歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪漢字について その3≫

2021-03-18 18:50:43 | 漢字について
≪漢字について その3≫
(2021年3月18日投稿)




【はじめに】


 前回までのブログでは、冨田健次先生の本(冨田健次『フォーの国のことば―ベトナムを学び、ベトナムに学ぶ』春風社、2013年)に刺激を受けて、魚にまつわる漢字をみてきた。
次に、もう少しテーマを広げて、言語や漢字について考えてみたい。とりわけ、日本語の歴史や漢字の歴史に焦点をしぼって、まとめてみた。




【冨田健次『フォーの国のことば』春風社はこちらから】

フォーの国のことば: ベトナムを学び、ベトナムに学ぶ


さて、今回の執筆項目は次のようになる。


<その3>
・日本語の歴史について
・漢字の歴史について
・漢字の呉音と漢音について
・藤堂明保の漢字研究について
・日本の漢字のヤヌス性について
・借用された漢字について
・呉音と漢音について―その2―
・日本の風土と勘違いの歌詞について






日本語の歴史について


言語は決して言語のみで成立しているものでない。それを語る「人」がある。その「人」は着物を着、物を食い、結婚し、死んで葬られる存在であり、慣習の絆にしばられている。だから、言語は文化と複合して共存しているといえる。

日本語の歴史を文献的にたどった場合、さかのぼって8世紀まで、断片的には3世紀半ばまでの記録があるにすぎない。隣国朝鮮は、15世紀になって初めて自分たちの言語を自分たちの文字で記すことを始めた。蒙古語も13世紀の記録が古いとされる。琉球語は12世紀の資料までしかさかのぼれないといわれる。何千年の古さをもつ中国語は、日本語とは性格の異なる言語であるから、比較してもあまり意味がないとされる。

大野晋は、日本語の特徴として、次の事実を挙げている。
①日本語はアルタイ語(トルコ語、蒙古語、満州語、朝鮮語など)と文法的構造はかなりよく似ている。
②朝鮮語とは単語の上でも対応するらしいものがある。しかしそれは、200語前後である。
③古代日本語には、アルタイ語と共通な母音調和と呼ばれる現象がある。しかし、単語の上の対応は日本語とアルタイ語との間では極めて少ない。
④琉球語は日本語と同じ系統である。
⑤南方の言語には、日本語と文法的構造の非常に異なるものが多く、日本語と親戚関係にあると思われるものは、まだ見出されない。ただ、日本語と同じような、完全な母音終りを持ち、また、簡単な頭子音組織を持つ言語として、ポリネシア語・パプア語などがある。
⑥チベット語・ビルマ語は語順が日本語と似ている。しかし単語の対応は見出されない。

日本の最古の文献時代である8世紀の歌謡や、それ以後の物語によれば、日本は母系的な結婚の習俗が根強く行きわたっていた。また、女王や女の巫子(みこ)、太陽神の崇拝、神話の内容、神の観念において、古代日本文化に見られる南方的要素は時代をさかのぼるほど濃くなってくる。ところが、古墳時代以後、日本に対して優勢だったのは、北方シベリア的遊牧民族の文化である。そこには母系的な文化を見ることがない。すると、母系的な文化、つまり南方的文化要素はいつ日本に入って来たのかが問題となる。

この点、国語学者の大野晋は、弥生式文化期に入ったものと想定している。つまり、南方的な文化は、水田稲作や金属器、機織(はたおり)を持った弥生式文化によって圧倒され、下敷きにされ、やがて社会の下層へと追いやられたものと推測している。
弥生式文化の時代は、西暦紀元前3世紀くらいに始まり、紀元後3世紀まで続くが、この弥生式文化は、縄文式文化の生活を一変させる。大野は、この弥生式文化の時代に、それ以前の日本語がアルタイ語的な文法組織を持った言語に代えられると推測している。つまりこのように想定すると、文化史上の事実と言語の上の事実とが、よく調和するというのである(大野晋『日本語の年輪』新潮文庫、1966年[2000年版]、228頁~231頁)

【大野晋『日本語の年輪』新潮文庫はこちらから】

日本語の年輪 (新潮文庫)

漢字の歴史について


漢字の歴史を辿ってみると、甲骨文字→金文→篆書→隷書→楷書という変遷がある。
殷代には、亀の甲や牛の骨に、占いに立ち会った巫(ふ)または史(し)(記録係)が小刀でその表面に甲骨文字を刻みつけた。今から3000年も前のことである。中国に生まれた漢字もまた、初めから神格化された性質を持っていたといわれる。つまり文字を介して、人間は神々と言葉を交わした。その意味で、文字は神からの使者である。神のお告げを聞くのに、古代中国の人々は、亀甲や獣骨を火で焼き、それによりできた割れ目を天意として文字に刻んだ。それが一般に甲骨文字と呼ばれる漢字の最初の姿であった。

紀元前11世紀の周代から春秋戦国時代にかけて青銅器に「金文」が刻まれた。その金文は甲骨文字を継承したものであった。紀元前3世紀に秦の始皇帝が天下を統一したとき、金文を継承して、標準の字体として「小篆(しょうてん)」(=篆書)を定めた。そして漢代に、篆書が直線化して隷書となり、後漢末から東晋にかけて、簡素化した楷書となったといわれる(藤堂明保『漢字の話 下』朝日選書、1986年[1989年版]、4頁~6頁。鈴木史楼『百人一書―日本の書と中国の書―』新潮選書、1995年[1996年版]、12頁)。

【藤堂明保『漢字の話 下』朝日選書はこちらから】

漢字の話〈下〉 (朝日選書)


【鈴木史楼『百人一書―日本の書と中国の書―』新潮選書はこちらから】

百人一書―日本の書と中国の書 (新潮選書)

漢字の呉音と漢音について


漢字の読みには、呉音と漢音がある。例えば、「木」(き)という漢字は、樹木の形を簡単に描いた象形文字である。呉音読みの「モク」と、漢音読みの「ボク」がある。呉音は、6世紀、中国の南北朝時代に江南の宋王朝から日本に輸入された中国語である。それに対して、漢音は、7、8世紀になって洛陽や長安からはいってきた北方式の発音である。当時の長安では、本来mであったのをmbのように発音したそうだ。そのため、呉音と漢音の間に、例えば、木・目・米をモク・モク・マイ→ボク・ボク・ベイと発音する差が生じた(藤堂、1986年[1989年版]、65頁)

藤堂明保の漢字研究について


中国語学者藤堂明保(とうどうあきやす、1915-1985)は中国音韻学の権威であった。藤堂は、先の加納喜光の大学院時代の指導教官であり、加納はその弟子筋にあたる。藤堂は中国での上古音(『詩経』の時代の漢字の発音)の研究成果を利用して、漢字の字源の研究に進んだ。
その漢字研究の特質は、「単語家族(word family)という考え方にある。
これは、スウェーデンの言語学者B. カールグレン(Bernhard Karlgren)が最初に提唱した考え方である。つまり、古代の漢字の発音の研究成果を利用して、発音の似た語彙同士をいくつかのグループに分け、その核心に共通して存在する意味を抽出して、そこからそれぞれの文字の本義を系統的に考えていこうという方法である。

