歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪石川九楊『中国書史』を読んで その11≫

2023-04-01 18:00:05 | 書道の歴史
≪石川九楊『中国書史』を読んで その11≫
(2023年4月1日投稿)
 

【はじめに】


今回も、引き続き、石川九楊氏の次の著作を紹介してみたい。
〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年
 今回は、本論の次の章の内容である。つまり、元代の書について取り上げてみる。
●第29章 仮面の書――趙孟頫「仇鍔墓碑銘」
ただし、執筆項目は、私の関心のあるテーマについて記してある。



【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史









〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年

本書の目次は次のようになっている。
【目次】
総論

序章  書的表出の美的構造――筆蝕の美学
一、書は逆数なり――書とはどういう芸術か
二、筆蝕を読み解く――書史とは何か
第1章 書史の前提――文字の時代(書的表出の史的構造(一))
 一、甲骨文――天からの文字
 二、殷周金文――言葉への回路
 三、列国正書体金文――天への文字
 四、篆書――初代政治文字
 五、隷書――地の文字、文明の文字
第2章 書史の原像――筆触から筆蝕へ(書的表出の史的構造(二))
 一、草書――地の果ての文字
 二、六朝石刻楷書――草書体の正体化戦術
 三、初唐代楷書――筆蝕という典型の確立
 四、雑体書――閉塞下での畸型
 五、狂草――筆蝕は発狂する
 六、顔真卿――楷書という名の草書
 七、蘇軾――隠れ古法主義者
 八、黄庭堅――三折法草書の成立
第3章 書史の展開――筆蝕の新地平(書的表出の史的構造(三))
 一、祝允明・徐渭――角度の深化
 二、明末連綿体――立ち上がる角度世界
 三、朱耷・金農――無限折法の成立
 四、鄧石如・趙之謙――党派の成立
 五、まとめ――擬古的結語

本論
第1章  天がもたらす造形――甲骨文の世界
第2章  列国の国家正書体創出運動――正書体金文論
第3章  象徴性の喪失と字画の誕生――金文・篆書論
第4章  波磔、内なる筆触の発見――隷書論
第5章  石への挑戦――「簡隷」と「八分」
第6章  紙の出現で、書はどう変わったのか――<刻蝕>と<筆蝕>
第7章  書の750年――王羲之の時代、「喪乱帖」から「李白憶旧遊詩巻」まで
第8章  双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(前編)
第9章  双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(中編)
第10章 双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(後編)
第11章 アルカイックであるということ――王羲之「十七帖」考
第12章 刻字の虚像――「龍門造像記」
第13章 碑碣拓本の美学――鄭道昭の魅力について
第14章 やはり、風蝕の美――鄭道昭「鄭羲下碑」
第15章 紙文字の麗姿――智永「真草千字文」
第16章 二折法と三折法の皮膜――虞世南「孔子廟堂碑」
第17章 尖塔をそびえ立たせて――欧陽詢「九成宮醴泉銘」
第18章 <紙碑>――褚遂良「雁塔聖教序」
第19章 毛筆頌歌――唐太宗「晋祠銘」「温泉銘」
第20章 巨大なる反動――孫過庭「書譜」
第21章 文体=書体の嚆矢――張旭「古詩四帖」
第22章 歓喜の大合唱・大合奏――懐素「自叙帖」
第23章 口語体楷書の誕生――顔真卿「多宝塔碑」
第24章 <無力>と<強力>の間――蘇軾「黄州寒食詩巻」
第25章 書の革命――黄庭堅「松風閣詩巻」
第26章 粘土のような世界を掘り進む――黄庭堅「李白憶旧遊詩巻」
第27章 過剰なる「角度」――米芾「蜀素帖」
第28章 紙・筆・墨の自立という野望――宋徽宗「夏日詩」
第29章 仮面の書――趙孟頫「仇鍔墓碑銘」
第30章 「角度筆蝕」の成立――祝允明「大字赤壁賦」
第31章 夢追いの書――文徴明「行書詩巻」
第32章 書という戦場――徐渭「美人解詞」
第33章 レトリックが露岩――董其昌「行草書巻」
第34章 自己求心の書――張瑞図「飲中八仙歌」
第35章 媚態の書――王鐸「行書五律五首巻」
第36章 無限折法の兆候―朱耷「臨河叙」
第37章 刀を呑み込んだ筆――金農「横披題昔邪之廬壁上」
第38章 身構える書――鄭燮「懐素自叙帖」
第39章 貴族の毬つき歌――劉墉「裴行検佚事」
第40章 方寸の紙――鄧石如「篆書白氏草堂記六屏」
第41章 のびやかな碑学派の秘密――何紹基「行草山谷題跋語四屏」
第42章 碑学の終焉――趙之謙「氾勝之書」
第43章 現代篆刻の表出
第44章 境界の越境――呉昌碩の表現
第45章 斬り裂く鮮やかさ――斉白石の表現

結論
第1章 中国史の時代区分への一考察
第2章 日本書史小論――傾度(かたむき)の美学
第3章 二重言語国家・日本――日本語の精神構造への一考察




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


〇第29章 仮面の書――趙孟頫「仇鍔墓碑銘」
・石川九楊氏の趙孟頫の捉え方
・「仇鍔墓碑銘」の特徴
・仮面の書―「仇鍔墓碑銘」(1319年)
・趙孟頫と比田井天来






第29章 仮面の書――趙孟頫「仇鍔墓碑銘」


石川九楊氏の趙孟頫の捉え方


初唐代から宋代までの中国書史を図式的に示すと、初唐→中唐→宋 楷書⇒行書となるようだ。
初唐代の欧陽詢の「九成宮醴泉銘」、褚遂良の「雁塔聖教序」を頂点とする、非のうちどころのない典型を形成する楷書は、中唐・顔真卿の「多宝塔碑」「顔勤礼碑」に至って、作者の動揺や顔つきの見えるような書へと大きな変貌をとげる。
顔真卿によって切り拓かれた書の新しい段階は、米芾の「蜀素帖」や黄庭堅の「松風閣詩巻」のような、行書体の書へと徹底し、構成上も見事な展開をしていく。これらの書史の道筋は必然的でたどりやすい。

ところが、元代・趙孟頫の「玄妙観重修三門記(三門記)」(1302年以降)や「仇鍔墓碑銘」(1319年)は、これらの書史の流れではとらえられぬような表現へと書が一変するという。
通常、これは王羲之の書の伝統に復古したからだと言われる、と石川氏は解説している。
(これはまさに『書道全集』の「中国書道史」を執筆した神田喜一郎氏の捉え方である、と私は推察している。要約でも記したように、復古主義と明記している[巻17中国12、神田喜一郎「中国書道史12」参照のこと])。

石川氏は神田氏の名を出してはいないが、この捉え方はおそらく文献資料に偏った言い方であろうと批判している。つまり米芾や黄庭堅の書と趙孟頫の書との質的落差は、書を見るかぎにおいては、「王羲之に復古した」といって解読されるものではない、と石川氏はいうのである。趙孟頫は復古的に書を変えたのではなく、きわめてたいくつで通俗的な次元のものに変えたという。悪く言ってしまえば、欧陽詢、虞世南、褚遂良、顔真卿、米芾、黄庭堅らの生き生きと輝き、躍動していた書を、ほとんど死んだ習字手本のようなものに変えてしまったと、こきおろしている。
換言すれば、趙孟頫の文字構成は均整がとれ、安定しているが、筆蝕に生き生きしたところがなく、暗く、生気のないものに書を変えてしまった。現行の習字手本の書きぶりの発生の源流を辿れば、趙孟頫まで遡行でき、空虚さしか孕まぬ書きぶりの出発点になったという意味で、趙孟頫の「三門記」や「仇鍔墓碑銘」は「習字手本の祖」と言っていいとする。趙孟頫の書は江戸時代の日本で盛んに学習された。その書が江戸時代の日本に受容しやすい構造をもっていたからだとする。

そして石川氏の持論である筆蝕という視点からすれば、趙孟頫の「仇鍔墓碑銘」には江戸時代の和様の書、たとえば御家流と共通する筆蝕がある、と石川氏は説く。両者の運筆筆蝕の共通点は、筆に垂直に突き立てるというよりも、いわゆる筆の腹を使って書く点を挙げている。具体的には、一般的に縦画の時には筆尖が字画の左側を通り、横画においては筆尖が上部を通る点が似ている。また横画相互の間隔をつめた扁平な字形構成も、平安時代の小野道風、藤原行成以来の和様の書に似ているとする。さらに起筆、送筆、終筆が明瞭な歯切れのよい区切りをもたずに、三者が溶け合い融合する姿は、和様の書に近似している。
和様の書のように、骨格まで溶けきってはいないけれど、趙孟頫の書もいささか「塗り字」風の、くなくなとした筆蝕の中に骨格が溶けている。そして筆蝕がいささかねじれ、重く、定性的な空虚な姿で現れている。そのような表現が可能になったことも中国書史の新段階である、と石川氏は捉えている。
(石川、1996年、266頁)

「仇鍔墓碑銘」の特徴


趙孟頫の「仇鍔墓碑銘」において、その筆蝕の劇(ドラマ)は、どのように立ち現れているのだろうか。
「仇鍔墓碑銘」の結字、結構、その文字構成は、よく整った見事なものである、とまず石川氏は断っている。
唐宋代の楷書や行書と比較すると、文字を上から圧縮して潰したような字形に収斂するところが、安定しすぎていて悪いと言えなくもないが、北魏の鄭道昭に似た安定性だと考えれば、さほど悪くもないという。

楷書が方形に収斂する顔真卿の構成法は、あまりに安易、単純で悪いと言える。しかし、「仇鍔墓碑銘」については構成上、顔真卿ほど単純単調ではない。
ただ、一転してその運筆過程を逐い、筆蝕を詠み込んでいくと、意外なほどの単純、単調さが浮かび上がってくる。

「仇鍔墓碑銘」の字画の描出法は、相対する縦画は定型的に向勢(向き合う縦画が中凸みのビア樽の側線状)に構成されている。
それよりももっと定型的なのは、横画の描出法である。横画はほとんど中凸みの構成に単一に結果している。いわば上下対称をも含む初唐代の複雑で緊張した字画の構成や描出法をごく単純なものにかえたのは顔真卿だが、顔真卿とてその構成原理はこれほど単純ではないようだ。

ただ、顔真卿の「多宝塔碑」よりは複雑で高次な書字法に見えるのは、複数の書字法と書字原理が混在するからであるともいう。
まず、楷書風と行書、草書風の書字が混在する。それだけではなく、通常ひとつの文字の中で主たる横画の傾きは統一され、全体として、統一された美を形成しようとするのに反して、「仇鍔墓碑銘」の場合には、必ずしも統一性をもっているとは言い難い。ひとつひとつの文字を他字との関係と統一に意をはらわずに書いているとみる。

この種の一字一字が独立した不自然な姿は単位文字について言えるだけではない。
「仇鍔墓碑銘」の筆蝕を見ていると、字画相互の微妙な連続性の欠如が目についてくる。
たとえば、「故」字の最終画など、前画との必然的な脈絡と連続を欠き、独立したいわば波型の形状に書かれている。
趙孟頫の「仇鍔墓碑銘」は、内在的な運筆筆蝕の連続や階調に従うのではなく、外部に想定する規矩に従うかのように、故意につくり上げられており、「のり」が悪いという。
流れを断ち、改めて起筆されるのは、「仇鍔墓碑銘」の定型的書字法である。
たとえば、「丹」字の第二画から第三の点に至る撥ねも、宋徽宗の「瘦金体」以上におかしな形状がいわば故意に附加されたものである。そのため、撥ねと次画起筆部との連続性がまったく欠如し、自然な流れは中断されている。

書は、いわば筆蝕における速度と深度と角度の自然な脈絡を断つことによって価値を有している言っていいほどだから、自然な筆脈の中断、それ自体は一方的に負の意味をもつものではない。
その点で言えば、これらの故意の形状によって、「仇鍔墓碑銘」は、字画と文字との一体性を剝がし、字画と文字構成をわかりやすくし、現在でいう習字手本の祖とでも言えるような、文字の書きぶりを書字史上はじめて書いてみせたとも言えるとする。

趙孟頫は外部に存在する何かに脅迫されるかのように、文字形をつくり上げている。
その点で、「仇鍔墓碑銘」は格調高い書、韻きの高い書とは言えない。
内在的律動が圧し殺され、作為的、渋滞的、窮屈な書である、と石川氏は評している。
「仇鍔墓碑銘」の書は、むろん怱率なものではない。慎重であり、ていねいである。しかし、作者内部から溢れ出るような書字戦略や戦術はうかがえないという。

黄庭堅の書がどんなに字画を分節していようとも、その分節された部位相互は、なだらかな階調によって結合されていた。時間と空間との相互の変容過程が溶融した心持ちのよい統一感のある劇(ドラマ)とリズムを感じることができた。

ところが、「仇鍔墓碑銘」は、時間と空間の関係の変容構造が稀薄なだけでなく、筆蝕の時間的過程変化、空間的過程(深度)変化、あるいは力の過程変化も、内在的、臨場的創造を伴うというよりも、むしろ外圧的、規矩的なるものに従おうとしている。
つまり、筆蝕と構成とは、うまく、書字の現場に投影されず、角度、すなわち書体=文体はためらわれ、くっきりとした姿を現さない。
定着しているものは重い筆蝕のみで、その筆蝕が展開する時間は外在的規矩によって不協和であり、スタイルに代わって型式が優先されているという。
(石川、1996年、268頁~271頁)

仮面の書―「仇鍔墓碑銘」(1319年)


「仇鍔墓碑銘」は、何ゆえか本心を外部に曝すことを禁忌した書、いわば仮面の書であると思えてくるという。この点について、石川氏は次のように説明している。
「過度の外部圧の下、趙孟頫は、いわば美しい仮面をかぶって、美しいふるまいを演じなければならなかった。内面を圧し殺し、ひとかけらも内面を外部に曝さぬように生きるしかなかった。それが南宋の皇族の出身でありながら、元朝の世祖フビライに抜擢され、元朝に仕えて生きるしかなかった趙孟頫の生のスタイルであった。その仮面のような生の姿が書からはっきり覗ける気がする」
(石川、1996年、272頁)

ところで、高村光太郎は、「書について」の中で、趙孟頫について次のように表現している。
「後年の名筆であつてしかも天真さに欠け、一点柔媚の色気とエゴイズムのかげとを持つ趙子昻の人物」という。
この点、石川氏は次のように批評している。
「趙孟頫の書の批評についても証明力に欠ける。だが、趙孟頫の書の「仮面性」という結論だけは、直感的に的確に言いあてていると思う」と。趙孟頫の書に「仮面性」を認めている点は両者とも共通しているようである。
(石川、1996年、271頁~272頁)

趙孟頫と比田井天来


伏見冲敬は「趙子昻・仇鍔墓碑銘」の中で、次のように記している。
「私はかつて、比田井天来先生の書庫を分類整理したとき、最初、宋・元・明という風に山積みしていったところ、元の山が他を抜いて高く、殊に趙の法書が多いのに驚いた。天来先生の用筆法研究の道程で、この資料が果した役割が推察できる。普通一口に「六朝風」呼ばれているわが一六・鶴鶴の両先覚も、実はその基礎は趙書であったことを知らぬ人もいるようだが、明清以来、名家といわれる人で趙の書を一度は習ったことのないという人はあるまい。」
(石川、1996年、272頁より)

伏見冲敬が、じかに目撃した比田井天来の学書の証言は興味深い、と石川氏はいう。
趙子昻の、塗り込めるような重い筆蝕は比田井天来の書に共通点があるようだ。
その仮面のような書の姿もまた、比田井天来の<書線>段階の書の姿と似ている。
そして、この仮面のような書の中から、筆蝕の重さを必然化する事情を染み抜きすれば、現在の習字手本の書に結果する。
現在の書壇では、趙孟頫の書など話題にも上らなくなったが、江戸時代以来、趙孟頫の書は日本で熱心に学ばれた書であった。
(石川、1996年、272頁)


≪石川九楊『中国書史』を読んで その10≫

2023-03-26 18:00:12 | 書道の歴史
≪石川九楊『中国書史』を読んで その10≫
(2023年3月26日投稿)

【はじめに】


今回も、引き続き、石川九楊氏の次の著作を紹介してみたい。
〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年
 今回は、本論の次の各章の内容である。つまり、宋代の書について取り上げてみる。
●第24章 <無力>と<強力>の間――蘇軾「黄州寒食詩巻」
●第25章 書の革命――黄庭堅「松風閣詩巻」
●第26章 粘土のような世界を掘り進む――黄庭堅「李白憶旧遊詩巻」
●第27章 過剰なる「角度」――米芾「蜀素帖」
●第28章 紙・筆・墨の自立という野望――宋徽宗「夏日詩」

ただし、執筆項目は、私の関心のあるテーマについて記してある。



【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史









〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年

本書の目次は次のようになっている。
【目次】
総論

序章  書的表出の美的構造――筆蝕の美学
一、書は逆数なり――書とはどういう芸術か
二、筆蝕を読み解く――書史とは何か
第1章 書史の前提――文字の時代(書的表出の史的構造(一))
 一、甲骨文――天からの文字
 二、殷周金文――言葉への回路
 三、列国正書体金文――天への文字
 四、篆書――初代政治文字
 五、隷書――地の文字、文明の文字
第2章 書史の原像――筆触から筆蝕へ(書的表出の史的構造(二))
 一、草書――地の果ての文字
 二、六朝石刻楷書――草書体の正体化戦術
 三、初唐代楷書――筆蝕という典型の確立
 四、雑体書――閉塞下での畸型
 五、狂草――筆蝕は発狂する
 六、顔真卿――楷書という名の草書
 七、蘇軾――隠れ古法主義者
 八、黄庭堅――三折法草書の成立
第3章 書史の展開――筆蝕の新地平(書的表出の史的構造(三))
 一、祝允明・徐渭――角度の深化
 二、明末連綿体――立ち上がる角度世界
 三、朱耷・金農――無限折法の成立
 四、鄧石如・趙之謙――党派の成立
 五、まとめ――擬古的結語

