歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪書道の歴史概観 その13≫

2021-02-14 18:46:34 | 書道の歴史
≪書道の歴史概観 その13≫
(2021年2月14日投稿)




【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史


【はじめに】


 今回のブログも、日本の近代以降、とりわけ現代の書を考えてみたい。
 具体的には、三島由紀夫(1925-1970)、川端康成(1899-1972)、中村不折(1866-1943)、内藤湖南(1866―1934)、小林秀雄(1902-1983)の書について取り上げる。その他、星新一、大石順教、金澤翔子、青山杉雨、紫舟と書との関わりについても言及してみる。




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・三島由紀夫(1925-1970)の書について
・川端康成(1899-1972)の書について
・中村不折(1866-1943)と書
・内藤湖南(1866―1934)の書について
・小林秀雄(1902-1983)の書について
・星新一(1926-1997)と習字について
・大石順教(1888-1968)と口書きについて
・ダウン症の女流書家・金澤翔子について
・青山杉雨(1912-1993)という書家
・紫舟という書家







日本の書道の歴史 現代



三島由紀夫(1925-1970)の書について


三島由紀夫の書を、「温感の書」と石川九楊は評している。三島は、原稿や揮毫に楷書を多用した。行、草体の草稿の方が熟練していてよほどよいのに、原稿は生真面目に楷書で浄書した。揮毫も楷書の基本である起、送、収筆の三過折(いわゆるトン・スー・トン)を脱しようとはしなかった。
ところで、『金閣寺』の原稿は、烈しい筆致がところどころ見られるが、全体は、女性的と言ってよいほど、温かいやさしい顔立ちをしていると石川は評している。つまり、男性にありがちな職業的な歪みがなく、最も均整のとれた初唐代の楷書の基本に忠実であった。
三島にとって、書とは幼い日の懐しい習字体験の再現に他ならなかったであろうと石川はみている。三島は幼い日、母親の実家で、祖父の指導の下に快い書初めを強いられた。また、学校の習字の時間は、「昔流の、肱(ひじ)をきちんと立て、筆の頭に一銭銅貨をのせても落ちぬほど筆を垂直に保つてゐなければならぬといふ、固苦しい教へ方だから、退屈していろいろいたづらをした」と振り返っている。
その書の評価はまちまちである。三島の母は、「よくそんな下手な字を人様に上げられるわね」と眉を顰めて、三島の書を評したといわれる。毛筆に常時接してきた世代の遠慮会釈のない感想である。
一方、作家の野坂昭如(あきゆき)は、高く評価した。「三島さんの楷書、なかでも自らの姓名記す場合の筆致は、しごく鮮やかであって、書の原型といえるだろう」と記す。ただ、三島由紀夫の書を好む傾向は、書への素養を欠いた世代に多いと、石川は手厳しい。
ともあれ、周知のように、三島由紀夫は、1970年11月、陸上自衛隊市ケ谷駐屯地に乱入し、割腹自殺し、衝撃的な死を遂げた。ただ、先述したように、『金閣寺』の原稿は、女性的な温感の書で、どこにも割腹自決を予感させる雰囲気はないと石川は解説している。
(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、79頁~83頁)

【石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年はこちらから】

現代作家100人の字 (新潮文庫)

川端康成(1899-1972)の書について


川端康成は、その生家は北条泰時の末裔であるようだ。幼くして父母が病没し、3歳で祖父母に養われた。作家としては、周知のように、『伊豆の踊子』『雪国』を発表し、横光利一とともに新感覚派の代表作家となった。そして、昭和43年(1968)、ノーベル文学賞を受賞した。
その川端の書について、保田與重郎(やすだ よじゅうろう、1910-1981)は興味深いことを記している。保田は、楊守敬の来日、碑板法帖13000点の舶載に象徴される近代書の出発点を、「歪」「弊」として否定的に評価した。一方、保田は、川端康成の書を「今の日本の書家の一人として、これほどの書は書けない」と、文人の書として絶讃した。一字もおろそかにせず、心がこもり、張っている文字の動作は、川端の可憐な文学の底にあったものと同じであるという。しかもひきしまった文字は、自然に生動していて、一見して痩硬(そうこう)の如くで、しかもなつかしいものにあふれていると述べている。その書にも、川端文学の真髄がここにあるというような気がするとし、文と書の一致した文人書の理想像が描かれているという。
(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、206頁~209頁)


詩人でもあり、書道評論をも執筆した疋田寛吉(ひきた かんきち、1923-1998)も、川端康成の書について述べている。書に深く執心した作家は近代に少なくないが、生存中に自分の書の個展を催した作家は何人もいないそうだが、川端康成は死の前年、昭和46年(1971)に、日本橋の壺中居(こちゅうきょ)において個展を開いている。その時の図録に、川端は「今の私の書はまとめて人さまに見ていただく高さには達していない」とし、「五年、十年先の老後の書の道程として、力んでみたり、気負ってみたりのわざとさ」もある、いわば未完成の書を見てもらうのだということを述べている。
また、川端ぐらいおびただしい毛筆の手紙を書いた作家は、現代作家にはいないだろうといわれる。自身も「原稿はペンで書くので、原稿のほかの文字はペンで書くのがいやである。手紙など、ペンだと早くかたづくのはわかつてゐるけれども、ペンでは書く氣になれない」という。
川端は、1968年、ノーベル賞受賞の知らせのあった日に、思いがけないことに、幾つかの書を染筆した。それも川端の書業の頂点と見られる書、「秋の野に鈴鳴らしてゆく人見えず」や「秋空一鶴」を書き残している。当夜は千人ともいわれる来客で、川端家はごったがえしていたが、その寸暇を縫って揮毫したという。だからこその筆力の高揚と沈静との充実を疋田はその書に読み取っている。
自作原稿の書は、越後湯沢駅の文学碑をはじめ、『雪国』の冒頭を最も多く書いているそうだ。昭和46年(1971)に行われた生前の個展「川端康成書の個展」にも出された。その書は、ボテボテした墨の濃淡が今にも溶けてなくなりそうな雪質を偲ばせ、不思議にたどたどしい余韻を伝えている書であった。
また、「佛界易入、魔界難入」という書幅は、昭和43年(1968)7月、参議院選挙に立候補した今東光の応援演説のため京都に立ち寄った折り、「いつ死ぬかもわからぬから形見に」と保田與重郎に贈った書であるといわれる。この言葉は一休和尚の禅語である。川端はノーベル賞受賞記念講演でも、「意味はいろいろに読まれ、またむづかしく考へれば限りがないでせうが、<仏界入り易し>につづけて<魔界入り難し>と言い加へた、その禅の一休が私の胸に来ます」と触れている。また、未完の小説『たんぽぽ』でもその絵説きをしている。
(疋田寛吉『近代文人にみる書の素顔』二玄社、1995年、54頁~57頁)

【疋田寛吉『近代文人にみる書の素顔』二玄社はこちらから】


近代文人にみる書の素顔


中村不折(1866-1943)と書


中村不折(なかむらふせつ)は、洋画家で書道家であるが、昭和11年(1936)、自邸に書道博物館を開設したことで知られる。
その著書『六朝書道論』で、「美術家の最後の叫びは『自然に歸れ』の一語に在り、余は思ふ、書道に於て漢魏六朝碑に向つて所謂る自然の尋ぬべきもの多々なるを」と述べている。その結果、六朝風俳書ブームを全国に惹起させた。
中村不折は35歳(明治34年)で渡欧し、アカデミー・ジュリアンに学んだが、その外遊の旅行カバンの底に、「龍門二十品」「書譜」をしのばせ、小さな硯、筆墨をも携行していたといわれる。そして5年間、黙々と誰も訪れる者のない貧しいアパルトマンの夜の孤独を、一人習書にふけって、わずかに無聊の慰めとしたといわれている。
(疋田寛吉『近代文人にみる書の素顔』二玄社、1995年、172頁)


内藤湖南(1866―1934)の書について


明治以降の人の筆跡は、高村光太郎のいうところの「余計な努力」をしているのが多く、なかなか「あたり前と見える」ものは少ないと疋田寛吉は述べている。だから、良い楷書を書いた人は数えるほどしかおらず、書家の楷書は平板か、もしくは流行の六朝振りであると嘆いている。
その点、中国人にも通用する楷書で、安心して見ていられるのは、先ず内藤湖南と長尾雨山だろうという。
のちに東洋史学者となった内藤湖南は、日本の毛筆常用時代の書を仕込まれた、最後の少年の一人であったといわれる。明治14年(1881)、明治天皇東北巡幸の奉迎文を、小学校の在校生を代表して書いている。
湖南の書の手解きは、儒者である父内藤調一(十湾)によって、懇切な指導を受けた。その手本はすべて十湾が書き下ろした手本であり、素読の四書五経の教本に至るまで、みんな父の手書きの写本だったそうだ。湖南にとって、習書は、小手先の練習として習ったのではなく、実用の学問の基礎として培ったといえよう。
(疋田寛吉『近代文人にみる書の素顔』二玄社、1995年、106頁~107頁)。

小林秀雄(1902-1983)の書について


また、石川九楊は『現代作家100人の字』(新潮社、1998年、209頁~211頁)において、小林秀雄の書について、次のように評している。
「小林秀雄のペン書きの色紙には丁寧な心づかいがある。<小林秀雄>のサイン部も美しくくずされているが、軽率・乱雑なところがない。丹念な筆蹟だ。」と。
また小林秀雄が一時期、憑かれたように骨董に狂ったことはよく知られている。入手した良寛の「地震後作」の軸を、吉野秀雄に贋作だと指摘されて、即座に名刀・一文字助光で斬り捨てたこともある。
美術史は同時に贋作の歴史でもあるといわれる。王羲之の名品「蘭亭序」偽作説があり、良寛の書などは真贋が相当複雑に入り組んでいるという。本物より偽物の数の方が圧倒的に多いのが、良寛や富岡鉄斎だそうだ。美を専有し楽しむには、見識と学識と相応の覚悟が要求されると石川九楊は説いている。

【石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年はこちらから】

現代作家100人の字 (新潮文庫)


