歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その5≫

2020-11-15 19:15:35 | 私のブック・レポート
≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その5≫
(2020年11月15日投稿)

【西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』はこちらから】

二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む



【はじめに】


 今回のブログでは、佐藤幸三『モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか』(実業之日本社、2011年)を主に参考にして、レオナルド・ダ・ヴィンチやその周りの人物(母カテリーナ、リザ・デル・ジョコンド、ジュリアーノ、マキャヴェリ)、そしてその絵画「モナ・リザ」について解説してみたい。
 あわせて、若桑みどり『薔薇のイコノロジー』(青土社、1984年])をもとに、パルミジァニーノの「薔薇の聖母」と「モナ・リザ」の関係についても付言しておきたい。




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・「モナ・リザ」を描き始めた教会
・「モナ・リザ」のモデル問題――解説補足
・母カテリーナについて
・レオナルドの絵と母性
・パルミジァニーノの「薔薇の聖母」と「モナ・リザ」
・リザ・デル・ジョコンドについて
・ダ・ヴィンチとジュリアーノとの出会い、そして「モナ・リザ」
・マキャヴェリとレオナルド
・レオナルドの思想と手記






「モナ・リザ」を描き始めた教会


フィレンツェは、紀元前1世紀の中頃、ローマの将軍ユリウス・カエサルに従ってガリア遠征に赴いた退役兵たちによって「花咲く平原」(フロレンティア)と呼ばれていた土地に建設された街である。
フィレンツェは、ダ・ヴィンチが生涯の3分の2を過ごしたところである。ダ・ヴィンチは、1452年4月15日、トスカーナ州の首都フィレンツェの西約27キロの地点にあるヴィンチ村で生まれた。
フィレンツェは、今日も15世紀そのままにルネサンスの息吹とたたずまいを伝え、ダ・ヴィンチの足跡を見出せる。第一フィレンツェ時代は、ダ・ヴィンチが美術の修業に励んだヴェロッキオ工房にいた時代である。第二フィレンツェ時代には、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の「教皇の間」で、「モナ・リザ」を描き始め、ヴェッキオ宮殿で「アンギアリの戦い」を描き、サンタ・マリア・ヌオヴァ病院で人体解剖をした。

さて、そのフィレンツェの中央駅は、サンタ・マリア・ノヴェッラ駅である。その駅前広場を挟んで正面に建っているのが、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会と修道院である。その修道院の2階に、数室からなる「教皇の間」がある。イモラの城塞から戻ったダ・ヴィンチが、第二フィレンツェ時代の51歳から54歳まで3年間住んだところである。ここで、「モナ・リザ」や「聖アンナと聖母子」に着手し、「アンギアリの戦い」のデッサンを描いた。
(佐藤幸三『モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか』実業之日本社、2011年、7頁、86頁~90頁)

【佐藤幸三『モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか』実業之日本社はこちらから】

[カラー版]モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか (じっぴコンパクト新書80)

「モナ・リザ」のモデル問題――解説補足


第二フィレンツェ時代に着手された「モナ・リザ」(ルーヴル美術館)という肖像画には3つの呼び名がある。
イタリア語圏では、「ラ・ジョコンダ」、フランス語圏では「ラ・ジョコンド」、英語圏では「モナ・リザ」と呼ぶ(以下、便宜上、「モナ・リザ」と呼ぶ)。

この肖像画のモデルについて、佐藤幸三氏は、次のように解説している。
晩年のダ・ヴィンチの様子と女性の肖像画について、アラゴン家のルイジ・ダラゴーナ枢機卿の秘書アントニオ・デ・ベアティスが書き残している。
1517年10月10日、ダラゴーナ枢機卿一行は、フランスのアンボワーズ城に滞在していたフランソワ1世を訪問した帰途、クルーの館(クロ・リュセの館)にダ・ヴィンチを訪ねた。
「ある町で閣下とわれわれ供の者はフィレンツェ人のレオナルド氏に会いにいった。70歳を超えた老人で、当代最高の画家である氏は、3点の絵を閣下の高覧に供した。
1点は、故マニフィーコ・ジュリアーノ・デ・メディチ閣下の依頼により、モデルによって描いたフィレンツェのある婦人の像。もう1点は、若い洗礼者ヨハネの像。そして3点目は、聖アンナの膝の上にいる聖母子像であり、いずれも完璧な出来栄えだった。しかし彼にはもうこのようにすぐれた作品を期待することができない。右手が麻痺して使えなくなっているからである」

このベアティスの記録によって、当時ダ・ヴィンチの右手が麻痺していたことがわかる。
また、菜食主義者だったダ・ヴィンチは相当老けて見えたらしい。ベアティスはダ・ヴィンチが70歳を超えていると書いているが、このときダ・ヴィンチは65歳であった。

