≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その4≫
(2020年11月1日投稿)
ハッシュタグ:#西洋美術史 #ルーヴル美術館 #西岡文彦 #レオナルド・ダ・ヴィンチ #モナ・リザ #鏡面文字の謎 #北川健次 #高津道昭
【西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』はこちらから】
二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む
今回のブログでは、西岡文彦氏の『謎解きモナ・リザ』(河出書房新社、2016年)を基にして、『ミロのヴィーナス』と『モナ・リザ』について、解説してみる。
また、レオナルド・ダ・ヴィンチの謎としては、鏡面文字の謎の問題について、北川健次氏の著作を参考に解説してみたい。北川氏は、高津道昭氏の次の著作を批判して、自説を主張している。
〇高津道昭『レオナルド=ダ=ヴィンチ 鏡面文字の謎』(新潮社、1990年)
〇北川健次『モナ・リザミステリー 名画の謎を追う』新潮社、2004年
〇北川健次『絵画の迷宮 ダ・ヴィンチ、フェルメール、ピカソ、ダリ、デュシャン』新人物往来社、2012年
今回のブログで、鏡面文字の謎の問題を検討することを通して、レオナルドの人物像が浮かび上がってくることを期待している。
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
印刷された『モナ・リザ』には、どっしりとした印象がある。しかし、実物で見ると、画面右の肩の線に見えているのが、肩に掛けたレースのショールであることがわかる。
印刷では肩のあたりが黒一色に見えているが、実際のモナ・リザの肩の線は、このショールの輪郭の内側にほっそりと描かれている。その肩に、ゆったりと浮遊するかのようにショールをまとっている。ショールの縁を襟のように丸めて左肩から胸にかけて羽織っているので、古代の衣のような古風な雰囲気もただよっている。ここに、西岡氏は、古代に通じる衣の美学を見い出している。
同じ造形が見られるのが、ルーヴルの『ミロのヴィーナス』(紀元前2世紀、大理石、ルーヴル美術館)の腰布である。こちらは、腰布の縁を丸めて帯にしている。この類似は偶然ではなく、ダ・ヴィンチに限らず、ルネッサンスの画家・彫刻家達が1500年余りも昔の古代ギリシア・ローマ美術を模範としたことから生じている。
こうした衣の描写は「ドラペリ draperie」と呼ばれる。それは、ギリシア彫刻が完成した、ヨーロッパ美術を代表する表現要素のひとつとなっている。
風をはらんだ衣や水に濡れた衣の襞(ひだ)をまとわせて、人体の美しさを強調する手法である。名称のドラペリは、フランス語で襞のあるゆったりとした衣の着こなしを指すdraperに由来している。英語でいうドレープ drapeのことである。
(日本では、衣文[えもん]、衣襞[いへき]などと訳される)
ギリシア彫刻の最高峰『ミロのヴィーナス』の腰布は、このドラペリの美学を代表するものである。丸めた縁と流れるような襞のドラペリの美学が、左膝を前に出したポーズを優美なものへと昇華させている。
縁を丸めるドラペリ演出はそのまま『モナ・リザ』のショールに引き継がれ、画面に古代彫刻に通じる風格を与えている。ダ・ヴィンチは、このドラペリの名手として知られている。習作のために、見た目に美しい衣服の襞をわざわざ作って、デッサンし、美的な効果を徹底して探求している。たとえば、ダ・ヴィンチ『衣文習作』(1470年頃、ルーヴル美術館)がある。
ルネッサンスとは、キリスト教美術の全盛期であった中世を越えて、古代ギリシア・ローマ時代にまでさかのぼり、その人間讃美の美学を再生させることによって、近世に開花した芸術運動のことであると西岡氏は捉えている。
そして、ギリシア時代の『ミロのヴィーナス』の腰布にも通じるルネッサンス名画『モナ・リザ』のドラペリには、まさにその古代再生(ルネッサンス)の精神が息づいていると主張している。
ルーヴルで『ミロのヴィーナス』と『モナ・リザ』といえば、定番の観光コースであるが、この2点を見るだけで、ヨーロッパ美術の精華であるドラペリの最高峰を鑑賞できる。
加えて、ドラクロワの代表作『民衆を導く自由の女神』(1830年、油彩、ルーヴル美術館)も見とおせば、ルーヴルのドラペリ散策としては完璧である。ドラクロワの描く女神の下半身のドラペリは、『ミロのヴィーナス』によく似ており、上半身では、『モナ・リザ』と同様に、襟のように丸められた衣の縁が、左の肩から右下に流れるように描かれている。
そのドラペリは『ミロのヴィーナス』の腰布の縁を丸めた形状にそっくりである。
したがって、この3点のルーヴルの“看板作品”だけで、紀元前2世紀前半の古代ギリシア彫刻の代表作、16世紀初期のルネッサンス絵画の代表作、19世紀近代絵画の代表作を、ドラペリをポイントに鑑賞することができる。つまり、3点の“看板作品”コースは、ルーヴルの古代・近世・近代美術の精華を概観できる。
(西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社、2016年、16頁~22頁)
【西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社はこちらから】
謎解きモナ・リザ (河出文庫)
ルーヴルの古代・近世・近代美術の精華である3点のルーヴルの“看板作品”
紀元前2世紀前半の古代ギリシア、16世紀初期のルネッサンス、19世紀近代の代表作から、ドラペリに焦点を当てて、鑑賞することができる
西岡文彦氏の『二時間のモナ・リザ』には全く言及のない内容としては、『謎解きモナ・リザ』の「6 美少年サライの謎」の中の「モナ・リザは売られていた!」(112頁~117頁)という節がある。弟子サライが『モナ・リザ』を売却していたという。その内容を紹介しておこう。
壮年期以降のダ・ヴィンチの身辺に、美少年の姿があったことは知られている。
なかでもサライは美貌で知られていた。生涯独身を通したダ・ヴィンチに、プラトニックな少年愛があったことは疑いようがない。
この美貌のサライの面影を『モナ・リザ』に見出す意見も少なくない。2011年にも、『モナ・リザ』の左の瞳にはレオナルドの頭文字のLが隠され、右の瞳にサライの頭文字のSの字が隠されていることから、この絵のモデルはサライとする奇説が唱えられている。
ルーヴル側は画面を精査しても、そのような文字は見られないと否定している。
この奇説の提唱者は、S・ヴィンチェッティである。イタリア人作家で、RAI(イタリア放送協会)の番組制作にも携わっているという。しかし、翌年には、リザ婦人説に鞍替えしたのか、フィレンツェの修道院に眠るリザの遺骨を発掘し、DNA鑑定をすると発表している。
さて、サライのダ・ヴィンチへの弟子入りは、10歳の時であったという。当時、38歳のダ・ヴィンチが、本名ジャン・ジャコモ・デ・カプロッティというこの美少年に付けたあだ名がサライであった。
(当時の騎士道物語『モルガンテ』に登場する小悪魔サライにちなんで命名したようだ)
ダ・ヴィンチは手記に、サライのことを、「泥棒で、嘘つきで、強情で、大食い」と書き、この小悪魔が財布から盗む小銭まで詳細に記録している。その盗癖、遊蕩癖にもかかわらず、ダ・ヴィンチの晩年に至るまでの20余年にわたって、寛大な保護を受けている。
祖国を捨てたダ・ヴィンチがフランスに向かった際には、行方をくらましたにもかかわらず、サライは最晩年の巨匠の周辺に再び姿を現しており、師の遺言状は彼に葡萄園の権利を与えている。
さらに驚くべきことに、近年の研究によれば、『モナ・リザ』はダ・ヴィンチの生前、すでに、このサライの手に渡っていた可能性が大きいとされている。
従来、この絵は、画家最愛の作として終生手元に置かれ、ダ・ヴィンチの死によってフランス王室に遺贈されたことになっていた。
ところが、近年、フランス王室文書の中にサライに対する莫大な金額の支払い記録が発見され、この定説は崩れ去ってしまう。支払い名目は絵画代金となっている。代金は、なんとダ・ヴィンチがフランス王室の庇護下にあった3年間の俸給の金額に匹敵する巨額であった。
この巨額に匹敵する絵画といえば、『モナ・リザ』以外には考えられない。しかも、支払いはダ・ヴィンチの死の前年のことである。
従来から謎となっていたダ・ヴィンチの遺言状に『モナ・リザ』の記述がないことにも説明がつく。遺言状を書いた時点で、『モナ・リザ』はダ・ヴィンチの手を離れていたようだ。
ダ・ヴィンチが老いを深めるにつれ、フランス王室は、この絵が遺言によって弟子に遺贈されることに対する懸念を抱き始めていたというその王室の懸念を知ったサライが、ダ・ヴィンチの自分に対する溺愛につけ込むかたちで、師の生前にこの絵を獲得することに成功し、フランス王室に売り払っていた可能性が大きいという。
もしサライでなく、ダ・ヴィンチを看取った弟子メルツィにこの絵が遺贈されていたならば、『モナ・リザ』はフランス王室には売却されず、祖国イタリアに持ち帰られたことは、ほぼ確実であろうと西岡氏はみている。
メルツィはダ・ヴィンチから遺贈された膨大な手記をすべて祖国に持ち帰り、生涯をその整理と保管に捧げているから、そのようにみる。サライのフランス滞在が極端に短いことも、この推測を裏付けているという。サライは『モナ・リザ』の獲得と販売に必要と思われる程度の期間のみ、師匠ダ・ヴィンチのいるフランスに渡っていたとする。
フランス王室の秘宝『モナ・リザ』は、ダ・ヴィンチが弟子サライに、いわば生前贈与として与えた遺作であり、早々に現金化されてしまったせいで、フランソワ1世の所蔵となったと推測されている。
ところで、フランス王室文書にサライへの支払い記録があることを発見したのが、美術史学者ベルトラン・ジェスタである。彼は、ルーヴル一画にあるエコール・ド・ルーヴル、つまりルーヴル美術学院の教授で、ルネッサンス研究の権威として知られる。
この発見の詳細については、セシル・スカイエレーズの『モナ・リザの真実』(花岡敬造訳、日本テレビ放送網株式会社)で読むことができる。