星新一(1926-1997)と習字について


SF作家に、星新一という人がいた。この作家は、かの森鷗外の妹、小金井喜美子(1876-1956、翻訳家で小説家、島根県生まれ)を祖母に持つ人であった。
その星新一には、習字にまつわる面白いエピソードが伝わっている。学生時代、ノイローゼに陥り、精神科医から「毎日かかさず、習字をしなさい」と命じられ、その指示に従って症状を克服したという。
心の中のむりなスピードが、習字によって、本来あるべきスピードに落とされ、いらいらしたものが消え、雑念が払われる作用があると、星新一は証言している。
この点について、書家の石川九楊は、次のように解説している。星新一の言う「いらいらしたものが消え、雑念が払われる」習字のスピードとは、単に緩慢な速度を指すだけではなく、毛筆と紙=対象との関係に生じる筆蝕(力・深度・速度・角度の全体)を指す。暗示からではなく、習字によってノイローゼ症状が癒されたとすれば、それは、鋒の遊びに生じる、運動(筆蝕)と出現する形(筆痕)との二重性、つまり筆蝕による慰撫の効用だろうというのである。
ところで、星新一の自作ショート・ショートが千篇を超えた記念に、「先閃泉」と書いている。三文字ともに「千」の音に懸けてあるが、このクレヨンかパステルで書かれた文字について、石川九楊は「癖のない、嫌味のない文字」と評している。
(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、102頁~104頁)。


大石順教(1888-1968)と口書きについて


弘法大師空海のエピソードに左右の手、左右の足、それに口を使って五本の筆を同時に操ったという「五筆和尚」の話がある。
また、享和2年(1802)、歌川豊国筆の美人画「瀬川路考(せがわろこう)[三代目菊之丞]の葛の葉狐」には、片腕で子を抱きながら、硯箱を持ち、口に筆をくわえる女性の書き姿がある。
恋しくば尋ね来てみよ和泉なる 信太(しのだ)の森のうらみ葛の葉
という歌の「恋し」の箇所を障子に口書きしている。
このように、口で書くということで言えば、伝説や絵だけの世界だけのことではなく、大石順教という女性が、現実にも存在した。
明治21年(1888)、大阪道頓堀で生まれ、12歳の頃、芸妓となったが、17歳の時、養父が狂乱し、斬殺事件を起こした際に、巻き添えとなり、両腕を失ってしまう。その後数奇な運命のもと出家し、尼となり、口で筆をとり、絵画や書にはげみ、書を驚くほど細かな文字で美しく書いたという。
その気概と努力には敬服に値する。手が不自由になったから字が書けないなどと泣き言をいうのではなく、手で書けなければ足で書く、足で書けなければ口で書くというところまで、「書く」という行為は人間の大事な営みである。人間の営みと努力の可能性について考える際に、示唆的な話であろう。
(石川九楊『書と日本人』新潮文庫、2007年、150頁~152頁)

【石川九楊『書と日本人』新潮文庫はこちらから】

書と日本人 (新潮文庫)


ダウン症の女流書家・金澤翔子について


金澤翔子は1985年6月、母親泰子の42歳で授かった子であったが、誕生後、すぐにダウン症と診断される。娘の翔子が1000人に1人と言われているダウン症と母親の泰子に正式に伝えられたのは、出産後、約2ヶ月が経った頃であった。一方、父親は、翔子が生まれる際に、仮死状態で敗血症を起こしていたため、生まれてきた子はダウン症だから、交換輸血をしてまで助けるのはどうだろうかと、医師から冷静に説明されたそうだ。父親はクリスチャンで、「主よ、あなたの挑戦を受け入れます」と誓い、自ら交換輸血をして、我が子の命を助けた(その父親は、翔子が15歳のとき心臓発作で突然亡くなる)。父親から母親に娘がダウン症であることを告げると、母親は絶望感を味わい、3年間は辛い思いで、涙を流しながら娘を育てて、子どもを道連れに死のうかと悩んだという。
(金澤泰子・金澤翔子『愛にはじまる―ダウン症の女流書家と母の20年』ビジネス社、2006年、6頁~8頁、10頁~11頁)

ところで母親の金澤泰子(1943年生まれで、明治大学政治経済学部卒業)は1990年、東京・大田区に「久が原書道教室」を開設し、翔子は5歳で、母親に師事し、書道を始める。
翔子が10歳の小学4年の時、難しい漢字ばかりの272文字(経題を含む)の『般若心経』を涙を流しながらも、ひたすら書き続けた。涙の跡が残るこの時の書は、「涙の般若心経」として知られている。複雑な漢字を楷書で繰り返し書いたこの経験が、技術的なベースにもなったと母親はみている。歌人の馬場あき子は、翔子が10歳で書いた『般若心経』や『観音経』のひしひしとした文字並びから、幼くしてすでに誠実な持続の意志の深さを感じ取っている。また馬場は、翔子の20歳の成人に達したのを記念して催された初の個展を鑑賞して、強く心打たれた。銀座書廊の入口を入るとすぐ正面に飾られていた「如是我聞」の大字四文字に、鮮やかな意志と力と、空の広さを得て躍る虚心坦懐の純粋さを感じた。
翔子の書は、2012年のNHK大河ドラマ「平清盛」の題字も話題となった。
翔子は、ダウン症のため、競争や優劣比較とは無縁の世界を生き、優しい無垢な魂を奇跡的に保ち、それが書に反映され、見る人の心に響くのではないかと母親はみている。
書家の柳田泰雲・泰山に師事した母親の泰子は娘の翔子の書を「技術的にはそれほど優れてない」と冷静に見ているが、「人の心を揺さぶるエネルギーは、誰もかなわない」と言う。
「人に勝ちたいという競争心がないから、魂が世俗的なものにまみれておらず、うまく見せようという欲もなく、喜んでもらいたいという気持ちだけで、純度の高い魂が生み出す書だから、見る人を素直に感動させるのであろう」と、東京芸術大学評議員をも務める母親として分析している。
(金澤泰子・金澤翔子『愛にはじまる―ダウン症の女流書家と母の20年』ビジネス社、2006年、1頁~2頁、20頁、50頁~55頁、86頁~87頁)

【金澤泰子・金澤翔子『愛にはじまる―ダウン症の女流書家と母の20年』ビジネス社はこちらから】

愛にはじまる―ダウン症の女流書家と母の20年

青山杉雨(1912-1993)という書家


後述するように、大溪洗耳は青山杉雨を批判している。しかし、断っておかなければならないことは、大溪洗耳が批判する青山杉雨には『明清書道図説』(二玄社、1986年)というりっぱな仕事がある。
著者略歴によれば、青山杉雨は、明治45年(1912)に名古屋市に生まれた。西川寧に師事し、謙慎書道会理事長をへて、大東文化大学教授についた。また日展常務理事、日本芸術院会員になり、文部大臣賞、日本芸術院賞を受け、そして勲三等旭日中綬賞を受けた。

青山は、中国歴代の書を通観してみて、最も「うまい字」を書いたのは誰かと問われたら、宋代では米元章(米芾)、明代では王鐸、清代では趙之謙に躊躇なく指を屈すると答えている。青山杉雨は、明末のロマン派の中心的存在として、王鐸を捉えている。そして、
「王鐸の書は実にうまい。またいい素質にも恵まれている。そうでなければあの様に縦横に筆を駆け廻らせては紙面が破綻してしまう筈なのに、それにうまくけじめがつけれるのは、その豊かな資質の然らしむるところであると見ている。また実によく線が伸び且行きとどく。羲之書を連綿草で書いた作などを見ると、よくあれ丈逸気にまかせて情懐を発展させながら、停る部分ではちゃんとキマリがつけられるものだと感心させられる」と記している。
また、王鐸の書は「うまい字」であるが、しかし傅山の書は「いい字」であり、書におけるロマンチズムの精神を傅山は最高のレベルにまで高めたと結論している。生き方においても、王鐸が清王朝に再出仕して節度を非難されて、その名を埋没させたが、傅山は出仕を固辞し隠棲し、清名を後世にまで語りつがれた点も対蹠的であった。
(青山杉雨『明清書道図説』二玄社、1986年、16頁~20頁)

【青山杉雨『明清書道図説』二玄社はこちらから】

明清書道図説

紫舟という書家


紫舟という女流書家は、NHK大河ドラマの「龍馬伝」の題字、NHKの美術番組「美の壺」の題字でよく知られている。
「美の壺」は、風景や文物について、日本の伝統美を紹介する番組である。題字「美の壺」の「壺」という漢字を見ていると、華道で花を生ける壺がイメージできるし、題字「龍馬伝」の「馬」という漢字からは、逸る馬を思い浮かべる。それはフランスの宮廷画家ダヴィッド(1748-1825)が描いた「サン・ベルナール峠のボナパルト」に登場するような馬が想起される。もちろん、このアルプス越えは史実とは異なり、実際には馬ではなく、騾馬であったようだ。ともあれ、紫舟の書いた「馬」という漢字からは、逸る馬と、血気に逸り、勇み立つ龍馬のイメージが重なり合う。
紫舟『龍馬のことば』(朝日新聞出版、2010年)という本において、NHK大河ドラマ「龍馬伝」の題字を書くにあたり、紫舟は苦労したことを記している。つまり、龍馬への想いを一番伝えられる書体を見つけるために、龍馬に関する伝記・小説を読み、主演の福山雅治の音楽を何度も聴き尽くしたという。そして、その題字について、自ら、次のように記している。
龍馬さんの「若い志」と福山さんの繊細なシャープ感に焦点を合わせ、激動の時代を生きた龍馬さんの人生を書にしたいと思いました。「龍」には、龍馬さんと福山さんの背の高い風貌と福山さんのシャープな繊細さ、「馬」には、時代と格闘し天空までもを駆け抜けた龍馬さんの動きを、そして「伝」には北辰一刀流の免許皆伝でありながら人をあやめなかった龍馬さんの太刀筋を表現しました」とある。こうして、紫舟は天空を激しく駆け巡った龍馬の人生を書に託したのである。
紫舟という女性書家は、文字にイメージ表現や表情をつけ、情報としての文字に意思を吹き込んでいる。彼女は、2010年には、第5回手島右卿賞を受賞している。
(紫舟『龍馬のことば』朝日新聞出版、2010年、24頁~25頁、94頁~99頁)