藤堂は、「字形はあくまで影法師」で、漢字の字源を考えるには、まず漢字の字音を整理して、文字の元となったことばの次元にまで戻らなければならないと考えた。
そして、ことばの系列ごとに共通する基本的な意味を抽出して、そこから各字の字義を考えなければならないというのである。つまり、藤堂の考え方は形声文字で同一の音符をもった文字群には共通する基本的な意味が想定できることがあるという「右文説(ゆうぶんせつ)」を発展させたものである。音符は通常では文字の右半分に配置されていることが多いことから、「右文説」といわれた。

たとえば、淺(水量が少ない)、錢(額面の小さなカネ)、賤(財産の少ない者)、殘(わずかに残った部分)の4字はいずれも「戔」を音符とする形声文字であるが、この一群のグループにはすべて「少ない、わずか」という共通の意味が見てとれると「右文説」では考える(阿辻哲次『漢字の字源』講談社現代新書、1994年、243頁~245頁)。

さて、藤堂明保は、『漢字の話 下』(朝日選書、1986年[1989年版])の「あとがきに代えて 漢字と日本語」(249頁~265頁)において、この呉音と漢音、そして宋音について、再度、まとめているので、それを紹介しておこう。
仏法や中国の制度とともに日本に伝わった6世紀の中国語は、揚子江の下流(かつての呉の地)の方言であったので、俗にそれを「呉音」と呼んだ。その後、630年から894年までに、延べ1000人を越える学生や僧侶が遣唐使として洛陽や長安に向かい、唐土の文物を吸収して戻ってきた。

ところが、洛陽は中国の北寄りの地、長安ははるか西北に偏していて、いわゆる「西北方言」が話されていた。それが唐代の都ことばとなったので、漢人の標準語という意味で「漢音」と呼ばれていた。南の呉音―北の漢音という異質な中国語が、二つの層となって日本に押し寄せた。呉音は6世紀の南の漢語をまね、漢音は7世紀以降9世紀までの西北漢語の発音をまねたものであった。
両者の発音はかなりの差があり、呉音では帯(t)タイと太(t’)タイ―大(d)ダイのように、漢語のdを日本語の濁音に訳している。ところが唐代長安では、この濁音が消えて清音に合流したので、遣唐使は清音を伝えた。大国(タイ)のように、澄んで読むのは漢音である。

遣唐使の伝えた漢音は、それ以前の呉音に比べて、大きな違いがある。例えば、
文=モン→ブン、美=ミ→ビ、万=マン→バン、男女=ナムニョ→ダムヂョ、人=ニン→ジン、然=ネン→ゼンで、前者が呉音で、後者が漢音である。また、二・爾・児は、呉音ではニ、漢音ではジと読む。
そして、聴聞=チャウモンは呉音だが、新聞=シンブンは漢音、老若=ラウニャクは呉音で、若少=ジャクセウは漢音である。小児=セウニは呉音、幼児=エウジは漢音である。
朝廷では、学生や僧侶に対して、「これより後は漢音を習え」と求めたが、すでに仏教語や生活用語として根をおろしていた漢語が存在した。例えば、地獄極楽(漢音ならチガクキョクラク)、毒(漢音ならトク)、肉(漢音ならジク)などは、にわかに変わるわけにはいかなかった。そして呉音と漢音は、日本語の中で長年にわたって星のつぶし合いを演じてきた歴史がある。

呉音―経文=キャウモン、成就=ジャウジュ、兄弟=キャウダイ、天井=テンジャウ
漢音―経籍=ケイセキ、成功=セイコウ、兄弟=ケイテイ、井田=セイデン
片や呉音は仏教語および古くから日本語にとけこんだ物の名、他方漢音はかたい漢文用語である。

これらに、更に、宋音が伝来した。遣唐使が中止になったのちにも、日本の僧たちは、北宋(都は開封)を訪れた。例えば、984年には東大寺の奝然(ちょうねん、?-1016)らが日本年代記をたずさえて北宋の太宗に謁見した。僧侶が伝えた中世の漢語は、今の北京語に似ており、それを「宋音」という。それは舶来の便利な道具の名や禅宗のことばに多いといわれる。

例えば、火榻(コタツ)の火=コ、和尚(ヲシャウ)の和=ヲ、庫裏(クリ)の庫=ク、栗鼠(リス)の鼠=ス、都合(ツゴフ)の都=ツが宋音として挙げられる。
宋音のもとになったのは今日の杭州や寧波あたりの「南宋官話」であって、そこでは漢音の「h濁音」を、母音のように発音したという。行という字は、呉音(濁ってギャウ)―漢音(清音でカウ)―宋音(母音的な響きをもち語尾をンと訳する→アン)のように三者三様の発音となって輸入された(藤堂明保『漢字の話 下』朝日選書、1986年[1989年版]、250頁~255頁)。

【藤堂明保『漢字の話 下』朝日選書はこちらから】

漢字の話〈下〉 (朝日選書)

【阿辻哲次『漢字の字源』はこちらから】

漢字の字源 (講談社現代新書)

日本の漢字のヤヌス性について


中国と日本の漢字をくらべた際に、日本の漢字にはヤヌス性という特性がみられると、言語学者の鈴木孝夫は主張している。つまり、日本の漢字には、音と訓という二つの顔をもつというのである。このことは、鈴木孝夫の講演「漢字のあまり知られていない特性について」(昭和49年[1974年]第16回国語問題講演会)において述べたことであった(鈴木孝夫『ことばの人間学』新潮文庫、1981年[1986年版]、192頁~214頁に所収)。
日本語の中で使われている漢字というものはヤヌス性を持っていると鈴木が言う際に、そのヤヌスとは何か。
ヤヌスというのはローマの神様で、前と後に二つ顔がある不思議な神様である。なぜ一つの神様で二つの顔があるのか。その理由の一つに月の名を考えてみるとよくわかる。例えば、1月、2月というときに、1月がジャニュアリーと英語でいうのは、実は1月という月が、半分は今年を向いているけれども、半分は去年を向いていて、丁度境目だからヤヌス(Janus)の神の月だというのでつけられたことを想起すればよいと鈴木は解説している。
日本語にはいっている漢字はヤヌス的二重性がある点で、中国の漢字とはっきり違っていると鈴木はいう。中国の漢字にはそれがなく、一つの漢字は一つの字体、意味を持っていて、原則として一つの音しかない。