その後、ダ・ヴィンチの没後31年、1550年に、ジョルジョ・ヴァザーリが『ルネサンス画人伝』を書く。その「モナ・リザ」の項には次のようにある。
「レオナルドはフランチェスコ・デル・ジョコンドのために、その妻、モナ・リーザの肖像画を描くことになった。そして4年以上も苦心を重ねた後、未完成のまま残した。この作品は現在フランスのフランソワ王の所蔵するところとなり、フォンテーヌブローにある。
 芸術がどれほどまで自然を模倣することができるかを知りたいと思う人があればこの肖像によって容易に理解することができるであろう。なぜなら、ここには精微きわまる筆で描きうるすべての細部が写されているからである。眼は生きているものに常に見られる、あの輝きと潤いをもっている。そして周囲には赤味を帯びた鉛色がつけられ、睫毛はまた繊細きわまりない感覚なくしては描きえないものである。
 眉毛は毛が肌から生じて、あるいは濃く、あるいは薄く、毛根によってさまざまに変化している様子が描かれているため、これ以上自然であることは不可能である。(中略)
 彼はまたこんな工夫もした。モナ・リーザがたいへん美しかったので、彼女の肖像を描いている間、弾き、歌い、かつ絶えず道化る者をそばにおいて、楽しい雰囲気をつくった。肖像画を描くとき、しばしば憂鬱な気分を絵に与えてしまうのを避けようとするためであった。レオナルドのこの作品には心地よい微笑があるが、そこからは人間的というより神的なものが見てとれる。そしてこれ以上生き生きとしたものはないほど見事なものである」
(ジョルジョ・ヴァザーリ著『ルネサンス画人伝』田中英道他訳、白水社より)

ヴァザーリは「モナ・リザ」を見たことがなかった。だから、この項を書くに当たって、この絵を見た人々、当時まだ生存していた神父や楽師たちから、いろいろと話を聞いたという。
(ただ、ヴァザーリは睫毛や眉毛について詳しく書いているが、「モナ・リザ」には睫毛や眉毛は描かれていない)

『ルネサンス画人伝』は好評を博し、1568年に第2版が出版されている。ヴァザーリは再版の折、ダ・ヴィンチの養子フランチェスコ・メルツィに話を聞くため、1566年、ミラノ郊外のヴァプリオ・ダッダ村に彼を訪ねている。
(1493年生まれのメルツィはこの年73歳だった。ヴァザーリによれば、「美しく上品な老人」で「(ダ・ヴィンチの)手稿のコレクションを『聖遺物のように』秘蔵している」と語っている[ロバート・ペイン著『レオナルド・ダ・ヴィンチ』鈴木主税訳、草思社より]。
ただ、どの資料を探しても二人の会話の記録は見当たらないようだ。)
ヴァザーリは、「故マニフィーコ・ジュリアーノ・デ・メディチ閣下の依頼により、モデルによって描かれたフィレンツェのある婦人像」は、フランスのフランソワ王の所蔵する「モナ・リザ」であるという結論に達した。
『ルネサンス画人伝』第2版では、ダ・ヴィンチ伝の内容が一部変更されたが、「モナ・リザ」の項は初版のままであるという。

ところで、前述したように、2008年1月14日、ドイツのハイデルベルク大学図書館は、ダ・ヴィンチの名画「モナ・リザ」のモデルはフィレンツェの豪商の妻であるとする証拠を発見したと発表した。
発見されたのは、古書の余白にフィレンツェ市の役人が書き込んだ1503年10月のメモである。その中に「ダ・ヴィンチは三つの絵画を制作中で、うち一つはリザ・デル・ジョコンドの肖像だ」と記されていた。
メモの時期も絵の制作時期と一致している。「モナ・リザ」のモデルをめぐっては、さまざまな説が飛び交っていたが、同図書館は、この発見によって、「すべての疑念を消し去ることができる」としている。
(佐藤幸三『モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか』実業之日本社、2011年、91頁~96頁)

【佐藤幸三『モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか』実業之日本社はこちらから】
[カラー版]モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか (じっぴコンパクト新書80)


もう少し学術的には、久保尋二氏が『レオナルド・ダ・ヴィンチ研究』(美術出版社、1972年)において、『モナ・リザ』のモデル問題と制作年代について、次のように述べている。
「これまで述べてきたところからみても、その制作年代は別として、ルーヴルの『モナ・リザ』のモデル問題に結論をだすことは極めてむずかしい。それについての従来のリザ説と代表的異論コスタンツァ説は、それぞれ一長一短をみせながら、その蓋然性はすでにみたように両者ともほぼ伯仲している。それならば、性急な結論をだすよりは、ルーヴルの『モナ・リザ』は、しばらくはまだモナ・リザのままでよろしかろう。一六世紀盛期ルネサンスのほとんど劈頭を飾るあの普遍的人格像は、もともと特定の人名を超越したところに本来の意義を有するからである。」
(久保尋二『レオナルド・ダ・ヴィンチ研究』美術出版社、1972年、249頁)