前回のブログでも紹介したように、スカイエレーズは、ルーヴル美術館絵画部門の主任研究員で、20年来の『モナ・リザ』の主席学芸員でもある。なお、この著書は、ルーヴル美術館とフランス国立美術館連盟による共同出版で、ルーヴルの各部門の学芸員が担当分野の論文を発表するシリーズの1冊である。いわば、『モナ・リザ』の公式書籍に近い本である。
『モナ・リザ』をめぐるドラマを、ルーヴル美術学院の教授ジェスタと『モナ・リザ』の主席学芸員スカイエレーズが解き明かしたことになる。このドラマは、衝撃的な新事実を教えてくれた。
このドラマは、深い驚愕と共に、人間が芸術についての思慮と視線を深めてくれたと西岡氏はコメントしている。すなわち、事実とすれば、老ダ・ヴィンチのサライへの愛の大きさと共に、人の持つ業というものの深さに、圧倒されないではいられないという。
(西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社、2016年、112頁~117頁)
【西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社はこちらから】
謎解きモナ・リザ (河出文庫)
【スカイエレーズ『モナリザの真実』日本テレビ放送網株式会社はこちらから】
モナリザの真実―ルーヴル美術館公式コレクション
西岡文彦氏は、『二時間のモナ・リザ』では、鏡面文字について言及していない。また、『謎解きモナ・リザ』においては、「手記の謎」(47頁~51頁)と題して、レオナルドの手記について述べているが、鏡面文字についての言及はない。
ただ、その手記に『モナ・リザ』に関する記述がないことを強調して、次のように叙述している。
「現状では、この膨大な手記の中に『モナ・リザ』に関する記述は一行もないことが確認されている。森羅万象すべてに好奇心を燃やす記録マニアで、家計の明細からサライという盗癖のある弟子がダ・ヴィンチの財布からくすねた小銭の額までメモしていた彼が、『モナ・リザ』に関する記述は一切残していないのである。
あるいは、この絵をめぐる数々のミステリーのうちでも最大の謎は、病的なまでの記録魔だったダ・ヴィンチが、なぜか『モナ・リザ』に関しては一切の記録を残していないこと自体にあるのかも知れない」(48頁)
西岡氏によれば、鏡面文字の謎より、手記の『モナ・リザ』に関する一切の記録が残っていないことの方が、大きな謎であるという。
そこでさらに調べてみると、西岡氏は、『図説・詳解 絵画の読み方』(宝島社、1992年[1997年版])において、鏡面文字の謎には、次のような形でしか言及していないことがわかる。
「レオナルドの手記が、鏡に映さないと読めない反転文字で暗号化されていたことはよく知られているが、これは秘密保持の手段であると同時に、彼の左利きという生理に合わせてのことだったのだろう」とある。
(西岡文彦『図説・詳解 絵画の読み方』宝島社、1992年[1997年版]、94頁)
このように、西岡氏にとって、鏡面文字の謎については、
① 秘密保持の手段としての暗号化
② 左利きという生理に合わせてのこと
ということになる。
【西岡文彦『図説・詳解 絵画の読み方』宝島社はこちらから】
絵画の読み方―感動を約束する、まったく新しい知的アプローチ! (別冊宝島EX)
ちなみに、美術史家の若桑みどり氏は、この鏡面文字の謎について、その美術史の講義「第二日 レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」について」の中で、次のように述べている。
「こうした無数の手稿[しゅこう]がぜんぶ左手で書かれているというのはご存じだと思います。左手といっても左手で正式に書くのではなくて、いわゆる鏡文字で書かれているのです。つまり読めない。レオナルド・ダ・ヴィンチは右手でもちゃんとかけたのです。にもかかわらず、これらの手稿がぜんぶ鏡文字(ママ)で書かれているのは、同時代人に読まれないようにするためだったのかもしれません。一種の炙[あぶ]りだし文字みたいなものだったのではないでしょうか。ですから彼の描いたイメージもまた鏡文字かもしれまん」
(若桑みどり『イメージを読む――美術史入門』筑摩書房、1993年、59頁~60頁)
このように、若桑氏は、「手稿がぜんぶ鏡文字で書かれているのは、同時代人に読まれないようにするためだったのかもしれません」とし、「秘密保持の手段としての暗号化」説として理解している。
先述したように、若桑氏は、レオナルド・ダ・ヴィンチが「モナ・リザ」に隠した謎とは、ひとくちにいえば、「神のいない宇宙観」であると解釈していた。
もしもこのときレオナルドが自分の思っていること(神のいない宇宙観)を言語でいっていたなら、首がとんでいたことだろう。人びとは、そこになにかが秘められていることを正しく読みとったが、これは謎だといい伝えてきたと説明している。
もっとも、それは主として「女は謎だ」というような超ロマンティックなことでもある。
つまり、神様、聖霊、純潔を信じていた、信じなければ異端で首がとんでいた時代に、レオナルドは冷静に生命と生命をつなぐのは生殖であり、そしてまた胎盤であると考えていた。
たとえば、レオナルド作品の多義性については、「聖アンナと聖母子」(ルーヴル美術館)において、聖アンナの両足のあいだに赤い石がひとつあるが、これは胎盤であるという説がある。これについて、若桑氏は次のように述べている。
「レオナルドの作品の中にはつねに曖昧、多義的なものがあるのです。そう思って見ると見えるし、そう思って見ないと見えない。そうとうに巧妙にいろんなものが隠された隠し絵ともいえます。私がルーヴルにいって見たときに、たしかに変で、石がやわらかいのです。だからこれはやっぱり胎盤だと思うわけです。レオナルドは胎盤をいっぱい描いていますからね。解剖図で。描こうと思えばすぐここに描けるわけです。」
大地と女性のつながり、生命が女性から女性へと伝えられていく、こういう一種の生命と女性と大地といったレオナルド特有の観念を表現しているとする。
(若桑みどり『イメージを読む――美術史入門』筑摩書房、1993年、103頁~104頁)
【若桑みどり『イメージを読む』筑摩書房の新版はこちらから】
イメージを読む (ちくま学芸文庫)
ところで、青井伝氏(2005年当時、武蔵野美術大学特別講師で美術アナリスト)は、『ダ・ヴィンチ 謎のメッセージ』(廣済堂出版、2005年)の「第三章 逃亡者生活の始まりとその理由[わけ]」の「鏡文字の謎」(73頁~75頁)において、「何故、レオナルドは鏡文字を用いたのか」という問題について、触れている。
その説明として、「左利き説」「解読防止説」などがあり、いまだに定かでないとしながらも、これらの説に次のような疑問を呈している。
「左利き説」の場合、ペンのタッチが左利き特有のものだからという点に着目しているが、文字の特徴だけをもってして、かんたんに左利きと解釈してしまってよいものだろうかとする。
また、「解読防止説」の場合、飛行機をはじめ発明した機械について、レオナルドが設計したことを知られたくなかったからだという理由が挙げられるが、この説もおかしいという。というのは、自分の発明品を庇護者に提示しているのだから、あえて解読防止する必要はなかったと考えている。
(青井伝『ダ・ヴィンチ 謎のメッセージ』廣済堂出版、2005年、73頁~75頁)
【青井伝『ダ・ヴィンチ 謎のメッセージ』廣済堂出版はこちらから】
ダ・ヴィンチ謎のメッセージ
青井伝氏のこの著作は、『モナ・リザ』解説に珍説・奇説が多い。たとえば、レオナルドが鏡文字を書いた真の目的は、“『モナリザ』(ママ)にあったとしたり(75頁)、『モナ・リザ』の微笑は微笑ではなかったと主張し、「モナリザの微笑」とわれわれが称してきたのは、大きな誤りであったという(239頁)。はたまた、「モナリザのゲマトリア(数秘学)」と鏡文字とむすびつけて、そこに「モナリザの予言」があるとしている(231頁~232頁)。
「モナ・リザ」の呼称について、誤解しないように付言しておく。
「モナ・リザ」(ルーヴル美術館)という肖像画には3つの呼び名がある。
イタリア語圏では、「ラ・ジョコンダ」、フランス語圏では「ラ・ジョコンド」、英語圏では「モナ・リザ」と呼ばれる。
「故マニフィーコ・ジュリアーノ・デ・メディチ閣下の依頼によりモデルによって描かれたフィレンツェのある婦人像」が「モナ・リザ」と呼ばれ始めるのは、ダ・ヴィンチの没後31年、1550年にヴァザーリによって書かれた『ルネサンス画人伝』あたりからである。
そのため、後の美術史家の中には、ルーヴル美術館にある「モナ・リザ」はダ・ヴィンチのいう「故マニフィーコ・ジュリアーノ・デ・メディチ閣下の依頼によりモデルによって描かれたフィレンツェのある婦人像」ではない、と唱える者もいる。また、「モナ・リザ」に関してダ・ヴィンチが描いたデッサンが一つも見あたらないことも美術史家を悩ませている。
(佐藤幸三『モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか』実業之日本社、2011年、92頁)
【佐藤幸三『モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか』実業之日本社はこちらから】
[カラー版]モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか (じっぴコンパクト新書80)
ところで、「モナ・リザ」の謎と共に、鏡面文字の謎もまた、その動機について推理が繰り返されてきた。現存するレオナルドが記した手稿は5千枚ばかりである。しかし実際は2万枚以上あったといわれる。これらの膨大な数の手稿を、何故、判読しにくい鏡面文字でレオナルドは書いたのか。これも謎である。
先述したように、鏡面文字の謎は、単に左利きが原因であるとか、秘密保持の手段としての暗号化では片づけられない問題を含んでいることに気づく。つまり、この問題は、レオナルドの生い立ちや境遇と密接に関わることが、北川健次氏の著作を読むとわかる。
前置きが長くなったが、この点について、詳述しているのが、北川健次氏の次の著作である。
〇北川健次『モナ・リザミステリー 名画の謎を追う』新潮社、2004年
〇北川健次『絵画の迷宮 ダ・ヴィンチ、フェルメール、ピカソ、ダリ、デュシャン』新人物往来社、2012年
ここでは、後者の著作を参照にしながら、解説しておこう。
「モナ・リザ」のように図像解析学的な面での複雑さはないので、北川健次氏は、次の3点ばかりの推測に絞られるとする。