ところが、日本語では、一つの漢字を取ると、それに原則として一つの訓が対応する。もちろん音しかないものや訓しかないものも数は少ないけれどもある。しかし訓と音がある普通の日本人が使う漢字が2000もある。これが日本人の概念の二重音声化と鈴木が称している特徴である。
漢字の音とは、音声だけでは自立していない。日本語の漢字の音というのは、音声と文字とを融合して初めて日本人の意識の中で成り立つ。ケンと言っても、犬と書けばイヌだとなるわけである。そうでなければケンは剣でもあるかもしれず、色々な選択がある。ところがイヌは文字がなくてもイヌなのである。しかし、ケンは犬という文字と結びついて初めて意味がある。大事なことは、犬と書いて、それをイヌともケンとも読むことである。この漢字をつなぎとしての音と訓の融合関係を切ってしまったら大変なことになる。日本語において漢字を廃止したとすると、ケンとイヌは意味の上では犬に対応するけれども、日本人の日常の言語意識の中では、ケンはすなわちイヌという相通関係、融通性がとぎれてしまう。

そうすると、ヨーロッパにおける高級な言葉と、ほぼ同じ構造になってしまうという。ヨーロッパ語においては、新しい概念的な言葉を作るときに、ギリシャ語やラテン語を、日本語が中国の古典語を使うように、使う。例えば、hydrogenという水素を意味する単語がある。新聞にも出てくるので、イギリスやアメリカの、特別教養のない人でも、ハイドロジェンは水素だと知っている。同じような意味で、日本人も水素が何であるかは知っているという。

ところが漢字のヤヌス的二重性によって、日本人はそれが「水(みず)の素(もと)」だというように翻訳することができる。だから、水素という言葉を知らなかった人も、これは水の原料だと察することができる。
ところが、ハイドロジェンという言葉を初めて見たイギリス人やアメリカ人は、その意味を察することもできないという。これは一種の気体で、火をつけると爆発する危険なものだと教えられて、全体としてハイドロジェンと呼ぶことができるのだということしか解らないそうだ。ハイドロとは、ギリシャ語で「水」、ジェンというのは「生む」という意味であるから、例えば、英語でウォーター・ベアリングというように、普通の人が読めれば「水の素」と同じレヴェルにくるのだが、日本人が水素を水(みず)の素(もと)と読めるのに対し、イギリス人やアメリカ人はハイドロジェンは飽くまでハイドロジェンであって、一部の高等教育を受けた人のみが、ギリシャ語で、ハイドロは水のことで、ジェンは「生まれるに関係した」というようなことが解るのだと鈴木は解説している。
だから、ヨーロッパにおいては、難しいギリシャ語やラテン語から由来した高等な語彙は、町の人には縁が遠いという。It’s Greek to me.(それはギリシャ語だ)という表現があり、これは「私には解らない」という意味である(鈴木孝夫『ことばの人間学』新潮文庫、1981年[1986年版]、201頁~204頁)、

【鈴木孝夫『ことばの人間学』新潮文庫はこちらから】

ことばの人間学 (新潮文庫)


借用された漢字について


「あとがきに代えて 漢字と日本語」と題して、藤堂は借用された漢語のうち、とくに仏教用語は、日本ふうにおもしろい意味に転用されたものが多いという。たとえば、次のような例を挙げている。
①僧の袈裟=ケサ→大げさな話
②密教の行者の吹く法螺→ほら吹き
③本堂のわきの坊に住む僧侶(坊主)→小ぼうずめ
④摩訶不思議→ばかなはなし
⑤客人を接待するため馳せまわる→ご馳走
⑥禅僧が寺門で押し問答する=挨拶→ごあいさつ
⑦寺を建てるため、あまねく寄金を請う=普請、宋音でフシン→家を普請する

中国人の漢語常識から見ると、おもしろい転用だと思われるようだ。ちょっと漢語とは思われないことばにも、漢語から借用されたものがある。
①「チャキチャキの江戸っ子」という言い方は、嫡流・嫡子の嫡(本すじ・直系)という漢語の呉音読みである。
②「アダっぽい女」という言い方は、漢語では、『詩経』の時代から隋唐にかけて、委蛇・委移・阿那などと書かれる形容詞であった。上古には、委をア(ワ)、蛇や移をダと読んだから、委蛇は阿那(アダ)と書くのと同じことで、「くねくねしてしなやかなさま」を表した。それを受けたのが、日本語に借用されたアダであり、平安朝の人が唐代の軟文学から借用したものであるという。
③「モッタイナイ」は、「物体(または物態)なし」という漢語から来たもので、もとは「物のあるべき姿もない、さまにならない」という意味である。「そうなっては惜しい」と、いうことから、日本で意味をずらせたものである。
④「ケッタイなこと」は、漢語の怪態(呉音でケタイ)から来たものである。
(藤堂明保『漢字の話 下』朝日選書、1986年[1989年版]、259頁~260頁)。

【藤堂明保『漢字の話 下』朝日選書はこちらから】

漢字の話〈下〉 (朝日選書)

呉音と漢音について―その2―


日本語の漢字の読みの難しさは、「沈丁花」一つとってみてもよくわかる。これは難読漢字の部類に属するようである。正しくは「じんちょうげ」であり、「沈没」「沈黙」のように「沈」を「ちん」と読んで、「ちんちょうげ」と読むのは誤りである。
こともあろうに、ユーミンがこの誤読をやってしまった。わが尊敬すべき“ニューミュージックの女王”が“弘法にも筆の誤り”のような間違いをしてしまった。しかもあの名曲「春よ、来い」の中で、「ちんちょうげ」と歌詞で使っている。これも、漢音「ちん」と呉音「じん」の違いから生じた誤読である。

日本の風土と勘違いの歌詞について


ともあれ、ユーミンの「春よ、来い」は文語調で日本の情緒を描き出した名曲であるが、日本的情緒を歌った名曲として、山口百恵の「いい日旅立ち」という、アリスの谷村新司の作詞・作曲の歌がある。
「雪解け 間近の 北の空に向い
 過ぎ去りし日々の夢を 叫ぶ時」という歌いだしである。この名曲も「過ぎ去りし日々」と文語調の歌詞を用いている。
それはそれとしても、歌詞の内容を吟味してみると、疑問に思える点がある。それは2番の歌詞の「いい日旅立ち 羊雲(ひつじぐも)をさがしに 父が教えてくれた 歌を道連れに」という部分である。
この部分は1番の歌詞の「いい日旅立ち 夕焼けをさがしに 母の背中で聞いた 歌を道連れに」の部分に対応し、いわば対句的に綴られている箇所である。この2番の歌詞のどこが疑問かといえば、「羊雲をさがしに」という部分である。
作詞した谷村新司は羊雲の天候的予兆について果たして知っていたのであろうかという疑問がわく。つまり羊雲は、高積雲の別名で、一つ一つの雲が牧場で群れる羊のように見える雲のことで、「羊雲が出ると翌日は雨」ということわざがある。わざわざ雨が降るような地方を探し求めて、一人の女性が旅をするのであろうか。もちろん、雨の風情が似合う地域もある。たとえば京都や長崎がその代表であろうが、それにしても雨が降ることを期待して、それを探しにゆく旅というのは、どうも腑に落ちない。
ともあれ、百恵ちゃんに教えてあげたい。「羊雲が出ると翌日は雨」ということわざがあり、羊雲は天気が下り坂に向かうことが多いので、旅行には向きませんよと。どうしても旅に出るというのなら、傘を持っていってと。
もっとも、この歌が流行したのは1978年で、今からもう43年も前のことであるが。
漢字の読みや日本語のことを述べているうちに、横道に逸れてしまったので、本題に戻ろう。