本論
第1章  天がもたらす造形――甲骨文の世界
第2章  列国の国家正書体創出運動――正書体金文論
第3章  象徴性の喪失と字画の誕生――金文・篆書論
第4章  波磔、内なる筆触の発見――隷書論
第5章  石への挑戦――「簡隷」と「八分」
第6章  紙の出現で、書はどう変わったのか――<刻蝕>と<筆蝕>
第7章  書の750年――王羲之の時代、「喪乱帖」から「李白憶旧遊詩巻」まで
第8章  双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(前編)
第9章  双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(中編)
第10章 双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(後編)
第11章 アルカイックであるということ――王羲之「十七帖」考
第12章 刻字の虚像――「龍門造像記」
第13章 碑碣拓本の美学――鄭道昭の魅力について
第14章 やはり、風蝕の美――鄭道昭「鄭羲下碑」
第15章 紙文字の麗姿――智永「真草千字文」
第16章 二折法と三折法の皮膜――虞世南「孔子廟堂碑」
第17章 尖塔をそびえ立たせて――欧陽詢「九成宮醴泉銘」
第18章 <紙碑>――褚遂良「雁塔聖教序」
第19章 毛筆頌歌――唐太宗「晋祠銘」「温泉銘」
第20章 巨大なる反動――孫過庭「書譜」
第21章 文体=書体の嚆矢――張旭「古詩四帖」
第22章 歓喜の大合唱・大合奏――懐素「自叙帖」
第23章 口語体楷書の誕生――顔真卿「多宝塔碑」
第24章 <無力>と<強力>の間――蘇軾「黄州寒食詩巻」
第25章 書の革命――黄庭堅「松風閣詩巻」
第26章 粘土のような世界を掘り進む――黄庭堅「李白憶旧遊詩巻」
第27章 過剰なる「角度」――米芾「蜀素帖」
第28章 紙・筆・墨の自立という野望――宋徽宗「夏日詩」
第29章 仮面の書――趙孟頫「仇鍔墓碑銘稿」
第30章 「角度筆蝕」の成立――祝允明「大字赤壁賦」
第31章 夢追いの書――文徴明「行書詩巻」
第32章 書という戦場――徐渭「美人解詞」
第33章 レトリックが露岩――董其昌「行草書巻」
第34章 自己求心の書――張瑞図「飲中八仙歌」
第35章 媚態の書――王鐸「行書五律五首巻」
第36章 無限折法の兆候―朱耷「臨河叙」
第37章 刀を呑み込んだ筆――金農「横披題昔邪之廬壁上」
第38章 身構える書――鄭燮「懐素自叙帖」
第39章 貴族の毬つき歌――劉墉「裴行検佚事」
第40章 方寸の紙――鄧石如「篆書白氏草堂記六屏」
第41章 のびやかな碑学派の秘密――何紹基「行草山谷題跋語四屏」
第42章 碑学の終焉――趙之謙「氾勝之書」
第43章 現代篆刻の表出
第44章 境界の越境――呉昌碩の表現
第45章 斬り裂く鮮やかさ――斉白石の表現

結論
第1章 中国史の時代区分への一考察
第2章 日本書史小論――傾度(かたむき)の美学
第3章 二重言語国家・日本――日本語の精神構造への一考察




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


〇第24章 <無力>と<強力>の間――蘇軾「黄州寒食詩巻」
・蘇軾の「黄州寒食詩巻」について
・蘇軾の「黄州寒食詩巻」
・「黄州寒食詩巻」の臨場
・蘇軾の「黄州寒食詩巻」の可撓性
・<無力>の造形

〇第25章 書の革命――黄庭堅「松風閣詩巻」
・黄庭堅の「松風閣詩巻」の解説
・黄庭堅の「松風閣詩巻」の「角度」

〇第26章 粘土のような世界を掘り進む――黄庭堅「李白憶旧遊詩巻
・中国書史における黄庭堅の書の重要性
・黄庭堅の「李白憶旧遊詩巻」
・書論について
・黄庭堅の「李白憶旧遊詩巻」の書史上の位置

〇第27章 過剰なる「角度」――米芾「蜀素帖」
・宋代の書
・米芾の歴史的エピソード
・米芾の「蜀素帖」

〇第28章 紙・筆・墨の自立という野望――宋徽宗「夏日詩」
・宋徽宗の「夏日詩」
・痩金体と活字




第24章 <無力>と<強力>の間――蘇軾「黄州寒食詩巻」


蘇軾の「黄州寒食詩巻」について


石川九楊氏の「黄州寒食詩巻」に対する理解を紹介しておきたい。
蘇軾の「黄州寒食詩巻」には、初唐代の楷書に見られた、均整のとれた整斉の美はもうなく、また「自叙帖」の背後に透けて見える「草書千字文」の均衡もない。文字の大小や速度感や一部の字画の極端な伸長は狂草で経験ずみであるが、構造的に長体、扁平体入り混じることはもとより、垂直・水平の整斉美を本質とする書が「左に伸び、右に縮む」、どう見ても均衡をとる気配がない(石川氏によれば、蘇軾の書の特徴である「左に伸び、右に縮む」という評言は清の姚孟起「字学憶参」に見えるという)。

狂草「自叙帖」にもむろん長体、扁平体はあるが、あくまで正方体の周辺上でのものであるが、蘇軾の「黄州寒食詩巻」においては、長体や扁平体が基本形であり、斜体とでも呼ぶべき形が多い。つまり「黄州寒食詩巻」の書は「正方体」に角度をもった力が加わり、字形は斜体化し、その上で垂直に伸び、縮んでいる姿である。
そして、蘇軾、黄庭堅、米芾の書は王羲之に始まり、初唐代に典型を見せる整斉なる造形に角度を加えこれを変形した。この点、清の姚孟起は、「蘇書は左に伸び右に縮み、米書は左に縮み右に伸ぶ」と言ったが、石川氏はこれに倣って、黄書は「左に伸び右に伸ぶ」と表現している。蘇軾は内在的に王羲之を組織していたがゆえに、いささかいじけて字形上に歪(ひず)みをきたしたが、黄庭堅と米芾は、垂直、水平、それらに角度をもつ左はらいや右はらい方向をも一段と伸長させることによって、つまり字画を四方八方に伸長もしくは縮短することによって、いわゆる「晋唐風」を脱し、かつそれぞれ固有の筆蝕の姿を曝すことになった。しかし、そこにはまた後代の古典(モデル)となるような、それぞれのいわば型とでも言うべき安定性を伴っていたという。
(石川、1996年、33頁、37頁)

さて、蘇軾の「黄州寒食詩巻」は書にしか見られない固有の表現の容量がとても大きいが、それゆえ、この書の味に馴染んだ人にとっては、酒や煙草などに似て、泥沼の中毒症状に陥るような危険な書でもあると評している。
また、蘇軾と黄庭堅の書を比べてみると、蘇軾の「黄州寒食詩巻」については、学んだからと言って、あまり実りあるものが手に入るような書ではなく、また学ぶことのできない書である。それに対して、黄庭堅の「松風閣詩巻」や「李白憶旧遊詩巻」は後世の我々がモデルとして学ぶに足る、それまでの書には見られない新しい筆蝕と構成上の基準性をもっているという。

黄庭堅に宋の高宗、沈周らの追随者があるように、蘇軾にも呉寛らの追随者がいたが、後世への書史への具体的影響、浸透という点では、蘇軾の書は黄庭堅の書に及ぶべくもない。呉寛は、起筆、終筆のこぶ状の字画や、文字の姿勢を低くした構成上の型を真似たが、その構成法そのものは、黄庭堅や米芾のそれとは異なり、普遍的で理にかなったものではないようだ。
しかし蘇軾の「黄州寒食詩巻」は、これこそが書なのだという説得力をもってそびえ立っている。それは書字=筆蝕する現場、つまり臨場の一回性からくる表現上の容量が圧倒的であるからである、と石川氏はいう。その臨場からの容量の大きさの点で、「黄州寒食詩巻」は蘇軾の「宸奎閣碑」など他の作とは大きな落差をもつ、とても不思議な書である。

わかりやすくするために、蘇軾と黄庭堅の書の特徴を、日本近代の書にあえて喩えれば、副島種臣と中林梧竹にそれぞれ喩えられるとする。黄庭堅や中林梧竹の書の書体は、筆蝕や構成法が後世のモデルになりうる普遍的性格があり、多くの追随者を輩出する。他方、蘇軾や副島種臣の書は、書体の中でも書字=筆蝕する現場つまり臨場自体によってもたらされ、他人はもとより本人自身によってすら、別の臨場では、どうしようもできない一回かぎりの表現が大量に包含されている。
「黄州寒食詩巻」には書固有の表現のもつすごさ、一度限りの臨場のこわさ、危険性をも含めて、書固有の表現のすべてがここに隠されていると石川氏はみている(それゆえ、その書をみるたびに、どうやっても及びようがないという意味で、石川氏はため息が出るという)。

「黄州寒食詩巻」の書を理解するためには、文字の形や配置を外側からながめ、せんさくするだけでは不十分であるという。毛筆の尖端が紙に触れる瞬間である起筆に始まり、字画に至り、字画から次の字画へ、そしてひとつの文字、さらに次にくる文字の第一画の起筆へつながっていくところの筆蝕内側の劇(ドラマ)を、筆尖の動く状態を想定し、なぞっていきながら、そこに込められた、力の変容過程、紙との摩擦感、速度を筆尖の角度を含めて、ていねいに追っていくことが必要であると説いている。その展開のようすから、そこに込められた意識的、無意識的な思想=書体を微細に、正確に読み解くことによって、はじめて「黄州寒食詩巻」はその姿を明るみに出すという。

石川氏は「書の読み解き方」と題して、「書くということは筆蝕することである。書の美というのは、筆蝕の上に花開いたスタイル=文体=書体である。換言すれば、筆蝕と構成を現実化する「角度」と「距離」とも言える」と述べている。
(石川、1996年、225頁~228頁)

蘇軾の「黄州寒食詩巻」


石川九楊氏は蘇軾の書について、「李太白仙詩巻」ではないが、「黄州寒食詩巻」を例にして、「左に伸び右に縮む造形」の字として「春」「惜」を挙げつつ、次のように解説している。
「蘇軾固有の型にまで成長した、蛙のような姿勢を低くした結字――文字構成――を基軸に左下へ、左下へと流れる文字が書かれる。
 ところどころに、「春」字や「惜」字のように、下部の字画ブロック「日」を左へ寄せた字が見うけられる。また右下から左下へ向かう斜の字画が強勢になり、第二の「春」字に見られるように横画を横切って上部から起筆される縦画が、横画に対して、あまり突き出さない傾向が強くなる。これらの傾向は、歴史的な結字、構成、つまり書の定型を裏切っている。
 基準的な書字構成では、下部へくる字画ブロックは左ではなく、中心よりもやや右に置くことによって、文字の造形的均衡をとる。なぜなら横画が右上りの文字の場合、下部にくる字画ブロックを中心に位置させたのでは、傾きが強調されたままで終わるからである。横画が右に上がる角度体においては、相対する二つの縦画の左側は細く、短く、右側は太く、長く書き、また文字の重心というようなものを考えれば、重心は右下に位置する。
 むろん蘇軾がその構成原理を知らないわけではない、蘇軾はあえてその原理を裏切り、下部にくる字画ブロックを左へ置く。」
(石川、1996年、228頁~229頁)


「黄州寒食詩巻」の臨場


「黄州寒食詩巻」の全篇を通じて、描き出されている筆蝕は、決して明るいものではない。しかし、とてつもない注意深さと慎重さを隠しながら、筆蝕は書字の現場にのり、とても自然に美しく展開する。

蘇軾は起筆をきちんと打ち込んだ後、体制を整えてひとつの字画を書くのではなく、次から次へと進もうとする筆蝕意志が、起筆よりも送筆主体の書を生み、退屈な字画反復から逃れているようだ。「黄州寒食詩巻」の筆蝕は書字の臨場にのっている。
たとえば、「黄州寒食詩巻」を臨場が主律している姿は、「臥聞海棠花、泥汙燕支雪」の「花」「泥」部の「花」字から「泥」字に連続する箇所での驚くような姿に確認できる。
「海棠花」という語の流れと切れに従って、「花」字の終筆はいったんは右下に移る。しかしそれでは次に続く「泥」字が右に寄りすぎるために、新たに左上に移って、「泥」字の第一画の点を打っている。

すべての字画、文字が荒れたり、すさんだりすることなく、とてもきれいで、最初から最後まで無数の変化を伴う、自然な変容の過程をもちながら、書き継がれている。
(石川、1996年、227頁~229頁)

蘇軾の「黄州寒食詩巻」の可撓性


矛盾を内包した豊饒な振幅の大きさ、それは「黄州寒食詩巻」の見応えのひとつだろうという。
一般に、蘇軾の運筆は運筆技法的に、倒筆、偃筆、臥筆、側筆と言われる。いずれも筆毫を倒していわゆる腹を使って書くことを言う。たしかに全体を貫く基調はゆったりとした表現力の豊かな側筆に拠っている。
「黄州寒食詩巻」の側筆は何を表現しているのだろうか。
やや倒れた側筆は、刃物が切り込んでいくところの角度をもった筆蝕である。とりわけ「黄州寒食詩巻」のそれは、たわみをもつ剃刀が薄い刃を立てて鋭く、しかし可撓(とう)性をもって食い込んでいくところの鋭くかつ柔軟な筆蝕である。つまり「黄州寒食詩巻」
は可撓性をもつ剃刀のような書であるという。
(石川、1996年、231頁)

<無力>の造形


「黄州寒食詩巻」の詩は全篇にわたって、<無力>という基本調子によって描き出されている。力を込めている瞬間にも、多くの場合、<無力>を確認できる。
「黄州寒食詩巻」は<無力>を基本に、<無力>から力の極限である<強力>までを、細心でありながら、細心とも気づかせぬほどにゆったりと描き出している。

「黄州寒食詩巻」は不思議な書である。そして、「黄州寒食詩巻」に代表される書という表現もまた、不思議な世界である。
この<無力>と<強力>の間の描出法こそは、「書譜」に親しく、また王羲之の書つまり良質の古法・二折法にしばしば見られるところであった。書史の段階は、垂直筆蝕と角度筆蝕の劇(ドラマ)の時代に入り込んだにもかかわらず、「黄州寒食詩巻」は、字形からは想像もつかないが、筆蝕に古法の美質を宿している、と石川氏は評している。
(石川、1996年、233頁)

第25章 書の革命――黄庭堅「松風閣詩巻」


黄庭堅の「松風閣詩巻」の解説


石川氏は「第二十五章 書の革命 黄庭堅「松風閣詩巻」」と題して、「松風閣詩巻」という作品を解説している。以下、その内容を紹介しておきたい。
黄庭堅(黄山谷)の「松風閣詩巻」は実に不思議な書であるという。筆尖と紙との摩擦の態様である筆蝕の一般的性向は、蘇軾の「黄州寒食詩巻」のような暗鬱さを湛えているが、書字の結構、構成の方は、貝のように口をふさいだ「黄州寒食詩巻」とは異なり、大らかな解放感があるというのである。
蘇軾の「黄州寒食詩巻」は筆蝕、構成ともに、個人的深みからくる暗鬱さに自閉しているという意味で、典型として学ぶに足る普遍性というものを、現在ではもっておらず、ただひたすら味わい、読み込むべき名品であるという。
一方、黄庭堅の「松風閣詩巻」は筆蝕において十分に味わうに足る深さを湛え、また構成においても、今なお学ぶに足る典型性をもつ生きた書であると評価している。他方、米芾の「蜀素帖」の構成法は、現代でも十分に学ぶに足るほど固められた典型的なスタイルをもっているが、筆蝕がやや類型的で、蘇軾や黄庭堅が切り拓いた複雑な表現力をもつ筆蝕の質に届いておらず、味わいの深さという点では、蘇軾の「黄州寒食詩巻」や黄庭堅の「松風閣詩巻」とは比較にならないとする。

さて、波うつ字画で描出された「松風閣詩巻」の書の作法(さくほう)は、従来の詩人たちとは異なった黄庭堅の思想からやってくる、と石川氏はみている。そして黄庭堅の『山谷題跋』巻九の有名な文を引用して、解説している。
「わたくし山谷が、黔中に在ったときの字は、多く意に随って曲折し、意が到っても筆が追いつかなかった。ほく道(戎州)へ来る際、舟の中で長年訓練した船頭たちの棹の扱い様を見て、少しく書法の進歩するのを自覚した。意の到るところ、ただちに筆が使えるようになった。」
この黄庭堅の記述から読み取るべき点は、船頭たちの棹の扱い様を見て、黄庭堅の脳裡に新しい書の作法がふとひらめいたという点にあるのではない、と石川氏は解釈している。それまで黄庭堅は従来の書の作法では、意を尽くしえないもどかしさがあり、自分が描きたいと思っている世界と、当時の書の作法とのずれを感じつづけていた。黄庭堅は頭の中ではたえず何とかこの状態を脱却したいと考え、新旧さまざまの書法を研究しつづけていた時、たまたま船頭たちの棹の扱いを見て、そのずれを埋める新しい書の作法を開発することができた、と石川氏は解している。
当時、どのような舟で、どのような棹を用いて、どのように舟を進めたかはわからず、船頭の棹の扱いがどのような書の作法の比喩として黄庭堅の脳裡に映ったかも、正確にはわからない。問題は描き出したい世界と書の作法とのずれを埋める新しい書の作法(それは単なる書字作法だけではなく、詩作法をも含めたものとしての書法)を開発したことを読み取ればよいとする。自分の書の旧来の作法にがまんがならなくて、新しい書の作法を苦心のすえに創造したという点に、蘇軾、米芾とも異なった黄庭堅の書の突出があり、黄庭堅の晩年の書のすぐれた達成がある、と石川氏はみる。

黄庭堅が黔州に在ったのが1095~1097年、1098年には黔州から戎州に移ったとされている。「松風閣詩巻」の成立は1102年といわれているから、「松風閣詩巻」は新しい書の作法を手に入れた後の書である。現在でもなお比較的容易に見ることのできる「伏波神祠詩巻」(1101年)と、「松風閣詩巻」(1102年)とは、波うつ字画をもつ新しい書の作法の下に麗姿を曝している。

黄庭堅が開発した書法(書の作法)の中心となすものは、「字画細分化」書法とでも呼ぶべきものである。その姿を抽象化して言えば、従来、一つの字画として自然な連続的な諧調をもってつながっていた起筆、送筆、終筆の各単位をさらに起筆、送筆、終筆の小単位に(理論的に言えば、三×三=九の小単位)細分化し、九折化した小単位を「三折法」が統合して、一つの字画を描き出す書法である。それは三折法の構造の飛躍的な発展であり、「トン・スー・トン」を「トン・スー・トン、トン・スー・トン、トン・スー・トン」単位の微動が支える九折法である。
最も顕著な例として、「松風閣詩巻」から例を挙げれば、次の字である。
「老松魁梧數百年」(老松 魁梧 數百年)の「老」、「嘉二三子甚好賢」(嘉す二三子甚だ賢を好み)の「三」、「相看不歸臥僧氊」(相看て歸らず僧氊に臥す)の「看」である。すなわち「老」字第三画、「三」字第三画の長い横画、「看」字の最も長い横画を挙げている。そしてわかりやすくするために、「字画細分化書法」以前の初唐代の褚遂良が「雁塔聖教序」風にこれらの字を書いたと仮定すれば(すなわち三折法)、「老」「三」「看」の長い横画をどのように描出したかをも併記している。
(石川、1996年、234頁~235頁、238頁)

黄庭堅の「松風閣詩巻」の「角度」


おおむね六朝時代までの書は、類的な顔立ちの匿名の書であったが、初唐代以降、三折法の成熟とともに実名の書の時代に入り、顔真卿の時代頃から顔立ちが明らかになる。そして宋代に入って、その顔立ちが鮮明になり、宋代は「意」の書と言われる。

