったか、今は忘れたが、とにかく、翌日のチケット前売りは中止になっていた。張り紙を見たような記憶があるが定かではない。で、やむなく、その晩は地下鉄「天六」駅付近の友人の下宿に泊めてもらい、翌日、そこから大学に行った(はず)。その後、結局チケットは買えずじまい、その後、何度かあったカラヤンの来日だが、一度も実演に接することなく彼は1989年に逝ってしまった。
当盤を含む一連のライヴは、当時、民放FMや民放TVで放送されたはずだが、当時はそれほど好印象は持たなかった。民放FMの受信状況が悪かったのもあるし、当時、カラヤンは嫌いではなかったものの、放送される彼のライヴ演奏はどこか雑な感じがして、その多くは録音しては消してしまうという繰り返しだった。1976年のザルツブルグでの「第9」などは、例外的に熱狂したものだったが・・・。
以前にメモリーズから出た全集にいくつか、この時のライヴが含まれていたと思うが、あれもザルツブルグ「第9」以外は、音質芳しくなく放出してしまった。
今回、「正規」の録音がリリースされ、まずは音声PCM放送(ミュージックバード)で聴いたのだが、その生々しい音質と、当時は気付かなかったオーケストラの微細な表情に驚き、まずは1番&「英雄」を入手。次いで当盤を購入した。これはよかった。で、勢いで残りの3枚も一気に入手した(その3枚は、もうじき届くはず)。いずれも某オークションにて。だって、まともに買うと高いのだ。
ベートーヴェン/交響曲第9番ニ短調作品125『合唱』
バーバラ・ヘンドリックス(ソプラノ)
ヘルイェ・アルゲルヴォ(アルト)
ヘルマン・ヴィンクラー(テノール)
ハンス・ゾーティン(バス)
プロ合唱団連盟
東京藝術大学合唱団
田中信昭(合唱総指揮)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ヘルベルト・フォン・カラヤン(指揮)
1977年11月18日、東京 普門館
プロデューサー:東条碩夫
エンジニア:若林駿介
この録音は、(ブックレット解説によると)本番直前の機材のトラブルにより、多くのマイク回線が使い物にならなくなり、唯一、生き残ったワンポイント的に置かれたマイクの音声のみによる収録とのこと。聴いてみると、たしかに音は「こじんまり」としており、特に弦の音は痩せている。ステレオ感もイマイチでバランスもおかしいと言えばおかしい。しかし、今どきの録音に比べて妙に「自然」に聴こえる感じもあり、慣れたら大丈夫だと思った。それに強奏時の臨場感はなかなかよく出ている。
私が初めて買った「第9」のレコードがカラヤンのであった(DG60年代盤)。また、初めて買った「第9」のCDもカラヤンであった(DGデジタル録音盤)。彼の「第9」は手元に正規盤が5種、ライヴが3種ある。
「第9」でのカラヤンのアプローチは、特に「どこをどう」と言うような小細工大細工はしていない。真っ当であり、駆け引き無しの孤高の境地とも言いたい。
ただ、ライヴでは、破壊的な部分をポーカーフェイスで繰り出してくる確信犯的「怖さ」がある。第1楽章再現部では、ティンパニを2人にして、連続する16分音符(実際はトレモロにしている?)を、一般によく為されるような抑揚は付けずにセンプレ・フォルテシモ。その中でさらにスフォルツァンドの一撃を二人目の奏者に激打させている。まるで打音の集中豪雨の真っ只中にいるような効果を出している。
この凄まじさに、例のザルツブルグ・ライヴを初めて聴いた時には、完全にやられてしまった。
ここでも同様のことをやっており、遠い録音ながらその劇的効果は十分に感じられる。
かと思うと、第2楽章の例のティンパニは、抑制を効かせた控えめなもの。これもまた、確信犯的。知らん顔して目を閉じて振っていながら、心の中では「どうだ?拍子抜けしたかい?」とニタリとしていたのかも知れない。
第3楽章は、録音のデメリットを一番被っているだろう。スピーカーを通してよりヘッドフォンでの聴取の方が聴きやすいと思う。この日の合唱に参加した知人(当時、東京芸大生)が「(BPOの)、あんな弦の音は聴いたことがない」と驚嘆していた、その響きは、残念ながら想像するしかない・・・。