≪漢字について その2≫

2021-02-28 18:02:14 | 漢字について
≪漢字について その2≫
(2021年2月28日投稿)




【はじめに】


 今回も、魚偏の漢字を解説してみる。例えば、鯖、鰭、鮗・鯯・鰶・鱅(コノシロ)、鮭、鱈、鮃(ひらめ)、鰈(かれい)、鯨、鰹(カツオ)、鯑(カズノコ)、鰰(はたはた)といった漢字である。
 あわせて、チョウザメ、熨斗(のし)とアワビについても解説しておきたい。



さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・鯖という漢字
・鰭という漢字
・鮗・鯯・鰶・鱅(コノシロ)という漢字
・鮭について
・鱈について
・鮃(ひらめ)について
・鰈(かれい)について 
・鯨について
・鰹(カツオ)について
・鯑(カズノコ)について
・鰰(はたはた)について
・チョウザメについて
・熨斗(のし)とアワビについて






鯖という漢字


漢字の鯖の由来については、この字は非常に古く、『出雲風土記』(733年)や『延喜式』(927年)に見えている。日本の古辞書・本草書『本草和名』(918年頃)などでは、鯖に佐波(サハ)の訓を与えている。ただ、中国にもともとあった鯖という字を取り違えたものらしい。中国の鯖(せい)は淡水魚で、日本のサバは海水魚であって、まったく別物であるからである(中国の鯖の本名は、青魚(せいぎょ)といった)。
ところで、サバの語源については諸説があるが、江戸時代の貝原益軒説が有力である。サバの歯の特徴から語源を捉え、「この魚、牙小さし、故にサハと云ふ。サは小也」と『大和本草』で説いている。実際にサバは顎に円錐状の歯が生えているだけでなく、口の中にも微細な歯がある(加納喜光『魚偏漢字の話』中央公論新社、2008年、87頁~88頁)。

【加納喜光『魚偏漢字の話』中央公論新社はこちらから】

魚偏漢字の話 (中公文庫)

鰭という漢字


鰭は、魚のヒレのことで、「魚+耆(キ・シ)」からなっている。耆とは「老(年をへた)+旨(味がある、うまい)」を組み合わせた字である。「耆老」といえば、年功をへて味のある老人を意味し、嗜好品(しこうひん)の「嗜」とは、年月をへていてうまいものをさす。そして鰭とは、魚のからだのうち、年月をへて「こく」のある味をもつ部分をさす。中華料理の逸品で、「こく」のある料理として、フカのヒレ(今では魚翅[ユイチー]という)がある。南海のフカのヒレを細かくきざみ、最上のスープでこってりと煮こんだものである。ツバメの巣(燕窩[イエンウオ]という)のスープに次いで、値段のほうも高い。今日の中華料理の大半は、すでに2500年前にあらかたそろっていたようであるが、魚のヒレも古くから嗜(たし)なまれたそうだ(藤堂明保『漢字の話 上』朝日選書、1986年、183頁~184頁)。

【藤堂明保『漢字の話 上』朝日選書はこちらから】

漢字の話〈上〉 (朝日選書)

鮗・鯯・鰶・鱅(コノシロ)という漢字


コノシロの漢字表記に鮗・鯯・鰶・鱅の四字があるが、純国字の鮗以外は、どれも本来の漢字とは意味がずれている。
では日本でどうして鰶の字が創作されたのであろうか。江戸時代、人見必大(ひとみひつだい)の著した『本朝食鑑』(1697年)に、次のように記す。コノシロは狐の好物で、狐の神であるお稲荷さんにコノシロを供えて祭る習慣があったというのである。日本にこのように古い信仰があったため、魚偏に祭と書く鰶でコノシロを表記したと加納は考えている。
後世になると、コノシロは祝い事にも使用されるようになった。
ただし武家社会では、「コノシロ(此の城)を食べる」ということに通じるので嫌われ、武士が切腹する際に用いる風習があったという。
また恐ろしい語源説話が『大和本草』(1708年)にある。コノシロを焼くと、死体を焼くような臭いがするとされた。昔、継母に虐められた子がいた。継母の告げ口を信じた父が、子を殺すように従僕に命じた。彼は気の毒に思い、ツナシを焼いてごまかし、その子をよそへ逃がしてやった。ここからツナシを子の代(しろ)(子の代わりの意)と呼ぶようになったという(加納喜光『魚偏漢字の話』中央公論新社、2008年、83頁、126頁)。

鯯は日本ではサッパとも読む。コノシロと似ているから、同じ字を用いたという。サッパはニシン目ニシン科の海水魚で、コノシロのように背びれの末端が糸状に伸びていないし、体長も小ぶりである。『大言海』によれば、コノシロより味がさっぱりしているので、この名がついたという。岡山県倉敷地方の名産であるママカリはこれである。サッパの酢漬けはあまりに旨くて飯が足りなくなり、隣から借りるほどだというのが名の由来である(加納、2008年、128頁)。
ところで、コノシロの約10センチのものをコハダまたはツナシとよぶ。寿司のネタとなる。実は批評家小林秀雄は新子の寿司が好きだった。その妹の高見澤潤子が面白いエピソードを記している。
「兄は寿しが好きで、特に新子(しんこ、こはだの子)の寿しが大好物だった。夏の終り頃から初秋にかけて、ほんの少しの間しか出ない新子を、兄はほとんど毎日のように食べに行ったが、今年も「大繁」の主人が、兄に供えてくれと、新子の寿しを持って来てくれたそうである」(高見澤潤子『兄小林秀雄』新潮社、1985年、46頁)。
この高見澤潤子という女性は、小林秀雄の妹であったが、同時に戦前の人気マンガ「のらくろ」の作者田河水泡(本名:高見澤仲太郎)の妻であった。二人の結婚に際して、妹が結婚を決心したのは、兄秀雄の一通の手紙であった。妹が恵まれた夫婦生活をおくることができたのは、兄のおかげであったと妹は感謝している(高見澤、1985年、21頁~25頁)。