黄庭堅の「松風閣詩巻」の書法を通じて描き出した書体(スタイル)で、「角度」の問題について説明している。
たとえば、「平」や「来」の第二、第三画が水平に近い角度で、また元来垂直画であるはずの「買」や「鳴」の第一画が45度に近い角度で斜めに書かれている。
これは、垂直にかかる重力を左右斜めにふりさばく姿である。その結果として、三角形に収斂するような奇抜な造形の書が生まれる。

蘇軾の「黄州寒食詩巻」は、垂直圧に圧し込まれつぶれ、傾き、それでもなお、必至で持ち堪えている苦渋に満ちた姿をしていた。それに対して、黄庭堅は、その力を暢びやかに八方に拡散している。
旧法党の蘇軾の一味として、左遷の生涯でありながら、そこに悲しみや恨みの色彩がないのは、微細な書法の創製によって、重力のふりさばき方=「角度」を手に入れたからと石川氏はみている。
黄庭堅は、ひとつの字画をスッといっきに書くことも、筆をふりまわすこともなかった。世界は簡単にねじ曲げることのできるようなものではないことを、「松風閣詩巻」は描き出しているという。

石川氏は、「松風閣詩巻」が語る思想について、付言している。
その書にしばしば見られる長い横画から鑑賞できるのは、長くて遠い道のりだという。抑揚、浮沈、振幅、曲折の多い長い道のりで、それは黄庭堅の政治的人生的道のりを象徴しているようだ。その長い横画は、「点」の形状が指示する危険な暗くて深い淵と隣り合わせにある。そこに、色々な曲折を自ら人工的にしかける智恵と工夫によって、歩んでいく姿がみえるという。

黄庭堅は三折法の上に、さらにこれを微分し、九折法戦略を樹立することによって、「意が到っても筆が追いつかなかった」段階をすっきりと超え、「意」を定着することに成功した。
王羲之の二折法は、はるか彼方に置き去りにされ、九折法は、筋骨の通った鮮やかな新しい文学のスタイルをくっきりと見せてくれる。
(石川、1996年、243頁)

第26章 粘土のような世界を掘り進む――黄庭堅「李白憶旧遊詩巻


中国書史における黄庭堅の書の重要性


石川九楊氏は草書の歴史において、懐素の「自叙帖」と黄庭堅の「李白憶旧遊詩巻」とを比較しながら、分析している。
そして黄庭堅の書は中国書史において、いかに重要であるかを石川氏は次のように強調している。「本稿の中で、一人の作家の二つの作品をとりあげる例は少ないが、黄庭堅については行書体と草書体の双方でとりあげることになった。書の歴史上、黄庭堅の書はそれほど重要であり、かつ「李白憶旧遊詩巻」は草書体の歴史を考える時、避けて通ることはできないということを意味している」という。
(石川、1996年、244頁)

懐素の「自叙帖」と「草書千字文」と黄庭堅の「李白憶旧遊詩巻」の関係


石川氏は懐素の「自叙帖」と「草書千字文」との関係を次のように捉えている。懐素の「自叙帖」では行は傾き、文字は大きくなったり、小さくなったりする。それを「臨場の勝利」と表現している。書くことに「ノル」ことによって、言い換えれば勢いをつけることによって、行を傾け、文字を大小させることが可能になった。「ノリ」から外れ勢いがなくなれば「草書千字文」いわゆる「千金帖」のような端正な世界に復することになる。その点で「自叙帖」と「草書千字文」のような世界が同じ懐素の手になることは容易に理解できる、と石川氏は説明している。

中国唐代、懐素の「自叙帖」は、角度起筆と垂直起筆(突筆)の二つの起筆を基本とする対位法を武器に描かれ、さらに、「書字の臨場へのノリ」と「転調への意志」によって、これらは拡大・拡張される。展開に従って、太く強い筆蝕、大きな盛り上がりが生み出され、劇的な書の世界が誕生した。
このようにして、「自叙帖」は、王羲之の手紙(尺牘)や智永の「千字文」、孫過庭の「書譜」などのいわば端正な草書体の段階をはるかに突き抜けていった。
しかし、これほど書の価値を圧し上げた懐素の「自叙帖」といえども、これを宋代の詩人・政治家・黄庭堅の「李白憶旧遊詩巻」と較べると、とても単調な世界に見えてしまうという。
(石川、1996年、244頁、249頁)

石川氏は懐素の「自叙帖」とこの黄庭堅の「李白憶旧遊詩巻」とを比較対照させて、次のような比喩を用いている。「自叙帖」の中で懐素が描き出した世界、その大地は土というよりも相当堅い石か岩である。それゆえ、刃物の刃を立てるようにして鋭く切り込むか、「奥」字の第一画のように、刃こぼれも気にせず、目をつむってでも思い切り打ち込み、いっきに力まかせに削るしかなかったと表現している。
これに対して、「李白憶旧遊詩巻」の方は、粘りのある土で、深く打ち込むにも、慎重に、しかし力を込めて深く打ち込んでいるという。「自叙帖」からは打ち込む音や掻き削る音が聞こえるが、「李白憶旧遊詩巻」からはそのような音は聞こえず、「掘り起こす」「掘り進む」手応えである微妙な触覚をその書から感じとることができる。深く、粘り気のある「李白憶旧遊詩巻」の世界は、この「掘り進む」ような字画筆蝕によってもたらされている、と石川氏はみている。
(石川、1996年、251頁)

黄庭堅の「李白憶旧遊詩巻」


黄庭堅は宋代、否、宋代にとどまらず中国詩史つまり東アジア詩史上の一級の巨大詩人である。その詩人が愛唱する唐代の詩人・李白の詩を書いている。活字に転換すると、それは同一の詩で、「丸写し」「敷き写し」にすぎない。現存する「李白憶旧遊詩巻」は前の部分が失われてしまっているが、李白のつくった「憶旧遊寄譙郡元参軍詩」の詩を書いたものである。
しかし、李白の書いたであろう「憶旧遊寄譙郡元参軍詩」と黄庭堅の書いた「憶旧遊寄譙郡元参軍詩」との間に表現上の差は厳然として存在する。歌人・会津八一などなら「附加された美的工夫」、美術的・造形的な工夫を加えたにすぎないと言うかもしれないが、石川氏はそのようにみていない。つまり詩と書の関係の本質はもっと深いところにあると石川氏は考えている。黄庭堅によっては、「憶旧遊寄譙郡元参軍詩」をこのような草書体でしか書けなかったと石川氏はいう。黄庭堅は内発的、外発的必然性から「憶旧遊寄譙郡元参軍詩」の詩を選択して、これ以外ではありえない姿に書いた。
(石川、1996年、244頁、247頁)。

「李白憶旧遊詩巻」の字画の描出法は基本的には「掘る」ことと「放す」ことを対位とする筆蝕であると石川氏はいう。喩えれば、粘土質の大地をパワーショベルで掘り、またその土を放り出しつつ進むような世界であるとする。つまり「李白憶旧遊詩巻」の字画の筆蝕は、パワーショベルが大地に打ち込まれ、土を掘り起こすように、とても深くまで打ち込まれ、掘り起こされる。
現存の書跡から判断すれば、冒頭「迢」の字の第一筆の点は相当に深くまで打ち込まれ、深くから土を掘り起こし、抉り出している。この深く打ち込み抉り出す姿は、「迢々訪仙城卅六」という冒頭一行だけでも明らかで、この「迢」字第一筆、「々」、「卅」の三つの点、「六」字最終画の点からわかる。深く打ち込み、美しく抉り出すのが「李白憶旧遊詩巻」の基本作法である。「李白憶旧遊詩巻」の現存する第一行のゆれは、波うつ字画筆蝕とともにある。「李白憶旧遊詩巻」の全体の姿は、「迢」字の、ゆれをもって水平に打ち込まれた第一筆の「点」の中にすでに書き込まれているともいう。
(石川、1996年、249頁、251頁)

書論について


書の時代的性格をうまく言いあてた書論に、「晋代は韻、唐代は法、宋代は意、明代は態」という言い方がある。言うまでもなく「書」という語は、言葉=詩の側面と、言葉=書の側面の二重性に成立しているから、通俗的に考えるように、これはいわゆる「書道」のことだけを指すのではない。
中国宋代の詩や書は「意」という語に鍵があるという。書の常套句に「意先筆後」という言葉もある。「意」を先に「筆」を後にせよというのだ。直訳すれば「構想と決意を先にして、筆を後からそれに従わせて動かす」ということになるのだろうか、という。
(石川、1996年、250頁)

宋の時代は書史上の一大分水嶺、書史上の分岐点である。西暦紀元頃、ないしは王羲之の頃から始まる古典的な書史の終わりであり、また明末に至る新しい書史の出発点である。その意味で、蘇軾、黄庭堅、米芾の書は、歴史の結節点を象徴する書である。
中国の書論では、「晋韻、唐法、宋意、明態」と言われ、それぞれ晋、唐、宋、明の各時代と書のスタイルの関係がうまく言いあてられているが、これはさらに「晋韻・唐法」の時代と、「宋意・明態」の時代の二分してもさしつかえない、と石川氏はいう。つまり1100年前後に始まり、1650年頃に至るおおよそ550年(蘇軾、黄庭堅、米芾、黄道周、張瑞図、倪元璐、王鐸、傅山、許友への550年)の書の歴史は、多彩な筆蝕表現の時代である。宋代までは、普遍的な書体整備の時代であり、宋代からはより個性的な書体の成立と発現の時代である、と石川氏は捉えている。
(石川、1996年、第34章の305頁)

黄庭堅の「李白憶旧遊詩巻」の書史上の位置


書字の微粒子的律動たる筆蝕が字画、文字、文を形づくる。
黄庭堅の「李白憶旧遊詩巻」は、書史上初のそして唯一の完全三(九)折法草書である。元明代以降の書においても、ついに九折法を組織した書は出なかった。その意味でも「李白憶旧遊詩巻」は特異の書である。
それは蘇軾、黄庭堅、米芾の時代で、古法・二折法を三折法によって解体する歴史は終わり、折法は相対化されたからである。王羲之に始まる歴史は「李白憶旧遊詩巻」によって終焉し、またこの作から新しい時代が始まる。
(石川、1996年、251頁)

第27章 過剰なる「角度」――米芾「蜀素帖」


宋代の書


「書道界には宋代以降の書は学ぶに足らずというような乱暴な論もあるが」と批判している点も、中国書史を全体的に捉えようという石川の基本姿勢が反映されていよう。

宋代というのは、王羲之に象徴される東晋、六朝期からの書が初唐代を頂点とする三過折と楷行草書を一セットとするひとつのサイクル構造を完成し、また同時に、宋を出発点に元から明、清へと至る新たなサイクルの出発点となる重大な時期にあたるものである。中でも、蘇軾、黄庭堅、米芾の書は書史上群を抜く、看過できない書である、と石川氏は宋代の書を中国書史の中に位置づけている。
すごい書といえば、蘇軾の「黄州寒食詩巻」。見れども見れども飽きない書といえば黄庭堅の「伏波神祠詩巻」。文字の姿態の面白さを味わうなら米芾の「蜀素帖」ということになるだろうという。
そして書を学ぶ者にとって、「蜀素帖」からは書というものについて数々のことが学べる。書を学ぶ者は一度はじっくり「蜀素帖」を習い、その絶妙な味を味わうがよい。だが、「蜀素帖」は用意周到でありすぎる過剰の書であるともいう。
(石川、1996年、252頁)

米芾の歴史的エピソード


米顚(べいてん)と仇名された米芾は、欲しいと思う筆蹟や奇石、良硯を手に入れるためには、しばしば常軌を逸した行動に出たと伝えられる。
また清の金冬心の画によって知られているように、米芾は自分の知事をつとめる無為軍の役所の庭に「奇醜」の状を呈する巨石を見出して大いに喜び、衣冠をつけ笏を持ってこれを拝し、これに兄事したという逸事は、宋の正史にまで記されている。
そして米芾が死に近づくと、1月前には家事を整理し、親友に別書を書き、愛蔵の書画をすべて焼き捨て、棺を作って臥居飲食すべてその中で行い、7日前には葷を茹(くら)わず、沐浴更衣の上、香を焚いて清坐したという。米芾はもともと潔癖で、洗った手を拭うのを不潔とし、手を打ち合わせながら自然に乾くのを待ったという奇談もある。
そして生への訣別も彼らしい。いよいよ死期が逼ると、米芾は遍く郡の官吏を呼び集めて、払子を挙げて、「衆香国中より来り衆香国中に去る」と唱えるとともに、払子を投げうち合掌して絶息したと伝えられる(寺田透「蘇軾 黄庭堅 米芾」、中田勇次郎編『中国書人伝』中央公論社、1973年所収、164頁~166頁)。

このような米芾の人物像を踏まえて、石川九楊氏は米芾の書に対して次のように評している。
「中国の書論で言う「米顚」、つまり米芾は「顚」。尋常ではないという言葉が甦り、冠服は唐代の古い服装であったとか、潔癖症であったとか、死が近づくと棺をつくり、寝るのも飲食もその中ですませたなどという奇談がさもありなんと思えてくる書だ」という。
(石川、1996年、258頁)
そして先述したように、米芾の「蜀素帖」は、用意周到でありすぎる過剰の書であると評している。
(石川、1996年、252頁)

米芾の「蜀素帖」


米芾の「蜀素帖」は、黄庭堅のように新しい折法を開発することによって書史に屹立するのではなく、三折法の枠内でそのあらゆる可能性を駆使することによって、現在でもなお、書を学ぶ者の典型(モデル)となる質をもっている。それゆえ書道家の間では、蘇軾・黄庭堅・米芾の書の中で最も高く評価されている。
しかしそれは習字上の典型にすぎず、書の価値ともなると、蘇軾や黄庭堅の書よりも一段見劣る。それは蘇軾の「黄州寒食詩巻」が、王羲之的二折法のすべてを知り、王羲之的書でありながら、その姿を微塵も見せぬ臨場の姿で立っていること、また黄庭堅の「松風閣詩巻」や「伏波神祠詩巻」が王羲之的二折法を近くへ寄せることのない九折法戦略の上に新水準の書として立っている姿に較べて、米芾の「蜀素帖」が、いささか絢爛、華美な三折法という水準を脱けていないからである。つまり、華美な三折法という水準を脱けていない点からみて、米芾の「蜀素帖」に対する石川氏の評価は、ふつうの書道家の評価より低い。(石川、1996年、259頁)

羊毫について


剛毛と羊毛の筆ということに関連して、石川氏は興味深いことを述べている。
書の用語で「筆(筆毫)を開く」という言葉がある。筆毫の「開き」と跛行とは同伴するようだ。たとえば、馬毛のような筆毫の繊維が太く、剛い筆は簡単に「開く」が微妙な跛行は容易ではない。逆に羊毫のような繊維の細く、柔らかい筆は、うまく「開く」ことができれば、きめ細かい、こくのある筆蝕の表情が生まれるが、そこでは一本一本の繊維を別々に操るという決意と、それを実現する技術を要することになるという。
近代以降の専門家の書が羊毫柔毫の筆を用いることになったのは、一本一本の繊維を思い通り操ることによって、自己表現に向かおうとしたことによっているようだ。
(石川、1996年、258頁)

第28章 紙・筆・墨の自立という野望――宋徽宗「夏日詩」


宋徽宗の「夏日詩」


石川氏は、徽宗の書を解説するにあたり、徽宗の「夏日詩」は奇妙な書であると記す。
「夏日詩」のような書(痩金体)は、よいのか悪いのかの判断の難しい書でもあるそうだ。
「書史上傑出した書か?」と問われれば、躊躇しながらも、首を横にひねるという。
しかし、書の歴史を把握するするためには、触れざるをえない書であることを認めている。
このような書を歴史に織り込んでいる書史の深さを知る意味でも、じっくりと解読に取り組むのがよいという。

書字の骨格だけを曝したようなこの書こそは、三折法を抽象化し、その骨格を歴然と露わにした書であると捉えている。
「トン・スー・トン」の三折法が、書字の基本的法則として書史上、揺るぎなく定着した証しである。そして、書が速度と深度と力からなる筆蝕の劇(ドラマ)であることを、この書は白日の下に曝し、また書における筆蝕が構造的に逆説的なものであることを証してもいると強調している。
(石川、1996年、260頁)

痩金体と活字


「夏日詩」のような書きぶりを一般に「痩金体」と呼ぶ。宋徽宗皇帝の手によって、書字骨格の分析と整理、その上での三折法の完全制度化が行なわれた。毛筆文字がはじめて分析され、整理され、定式化され、きわめて論理的に表出された。

このような文字に対して分析的な視点は、活字設計者の考えに似ているそうだ。つまり、横画、縦画、左はらい、右はらい、転折、起筆、そして終筆のセリフ(ウロコ)をどのような形状にすべきかを、両者ともに分析的に考えているという。
だから、徽宗の「夏日詩」という書は、筆文字による活字体の誕生である、と石川氏は表現している。
(事実、宋徽宗の4代前、宋仁宗の慶暦年間に、畢昇[ひっしょう]が粘土に文字を彫り、焼き固めて活字をつくったと言われている)

活字という、いわば一字を単位とする文字設計が生まれたということは、三折法や「永字八法」が転倒されたことを意味する、と石川氏は主張している。
「永字八法」や三折法は、書から推定され、抽出された原理にすぎないが、活字が設計されるということは、三折法や「永字八法」から抽出した部品(起筆・送筆・終筆・転折・撥ね・はらい)を集めて、文字を書くという逆転を生じると説明している。
このような部品(パーツ)から出来上がっているという分析と、分析された部品(パーツ)から文字をつくるということの間には、質的な飛躍があるようだ。
「部品(パーツ)を集めて文字をつくる」ということは、部品をつくり、部品相互の関係を組み立てるという、設計と製造と組み立てにかかわることである。
この文字の設計と部品の製造と組み立ての視点が、宋仁宗時代前後には生まれ、宋徽宗は、その意識に基づいて書を書いているということである。

徽宗は文字をめぐっての科学者であり科学技術者であったという。
徽宗の書は、中国書史上、初の「活字の書」といえる。否、おそらくその言い方は逆である。宋徽宗の「夏日詩」のような書法の新段階が、活字を生んだといえるとする。
(石川、1996年、263頁~264頁)


≪石川九楊『中国書史』を読んで その9≫

2023-03-25 18:00:28 | 書道の歴史
≪石川九楊『中国書史』を読んで その9≫
(2023年3月25日投稿)

【はじめに】


今回も、引き続き、石川九楊氏の次の著作を紹介してみたい。
〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年
 今回は、本論の次の章の内容である。
(便宜上、次回を宋代から始めるために、今回は顔真卿の書について解説する)
●第23章 口語体楷書の誕生――顔真卿「多宝塔碑」
ただし、執筆項目は、私の関心のあるテーマについて記してある。