【久保尋二『レオナルド・ダ・ヴィンチ研究』美術出版社はこちらから】

レオナルド・ダ・ヴィンチ研究―その美術家像 (1972年)

母カテリーナについて


長尾重武氏は、『建築家レオナルド・ダ・ヴィンチ ルネッサンス期の理想都市像』(中公新書、1994年)において、「カテリーナ来る」と題して、レオナルドの生母カテリーナについて言及している。

レオナルドの手稿には、「1493年7月16日、カテリーナが来る」(フォースター手稿、88表)という1行がある。
このカテリーナはレオナルドの生みの親カテリーナのことではないかと推定する学者たちが多い。
レオナルドの出生の記録は、1931年にフィレンツェ古文書館から発見された。
レオナルドの祖父セル・アントニオの1452年の覚え書きには、次のように記されている。
「わたしくの孫、つまりわたくしの息子セル・ピエロの息子は4月15日土曜日、夜3時に生まれた」
リオナルドと名づけられたこの赤ん坊こそ、レオナルド・ダ・ヴィンチその人である。だが、そこに母親の名は見当たらないのである。

母親の名がはじめて出てくるのは、1457年の同じ祖父セル・アントニオの資産申告書「イル・カタスト」である。
祖父アントニオ(85歳)、祖母ルチーア(64歳)、父セル・ピエロ(30歳)、義母アルビエラ(21歳)、叔父フランチェスコ(22歳)とともに、「リオナルド、セル・ピエロとカテリーナ(現在アカッタブリーガ・ディ・ピエロ・デル・ヴァッカ・ダ・ヴィンチの妻)との間に生まれた庶子5歳」と記されている。

庶子レオナルドの絵画にあらわれる神秘的な女性たち、とくに『モナ・リザ』『聖アンナと聖母子』は、精神分析学者に、格好な主題を提供した。
フロイトは、著書『レオナルド・ダ・ヴィンチ 性心理学的研究』において、『モナ・リザ』こそ、レオナルドの母親のイメージであると判定した。そして生みの親と育ての親の両者を聖アンナと聖母子に重ねて解釈した。
また、トビに関する子ども時代の記憶も、精神分析、夢解釈にとっては、見逃すことのできない興味深い内容をもっているとする。
(レオナルドが庶子であったことをどう考えるのか。この点について、アルベティも庶子であったので、それほど強調する必要はないが、まったくこの事実が影を落とさなかったと考えるのは、当時の社会制度を無視することになると長尾氏はコメントしている)

別の手稿には、同じく1493年の11月のこととして、
「この日の半日はある女性のための仕事」(H手稿 106裏)
と、あれこれの記録にまぎれるように記されている。
これもカテリーナのためかもしれない。
また、1494年1月29日、衣料、装身具、そしてサライなどの記述のあとに、
「カテリーナ、10ソルド」(H2手稿 64裏)
という書き込みが2度繰り返されている。

ところで、フィレンツェで過ごしていた頃、レオナルドは生みの親カテリーナと行き来はできにくかったと長尾氏は想像している。
ここ、ミラノでは、フィレンツェのように周囲もうるさくはなく、異邦人のもとに、同じく異邦人の婦人が訪ねてきたとしても、とくに問題はなかったのであろうという。しだいに没落していったカテリーナの家に居づらくなった彼女がミラノのレオナルドを訪ねてくることは、ごく自然のことであったと考えている。
(レオナルドのミラノ行きの、もう一つの、しかし隠された理由が、こうした母と子の親密な生活を想定したものであったからということも、少しうがち過ぎだとしても、全く見当はずれなことではないかもしれないとする。長尾氏はそう記している)

ただ、年老いた母親カテリーナとの生活は長くはつづかなかった。
「カテリーナの埋葬のための支出。蠟3ポンド、27ソルド。棺、8ソルド。柩覆い、12ソルド。十字架の運搬と設置、4ソルド。遺体の運搬に8ソルド。司祭4名聖職者4名に20ソルド。鐘、書物、スポンジ、2ソルド。墓掘人夫に16ソルド。長老に8ソルド。許可証代として役人に1ソルド。計106ソルド。医者に5ソルド。砂糖およびローソク、12ソルド。計123ソルド」
(フォスター手稿Ⅱ 64)