【高見澤潤子『兄小林秀雄』新潮社はこちらから】

兄 小林秀雄


鮭について


鮭という漢字は、日本では「サケ」を指すが、中国漢字の鮭(けい)は、サケと違う魚の名であった。『論衡』(後漢、王充)の言毒篇に、毒のあるものとして、次のように記している。
「魚に在りては則ち鮭(けい)と為す。故に人、鮭の肝を食へば死す」とある。この鮭はまさにフグに違いない。晋の郭璞(かくはん)は鮭を鯸鮐(こうい、フグ)としている。
現代では、ニーダム(イギリスの科学史家)によって、Fugu rubripes(トラフグ)に同定されている。漢和辞典を引いても、鮭の意味として、ふぐ(河豚)が出ているはずである。
ところで、現代の中国では、サケを大麻哈魚(damahayu)というそうだ。この奇妙な名前は、北方民族の言葉の訳語であるようだ。ただし、中国で分類学の科の名称には鮭が使われ、里帰り漢字の一つとなっており、今ではフグの意味はほとんど忘れられた(加納喜光『魚偏漢字の話』中央公論新社、2008年、86頁)。

【加納喜光『魚偏漢字の話』中央公論新社はこちらから】

魚偏漢字の話 (中公文庫)

鱈について


和製漢字の造字法の特徴は、言葉のイメージを図形に表すという中国式とは違い、物にまつわる特徴や故事などをストレートにもってくることである。魚の場合は、さらに形態の特徴だけでなく、味覚や漁期も格好の材料になる。例えば、鱈の場合、この漁期に因むという解釈が有力である。
『本朝食鑑』(1697年)に、「冬月初雪の後に当たりて必ず多くこれを採る。故に字、雪に従ふか」とある。タラは冬場、特に吹雪のある頃によく獲れるというから、魚偏に雪と書く造形の心理が加納は納得できるという。
鱈はほとんど和製漢字であるとみなされている。「ほとんど」というのは、レア物ながら中国の文献にあるからだが、誤字・誤記かもしれないので無視してよいという。
中国ではタラを大頭魚(だいとうぎょ)とか大口魚(だいこうぎょ)というが、実は鱈(xueと読む)も使われている。というのは明治時代になって、近代日本の生物学が中国に伝わり、動物学辞典を編集する際、日本の学術名をそのまま中国側が採用したケースが多いためである。鯰や鯒といった和製漢字が取り入れられたが、鱈も逆輸入漢字の一つである(加納、2008年、59頁~60頁)。

鮃(ひらめ)について


中国漢字の鮃(へい)は、『玉篇(ぎょくへん)』に魚の名としか情報のないマイナーな字なので、日本の鮃(ヒラメ)は半国字(半日本風の漢字)としてよいが、現在は中国でも使われている。里帰り漢字のパターンである。魚偏の漢字に関しては、日本人のアイディアが中国に貢献している例が多々あるという(加納、2008年、107頁)。

鰈(かれい)について 


鰈は、日中共用漢字であるという。漢字の鰈の語源・字源は、この魚の形態的特徴を捉えたもので、「薄い」というコアイメージがもとになっている。葉や蝶と共通の記号、「枼(よう)」を用いて、図形的意匠を構成し、鰈の字が生まれた。漢字表記は現在ではカレイに鰈、ヒラメに鮃を用いて区別しているが、昔は区別していなかった。
葉の草冠をとった部分「枼」は、木の上に葉が生じている図形で、葉の原字である。したがって「薄っぺら」というイメージを表しうる。蝶は薄い羽をもつ昆虫、牒(ちょう、片偏)は文字を記す薄い木の札を意味する。同様に、魚偏の場合、体の薄い魚を暗示させる。体の薄い魚はいくらでもいるが、カレイ(ヒラメも含む)に限定したのは、プライオリティー(優先権)が与えられたからであるという(加納、2008年、159頁~162頁)。

鯨について


中国人にとって鯨は半ば空想的な怪物というイメージが強いという。「京」は高い丘の上に建物がたっている情景を描いた図形である。古代中国では湿地を避けて高い場所に都市を造営した。京の現実の意味は「みやこ」であるが、「高く大きい」というコアイメージを示す記号になる。したがってクジラを「京(音・イメージ記号)+魚(限定符号)」の組み合わせによって表象することができる(加納、2008年、162頁~164頁)。

鰹(カツオ)について


カツオは『古事記』や『万葉集』では堅魚という漢字表記で登場する。この表記はカツオの語源と関係がある。江戸時代の人見必大(ひとみひつだい)は、堅魚の語源を説いて、
「延喜式に堅魚と謂ふは、この魚乾曝(かんばく)すれば則ち極めて堅硬なり、故にこれを名づく」と述べている(『本朝食鑑』。1697年、人見必大の著で、食物関係の語彙を収め、語源にも触れている)。このようにカタウオ(堅魚)がカツオになったというのが通説である。
ただ別説もある。一つは、カツオは擬似餌(ぎじえ)でどんどん釣れるくらい頑(かたくな)な(つまり愚鈍な)魚だから、カタウオ(頑魚)→カツオになったのいうもの。この頑魚説は『高橋氏文(うじぶみ)』(789年、高橋氏の由緒を述べた書)に見えるくらい古い説である。
もう一つは、弱いイワシに対して、強い魚だから、勝つ魚→カツオになったという語源説(吉田金彦)がある。イワシに対してはその通りでだろうが、カジキに対しては弱いらしい。カツオが群れを作るのも、カジキのような天敵から身を守る知恵であるといわれている。加納は堅い魚の説を取っている(加納、2008年、32頁、78頁~79頁)。

鯑(カズノコ)について


ニシンの別名をカドという。ニシンの卵がカドの子、訛ってカズノコである。『本朝食鑑』(人見必大)に鰊鯑をカズノコと読ませているが、『同文通考』(新井白石)では鯑の一字でカズノコとなっている。魚は一般に豊饒のシンボルになることが多いが、魚の卵は生殖と結びつき、子孫繁栄のシンボルとされる。
ニシンは一尾で10万粒ほどの卵を産む。味覚はもちろんだが、子孫繁栄の象徴として格好のものである。『本朝食鑑』でも、正月に数の子を子孫繁多のお祝いに用いると記されている。子孫の数が増えることを願って「数の子」という表記ができたわけである。ここから「こいねがう」の意味をもつ希に魚偏を添えた字が発想されたと考えてよいという(加納、2008年、78頁)。

鰰(はたはた)について


鰰は、「はたはた」と読む。ハタハタの「ハタ」には「はためく=鳴り響く、とどろく」の意味がある。そして鰰のつくり「神」は、「はたはたとどろく神鳴り」を意味し、ハタハタが日本海沿岸で雷のある季節に獲(と)れる魚ということから、この字が当てられたようだ。またハタハタはカミナリウオとも呼ばれ、その名の通り、「鱩」とも書く(江戸家魚八『魚へん漢字講座』新潮文庫、2004年、158頁~160頁)。
【江戸家魚八『魚へん漢字講座』新潮文庫はこちらから】

魚へん漢字講座 (新潮文庫)