① 兵器などの様々な研究内容や考察の過程を知られたくないために、意図的に読みにくい鏡面文字で記したという説。
② 反キリスト教的な異端の内容があるために、隠蔽の目的で記したという説。
③ 彼自身が左利きであった事に原因があるとする説。
しかし、西岡文彦氏や若桑みどり氏が指摘する①と②は、推測としては根拠が薄いとみなす。その理由は、鏡に映しながら見ていけば、いとも簡単に内容が読めてしまうからである。
③に関しては、何らかの点で関連があるだろうが、これだけでは説得力不足である。左利きの人は5~8パーセントくらい存在するといわれるが、やはり鏡面文字は異例である。
だから、仮説の数は限られても、決め手を持たない。謎は宙吊りになっていた。
鏡面文字に関する1冊の本が出版された。高津道昭著『レオナルド=ダ=ヴィンチ 鏡面文字の謎』(新潮社、1990年)である。
その切り口は、今までの推測とは角度を異にしていて、なかなかに説得力のあるものである。その内容は次のようなものである。
レオナルドが反転した鏡面文字を書いた理由は、レオナルドが今日のオフセット印刷の原理を既に予見し、自分の本を作るための印刷原稿として、書いたと高津氏はみている。
左右逆向きの版にインクを盛れば、刷った時には反転して正文字が現れると考えている。
(レオナルドは印刷機のための設計図を描き、今日の写真製版の原理をも予見している)
この木で鏡面文字に関する500年間の謎は明らかになり決着がつけられたようにみえる。この本は版を重ね、さらには本国のイタリアにまで伝わって評価されたそうだ。
(北川健次『絵画の迷宮 ダ・ヴィンチ、フェルメール、ピカソ、ダリ、デュシャン』新人物往来社、2012年、15頁~16頁、21頁)
【高津道昭著『レオナルド=ダ=ヴィンチ 鏡面文字の謎』新潮社はこちらから】
レオナルド・ダ・ヴィンチ 鏡面文字の謎 (新潮選書)
しかし、北川氏は、鏡面文字に関する推測について、次のような疑問や矛盾があると指摘している。
① レオナルドが印刷技術に興味を持った時期と鏡面文字による手稿との関係
通称マドリッド手稿ⅠⅡ(1965年にマドリッドの王立図書館で発見された大量の手稿)から、印刷技術に興味を持った時期が推定されている。つまり、マドリッド手稿が書かれた年代は、1492年~1500年頃だから、レオナルドが40歳~48歳の頃とされる。
その手稿の中には、機械工学に関する素描が頻繁に見られ、印刷技術への集中的な関心と考案がその頃に成された事が窺える。
しかし、鏡面文字による手稿そのものの記述はそれ以前から始まっている。さらに遡れば、レオナルドが21歳の時に小さな紙に描いた最も古い素描の左上に、「1473年8月5日、雪の聖母マリアの日」と早くも鏡面文字で題名が記されている。
その事実は何を意味するのか?と、北川氏は疑問を呈している。
② 正確を期さねばならない人体解剖図において、レオナルドが手稿に描いた心臓の位置は向かって右側、すなわち私たちの側から左胸の正常な位置に描かれている。
それは何故なのか?と、やはり疑問をさしはさむ。
というのは、描かれた図をそのまま印刷した場合、心臓は逆の位置になってしまうはずである。
一方、高津氏は「内臓の位置に関するものの場合は、逆向きに描くのはさすがに気が退(ひ)けたので順向きにしたということだろう」(高津道昭『レオナルド=ダ=ヴィンチ 鏡面文字の謎』新潮社、1990年、198頁)と記している。
北川氏は、それではあまりにも根拠に乏しいのではないかと批判している。
③ レオナルドの死後、弟子のメルツィは師の残した手稿の中から『絵画論』の一部分を大変な苦労をして正文字に書き直した後に本として刊行している。
弟子メルツィが常にレオナルドの側にいて最も信頼が厚かった人物であるならば、師から弟子へと、その意図も伝わっていたはずではないだろうかと北川氏は想像している。つまり後に手稿をもって印刷の原版とするならば、何故メルツィは、あえてわざわざ正文字に書き改める必要があったのであろうかとする。
④ その手稿の内容には、あまりにも私的な内面(心情)の吐露や、弟子たちの衣類の購入リストや生活に要した出費代金、メモ程度の類も鏡面文字で書かれている。これらは、およそ出版されるにふさわしくない内容であろう。また、同ページの他の絵や文とは全く脈絡を異にした記述もある。それは何故なのか?と疑問が湧く。
⑤ もし出版を目的とした版下原稿であるならば、全て鏡面文字で記すはずだが、レオナルドの手稿には、拙いながらも正文字で書かれたものもいくつかある。
それは、印刷そして出版における整合性の面からみて、不自然なことではないだろうかと高津説を批判している。
そこで北川氏は、脳科学に関する著作を参照している。すると、美術書では、「謎」とされていた鏡面文字も、脳科学のコーナーでは多分に見られる「常識」であることがわかったようだ。
とくに、興味を引いた本は、マイケル・バーズリー著『左ききの本』(西山浅次郎訳、TBS出版会)だという。
たとえば、史上最も有名な鏡映文字(ママ)は、レオナルドの『ノート』であるが、もう一人実際にこれを書いたのはルイス・キャロルであると記す。
『鏡の中の世界』の中の次の有名な場面も、鏡映文字で書き上げた。
「まあ、これは鏡に映した本だわ!
これをもう一度鏡に映せば
字がまた元通りになるわ」――『鏡の中の世界』のアリス
対称(シンメトリー)の世界を偏愛したルイス・キャロルは、特殊な能力を誇示するように、鏡映文字を記したらしい。
ところで、鏡映文字(mirror-writing, フランス語ではécriture en miroir)という言葉は、正常と反対方向に書いてある手書きの文で、個々の字もまた逆になっている。それ故、鏡に映さなければ読むことができない。
このように鏡映文字は定義されている。
バートの見解では、鏡映文字を書く最もよくある年令は、5歳~9歳で、また左ききの子どもの方が多いとする。
北川氏は、他の脳科学の本を参照にして、次の点を指摘している。
すなわち、4、5歳前後を基点として、成長期のある段階において、私達の多くが鏡面文字(左右反転の文字)を書いている。しかし、親からの矯正や、周囲の環境によって修正され、次の成長段階において正文字へと移っていく。つまり、レオナルドにみられる鏡面文字の特異性は異例のことではない。
(私達の視覚の中枢神経と脳の知覚機能との間の情報交換および連結作用の能力が、幼児期には未発達のために実際に左右逆向きの像となって映り、それを見えるままに書いているらしい)
ここで、北川氏は、レオナルドの鏡面文字について疑問を向けている。
すなわち、レオナルドは何故、正文字へと進まず、幼児期の一段階に固執するかのように、鏡映文字を生涯に亘って書き続けたのかという疑問である。
この謎を解く鍵は、レオナルドの「幼年期」に絞られていくとみている。つまり、レオナルドが幼い頃から鏡面文字を書いていたと推察する根拠を、レオナルドと父のセル・ピエロという人物との間に残されている、ささやかな史実の中にあるとする。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、1452年4月15日深夜にフィレンツェ近郊、ヴィンチ村から2キロばかり離れたアンキアーノという土地の小さな平屋の中で生まれたとされる。
レオナルドは父セル・ピエロと、カテリーナという女性との間に生まれた庶子(祝福されざる私生児)であった。その幼年期は、悲惨にして哀れなものであったようだ。
代々、公証人の家柄という裕福な家系に生まれた父セル・ピエロは世俗的な野心家であった。レオナルドの誕生から数ケ月後に、フィレンツェの富豪アマドーリ家の娘アルビエーラという若い女性と結婚した。一方、レオナルドの母であったカテリーナは、レンガ職人アントーニオのもとに嫁いでいく。
最初レオナルドは母のもとで育てられていたが、4歳の時に父のもとに、無理やり連れ戻された。その後、母との関係は距離を置いた謎の中に霧化していく。
父が引き取った理由は自己本位なものであった。妻アルビエーラとの間に子供が出来ず、レオナルドを自分の後継者として育てるためであったという。しかし、父はほとんどヴィンチ村の自宅に居つかず、フィレンツェにある公証人としての事務所に一人で居住した。だから、レオナルドの幼年期は遊び相手もおらず、孤独なものであったようだ。
唯一かまってくれたのは、父の弟つまり叔父のフランチェスコという人物であった。それ以外はヴィンチ村の野にあって、唯一人で自然を友として遊ぶ日々であった。そのためであろうか、自然に対する好奇心と観察眼は自ずと育ち、後のレオナルドへと羽化していく。
少年レオナルドは早い時期から利発さを示し、特に算術と絵画においては際立った才能の片鱗を早くも表していた。しかし、父は意外にもレオナルドを後継者としての公証人にはせず、14歳の頃に画家ヴェロッキオの工房へ入門させる。
まるで見限ったかのように、安定したエリートコースである公証人の道から、父はレオナルドを外している。
北川氏は、この事実に注目し、「何故なのか?」と問題を提起している。
代々公証人の家柄であり、フィレンツェ政府の公証人まで務めた野心家の人物ならば、子を自らの後継者とするのが、普通であろう。しかし、そうはせず、画工という、未だ職人としての不安定な立場に甘んじなければいけない職業の方に息子を進ませた。
(このあたり、レオナルドの画才に驚いた父が、息子の才能を開花させるために、友人のヴェロッキオの門を叩いたという話がある。北川氏は、その説を採らず、それは後世という結果論から逆回ししたものとみなす)
息子が算術の計算に長けており、利発な面を幼い頃から発揮していたが、父セル・ピエロに、ある断念があったと想像している。
まず、私生児であった点が考えられる。ただ、ルネサンス期の社会史的な研究を当たってみると、公的な地位に私生児である者の台頭が数多く見受けられるそうだ。
北川氏は、むしろ公証人という職業の具体的な内容の中にあるとみている。公証人は、法律や個人の権利に関する事実を、公に証明するための書類を作成する仕事である。もし、レオナルドがその頃すでに鏡面文字しか書けず、それが既に矯正不可能なまでに身についてしまっていたとしたら、どうであろう。公証人として記さねばならない重要な書類は、無用物と化してしまう。その上、意固地なまでに自分の欲する事のみに専念する性分が、その頃すでに芽生えていたならば、父としても断念せざるをえなかったのではないかと想像している。