ここに記された埋葬料はぎりぎりの最低の額であり、ほんの内輪で目立たない葬儀を済ませたとされている。
レオナルドの心中は察してあまりある。
おそらくそれは1494年のことであった。
カテリーナがレオナルドを生んだとき、25歳であったから、これが母親カテリーナであれば、この時67歳であった。
このような記述とともに、レオナルドの手記の中にカテリーナの名はもうあらわれることはない。
(長尾重武『建築家レオナルド・ダ・ヴィンチ ルネッサンス期の理想都市像』中公新書、1994年、174頁~177頁。なお、手稿の訳文は、裾分一弘『レオナルド・ダ・ヴィンチ 手稿による自伝』中央公論美術出版によったと注記している)

レオナルドの絵と母性


若桑みどり氏は、『薔薇のイコノロジー』(青土社、1984年[1989年版])においても、レオナルド・ダ・ヴィンチを論じている。
その「あとがき」にも述べているように、第Ⅲ章において、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画における植物の象徴的意味について考察している。レオナルドの着想において、植物がいかに重要な役割をはたしていたかについて述べている。

その中で、ルーヴルの「聖母子とアンナ」について解説している。
アンナの足の間にころがっている一つの石が、血のような肉塊の色をしていることを、アンドレ・シャステルが指摘した。これは胎盤と小さな胎児の断片だという(注30)。
(これを初めて言い出したのは、R.S.Sitterという)

その(注30)には、次の論文・著作を挙げている。
〇A.Chastel, Le Baroque et la Mort,
  in “Atti del Ⅲ, Congresso internazionle degli Studi Umanistici”, 1954.
〇『林達夫著作集』Ⅰ、平凡社、1971年、300頁。

ルーヴルでじかにこの絵を見ると、この説は一理あるが、重要なことは、この一事が「母胎の神秘」(レオナルドの主要関心事)と、大地母神の意味(この絵の基本的な思想)を裏付けしていることだと若桑氏は考えている。
生成・死・再生の動的自然観の基礎をなすものが、フィチーノの新プラトン主義であったそうだ。若桑氏は、レオナルドの手稿のすみずみまで、フィチーノとの関連について、さらに調査することが今後必要となると訴えている。ヘルメス主義は、中世スコラ哲学の固定した世界観を見直す契機を与えたとしている。
レオナルドがその手稿の中で、「おお、第一の動因(プリモ・モトーレ)よ!」と神に呼びかけていることに注目し、ヘルメス主義は流動的な新しい宇宙観へのモティーヴ・フォースであったと若桑氏は述べている。
レオナルドのヘルメス的な流動感は、「(ロウソクの)炎は自らをたえずやしないつつ、たえず死に、たえずよみがえる」と手稿に記していることからも、推察できるという。
フィチーノのヘルメス主義は、レオナルドの宇宙観、自然観に大きな影響を与えたようだ。つまり、レオナルドの理論とフィチーノのヘルメス主義との間には、多くのアナロジーがあるとされる。
(若桑みどり『薔薇のイコノロジー』青土社、1984年[1989年版]、65頁~66頁、363頁~364頁、379頁)

【若桑みどり『薔薇のイコノロジー』青土社の新版はこちらから】

薔薇のイコノロジー(新・新装版)

パルミジァニーノの「薔薇の聖母」と「モナ・リザ」


ドレスデン絵画館(ドイツ)にあるパルミジァニーノ(パルミジャニーノ1503~1540、表記法は若桑氏に従う)の「薔薇の聖母」は、16世紀に描かれた聖母子像の中で、もっとも印象深い絵の一つであるといわれる。
ペトラルカ、ボッカチオに始まるトスカーナ文芸の中で造り上げられた女性美の理想的な表現として、この「薔薇の聖母」と、同じ作者の「首の長い聖母」をとりあげられることがある。
二人の聖母には、次のような共通した特徴がある。
・異様に細長いプロポーション
・くねった姿態(いわゆる蛇状の[セルペンティナータ])
・長い白鳥のような首筋
・繊細に波打つ金髪
・卵型の顔立ち
・伏せた眼
・ごく細い指をもつ優美な手

ペトラルカは、美しい女性の頰や唇を薔薇に譬える詩を作った。その原典は、薔薇の美しさが美の女神ヴィーナスに結びつけられていたギリシア神話にあるとされる。
ただ、この異教的な香りの高い花は、初期キリスト教世界では初めは評判が悪かった。薔薇はもともと天国に咲いていたときには棘がなかったが、人類が原罪を犯したときに棘をもつに至ったと解釈されたようだ。そこから棘のない薔薇だけが原罪を免れた女つまり聖母マリアに献げられる純潔の象徴になった。
このように、異教世界とキリスト教世界の象徴の体系の中で、薔薇は、ヴィーナスと聖母の共通のアトリビュート(付属物)となった。だが、キリスト教世界では、薔薇は棘を抜かれ、さらに白い百合と共存しなければならなかった(百合もまた、その「しべ」を取られていた)。聖母は通常、この二つの花をアトリビュートとしていた。