 ところで、この題字の「馬」とは、対照的な字として「やじ馬」という書を書いている。この言葉は、慶応2年(1866)7月、木戸孝允(桂小五郎)あての書簡からの一節「どうぞ又やじ馬ハさしてく礼まいか」から、取り出している。紫舟自身、「こんな状況のなか(下関を長州対幕府の戦争がはじまり、長州が勝利した状況―筆者注―)、あえてやじ馬ということばを用いた気持ちを、今すぐにでも足をぐるぐる回して駆けつけたい動きで表現しました」と説明しているだけあって、「馬」という字の四つの点が、足跡のように表現されており、面白いが、その字がかもしだすイメージも品格も「龍馬伝」の「馬」の字よりも、劣る。
(紫舟、2010年、74頁~75頁)

龍馬は、伏見より江戸へ旅立つときに、「又あふと思ふ心をしるべにて 道なき世にも出づる旅かな」と、『詠草 四 和歌』に詠んだ。また会うことができる、その気持ちだけを頼りに、志をまっとうするべく道なき世へ旅立つと、語りかけている。
書家の紫舟は、この一首から「道」という字を選び、書にしている。「辶」が特色的で、途中、筆を一周させて、収筆へと向かっている。紫舟は、「自分自身の行くべき道へ進もうとする行動と、しかし後ろ髪を引かれる感情、その相反する気持ちを書にしました」と説明している。
(紫舟、2010年、54頁~55頁)

【紫舟『龍馬のことば』朝日新聞出版はこちらから】

龍馬のことば


≪書道の歴史概観 その12≫

2021-02-14 18:26:08 | 書道の歴史
≪書道の歴史概観 その12≫
(2021年2月14日投稿)




【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史


【はじめに】


 今回のブログからは、日本の近代以降の書を取り上げる。
 まず、石川九楊の日本書史の見方について紹介し、西郷隆盛、夏目漱石、正岡子規、会津八一の書について考えてみたい。




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・石川九楊の日本書史の見方について
・西郷隆盛の書について
・夏目漱石(1867-1916)の書について
・漱石・子規の書に対する石川九楊の評価
・漱石・子規の書に対する石川九楊の評価
・漱石と日展
・会津八一(1881-1956)と書の評
・会津の書と絵についてのエピソード







日本の書道の歴史 近代以降


石川九楊の日本書史の見方について


明治時代以降において、日本の芸術の近代化は、絵画・音楽と書では、その近代化のモデルが異なっていたと石川九楊は捉えている。
900~1800年代半ばまで、日本の書の基本スタイルは、三蹟のスタイル(和様)で変わらなかった。つまり、927年に小野道風の「屏風土代」という書が書かれたが、三蹟の一人藤原行成の「白氏詩巻」が典型的、代表的な三蹟の書であると石川はみなす。この作品は、ちょうど『源氏物語』が生まれた1000年過ぎぐらいの書である。この一般に和様とよぶスタイル(書体)の書が明治時代に入るまで、日本の書史の中央を歩んだ。江戸時代の御家(おいえ)流もその系譜上の書である。もと江戸時代の大判や小判の字は、御家流で書かれていた。
つまり、小野道風に始まり藤原行成で完璧になった三蹟のスタイル(和様)は、明治維新まで日本の書の中央にあった。特に江戸時代には徳川幕府御用達の御家流とよばれる公用の基本書体として、公文書のたぐいはこの書体で書かれていた。しかし明治時代に入り、書は一大変革をとげた。
(石川九楊『万葉仮名でよむ『万葉集』』岩波書店、2011年、149頁~151頁)

【石川九楊『万葉仮名でよむ『万葉集』』岩波書店はこちらから】

万葉仮名でよむ『万葉集』

それでは次に、明治時代以降、現代までの作家・書家などの書の歴史を作者別に見てゆきたい。

西郷隆盛の書について


西郷隆盛は、大久保利通、伊藤博文らと並んで、明治維新の立役者で、時代の英傑であった。明治の元勲のなかでも、西郷隆盛の書はことに人気が高いといわれる。
肉の豊かな堂堂とした書風は、腹の据わった偉丈夫を思わせ、躍動的で、振幅に富んでいる書が多いそうだ。西郷の書風は、その波乱万丈の生涯におのずと通じ、その人生を締めくくった悲劇的な最期が、折り重なっていると鈴木はみている。
また、書を良くした西郷には、扁額に「敬天愛人」なる墨跡がある。この扁額について、平山観月は、
「すこぶる豪快で英雄の風格を伝えて躍如たるものがある。すなわちこの風格こそは書美の内容をなすものなのである。題材と一般に呼ばれる敬天愛人の辞句は、けだし大西郷の座右の銘であったであろう。かれはこの信念のために生きかつ倒れたのである。」と記している。まさに「書は人なり」であって、西郷の遺墨には、その人間像を偲ばせる魅力がある。
(鈴木史楼『百人一書―日本の書と中国の書―』新潮選書、1995年[1996年版]、86頁~87頁。平山観月『書の芸術学』有朋堂、1965年[1973年版]、269頁)。

【鈴木史楼『百人一書―日本の書と中国の書―』新潮選書はこちらから】

百人一書―日本の書と中国の書 (新潮選書)

【平山観月『書の芸術学』有朋堂はこちらから】

書の芸術学 (1964年)

夏目漱石(1867-1916)の書について


鈴木史楼は『百人一書―日本の書と中国の書―』(新潮選書、1995年[1996年版])において、日本と中国の書を合計100書紹介している。書家だけの書とは限らず、作家、画家などの書も含まれる。
その中で、夏目漱石の「則天去私」という書もある。素人の目からみても、「うまい」と感心する。それもそのはずで、「近代の作家で、夏目漱石ほど書を熱心に習った文豪はいなかった」と鈴木史楼は解説している。そのことは、漱石の蔵書目録を見てもわかるそうだ。そこには、顔真卿、懐素、王羲之の法帖が並んでおり、それのみならず、石鼓文、礼器碑、孔子廟堂碑などの拓本を持っていた。
漱石の「則天去私」という書は、我流ではなく、習うべきものは習った上で、安心して筆を運んでいるが、そこから一歩でも先へ進もうという欲はなく、それゆえに、さほど印象に残るような顔が、書から浮かんでくることもないと鈴木は説明している。書の専門家から見ると、漱石は習ったものを踏まえて、いたって正直に書いているだけのもので、あまり面白い書とはいえないようだ。
それではなぜ漱石は書に趣味を持つようになったのであろうか。この点について、筆を運んでいると、面倒なことを考えずにすみ、小説を書いているときの自分を忘れることができたからであろうと鈴木は推測している。
漱石はその小説のなかで、人間のエゴイズムを描いた。『草枕』の私、『それから』の代助、『門』の宗助などの主人公に、エゴイズムと闘う苦悩を背負わせた。人間の私利私欲を、漱石は胃に痛みを覚えつつ執筆した。そうして、一作ごとに、漱石は人間の理想的な境地である「則天去私」の世界へ近づいていった。この書には、小説のような沈痛な表情は少しも見えない。小説では四苦八苦している大きな問題を、漱石は自分の書で事もなげに解決してしまったように思うと、鈴木は解説している。興味深い書の読み方・見方である。
(鈴木史楼『百人一書―日本の書と中国の書―』新潮選書、1995年[1996年版]、112頁~~113頁)

【鈴木史楼『百人一書―日本の書と中国の書―』新潮選書はこちらから】

百人一書―日本の書と中国の書 (新潮選書)


漱石の翰墨趣味はかなりもので、書にも深くのめりこんだ。先述したように、彼の書は我流ではなく、書聖と呼ばれる王羲之の書はもとより、習うべき書は習わなければ気がすまなかったものとみえて、書棚には歴代の名品を収めた法帖をきちんと並べていた。
漱石の「夜静庭寒」と「文質彬々(ぶんしつひんぴん)」という作品に関しては、構えたところがなく、うっとりと心のあるがまま筆を運んでいるといった書で、見るからに正直な書であると鈴木史楼は説明している。「文質彬々」とは、「文質彬彬として然る後に君子なり」という『論語』に出てくる言葉で、外見と内容が一つになって初めて君子だということである。漱石は、これを自らの力量に応じて、痛快に筆を運んでいる。
明治38年(1905)の『我輩は猫である』から始まって、大正5年(1916)の『明暗』に至るまで、漱石は体調さえよければ毎日ほとんど原稿用紙のなかで暮らしていた。小説のことで行き詰まると、疲れた頭を休めて気分を変えるために、書をかいた。漱石にとって書は彼の心をそのまま正直に映す鏡であったといわれる。晩年に近づくにつれて、以前にも増して書にのめりこみ、書の虜になった。かといって、そこにきて腕が一段と上がったというわけでもなさそうである。
ところで、夏目漱石には、友人の一人に正岡子規(1867-1902)がいた。二人は学生時代からの友人であった。夏目漱石のその「漱石」という雅号は、もともと子規が自分で使いたいと思って考えた雅号だった。それを漱石に請われて、子規は友人に譲り渡したという。
二人の“浅からぬ因縁”はまだほかにもあり、大学を卒業して2年後、漱石は彼の小説の舞台となった四国の松山中学に英語の教師として赴任したが、松山は子規の故郷であった。
それは、明治28年(1895)のことで、二人とも28歳であった。二人は漱石の松山在住時代に同じ屋根の下で50日ほど暮らした。漱石の下宿で静養していた子規のもとには、毎日のように俳句の仲間が訪ねてきたこともあり、句会に加わり、漱石も俳句を作り始めた。
句会の折に目にした子規の筆を漱石はどういう目で眺めていたかについて、鈴木史楼は想像している。この点については、漱石は子規の筆を見るたびに、なんとも言えない羨望を感じていたのではなかったかというのである。
子規の25歳のときの書である「若鮎の二手になりて上りけり」(「若鮎」という句)は、俳句に自信があるためか、漱石の筆に比べるとはるかに躍動的で、痛快な筆で、澄みきった線であると鈴木は解説している。鈴木はそこに子規の強い自我が現れているいるとみている。確かに子規の書はうまいと感じる。
そして漱石も、子規も、書では良寛の筆が抜きんでて絶妙だと見ていたそうだ。良寛の筆が漱石と子規の二人の書を“浅からぬ因縁”の糸で結んでいるという。
(鈴木史楼『書のたのしみかた』新潮選書、1997年[1998年版]、142頁~154頁)