レオナルドは文字を覚え始めた当初から、鏡面文字しか書けなかった事を裏付けるものとして、1482年に、ミラノ公ルドヴィコ・イル・モーロに宛てた、正向きで書かれた有名な自薦状を挙げている。それは、筆跡鑑定によって、他人による代筆である事が立証されている。
何故、自薦状という最も重要な書類を代筆してもらう必要があったのか。
(この問いが、北川氏の推論を間接的に裏付けているという)
北川氏の推論は、次のようなものである。
鏡面文字は何ら謎ではなく、文字を書き始める当初において、誰にでも見られる現象である。しかし、それは親からの矯正や周囲の友人の変化によって次第に正文字へと移っていく。しかしそのデリケートな転機において、親身に接してくれる親や友人が全く不在という状況にあったならば、鏡面文字はそのまま固まっていくのではないかというのである。
(だから、隠蔽目的や印刷原稿とする鏡面文字に対する仮説を否定している)
その特異な例がレオナルド・ダ・ヴィンチではないかとする。
その文字の異形さの奥にレオナルドの不条理の体験があったと推測している。つまり、4歳まで母親の溺愛を一身に受けていた無垢な魂の揺籃の時期に、ある日突然、父親の身勝手な事情によって引き裂かれるように、連れてこられてしまったという体験である。それは魂の絶叫の姿であった。
(レオナルドの後の手稿にある「過剰な感受性が生涯私を苦しめた」という言葉とむすびつけて、想像している)
そして、レオナルドが手稿を綴った時間帯にまで、北川氏は想像をめぐらしている。それは、煩わしい多忙な仕事を終えて就寝につく前の僅かな時間帯がほとんどであったはずとみる。
(そのような貴重な時に、隠蔽をするために、あるいは後に出版をするという目的のために、一字、一字をわざわざ反対に置き換えて書いていくであろうかと再度、疑問を呈している。それは思考の展開の速度を遮るはずであるという)
ところで、北川氏は、かつてロンドンの大英博物館で、レオナルドのオリジナルの鏡面文字を実際に見たそうだ。
その鏡面文字は、崩しを入れた早い速度で書かれたものであり、充分に書き慣れたものであったという。つまり、速筆であった(この速筆であるという事が鏡面文字の謎を解くキーワードであるとする)。その速度感は、レオナルド(人類が生んだ最大の知的怪物)の思考の鋭い走りを如実に映したものであるとみている。
その速さに似た例を、同じ大英博物館で見たという。それはモーツァルトのオリジナル楽譜である。それは全く修正なく記された音符の揺るぎない走りであったようだ。そこには「天才」という稀人の脳髄の中を疾駆するデモニッシュなものの存在さえ感じられ、不気味さすら覚えたと北川氏は述べている。
レオナルドの場合、鏡面文字でしか書けなかった事、そして左利きであった事は、めまぐるしく移るその思考の走りを瞬時に定着していくには、結果論的にみて好都合であったと推察している。
(北川健次『絵画の迷宮 ダ・ヴィンチ、フェルメール、ピカソ、ダリ、デュシャン』新人物往来社、2012年、15頁~42頁)
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絵画の迷宮 (新人物往来社文庫)
北川健次『モナ・リザミステリー 名画の謎を追う』新潮社、2004年
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「モナ・リザ」ミステリー
レオナルドの手稿の中で最も異様で、謎めいているといわれる「原風景」についての記述がある。
それは、レオナルドと鳶にまつわる何やら意味ありげな独白である。次のようにある。
「このように鳶について克明に書き記すことは、私に定められた運命のように思われる。というのは、私の幼年期の最初の思い出によれば、私が揺り籠の中にいた時、一羽の鳶が私の所に飛んで来て、尾で私の口を開かせ、私の唇の内部を何度もその尾で打ったように思われたからである」
(斎藤泰弘著『レオナルド・ダ・ヴィンチの謎 天才の素顔』岩波書店)
この記述を実際の確かな記憶と見るか、現実を作り変えてみるフィクショナルなものとするかは意見が分かれる。出自を運命的なものにしようとするレオナルドの過度な自意識の傾きが、ここにあるといわれる。
フロイトは、手稿に登場する鳥の尾を、レオナルドを溺愛する母カテリーナであると分析している。
北川氏は、この記述には不穏の気配が付きまとうとみて、口唇愛の発芽の予感とする。手稿に出てくる鳶とある人物が重なるという。
その人物とは、レオナルドの父セル・ピエロの弟、フランチェスコである。この叔父については、今も残る、役所に提出された資産申告書の中に「21歳になっても何もせずに村にいる」と記されていた。
レオナルドが少年になり、やがて長じてからも二人の間には、深い交流があった。それはフランチェスコが死ぬまで続き、レオナルドに遺産全てを贈ろうとまで言い遺している。
叔父フランチェスコは、私生児として孤独な日々にあった少年レオナルドに、父とは対照的に出世欲もなく、気立てが優しかった。叔父は唯一人、親身になって接してくれた。
叔父はレオナルドを深い谷間に連れて行き、空翔ぶ鳥の翼の秘密について語り、野に咲く花のもとに導いて様々な自然の神秘へといざなった。そして、宿命のように、幼いレオナルドに関わったようだ(今一つの顔を内に秘めた男色家であったという)。
(北川健次『絵画の迷宮 ダ・ヴィンチ、フェルメール、ピカソ、ダリ、デュシャン』新人物往来社、2012年、152頁~155頁)
レオナルドの絶筆となった「洗礼者ヨハネ」を不気味な絵の到達点と北川氏はみている。
洗礼者ヨハネ、愛人サライ、そしてダ・ヴィンチ自身の三重相から成る妖しいまでの肖像画であるとする。人類死滅後の闇を予言的に描いたメッセージがここに在るという。
この「洗礼者ヨハネ」には、歪みを呈したような異様な微笑が漂っている。その微笑みは、「モナ・リザ」で表したような美の理念から程遠い。むしろ、レオナルドの夜の相貌ともいえる、淀んだ澱のように暗くて淫蕩な倒錯の開示があるとみている。
そして、ヨハネは、異教的、両性具有的、さらには悪魔的な気配をさえ帯びている。そのうねる頭髪は、人類をついには破滅へと導くであろう大洪水の、「水」の暗喩であると解釈している。人類の破滅の予感を警告ではなく、冷笑をもって予言していたのではないかという。
レオナルドは、「水とは何か?」(Che cosa e acqua?)から始まる「水の断章」を書いている。
最初は湧き水のような静かな叙述から始まって、やがて、終末的な幻想(ヴィジョン)となる。
「ああ、すさまじい雷鳴とそこから発する稲妻に引き裂かれる暗い大気を通して、いかばかり恐ろしいとどろきが響き渡っていたことか。稲妻は破壊を求めて大気中を走り、行く手を阻むものを打ち砕いていた。ああ、闇の大気に響き渡る雨混じりの暴風や天空の雷鳴や狂暴な稲妻の大音響を遮ろうとして、いかに多くの人びとが両手で耳を塞ぐのを君は見たことであろうか。(中略)
人びとを満載した巨大なオークの太枝が、暴風の猛威によって空中を吹き飛ばされていくのが眺められた」
(斎藤泰弘著『レオナルド・ダ・ヴィンチの謎 天才の素顔』岩波書店)
こうした終末的な幻想となっている。そして最後に、「洗礼者ヨハネ」の背景に描かれた全くの光なき死の世界(底なしの無明の闇)へと化していくとする。
レオナルドが到達した最終ヴィジョンを具体的に表したものとして晩年に描いた夥しい数の「大洪水の光景」のデッサンがある。それらは、ウィンザー王立図書館に残っている。そこには、人類への警告ではなく、人類の愚かさが生んだ必然的な運命を嘲笑するかのように冷徹な視線が感じられると北川氏は述べている。
レオナルドが何故、晩年に至って、取り憑かれたように大洪水への幻視へと至ったのか。
ここで、北川氏は、脳科学でいわれる、扁桃体の発育不全と愛情の不毛な中で育った事との関係について言及している。
脳科学の分野では、「扁桃体の発育不全は、幼年期に体験した恐怖が、消えることのないフラッシュバック的な映像となって、その人を生涯襲い続ける」といわれている。
レオナルドも、母親カテリーナと別れ、愛情の不毛な中で育った。この事は、レオナルドが描いた「聖アンナと聖母子」の画中に結晶化したようだ。
つまり、アンキアーノで実際に起きたレオナルドの母子別離の悲劇は、画中で、マリアによって仔羊との間を引き裂かれるキリストに変容した姿となったと解釈されている。
そして実は大洪水の幻視もまた、レオナルド4歳のときの実際の体験に基づいている。
それは、次の事実から見てとれる。マキャヴェリ(ルネサンス期の政治思想家で歴史家。『君主論』は有名)は『フィレンツェ史』の中で記している。
「1456年8月に起きた、トスカーナ地方に空前絶後の記録的な被害をもたらした驚くべき竜巻が通過した」と。
間違いなく当時4歳のレオナルドはそれを目撃したはずである。後の大自然が孕む猛威に注視する視線がその時に萌芽したとみられている。
例えば、『レオナルド・ダ・ヴィンチの謎 天才の素顔』の著者斎藤泰弘氏は、レオナルドの「大洪水」の素描と、先に引用した「水の断章」の文章とを併せながら、「ここには、世界滅亡の絵巻物を広げながら、眼前に展開する恐怖の光景に忽然と見とれている老人の姿がある」としている。
そして、「そこには、恐ろしい竜巻に魅入られている4歳の子供の面影が二重写しになって見える」とも記している。
レオナルドのヴィジョンが有する迫真的なまでのリアリティーは、実際の体験を裏付けたものであると北川氏もみている。
そしてレオナルドは、無意識へと連なる自己の深層の部分に対しても、醒めた分析を絶やさず、深い洞察をしていることが窺える。
(北川健次『絵画の迷宮 ダ・ヴィンチ、フェルメール、ピカソ、ダリ、デュシャン』新人物往来社、2012年、155頁~159頁)
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絵画の迷宮 (新人物往来社文庫)
(2020年11月1日投稿)
ハッシュタグ:#西洋美術史 #ルーヴル美術館 #西岡文彦 #レオナルド・ダ・ヴィンチ #モナ・リザ #鏡面文字の謎 #北川健次 #高津道昭
【西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』はこちらから】