「しょっつる」とは秋田特産の魚醤油(うおじょうゆ)で、ハタハタの塩漬けを醗酵させてできた「上ずみ液」のことである。ベトナム料理のニョクマム(nuoc mam)も魚醤(ぎょしょう)である。

チョウザメについて


チョウザメは冨田健次先生も言及されていた。
日本人と魚の関係は、魚の名前とそれを表記する文字によく現われている。漢字の本家の中国人は元来、内陸の民族であり、魚と言えば淡水魚である。淡水魚にはめっぽう強いが、海水魚にはからっきし弱い。ベトナムの人々も同様で、長大な海岸線を有していながらも、海水魚にはほとんど無頓着である。ヒラメとカレイの区別もおぼつかなく、日本人に笑われる始末である。海の魚に繊細な日本人は、結局は中国語からその名前を借り入れることができず、自分達で作った漢字を充てるしか手がなかったわけである。魚偏に弱いで足の早い鰯、魚偏に春で鰆(さわら)など、一目でその魚が目に浮かぶ見事な漢字が多い。しかし時には本家の漢字と衝突することもあったらしく、魚偏に有ると書く、かの鮪(まぐろ)は、本家の中国では全く似ても似つかない淡水のチョウザメである点には注意を要する。
(冨田健次『フォーの国のことば―ベトナムを学び、ベトナムに学ぶ』春風社、2013年、299頁)

【冨田健次『フォーの国のことば』春風社はこちらから】

フォーの国のことば: ベトナムを学び、ベトナムに学ぶ

ところで、そのチョウザメの漢字には、「鱘」というのがある。
チョウザメは、サメの仲間ではない。硬い骨を持つ硬骨魚類に分類され、やわらかい骨を持つ軟骨魚類のサメとは違う種類の魚である。ただ、その名前は「姿形が鮫(さめ)に似ている」ことと、「5列ある菱形の大きなウロコが蝶番(ちょうつがい)のように見える」ことに因んでいるそうだ。
ところで、チョウザメはキャビアで有名である。キャビアとは、チョウザメの卵巣の塩漬けのことで、トリュフ、フォアグラとともに「世界三大珍味」の一つである。なお、チョウザメは、「蝶鮫」「鰉(大きい魚の意。ヒガイも指す)」という漢字で書かれることもある(江戸家魚八『魚へん漢字講座』新潮文庫、2004年、164頁~165頁)。

【江戸家魚八『魚へん漢字講座』新潮文庫はこちらから】

魚へん漢字講座 (新潮文庫)

熨斗(のし)とアワビについて


慶事には熨斗を用いるようになったのは、日本の中世であるそうだ。
古代の中国では石決明(せっけつめい)といって、アワビを、不老長生、延命若返りの薬的な食物とみなしていた。秦の始皇帝が徐福を遣わして、不死の霊薬を東方海上に求めたのも、一説にはアワビであったといわれる。徐福が上陸したと伝わる紀州(和歌山県)にはアワビを不老長寿の食物とする伝説がある。
また中国料理には、不老長寿を目的とした「参鮑翅」というご馳走がある。参とは海参(ハイセン)(煎海鼠、いりこ)、すなわち海の人参でナマコ。鮑はアワビ、翅は鱶鰭(ふかひれ)である。この三種の高級料理の原料は江戸時代に長崎から俵に詰めて中国へ「俵物(たわらもの)三品」といって輸出されたという。この俵物三品はコンドロイチンという物質を多く含み、現代医学でも老化を防ぐ薬効があるとされている。
日本ではアワビが、生命力を賦与する神秘的な力があるとすると観念され、めでたいシンボルとされるが、中国ではこれに相当するものとして、玉を矢野憲一は想定している。
熨斗という字は、もとは炭火を盛って熱で布のしわを伸ばすアイロン(火熨斗)のことであった。熨は尉の俗字で、火でのばし、おさえ温める意で、斗はひしゃくである。「のし」は動詞「のす(伸)」の連用形の名詞化でのばすことである。伸したアワビの「のす」という語の近似から誤用されて、やがて定着したと推測されている。
他人に進上する物や、祝いなど贈答品には熨斗(のし)を添える習慣がある。現在では、細く切った六角形の色紙の中に、黄色っぽい紙を張り付けたり、省略して「のし」と書くこともある。この熨斗は、正式にはアワビの肉を薄く長くカンピョウのように剥いで乾燥して伸した、いわゆる熨斗鮑(あわび)を用いた。熨斗の真中にはさんである黄色のセロハン紙はそのアワビを偽作した代用品である(矢野憲一『魚の文化史』講談社、1983年
、84頁~86頁、93頁~97頁)。

【矢野憲一『魚の文化史』講談社はこちらから】

魚の文化史


≪漢字について その1≫

2021-02-28 17:42:53 | 漢字について
≪漢字について その1≫
(2021年2月28日投稿)
 



【はじめに】


 以前、冨田健次先生の著作『フォーの国のことば―ベトナムを学び、ベトナムに学ぶ』(春風社、2013年)を紹介した際に、漢字について考えてみた。
 その時の記事に加筆して、漢字をテーマとして、再録してみた。
 参考文献にリンクを貼っておいたので、参考にしていただきたい。



【冨田健次『フォーの国のことば』春風社はこちらから】

フォーの国のことば: ベトナムを学び、ベトナムに学ぶ




目次は次のようになっている。
【目次】
<その1>
・魚偏の漢字
・中国人の魚の知識について
・江戸家魚八と加納喜光の本について
・鰯の説明

<その2>
・鯖という漢字
・鰭という漢字
・鮗・鯯・鰶・鱅(コノシロ)という漢字
・鮭について
・鱈について
・鮃(ひらめ)について
・鰈(かれい)について 
・鯨について
・鰹(カツオ)について
・鯑(カズノコ)について
・鰰(はたはた)について
・チョウザメについて
・熨斗(のし)とアワビについて

<その3>
・日本語の歴史について
・漢字の歴史について
・漢字の呉音と漢音について
・藤堂明保の漢字研究について
・日本の漢字のヤヌス性について
・借用された漢字について
・呉音と漢音について―その2―
・日本の風土と勘違いの歌詞について

<その4>
・『説文解字』について
・擬態語について
・中国人と羊について
・羊という漢字と小説『羊と鋼の森』
・「栗鼠」という漢字の読みについて
・紫という漢字

<その5>
・漢語の本質について
・「者」の意味について
・唐宋音について
・和製漢字について
・白川静と漢字学について
・漢字と教育との関係について
・日本語の変わりゆく意味

<その6>
・馬琴と『南総里見八犬伝』と漢字
・『古事記』『日本書紀』『万葉集』と漢字
・漢字と漢文について
・漢字の数について
・漢字に関する小林秀雄の見識
・日本語と小説家の役割
・参考文献