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書のたのしみかた (新潮選書)

神田喜一郎も、「漱石の書」(1965年)と題した短いエッセイがある。
漱石は、書に対して深く関心をもち、また独自の見識をもっていたという。漱石は、玄人や専門書家の書を喜ばなかったようだ。というのは、習熟の結果から来た技法上の巧みさはあっても、それがあるために、かえって俗になると考えていたからである。
明治の知識人の多くは、漱石とは違って、専門書家の書を随喜した。例えば、巖谷一六、日下部鳴鶴、長三洲などである。しかし、そうした人の書は漱石の眼中にはなかった。わずかに心を惹かれたのは、中林梧竹の書にすぎなかった。専門書家の書より、池邊三山とか菅虎雄といった素人の書を愛した。また古人でも、当時にはほとんど一般には問題にもされていなかった良寛とか明月の書を愛した。
このように漱石が専門書家よりもむしろ素人の書を愛したのは、天巧を尊んだからであると神田喜一郎はみている。つまり天巧とは、高尚な人格から自然に生まれた、いわゆる工まざる巧みさのことであり、天衣無縫の妙といってもよい。ここに漱石の書に対するすぐれた見識があるという。
唐の柳公権は「心正しければ、筆正し」といった。いいかえれば、「書は人なり」ということになる。漱石自身の書においても、端的にこれが見られる。その書は、高雅であり、超脱であり、俗気などは微塵もないと神田は評している。
(神田喜一郎『墨林閒話』岩波書店、1977年[1978年版]、31頁~33頁)。

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墨林間話


漱石・子規の書に対する石川九楊の評価


石川九楊は、明治の文士の書として、高村光太郎と会津八一の書は特筆すべきとして注目するものの、夏目漱石、正岡子規の書に対する評価は厳しい。
次のように記している。
「しかしこれら森鷗外、夏目漱石、幸田露伴、正岡子規等の書に見るべきものはあまりなく、これらの文士への書の讃辞はたぶんにファンの贔屓(ひいき)の心理にあるように思われます。」と(石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、230頁~232頁)。
つまり、夏目漱石や正岡子規の書への讃辞はファンの贔屓の心理にあると石川はみている。

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書に通ず (新潮選書)


漱石と日展


日展の前身である文展を批判した夏目漱石は、「文展と藝術」において、次のように述べていることを、大溪は抜粋して擱筆している。
「文展の審査とか及落とかいふ言葉に重大な意味を持たせるのは必竟此本末を顚倒した癇違ひから起るのである。世間は知らない領分の事だから己を得ないとしても、藝術家自身が同じ癇違ひをして騒ぐなら、神聖な神輿(みこし)をことさらに山から擔ぎ下ろして、泥を塗りに町の中を引き摺るやうなものである。不見識は云はずとも知れ切つてゐる。極端な場合には其理知の程度さへ疑ひたくなる。」
「文展が今日の様に世間から騒がれ出したのは、當局者の勢力に因るのか、それとも審査員の威望に基づくのか、又は新聞紙の提灯持に歸着するのか、自分はまだ篤と其の邊を研究してゐないので何とも云ひかねるが、兎に角斯う八釜しい機關にして仕舞はれる以上は、藝術家も自家本來の立場を新たに考へ直して、文展に對する態度をしかと極める必要があるだらうと思ふ。」
「個性を發揮すべき藝術を批評するのに、自分の圏内に跼蹐して、同臭同氣のものばかり撰擇するといふ精神では審査などの出來る道理がない。」
(大溪洗耳『続・戦後日本の書をダメにした七人』日貿出版社、1985年、180頁~185頁)

このように漱石は文展の審査のあり方を根本的に批判していた。
会津八一も日展を戦後まもなく批判していた。
「然るに、昨年秋の日展に行きますと、何とも名状すべからざる字がある。成るべく人が判らないやうにしてゐる。履き古した草鞋に墨をつけて、屏風を撫でたやうな字がある」と、1950年の講演「書道の諸問題」(昭和25年3月18日)において批判している。
(会津八一『会津八一書論集』二玄社、1967年[1983年版]、126頁)

「何とも名状すべからざる字」とか「履き古した草鞋に墨をつけて、屏風を撫でたやうな字」と痛烈で皮肉な評言で、日展の書のあり方を非難している。会津は書道において明瞭でわかる字を書くことを何より主張していた
(会津、1967年[1983年版]、104頁~105頁参照)

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会津八一書論集 (1967年)

会津八一(1881-1956)と書の評価


鄭道昭と王羲之に対する会津八一の評価についていえば、会津は、北魏の書家である鄭道昭(?―516)が非常に好きであるという。王羲之の字がいいという人は鄭道昭の字を見てもさほど感服しないが、王羲之は少し暗すぎていかんというような考えの人が鄭道昭を見ると、非常に喜ぶそうだ。ここがいわば分かれ目であるとみる。つまり、南方と北方の趣味の差があらわれる。一言でいえば、王羲之の字は不明瞭で陰鬱であるという。文字に明瞭を求めた会津らしい言説である。王羲之の書を万人の手本とするのは、大なる誤った態度であると会津は信じていた。
会津が北方の鄭道昭の書が好きである理由として、「実にいい気持で、何か気のふさぐやうな時にそれを出して見てゐると、大変心気朗かになつてくる」点を挙げている。
(会津、1967年[1983年版]、24頁~25頁、64頁~65頁)

ついでに言えば、会津は中林梧竹(1827-1913)の書は好きだが、唐の欧陽詢の書を学び、端正で明快な書風である巻菱湖(1777-1843)の書は嫌いであるという。梧竹の字は「浮世ばなれのした字」で、竹箒で書いても味わいのある字だが、巻菱湖の字は、砂の上に書いても字にならないという。巻菱湖は字はうまいが、陰気な字で、どこか痛々しいというような感じがする。それに対して、梧竹の字は「何時も明るい大きい味はひが出て来る」という。
ただ、巻菱湖という人は日本一流の名家で、明治書道界の第一人者である日下部鳴鶴(1838-1922)などに影響を与えた。もっとも、その日下部鳴鶴が晩年のような字になったのは、中国から来た楊守敬の刺戟を受けて、日本風にかたまっていた頭を開いて、別天地をそこに展開し、中国の法帖を借りて手習したり、引き写したりしたのが、晩年大成する素因をなしたようだ。その結果、日下部の暗い字も明るくなってきたと会津はみている。
(会津、1967年[1983年版]、67頁~70頁)。


会津の書と絵についてのエピソード


書道の練磨のために、渦巻を内側から書いたり、外側から書いたりすることを会津は勧めている。こうして、いい線が書けるようにせよという。そうすれば、書道は無論のこと、絵も描けるようになるという。
そして、今日、画家の絵が軽薄であるのは、線を書くことを知らないからだと主張している。会津が鳩居堂で、絵を描いたのを出した時、帝室博物館の美術部長である溝口禎次郎がやって来て、次のような質問をした。会津の絵は実に不思議な絵である。溝口は美術学校にいた時から雪舟の画風を慕って、花木山水を描いてきたが、会津のような線はとても書けない。いつ絵を研究されたのかと問いかけた。
それに対して、会津は別に絵の稽古などしたことはないと答えた。線が書けないで画をかくの、字を書くのというのが、そもそも間違いであると諭し、会津の線かきの秘訣を教えたという。
(会津、1967年[1983年版]、39頁~41頁)。


≪書道の歴史概観 その11≫

2021-02-14 18:10:38 | 書道の歴史
≪書道の歴史概観 その11≫
(2021年2月14日投稿)




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中国書史


【はじめに】


  今回のブログでは、伝嵯峨天皇宸筆「李嶠百詠断簡」、「伊都内親王願文」といった書および小野道風の書について、考えてみる。あわせて、桜、仮名といった日本文化についても触れてみたい。




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・伝嵯峨天皇宸筆「李嶠百詠断簡」について
・「伊都内親王願文」について
・梅から桜へ
・仮名について
・小野道風と和様
・小野道風について






日本の書道の歴史


伝嵯峨天皇宸筆「李嶠百詠断簡」について


「李嶠百詠断簡」は、天皇の書か、それとも欧陽詢の書法を学んだ中国人の書かをめぐって議論がある。
唐の李嶠は、7世紀から8世紀の初めに政治家・詩人として活躍した人で、「李嶠百詠断簡」はその人の詠物詩を行・草で書写したものである。その書風は、奇峭遒勁(きしょうしゅうけい)、すこぶる精彩に富んだ名筆である。これは嵯峨天皇の書と伝えられているが、「光定戒牒(こうじょうかいちょう)」のような明証はない。しかし空海が嵯峨天皇に献じた中国書跡のうちに、欧陽詢の書が含まれていたといわれるので、その書法を学んだであろうと想像されている。
また一説には、欧陽詢その人の真跡とみる人もあるようだ。しかし欧陽詢は貞観15年(641)に没しており、一方、李嶠の没年は定かではないが、一説に開元2年(714)に年七十で没したともいわれている。この説に従うと、李嶠は欧陽詢の没後に生まれたことになるから、欧陽詢の真跡説は成り立たない。とすれば、欧陽詢の書をよく学んだ人の筆跡が、たまたま日本に渡って来たと考えられる。このようなわけで、天皇の書か、舶載品か、にわかに決めがたいと堀江は解説している。
(堀江知彦『名筆鑑賞入門 中国風の書―日本の名筆・その歴史と美の鑑賞法』知道出版、1991年、103頁~105頁)。

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中国風の書―日本の名筆・その歴史と美と鑑賞法 (名筆鑑賞入門)