二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む
【はじめに】
今回のブログでは、西岡文彦氏の『謎解きモナ・リザ』(河出書房新社、2016年)を基にして、『ミロのヴィーナス』と『モナ・リザ』について、解説してみる。
また、レオナルド・ダ・ヴィンチの謎としては、鏡面文字の謎の問題について、北川健次氏の著作を参考に解説してみたい。北川氏は、高津道昭氏の次の著作を批判して、自説を主張している。
〇高津道昭『レオナルド=ダ=ヴィンチ 鏡面文字の謎』(新潮社、1990年)
〇北川健次『モナ・リザミステリー 名画の謎を追う』新潮社、2004年
〇北川健次『絵画の迷宮 ダ・ヴィンチ、フェルメール、ピカソ、ダリ、デュシャン』新人物往来社、2012年
今回のブログで、鏡面文字の謎の問題を検討することを通して、レオナルドの人物像が浮かび上がってくることを期待している。
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
・『ミロのヴィーナス』と『モナ・リザ』
・弟子サライと『モナ・リザ』 の売却
・レオナルドの鏡面文字の謎
・≪青井伝『ダ・ヴィンチ 謎のメッセージ』の注意点≫
・レオナルドの手稿の謎めいた記述
・レオナルドの終末的なヴィジョン
『ミロのヴィーナス』と『モナ・リザ』
印刷された『モナ・リザ』には、どっしりとした印象がある。しかし、実物で見ると、画面右の肩の線に見えているのが、肩に掛けたレースのショールであることがわかる。
印刷では肩のあたりが黒一色に見えているが、実際のモナ・リザの肩の線は、このショールの輪郭の内側にほっそりと描かれている。その肩に、ゆったりと浮遊するかのようにショールをまとっている。ショールの縁を襟のように丸めて左肩から胸にかけて羽織っているので、古代の衣のような古風な雰囲気もただよっている。ここに、西岡氏は、古代に通じる衣の美学を見い出している。
同じ造形が見られるのが、ルーヴルの『ミロのヴィーナス』(紀元前2世紀、大理石、ルーヴル美術館)の腰布である。こちらは、腰布の縁を丸めて帯にしている。この類似は偶然ではなく、ダ・ヴィンチに限らず、ルネッサンスの画家・彫刻家達が1500年余りも昔の古代ギリシア・ローマ美術を模範としたことから生じている。
こうした衣の描写は「ドラペリ draperie」と呼ばれる。それは、ギリシア彫刻が完成した、ヨーロッパ美術を代表する表現要素のひとつとなっている。
風をはらんだ衣や水に濡れた衣の襞(ひだ)をまとわせて、人体の美しさを強調する手法である。名称のドラペリは、フランス語で襞のあるゆったりとした衣の着こなしを指すdraperに由来している。英語でいうドレープ drapeのことである。
(日本では、衣文[えもん]、衣襞[いへき]などと訳される)
ギリシア彫刻の最高峰『ミロのヴィーナス』の腰布は、このドラペリの美学を代表するものである。丸めた縁と流れるような襞のドラペリの美学が、左膝を前に出したポーズを優美なものへと昇華させている。
縁を丸めるドラペリ演出はそのまま『モナ・リザ』のショールに引き継がれ、画面に古代彫刻に通じる風格を与えている。ダ・ヴィンチは、このドラペリの名手として知られている。習作のために、見た目に美しい衣服の襞をわざわざ作って、デッサンし、美的な効果を徹底して探求している。たとえば、ダ・ヴィンチ『衣文習作』(1470年頃、ルーヴル美術館)がある。
ルネッサンスとは、キリスト教美術の全盛期であった中世を越えて、古代ギリシア・ローマ時代にまでさかのぼり、その人間讃美の美学を再生させることによって、近世に開花した芸術運動のことであると西岡氏は捉えている。
そして、ギリシア時代の『ミロのヴィーナス』の腰布にも通じるルネッサンス名画『モナ・リザ』のドラペリには、まさにその古代再生(ルネッサンス)の精神が息づいていると主張している。
ルーヴルで『ミロのヴィーナス』と『モナ・リザ』といえば、定番の観光コースであるが、この2点を見るだけで、ヨーロッパ美術の精華であるドラペリの最高峰を鑑賞できる。
加えて、ドラクロワの代表作『民衆を導く自由の女神』(1830年、油彩、ルーヴル美術館)も見とおせば、ルーヴルのドラペリ散策としては完璧である。ドラクロワの描く女神の下半身のドラペリは、『ミロのヴィーナス』によく似ており、上半身では、『モナ・リザ』と同様に、襟のように丸められた衣の縁が、左の肩から右下に流れるように描かれている。
そのドラペリは『ミロのヴィーナス』の腰布の縁を丸めた形状にそっくりである。
したがって、この3点のルーヴルの“看板作品”だけで、紀元前2世紀前半の古代ギリシア彫刻の代表作、16世紀初期のルネッサンス絵画の代表作、19世紀近代絵画の代表作を、ドラペリをポイントに鑑賞することができる。つまり、3点の“看板作品”コースは、ルーヴルの古代・近世・近代美術の精華を概観できる。
(西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社、2016年、16頁~22頁)
【西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社はこちらから】
謎解きモナ・リザ (河出文庫)
【ルーヴル美術館の『モナ・リザ』と『ミロのヴィーナス』と『民衆を導く自由の女神』の写真】(2004年5月筆者撮影)
ルーヴルの古代・近世・近代美術の精華である3点のルーヴルの“看板作品”
紀元前2世紀前半の古代ギリシア、16世紀初期のルネッサンス、19世紀近代の代表作から、ドラペリに焦点を当てて、鑑賞することができる
弟子サライと『モナ・リザ』 の売却
西岡文彦氏の『二時間のモナ・リザ』には全く言及のない内容としては、『謎解きモナ・リザ』の「6 美少年サライの謎」の中の「モナ・リザは売られていた!」(112頁~117頁)という節がある。弟子サライが『モナ・リザ』を売却していたという。その内容を紹介しておこう。
壮年期以降のダ・ヴィンチの身辺に、美少年の姿があったことは知られている。
なかでもサライは美貌で知られていた。生涯独身を通したダ・ヴィンチに、プラトニックな少年愛があったことは疑いようがない。
この美貌のサライの面影を『モナ・リザ』に見出す意見も少なくない。2011年にも、『モナ・リザ』の左の瞳にはレオナルドの頭文字のLが隠され、右の瞳にサライの頭文字のSの字が隠されていることから、この絵のモデルはサライとする奇説が唱えられている。
ルーヴル側は画面を精査しても、そのような文字は見られないと否定している。
この奇説の提唱者は、S・ヴィンチェッティである。イタリア人作家で、RAI(イタリア放送協会)の番組制作にも携わっているという。しかし、翌年には、リザ婦人説に鞍替えしたのか、フィレンツェの修道院に眠るリザの遺骨を発掘し、DNA鑑定をすると発表している。
さて、サライのダ・ヴィンチへの弟子入りは、10歳の時であったという。当時、38歳のダ・ヴィンチが、本名ジャン・ジャコモ・デ・カプロッティというこの美少年に付けたあだ名がサライであった。
(当時の騎士道物語『モルガンテ』に登場する小悪魔サライにちなんで命名したようだ)
ダ・ヴィンチは手記に、サライのことを、「泥棒で、嘘つきで、強情で、大食い」と書き、この小悪魔が財布から盗む小銭まで詳細に記録している。その盗癖、遊蕩癖にもかかわらず、ダ・ヴィンチの晩年に至るまでの20余年にわたって、寛大な保護を受けている。
祖国を捨てたダ・ヴィンチがフランスに向かった際には、行方をくらましたにもかかわらず、サライは最晩年の巨匠の周辺に再び姿を現しており、師の遺言状は彼に葡萄園の権利を与えている。
さらに驚くべきことに、近年の研究によれば、『モナ・リザ』はダ・ヴィンチの生前、すでに、このサライの手に渡っていた可能性が大きいとされている。
従来、この絵は、画家最愛の作として終生手元に置かれ、ダ・ヴィンチの死によってフランス王室に遺贈されたことになっていた。
ところが、近年、フランス王室文書の中にサライに対する莫大な金額の支払い記録が発見され、この定説は崩れ去ってしまう。支払い名目は絵画代金となっている。代金は、なんとダ・ヴィンチがフランス王室の庇護下にあった3年間の俸給の金額に匹敵する巨額であった。
この巨額に匹敵する絵画といえば、『モナ・リザ』以外には考えられない。しかも、支払いはダ・ヴィンチの死の前年のことである。
従来から謎となっていたダ・ヴィンチの遺言状に『モナ・リザ』の記述がないことにも説明がつく。遺言状を書いた時点で、『モナ・リザ』はダ・ヴィンチの手を離れていたようだ。
ダ・ヴィンチが老いを深めるにつれ、フランス王室は、この絵が遺言によって弟子に遺贈されることに対する懸念を抱き始めていたというその王室の懸念を知ったサライが、ダ・ヴィンチの自分に対する溺愛につけ込むかたちで、師の生前にこの絵を獲得することに成功し、フランス王室に売り払っていた可能性が大きいという。
もしサライでなく、ダ・ヴィンチを看取った弟子メルツィにこの絵が遺贈されていたならば、『モナ・リザ』はフランス王室には売却されず、祖国イタリアに持ち帰られたことは、ほぼ確実であろうと西岡氏はみている。
メルツィはダ・ヴィンチから遺贈された膨大な手記をすべて祖国に持ち帰り、生涯をその整理と保管に捧げているから、そのようにみる。サライのフランス滞在が極端に短いことも、この推測を裏付けているという。サライは『モナ・リザ』の獲得と販売に必要と思われる程度の期間のみ、師匠ダ・ヴィンチのいるフランスに渡っていたとする。
フランス王室の秘宝『モナ・リザ』は、ダ・ヴィンチが弟子サライに、いわば生前贈与として与えた遺作であり、早々に現金化されてしまったせいで、フランソワ1世の所蔵となったと推測されている。
ところで、フランス王室文書にサライへの支払い記録があることを発見したのが、美術史学者ベルトラン・ジェスタである。彼は、ルーヴル一画にあるエコール・ド・ルーヴル、つまりルーヴル美術学院の教授で、ルネッサンス研究の権威として知られる。
この発見の詳細については、セシル・スカイエレーズの『モナ・リザの真実』(花岡敬造訳、日本テレビ放送網株式会社)で読むことができる。