9世紀にははやくも、「百合と薔薇の論争」という寓意的論争詩が出ており、その詩の中で≪汝、薔薇は赤い栄光を花輪として殉教者に与え、百合は長き上衣を着た多くの処女たちを飾りなさい≫と、二つの花はその持ち場をかためたようだ。つまり、その赤色によって生命と血とを意味する薔薇は、肉欲のヴィーナスのアトリビュートである前身を洗って、殉教者に仕えることになった。そして、ヘブライの世界では、赤いアネモネかチューリップに似た花である百合は、ヨーロッパでは、しべを抜かれて白い純潔の衣をまとうようになった。

ところで、ヴァザーリによると、「薔薇の聖母」は、パルミジァニーノがローマであの名高い「劫掠[サッコ](1527年)」にあってボローニャに逃げて来てから描いたとされる。
「マドンナの姿態はまさに形容しがたいもので、透き通った、ほとんど黄金いろにみえる黄いろの衣をつけて、まことにこの上ない優美をそなえている」と記している。
そして、この絵はもともとあの名高い人文主義者ピエトロ・アレティーノに注文されたものだったが、ちょうどその頃ボローニャに来ていた法王クレメンス7世に献ぜられたのだと記している。

この点、若桑氏は、ヴァザーリのエピソードの多くがそうであるように、この話は事実というよりは一種の解釈であるとコメントしている。そして異端審問的な17世紀になると、この絵はあまりに魅力的すぎるマリアの体などが、宗教画としては正統性を欠くものとされた。この点、この絵はよく生き残ったものだと若桑氏は感想をもらしている。

このマリアの曲がりくねった不自然で官能的な身ぶりについては、様々な説明がなされているそうだ。
クレメンス7世の宮廷には、ペトラルカやボッカチオの末流であるアーニョロ・フィオレンツォラなる人文学者が仕えて、「いとも軽妙なる優美さ」を女性の理想美としてうたい上げる。このフィオレンツォラの賞揚する女性美は、ヴァザーリやパルミジァニーノが属していたマニエリスムの美的趣味と全く一致したものであるという。
現代の美術史家(S.J.フリードバーグ)は、このマドンナの非キリスト教的特徴である著しい官能性を強調して、これがもともとその頃すでに知られていた「メディチ家のヴィーナス」という彫像から想を得たものであろうと推測している。古代の彫像をコピーしたとでもしなければ、説明がつかないという(注16)。
(注16)S.J.Freedberg, Parmigianino, 1950, Cambridge.
フリードバーグの解釈は、1960年代までの多くの学者たちと共通したものであった。

さて、ヴィーナスの彫像からマドンナが生まれたという解釈は、薔薇の花の同様の系譜との対応を示す点で興味深いが、パルミジァニーノの直接の影響源は、ボッティチェリとレオナルドであっただろうと若桑氏は主張している。
このマドンナのタイプは、「モナ・リザ」の系統を引いているとみている。その師匠であったコレッジォとともに、パルミジァニーノもまた、ニュアンスと半陰影と、金いろのやわらかい光をレオナルドから学んだ世代である。

さらに、マドンナの膝からすべり落ちそうなイエスは、今ではコピーでしか知られていないレオナルドの原画をもとにした聖母子によく似ているとする。さらにこの関係を強めているように見えるのは、レオナルド派のルイーニの「薔薇の生け垣の聖母」である。
(これはまるで逆版にしたようによく似ている。ただ、イエスが薔薇の花を植えてある壺の上に身を乗り出していることだけが違っているという)

(若桑みどり『薔薇のイコノロジー』青土社、1984年[1989年版]、8頁~16頁、360頁)
【若桑みどり『薔薇のイコノロジー』青土社の新版はこちらから】

薔薇のイコノロジー(新・新装版)

リザ・デル・ジョコンドについて


さて、リザ・デル・ジョコンドとは、どういう女性だったのか。佐藤幸三氏は次のように解説している。

1479年、フィレンツェのメディチ宮殿裏、ジノーリ通りに生まれた。名前をエリザベッタといい、リザはその愛称である。
父の名はアントニオ・マリーア・ノルド・ゲラルディーニ、母親の名は不明である。父アントニオは政治家で豪華王ロレンツォに属し、メディチ家を支えたが、政治活動のため家運が傾いた。
リザが17歳のとき、絹織物で財を成した36歳のフランチェスコ・デ・バルトロメオ・ディ・ザノービ・デル・ジョコンドのもとに、後添いとして嫁いだ。ジョコンドとの間に5子をもうけたという。
(早い話が、父アントニオは金欠で身動きが取れなくなったため、リザを法外な金額で売り渡したのだといわれている)