「伊都内親王願文」について


空海、嵯峨天皇とともに、いわゆる三筆として称えられた橘逸勢には、その真跡となるものが一作も残っていない。ただし、「伊都内親王願文(いとないしんのうがんもん)」(天長10年[833]の紀年)は橘逸勢の筆として推定されてきた作である。それは四字句、六字句を基調とし、対語、対句によって整然と組み立てられたみごとな駢儷(べんれい)体の文章である。その駢儷体を基調とした「伊都内親王願文」の格調高い文体は、『文選』からの影響と受けたという。
ちなみに、『万葉集』の雑歌、相聞、挽歌を根幹とした分類と項目名も、『文選』から採ったものとされる。
ところで、日本の書跡史において「伊都内親王願文」はその書法において高度に技法を駆使した作品であり、その技法には品位があって、美しいと魚住は高く評価している。つまりその書法は、「筆のもつ機能をとことん駆使して書かれたもので、実にあざやかな筆さばきを展開している」というのである。中でも、とりわけ「母」と「提」の二字は出色のできばえで、まさに白眉の作であり、その絶妙の筆致は見る者をして心おどらせ爽快にさせると評し、絶賛している(但し、その一方で不確かな行書、草書のくずしも指摘している)(魚住和晃『「書」と漢字―和様生成の道程』講談社選書メチエ、1996年、192頁~210頁)。

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「書」と漢字 (講談社学術文庫)


梅から桜へ


三筆のひとりに、嵯峨天皇(786-842)がいたが、この天皇は、弘仁3年(812)に、神泉苑(しんせんえん)で現在の宮中花宴に続く観桜の花宴を開いた。そしてその皇子、仁明(にんみょう)天皇(810-850)は中国式の「右近の橘(たちばな)、左近の梅」を「右近の橘、左近の桜」に代えた。中国式の梅がうとましくなり、むしろ桜に親和性を抱くようになったからである。この背後に、中国への違和感の成立があった。それが三筆の書を生んだと書家の石川九楊はみている。そしてその違和感が仮名を育て、女手=平仮名の成立へと導いたと理解している。
(石川九楊『書と日本人』新潮文庫、2007年、59頁)

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書と日本人 (新潮文庫)

仮名について


現行の平仮名は、漢字のくずしとして生まれている。
伊呂波歌に「色は匂へど散りぬるを、わが世誰(たれ)ぞ常ならむ、有為(うゐ)の奥山けふ越えて、浅き夢見じ酔(ゑ)ひもせず」がある。その漢字を示せば、次のようになる。
以呂波仁保部止知利奴留遠、和加与太礼曽川祢奈良武、宇為乃於久也末計不己衣天、安左幾由女美之恵比毛世寸旡 
(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、57頁)

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現代作家100人の字 (新潮文庫)

平安時代の書には、漢字・男性・公的という意識に対して、かな・女性・私的という意識が強烈に対立していたといわれる。書に限らず、文学作品においても、こうした意識が働いていたことは、紀貫之(870頃~945頃)の『土佐日記』にしても、女性仮託の立場をとったりせねばならなかったことからもわかる(榊、1970年[1995年版]、158頁)。
仮名というのは、真名(まんな、漢字)の仮の名という意味である。平安時代の平仮名は、恋文用の文字とも「色好み」の文字ともいわれたものである。
たとえば、
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの 逢ふこともがな(和泉式部)
といった秀歌の中には、女性が男性への思いをはせる歌が多い。
仮名は、女性が男性に自らの意志を伝える手段として生まれたものであるから、情緒豊かで、気品が高くなければならないともいわれる。
そのため、仮名の書には、次のようなことが必要となるようだ。
①和墨で墨はなるべく淡く磨り、「墨づき」に意を配る必要がある。
②連綿といわれている字と字のつながりが、上手でないとうまくいかない。
③章法といって、天地左右、行間字間をあらかじめ頭に画いてから書くようにしなければならない。
④仮名は、側筆(そくひつ、筆を右へ倒す)で書くものであるし、筆は柳葉(りゅうよう)筆といって細身で穂の長いものを用いるようにする。
このような仮名の書法により、優雅典麗で気品が高く、落ちつきがあって、悠揚迫らざる風格の仮名の書がうまれるという(大日方・宮下、1987年、126頁~128頁)。
日本の文化の特徴を考えた場合、西欧やイスラム世界、インドとの違いは、東アジアの漢字・漢語・漢文・漢詩文明圏に属することが第一に挙げられる。
次いで、同じ東アジアの中国や朝鮮半島、越南(ベトナム地方)と異なるものがあるとすれば、女手=平仮名の誕生と、それによる和語・和文・和歌による文化的表現力の拡張が指摘できる。
日本文化史の特質は、漢語と和語、音と訓の二重複線性という点にあるといわれる
(石川九楊『書と日本人』新潮文庫、2007年、39頁~42頁)。

小野道風と和様


小野道風(896-966)は、藤原佐理(944-998)、藤原行成(972-1027)とともに、平安後期の三蹟と一般的に説明され、理解されている。空海(774-835)、嵯峨天皇(786-842)、橘逸勢(?-842)の平安前期の三筆がまったくの同世代で、しかも国家の中枢にあって直接かかわりあった。それに対して、三蹟はその活躍した時代に重なりをもたない。つまり三蹟は道風が生まれ、行成が没するまでの130年にわたるバトンタッチ的経過として捉えられる。
ともあれ、平安朝の書道は、三筆・三蹟を中心として華やかに展開していった。その中で、小野道風は和様の創始者あるいは完成者であると一般に理解されている。
和様書道という書法形成を、一個の人間の所為にしようとすること自体に、多少の無理はある。空海と小野道風を結ぶ時間的距離、つまり遣唐使が廃止されてから、道風が「智証大師賜号勅書」、「屏風土代」を書くまでの30年余りには多くの書跡が存在したことであろうが、残存するものが少ないという。そのために、和様書道の形成という大きな構造が、一個の超人の存在に仮託される結果となっているようだ。小野道風は、和様書道の形成という大きな潮流にあって、その代名詞となりうるまでの傑出した力量の持ち主であり、和様の創始者あるいは完成者と歴史的に捉えられている(ただし、小野道風自身はそのような考え方はなかったと魚住は言う)。
ところで、当時の人々は道風の書をどのように考えていたのだろうか。『源氏物語』絵合巻(えあわせのまき)に、
「手は道風なれば、今めかしうをかしげに、目にかがやくまでに見ゆ」とある。この表現に見られるように、道風の書は殿上人から斬新ではらはらさせるほどみごとなものとして迎えられていたことがわかる。
また、天徳3年(959)、「天徳三年八月十六日闘詩行事略記」には、
「又た木工頭(きのたくみのとう)の小野道風なる者は、能書の絶妙にして、羲之 再生し、仲将 独歩す。此の屏風を施し、彼の門額を書すに、処処 霊あらざる莫く、家家 珍とせざる莫きなり。仍つて一朝の面目為り、万古の遺美為り」とある。
「羲之 再生し、仲将 独歩す」とは、王羲之がよみがえり、仲将(韋誕の字で、三国魏で善書の誉れ高き人)が独歩しているという意味であるという。このように、道風は当時の名声をほしいままにしており、その書が競って求められ、それが誇りとされていたことがわかる。
ここで注目すべきは、道風が王羲之の再生であるとの見方がなされていることであると魚住は解説している。つまり、小野道風を和様の創始者もしくは完成者とする書道史的な位置づけと、「天徳三年八月十六日闘詩行事略記」に見る王羲之の再来としての認識はまったく相反する捉え方である。
そこで、魚住は、道風の書法をより現実的なものとして把握するために、道風の「智証大師賜号勅書」と、王羲之の書の字を集めた「集字聖教序」の同一文字を比較・検討している。
その結果、「智証大師賜号勅書」における「集字聖教序」との相違点として、5点を挙げている。
①とくに字形の下部の横画にそり身がつく。
②縦画の上部が右方に傾きやすい。
③字形の上部が狭い。
④字形の下部が次第に太くなる。
⑤転折箇所がすべて丸く節目がない。
(これらはいずれもが中国書法においては未熟として戒められるべき点であるそうだ)。
二者においてどうしてこのように運筆の相違が現れたのかという点に関して、魚住は、小野道風が指の働きを巧みに使って書いていることが大きく原因していると推察している。中国では書する場合、伝統的に指をあまり動かさない。丸い柔らかな動きも、手首を柔らかく回すこと(回腕という)で書きこなすという。そして中国書法では指の働きで書することを、骨力を失わしむものとして戒める伝統がある。
そもそも中国人と日本人とでは、筆の持ち方に大きな相違がある。日本人が指の働きやすいように持つのに対して、中国の持ち方はあえて指の働きを用いにくくしている。
このように考察した結果、小野道風の書は、形としては王羲之の書を模しながら、同時に中国書法の伝統から抜け出し、日本人色を強く打ち出したものであったと魚住は理解している。この柔らかで骨ばらないたっぷりとした肥筆の道風の書が、平安朝の殿上人にとっては新鮮に輝くものであり、その好みを大いに満足させるものであった。このようにして、王羲之は名人としての虚像と化し、和様で漢字を書くことが平安後期に定着していった。だから、日本の書芸術はこの小野道風に始まるといっても過言ではないと魚住は理解している。
(魚住和晃『「書」と漢字―和様生成の道程』講談社、1996年、221頁~259頁)
魚住の本は、日本書道の文化史であるとともに、書を通してみた日中文化交流の一端を叙述している良書であるといえよう。

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「書」と漢字 (講談社学術文庫)