前回のブログでも紹介したように、スカイエレーズは、ルーヴル美術館絵画部門の主任研究員で、20年来の『モナ・リザ』の主席学芸員でもある。なお、この著書は、ルーヴル美術館とフランス国立美術館連盟による共同出版で、ルーヴルの各部門の学芸員が担当分野の論文を発表するシリーズの1冊である。いわば、『モナ・リザ』の公式書籍に近い本である。
『モナ・リザ』をめぐるドラマを、ルーヴル美術学院の教授ジェスタと『モナ・リザ』の主席学芸員スカイエレーズが解き明かしたことになる。このドラマは、衝撃的な新事実を教えてくれた。
このドラマは、深い驚愕と共に、人間が芸術についての思慮と視線を深めてくれたと西岡氏はコメントしている。すなわち、事実とすれば、老ダ・ヴィンチのサライへの愛の大きさと共に、人の持つ業というものの深さに、圧倒されないではいられないという。
(西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社、2016年、112頁~117頁)
【西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社はこちらから】
謎解きモナ・リザ (河出文庫)
【スカイエレーズ『モナリザの真実』日本テレビ放送網株式会社はこちらから】
モナリザの真実―ルーヴル美術館公式コレクション
レオナルドの鏡面文字の謎
西岡文彦氏は、『二時間のモナ・リザ』では、鏡面文字について言及していない。また、『謎解きモナ・リザ』においては、「手記の謎」(47頁~51頁)と題して、レオナルドの手記について述べているが、鏡面文字についての言及はない。
ただ、その手記に『モナ・リザ』に関する記述がないことを強調して、次のように叙述している。
「現状では、この膨大な手記の中に『モナ・リザ』に関する記述は一行もないことが確認されている。森羅万象すべてに好奇心を燃やす記録マニアで、家計の明細からサライという盗癖のある弟子がダ・ヴィンチの財布からくすねた小銭の額までメモしていた彼が、『モナ・リザ』に関する記述は一切残していないのである。
あるいは、この絵をめぐる数々のミステリーのうちでも最大の謎は、病的なまでの記録魔だったダ・ヴィンチが、なぜか『モナ・リザ』に関しては一切の記録を残していないこと自体にあるのかも知れない」(48頁)
西岡氏によれば、鏡面文字の謎より、手記の『モナ・リザ』に関する一切の記録が残っていないことの方が、大きな謎であるという。
そこでさらに調べてみると、西岡氏は、『図説・詳解 絵画の読み方』(宝島社、1992年[1997年版])において、鏡面文字の謎には、次のような形でしか言及していないことがわかる。
「レオナルドの手記が、鏡に映さないと読めない反転文字で暗号化されていたことはよく知られているが、これは秘密保持の手段であると同時に、彼の左利きという生理に合わせてのことだったのだろう」とある。
(西岡文彦『図説・詳解 絵画の読み方』宝島社、1992年[1997年版]、94頁)
このように、西岡氏にとって、鏡面文字の謎については、
① 秘密保持の手段としての暗号化
② 左利きという生理に合わせてのこと
ということになる。
【西岡文彦『図説・詳解 絵画の読み方』宝島社はこちらから】
絵画の読み方―感動を約束する、まったく新しい知的アプローチ! (別冊宝島EX)
ちなみに、美術史家の若桑みどり氏は、この鏡面文字の謎について、その美術史の講義「第二日 レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」について」の中で、次のように述べている。
「こうした無数の手稿[しゅこう]がぜんぶ左手で書かれているというのはご存じだと思います。左手といっても左手で正式に書くのではなくて、いわゆる鏡文字で書かれているのです。つまり読めない。レオナルド・ダ・ヴィンチは右手でもちゃんとかけたのです。にもかかわらず、これらの手稿がぜんぶ鏡文字(ママ)で書かれているのは、同時代人に読まれないようにするためだったのかもしれません。一種の炙[あぶ]りだし文字みたいなものだったのではないでしょうか。ですから彼の描いたイメージもまた鏡文字かもしれまん」
(若桑みどり『イメージを読む――美術史入門』筑摩書房、1993年、59頁~60頁)
このように、若桑氏は、「手稿がぜんぶ鏡文字で書かれているのは、同時代人に読まれないようにするためだったのかもしれません」とし、「秘密保持の手段としての暗号化」説として理解している。
先述したように、若桑氏は、レオナルド・ダ・ヴィンチが「モナ・リザ」に隠した謎とは、ひとくちにいえば、「神のいない宇宙観」であると解釈していた。
もしもこのときレオナルドが自分の思っていること(神のいない宇宙観)を言語でいっていたなら、首がとんでいたことだろう。人びとは、そこになにかが秘められていることを正しく読みとったが、これは謎だといい伝えてきたと説明している。
もっとも、それは主として「女は謎だ」というような超ロマンティックなことでもある。
つまり、神様、聖霊、純潔を信じていた、信じなければ異端で首がとんでいた時代に、レオナルドは冷静に生命と生命をつなぐのは生殖であり、そしてまた胎盤であると考えていた。
たとえば、レオナルド作品の多義性については、「聖アンナと聖母子」(ルーヴル美術館)において、聖アンナの両足のあいだに赤い石がひとつあるが、これは胎盤であるという説がある。これについて、若桑氏は次のように述べている。
「レオナルドの作品の中にはつねに曖昧、多義的なものがあるのです。そう思って見ると見えるし、そう思って見ないと見えない。そうとうに巧妙にいろんなものが隠された隠し絵ともいえます。私がルーヴルにいって見たときに、たしかに変で、石がやわらかいのです。だからこれはやっぱり胎盤だと思うわけです。レオナルドは胎盤をいっぱい描いていますからね。解剖図で。描こうと思えばすぐここに描けるわけです。」
大地と女性のつながり、生命が女性から女性へと伝えられていく、こういう一種の生命と女性と大地といったレオナルド特有の観念を表現しているとする。
(若桑みどり『イメージを読む――美術史入門』筑摩書房、1993年、103頁~104頁)
【ルーヴル美術館の「聖アンナと聖母子」の写真】(2004年5月筆者撮影)
【若桑みどり『イメージを読む』筑摩書房の新版はこちらから】
イメージを読む (ちくま学芸文庫)
ところで、青井伝氏(2005年当時、武蔵野美術大学特別講師で美術アナリスト)は、『ダ・ヴィンチ 謎のメッセージ』(廣済堂出版、2005年)の「第三章 逃亡者生活の始まりとその理由[わけ]」の「鏡文字の謎」(73頁~75頁)において、「何故、レオナルドは鏡文字を用いたのか」という問題について、触れている。
その説明として、「左利き説」「解読防止説」などがあり、いまだに定かでないとしながらも、これらの説に次のような疑問を呈している。
「左利き説」の場合、ペンのタッチが左利き特有のものだからという点に着目しているが、文字の特徴だけをもってして、かんたんに左利きと解釈してしまってよいものだろうかとする。
また、「解読防止説」の場合、飛行機をはじめ発明した機械について、レオナルドが設計したことを知られたくなかったからだという理由が挙げられるが、この説もおかしいという。というのは、自分の発明品を庇護者に提示しているのだから、あえて解読防止する必要はなかったと考えている。
(青井伝『ダ・ヴィンチ 謎のメッセージ』廣済堂出版、2005年、73頁~75頁)
【青井伝『ダ・ヴィンチ 謎のメッセージ』廣済堂出版はこちらから】
ダ・ヴィンチ謎のメッセージ
≪青井伝『ダ・ヴィンチ 謎のメッセージ』の注意点≫
青井伝氏のこの著作は、『モナ・リザ』解説に珍説・奇説が多い。たとえば、レオナルドが鏡文字を書いた真の目的は、“『モナリザ』(ママ)にあったとしたり(75頁)、『モナ・リザ』の微笑は微笑ではなかったと主張し、「モナリザの微笑」とわれわれが称してきたのは、大きな誤りであったという(239頁)。はたまた、「モナリザのゲマトリア(数秘学)」と鏡文字とむすびつけて、そこに「モナリザの予言」があるとしている(231頁~232頁)。
「モナ・リザ」の呼称について、誤解しないように付言しておく。
「モナ・リザ」(ルーヴル美術館)という肖像画には3つの呼び名がある。
イタリア語圏では、「ラ・ジョコンダ」、フランス語圏では「ラ・ジョコンド」、英語圏では「モナ・リザ」と呼ばれる。
「故マニフィーコ・ジュリアーノ・デ・メディチ閣下の依頼によりモデルによって描かれたフィレンツェのある婦人像」が「モナ・リザ」と呼ばれ始めるのは、ダ・ヴィンチの没後31年、1550年にヴァザーリによって書かれた『ルネサンス画人伝』あたりからである。
そのため、後の美術史家の中には、ルーヴル美術館にある「モナ・リザ」はダ・ヴィンチのいう「故マニフィーコ・ジュリアーノ・デ・メディチ閣下の依頼によりモデルによって描かれたフィレンツェのある婦人像」ではない、と唱える者もいる。また、「モナ・リザ」に関してダ・ヴィンチが描いたデッサンが一つも見あたらないことも美術史家を悩ませている。
(佐藤幸三『モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか』実業之日本社、2011年、92頁)
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[カラー版]モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか (じっぴコンパクト新書80)
鏡面文字の謎
ところで、「モナ・リザ」の謎と共に、鏡面文字の謎もまた、その動機について推理が繰り返されてきた。現存するレオナルドが記した手稿は5千枚ばかりである。しかし実際は2万枚以上あったといわれる。これらの膨大な数の手稿を、何故、判読しにくい鏡面文字でレオナルドは書いたのか。これも謎である。
先述したように、鏡面文字の謎は、単に左利きが原因であるとか、秘密保持の手段としての暗号化では片づけられない問題を含んでいることに気づく。つまり、この問題は、レオナルドの生い立ちや境遇と密接に関わることが、北川健次氏の著作を読むとわかる。
前置きが長くなったが、この点について、詳述しているのが、北川健次氏の次の著作である。
〇北川健次『モナ・リザミステリー 名画の謎を追う』新潮社、2004年