そして、終始「大人のテンポ」設定で進められる第4楽章は、ちぐはぐ感を最小限に止めた見事なものであり、ハッタリ皆無の正々堂々の演奏だった。
熱狂を絵に描いたような終結は、言っちゃ悪いけど、他のいろいろと「あの手この手」で盛り上げていた他の指揮のどれもが、なんとも陳腐に思えてしまう錯覚さえ覚える。フルヴェンの加速でさえ「安直」とさえ思えてしまうような「楽譜そのものに語らせた熱狂」。
あと、3枚も楽しみである。


なかなか面白かった。設定が荒唐無稽であっても、そこに描かれる人間の心持ちは「真実」であり共感を呼ぶ。そして何より、タイムスリップした先の1974年という時代は、余りに懐かしく、登場人物のファッションや彼らの下宿での生活形態は、自分のそれとよく似ていてうれしかった。あっ、自分は「流し」で行水するなんてことはしなかったが、でも、大学のボロ寮のシャワーは水しか出なくて、夏場以外はそれはもう覚悟が要るものだった。実際は、自分が学生だったのは1976年からであり、映画とは少し時期はズレるが、まあ、だいたいよく似たもの。
で、最近聴いたこの音盤も、その懐かしい時代へとタイムスリップさせてくれる1枚だった。
カラヤン=ベルリン・フィル、1977年の東京ライヴ。
70年代から80年代前半にかけて、なんとしても実際に聴きたいと思う指揮者たちが何人かいた。バーンスタイン、クーベリック、ムラヴィンスキー、チェリビダッケ、ベームは聴くことがてぎたが、カラヤン、ショルティ、ジュリーニ、マタチッチは叶わなかった。マタチッチが亡くなったときは本当に落胆したし、悲しかった。(今、とても気に入っているオーマンディは、当時は余り関心がなかった)
1977年・・・当時、二十歳だった。この時の来日公演を、本当は聴くはずだった。
東京がベートーヴェン・チクルスだったのに対して、大阪はブラームス・チクルスだった。(ほとんどダブリ無しの連続公演を、よくもやってくれたものだと思う)
その大阪公演の、たしかブラ1の日のチケットを買うべく、前日の深夜から大阪フェスティバルホールのチケット売り場に徹夜の準備を持って友人と出かけた。ところが、私は知らなかったのだが、チケット販売方法が葉書による抽選に変わったのだったか、前売り日が変更になったのだったか、今は忘れたが、とにかく、翌日のチケット前売りは中止になっていた。張り紙を見たような記憶があるが定かではない。で、やむなく、その晩は地下鉄「天六」駅付近の友人の下宿に泊めてもらい、翌日、そこから大学に行った(はず)。その後、結局チケットは買えずじまい、その後、何度かあったカラヤンの来日だが、一度も実演に接することなく彼は1989年に逝ってしまった。
当盤を含む一連のライヴは、当時、民放FMや民放TVで放送されたはずだが、当時はそれほど好印象は持たなかった。民放FMの受信状況が悪かったのもあるし、当時、カラヤンは嫌いではなかったものの、放送される彼のライヴ演奏はどこか雑な感じがして、その多くは録音しては消してしまうという繰り返しだった。1976年のザルツブルグでの「第9」などは、例外的に熱狂したものだったが・・・。
以前にメモリーズから出た全集にいくつか、この時のライヴが含まれていたと思うが、あれもザルツブルグ「第9」以外は、音質芳しくなく放出してしまった。
今回、「正規」の録音がリリースされ、まずは音声PCM放送(ミュージックバード)で聴いたのだが、その生々しい音質と、当時は気付かなかったオーケストラの微細な表情に驚き、まずは1番&「英雄」を入手。次いで当盤を購入した。これはよかった。で、勢いで残りの3枚も一気に入手した(その3枚は、もうじき届くはず)。いずれも某オークションにて。だって、まともに買うと高いのだ。
ベートーヴェン/交響曲第9番ニ短調作品125『合唱』
バーバラ・ヘンドリックス(ソプラノ)
ヘルイェ・アルゲルヴォ(アルト)
ヘルマン・ヴィンクラー(テノール)
ハンス・ゾーティン(バス)
プロ合唱団連盟
東京藝術大学合唱団
田中信昭(合唱総指揮)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ヘルベルト・フォン・カラヤン(指揮)
1977年11月18日、東京 普門館
プロデューサー:東条碩夫
エンジニア:若林駿介