小野道風について


小野道風は小野篁(たかむら)の孫にあたり、柳にとびつく蛙を見て発奮したという話の主人公である。
水のほとりにたれている柳の枝に、蛙が跳びついていた。蛙は何度も失敗していたが、とうとう目的を遂げた。それを見ていた名人道風は、芸とはつとめるものだと悟ったというものである。
『屏風土代』(928年)は、延長六年道風35歳の時、勅命を奉じて宮中の屏風を書いた時の下書きである。土代とは草稿の意である。
道風の書は、概して鷹揚でこってりして温雅であるといわれる。このような若書きにもすでに和様の趣が濃厚である。
また、日本人の筆で華麗な躍動感を見せている書として、鈴木史楼は道風の「玉泉帖」を第一に挙げている。この「玉泉帖」は龍が飛び、鳳が舞うようだとよく評される。
ところで、初唐の虞世南が道風であるとすれば、佐理はまさに褚遂良であるといわれる。褚遂良は運筆の際、紙を離れること三寸といわれているが、佐理もまたこれと同様すこぶる達筆である。「離洛帖(りらくじょう)」(991年)は、佐理48歳の時、長門の赤馬関から甥にあてた手紙であるが、奔放自在の書で、天馬空を行くの感があると評される。
ところで、13世紀、鎌倉時代に描かれた伝頼寿(生没年不詳)の「小野道風画像」がある。畳の上に巻紙を広げ、立てひざで、単鉤法で筆を持ち、今まさに筆をおろそうとしている画像である。その顔は、猿面のごとき顔の老人で、「柳に蛙図」で描かれた若い頃の道風のイメージとはかけ離れている。この点について、石川九楊は興味深い推測を述べている。すなわち、初唐代の楷書である「九成宮醴泉銘」(楷書の極則)の書き手、欧陽詢が醜男(ぶおとこ)であったという逸話をふまえて、道風も猿面の醜男に描いたのではないかというのである。
(鈴木史楼『百人一書―日本の書と中国の書―』新潮選書、1995年[1996年版]、22頁。石川九楊『書と日本人』新潮文庫、2007年、214頁。鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』日本習字普及協会、1996年[2010年版]、122頁~126頁)

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百人一書―日本の書と中国の書 (新潮選書)

【鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』日本習字普及協会はこちらから】

新説和漢書道史

三筆より三蹟の時代に入ると、その書内容は大分変わってくる。三筆の時代は唐から直接の影響が強く、知的に引き締まった書が愛好されたが、三蹟の時代に入ると、その緊張から開放され、情趣的な傾向が強くなってくる。
小野道風の「屏風土代」を、空海の「風信帖」と比較すると、転折の鋭さがほぐれ、曲線の転回がゆるやかになってきたのがわかる。つまり、「和臭」がでてきて、日本的自覚が発生してきた。この時代に平行して仮名書道が発達してきていて、艶美な表現が考案された。また当時の王朝的ムードもそのような書表現を求めた。この「屏風土代」という道風の作品は、漢字が日本的に処理されだした最初の記念として書道史的に重要な位置をもつものと考えられている。
(西川寧編『書道講座 第二巻 行書』二玄社、1971年[1980年版]、140頁)

【西川寧編『書道講座 第二巻 行書』二玄社はこちらから】

書道講座 第2巻 行書



≪書道の歴史概観 その10≫

2021-02-14 17:52:20 | 書道の歴史
≪書道の歴史概観 その10≫
(2021年2月14日投稿)




【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史


【はじめに】


 今回のブログでは、日本の書道の歴史について概説する。
 とりわけ、王羲之と『万葉集』との関係、石川九楊の『万葉集』論をまず取り上げる。そして、空海の書について解説してみたい。




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


<日本の書道の歴史>
・日本の書について
・王羲之と『万葉集』
・石川九楊の『万葉集』論
・空海は王羲之の書をいつどこで体得したか
・空海の「灌頂記」について
・飛白の書について
・空海の語学力について
・空海の書について
・大岡信の空海評








日本の書道の歴史


日本の書について


聖徳太子の「法華義疏」は、現存する日本最古の筆跡(肉筆)である。だから、「日本書道史はこの筆跡に始まる」ともいえる貴重な資料である。
この書のどの字にも「三過折の筆法」は見られない。「三過折の筆法」とは、たとえば横画
「一」を書くとき、まず起筆に力をこめてトンと打ち込み、それからゆっくり右へスーッと筆を運び、終筆にまた力をこめてトンと押えてとめるという書き方をいう。
それでは、筆法上、東晋時代の書跡である李柏の「書状案」(4世紀前半に執筆、1909年、本願寺第二次探検隊によって、新疆省ロプノル西北の地点で発見された)と同じであるとみなされている。「書状案」が書かれた年代については、羽田亨の東晋・咸和3~5年(328~30)説と、王国維の永和元年(345)の頃とする説がある。つまり、4世紀前半である。
この4世紀前半といえば、かの王羲之がおよそ20代から30代という年配にあたる。
王羲之といえば、その筆跡(真筆ではなく、精巧な写し)として、「喪乱帖」と「孔侍中帖」とが日本に残されている。この二帖は、李柏の書状と傾向としては軌を一つにしているという。「法華義疏」の筆法はこれらの書と同じく、中国では4世紀の前半に一般的なものであったと考えられている。
(堀江知彦『書道の歴史』至文堂、1966年[1981年版]、5頁~7頁、堀江知彦『名筆鑑賞入門 中国風の書―日本の名筆・その歴史と美の鑑賞法』知道出版、1991年、32頁~33頁)

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書道の歴史 (1963年) (日本歴史新書)

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中国風の書―日本の名筆・その歴史と美と鑑賞法 (名筆鑑賞入門)

ところで、正倉院の書において白眉となるのは、聖武天皇と光明皇后の書であるとされる。とりわけ、聖武天皇の「雑集」、光明皇后の「楽毅論」がそうである。
「楽毅論」とは三国時代の魏の夏侯玄(かこうげん)が著した文章で、戦国時代に燕につかえ、趙に転じた楽毅について論じたものである。「楽毅論」は、その文章内容もさることながら、王羲之が書した楷書の最高傑作として、位置づけられることで知られている。光明皇后の「楽毅論」も、この王羲之書の「楽毅論」に倣って書したものである。ただし、光明皇后がどのような王羲之書を参照していたかを特定するのは困難であるようだ。
聖武天皇にしても、光明皇后にしても、その書法には褚遂良の影響が認められると、魚住和晃は主張している。すなわち、用筆の根幹をなすものは、褚遂良の晩年の作「雁塔聖教序」に代表される書法であるという。初唐の褚遂良の晩年に完成した楷書は、「美人嬋娟(せんけん)として羅綺(らき)に任(た)えざるが若し」と形容されるといわれる。これは美人の身のこなしがあでやかで、うすものの絹の衣服にも思いをまかせないという意味である。この形容を最も顕著に示すのが、永徽4年(653)、57歳のときの「雁塔聖教序」である。(ただ、両者の書は褚遂良の書法の影響を示すものではあっても、両者の書法の認識は、体系においてはやはり王羲之理想に根ざすものであったと魚住はみているのだが)。ただし、聖武天皇は繊細に、光明皇后は剛健にとその捉え方には個性の相違が現れているとみる。
たとえば、聖武天皇の場合、起筆を強く打ち込み、次に一度筆先を軽く浮かせて送筆に転じ、収筆で改めてしっかりと筆を押さえている。それに対して、光明皇后の場合、筆力においては聖武天皇のそれをはるかにしのぐものである。その起筆の打ち込みが強く大きく、筆を遠くから運んで鋭く打ち込み、さらに時には逆方向から打ち込み、ねじり出すように筆を運ぶこともあるという。また転折では聖武天皇がやや力を抜いて軽く運ぶ傾向があるのに対して、光明皇后の場合はむしろ力を加えて、非常に強く筆を折り返すか、あるいは時には二段がまえで大きく転じていると解説している(魚住、1996年、122頁~136頁)。

ところで奈良時代には写経生は写経をするために、北魏書法の特別な訓練を行っていたそうだ。唐代では書法に対する理念がすっかり変り、北魏書法は影をひそめたが、日本ではまず朝鮮を経由して北魏書法が入り、その後も仏教の興隆によって写経という書造形としての分野形成がなされたといわれる。奈良時代には中国の経文を写す写経が国家をあげてなされ、写経は国家的識字運動であった。当時、経文は単なる宗教文書ではなく、世界最高水準の哲学書であったといえる。その書の水準は、大陸中央の写経と較べても、何等遜色がないほど高い水準にあり、整斉な表現であった。
(石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、154頁~156頁)

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書に通ず (新潮選書)

正倉院の書は王羲之という大きな概念の範疇のもとに、魏晋及び唐代書法を反映させ、同時に北魏書法が写経生によって盛んに展開された。
奈良時代は中国における楷書史の幾世紀分を一挙に同時進行させた、書法が華やかに多様化した時代でもあったと魚住は捉えている。正倉院は中国書法そのものを究明する立場からも、魅力溢れる宝庫である。
(魚住和晃『「書」と漢字―和様生成の道程』講談社選書メチエ、1996年、140頁~142頁)

先述したように、聖武天皇の妻である光明皇后は、強靭な筆蝕からなる「楽毅論」を臨書している。これは、王羲之の同文の書を改行状態もそのままに書き写したものである。
また、「法華説相銅板銘」と「金剛場陀羅尼経」の文字の書きぶりは、「九成宮醴泉銘」の書法を忠実に再現したような書きぶりで、欧陽詢の書に瓜二つである。

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「書」と漢字 (講談社学術文庫)


王羲之と『万葉集』


奈良時代とりわけ天平時代を中心とする熱心な写経による識字運動の結果、『日本書紀』は漢文、『古事記』では漢文のみならず、漢字による音写の書法で倭語(わご)を文字言語化することに成功した。そして『万葉集』ではいわゆる「万葉仮名(漢字)」で倭語の表記に成功した。
『万葉集』の成立は、日本の文化において重要な意味をもつ。『万葉集』は前提として中国に漢詩があり、その漢詩の表現をモデルとし、あるいはその延長線上に歌を書き上げてできたものであるといわれる。日本古代の国家を挙げての識字運動である写経が平仮名を生み、その発明によって中国からの文化的独立をはたしたと石川はみる。
しばしば書聖とよばれ、『万葉集』では「義(羲)之」または「大王」と書いて、「てし=手師」とまで呼ばれた王羲之だが、王羲之の肉筆というものはひとつも存在せず、すべてが双鉤塡墨や臨本、つまり複製である
(石川九楊『書とはどういう芸術か』中公新書、1994年、100頁。石川九楊『書と日本人』新潮文庫、2007年、8頁、42頁、47頁、50頁、228頁。石川九楊『万葉仮名でよむ『万葉集』』岩波書店、2011年、50頁~51頁、58頁~59頁。堀江知彦『書道の歴史』至文堂、1966年[1981年版]、15頁)。