〇北川健次『絵画の迷宮 ダ・ヴィンチ、フェルメール、ピカソ、ダリ、デュシャン』新人物往来社、2012年
ここでは、後者の著作を参照にしながら、解説しておこう。
「モナ・リザ」のように図像解析学的な面での複雑さはないので、北川健次氏は、次の3点ばかりの推測に絞られるとする。
① 兵器などの様々な研究内容や考察の過程を知られたくないために、意図的に読みにくい鏡面文字で記したという説。
② 反キリスト教的な異端の内容があるために、隠蔽の目的で記したという説。
③ 彼自身が左利きであった事に原因があるとする説。
しかし、西岡文彦氏や若桑みどり氏が指摘する①と②は、推測としては根拠が薄いとみなす。その理由は、鏡に映しながら見ていけば、いとも簡単に内容が読めてしまうからである。
③に関しては、何らかの点で関連があるだろうが、これだけでは説得力不足である。左利きの人は5~8パーセントくらい存在するといわれるが、やはり鏡面文字は異例である。
だから、仮説の数は限られても、決め手を持たない。謎は宙吊りになっていた。
鏡面文字に関する1冊の本が出版された。高津道昭著『レオナルド=ダ=ヴィンチ 鏡面文字の謎』(新潮社、1990年)である。
その切り口は、今までの推測とは角度を異にしていて、なかなかに説得力のあるものである。その内容は次のようなものである。
レオナルドが反転した鏡面文字を書いた理由は、レオナルドが今日のオフセット印刷の原理を既に予見し、自分の本を作るための印刷原稿として、書いたと高津氏はみている。
左右逆向きの版にインクを盛れば、刷った時には反転して正文字が現れると考えている。
(レオナルドは印刷機のための設計図を描き、今日の写真製版の原理をも予見している)
この木で鏡面文字に関する500年間の謎は明らかになり決着がつけられたようにみえる。この本は版を重ね、さらには本国のイタリアにまで伝わって評価されたそうだ。
(北川健次『絵画の迷宮 ダ・ヴィンチ、フェルメール、ピカソ、ダリ、デュシャン』新人物往来社、2012年、15頁~16頁、21頁)
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レオナルド・ダ・ヴィンチ 鏡面文字の謎 (新潮選書)
しかし、北川氏は、鏡面文字に関する推測について、次のような疑問や矛盾があると指摘している。
① レオナルドが印刷技術に興味を持った時期と鏡面文字による手稿との関係
通称マドリッド手稿ⅠⅡ(1965年にマドリッドの王立図書館で発見された大量の手稿)から、印刷技術に興味を持った時期が推定されている。つまり、マドリッド手稿が書かれた年代は、1492年~1500年頃だから、レオナルドが40歳~48歳の頃とされる。
その手稿の中には、機械工学に関する素描が頻繁に見られ、印刷技術への集中的な関心と考案がその頃に成された事が窺える。
しかし、鏡面文字による手稿そのものの記述はそれ以前から始まっている。さらに遡れば、レオナルドが21歳の時に小さな紙に描いた最も古い素描の左上に、「1473年8月5日、雪の聖母マリアの日」と早くも鏡面文字で題名が記されている。
その事実は何を意味するのか?と、北川氏は疑問を呈している。
② 正確を期さねばならない人体解剖図において、レオナルドが手稿に描いた心臓の位置は向かって右側、すなわち私たちの側から左胸の正常な位置に描かれている。
それは何故なのか?と、やはり疑問をさしはさむ。
というのは、描かれた図をそのまま印刷した場合、心臓は逆の位置になってしまうはずである。
一方、高津氏は「内臓の位置に関するものの場合は、逆向きに描くのはさすがに気が退(ひ)けたので順向きにしたということだろう」(高津道昭『レオナルド=ダ=ヴィンチ 鏡面文字の謎』新潮社、1990年、198頁)と記している。
北川氏は、それではあまりにも根拠に乏しいのではないかと批判している。
③ レオナルドの死後、弟子のメルツィは師の残した手稿の中から『絵画論』の一部分を大変な苦労をして正文字に書き直した後に本として刊行している。
弟子メルツィが常にレオナルドの側にいて最も信頼が厚かった人物であるならば、師から弟子へと、その意図も伝わっていたはずではないだろうかと北川氏は想像している。つまり後に手稿をもって印刷の原版とするならば、何故メルツィは、あえてわざわざ正文字に書き改める必要があったのであろうかとする。
④ その手稿の内容には、あまりにも私的な内面(心情)の吐露や、弟子たちの衣類の購入リストや生活に要した出費代金、メモ程度の類も鏡面文字で書かれている。これらは、およそ出版されるにふさわしくない内容であろう。また、同ページの他の絵や文とは全く脈絡を異にした記述もある。それは何故なのか?と疑問が湧く。
⑤ もし出版を目的とした版下原稿であるならば、全て鏡面文字で記すはずだが、レオナルドの手稿には、拙いながらも正文字で書かれたものもいくつかある。
それは、印刷そして出版における整合性の面からみて、不自然なことではないだろうかと高津説を批判している。
そこで北川氏は、脳科学に関する著作を参照している。すると、美術書では、「謎」とされていた鏡面文字も、脳科学のコーナーでは多分に見られる「常識」であることがわかったようだ。
とくに、興味を引いた本は、マイケル・バーズリー著『左ききの本』(西山浅次郎訳、TBS出版会)だという。
たとえば、史上最も有名な鏡映文字(ママ)は、レオナルドの『ノート』であるが、もう一人実際にこれを書いたのはルイス・キャロルであると記す。
『鏡の中の世界』の中の次の有名な場面も、鏡映文字で書き上げた。
「まあ、これは鏡に映した本だわ!
これをもう一度鏡に映せば
字がまた元通りになるわ」――『鏡の中の世界』のアリス
対称(シンメトリー)の世界を偏愛したルイス・キャロルは、特殊な能力を誇示するように、鏡映文字を記したらしい。
ところで、鏡映文字(mirror-writing, フランス語ではécriture en miroir)という言葉は、正常と反対方向に書いてある手書きの文で、個々の字もまた逆になっている。それ故、鏡に映さなければ読むことができない。
このように鏡映文字は定義されている。
バートの見解では、鏡映文字を書く最もよくある年令は、5歳~9歳で、また左ききの子どもの方が多いとする。
北川氏は、他の脳科学の本を参照にして、次の点を指摘している。
すなわち、4、5歳前後を基点として、成長期のある段階において、私達の多くが鏡面文字(左右反転の文字)を書いている。しかし、親からの矯正や、周囲の環境によって修正され、次の成長段階において正文字へと移っていく。つまり、レオナルドにみられる鏡面文字の特異性は異例のことではない。
(私達の視覚の中枢神経と脳の知覚機能との間の情報交換および連結作用の能力が、幼児期には未発達のために実際に左右逆向きの像となって映り、それを見えるままに書いているらしい)
ここで、北川氏は、レオナルドの鏡面文字について疑問を向けている。
すなわち、レオナルドは何故、正文字へと進まず、幼児期の一段階に固執するかのように、鏡映文字を生涯に亘って書き続けたのかという疑問である。
この謎を解く鍵は、レオナルドの「幼年期」に絞られていくとみている。つまり、レオナルドが幼い頃から鏡面文字を書いていたと推察する根拠を、レオナルドと父のセル・ピエロという人物との間に残されている、ささやかな史実の中にあるとする。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、1452年4月15日深夜にフィレンツェ近郊、ヴィンチ村から2キロばかり離れたアンキアーノという土地の小さな平屋の中で生まれたとされる。
レオナルドは父セル・ピエロと、カテリーナという女性との間に生まれた庶子(祝福されざる私生児)であった。その幼年期は、悲惨にして哀れなものであったようだ。
代々、公証人の家柄という裕福な家系に生まれた父セル・ピエロは世俗的な野心家であった。レオナルドの誕生から数ケ月後に、フィレンツェの富豪アマドーリ家の娘アルビエーラという若い女性と結婚した。一方、レオナルドの母であったカテリーナは、レンガ職人アントーニオのもとに嫁いでいく。
最初レオナルドは母のもとで育てられていたが、4歳の時に父のもとに、無理やり連れ戻された。その後、母との関係は距離を置いた謎の中に霧化していく。
父が引き取った理由は自己本位なものであった。妻アルビエーラとの間に子供が出来ず、レオナルドを自分の後継者として育てるためであったという。しかし、父はほとんどヴィンチ村の自宅に居つかず、フィレンツェにある公証人としての事務所に一人で居住した。だから、レオナルドの幼年期は遊び相手もおらず、孤独なものであったようだ。
唯一かまってくれたのは、父の弟つまり叔父のフランチェスコという人物であった。それ以外はヴィンチ村の野にあって、唯一人で自然を友として遊ぶ日々であった。そのためであろうか、自然に対する好奇心と観察眼は自ずと育ち、後のレオナルドへと羽化していく。
少年レオナルドは早い時期から利発さを示し、特に算術と絵画においては際立った才能の片鱗を早くも表していた。しかし、父は意外にもレオナルドを後継者としての公証人にはせず、14歳の頃に画家ヴェロッキオの工房へ入門させる。
まるで見限ったかのように、安定したエリートコースである公証人の道から、父はレオナルドを外している。
北川氏は、この事実に注目し、「何故なのか?」と問題を提起している。
代々公証人の家柄であり、フィレンツェ政府の公証人まで務めた野心家の人物ならば、子を自らの後継者とするのが、普通であろう。しかし、そうはせず、画工という、未だ職人としての不安定な立場に甘んじなければいけない職業の方に息子を進ませた。
(このあたり、レオナルドの画才に驚いた父が、息子の才能を開花させるために、友人のヴェロッキオの門を叩いたという話がある。北川氏は、その説を採らず、それは後世という結果論から逆回ししたものとみなす)
息子が算術の計算に長けており、利発な面を幼い頃から発揮していたが、父セル・ピエロに、ある断念があったと想像している。
まず、私生児であった点が考えられる。ただ、ルネサンス期の社会史的な研究を当たってみると、公的な地位に私生児である者の台頭が数多く見受けられるそうだ。