この録音は、(ブックレット解説によると)本番直前の機材のトラブルにより、多くのマイク回線が使い物にならなくなり、唯一、生き残ったワンポイント的に置かれたマイクの音声のみによる収録とのこと。聴いてみると、たしかに音は「こじんまり」としており、特に弦の音は痩せている。ステレオ感もイマイチでバランスもおかしいと言えばおかしい。しかし、今どきの録音に比べて妙に「自然」に聴こえる感じもあり、慣れたら大丈夫だと思った。それに強奏時の臨場感はなかなかよく出ている。
私が初めて買った「第9」のレコードがカラヤンのであった(DG60年代盤)。また、初めて買った「第9」のCDもカラヤンであった(DGデジタル録音盤)。彼の「第9」は手元に正規盤が5種、ライヴが3種ある。
「第9」でのカラヤンのアプローチは、特に「どこをどう」と言うような小細工大細工はしていない。真っ当であり、駆け引き無しの孤高の境地とも言いたい。
ただ、ライヴでは、破壊的な部分をポーカーフェイスで繰り出してくる確信犯的「怖さ」がある。第1楽章再現部では、ティンパニを2人にして、連続する16分音符(実際はトレモロにしている?)を、一般によく為されるような抑揚は付けずにセンプレ・フォルテシモ。その中でさらにスフォルツァンドの一撃を二人目の奏者に激打させている。まるで打音の集中豪雨の真っ只中にいるような効果を出している。
この凄まじさに、例のザルツブルグ・ライヴを初めて聴いた時には、完全にやられてしまった。
ここでも同様のことをやっており、遠い録音ながらその劇的効果は十分に感じられる。
かと思うと、第2楽章の例のティンパニは、抑制を効かせた控えめなもの。これもまた、確信犯的。知らん顔して目を閉じて振っていながら、心の中では「どうだ?拍子抜けしたかい?」とニタリとしていたのかも知れない。
第3楽章は、録音のデメリットを一番被っているだろう。スピーカーを通してよりヘッドフォンでの聴取の方が聴きやすいと思う。この日の合唱に参加した知人(当時、東京芸大生)が「(BPOの)、あんな弦の音は聴いたことがない」と驚嘆していた、その響きは、残念ながら想像するしかない・・・。
そして、終始「大人のテンポ」設定で進められる第4楽章は、ちぐはぐ感を最小限に止めた見事なものであり、ハッタリ皆無の正々堂々の演奏だった。
熱狂を絵に描いたような終結は、言っちゃ悪いけど、他のいろいろと「あの手この手」で盛り上げていた他の指揮のどれもが、なんとも陳腐に思えてしまう錯覚さえ覚える。フルヴェンの加速でさえ「安直」とさえ思えてしまうような「楽譜そのものに語らせた熱狂」。
あと、3枚も楽しみである。

1970年代後半、カラヤンは毎年のように来日しておりました。この演奏、FM東京で放送されたような記憶もあるのですが(エアチェックして聴いていました)、テープを消してしまって、しかもカセットテープは以前すべて処分してしまったので、定かではありません。「普門館の音はあまり良くない」なんて当時云われていましたが、FMで聴くとそう感じなかったことはよく覚えています。
第九実況盤でのティンパニの動きのこと、とても参考になりました。有り難うございます。カラヤンの第九、聴き直してみたくなりました。
初めて買った第九のCDはボクもカラヤンの最新デジタル版でした。3,500円でした。懐かしいです。カラヤンは大好きなんです。巧いなあとレコードを聴くたびに思います。しかし、実演には縁がありませんでした。残念です。
カラヤンが実演で何をしているのか、よく分かりました。有り難うございます。
やはり、70年代の話になると、何かしらムズムズするのではないでしょうか?(笑)
ティンパニの件は、以前、何かで読んで知ってましたし、当盤の解説にも、「二人目のティンパニ奏者の動き」の詳細が記されておりました。例のジルベスタでの映像でも、その様子は確認できますね。
第9に限らず、今、いろんなスタイルの演奏が出尽くしているようであり、まだまだ演奏芸術の可能性は広がっているようでもあり、よく分からないのですが、かつて、何度も繰り返し聴いて自分的には「ありふれた」感のある演奏が、まだまだ、その輝きを失っていないどころか、新鮮でさえあることに嬉しい驚きを覚える「のすたる爺」であります。