美術史家ブルーノ・モタンは、「モナ・リザは次男の誕生を記念して描かれたとみられ、制作年代も1503年頃に絞り込まれる」と指摘している。
リザは1542年7月15日に63歳で死亡している。墓は現在廃院となっているフィレンツェのサン・トルソラ修道院に埋葬された。
(佐藤幸三『モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか』実業之日本社、2011年、96頁~97頁)
【佐藤幸三『モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか』実業之日本社はこちらから】
[カラー版]モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか (じっぴコンパクト新書80)

ダ・ヴィンチとジュリアーノとの出会い、そして「モナ・リザ」


ダ・ヴィンチがこの絵を依頼した人物として名を挙げていた故人マニフィーコ・ジュリアーノ・デ・メディチ閣下とは、豪華王ロレンツォの三男である。
1479年、パッツィ家の陰謀事件の翌年に生まれている。
(つまり、リザもジュリアーノも、1479年生まれで、同い歳!)
パッツィ家の陰謀事件でロレンツォの弟ジュリアーノが暗殺されたため、弟を偲んで三男に同じ名を付けた。人文主義者で詩人のポリツィアーノを家庭教師として成長したため、温和な性格で、教養豊かな宮廷人として育った。父ロレンツォから一番可愛がられたという。

1494年のメディチ家追放のとき、ジュリアーノは15歳で、マントヴァに亡命する。そこも危なくなり、フェッラーラ公国に逃れる。
フェッラーラで一息ついていると、ウルビーノ公国のグイドバルド・モンテフェルトロ公から亡命受け入れの書状がジュリアーノのもとに届いた。グイドバルドの父フェデリーコは、傭兵隊長として長い間フィレンツェ共和国のために尽くした武人であった。
(裏を返せば、フェデリーコは傭兵隊長としてフィレンツェから莫大な報酬を得て豪華なウルビーノの宮殿を建設したといわれている)
そんな関係でジュリアーノをウルビーノ公国に受け入れたのである。
当時、ウルビーノ公国に仕えていた政治家で文筆家のバルダッサーレ・カスティリオーネは著書『宮廷人』を書き、ルネサンス的人間の理想像を描いた。その中で、完成された宮廷人の一人として、ジュリアーノ・デ・メディチの名を挙げている。

1502年6月、ウルビーノ公国はチェーザレ・ボルジアの教皇軍に占領される。
モンテフェルト公は悪性の痛風でベッドに臥せっていたがかろうじて脱出、しかしジュリアーノはじめ宮廷の人々は軟禁の身となってしまう。
7月のある日、23歳になっていたジュリアーノはチェーザレ・ボルジアに呼ばれた。部屋に入ると、そこにいたのはダ・ヴィンチであった。
翌年1503年、フィレンツェに戻ったダ・ヴィンチが、「モナ・リザ」を描き始めている。そうすると、このときジュリアーノから、ジュリアーノの記憶に残る幼なじみのリザを描いてくれと頼まれたのではないかと、佐藤幸三氏は推測している。
ジュリアーノとリザは同い歳で、幼い頃からいつもメディチ宮殿に近いサン・ロレンツォ教会横の小さな広場で遊んでいたという。リザはジュリアーノの初恋の女性だったのではないかと、佐藤氏はみている。

1504年、21歳の若きラファエッロが、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の「教皇の間」にダ・ヴィンチを訪ねた。そのときラファエッロは「モナ・リザ」をスケッチする(ルーヴル美術館蔵)。
それを見ると、次のことがわかる。
・ダ・ヴィンチは相当なスピードで、「モナ・リザ」を描いていたこと
・しかし、「モナ・リザ」の不思議な背景はまだ描かれていなかった
・ラファエッロがスケッチした「モナ・リザ」には、両端にはっきりと欄干の柱が描かれている

時が流れて、1513年、ヴァプリオ・ダッダ村に疎開していたダ・ヴィンチのもとに、ジュリアーノからヴァチカンへの招待状が届いた。この頃ジュリアーノは、兄教皇レオ10世を助け、教皇軍司令官に任命されていた。その年の秋、ダ・ヴィンチ一行はヴァプリオ・ダッダ村を後にヴァチカン市国に向かった。

ダ・ヴィンチがジュリアーノに呼ばれて、ヴァチカンに来た時、「モナ・リザ」の背景はまだ描かれていなかったか、または「三王礼拝」のように下塗りだけだったかもしれないと佐藤氏はみている。
そのためジュリアーノには「モナ・リザ」を見せたが、未完成であったので渡さなかったと推測している。
(佐藤幸三『モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか』実業之日本社、2011年、97頁~100頁、104頁、144頁)
【佐藤幸三『モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか』実業之日本社はこちらから】
[カラー版]モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか (じっぴコンパクト新書80)