※「羊という漢字と小説『羊と鋼の森』」については、新たに書き下ろしてみた。この小説については、後日、紹介してみたい。





さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・魚偏の漢字
・中国人の魚の知識について
・江戸家魚八と加納喜光の本について
・鰯の説明







魚偏の漢字


まず、魚偏の漢字について述べてみたい。
中国人は、本来、淡水魚の魚が身近であったといわれる。そのことは、フグを「河豚」とも書くことにもよく表れているように思われる。この点の経緯については、江戸家魚八『魚へん漢字講座』(新潮文庫、2004年)に次のような説明がある。「その由来は中国の河川の中流域にまでメフグが棲んでいたことから「河の豚」=フグとなったとのことです。」とある(江戸家魚八『魚へん漢字講座』新潮文庫、2004年、119頁)。

また、弱い魚と書く鰯(いわし)は、つくりの「弱」=ヨワシがイワシの読みを表す日本的な形声文字であるという。中国では鰮がイワシを意味することがあり、この字は日本でも使われているそうだ。また、水から出るとすぐ死ぬ弱い魚だからという説や、下賤な魚の意で「卑し」からイワシとなったという説がある(江戸家、2004年、134頁)。
そして、鯖という漢字は、本来、魚や鳥獣の肉などを混ぜて煮た料理の名前、つまり「よせなべ」を意味していたようだ。また、淡水魚の一種を指した字でもあった。しかし、日本では、青々とした「サバ」を表すのに、ふさわしいことからサバにこの字が当てられた。またサバの語源は、『大和本草』という資料に「此魚牙小ナリ。故ニサハ(狭歯)ト云」とあり、「狭歯(さば)」→「サバ」となったといわれている(江戸家、2004年、74頁)。

【江戸家魚八『魚へん漢字講座』新潮文庫はこちらから】

魚へん漢字講座 (新潮文庫)

中国人の魚の知識について


魚偏の名前といえば、孔子の子の鯉(り)がよく知られている。字は伯魚である。君からお祝いとして鯉(こい)を賜うたのを記念した名であるという(白川、1970年[1972年版]、89頁)。
また井上ひさしは、『私家版 日本語文法』(新潮文庫、1984年[1994年版])で興味深いことを記している。
日本人は国産の漢字、つまり国字(和字)をつくりだす。「中国産漢字」だけでは日本人の日常生活のこまかいところまではまかないきれないところから、ひとつの必然として生み出されたと井上は捉えている。
文政(1818-1830)のころ、江戸の国学者伴直方(ばんなおかた)は『国字考』という書物のなかに100字以上の国字を掲げている。
とりわけ、魚名の多いのが目立つ。そして次のような注釈をつけた。
 鰯(いわし) 餌や肥料にされる弱い魚
 鱈(たら)  身が雪のように白い
 魚偏に骨で(こち) 骨(こち)ばっている
 鯱(しゃち) 鯨より強くまるで虎
漢字の8割までが形声文字(意味をもつ字と音を示す字とが組み合わされたもの)である。たとえば、療、痘、症の三つの漢字で、疒(やまいだれ)は「やまい」の意味をあらわし、尞、豆、正は音を示している。先に挙げた国字は、形声文字というより会意文字だと解した方がよい。
「やはり日本人は魚肉を喰(これも国字)う民族、肉食を好む中国人の作った漢字では間に合わぬらしい」と述べている(井上ひさし『私家版 日本語文法』新潮文庫、1984年[1994年版]、105頁~106頁)。

【井上ひさし『私家版 日本語文法』新潮文庫】
【井上ひさし『私家版 日本語文法』はこちらから】

私家版 日本語文法 (新潮文庫)


江戸家魚八と加納喜光の本について


江戸家魚八は『魚へん漢字講座』(新潮文庫、2004年)を著している。寿司屋の湯呑み茶碗に書かれた魚を表す漢字に興味をもち、魚偏の漢字はどういうものがあり、どうしてそういう字を書くのかを調べ、魚のおいしい食べ方を探究した本である。
日本は世界屈指の漁業国で、日本人は世界一の魚食民族であるが、「世界一」の名に恥じないよう、魚偏の漢字文化の豊かさに触れ、魚にまつわる知識をも豊かにする一助としてこの本を活用してほしいという(江戸家、2004年、3頁~4頁)。
彼は、いわゆる物知りで、魚に精通した「魚通」である。「左ヒラメの右カレイ」(または「左ヒラメに右カレイ」)とよくいわれる。つまり腹部を下にしたとき、左側に眼があるのがヒラメの特徴である。それ以外にも、「大口ヒラメの小口カレイ」というのもあるようだ。眼の位置のみならず、口の大きさも違うという(江戸家、2004年、18頁)。
確かに読みやすく、わかりやすく、面白い本である。そしてそれぞれの魚の説明に「おいしい調理の仕方」の項目は役立つ。ただ一つ批評点を挙げるとすると、物足りなさを感じる。というのは、漢字文化にはそもそもどういう歴史があるのか、漢字は何をイメージして作られたのか。魚偏の漢字は、中国と日本でどの点が共通し、またどう異なるのか、日本独自の魚偏の漢字はいつ頃どのように作られたのか、こうした問いを学問的に掘り下げて知ろうした場合、ほとんど答えてはくれず、江戸家魚八の本は物足りなさを感じるのである。

そこで、加納喜光『魚偏漢字の話』(中央公論新社、2008年)を参照してみた。加納喜光は、1940年生まれで、東京大学文学部中国哲学科を卒業し、同大学院修士課程を修了し、現在、筑波大学名誉教授であるという。中国文化、および漢字研究の大家である。
その加納喜光は、かつて魚を調べに中国に行ったことがあるが、魚の名を中国人に尋ねても、鯉(こい)以外はあまり知らないようであったと記している(加納、2008年、7頁)。
それに対して、日本人なら誰でも魚の名を5個や10個は知っており、日本人は魚好きな民族である。そして魚偏(うおへん)には国字(日本製の擬似漢字)が非常に多い。
そこで、加納は、魚偏漢字を次の6つのパターンに分類している。
1)純国字 例えば、鰯・鱈
2)半国字 例えば、鯛・鮎
3)読み違い漢字 例えば、鮪・鱒
4)渡り鳥漢字 ⓐ逆輸入漢字 例えば、鱇 ⓑ里帰り漢字 例えば、鰆
5)日中共用漢字 例えば、鯉・鮒・鰻・鯨
6)中国専用漢字 例えば、鱆・鯢・鱣