北川氏は、むしろ公証人という職業の具体的な内容の中にあるとみている。公証人は、法律や個人の権利に関する事実を、公に証明するための書類を作成する仕事である。もし、レオナルドがその頃すでに鏡面文字しか書けず、それが既に矯正不可能なまでに身についてしまっていたとしたら、どうであろう。公証人として記さねばならない重要な書類は、無用物と化してしまう。その上、意固地なまでに自分の欲する事のみに専念する性分が、その頃すでに芽生えていたならば、父としても断念せざるをえなかったのではないかと想像している。
レオナルドは文字を覚え始めた当初から、鏡面文字しか書けなかった事を裏付けるものとして、1482年に、ミラノ公ルドヴィコ・イル・モーロに宛てた、正向きで書かれた有名な自薦状を挙げている。それは、筆跡鑑定によって、他人による代筆である事が立証されている。
何故、自薦状という最も重要な書類を代筆してもらう必要があったのか。
(この問いが、北川氏の推論を間接的に裏付けているという)
北川氏の推論は、次のようなものである。
鏡面文字は何ら謎ではなく、文字を書き始める当初において、誰にでも見られる現象である。しかし、それは親からの矯正や周囲の友人の変化によって次第に正文字へと移っていく。しかしそのデリケートな転機において、親身に接してくれる親や友人が全く不在という状況にあったならば、鏡面文字はそのまま固まっていくのではないかというのである。
(だから、隠蔽目的や印刷原稿とする鏡面文字に対する仮説を否定している)
その特異な例がレオナルド・ダ・ヴィンチではないかとする。
その文字の異形さの奥にレオナルドの不条理の体験があったと推測している。つまり、4歳まで母親の溺愛を一身に受けていた無垢な魂の揺籃の時期に、ある日突然、父親の身勝手な事情によって引き裂かれるように、連れてこられてしまったという体験である。それは魂の絶叫の姿であった。
(レオナルドの後の手稿にある「過剰な感受性が生涯私を苦しめた」という言葉とむすびつけて、想像している)
そして、レオナルドが手稿を綴った時間帯にまで、北川氏は想像をめぐらしている。それは、煩わしい多忙な仕事を終えて就寝につく前の僅かな時間帯がほとんどであったはずとみる。
(そのような貴重な時に、隠蔽をするために、あるいは後に出版をするという目的のために、一字、一字をわざわざ反対に置き換えて書いていくであろうかと再度、疑問を呈している。それは思考の展開の速度を遮るはずであるという)
ところで、北川氏は、かつてロンドンの大英博物館で、レオナルドのオリジナルの鏡面文字を実際に見たそうだ。
その鏡面文字は、崩しを入れた早い速度で書かれたものであり、充分に書き慣れたものであったという。つまり、速筆であった(この速筆であるという事が鏡面文字の謎を解くキーワードであるとする)。その速度感は、レオナルド(人類が生んだ最大の知的怪物)の思考の鋭い走りを如実に映したものであるとみている。
その速さに似た例を、同じ大英博物館で見たという。それはモーツァルトのオリジナル楽譜である。それは全く修正なく記された音符の揺るぎない走りであったようだ。そこには「天才」という稀人の脳髄の中を疾駆するデモニッシュなものの存在さえ感じられ、不気味さすら覚えたと北川氏は述べている。
レオナルドの場合、鏡面文字でしか書けなかった事、そして左利きであった事は、めまぐるしく移るその思考の走りを瞬時に定着していくには、結果論的にみて好都合であったと推察している。
(北川健次『絵画の迷宮 ダ・ヴィンチ、フェルメール、ピカソ、ダリ、デュシャン』新人物往来社、2012年、15頁~42頁)
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絵画の迷宮 (新人物往来社文庫)
北川健次『モナ・リザミステリー 名画の謎を追う』新潮社、2004年
【北川健次『モナ・リザミステリー 名画の謎を追う』新潮社はこちらから】
「モナ・リザ」ミステリー
レオナルドの手稿の謎めいた記述
レオナルドの手稿の中で最も異様で、謎めいているといわれる「原風景」についての記述がある。
それは、レオナルドと鳶にまつわる何やら意味ありげな独白である。次のようにある。
「このように鳶について克明に書き記すことは、私に定められた運命のように思われる。というのは、私の幼年期の最初の思い出によれば、私が揺り籠の中にいた時、一羽の鳶が私の所に飛んで来て、尾で私の口を開かせ、私の唇の内部を何度もその尾で打ったように思われたからである」
(斎藤泰弘著『レオナルド・ダ・ヴィンチの謎 天才の素顔』岩波書店)
この記述を実際の確かな記憶と見るか、現実を作り変えてみるフィクショナルなものとするかは意見が分かれる。出自を運命的なものにしようとするレオナルドの過度な自意識の傾きが、ここにあるといわれる。
フロイトは、手稿に登場する鳥の尾を、レオナルドを溺愛する母カテリーナであると分析している。
北川氏は、この記述には不穏の気配が付きまとうとみて、口唇愛の発芽の予感とする。手稿に出てくる鳶とある人物が重なるという。
その人物とは、レオナルドの父セル・ピエロの弟、フランチェスコである。この叔父については、今も残る、役所に提出された資産申告書の中に「21歳になっても何もせずに村にいる」と記されていた。
レオナルドが少年になり、やがて長じてからも二人の間には、深い交流があった。それはフランチェスコが死ぬまで続き、レオナルドに遺産全てを贈ろうとまで言い遺している。
叔父フランチェスコは、私生児として孤独な日々にあった少年レオナルドに、父とは対照的に出世欲もなく、気立てが優しかった。叔父は唯一人、親身になって接してくれた。
叔父はレオナルドを深い谷間に連れて行き、空翔ぶ鳥の翼の秘密について語り、野に咲く花のもとに導いて様々な自然の神秘へといざなった。そして、宿命のように、幼いレオナルドに関わったようだ(今一つの顔を内に秘めた男色家であったという)。
(北川健次『絵画の迷宮 ダ・ヴィンチ、フェルメール、ピカソ、ダリ、デュシャン』新人物往来社、2012年、152頁~155頁)
レオナルドの終末的なヴィジョン
レオナルドの絶筆となった「洗礼者ヨハネ」を不気味な絵の到達点と北川氏はみている。
洗礼者ヨハネ、愛人サライ、そしてダ・ヴィンチ自身の三重相から成る妖しいまでの肖像画であるとする。人類死滅後の闇を予言的に描いたメッセージがここに在るという。
この「洗礼者ヨハネ」には、歪みを呈したような異様な微笑が漂っている。その微笑みは、「モナ・リザ」で表したような美の理念から程遠い。むしろ、レオナルドの夜の相貌ともいえる、淀んだ澱のように暗くて淫蕩な倒錯の開示があるとみている。
そして、ヨハネは、異教的、両性具有的、さらには悪魔的な気配をさえ帯びている。そのうねる頭髪は、人類をついには破滅へと導くであろう大洪水の、「水」の暗喩であると解釈している。人類の破滅の予感を警告ではなく、冷笑をもって予言していたのではないかという。
レオナルドは、「水とは何か?」(Che cosa e acqua?)から始まる「水の断章」を書いている。
最初は湧き水のような静かな叙述から始まって、やがて、終末的な幻想(ヴィジョン)となる。
「ああ、すさまじい雷鳴とそこから発する稲妻に引き裂かれる暗い大気を通して、いかばかり恐ろしいとどろきが響き渡っていたことか。稲妻は破壊を求めて大気中を走り、行く手を阻むものを打ち砕いていた。ああ、闇の大気に響き渡る雨混じりの暴風や天空の雷鳴や狂暴な稲妻の大音響を遮ろうとして、いかに多くの人びとが両手で耳を塞ぐのを君は見たことであろうか。(中略)
人びとを満載した巨大なオークの太枝が、暴風の猛威によって空中を吹き飛ばされていくのが眺められた」
(斎藤泰弘著『レオナルド・ダ・ヴィンチの謎 天才の素顔』岩波書店)
こうした終末的な幻想となっている。そして最後に、「洗礼者ヨハネ」の背景に描かれた全くの光なき死の世界(底なしの無明の闇)へと化していくとする。
レオナルドが到達した最終ヴィジョンを具体的に表したものとして晩年に描いた夥しい数の「大洪水の光景」のデッサンがある。それらは、ウィンザー王立図書館に残っている。そこには、人類への警告ではなく、人類の愚かさが生んだ必然的な運命を嘲笑するかのように冷徹な視線が感じられると北川氏は述べている。
レオナルドが何故、晩年に至って、取り憑かれたように大洪水への幻視へと至ったのか。
ここで、北川氏は、脳科学でいわれる、扁桃体の発育不全と愛情の不毛な中で育った事との関係について言及している。
脳科学の分野では、「扁桃体の発育不全は、幼年期に体験した恐怖が、消えることのないフラッシュバック的な映像となって、その人を生涯襲い続ける」といわれている。
レオナルドも、母親カテリーナと別れ、愛情の不毛な中で育った。この事は、レオナルドが描いた「聖アンナと聖母子」の画中に結晶化したようだ。
つまり、アンキアーノで実際に起きたレオナルドの母子別離の悲劇は、画中で、マリアによって仔羊との間を引き裂かれるキリストに変容した姿となったと解釈されている。
そして実は大洪水の幻視もまた、レオナルド4歳のときの実際の体験に基づいている。
それは、次の事実から見てとれる。マキャヴェリ(ルネサンス期の政治思想家で歴史家。『君主論』は有名)は『フィレンツェ史』の中で記している。
「1456年8月に起きた、トスカーナ地方に空前絶後の記録的な被害をもたらした驚くべき竜巻が通過した」と。
間違いなく当時4歳のレオナルドはそれを目撃したはずである。後の大自然が孕む猛威に注視する視線がその時に萌芽したとみられている。
例えば、『レオナルド・ダ・ヴィンチの謎 天才の素顔』の著者斎藤泰弘氏は、レオナルドの「大洪水」の素描と、先に引用した「水の断章」の文章とを併せながら、「ここには、世界滅亡の絵巻物を広げながら、眼前に展開する恐怖の光景に忽然と見とれている老人の姿がある」としている。
そして、「そこには、恐ろしい竜巻に魅入られている4歳の子供の面影が二重写しになって見える」とも記している。
レオナルドのヴィジョンが有する迫真的なまでのリアリティーは、実際の体験を裏付けたものであると北川氏もみている。
そしてレオナルドは、無意識へと連なる自己の深層の部分に対しても、醒めた分析を絶やさず、深い洞察をしていることが窺える。
(北川健次『絵画の迷宮 ダ・ヴィンチ、フェルメール、ピカソ、ダリ、デュシャン』新人物往来社、2012年、155頁~159頁)
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絵画の迷宮 (新人物往来社文庫)