また、多くの美術史家は、リザはダ・ヴィンチの心の奥の理想の女性であった、それゆえジュリアーノには渡さなかったのだという。ケネス・クラークもこう語っている。
「彼女は、彼(ダ・ヴィンチ)のヴィジョンにおける生得なものを具現化したに違いない。そうでなくては、彼が法王、王、公妃らからの依頼をこばんだ一方において、フィレンツェの名も知れない一市民の二度目の妻を描くのに、彼の最大の技倆をふるい、そして話によると、三年も費したという事実をどうして説明することができるであろうか」
(ケネス・クラーク(加茂儀一訳)『レオナルド・ダ・ヴィンチ』法政大学出版局、1974年、176頁)

【ケネス・クラーク(加茂儀一訳)『レオナルド・ダ・ヴィンチ』法政大学出版局はこちらから】

レオナルド・ダ・ヴィンチ―芸術家としての彼の発展の物語 (1974年) (叢書・ウニベルシタス)


マキャヴェリとレオナルド


マキャヴェリ(1469~1527)はフィレンツェ政府の官吏で、レオナルドと協力して、アルノ川の水路変更を試みたりしている。

マキャヴェリといえば、『君主論』を著したことで、よく知られている。詳しくは、ダイアン・ヘイルズ氏の著作紹介の際に詳述したいが、ここでは、その『君主論』について、簡単に記しておく。

池田廉氏が解説しているように、『君主論』の第15~23章では君主の資質について、論じている。
ここでは、為政者と民衆との力関係を、とくに人間心理の面から考察して、力量ある君主像について論じている。
従来の理想主義的な君主像をくつがえして、チェーザレ・ボルジアなど、同時代の非情なリアリストの為政者を高く評価している。
(マキャヴェリ(池田廉訳)『君主論』中公文庫、1975年[2002年版]、223頁)

チェーザレ・ボルジア(1475~1507)は、1502年にレオナルド・ダ・ヴィンチを軍事顧問として雇用したことでも知られる。
マキャヴェリは、「7章 他人の武力や運によって、手に入れた新君主国について」において、そのチェーザレ・ボルジアについて、次のように記している。

「さて、前述の二つの方法、力量によって君主になるか、それとも運によって君主になるかをめぐって、最近のわたしたちの記憶に生々しい、二つの実例を引用しておきたい。フランチェスコ・スフォルツァとチェーザレ・ボルジアの両人である。
フランチェスコのほうは、適切な手段と、彼自身のみごとな力量によって一私人からミラノ公になった。したがって、彼は手に入れるには幾多の苦難を乗りこえたが、維持するうえで取りたてて苦労をしなかった。いっぽう、世間でヴァレンティーノ公と呼ばれるチェーザレ・ボルジアは、父親の運に恵まれて国を獲得し、またその運に見放されて国を失った。ただし、ボルジアは、思慮があり手腕のある男としてとるべき策をことごとく使って、みずから力の限りをつくした。すなわち、他人の武力と運に恵まれて、ころがりこんだ領土にあって、自分の根をおろすために、やるべきことをやりつくした。」
(マキャヴェリ(池田廉訳)『君主論』中公文庫、1975年[2002年版]、41頁~42頁)

ここに出てくるフランチェスコ・スフォルツァ1世(1401~66)は、ミラノの領主フランチェスコ・マリーア・ヴィスコンティに仕えた傭兵隊長であった。領主の娘ビアンカ・マリーアと結婚し、領主の没後(1447年)、対ヴェネツィア戦争の総指揮官となったが、相手国と内通して、ついにミラノの君主におさまった(1450年)。
マキャヴェリは、同時代のもっとも力量のある君主として、チェーザレ・ボルジアと双璧と見ている。
一方、チェーザレ・ボルジア(1475~1507)は、教皇アレクサンデル6世の庶子である。1492年、ヴァレンシア大司教、翌年、枢機卿に選ばれたが、教皇の後押しで、ロマーニャ地方に教皇領を広げようとした。その際に、教皇と仏王ルイ12世の交渉で、ファランチノア伯爵領の領地を得て、そのためにヴァレンティーノ公と通称された。
1499~1501年にロマーニャ地方の大部分を征服したが1503年にロマーニャ地方の大部分を征服したが、1503年に後ろだての教皇が急死してしまう。そして新教皇ユリウ2世に烈しく敵意され、チェーザレ自身の国造りの夢は潰え去った。
(なお、「父親の運」とは、教皇を父にもった境遇をさす)
(マキャヴェリ(池田廉訳)『君主論』中公文庫、1975年[2002年版]、156頁、168頁)

【マキャヴェリ(池田廉訳)『君主論』中公文庫はこちらから】

君主論 - 新版 (中公文庫)