【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史









〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年

本書の目次は次のようになっている。
【目次】
総論

序章  書的表出の美的構造――筆蝕の美学
一、書は逆数なり――書とはどういう芸術か
二、筆蝕を読み解く――書史とは何か
第1章 書史の前提――文字の時代(書的表出の史的構造(一))
 一、甲骨文――天からの文字
 二、殷周金文――言葉への回路
 三、列国正書体金文――天への文字
 四、篆書――初代政治文字
 五、隷書――地の文字、文明の文字
第2章 書史の原像――筆触から筆蝕へ(書的表出の史的構造(二))
 一、草書――地の果ての文字
 二、六朝石刻楷書――草書体の正体化戦術
 三、初唐代楷書――筆蝕という典型の確立
 四、雑体書――閉塞下での畸型
 五、狂草――筆蝕は発狂する
 六、顔真卿――楷書という名の草書
 七、蘇軾――隠れ古法主義者
 八、黄庭堅――三折法草書の成立
第3章 書史の展開――筆蝕の新地平(書的表出の史的構造(三))
 一、祝允明・徐渭――角度の深化
 二、明末連綿体――立ち上がる角度世界
 三、朱耷・金農――無限折法の成立
 四、鄧石如・趙之謙――党派の成立
 五、まとめ――擬古的結語

本論
第1章  天がもたらす造形――甲骨文の世界
第2章  列国の国家正書体創出運動――正書体金文論
第3章  象徴性の喪失と字画の誕生――金文・篆書論
第4章  波磔、内なる筆触の発見――隷書論
第5章  石への挑戦――「簡隷」と「八分」
第6章  紙の出現で、書はどう変わったのか――<刻蝕>と<筆蝕>
第7章  書の750年――王羲之の時代、「喪乱帖」から「李白憶旧遊詩巻」まで
第8章  双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(前編)
第9章  双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(中編)
第10章 双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(後編)
第11章 アルカイックであるということ――王羲之「十七帖」考
第12章 刻字の虚像――「龍門造像記」
第13章 碑碣拓本の美学――鄭道昭の魅力について
第14章 やはり、風蝕の美――鄭道昭「鄭羲下碑」
第15章 紙文字の麗姿――智永「真草千字文」
第16章 二折法と三折法の皮膜――虞世南「孔子廟堂碑」
第17章 尖塔をそびえ立たせて――欧陽詢「九成宮醴泉銘」
第18章 <紙碑>――褚遂良「雁塔聖教序」
第19章 毛筆頌歌――唐太宗「晋祠銘」「温泉銘」
第20章 巨大なる反動――孫過庭「書譜」
第21章 文体=書体の嚆矢――張旭「古詩四帖」
第22章 歓喜の大合唱・大合奏――懐素「自叙帖」
第23章 口語体楷書の誕生――顔真卿「多宝塔碑」
第24章 <無力>と<強力>の間――蘇軾「黄州寒食詩巻」
第25章 書の革命――黄庭堅「松風閣詩巻」
第26章 粘土のような世界を掘り進む――黄庭堅「李白憶旧遊詩巻」
第27章 過剰なる「角度」――米芾「蜀素帖」
第28章 紙・筆・墨の自立という野望――宋徽宗「夏日詩」
第29章 仮面の書――趙孟頫「仇鍔墓碑銘稿」
第30章 「角度筆蝕」の成立――祝允明「大字赤壁賦」
第31章 夢追いの書――文徴明「行書詩巻」
第32章 書という戦場――徐渭「美人解詞」
第33章 レトリックが露岩――董其昌「行草書巻」
第34章 自己求心の書――張瑞図「飲中八仙歌」
第35章 媚態の書――王鐸「行書五律五首巻」
第36章 無限折法の兆候―朱耷「臨河叙」
第37章 刀を呑み込んだ筆――金農「横披題昔邪之廬壁上」
第38章 身構える書――鄭燮「懐素自叙帖」
第39章 貴族の毬つき歌――劉墉「裴行検佚事」
第40章 方寸の紙――鄧石如「篆書白氏草堂記六屏」
第41章 のびやかな碑学派の秘密――何紹基「行草山谷題跋語四屏」
第42章 碑学の終焉――趙之謙「氾勝之書」
第43章 現代篆刻の表出
第44章 境界の越境――呉昌碩の表現
第45章 斬り裂く鮮やかさ――斉白石の表現

結論
第1章 中国史の時代区分への一考察
第2章 日本書史小論――傾度(かたむき)の美学
第3章 二重言語国家・日本――日本語の精神構造への一考察




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


〇第23章 口語体楷書の誕生――顔真卿「多宝塔碑」
・顔真卿の書に対する評価
・顔真卿の「多宝塔碑」について
・「多宝塔碑」の類型化傾向
・「多宝塔碑」の「放す」筆蝕
・蘇軾、黄庭堅、米芾による顔真卿の評価




第23章 口語体楷書の誕生――顔真卿「多宝塔碑」


顔真卿の書に対する評価


石川九楊氏の『中国書史』という著作の目次をみると、その章立ては総論、本論、結論と大別され、本論において、基本的に一人の作家に一つの作品をとりあげて、主として筆触、筆蝕の視点から解説している。ところが、王羲之と黄庭堅については、二つ以上の章を立てて、それぞれ二つの作品をとりあげているのである。王羲之は行書体の「蘭亭叙」(第8章、第9章、第10章)と草書体の「十七帖」(第11章)であり、黄庭堅は「松風閣詩巻」(第25章)と「李白憶旧遊詩巻」(第26章)である。
本論の各章の中で、二つの作品名をあげているのは、唐太宗「晋祠銘」「温泉銘」(第19章)と例外的であるものの、原則として一人の作家に一つの作品名を挙げて章立てとしている。神田喜一郎氏が王羲之と並んで中国書道史上、重要であると位置づけた顔真卿でさえ、章立ての中でとりあげた作品名は「多宝塔碑」だけ(第23章)である。
石川氏は、「顔真卿の書は評価が難しい書である」という。そして、顔真卿の書について、書の描き方を一変させたという意味ではその意義を認めているものの、泥くさく、吐き気をもよおし、へきえきするほどの「俗書」であるともいっている。ただし、宋代の蘇軾や黄庭堅は顔真卿の書を評価したことも石川氏は付言している。
(石川、1996年、217頁、223頁~224頁、244頁)

顔真卿の「多宝塔碑」について


顔真卿、44歳の書「大唐多宝塔感応碑」、いわゆる「多宝塔碑」(752年)はこれひとつで、ほぼ顔真卿の書の特性を言いつくせるほど、その作品のもつ意味は大きいという。つまり「多宝塔碑」の中には、生涯にわたるさまざまの顔真卿の書の姿が、予兆的に含まれているという。いわゆる「向勢」の構成法も、いわゆる「蚕頭燕尾」の姿も覗けるとする。
晩年の「顔勤礼碑」は「緩んだ多宝塔碑」であり、草稿「祭姪文稿」は「速度を得た多宝塔碑」であると表現している。
そして「多宝塔碑」で獲得した基本構造が生涯にわたってほとんど変化しなかったことが、顔真卿の書の大きな特徴のひとつでもあると捉えている。
顔真卿の書の構成上の特徴として、「向勢」が挙げられる。つまり、向き合う二つの縦画が胴膨らみに構成される。言い換えれば、筆蝕が膨張していると石川氏はいう。
学者的な家柄からか、顔真卿は書史の累乗を考察した上で、書字法則を抽象し、文字通り「トン・スー・トン」に制度化した。これは初唐代には存在しえない顔真卿の画期的な功績である。そのことによって、ひとつひとつの文字を書くことが即ルールをつくることになるという緊張から解放されて自由になり、筆蝕を解放した。しかしそれが俗悪と言っていいような単純な、書字図式をつくった。
(石川、1996年、217頁、221頁、224頁)

「多宝塔碑」の類型化傾向


「多宝塔碑」をながめてみると、類型化傾向が見られると指摘している。
① 縦画と横画をいわば別種のものであるかのように截然と区別し、経文を写した写経体のように縦画を太く、横画を細く書く傾向。
② 「口」など左右に二つの縦画が対をなす時には、向かって左側の縦画は細く、右側の縦画を太く書く定性である。
むろん、この傾向は顔真卿に始まるものではないが、極端に定式化している。
顔真卿の「多宝塔碑」には、この種の極端な、これみよがしの類型化が露出しているという。
一方、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」や褚遂良の「雁塔聖教序」、とりわけ「雁塔聖教序」の場合、こうした類型化が露出していない。だから、いくら見続けても飽きるということがないそうだ。
「多宝塔碑」の場合は、同一構造の文字が単純に繰り返されるばかりで、何とも退屈である。一字見るだけで、十分だという感じであると石川氏は評している。

少しく醒めた言い方をすれば、この書法は初唐代に生まれた楷書体の中に隠れていた楷書の定型とでも言うべきものをひとつの制度にまで高めた姿であるとする。
書は重力世界に対するたたずまい(「立ち上がり方」)の表現であるから、縦画は重力を支え、持ちこたえようと強くなり太くなる。第一にその姿が明確に制度化している。

次いで、横画の起筆が45度の角度をもつことは、単に横画が右に上がるだけでなく、文字の造形そのものもまた、立体的で深度を宿した角度体する。
(肖像画に喩えれば、深みがない従来の正面像から、図法そのものが深みをもつ、半正面・半側面像に転じるという)

顔真卿は、次の点をはっきりと定型化し、制度化した。すなわち、対をなす二つの縦画のうち、左の縦画が細く短く、右の縦画が太く長く書かれることによって、文字は、いわば視線を左へ向けた彫りをもつ角度体の姿へ転じた。この制度化のゆえをもって、顔真卿の書は活字のモデルとしても導入された。またその書が書の歴史上無視しえぬ存在としてありつづけている、と石川氏は捉えている。
(石川、1996年、219頁~220頁)

「多宝塔碑」の「放す」筆蝕


「多宝塔碑」の書は、いくぶんか緊張を喪いバランスを欠いている。この点、筆蝕と構成が微妙な緊張をもった初唐代の楷書とは異なる。
顔真卿は、筆蝕と構成を分離し、構成は定型化、制度化し、字形よりも筆蝕に優位性をおいた。総合的に「多宝塔碑」の筆蝕から、緊張しきらない、余裕をもった字画の印象が生じる。緊張が最後まで行き届かず、途中から「放され」てしまう特徴は、すべての字画について一貫している。とくに、遠くへ放り出すような左はらいや右はらいがそうである。
たとえば、「之」字の最終画の右はらいを見れば、緊張を欠いて「放され」ていることがわかる。ここに「燕尾」の萌芽を読み取ることができる、と石川氏は説明している。

こうした「放す」運筆が、字画相互の頻繁な接触や交叉という特徴的な構成を生んでいる。「徐」「題」「額」などの偏と旁が接触しており、「多宝塔碑」には、接筆の微妙さやきわどさというものは、まったく無縁であるようだ。
字画を描く筆蝕が成り行きにまかされているため、筆蝕の勢いの結果、他の字画と接したり、交叉する。そして字画を描くにあたっての力の加・減、筆の開・閉が均衡(バランス)よく進まない。

また、顔真卿の書の特徴として、構成と筆蝕の均衡のとれた緊張が失われて、筆蝕が膨張し、その結果として構成も膨張する点を挙げている。
晩年の「顔勤礼碑」になると、さらにその特徴は明らかになる。「多宝塔碑」においても、すでに字形は、その外形枠に向けて膨張している。だから、ひきしまった字形の美を失っている。
(顔真卿の書の特徴として指摘される、向き合う二つの縦画が胴膨らみに構成される「向勢」という構成上の特徴もまた、膨張の一種である)
(石川、1996年、220頁~221頁)

書史上における顔真卿の位置づけ


顔真卿の楷書は、初唐代の楷書とは比較にならない醜悪な書であると石川氏は捉えている。
たしかに「祭姪文稿」、「祭伯文稿」、「争坐位稿」のいわゆる三稿、中でも評判高い「祭姪文稿」は、「多宝塔碑」とは異なり、起筆に力こぶが入らず、運筆の展開に嫌味のない書である。字画の構成、文字の構えは、書字運筆の成り行きにまかせて生まれているぶんだけ、均整がとれている。とはいっても、「多宝塔碑」と同質の運筆の単純さがその運筆から直に覗けることから言えば、懐素の「自叙帖」のように、書史上重い位置をもつものではない。
顔真卿の書が書史上書きとどめられねばならない理由は、逆説的だが、歴史的に評価の定まっている感のある醜悪な楷書の中の、その醜悪さの中にある。初唐代の楷書に較べれば、顔真卿の書を醜悪にせざるをえなかったもの、それこそが顔真卿の書を書史上に輝かせているものでもあるという。
詩人・高村光太郎はエッセイ「書について」で、顔真卿を「人生の造型機構に通達した偉人」と書いているが、石川氏は「筆がすべったとしか言いようがない」と高村の評に疑問を呈している。
(石川、1996年、222頁~223頁)

蘇軾、黄庭堅、米芾による顔真卿の評価


宋代の黄庭堅は、顔真卿にご執心だった。だから顔真卿の書をけなしたものはないようだ。
黄庭堅は、「蓋自二王後、能臻書法之極者、惟張長史與魯公二人」と記す。
つまり、おもうに、王羲之、王献之以来、書法の極致に至りえた者は、張旭と顔真卿だけである、と評価している。

黄庭堅が顔真卿びいきであったということもあろうが、「王羲之 王献之以来」というような言いまわしは多くの部分、比喩と修辞を含んでいるのであって、文字通り王羲之の法を引き継いでいるというように受けとめることはできず、さしたる評価とも言えない、と石川氏は解釈している。

また顔真卿の書については、蘇軾は、「顔魯公書、雄秀独出、一変古法」と書いている。
顔真卿は、書の描き方を旧来のものから、がらりと一変してしまったという。
そして、次のような微妙な論を残している。
「顔魯公平生写碑、惟東方朔畫讃為清雄、字間櫛比、而不失清遠」という。
顔真卿は平素よく碑文を書いたが、その中で「東方朔画讃」だけがすっきりとして雄勁である。字間は隙間なく書かれているにもかかわらず、清遠の趣を失っていない、と書いている。

この点、言外に他の大多数の顔真卿の楷書を評価しない書き方を蘇軾はしていると石川氏はみている。すなわち、蘇軾は顔真卿楷書の特徴である「字間櫛比」(文字の間隔がつまっていること)に対して、一種の否定的な心情をもっていたことを吐露していると解している。
そして、米芾ははっきりと辛辣な評価を下している。
「顔魯公行字可教、真便入俗品」と書く。つまり、顔真卿の行書は教えてもよいけれど楷書は俗品だと明言している。それどころか、「顔真卿と柳公権の法は後世の醜怪悪札の祖となった」と厳しい。

さらに、「小字展令大、大字促令小」を、張旭が顔真卿に対して教えたのは誤りだと顔真卿の楷書構成法の欠点を具体的に指摘している。「小字展令大、大字促令小」とは、小字をのばして大きく、大字をつづめて小さくすること、つまり画数が多くて大きくなる字を小さく書くことによって、どの字も同じくらいの大きさになるように書くことを指す。

顔真卿をさきがけとして書の質が変化する。
書そのものが政権の中枢を離れて、士大夫のもとへ下りてくる。その象徴が顔真卿の書である。それゆえ、宋代の黄庭堅や蘇軾は顔真卿の書を評価した。
政争にからむ、左遷表現として書が成立するさきがけを顔真卿の書は実現しはじめている。政治的な挫折の表情を、書とりわけ筆蝕に盛ることになった。
「多宝塔碑」は単調でつまらないだけではなく、泥くさく、しばらく見ていると吐き気をもよおし、へきえきするほどの「俗書」であると石川氏は酷評している。
ただ、その臭みやいやらしさが書の中に入り込むことができ、作者の生死の風貌が筆蝕から透けて見えるほどになり、そこに「多宝塔碑」の書史上の達成があるという。

「多宝塔碑」は、単純な「トン・スー・トン」式の三折法の同種の字画が単調に繰り返されることによって生まれている。同じ所作を繰り返すのだが、その繰り返しが緊張を失っているため、いくぶんか場当たり的な臨場の変化を生む。(あくまで定型的でありながら、場に臨んでそのつど筆蝕が「動揺」する)
定式化、定型化の中の微妙な動揺、すなわち張旭や懐素の書と同様の「場の発見」こそが、顔真卿の書といえるとする。
(石川、1996年、222頁~224頁)

≪石川九楊『中国書史』を読んで その8≫

2023-03-18 18:00:14 | 書道の歴史
≪石川九楊『中国書史』を読んで その8≫
(2023年3月18日投稿)

【はじめに】


今回も、引き続き、石川九楊氏の次の著作を紹介してみたい。
〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年
 今回は、本論の次の各章の内容である。
●第19章 毛筆頌歌――唐太宗「晋祠銘」「温泉銘」
●第20章 巨大なる反動――孫過庭「書譜」
●第21章 文体=書体の嚆矢――張旭「古詩四帖」
●第22章 歓喜の大合唱・大合奏――懐素「自叙帖」
ただし、執筆項目は、私の関心のあるテーマについて記してある。



【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史









〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年

本書の目次は次のようになっている。
【目次】
総論

序章  書的表出の美的構造――筆蝕の美学
一、書は逆数なり――書とはどういう芸術か
二、筆蝕を読み解く――書史とは何か
第1章 書史の前提――文字の時代(書的表出の史的構造(一))
 一、甲骨文――天からの文字
 二、殷周金文――言葉への回路
 三、列国正書体金文――天への文字
 四、篆書――初代政治文字
 五、隷書――地の文字、文明の文字
第2章 書史の原像――筆触から筆蝕へ(書的表出の史的構造(二))
 一、草書――地の果ての文字
 二、六朝石刻楷書――草書体の正体化戦術
 三、初唐代楷書――筆蝕という典型の確立
 四、雑体書――閉塞下での畸型
 五、狂草――筆蝕は発狂する
 六、顔真卿――楷書という名の草書
 七、蘇軾――隠れ古法主義者
 八、黄庭堅――三折法草書の成立
第3章 書史の展開――筆蝕の新地平(書的表出の史的構造(三))
 一、祝允明・徐渭――角度の深化
 二、明末連綿体――立ち上がる角度世界
 三、朱耷・金農――無限折法の成立
 四、鄧石如・趙之謙――党派の成立
 五、まとめ――擬古的結語