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万葉仮名でよむ『万葉集』

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書と日本人 (新潮文庫)


石川九楊の『万葉集』論


石川は、書の問題から文字の問題、そして言葉の問題に行き当たり、さらに歴史のつながりにまで考察が及んでいる。
たとえば、漢字と万葉仮名・仮名との関係、また平仮名(女手)と『古今和歌集』『源氏物語』との関係について考えている。
とりわけ、万葉仮名と『万葉集』との関係をまとめたものとして、『万葉仮名でよむ『万葉集』』(岩波書店、2011年)という好著がある。万葉仮名の書記法から女手=平仮名の成立へといった歴史的過程に、日本語の新たな意味と文体と韻律の生成を追跡している
(石川、2011年、v頁~vi頁)。

石川は、650年を東アジアの歴史の画期、ターニング・ポイントと捉えている。650年といえば、書でいえば楷書の成立した時期に当たることは先述した。大体650年ぐらいは、日本語づくりの本格的なスタート点であるとし、万葉歌の始まりと同じ頃の時期である。663年の白村江の敗戦でもって、大陸・半島から独立し、“前日本”が国を建てざるを得なくなった時期に相当する。つまり律令国家を建てざるを得なくなったスタート時期が、650年頃だという。
この西暦650年は、東アジアを前史と後史とに区分できるほどの、大変な時代であったと理解している。東アジアの大転換は650年にあるとみる。
そして日本語がおおよその姿を見せたのが西暦900年頃であるとし、そのシンボルが『古今和歌集』の成立、すなわち女手(平仮名)の成立であるというのである。平仮名は900年頃に大体形を整え、1000年には完璧な姿を見せる。この頃、物語文学『源氏物語』が書かれた。650年から、女手が成立した900年に向かう日本語づくりの過程に位置するのが、漢字歌としての『万葉集』である。
(石川、2011年、16頁、26頁~30頁)

ところで、日本語の「てにをは」という助詞は使い方が難しい。とりわけ、「が」と「の」の区別や、「が」と「は」の区別は曖昧である。この「てにをは」は、日本語の元、原日本語の中にあったのではなく、漢字、漢語、漢文との衝突の中からでてきたのではないかという説もある。日本語において、「てにをは」が難しいのはそのゆえであろうと石川はみている。
万葉時代に使われた助詞の書き方としては、「て」=而、「に」=尓、「を」=乎、「は」=者・波、また、「の」=乃・之・能、「が」=我・之、「と」=与・等といった具合である
(石川、2011年、72頁~73頁、79頁)。

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万葉仮名でよむ『万葉集』


空海は王羲之の書をいつどこで体得したか


空海は王羲之の書をいつどこで体得したかという問題は興味深いが、この点、魚住は次のように推測している。
「しかし、空海がいったい、いつどこでかくまでに王羲之の書を学び体得しえたのかを考えると、まさしくそれは驚異的でしかない。弘仁年間に入って空海と嵯峨天皇との書を通じた交友がさかんになることから、あるいはこうしたやりとりの中で、嵯峨天皇の配慮により、空海に対して正倉院を経由した王羲之の諸帖を見る機会がしばしば与えられていたものであろうか。初唐の孫過庭が書した書譜は、王羲之の書法の正統性を鼓吹し、自らその書法の範を示さんとしたものであるが、中国において王羲之書法の真価を継承した唐代以前の書跡をきわめて稀少になってしまったいま、金剛般若経開題はまさしくその中国書道史の空白をうめる名品であることを私は疑わない」
(魚住和晃『「書」と漢字―和様生成の道程』講談社選書メチエ、1996年、183頁)


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「書」と漢字 (講談社学術文庫)

つまり、空海は弘仁年間(810~824)、嵯峨天皇との交友により、正倉院の王羲之の諸帖を見せてもらえるように取り計らってもらったのではないかと想像している。
王羲之と空海との関連でいえば、日本で空海が書聖と呼ばれる理由として、石川九楊は次の2点を挙げている。
①中国の書のうつし(写し、移し)
空海の「風信帖」は東アジアの行書体の古典である「集字聖教序」、つまり王羲之の書とそっくりである。また「金剛般若経開題残巻」は王羲之の尺牘(せきとく、手紙)の書法を忠実にふまえている。また「灌頂暦名」は顔真卿の書を思わせるところもあるという。
②「益田池碑銘」などに見られる雑体書の表記によって、楷書体を中心とする中国の書に対して異和を表現した点を挙げている。
(石川、2007年、204頁~206頁)

空海の「灌頂記」について


なお、内藤湖南は空海の「灌頂記」に顔真卿の書法を見出した。「灌頂記」とは、空海が高雄山寺において、弘仁三年十一月十五日に金剛界の、十二月十四日に胎蔵界の灌頂を与えるための、授与候補者の名前を列記した草稿である(ともに最澄を第一席に位置づけている)。
この「灌頂記」の書きぶりを、雄渾の筆致であると見、それを顔真卿の書法を踏まえたものであるとする考え方がある。その代表が、先の内藤湖南である。
しかし、魚住は、この「灌頂記」の書きぶりを、書法に頓着しない、乱暴な書き方であるとみて、この肉太で、豪胆な筆致を直ちに顔真卿と結びつけることは速断にすぎると言い、否定的である。湖南説は、あくまで印象的な感想を述べたにすぎないとし、後人があまりにも安直に受けとめたと批判している。
もし、「灌頂記」と顔真卿の「争座位帖」と結びつけるならば、空海が顔真卿の書簡の草稿を見ていたとしなければならないが、顔真卿三稿が刻され、世に知られるようになるのは、宋代に入ってからであるから、それは不可能であったとみる。また一留学僧にすぎなかった空海が、当時の生活の中でその機会を得ることは、とうていあり得なかったと想像している。
そして空海の書に対する考え方は、「勅賜屏風書了即献表」に表れたように、王羲之書法に傾倒した、唐代初期に盛行した書論に立脚したものであったと魚住は主張している。そして、「空海があえて中国書法の伝統を意図して書くならば、念頭にあるものは、王羲之以外にありえまい」と付言している
(魚住、1996年、183頁~187頁)。

飛白の書について


李家正文は、飛白の書について説明している。弘法大師の書の中に、妙に墨がかすれて、黒白が絣(かす)りのようになった飛白の書といわれるものがある。飛白とは、黒のなかに飛びとびに白いところがあることで、かすり書きという意味である。
この弘法大師の飛白の書は、木の筆をつくって、そのさきを細くして、篦(へら)のようにした筆で書かれたものといわれる。一般に木筆の多くは、橇(そり)の木で作られたと『入木抄』に記されている。
飛白の書の起源は、中国の漢代であるようだ。漢の霊帝が、都の門を修理したとき、蔡邕(さいよう)の門下の役工が、壁塗りの箒(ほうき)で字を書いた。心によろこびごとがあったものか、字が飛ぶように白くかすれていた。それで、漢の末、魏のはじめに宮閣に飛白の文字で題署することになった。欧陽詢は蕭侍中(しょうじちゅう)の飛白の濃淡をほめている。
ところで、唐の太宗は、貞観20年(646)山西省の太原に「晋祠銘」をつくったが、これには飛白の碑額がある。これは現存する最古の飛白の書である。これに続いて、則天武后は昇仙太子の額をまねたが、ところどころに鳥の形がはいっている。この鳥の絵を入れたものが、さらに宋の仁宗になると、その宮殿と題署する飛白書となって、花鳥や人馬も描かれている不思議なものに発展した
(李家正文『筆談墨史』朝日新聞社、1965年、58頁~62頁)。

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筆談墨史 (1965年)


空海の語学力について


空海の書について、魚住和晃は面白いことを記している。空海の書としては「風信帖」が有名であるが、この書のドラマ性の陰に隠れて、ややもすれば見過ごされがちな書として、「金剛般若経開題」を挙げている。これは、金剛般若経について空海がその内容を密教の立場から簡潔に要約したもので、「風信帖」が書かれた翌年、すなわち弘仁4年(813)の筆とするのが定説である。この書の特徴はすべてが草書で書かれていることである。その速い運筆から、魚住は、空海がこの漢文の文章を、まったく中国人と同じように、頭から中国音を口ずさむように書いていたのではないかと推測している。もし、日本語を漢文に書き改めようとしたものならば、語順を常に気にせねばならず、草稿をリズミカルに速書することはできなかったというのである。
元来、空海は中国語に堪能であったことが知られ、留学の際には空海の漢文の力量が804年に派遣された遣唐使節の中にあって抜群であった。そして、長安の青龍寺の恵果(えか)和尚から絶大な信頼を得て、密教の教えを受けた
(魚住、1996年、155頁~156頁、179頁~182頁)。

空海の書について


三筆の書風を通覧した場合、いずれも中国風にならっている点が共通している。中国風と一口には言っても、王羲之あり、欧陽詢あり、顔真卿ありで複雑多彩である。ことに、空海は異彩を放ち、独自の技法を駆使し、能書家として、その豊かな天分を発揮した。中国書風の支配した平安時代の初期100年間、もしも空海が出現しなかったとしたら、奈良時代以来の伝統をただ惰性的に受け継いだ退屈至極な時代でしかなかったと堀江はみている。(堀江知彦『書道の歴史』至文堂、1966年[1981年版]、37頁)

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書道の歴史 (1963年) (日本歴史新書)

ともあれ、空海は日本の王羲之と擬せられて、日本が誇る書道の第一人者である。嵯峨天皇とは特に書道学芸を通して深い交流があり、天皇の書風に空海の筆法を見ることができる。
また空海には、日本初の書論といわれる『性霊集(しょうりょうしゅう)』や『文鏡秘府論』といった名著がある。各書体を善くしたので「弘法筆を選ばず」の俗言があり、筆についての認識を誤る者もいるが、空海は『性霊集』に良筆の必要を説き、書体によって筆を選択すべきと述べ、自ら唐において習得した製筆法を以て日本の筆匠に筆を作らせたといわれる。
空海が入唐した時(入唐は804年、帰朝は806年)、中唐も国力が下降に向かった頃であったが、まだ顔真卿没後60年、初唐の貴族的清澄さも中唐の重厚な書風も吸収することができた。
(本田春玲『百万人の書道史―日本篇』日貿出版社、1987年、44頁)