加納喜光の本の目的は、日本人は魚偏の漢字をどのように捉えたのか、中国語と日本語の意味のマッチング(照合)をどのように行ったのか―本書のメインである魚偏漢字銘々伝では、そこに視点を据え、日本の古辞書と中国の辞書・本草書とを突き合わせて跡づけていく。
漢字の造形法では、「甬」は「突き通す」というコアイメージを与える記号であるが、これは日本人の発想するものではないという。和製漢字の造字法は、物の抽象化されたイメージを有するのではなく、物の特徴をストレートに何かに見立てることが多い。日本の漢字の見方あるいは造字法にはコアイメージという考えがなかったようだ。鱪(しいら)の創作にはただ「暑い」という訓だけが利用された。コアイメージという深層構造ではなく、ストレートな表層的意味を挿入するのが日本式の造字法であるという(加納、2008年、36頁~37頁、56頁)。
中国式造字法は、イメージを介して視覚記号にする。これは形声的造形法の原則だが、実は会意的造形法でも言えることであるという。しかし、日本式造字法は音を媒介にしないから、会意的方法しか利用できないが、その際、イメージを記号化することなく、ストレートに造字する傾向が強い。その魚にまつわる事実――故事、信仰、漁期(ぎょき)、味覚等等――をストレートに表現する。
漢字の造形法の一つである会意的方法は、二つの物のイメージをぶつけて、別のイメージに昇華させる方法だが、国字の場合はまったく違う。
例を挙げると、タラは雪が多い時季が漁期なので、魚偏に雪を添える「鱈」で表象する。またドジョウを表す漢字に鰌や鰍があるのに、わざわざ「鯲」という国字を作る。「於」は土偏に於を加えた「どろ」の略字で、泥に棲む魚というストレートな意匠がわかりやすかったからである。中国の魚は淡水産が多く、日本の魚は海産が多いという事情から、日中の魚名漢字には意味上の食い違いが多いという(加納、2008年、42頁~43頁)。

現代でこそ魚の栄養価が喧伝されているが、古代中国での評価は低かったらしい。古代に東方に住んでいた民族は東夷とか淮夷と呼ばれ、中華の民とは一線を画されていた。彼らは魚の食の民であった。それに対して、中原で文明を発展させた中国人は魚を常食しなかったらしい。甲骨文字や金文に魚名は一つもない。『詩経』になって魚偏の漢字が初めて登場する。紀元前2世紀の漢代の墓からさまざまな遺物が発掘されているが、魚の骨は6種類である。それに比べ、鳥の骨が11種類、獣の骨が6種類も発見されている。古代中国人は海の魚には馴染みがなく、食べるのはもっぱら淡水魚だったようである。
このことは魚偏の漢字にも反映している。魚の名を表す一字漢字は、圧倒的に淡水魚である。『詩経』に出ている12字の魚偏漢字のうち、海水魚は一つもない。魴・鮪・鱒・鱧は、日本では海水魚の名になっているが、中国ではすべて淡水魚である。魚偏の漢字の登場舞台は、淡水魚の世界であったといえる。
 日本古代の情報革命の時代、魚偏漢字に訓をつける作業でいちばん頭を悩ませたのが、淡水魚の多い漢字と、海水魚の多い日本語の間のマッチング(意味の照合)の作業であったことが容易に想像されると加納は述べている(加納、2008年、37頁~38頁)。
以下、魚偏の漢字を取り上げて、若干の解説を加えておきたい。

【加納喜光『魚偏漢字の話』中央公論新社はこちらから】

魚偏漢字の話 (中公文庫)

鰯の説明


鰯は日本製の擬似漢字、つまり国字である。鰯は現代中国の辞書にはあるが、近代以前の文献には見当らないといわれる。現代中国語では、イワシは沙丁魚(さていぎょ)というそうだ。中国語音は、shadingyuで、沙丁は英語のsardine(サーディン)の音写である。中国人はイワシを英語名の音写で表現するほど、海水魚に疎く、かつ苦労して漢字で表していることになる(加納喜光『魚偏漢字の話』中央公論新社、2008年、49頁~51頁)。

紫式部には、イワシにまつわるエピソードがある。すなわち、紫式部の伝説に、式部がイワシを食べているのを見た公卿が、「いやしいものを食べているな」とひやかしたところ、さすがに紫式部は才媛、「日の本に、はやらせたまうイワシみず、参らぬ人はあらじとぞ思う」と、イワシと石清水八幡宮をかけて和歌で応じたというエピソードがある。
イワシの語源は「弱し」の転で、いたって脆弱な魚だから名づくと『魚鑑』にあり、『東雅』にもイワシは弱しなり、その水を離れればたやすく死すからであると記す。
さらにイワシはイヤシの転だとする説もある。「イワシの頭も信心から」という諺も、もともとイワシをいやしいものだとすることからでているという。
しかしそれは大量に獲れるから見下されたのであり、俚諺(りげん)にも「イワシの頭に雁の味あり」といい、初イワシは徳川将軍家へも献上されたそうだ(矢野憲一『魚の文化史』講談社、1983年、142頁~143頁)。

【矢野憲一『魚の文化史』講談社はこちらから】

魚の文化史


前述したように、鰯は、日本製の擬似漢字、つまり国字である。それでは、いつ、どうして、この「鰯」という漢字が創作されたのであろうかという疑問がわく。この点、加納喜光は次のように説明している。
奈良・平安の頃、その物の名にふさわしい漢字がないとわかった場合、日本人は漢字に似せた字を創作するテクニックを開発していたそうだ。
平安時代の古い辞書『新撰字鏡(しんせんじきょう)』(892年頃)では、魚偏に庶民の庶を書いた字を「以和之」と読ませている。これがイワシに当たる最初の創作字であるという。しかしこの字はまもなく消滅してしまう。
これに代わって登場するのが鰯で、『和名抄(わみょうしょう)』(934年)に登録された。ところが近年になって平城宮跡から発掘された木簡(8世紀のもの)に鰯の字が見つかった。イワシは宮中の貴人たちも食べていたことがわかる。
ところで、加納喜光は、ここで言葉や文字にも優先権(プライオリティ)という大原則があるという。例えば、もし誰かが、イワシを「いわし」と言い、鰯と書くのはそれが弱い魚だからと、語源・字源を説いた場合、弱い魚はイワシに限らないと反論する人がいても、最初に与えられた命名が他を排除するというのである。つまり、弱い魚にイワシと命名し、魚偏に弱と書いてしまえば、たとい他の魚に弱いという特徴で命名しようとしても、イワシに優先権があるというのである。
イワシを「弱い」と結びつけて解釈する説としては、新井白石説がよく知られている。日本語の語源を説いた『東雅(とうが)』(1717年)に、「イワシとは弱也。其の水を離れぬればたやすく死するをいふ也」とある。
ただ、別説として、貝原益軒の『日本釈名(しゃくみょう)』(1699年)があり、「いやしき也。魚の賎しき者也。」と記し、食生活において下賤な魚とされたから命名されたと解釈した。この点、先述したように、紫式部が密かにイワシを食したら、それを目撃した夫君に窘められたという逸話がある(加納喜光『魚偏漢字の話』中央公論新社、2008年、49頁~51頁)。

【加納喜光『魚偏漢字の話』中央公論新社はこちらから】

魚偏漢字の話 (中公文庫)