本論
第1章  天がもたらす造形――甲骨文の世界
第2章  列国の国家正書体創出運動――正書体金文論
第3章  象徴性の喪失と字画の誕生――金文・篆書論
第4章  波磔、内なる筆触の発見――隷書論
第5章  石への挑戦――「簡隷」と「八分」
第6章  紙の出現で、書はどう変わったのか――<刻蝕>と<筆蝕>
第7章  書の750年――王羲之の時代、「喪乱帖」から「李白憶旧遊詩巻」まで
第8章  双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(前編)
第9章  双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(中編)
第10章 双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(後編)
第11章 アルカイックであるということ――王羲之「十七帖」考
第12章 刻字の虚像――「龍門造像記」
第13章 碑碣拓本の美学――鄭道昭の魅力について
第14章 やはり、風蝕の美――鄭道昭「鄭羲下碑」
第15章 紙文字の麗姿――智永「真草千字文」
第16章 二折法と三折法の皮膜――虞世南「孔子廟堂碑」
第17章 尖塔をそびえ立たせて――欧陽詢「九成宮醴泉銘」
第18章 <紙碑>――褚遂良「雁塔聖教序」
第19章 毛筆頌歌――唐太宗「晋祠銘」「温泉銘」
第20章 巨大なる反動――孫過庭「書譜」
第21章 文体=書体の嚆矢――張旭「古詩四帖」
第22章 歓喜の大合唱・大合奏――懐素「自叙帖」
第23章 口語体楷書の誕生――顔真卿「多宝塔碑」
第24章 <無力>と<強力>の間――蘇軾「黄州寒食詩巻」
第25章 書の革命――黄庭堅「松風閣詩巻」
第26章 粘土のような世界を掘り進む――黄庭堅「李白憶旧遊詩巻」
第27章 過剰なる「角度」――米芾「蜀素帖」
第28章 紙・筆・墨の自立という野望――宋徽宗「夏日詩」
第29章 仮面の書――趙孟頫「仇鍔墓碑銘稿」
第30章 「角度筆蝕」の成立――祝允明「大字赤壁賦」
第31章 夢追いの書――文徴明「行書詩巻」
第32章 書という戦場――徐渭「美人解詞」
第33章 レトリックが露岩――董其昌「行草書巻」
第34章 自己求心の書――張瑞図「飲中八仙歌」
第35章 媚態の書――王鐸「行書五律五首巻」
第36章 無限折法の兆候―朱耷「臨河叙」
第37章 刀を呑み込んだ筆――金農「横披題昔邪之廬壁上」
第38章 身構える書――鄭燮「懐素自叙帖」
第39章 貴族の毬つき歌――劉墉「裴行検佚事」
第40章 方寸の紙――鄧石如「篆書白氏草堂記六屏」
第41章 のびやかな碑学派の秘密――何紹基「行草山谷題跋語四屏」
第42章 碑学の終焉――趙之謙「氾勝之書」
第43章 現代篆刻の表出
第44章 境界の越境――呉昌碩の表現
第45章 斬り裂く鮮やかさ――斉白石の表現

結論
第1章 中国史の時代区分への一考察
第2章 日本書史小論――傾度(かたむき)の美学
第3章 二重言語国家・日本――日本語の精神構造への一考察




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


〇第19章 毛筆頌歌――唐太宗「晋祠銘」「温泉銘」
・唐太宗の「晋祠銘」

〇第20章 巨大なる反動――孫過庭「書譜」
・孫過庭の「書譜」
・「海鼠書譜」

〇第21章 文体=書体の嚆矢――張旭「古詩四帖」
・王羲之と張旭の草書の相違
・何が狂草を必然化したか

〇第22章 歓喜の大合唱・大合奏――懐素「自叙帖」
・石川九楊氏の「自叙帖」の理解の仕方




第19章 毛筆頌歌――唐太宗「晋祠銘」「温泉銘」


唐太宗の「晋祠銘」


唐太宗皇帝は、欧陽詢、虞世南、褚遂良を従え、王羲之の書を熱愛し、「蘭亭叙」を自らの墓に殉葬させたと伝えられる。
その唐太宗の代表作が、書史上初の行草書の碑と言われる「晋祠銘」(646)である。
(この「晋祠銘」の書史上の最大の意味は、この書が行草体による、はじめての碑であるという点にあるとされる)

石碑に文を残すとなれば、現在でも楷書体でと多くの人が考えるであろう。中国漢代に石碑というのは、正書体としての隷書が貼りつくべきであるとされた。そして唐代では、その正書体の場を、草書体が姿を変えて楷書体と化して完璧に奪い取った象徴が、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」(632年)である。
その後14年、646年に書史上初の行草体が楷書体に姿を変えることなく、行草体という、当時の共通感覚から言えば、目を疑うような、あられのない姿が、正なる場に貼りついたと石川氏は捉えている。
このことは、肉筆行草体が、隷書体を貶しめ、肉筆行草体が正書体に他ならないことを宣言する必要があったことを意味するという。

「九成宮醴泉銘」は確かに「楷法の極則」であるが、その直線的な字画の中に、ごくわずかの刻蝕つまり石への自己規制と遠慮が忍び込んでいるようだ。その自己規制と遠慮とを払拭するためには、一度は、石碑=石は紙にすぎない、何ら遠慮はいらないという一大宣言が必要だった。つまり、石と鑿と刻蝕と隷書を一度は虚仮(こけ)にする必要があった。
この正なる場の意味の転換は、欧陽詢や虞世南、褚遂良という高級官僚の手によっては不可能であり、ひとり太宗皇帝自らが、手を下すしかなかったという。
唐太宗は「晋祠銘」によって「石は紙にすぎぬ」「楷・行・草」の紙体こそが正書体であると、自ら断を下した。そして、「晋祠銘」(646年)の7年後に褚遂良の「雁塔聖教序」という趣の、たおやかな反りをもつ筆蝕の碑が生まれた理由が解けるとする。

「晋祠銘」の14年前の「九成宮醴泉銘」は、石・鑿・刻蝕に対していくぶんか遠慮と気づかいがあり、「晋祠銘」の7年後の「雁塔聖教序」からは、それらへの遠慮と気づかいがすっかり失せ、伸び伸びと筆蝕を曝している。おそらく、その場面転換を太宗の「晋祠銘」(646年)と「温泉銘」(648年)が演出したと位置づけている。

紙・筆・墨文字の象徴は王羲之である。
唐太宗がたいそう王羲之の書に執心して、その書の収集に努め、座右に置き、習い、双鉤塡墨による複製をつくらせ、周囲に配ったと言われる。
ただ、その王羲之偏愛は、太宗皇帝の単なる個人的趣味の問題であるようには、石川氏は思えないという。むしろ紙の象徴としての王羲之の神格化が、石と紙との争闘史の最終局面で必然的に出現したと考えている。
(より正確に言えば、そのような背景の中での太宗の王羲之の書の整理という作業が、「紙碑」の時代を鮮明にしたという)

いずれにしても、唐太宗の書が王羲之の書を基盤に成立していることは間違いがない。
黄庭堅や米芾ら王羲之書法から完全に脱した宋代の行草書と較べてみると、「晋祠銘」や唐太宗筆と伝えられる「温泉銘」は、いずれも王羲之筆と伝えられる書に似たたたずまいをもっている。

一方で王羲之を抱え込みながら、他方では新法・三折法が下敷きに転じているという意味で、唐太宗の「温泉銘」は最後の王羲之の書であると言う。
むろんこの後、孫過庭の「書譜」や米芾の王羲之風の草書など、書の歴史はしばしば王羲之に仮托(ママ)される二折法・古法の姿を見せてくれる。
それは米芾が他方で、黄庭堅とともに、王羲之をまったく想像させない行書の型を生み出したように、あくまで時代に根拠のない古法憧憬や、あるいは孫過庭のように古法夢追いの反動の書として歴史上の悪戯(たわむれ)のごとく現れるという。一方で、王羲之を思慕しつつも、もうどう書いても王羲之にはなりえないという、唐太宗の最後の王羲之的な書とは異なっている。

唐太宗の姿=言葉とのつながりを解くのは、筆蝕ではなく、その構成に認められ、それは「垂線の優位」ということになるとする。
「晋祠銘」に共通する最大の特徴のある箇所は、「巖」「濱」「序」「屢」字の左はらい画が斜めに描かれず、垂直気味に垂れる箇所である、と石川氏はみる。
そして「温泉銘」の文字で長体文字がしばしば現れ、それが基調をなしているのは、垂直の動きのアクセントが水平の動きを上回る。つまり、太宗の書の背景には、垂線=重力線が描かれていることが見えてくる。
基本的に王羲之を典型(モデル)とし、王羲之風の造形を300年近く超えられなかったのは、水平と垂直運動の力が均衡を保っていたからである、と石川氏は理解している。
それを唐太宗は、垂直力を優位に書字することによって、「上密下疎体」あるいは「序」字のような「垂直体」を生み、その呪縛を解き、文字形を開き、この後の文字形が垂線をめぐる争闘として多様に展開されていくきっかけをつくったと考えている。
つまり唐太宗の「晋祠銘」「温泉銘」をもって、王羲之的呪縛は解き放たれた。
「温泉銘」の背後に、欧陽詢や褚遂良との共闘の姿があり、王羲之(アルカイック)書法=古法が完全に終焉した姿があると捉えている。
王羲之の呪縛から解き放たれて、書が一段と面白くなるような予兆があり、孫過庭の「書譜」のようにその「新法」に対して挑戦を挑むであろう「古法」の姿も垣間見えると解説している。
(石川、1996年、183頁~189頁)

第20章 巨大なる反動――孫過庭「書譜」


孫過庭の「書譜」


いわば王羲之書法の集大成とも言うべき「書譜」が687年に生まれるのは、場(時空)違いに思われる、と石川氏はいう。
すでに欧陽詢の「九成宮醴泉銘」(632年)、虞世南の「孔子廟堂碑」(630年?)、褚遂良の「雁塔聖教序」(653年)などによって、三折法が完璧に体系的に成立した後である。のみならず、王羲之の書を溺愛した唐の太宗の「晋祠銘」(646年)、「温泉銘」(648年)よりもさらに後の時代に生まれている(草書とは呼べぬかもしれないが、太宗のこれらの書の中の草書の文字に三折法を確認できる)。
それなのに、なぜ二折法「書譜」がこの時代に生まれたのか。それを解くために「書譜」本文に目を止めてみよう、と石川氏はいう。
「書譜」本文に目を止めてみると、初唐代の書論の常であるとは言うものの、それにしても、「書譜」の本文は王羲之の書に対し、あまりに篤い信仰告白の書である。鐘繇、張芝、王羲之、王献之の個人の書を品評しているが、実のところは王羲之の書がいかにすぐれているかを讃美しているばかりである。

「書譜」文中にあるように、「但右軍之書、代多称習、良可據爲宗匠、取立指帰、豈唯会古通今、亦乃情深調合、致使摹搨日広、研習歳滋、先後著名、多従散落、歴代孤殆、非其効歟」(ただ王羲之の書だけが世の多くの人にたたえられ学習されている。王羲之ならこれを宗匠とし、目標としてよい。それは、単に現在にも通じる古法であるからということだけではなくて、書の情は深く、書の調べは見事なものであるからである。それゆえ、日々広く摹搨され、年々研鑽し習う人が増えている。書の歴史には有名な人もあったが、その多くは散(つい)えてしまった、ただひとり王羲之だけが残っているのはそのためだ)」と考え、また「察之者尚精、擬之者貴似(書を学ぶには精緻であるべきであり、その書になぞらえるには、とにかく似ていなければならない)」という学習を文字通り実践したのである。その研鑽を通じて、孫過庭ははっきりと王羲之書に潜む二折法の構造を卓抜した水準で抽出し、再現した、と石川氏は理解している。

王羲之の書を考える時、「書譜」を通した彼方に王羲之の書を見ていると言っていいほど、我々は「書譜」の恩恵を受けている。おかしな言い方だが、「書譜」は王羲之以上に王羲之的であるとも言える、と石川氏は表現している。さしたる官位もなかったと言われる孫過庭が、政治の国・中国において、また東アジア漢字文化圏全域にその名が残るのは、一帖の「書譜」つまり二折法の書を残したがゆえのことである。

しかし、なぜ三折法が確立し、あと数十年で三折法をさらに前に進めようとする張旭、顔真卿、懐素等の三折法の寵児達の新しい試みが始まろうという時代に、二折法の「書譜」が出現したのかという問題については考え込まねばならない。
孫過庭は「古不乖時、今不同弊(古にして時にそむかず、今にして弊を同じうせず)とは書くものの、「去之滋永、斯道逾微(これを去ることますます永く、この道いよいよ微[おとろ]う)という状況確認のもと、その時代克服の道を王羲之の古法復古にかけた、と石川氏は捉える。
孫過庭は今の弊を言う。その弊と見なされたものの中に、おそらく張旭や顔真卿や懐素の書を出現させる芽はひそかに育ちつつあったはずだ。孫過庭は結果的にそこに目を閉ざすことになり、歴史の上ではいわば反動の役を演じざるをえなかった。それはなぜか。
孫過庭の王羲之評価は徹底したものではあったが、それは中田勇次郎氏が明らかにしているように、六朝時代以来の書論(さらには古くからの伝誦)をはみ出てはおらず、新しい視点から書論をうち立てることによって歴史を組み替え、新しい歴史を出現させようとしたものではなかったからである、と石川氏は説明している。
おそらく、王羲之を溺愛した太宗皇帝すら三折法の行草書を残しているように、歴史は王羲之をまつりあげつつ、その内実を掘り崩し、形骸化し、新しい書の時代を招来する過程にあった。そこを見抜けず、唐代の詩人・陳子昻の表現を借りれば、いわば反動の「忠信」「仁義」を生きた。孫過庭がもし数十年前に生まれていれば、おそらくは智永以上の仕事ができたかもしれない、と石川氏は惜しくさえ思っている。「周回遅れ」の感があるという。
いわば孫過庭の必死の抵抗にもかかわらず、新法・三折法は草書の中にも逆流していく。歴史の流れはすでに古法時代を終え、間もなく張旭、顔真卿、懐素等の狂草の時代が始まる。しかし逆に言えば、孫過庭が王羲之の書を卓抜した水準で抽象し、総括し、輪郭を明瞭にしたがゆえに、新法・三折法に基づく狂草体が明瞭な姿で出現したともいえるとする。
それにしても、二折法・王羲之書法の書史上の意味は重い。書史はまた毛筆書法たる二折法と、鑿に発する三折法の争闘史の一面をもち、前者の象徴として王羲之、後者の象徴として顔真卿が存在する。それゆえ、二人の名だけは記憶されているのである。
その意味において、孫過庭の「書譜」は単なる「老人の歎き」ではなかった。「古老」による書史の、反動的ではあるがまた巨大な総括であった。「巨大なる反動」――それが孫過庭の「書譜」のもつ意味のすべてであろう、と石川氏は捉えている。

「書譜」(687年)は二折法的書字戦略に従って書かれたもので、王羲之の書に似ている。さらには約90年後の三折法に従った懐素の「自叙帖」(777年)と全く異なった姿を見せる。
そして張旭や懐素のいわゆる「狂草」は「書譜」とは異なり三折法に従って書かれたがゆえに、次々と連続する連綿も可能になったと説く。つまり王羲之書法とは古法である二折法を基盤とする書法であり、新法とはもともと二折法で誕生した草書を、初唐代楷書で完璧に獲得した三折法に従って書く書法である。王羲之の書法とは「二折法」の比喩であり、新法とは「三折法」の別名である。この点を認識しないで、「古法」とか「新法」とか言い、それを執筆法や用筆法、運筆法で説明し、また情緒的な修辞を与えてみても、いつまでも書の歴史の秘密の中には分け入っていくことはできない、と石川氏は主張している。
(石川、1996年、195頁~196頁)

「海鼠書譜」


孫過庭の「書譜」というものは、なかなかよいものである、と石川氏は評している。ふくよかな筆蝕が見ていて、なかなか気持ちがよい。台湾の故宮博物館の土産で、「書譜」の冒頭部を刷り込んだ絹のハンカチを、自宅の茶の間の壁にピンで止めてあるという。

書を見馴れた人には、「書譜」はごく自然である。しかし、現在の一般的な書字の水準から見れば、「書譜」はきわめて異様な書であると感じるようだ。
たとえば、「亦」字(第35行)の第二筆は、「スー」と横に引いただけのような凸レンズのような、あるいは蛭のような書きぶりが、そうである。石川氏のいう「一折法」(正確には、一・五折法らしい)である。一般には、「トン・スー・トン」の三折法を基盤に書字を読み取るには、少々理解不能のところである。

書をする者は、三折法の下層に「トン・スー」や「スー・トン」の二折法、さらにその原点としての「スー」の一折法の存在を知り、その深みから、書(筆蝕)を読み取っている。
ところが、一般には、三折法の深みに眠る二折法や一折法の存在には目を届かせることがないため、この「海鼠(なまこ)」か「蛭」のような字画の多出する「書」を奇異に感じる。ここで比喩として使った「海鼠」「蛭」の言葉の中に、よく言えば、実にのんびり、おっとり、ゆったりとした、未分化な、悪く言えば、見馴れぬゆえにいささか気味悪くもある、単純で淡白だがいささか含みのある筆蝕の特徴が盛り込まれているそうだ。

ただ、この「亦」字の草書体の第二筆の見どころは、その「海鼠」や「蛭」状の形状自体にあるのではなく、筆蝕上の「ひねり」=「跛行」にこそある、と石川氏は主張している。
押さえることによって、深度と速度の中間としての「ひねり」を造形してみせるところにある。
「書譜」の特徴は、その隠された筆蝕上の「ひねり」の豊穣にあるとみる。
その「海鼠状」「蛭状」の字画には、書き出しの10行以内にも、「之」の最終筆(第3行)、「観」の最終画(第5行)、「或」の「戈」の第二画部(第7行)、「熟」の最終筆(第8行)、「假」字の第一筆(第9行)、「人」の第二筆(第9行)、「謝」字の第一筆(第10行)などが挙げられる。
このいわば、一折法、ないし一・五折法において、ひねりの部分がさらに強く入り起筆が生じると、「二折法」になる。起筆を「トン」と押さえて、ひねりながら、「スー」と抜く。この「トン・スー」式二折法の姿は、「者」字の第一筆(第1行)など多数見つかる。
この「トン・スー」は単体だけでなく、繰り返しでも現れる。「者」字の第三、四筆間(第1行)はその代表例である。
このように、「書譜」の書の筆蝕の基調が、二折法戦略で書かれている、と石川氏は解説している。

一折法をもとより交ぜながら二折法戦略で書かれているところに、「書譜」ののんびりとしたよさがあるという。そこに、文字相互があまりつながらずに、ほぼ単体で書き進められる理由があり、またその姿にこそ、いわゆる「王羲之書法」つまり「古法」に言われるものにほかならないとする。そして二折法のもとでは、我々が考えるような字画連続や連綿は基本的に発生しないということになる。
(石川、1996年、190頁~193頁)

第21章 文体=書体の嚆矢――張旭「古詩四帖」


王羲之と張旭の草書の相違


張旭や懐素の草書は「狂草」と呼ばれる。狂草と言っても、現在の我々からすれば、いささか「狂」という言葉が似合わないほどだが、たとえば唐太宗の「温泉銘」や孫過庭の「書譜」と較べてみれば、その「狂」の意味は解けると石川氏はいう。

張旭は生卒年不明で、その書の全体像は明らかでないが、今、仮に伝えられる「肚痛帖」「戯鴻堂帖」「古詩四帖」「自言帖」(714年)を張旭筆という前提に立った時、「肚痛帖」「戯鴻堂帖」から考えれば、王羲之=古法性を温存した書と見なされ、「古詩四帖」「自言帖」寄りで考えれば、明らかに王羲之を脱した新法派の書ということになる、と石川氏はみている。