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百万人の書道史〈日本篇〉

ところで榊莫山は、『莫山書話』(毎日新聞社、1994年)において、「空海と平安初期の書」(10頁~23頁)と題して、空海の「風信帖」について、面白いことを述べている。
先述したように、空海の名作「風信帖」は、最澄とやりとりした手紙の一つで、弘仁3年(812)ごろの3通を1巻にしたものである。
その最初におかれた9月11日付の手紙が、「風信雲書、天ヨリ翔臨ス…」とはじまるので、世に「風信帖」と呼ばれる。はなはだ耳ざわりのよい書の名品として名は高いが、榊莫山は「風信雲書(最澄の手紙のこと)が、天を翔んで、わたし(空海)のところにやってきました」とは、オーバーな表現であるという。
そして、この手紙はじつに最澄を意識した書風でかかれていると解説している。その時期、空海は手中の書風を、ひたすら顔真卿に望んでいたようだ。空海が長安にいたとき、詩人の韓愈は「王羲之の書は、スタイルばかり気にした書風で、ナンセンスである。ほんとうの書は、顔真卿の書である」とうそぶいていた。野心と野性にみちた空海は、この顔真卿の書風にとびついた。
空海は、長安の日々も、国へ帰ってからの日々も、筆をもって顔風の書を望みつづけた。強靭な意志を、豊満な書になみなみとたたえた顔真卿の書は、空海の性分にすっぽりとおさまるニュー・モードの書であった。
ところが、一方、最澄は、生涯、王羲之の書風につかりつづけた。その最澄に、手紙の返事をかく空海の想いは、いくらか複雑であったと榊はみる。「風信帖」は、最澄へのライバル意識から、王羲之ばりの字を書いたのだという。「風信帖」は、王羲之の痩せた引きしめの目立つ骨法を底においているが、ときおり、顔真卿が顔をだしているという。筆を運ぶ呼吸の緩急、曲線にあらわれた思わせぶりなうねりの表情など、顔真卿そっくりの字が、あちこちにでてくると分析している。<風>は王、<信>は顔というように、相反する書の美学が入り交って「風信帖」はかかれている。
世間的には、耳ざわりのよい「風信帖」ではあるが、榊にとっては、王、顔の共存が目ざわりだし、文意になんとなくな生臭さを感じて気ざわりであると述べている。
それでは、榊莫山にとって、空海の書の本領を発揮されているのは何か。それは、弘仁3年(812)の11月と12月に、高雄山寺で行われた金剛界と胎蔵界の灌頂を、空海から受けた人々の名をメモした「灌頂記」であるという。それは書に沈ませた空海の自我がきわだち、「風信帖」よりも、はるかに空海らしい書であるというのである。
この「灌頂記」は、はなやかで、遠目からの眺めがよく、花明(はなあかり)のような気分の書であるのに対して、最澄の書(例えば「久隔帖」)は、晩秋の風のような書で、ひんやりして、どことなく寂しげであると榊はみる。弘仁4年(813)、高弟の泰範にあてて出した手紙の「久隔帖」は、王羲之の書風そのままに、痩身典雅な書であるが、最澄の誠実さはみられるものの、どことなく寂しげな翳りを感じるという。
(榊莫山『莫山書話』毎日新聞社、1994年、12頁~18頁)

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新装版 莫山書話

大岡信の空海評


また詩人で評論家の大岡信(まこと)は空海の書について次のように評している。「実をいえば、空海の字というのは、いいのか悪いのか私にはさっぱり分らない」(『マドンナの巨眼』)。大岡は「書聖」と呼び慣わされている空海の書にもたじろがない。「神品」と銘打たれることもある「風信帖」は、普段着姿であり過ぎて「すばらしさ、見事さが、よくわからない」と印象を記す。通説に惑わされない、鋭い感受力を秘めた冷めた眼は、空海の書の特質をずばり見抜いていると石川九楊は述べている
(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、93頁)。

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現代作家100人の字 (新潮文庫)


≪書道の歴史概観 その9≫

2021-02-14 12:10:02 | 書道の歴史
≪書道の歴史概観 その9≫
(2021年2月14日投稿)
 



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中国書史


【はじめに】


 今回のブログでは、元代から清代の書について解説する。




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・元代の書について
・元代から明代へ
・清朝の康熙帝の書について







元代の書について


約90年間の元代は、書道の上では反省の時代と捉えられている。すなわち宋人が自由と個性とを尊重して粗放になったのは、古法を軽んじたからだという事実を認めるにいたり、晋唐の温雅整斉な書風が流行した。しかし、独創力にとぼしく、しかも規格は唐宋にも及ばず、「意余って筆足まらず」の時代ともいえる。
趙孟頫(ちょうもうふ、趙子昴1254-1322)は、その「行書千字文」がすぐれているとされる。王羲之を専心学んだ人の書だけにその形意を得ている。しかし、格調はそれほど高くないと評されるが、筆がよく暢達(ちょうだつ)して、特に形も整っているから実用書の手本として、この「行書千字文」はよいものとされる。趙子昴は、宋の太祖十一世の孫、孝宗の兄の五世の孫にあたる貴族である。しかし、宋元二朝の臣となったので、節義上から日本人には特に評判が悪く、藤田東湖は彼の書を手本とする時、机上におかなかったという。
ただし、明清の書家の多くは、趙子昴の追随者であるといわれる。
(鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』日本習字普及協会、1996年[2010年版]、72頁~73頁。伏見冲敬『書の歴史 中国篇』二玄社、1960年[2003年版]、158頁)

【鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』日本習字普及協会はこちらから】

新説和漢書道史

【伏見冲敬『書の歴史 中国篇』二玄社はこちらから】

書の歴史 中国篇

東京国立博物館には、趙子昴の「蘭亭十三跋(らんていじゅうさんばつ)」がある。本帖について、次のようなことが伝えられている。
王羲之から10世紀を隔てた至大3年(1310)の9月、趙子昴は、皇太子(後の仁宗)のお召しにより、夫人を同伴して郷里の呉興(浙江省)から大都(北京)へと月余の旅に出発した。
その途次、独孤(どっこ)僧から「定武蘭亭帖」の佳本をゆずりうけた。そのすばらしさにうたれ、喜びのあまり、趙子昴は日々蓬窓の下にひろげ、9月5日から10月7日までの30余日の間に13回の跋を重ねた。これが世に喧伝されている「蘭亭十三跋」のゆえんである。その第十一跋の後に「蘭亭序」の全文を臨書しているが、その一部分が東京国立博物館にある。本帖は、清の乾隆年間に譚組綬(たんそじゅ)が愛蔵していたが、彼の没後火災にあい、譚の門人英和が断片を集めて帖装をほどこした。
趙子昴は、王羲之の書の正統をまもろうとした元朝第一の能筆で、その書は遒麗(しゅうれい)な美と整粛な気分とを備え、後世に大きな影響を及ぼした。
(上條信山『現代書道全書 第二巻 行書・草書』小学館、1970年[1971年版]、4頁)

【上條信山『現代書道全書 第二巻 行書・草書』小学館はこちらから】


現代書道全書 第2巻 改訂新版 行書・草書


元代から明代へ


元代後半期の書の世界には、放縦な主観主義と元の趙子昴風の典雅な格調美とがはげしく対立していた。その対立を総合統一したのが、明代初期の傾向であった。この傾向は鮮烈な精神性を失う結果となったが、明代の書の方向を一応決定し、文徴明(1470-1559)の書は、その頂点を示している。姿はあくまで理知的な端正さを保ち、平明さに終始しており、したがって観念的・散文的という無感動を露呈することになると堀江は評している。この文徴明の様式は、日本の江戸時代の唐様の世界に、追随者を生んだ
(堀江知彦『名筆鑑賞入門 中国風の書―日本の名筆・その歴史と美の鑑賞法』知道出版、1991年、134頁~135頁)

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中国風の書―日本の名筆・その歴史と美と鑑賞法 (名筆鑑賞入門)


清朝の康熙帝の書について


英主康熙帝は、清朝300年の基礎を築き、在位は1661~1722年で、中国歴代皇帝で最も長く在位した。中国歴代皇帝の中で大帝という呼称を与えうるとしたら、漢の武帝、唐の太宗、そして清朝の康熙帝であろうといわれる。漢字の字書として、あの『康熙字典』(1716年刊)を編纂したことはよく知られている。『説文解字』『字彙』『正字通』など歴代の字書を集大成したもので、4万7000余の漢字を楷書の部首画数順に配列し、字音・字義・用例を示し、以後の字書の範となった。
康熙帝の書としては、「行書避暑詩軸」などが残っている。書の場合は、とくに明代の董其昌が好きであった。董其昌は、明代の万暦末に華亭派の頭領として一世を風靡し、頭脳明晰の代表者でもあった。その董其昌の字を、皇帝中の知性派の筆頭のような康熙帝は好んだ。
元来、董其昌の書は、その基礎を王羲之の書に求めたといわれる。つまり董其昌の書を掘り下げていくと、結局は王羲之の書に辿りつくというのである。だから、康熙帝の「行書避暑詩軸」という書も、王羲之風の書である。逆にいえば、王羲之書法に果敢な挑戦を試みた金石書法―すなわち碑学派といわれる人々も出現したが、一般に清朝の書は、温雅と典麗を求める書の風靡から新しい仕事のできる書家は現れず、結果として董其昌を越えるほどの書の生まれなかった時代であったともいわれる。
(青山杉雨『書の実相―中国書道史話』二玄社、1982年、113頁~121頁。榊莫山『書の歴史―中国と日本―』創元社、1970年[1995年版]、94頁)


【青山杉雨『書の実相―中国書道史話』二玄社はこちらから】

書の実相―中国書道史話

【榊莫山『書の歴史―中国と日本―』創元社はこちらから】

書の歴史―中国と日本 (1970年)