ダ・ヴィンチは、このチェーザレ・ボルジアの素描を描いている。
〇ダ・ヴィンチ「チェーザレ・ボルジアの素描」(トリノ、王宮図書館)
マジョーネの反乱のとき、イモラ(ローマの将軍カエサルが通ったエミリア街道沿いに開かれた街)の城塞で、チェーザレ・ボルジアとダ・ヴィンチが1ケ月半ほど共に過ごしたことがあった。そのとき、ダ・ヴィンチは反乱軍に囲まれ思案するチェーザレ・ボルジアの顔のデッサンを描いた。また、航空写真のように描いた有名なイモラ市街図(ウィンザー城王室図書館)を残している。
(佐藤幸三『モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか』実業之日本社、2011年、158頁~159頁)

レオナルドの思想と手記


レオナルドの思想や手記のことは、美術史の概説書でも言及されている。たとえば、
中山公男・中森義宗『美術史 西洋』(近藤出版社、1978年[1990年版])においては、
「彼が偉大な芸術家として畏敬されながら、その思想や知識の重要性が仲々認められなかったのは、実験の結果や思索の成果を記した手記の公刊が遅れた上、特異な左手書きや、意見が異教的であったことに原因がある。」
(中山公男・中森義宗『美術史 西洋』近藤出版社、1978年[1990年版]、145頁)

レオナルドの思想の重要性がなかなか認められなかった原因として
① 手記の公刊が遅れたこと
② 特異な左手書き
③ 意見が異教的であったことを挙げている。

美術史の概説書では、従来の肖像画とモナ・リザとの相違について、次のように述べている。
「従来の肖像は、いわば描かれた公文書で、事実の描写であった。しかし≪モナ・リザ≫にはそうしたモデルの身分・職業・性格を知らせる付属品や装飾品はない。両手をあらわに見せ、目や口辺にただよう表情によって親密さを示す方法はこののち一般にも使われるようになった(例、ラファエロ作≪マッダレーナ・ドニ≫。輪郭を柔らかくぼかす「スフマート」技法をもって、頭や腕の丸味をみせ、肉体的・精神的実在性を与えている。東洋画風の背景は左右不均整で神秘的雰囲気を画面にもたらす。)
(中山公男・中森義宗『美術史 西洋』近藤出版社、1978年[1990年版]、145頁~146頁)

つまり、次のようにまとめられる。
〇従来の肖像=描かれた公文書、事実の描写
〇≪モナ・リザ≫
・モデルの身分などを知らせる付属品はない。
・目や口辺にただよう表情によって親密さを示す。
・「スフマート」技法により、肉体的・精神的実在性を与えている。
・東洋画風の背景~左右不均整、神秘的雰囲気をもたらす。

【中山公男・中森義宗『美術史 西洋』近藤出版社はこちらから】

美術史 西洋


≪参考文献≫


西岡文彦『図説・詳解 絵画の読み方』宝島社、1992年[1997年版]
西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』河出書房新社、1994年
西岡文彦『二時間のゴッホ』河出書房新社、1995年
西岡文彦『二時間の印象派』河出書房新社、1996年
西岡文彦『モナ・リザの罠』講談社現代新書、2006年
西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社、2016年
下村寅太郎『モナ・リザ論考』岩波書店、1974年
久保尋二『レオナルド・ダ・ヴィンチ研究』美術出版社、1972年
ピーター・バーク(森田義之・柴野均訳)『イタリア・ルネサンスの文化と社会』岩波書店、1992年
セシル・スカイエレーズ(花岡敬造訳)『モナ・リザの真実――ルーヴル美術館公式コレクション』日本テレビ放送網株式会社、2005年
若桑みどり『イメージを読む――美術史入門』筑摩書房、1993年
若桑みどり『薔薇のイコノロジー』青土社、1984年[1989年版]
佐藤幸三『モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか』実業之日本社、2011年
ケネス・クラーク(加茂儀一訳)『レオナルド・ダ・ヴィンチ』法政大学出版局、1974年
高階秀爾『歴史のなかの女たち 名画に秘められたその生涯』文春文庫、1984年
長尾重武『建築家レオナルド・ダ・ヴィンチ ルネッサンス期の理想都市像』中公新書、1994年
北川健次『モナ・リザミステリー 名画の謎を追う』新潮社、2004年
北川健次『絵画の迷宮 ダ・ヴィンチ、フェルメール、ピカソ、ダリ、デュシャン』新人物往来社、2012年
青井伝『ダ・ヴィンチ 謎のメッセージ』廣済堂出版、2005年
ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳) 『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年
Donald Sassoon, Mona Lisa : The History of the World’s Most Famous Painting,
Haper Collins Publishers, 2002.
Dianne Hales, Mona Lisa :A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014.
中山公男・中森義宗『美術史 西洋』近藤出版社、1978年[1990年版]
マキャヴェリ(池田廉訳)『君主論』中公文庫、1975年[2002年版]