たとえば、王羲之の草書と張旭の「古詩四帖」とを分ける見かけ上の最大の点(ポイント)は文字の連続であるという。大まかに言って、王羲之の草書においては、たいていが二字、多くて三字、しかも三字連続の例はごく少ない(ただし、王羲之の子王献之の「中秋帖」には四字連続が認められるが、この場合は「不復不得」という語的につながりやすい場所でもある)。王派とも言うべき孫過庭が「書譜」で単体の草書を並べたように、草書と言っても字画がつながる方が稀である。これは単音節孤立語たる中国語書字が基本的に一字を単位とする「分かち書き」を基本とし、草書体といえども、その「分かち書き」を破ることは困難であるという、書字上の基本原理があり、それを裏切ることはできないからである、と石川氏は説明している。

他方、日本語表記は、「漢字+仮名」表記であり、仮名文字はいくつかの文字が連合することによって、はじめて語を形成するから、連綿による連続は不可避の書字法であり、日常的に馴染んでいるため、中国語における連綿連続体がきわめて異常な書字法であることには気づかないことが多いという。このように石川氏は中国語と日本語の特質に由来する書字法の相違点について指摘している。

それでは何ゆえ「分かち書き」の鉄則を破って文字は連続したのだろうかという疑問がわく。王羲之の書の中での連続箇所を石川氏は抽出している。
・「姨母帖」では「奈何(いかんせん)」
・「喪乱帖」では「痛貫、奈何、奈何、深奈何、奈何、不知(知らず)、何言(何をか言わん)、頓首、頓首」
・「二謝帖」では「羲之女、再拝、想邵、患者」
・「得示帖」では「知足下、吾亦劣、日出、乃行(すなわち行かん)、不欲(欲せず)、羲之頓首」
・「哀禍帖」では「不能自(自ら……あたわず)、奈何奈、省慰」
・「憂懸帖」では「不能(あたわず)」
・「寒切帖」では「羲之報」
・「遠宦帖」では「省別、数問、救命」
・「奉橘帖」では「諸人」
・「初月帖」では「初月、之報、近欲(近ごろ……欲す)、遣此、無人、遣信(信を遣わす)、去月、雖遠(遠しといえども)、為慰(慰となす)、過囑、不吾、殊劣(ことに劣)、(羲)之報」

そして、王羲之書から抽出した次のような連綿連続例を図版として掲げ、助辞を伴う場などに限られているという。
1奈何(「姨母帖」)、2痛貫(「喪乱帖」)、3奈何(「喪乱帖」)、4奈何(「喪乱帖」)、5深奈何(「喪乱帖」)、6奈何(「喪乱帖」)、7不知(「喪乱帖」)、8何言(「喪乱帖」)、9頓首(「喪乱帖」)、10頓首(「喪乱帖」)、11羲之女(「二謝帖」)、12再拝(「二謝帖」)、13想邵(「二謝帖」、14患者(「二謝帖」)、15知足下(「得示帖」)、16吾亦劣(「得示帖」)、17日出(「得示帖」)、18乃行(「得示帖」)、19不欲(「得示帖」)、20羲之頓首(「得示帖」)、
21不能自(「哀禍帖」)、22奈何奈(「哀禍帖」)、23省慰(「哀禍帖」)、24不能(「憂懸帖」)、25羲之報(「寒切帖」)、26省別(「遠宦帖」)、27数問(「遠宦帖」)、28救命(「遠宦帖」)、29諸人(「奉橘帖」)、30初月(「初月帖」)、31之報(「初月帖」)、32近欲(「初月帖」)、33遣此(「初月帖」)、34無人(「初月帖」)、35遣信(「初月帖」)、36去月(「初月帖」)、37雖遠(「初月帖」)、38為慰(「初月帖」)、39過囑(「初月帖」)、40不吾(「初月帖」)、41殊劣(「初月帖」)、42之報(「初月帖」)

このように「奈何(いかんせん)」とか「不知(知らず)」など、いわゆる実字を伴わねば語を形成しない助辞を伴う場合や、「頓首」や「羲之」そのほか文字相互の結合性が格段に強い場合にのみ連綿する。
その意味では王羲之の時代には文字はつながっているけれども、実際的にはいわば言葉の独立性に襲いかかるような形での連綿連続はなく、言葉が書きつけられていたにすぎず、連綿連続は存在しなかったと言っていいとする。

一方、張旭の「古詩四帖」では一行の全文字がつながったり、あるいはつながろうとしている例は多い。むしろ王羲之とは逆に、書き出しから書き終わりまでほんとうはつながるように書かれ、言葉上どうしても切れざるをえないところだけが切れている。すなわち、つながらざるをえないところだけがつながった王羲之の書と、いわば最初から最後までつながることを基調とした張旭の「古詩四帖」は、すでに前提が転倒しており、もはや両者は書史上の次元を違えている、と石川氏は捉えている。たとえば、五言古詩で、張旭は「北闕臨丹水」を一行につなげて書いているが、王羲之なら「北・闕・臨・丹・水」か、せいぜい「北・闕・臨丹・水」と書くはずであるという。
(石川、1996年、197頁~200頁)

何が狂草を必然化したか


第21章を終えるにあたり、「何が文字をつながらせる必然を生んだか」という問題について、石川氏は言及している。
それは、書史的には、褚遂良の「紙碑」の誕生によって、書が全き意味において、紙の時代に入ったからであると考えている。

王羲之から初唐代まで、正書体が石=鑿文字である間は、紙=筆文字たる草書体はいくぶんか、石文字的断絶体(刻蝕的)によって、その飛躍を抑制されてきた。
その紙文字が「紙碑」の誕生によって、正書体の位置を獲得するや、紙文字の本性たる連続体(筆蝕的)へ向けてと解放されたと説明している。
そして、その一気の連続を可能にしたのは、唐玄宗治下あるいは則天武后時代に始まり、安史の乱に象徴される唐朝の滅亡に向かっての時代相、すなわち張旭、懐素、顔真卿等の時代の一大動揺である。
時代=対象の動揺は、否応なく、自己と対象との距離と、対象に働きかける角度とを発生させたようだ。動揺する対象である時代を逃すまいとして、垂直に打ち込み(起筆し)、逃すまいとして、不断の筆蝕的圧を要求して、いわば棒状の「折釵股」を誕生させる。また、加圧する力以上の対象=時代の激動は、距離と角度をさまざまに動揺させ、字画の肥痩、文字の大小という振幅の大きな書を誕生させた、と石川氏は考えている。

ところで、張旭や顔真卿は、唐代を代表する詩人の杜甫と李白と同世代である。ということは、杜甫や李白の詩は書に喩えれば、狂草体であったということを意味する。それらは「古詩四帖」のような、いわば発狂した、狂気の新法詩であったとみる。
(李白や杜甫の詩を初唐代楷書のように典型的なものと解するのは、その詩の読み解き方を間違えているようだ。狂気の新法詩という観点からいわゆる唐詩を読み変えれば、従来とは異なった唐詩解釈が成立するだろうという)

唐玄宗時代は、「開元の治」と呼称され、安定を見たかのごとくである。しかし、この「古詩四帖」が開元治下の作であることを思う時、それは唐太宗の死後、一気に下り坂、新しい時代へ突き進む中での治政にすぎず、唐太宗時代の「貞観の治」とは様相を一変している。
李白や杜甫の詩は狂草と同じく、対象への距離と角度、つまりスタイルの成立を意味すると石川氏は捉える。
その実姿は狂草のように、表現上の肥痩と大小と連続とを歴史上はじめて示し、かつ極点を示している。そしてその理由は、太宗皇帝の死を分水嶺とする歴史的大転換に起因すると考えている。
(もっとも、時代の動揺の大きさとは、戦乱の長さ、規模の問題ではなく、歴史的、時代的な、精神的、文化的な動揺の問題なのであると断っている)
(石川、1996年、204頁)

第22章 歓喜の大合唱・大合奏――懐素「自叙帖」


石川九楊氏の「自叙帖」の理解の仕方


中国唐代・懐素の「自叙帖」(777年)は劇的性格を秘めた畏るべき書であると石川氏は理解している。「自叙帖」の筆蝕を丁寧に辿っていくと、ひとつの交響曲が鳴り響いてくるという。懐素の「自叙帖」が何よりすごいのは、冒頭の書き出しから最後の一行まで、交響曲のような、昻揚、抑制、そしてまた昻揚を繰り返しながら進行し、ついには局面の大転換に至るという畏るべき構成をもっているとする。いわば西洋古典(クラシック)音楽のような規模で現れる書は、懐素の「自叙帖」を嚆矢とする。

「自叙帖」は第一楽章<暗示>、第二楽章<昻揚>、第三楽章<雌伏>、第四楽章<予兆>、第五楽章<開始>、第六楽章<狂乱>に終わる一大交響曲を形づくっているという。各楽章は、「自叙帖」の次の行数に対応するものとされる。すなわち、第一楽章は第1行から第25行まで、第二楽章は第26行から第43行まで、第三楽章は第44行から第60行まで、第四楽章は第行61から第95行まで、第五楽章は第96行から第104行まで、第六楽章は第105行から第126行までである。

例えば、第61行から第95行までの第四楽章<予兆>では、次第にせり上げていき、第86行「顚」、そして驚くべき大きな転調を伴う第90行「來」字の出現に至り、第92行「戴」と第95行「飜」はその余韻である、と石川氏は説明している。そして第96行から第104行までの第五楽章<開始>では、文字は来るべき終章のエネルギーを蓄積するかのように折り畳まれ、圧縮されて、それほど拡大されないが、筆蝕は終章と共通に蛇行的狂乱連続を見せる。そして第105行から最終第126行までの第六楽章破壊的<狂乱>では、第五楽章で圧縮したエネルギーを一気に解放して、第105行の巨大な「戴公」が生まれる。以下、第108行「及」、第109行「目愚劣」、第115行「來」、第117行「辭」、第118行「激切」、第119行「奥」の第一筆の極限の筆蝕を経て、第120行「固非」、第121行「蕩(薄?)」、第122行「敢當」を経て、収束に向かうという。

そしてこの第六楽章について、西洋の交響曲に喩えて、次のように表現している。第六楽章、第105行の「戴公」から、弦楽器も管楽器も打楽器も男声も女声もすべてが合流して一大フォルテシモの<狂乱>へと段階(ステージ)が転換する。そして「奥」字第一筆で、大シンバル音が打ち鳴らされ、絶頂に達する。そして最終の小さくねじ込まれるような筆蝕の「日」字ですべての大合唱と大合奏の音は一瞬に消え(その丸い姿通り「句点」である)、あとは余韻だけが残ると、懐素の「自叙帖」を喩えている。そして、「自叙帖」から甦る劇的性格を示すために、一文字ずつ縦・横の寸法を測り、一字ずつの落差と展開を石川氏はグラフ化・作図している。

「自叙帖」のこの交響曲は、書(筆蝕と構成)を読む手続きさえふめば誰にでも読むことができるという。ただ「書を読む」とは文章を読むのとは違って、書字、筆蝕、構成の全過程をていねいに読むことが必要である。
「自叙帖」というのは、懐素が自らの書に対する誉め言葉を集めて書いたもの、いわば讃辞詞華集であるともいえる。書というのは、漠然と考えられているように、文字を書く美術ではなく、言葉を書く(筆蝕する)ところに生まれる言葉の物語、文学である。その事実を懐素の「自叙帖」ははっきりと証している。書という文学的出来事は確実に存在し、懐素の書は書史上その前人未踏の位置に到達している。「自叙帖」が真に意味するのは、単なる懐素の書への評語の集積ではなく、古法(二折法)を全面的に克服し、新法(三折法)に突入したことへの歓喜に満ちた、勝利宣言である、と石川氏はみている。筆蝕と構成に込められた終盤へ向けての驚異的な盛り上がりと、位相の転換が「自叙帖」という文学の真のありかを証しており、その姿は外部から文字の大きさの変化をながめるだけでも確認できるという。

ところで、懐素の「自叙帖」の全体を貫く展開は、冒頭第7行と第8行、すなわち「笈杖錫西遊上/國謁見當代名公」の中に描かれているとみて、その起筆の筆蝕状態を対位的な二種類の筆蝕①尖筆=角度筆蝕、②突筆=垂直筆蝕に分類されるとする。「尖」と「突」との筆蝕の対位法を、順接と増幅と逆接の構図が接続し、そしてこれらを臨場と拡張意志という「角度」が射影し、現実化することが、「自叙帖」から読みとれる書の世界であるという。

さて、懐素の草書は狂草とよばれ、古法とか王羲之書法と呼ばれる書からはみ出した新しい草書であるということは、たいていの書史に記されているが、従来の論では、古法とか王羲之書法とか呼ばれるものの実際の姿は明らかではない、と石川氏は批判している。書跡を見馴れた人なら、王羲之の手紙(尺牘)や孫過庭の「書譜」、智永の「千字文」などと懐素の「自叙帖」との間に同じ草書であっても、大きな落差が感じ取れるが、その違いにひそむ表現の意味はいったい何なのか、と石川氏は問題を提起している。

書字においては、書字の臨場が変革の原動力であり、「臨場の勝利」が書字変革の第二のつまり十分条件である。懐素の「自叙帖」には、書かれることがなければ、懐素自身思いもつかなかったであろう「臨場の勝利」とでも呼ぶべき表現が生まれている、と石川氏は理解している。垂直書法と角度書法の対位法を手に入れた「自叙帖」には、書字の臨場での筆蝕上の韻を踏む構成という形での歴史的書字法(古法・王羲之書法)からの脱却の姿が書かれている。
例えば、それは冒頭いきなり「懐素」の文字に現れると石川氏はみている。「素」字の第二筆終筆部から第四筆へ至る、円のように描かれる第三筆の運筆筆蝕は、本来、下から発して上方へ第三筆(横筆)を描くはずである。少なくとも王羲之や孫過庭や智永においては、表面的には円のような回転形に見えようとも、あくまで第三筆たる横画を書く意識が字画から読みとれる。

ところが「自叙帖」においては、横画を描こうとする意識が形状に定着することなく、回転している臨場の「筆蝕のさわり」の中に溶けてしまっているという(回転する筆蝕の中に書字の歴史的規範は溶解してしまっている)。規範に従うことよりも、書字の現場=臨場へのノリが優位性をもって立ち現れる例であると石川氏はみなしている。臨場の優位と勝利は「自叙帖」全篇を貫く。
「自叙帖」は伝統的な書字法にもたれかかるよりも、臨場がもたらす、蛇行、右回転、左回転、ジグザグ、左右反復、上下反復などさまざまな書字筆蝕にのり、また離反する過程を組み合わせ、統合して、新しい草書を創り上げた。例えば、書字の臨場の代表は蛇行ないし回転運筆であるといい、蛇行の代表的箇所として、第21行「詩故叙之曰」、第24行「霊豁」、第116行「界酔裏得真如」を挙げ、また回転の代表例として、第94行「師勢轉奇」、第118行「激切」を挙げている。

ただ、「自叙帖」は伝統的な書字法を全く無視して、わがままで無謀なものではない。例えば、第10行の「簡往々遇之」や第49行「筆法資質劣」のとりわけ「法資」の箇所はほとんど王羲之の法帖を見るような伝統的な二折法的書法の色彩が濃い、と石川氏は断っている。そして「簡」字の第三筆(横筆)や「遇」字は、その場に微粒子的に忍び込んだ三折法段階の強さと速度感を除けば、まったく「書譜」であり、「王羲之尺牘」であり、「楼蘭残紙」であるという。
ともあれ、古法や王羲之書法からはみ出した「自叙帖」の新しい書法とは、古法、王羲之書法=二折法への慎みをもった、しかし断乎たる臨場書法の戦略をもった新法=三折法であり、「自叙帖」はその文、その書ともに、新法・三折法の勝利宣言書である、と石川氏は主張している。

「臨場の勝利」は書字の伝統的規範性に対する運動韻律=筆蝕の勝利だけではなく、紙面に対する新しい認識をも獲得した。言葉というものは、発語の時間性の喩として、まっすぐにそろえて書かれることを鉄則とし、特に単音節、孤立語たる中国語は等間隔、同寸法で書かれることを原則とする。文字に大小があり、まれに文字と文字とが連続する連綿で結ばれていることはあっても、王羲之の一連の手紙(尺牘)も、孫過庭の「書譜」も、智永の「千字文」もその原則から大きく外れてはいかない。

ところが、懐素の「自叙帖」は行が曲がる。行の曲がりは、左上から右下へ、つまり手の位置へ向かう例が圧倒的に多いように、書字臨場における手=身体=作者の優位宣言、いわば書字における全身体性の発見でもある、と石川氏は表現している。天と地とみなされる上下を垂直に結ぶべき行を、書字しつつある手の方(左上から右下)へと乱している。
それだけでなく、懐素の「自叙帖」においては、行末で文字を拡大する例や文字を折り畳むように書く例、また小さく書く例が多い。紙面には限界があるが、懐素はその限界近くまでは、臨場の成り行きにゆだね、限界近くなった時に文字を平たくつぶしたり、小さくしたり、右へずらしたりしている。つまり懐素は紙面の限界と格闘することによって、紙面を新しい書的表現世界誕生の場へと改造している。
「自叙帖」の表現世界は臨場への「ノリ」のほかに、もうひとつの「転調への意志」が隠され、かつそれが累乗して「逆転」を造形している、と石川氏はみている。
(石川、1996年、205頁~215頁)


≪石川九楊『中国書史』を読んで その7≫

2023-03-12 18:00:14 | 書道の歴史
≪石川九楊『中国書史』を読んで その7≫
(2023年3月12日投稿)

【はじめに】


今回も、引き続き、石川九楊氏の次の著作を紹介してみたい。
〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年
 今回は、本論の次の各章の内容である。
●第15章 紙文字の麗姿――智永「真草千字文」
●第16章 二折法と三折法の皮膜――虞世南「孔子廟堂碑」
●第17章 尖塔をそびえ立たせて――欧陽詢「九成宮醴泉銘」
●第18章 <紙碑>――褚遂良「雁塔聖教序」

ただし、執筆項目は、私の関心のあるテーマについて記してある。



【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史









〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年

本書の目次は次のようになっている。
【目次】
総論

序章  書的表出の美的構造――筆蝕の美学
一、書は逆数なり――書とはどういう芸術か
二、筆蝕を読み解く――書史とは何か
第1章 書史の前提――文字の時代(書的表出の史的構造(一))
 一、甲骨文――天からの文字
 二、殷周金文――言葉への回路
 三、列国正書体金文――天への文字
 四、篆書――初代政治文字
 五、隷書――地の文字、文明の文字
第2章 書史の原像――筆触から筆蝕へ(書的表出の史的構造(二))
 一、草書――地の果ての文字
 二、六朝石刻楷書――草書体の正体化戦術
 三、初唐代楷書――筆蝕という典型の確立
 四、雑体書――閉塞下での畸型
 五、狂草――筆蝕は発狂する
 六、顔真卿――楷書という名の草書
 七、蘇軾――隠れ古法主義者
 八、黄庭堅――三折法草書の成立
第3章 書史の展開――筆蝕の新地平(書的表出の史的構造(三))
 一、祝允明・徐渭――角度の深化
 二、明末連綿体――立ち上がる角度世界
 三、朱耷・金農――無限折法の成立
 四、鄧石如・趙之謙――党派の成立
 五、まとめ――擬古的結語

本論
第1章  天がもたらす造形――甲骨文の世界
第2章  列国の国家正書体創出運動――正書体金文論
第3章  象徴性の喪失と字画の誕生――金文・篆書論
第4章  波磔、内なる筆触の発見――隷書論
第5章  石への挑戦――「簡隷」と「八分」
第6章  紙の出現で、書はどう変わったのか――<刻蝕>と<筆蝕>
第7章  書の750年――王羲之の時代、「喪乱帖」から「李白憶旧遊詩巻」まで
第8章  双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(前編)
第9章  双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(中編)
第10章 双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(後編)
第11章 アルカイックであるということ――王羲之「十七帖」考
第12章 刻字の虚像――「龍門造像記」
第13章 碑碣拓本の美学――鄭道昭の魅力について
第14章 やはり、風蝕の美――鄭道昭「鄭羲下碑」
第15章 紙文字の麗姿――智永「真草千字文」
第16章 二折法と三折法の皮膜――虞世南「孔子廟堂碑」
第17章 尖塔をそびえ立たせて――欧陽詢「九成宮醴泉銘」
第18章 <紙碑>――褚遂良「雁塔聖教序」
第19章 毛筆頌歌――唐太宗「晋祠銘」「温泉銘」
第20章 巨大なる反動――孫過庭「書譜」
第21章 文体=書体の嚆矢――張旭「古詩四帖」
第22章 歓喜の大合唱・大合奏――懐素「自叙帖」
第23章 口語体楷書の誕生――顔真卿「多宝塔碑」
第24章 <無力>と<強力>の間――蘇軾「黄州寒食詩巻」
第25章 書の革命――黄庭堅「松風閣詩巻」
第26章 粘土のような世界を掘り進む――黄庭堅「李白憶旧遊詩巻」
第27章 過剰なる「角度」――米芾「蜀素帖」
第28章 紙・筆・墨の自立という野望――宋徽宗「夏日詩」
第29章 仮面の書――趙孟頫「仇鍔墓碑銘稿」
第30章 「角度筆蝕」の成立――祝允明「大字赤壁賦」
第31章 夢追いの書――文徴明「行書詩巻」
第32章 書という戦場――徐渭「美人解詞」
第33章 レトリックが露岩――董其昌「行草書巻」
第34章 自己求心の書――張瑞図「飲中八仙歌」
第35章 媚態の書――王鐸「行書五律五首巻」
第36章 無限折法の兆候―朱耷「臨河叙」
第37章 刀を呑み込んだ筆――金農「横披題昔邪之廬壁上」
第38章 身構える書――鄭燮「懐素自叙帖」
第39章 貴族の毬つき歌――劉墉「裴行検佚事」
第40章 方寸の紙――鄧石如「篆書白氏草堂記六屏」
第41章 のびやかな碑学派の秘密――何紹基「行草山谷題跋語四屏」
第42章 碑学の終焉――趙之謙「氾勝之書」
第43章 現代篆刻の表出
第44章 境界の越境――呉昌碩の表現
第45章 斬り裂く鮮やかさ――斉白石の表現

結論
第1章 中国史の時代区分への一考察
第2章 日本書史小論――傾度(かたむき)の美学
第3章 二重言語国家・日本――日本語の精神構造への一考察




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


〇第15章 紙文字の麗姿――智永「真草千字文」
・刻蝕と筆触の争闘史
・智永の「真草千字文」
・二折と三折の振幅
〇第16章 二折法と三折法の皮膜――虞世南「孔子廟堂碑」
・中国の文字の歴史
・初唐代の三大家
・石と紙の止揚
・虞世南の「孔子廟堂碑」
・虞世南の書と欧陽詢の書の差
〇第17章 尖塔をそびえ立たせて――欧陽詢「九成宮醴泉銘」
・「楷法の極則」としての欧陽詢の「九成宮醴泉銘」
〇第18章 <紙碑>――褚遂良「雁塔聖教序」
・「九成宮醴泉銘」と「雁塔聖教序」
・「大唐三蔵聖教之序」と「大唐三蔵聖教序記」の落差
・慎みを欠く「大唐三蔵聖教序記」
・二王の典型と褚遂良




第15章 紙文字の麗姿――智永「真草千字文」


刻蝕と筆触の争闘史


書の歴史は、その究極のところでは、石と紙との、また鑿と筆との、また刻蝕と筆触の争闘史として描くことができる。それはまた筆文字の二折法と、石文字の三折法の争闘史でもあった。
毛筆に備わっているのは我々がふだん硬筆で字を書く時のような「トン・スー」と「スー・グー」の二折法である。三折法とは石の刻り跡の字画の辺縁に生まれる、「起筆・終筆・転折・撥ね・はらい」の三角形の形状を毛筆書字法が吸収したものである。
ここでの三折法というのは単に「トン・スー・トン」のリズムや、あるいは「起筆・終筆・転折・撥ね・はらい」の形状の有無を言うだけではなく、それらを生み出す、筆=鑿との全的比喩関係の成り立つ構造の総体を指すという。
「起筆・終筆・転折・撥ね・はらい」の中で、三折法のメルクマールは転折にある。
(石川、1996年、155頁)

智永の「真草千字文」


<二折法と三折法>
王羲之の七世の子孫で、隋代の僧・智永は800本の千字文を筆写し、その中の一本が、中国から日本に渡り、「東大寺献物帳」に、王羲之の「真草千字文」と記され、やがて正倉院から流転し、明治に入って小川家蔵に帰し、内藤湖南が智永真筆と比定したと言われるのが、「小川本真草千字文」である。
左の行に書かれた草書はともかく、右行の真書(正書=楷書の意味)は、秀麗な一書である。とりわけ、書の歴史的展開を考える時には、なかなか興味深い書である。
三折法が初唐代に成立するが、智永の「真草千字文」はそれが成立する少し前の、いわば二・七五折法(四捨五入すれば三折法ということになる)とでも呼ぶべき書である、と石川氏は捉えている。

その姿は、右の行の「真」体(真=正=楷と言うが、実は行楷体)の、たとえば「周」字が象徴しているという。この「周」の字を分析して次のように記す。
「周」字の第一画は起筆が明らかではなく、いわば「スイ」という二折法である。この部分だけを取り出せば、王羲之筆と言ってもよい。続く第二画はその明確な転折から三折法であると言える。横筆部を「トン」と入り送筆を「スー」と引き、転折部でいったん切って、新たに転折部で強く起筆され、縦筆部は「トン・スー・トン」で書かれている。この「冂」の部の背勢(相対する縦画の中ほどがへこむ構成法)と第二画の骨格を伴う強さと緊張感は三折法が可能にした表現である。これに対して、第一画は二折法=王羲之書法であるために、骨格と肉と皮膚が一体化し、むしろ皮膚が露出し、当然、三折法から見る目には深さを感じさせずに、薄っぺらな印象が残るのである。
続く第二画はその横筆部や縦筆の反りのゆえにというよりも転折部を明瞭にもつために、筆触が筆触に終わらず刻蝕を含み込むことによって骨格を露出し強さを醸し出す。
(石川、1996年、155頁~157頁)

二折と三折の振幅


もしも、「小川本真草千字文」の全文字が智永の真跡に間違いなく、智永に他の二折法書家の書を超える何かがあったとすれば、それは「撥ね」の問題にある、と石川氏はみる。いわゆる真書の「羽」「翔」「龍」の旁、「乃」「陶」「問」の撥ねが、左斜め上に三角形の形状を伴って撥ねられるべきところが、いったん水平(「龍」字では垂直)に押し出された後に次画に向かうという二段階の筆路を辿って、いささか苦しい表情で描かれている。
「帝」字や「制」字の旁や「推」字の「扌(てへん)」、「國」字の第二画終筆部は筆路は同様に二段階だが、ほぼ三角形状を示している。この二段階の撥ねの形状は、一般的な三角の形状を裏切る臨場性の形状であるという点で、少なくとも双鉤塡墨本ではないことのひとつの理由となるという。
一般的に言って、いったん圧し出した後撥ねる二段階の撥ねの描出法は、宋代の米芾あたりで顕著になる。

この撥ねの形状はすでに三折法成立以降の筆蝕史を予兆的に孕んでいる。それが宋代の米芾のように自覚的・安定的なものでなかったことは、他に二段階描出法ではない撥ねが見られることから明らかであろう。
智永は二折法と三折法、あるいは三折法以降との間をまだ激しい振幅で揺れていたのであり、その意味では三折法に達しているとは言えず、二・七五折法とでも言うのがよい、と石川氏は捉えている。
ところで、草書の中で二箇所注目すべき書法がある。
第一に「火」「人」「文」のはらいから延びた雨垂状の点である。
第二には、「位」字第三、四画に相当する筆の何やらくなくなした歯切れの悪い、そして鳩か鳥の形のように描き出されている表現である。

ところで、日本の空海や嵯峨天皇、橘逸勢のいわゆる三筆の代表的な作に、たとえば空海の「灌頂記」「真言七祖像行状文」、「孫過庭書譜」「崔子玉座右銘」「益田池碑銘」(伝)、嵯峨天皇の「光定戒牒」、また伝嵯峨天皇「李嶠百詠断簡」「哭澄上人詩」「金光明最勝王経註釈」、伝橘逸勢「伊都内親王願文」などに似たような「雑体書」表現が現れる。日本の三筆は、この種のいわば遊戯的な表現に目をとめ、そこを拡大して、再現してみせた。
(石川、1996年、158頁~160頁)

第16章 二折法と三折法の皮膜――虞世南「孔子廟堂碑」


中国の文字の歴史


中国の文字の歴史を図式的に示せば、「神の文字」→「政治の文字」(もしくは「文明の文字」)→「言葉=人間の文字」となる、と石川氏は理解している。

殷代に生まれた甲骨文は、神との対話と契約の文字、換言すれば「神の文字」であった。基本的に金文までは神の文字であった。その後に生まれた篆書体は、字画の成立によって文字の脱神話化を実現して政治文字に転じ、また隷書は、秦の始皇帝時代に獄吏の程邈が作ったと言われ(もとよりそのようなことはありえぬが)、また徒隷(史官)に与えた文字と言われるように、甲骨文、金文、篆書とは次元を異にした文明文字である。それは書史的に言えば、竹簡や木簡上に誕生した筆触文字である。その隷書の筆触を紙の上で凌いで草書体という完全な筆触=筆=紙文字が生まれ、その象徴が王羲之である。その筆触=筆=紙文字が、聖=正なる場である石に貼りつき、貼りつくことによって、石を表現上の実体としては紙に変えてしまった。それが楷書体成立という出来事である。

つまり、「神の文字」として生まれた文字が、「政治の文字」へとその中核をシフトし、新たに正書体である「文明の文字」、さらには「言葉=人間の文字」へと生まれ変わったのである。それゆえ、楷・行・草書体は、草書体から生まれたにもかかわらず、その歴史過程を逆転して、草書体や行書体が楷書体の殺字(くずし)体としてセットで位置づけられるという二重性が生まれ、また現在もなお、その楷・行・草書体が生きつづけ、その中核に楷書体が聳え立っている。
「神の文字」や「政治の文字」「文明の文字」の時代は終わり、「言葉=人間の文字」の時代が楷書体=三折法によって始まり、現在につながっているのである、と石川氏は述べている。(石川、1996年、168頁)

初唐代の三大家


楷書とは何か。「孔子廟堂碑」「九成宮醴泉銘」「雁塔聖教序」の楷書と三折法の誕生は何を意味するのだろうか。

初唐代の三筆、三大家と言えば、欧陽詢、虞世南、褚遂良である。その三大名品と言えば、各々の「九成宮醴泉銘」、「孔子廟堂碑」、「雁塔聖教序」である。

「九成宮醴泉銘」は抽象化して言えば、どこまでも真っすぐといった趣の字画、とりわけ縦画の揺るぎのない垂直性が、険しい厳粛な表情を醸し出している。
「雁塔聖教序」は、力や速度が生き生きと再現される、たおやかで、しなやかな反りをもつ字画がきわめて秀麗な逸品である。
この二つの名品と較べると、「孔子廟堂碑」は、張懐瓘の言う「剛柔」であるということは理解できる。ただ、その輪はいささか不明瞭で、うまい評語が見つからない。

「孔子廟堂碑」は、「九成宮醴泉銘」より少し早く、貞観2年(628)から4年頃建てられた。しかし、すぐに火災に遭い、重刻され、すでに唐代には亡佚するといったように、ごく短命であった。原石から採拓されたと言われる拓本や宋代に覆刻されたと言われる拓本が現在に残るばかりである。
(原石拓本と言われる三井聴冰閣本においても、その4分の1は、覆刻本から補塡している)

輪郭の不明瞭さは、「九成宮醴泉銘」や「雁塔聖教序」と読み較べた場合に、前二者ほどの他を圧する抜きん出た質を「孔子廟堂碑」はもっていない。
唐の張懐瓘はそのあたりを、『書断』の中で、次のように書いている。
「然欧之與虞、可謂智均力敵。亦猶韓盧之追、東郭(夋+免)也。論其衆體、則虞所不逮。欧若猛将深入、時或不利、虞若行人妙選、罕有失辭。虞則内含剛柔、欧則外露筋骨。君子蔵器、以虞為優」

要約は次のようになる。
「欧陽詢と虞世南の力量は似たようなものだが、すべてを見渡すと虞世南は欧陽詢に及ばない。欧陽詢の場合は、敵陣深く進入したものの、時に利あらずという憾みがあり、虞世南の場合は敵に遣わした使者が失言して外交をぶち壊したようなところがある。欧陽詢が外に筋骨を露わにし、虞世南の場合には内に剛柔を含んでいる。『君子は器を蔵す』という観点からすれば、虞世南の方が優れているということになるのだが」

この張懐瓘の評語に、石川氏は次のようなコメントを付している。
「君子は器を蔵す」という言葉も理解できぬわけではなく、その魅力も確かにある。
しかし、「孔子廟堂碑」「九成宮醴泉銘」「雁塔聖教序」を見較べてみると、やはり、それまでの書史を抜きん出ているという点で、後続する二書(「九成宮醴泉銘」(632年)、「雁塔聖教序」(653年))に及ばないとする。
それは、「孔子廟堂碑」が旧時代の桎梏を払拭できずに新法成立の1ミリ手前におり、後二書がその桎梏を振り払って、1ミリ後に、一皮剝けた姿で現れている、と石川氏はみている。
(石川、1996年、162頁)

石と紙の止揚


初唐の楷書成立の問題を、運筆上の三折法の成立や楷書と言われる外形的なスタイルの問題に矮小化するならば、隋代に、すでに北魏風から脱した「龍蔵寺碑」(586年)や「龍華寺碑」(602年)の例があり、それ以前にも三折法の誕生も見られなくもない。しかし、構造的な三折法と初唐代楷書成立という出来事は、石と紙との争闘史を思い浮かべることによって、その意味と必然は明らかになる、と石川氏は主張している。

つまり、書史には、2つの歴史的展開があるという。
① 石刻文字の歴史的展開
② 紙書文字の歴史的展開

① の石刻文字の歴史的展開の方は、「起筆、終筆、転折、撥ね、はらい」の刻蝕と形状を露わにした横画主律型の北魏の「龍門造像記」や墓誌銘、さらに「張猛龍碑」や「高貞碑」のような正体=聖体の場を隷書に代わって奪取しようとする。
一方、②の紙書文字の歴史的展開の方は、それとの相関の中での、王羲之に仮託される草書体が、石刻文字とは異なって、縦横の力ベクトルを均衡し、四方八方に求心、遠心する行書体へ姿を変え、それがさらに行書の閾を抜けようとする。

石刻文字が紙書文字化し、紙書文字が石刻文字化するという、石刻文字と紙書文字の合流と止揚こそが初唐代の楷書と三折法成立の真の意味であると解説している。すなわち、刻蝕と筆触との、筆蝕による合流と止揚である。

具体的な書をみてみよう。
欧陽詢に起筆を露(あから)さまにし、石刻の跡のなまなましい「皇甫誕碑」や「温彦博碑」(637年)がある。子息の欧陽通の「道因法師碑」(663年)は、一面で北魏の書(実際は石刻文字)の再来とも見えかねないほどである。
また、褚遂良にも「伊闕仏龕碑」や「孟法師碑」「房玄齢碑」という、いわば石刻系の文字がある。さらに、同時代に、北魏の碑と見まごうばかりの顔師古の「等慈寺碑」もある。
これらの書に対して、石川氏は次のように捉えている。
石・鑿・刻蝕は石碑という聖なる、正なる座にふみとどまり、少し油断すれば、実際の書丹(碑文のための肉筆原字)がどうあろうと、石刻文字の姿を出現させてしまう。
その境界をわずかに抜けることによって、「九成宮醴泉銘」は「九成宮醴泉銘」として、「雁塔聖教序」は「雁塔聖教序」として聳え立つという。

整理すれば、正書体の場たる石刻文字は、北魏の碑や刻石に代表的である「起筆、終筆、転折、撥ね、はらい」の武骨な三角形状を「九成宮醴泉銘」や「孔子廟堂碑」が起筆形を潜めているように減じ、また送筆については、横画主律から、縦・横画均衡の四方八方への求心・遠心型へと転じなければならなかった。
他方、紙書文字の方は逆に、「起筆、終筆、転折、撥ね、はらい」を自覚的なものとし、送筆部については、垂直、水平化する必要があった。
その石と紙との争闘の歴史的止揚の瞬間に生まれたのが、「九成宮醴泉銘」「雁塔聖教序」であり、楷書体、三折法である。
紙書文字については、前述の各部を自覚的ということは、二折法=王羲之(アルカイック)書法=古法から、三折法=新法への止揚を意味することになる、と解説している。
(石川、1996年、162頁~163頁)

虞世南の「孔子廟堂碑」


虞世南の「孔子廟堂碑」が、「九成宮醴泉銘」や「雁塔聖教序」に較べて、いささか不明瞭である理由は、いくぶんか紙書文字にとどまった点にあるとみる。

比喩的に次のように表現している。
「孔子廟堂碑」は筆蝕(紙文字)をもって刻られた「九成宮醴泉銘」である。一方、「九成宮醴泉銘」は刻蝕(石文字)をもって刻られた「孔子廟堂碑」であると。
具象を削り取り、歴史的抽象の果てで言うなら、「孔子廟堂碑」と「九成宮醴泉銘」は、紙と石との接点の向こう側であるか、こちら側であるかの差しかない。(そして、その差は、石につくか、紙につくかの差である。)

「孔子廟堂碑」が向勢であり、「九成宮醴泉銘」が背勢で構成されているということは、よく語られる。
ちなみに向勢とは、向き合い、対をなす画(多くは縦画)が、中膨らみで対応することを指す。その逆に中へこみに対応することを背勢と呼ぶ。
通常は、この二分法で書を平板に分類し対比するのみである。その両者が、どのような構造でつながれているかに言及しないで終わっているが、その差は、まさに石につくか、紙につくかの紙一重の差に負っている、と石川氏は捉えている。
その分岐は転折部をどう書くかにあるという。

「孔子廟堂碑」のように、転折部での加圧力が弱い場合、対象から反撥する力も微少であるから、向勢の構成となると説明している。背勢と向勢の差は、転折部での力の強弱の問題に還元しうるという。
それはまた、転折の強勢をさらに次元を高めて、転折を起筆と見なす三折法を生む。三折法というのは、単にひとつの画が「トン・スー・トン」で描き出される問題ではなく、転折部が起筆と見なされるまでの次元に高まる否かの問題であるとする。
背勢という言葉をステレオタイプ化しないで、その構造の問題からとらえるならば、三折法の成立はまた、背勢の成立と軌を同じくする。
(三折法が完全に成立した後の向勢は、三折法段階での修辞化[レトリック]した相対的なそれである。たとえば、顔真卿の「大字麻姑仙壇記」がそれである)

そして、この転折を強め、転折部を起筆ととらえる次元への移行を実現するのは、対象を石ととらえ、これに切り込みを入れようとする姿に他ならない。我々が日常的に書く文字においては転折が省略されるように、対象を単なる紙きれととらえる場合には、転折は偶然を除いては出現しない。
それゆえ、王羲之を象徴とする古法には転折が存在しない。たとえ存在しても、露骨(骨格が露わ)ではなく、向勢型の構成へ収斂すると説明している。

「孔子廟堂碑」の文字構成の基底は向勢に彩られている。転折がないわけではないが、弱い。三折法も、いささか抑制されている。それゆえ、比喩的に言えば、「孔子廟堂碑」は、2.9999……折法によって書かれていると表現している。
三折化しなかったところに、書史の必然と虞世南という存在の意味があるらしい。もし虞世南が欧陽詢のように転折に力を込め、転折を起筆と意識して書くならば、縦画は勢いを強めて、書字のリズムは明瞭化し、向勢は背勢に転じ、「孔子廟堂碑」は「九成宮醴泉銘」の姿を曝すだろうと想像している。
(石川、1996年、163頁~167頁)

虞世南の書と欧陽詢の書の差


石川氏によれば、虞世南の書と欧陽詢の書の差は、転折にどう力を附加するかという、わずかの違いである。つまり「孔子廟堂碑」と「九成宮醴泉銘」の間の差は僅少である。
その僅少の中に、王羲之=古法を振っ切る(ママ)か否かの岐路がある。虞世南は王羲之にとどまり、逆に欧陽詢はその呪縛を振り切って、晴々とした顔を曝している。

その意味で、二折法=古法時代の書の筆蝕は表現力が限定され、筆蝕はまだ表現を盛るような段階には至っていない。
書道史の教科書をひらいてみても、初唐代に至るまで、王羲之や王献之、また北魏の鄭道昭、隋の智永を除けば、ほとんど書者名が伝わらない。歴史にまぎれたことも一因であろうが、その真の理由は、二折法=古法=王羲之書法時代とは、筆蝕が表現を盛りきれない匿名の書の時代に属するところにある、と石川氏はみている。言い換えれば、「表現的個性」というようなものが成熟していなかった時代であったことによる。

それゆえ、王羲之書の実像はほとんど闇の中にある。また孫過庭の「書譜」や、宋代の米芾においても、二折法を主体に草書体を書けば、王羲之と見まごうばかりのものとなるという。むろん、王羲之とは二折法の象徴であるから、当然と言えば当然なのだが。

事実、初唐代以降の三折法時代と化してからは、筆者の知れぬ書は極端に減少する。初唐の三大家はもとより、孫過庭、薛稷、薛曜、張旭、懐素、顔真卿、そして宋代以降は筆者の知れぬ書など、ほとんど存在しなくなっていく。
(ただし、この転折に力を込めるか否かという一点に突入した欧陽詢と、それを躊躇した虞世南の差というのは、書を書史の中に抽象化した果てにも、また、「九成宮醴泉銘」と「孔子廟堂碑」という書の具象的な姿の中にも、書き込まれている。それが「虞はすなわち内に剛柔を含み、欧はすなわち外に筋骨を露わにす」(張懐瓘)という言葉の内実である、と石川氏は解釈している)
(石川、1996年、167頁~168頁)

第17章 尖塔をそびえ立たせて――欧陽詢「九成宮醴泉銘」


「楷法の極則」としての欧陽詢の「九成宮醴泉銘」


欧陽詢の「九成宮醴泉銘」(632年)は、「楷法の極則」と呼ばれる。
「楷法」とは、楷書とその書法をさす。書法とは、書く戦略と戦術のことである。意訳すれば、「九成宮醴泉銘は、究極の楷書であり、究極の書字戦略と戦術から成る」と石川氏は説明している。

同じ唐代に、虞世南の「孔子廟堂碑」(630年?)、褚遂良の「雁塔聖教序」(653年)がある。
少し時代が下れば、顔真卿の「多宝塔碑」(752年)もある。また、欧陽詢の作だけを取り出してみても、「皇甫誕碑」「化度寺碑」(631年)、「温彦博碑」(637年)など、すぐれた楷書の碑がある。しかし、「九成宮醴泉銘」は、それらより一頭抜きん出て、楷書の究極=極みに達しているといわれる。

ここで石川氏は、2つの問題を提起している。
〇この時、「極まった」と見られたものの正体はいったい何なのだろうか。
〇そして、本当に、そう言い切ってよいものだろうか。

まず、「九成宮醴泉銘」と、その1年前に刻られた「化度寺碑」、5年後に刻られた「温彦博碑」の間には、書として明らかな差があるとみている。
「化度寺碑」は、「九成宮醴泉銘」と比較した場合、抑制されているとはいえ、字画相互のつながり、連続が露出している。ひとつの字画の形状が、当該画の姿のみならず、前画からくる姿と次画へ移る姿を映し込んでいるという。
他方、「温彦博碑」の方は「九成宮醴泉銘」に比較すると、起筆、終筆、転折部に力が入り、それらの部分が誇張されている。「化度寺碑」を虞世南の「孔子廟堂碑」に近いと見、「温彦博碑」を欧陽詢の子・欧陽通の「道因法師碑」に近いと見ると、両者と「九成宮醴泉銘」との差はくっきりと明らかになるとする。

前画と後画の姿をひとつの字画の中に二重に露出した姿は、毛筆筆蝕の露出を妨げないところに生じる。
ここでいう「毛筆筆蝕」とは、紙に触れた毛筆の先端の姿、筆毫に加えられた力、あるいは弾力によってはじかれる筆毫の姿を筆蝕の中にとどめていることを指すらしい。
六朝時代を経て、隋・唐代になると、毛筆筆蝕は、私的領域での書のみならず、公的書字領域にまで顔をきかせてくる。刻られた書に対する書かれた書の優位、鑿に対する毛筆の優位、石に対する紙の優位という流れは、押しとどめられぬ勢いをもっていた。

しかし、書字史上、正統で真に正式な構成をもつ書は、刻られてある書である。字画の両端に、起筆や終筆の三角の形状を附着させて露出する字画の姿は、たとえ毛筆で書かれようとも、石などに刻られた字画としての美、「刻蝕」をとどめようとする姿である。

「化度寺碑」「九成宮醴泉銘」「温彦博碑」いずれも石に刻られた書である。しかし、その三碑の美の性格を決めるものは、その正統性を貫こうとする刻蝕と、刻蝕をおびやかすまでに力を蓄えた毛筆筆蝕との争闘と力関係である、という石川氏の持論が持ち出される。

「化度寺碑」は、正書体の中にいくぶんか毛筆筆蝕を抑えることなく、さらけ出してしまった書である。その点で、ごくわずかながら早すぎた書である、と石川氏は理解している。
「温彦博碑」は少し刻蝕を恢復しようとしている書である。その点で、ごくわずか遅れてきた書であるとする。
両者ともに、その姿がいくらか見えるぶんだけ、究極に至りえていないとみなしている。
そして、「九成宮醴泉銘」だけは、刻蝕と毛筆筆蝕の両者をきわどく統合し、いずれの姿をも抑制してそびえ立ち、その点で「極則」と言われると推察している。

「九成宮醴泉銘」は、部分的に押しとどめることができなくて、毛筆筆蝕が顔を出してしまうことはあっても、毛筆筆蝕の露出を極限まで抑制し、基本的には刻蝕からなる書であるとする。
ただ、北魏の書のように、刻蝕を露骨に曝すことはない。ここで言う刻蝕とは、単に即物的に刻られた跡を指して言うのではなく、毛筆で書かれた書であっても、刻るように書かれている場合も含んでいるという。
全体の基調(トーン)から比喩的に言えば、欧陽詢の持つ毛筆は、毛筆ではなく、刻具であると表現している。しかも、北魏の書のように、武骨な鑿や鋭い刃物ではなく、細工師の使う微妙な刃の形状の鑿を総合したような刻具である。

これは比喩である。むろん、欧陽詢は毛筆で書いており、この時代に至ると、毛筆筆蝕は正書体の中へも顔を出すまでに成長している。
「九成宮醴泉銘」は、その毛筆筆蝕の露出を極限まで抑制して、刻蝕に統御され、刻蝕に転じた毛筆筆蝕の姿を描き出そうとしている。
刻蝕と毛筆筆蝕のきわどいせめぎあい、微妙な統合という点で、「九成宮醴泉銘」が「孔子廟堂碑」とも「雁塔聖教序」とも異なった「極則」(究極の姿)を見せる理由がある、と石川氏は考えている。
(石川、1996年、169頁~171頁)

第18章 <紙碑>――褚遂良「雁塔聖教序」


「九成宮醴泉銘」と「雁塔聖教序」


褚遂良の「雁塔聖教序」(653年)は、欧陽詢によって書かれ、「楷法の極則」と言われる「九成宮醴泉銘」(632年)から、20年ほど後に建てられた。両書は、中国初唐代の書ながら、相当に異なった雰囲気をもっている。

「九成宮醴泉銘」は、全体がきりりとひき緊った印象で覆われている。縦画、横画はともにまっすぐに引かれるという基調は外れず、起筆、終筆もまた定まった形状を基調としている。「九成宮醴泉銘」は、ひとつひとつの字画を全力で「書き切る」ところに、緊張感がみなぎり、あふれている。個々の字画の緊張の集合が、「九成宮醴泉銘」の緊張の源泉となっているといわれる。

一方、「雁塔聖教序」の方も、緊張感に満たされている。だが、その緊張感は「九成宮醴泉銘」のように、硬質で堅苦しいものではないようだ。個々の字画が緊張しているというよりも、個々の字画の相互関係が生きて緊張しているという。
そして、書史の前半史と後半史を分ける分水嶺は、おそらくこの両書の間にあったはずであると、石川氏は独自の見方をしている。

「雁塔聖教序」は、「九成宮醴泉銘」等とは異なった書字原理が持ち込まれることによって、必然的に多彩な変化に富んだ書が生まれたと石川氏は考えている。
「雁塔聖教序」においては、起筆以前―起筆―送筆―終筆―終筆以後が単純には分離できないほど相互に溶かし込まれて、その強弱のウエイトが逐一変化し、さまざまの美しい絶妙の連続的階調でつながれているとする。それは、決して三折法以前の二折法や一折法の露出ではなく、三折法以降の二折法的一折法的描出、つまり三折法以後の高度な表現なのだそうだ。

この「雁塔聖教序」の絶妙な連続階調への讃辞として、次のような評語がある。
たとえば、「蒼潤軒帖跋」の「褚書は孤蚕の糸を吐くが如く、文章具在す」という言である。
また、清代・郭尚先は「芳堅館題跋」の「運筆、空中に花を散するが如く、また滞相なし」、あるいは清代・王文治は「聖教は空明飛動」という。

北魏の石刻楷書に較べれば、「九成宮醴泉銘」の字画は、起筆や終筆を退化させているが、それでも送筆の前後に三角形の起筆、終筆を接着させたような定性的字画反復のにおいから自由ではない。いわば書記官・役人の書であるとみる。
しかし、「雁塔聖教序」は、定性的字画を反復し、反復された字画の集合が文字をなし、文をもたらすというようには書かれていない。
比喩的に言えば、「九成宮醴泉銘」は伝統的、正統に無機物たる石を「掻き斬」っている。対象に切り込み、対象を掻き落としている。
それに対して、「雁塔聖教序」の方は、対象に切り込むこともなく、中空を舞っているという。「雁塔聖教序」は中空の舞い姿をとどめる、あえて言えば、なくてもよいような薄い紙でできた紙碑である、と石川氏は表現している。
(石川、1996年、176頁~180頁)

「大唐三蔵聖教之序」と「大唐三蔵聖教序記」の落差


「雁塔聖教序」は、剪装本といって、実際の石碑の拓本(全套本)を切り貼りしたものの印刷物である。
このためわかりにくいが、「雁塔聖教序」は、唐の太宗皇帝が文をつくった(撰文)「大唐三蔵聖教之序」と、撰文時には皇太子であった高宗の「大唐三蔵聖教序記」の二碑を合本したものである。

一口に「雁塔聖教序」といっても、「大唐三蔵聖教之序」と「大唐三蔵聖教序記」との間には、浄書と下書きほどの差があるとされる。
「大唐三蔵聖教之序」の方には、心地よい緊張が持続されているのに、後者ではその慎みの糸がぷつりと切れたように書かれている。真の快作は「大唐三蔵聖教之序」の方であるとみなされている。

幸い、両者の書き出しには同一文字が多く、それを見較べるだけでも差異ははっきりと見えてくる。
たとえば、「大」字の第二画がそうである。「大唐三蔵聖教之序」の方は、緊張をもって起筆されているが、後者の方は第二画起筆での大が弱く、滞留時間が短いため、中ほどでふくらむような字画形状を残している。
第三画のはらいも、前者では従来の書字規範に沿おうとして、尖端の尖った三角形の形状で描き出されている。それに対して、後者では運筆のはずみにのって、はらわれているため、尖端の形状がぬるくなっている、と石川氏は分析している。

このように、両者の間には、書記水準の落差が読みとれる。後者の「大唐三蔵聖教序記」の運筆速度は急がれ、速度変化は乏しく、起筆、送筆、終筆、転折、撥ね、はらいなどへの神経がすみずみまで届かず、緊張を欠き、結字・結構が生じて少々ふやけている。
(石川、1996年、180頁~182頁)

慎みを欠く「大唐三蔵聖教序記」


太宗の撰文である「大唐三蔵聖教之序」の方は、書は文に攻めたてられ、文を書が攻めるという、ほどよい緊張を保ち、美事な姿態を曝している。
一方、高宗の撰文である「大唐三蔵聖教序記」の方は、文に攻められるというところがなくて、書は文を呑み、暢々と一部野放図に書き跡の姿態を晒している。
両者の落差は、太宗と高宗の文に対する、また太宗と高宗に対する褚遂良の位置どりによっている、と石川氏は推察している。そして、褚遂良は高宗を軽んじていたのではないかと想像している。高宗治下に揮毫した「雁塔聖教序」全編のいっさいの外圧を感じることのない書きぶりを併せて考えると、そう思えてくるらしい。

この揮毫は653年(永徽4)の10月と12月と記されている。そうだとすれば、揮毫の3年前、褚遂良は高宗即位の初年に一度高宗によって左遷されている。2年後には、武昭儀(後の則天武后)の立后に反対して、長沙、桂林、ベトナムに左遷されている。そして5年後に、ベトナムで63歳で亡くなっていることになる。

「雁塔聖教序」から、高宗との関係やその後の褚遂良の命運がかすかに感じとれるような気がする、と石川氏は記している。むろん十分な用意もなく、作者と書を結びつけることは避けねばならないと断わりつつも、書の筆蝕には、「大唐三蔵聖教之序」において慎み深くあり、「大唐三蔵聖教序記」においては慎みと緊張を欠いているという。

石碑をいわば紙と化してしまった「雁塔聖教序」からは、まざまざとその微細な筆蝕が甦る。このことは、筆蝕の刻蝕に対する、また紙の石に対する完全勝利を意味すると同時に、書の筆蝕の成熟、つまり書体(スタイル)の成立を物語っているといい、石川氏の持論を述べている。

最後に、石川氏は、この「大唐三蔵聖教序記」の慎みのない書きぶりについて、書史上の問題に関して、触れている。
それは、次にくる顔真卿や懐素の書の成立にもつながる書字の場たる「臨場」の書の成立を指摘できるとする。「大唐三蔵聖教之序」の連続階調の美学は、今まさに書き進んでいる場にのり、その場に生じる力が書を造形することを可能にしたという。「九成宮醴泉銘」のように、一字を見れば他の字の書きぶりがおおよそ想像されるのではなく、「大唐三蔵聖教之序」によってひとつの文字が今まさに書かれている現場――臨場からくる力によって、さまざまに姿を変える可能性を獲得した。
そして「大唐三蔵聖教序記」によってそれを実践し、やがて来る狂草と宋代の「意」の書の嚆矢としての位置を占めている、と石川氏は捉えている。つまり「大唐三蔵聖教序記」において、書史上はじめて真の意味の書き手とスタイルが誕生したというのである。
(石川、1996年、182頁)

二王の典型と褚遂良


欧・虞・褚・薛の四人の書を年代的にならべてみると、そこには明らかに歴史的な変化の跡が窺われる。それを端的にいうと、結局二王の典型の動揺という現象にほかならない。
古人はこの完成せられた褚遂良の書を評して、王羲之の媚趣を得たものといっているが、智永や虞世南の書に較べるとよほど変化している。その変化している点は、褚遂良の書には著しく隷法の加わっていることである。だいたい王羲之は篆隷の法を拒否して、新しく芸術的な書を創造することに成功したが、褚遂良の書にはその王羲之の拒否した隷法が多分に取り入れられているのである。
もっとも、この隷法を取り入れることは、すでに欧陽詢の試みたところで、褚遂良はそれを学んだに過ぎないものであるが、その意味においては、実は欧陽詢は王羲之の厳格な正統ではなく、王羲之の七世の孫である隋の智永に学んだ虞世南こそ、王羲之の嫡伝であったといいうるのである。褚遂良の書の完成はいわば二王の典型の動揺であったという。
二王の典型の次第に動揺してゆく相(すがた)は、また初唐諸帝の書によっても窺われる。二王の典型はその本山ともいうべき唐王朝の宮廷においても、次第に崩れつつあったことがわかるのであるが、しかし何といっても数百年来つづいてきた強靭な貴族社会を基盤として栄えた二王の典型がそう簡単に亡びゆくことはなかった。

以上、二王の典型の次第に崩れゆく推移の概略を述べたが、しかしそれが玄宗の開元時代になると、革新派が抬頭してきた。
中国の書道史が、二王の典型と、それに反抗する書と、その両派の消長起伏によって形成せられてゆくことは、この書道史において、しばしば説き及んだところである。この事情を知るのに、この時代の書は一つの大きな関鍵を提供してくれる。その意味において、この時代の書は中国書道史上重要な意義をもっている。