歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪書道の歴史概観 その6≫

2021-02-13 19:08:58 | 書道の歴史
ブログ原稿≪書道の歴史概観 その6≫
(2021年2月13日投稿)




【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史


【はじめに】


 今回のブログでは、顔真卿、則天武后、懐素の書を考えてみたい。あわせて、いわゆる「永字八法」「千字文」について説明しておく。



さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・「永字八法」について
・「千字文」について
・「書法流伝之図」について
・顔真卿について
・向勢と背勢について
・則天武后(623~705)の書について
・懐素の「自叙帖」について








「永字八法」について


中国の唐代に「永字八法」の基本形が生まれたと考えられている。日本がやっと本格的に文字を学習し始めた奈良・平安時代ごろである。
最低限見積もっても2万にも及ぶ文字の複雑な点画を八つの基本単位にまで抽象したという意味で画期的であった。石川九楊も、現在でもなお通用する普遍性には舌を巻くと賞賛している。
「永字八法」は単なる基本点画書法にとどまるものではない。横画を三折法(トン・スー・トン)の横画・勒と、トン・スー二折法の横画・策とに区別している。また、左はらいの画も、三折法の「掠」と二折法の「啄」に区別している。
このように、点、横画、縦画、左はらい、右はらいのすべての画に、三折法と二折法の書法があることをふまえ、それが三折法によって統覚されているという思想をもっていると石川は説いている
(石川九楊『書を学ぶ―技法と実践』ちくま新書、1997年、108頁~114頁)。


【石川九楊『書を学ぶ―技法と実践』ちくま新書はこちらから】

書を学ぶ―技法と実践 (ちくま新書)


「千字文」について


千字文は中国、梁の武帝のとき、周興嗣(521年没)が帝の命をうけて王羲之の字を集めて韻文に排列して作ったものという。千字の異なった文字を集めて、四言二百五十句の韻文としてまとめ上げたものである。「天地玄黄、宇宙洪荒」に始まり、「謂語助者、焉哉呼也」にいたるまで、人間社会、森羅万象について述べたものである。ただ、千字文が文の終わりの方になると意味の流れが悪くなり、「謂語助者、焉哉呼也」(助辞とは焉・哉・呼である)と苦肉の策の句で唐突に終わる。
武帝の命をうけた周興嗣は、一夜にして韻文を作り、その文を上進したが、その苦心の結果、頭髪はすべて真白になったという伝説がある。
「千字文」は漢字による「いろは歌」ともいえる。
中国歴代の書家は、千字文をよく書き、今日書道史に残っているものには、隋代の王羲之7世の孫である智永が「真草千字文」を八百本を書いて浙東の諸寺に納めたという。また、唐代に欧陽詢の「草書千字文」、褚遂良の「楷書千字文」「行書千字文」、懐素の「草書千字文」がある。
日本へは、『古事記』によると、応神天皇16年に百済の王仁(わに)が伝えたという。王羲之の筆跡の模本が天平年間に渡来し、現存する。
(吉丸竹軒『三体千字文』金園社、1976年[1980年版]、140頁。小野鵞堂『三体千字文』秀峰堂、1986年[1999年版]、28頁~31頁、230頁~239頁。石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、161頁。石川九楊『書と日本人』新潮文庫、2007年、12頁~13頁)。

【吉丸竹軒『三体千字文』金園社はこちらから】

吉丸竹軒 三体千字文

【小野鵞堂『三体千字文』秀峰堂はこちらから】

三體千字文 【新版】

【石川九楊『書と日本人』新潮文庫はこちらから】

書と日本人 (新潮文庫)


「書法流伝之図」について


李家正文は、「書法流伝之図」(元鄭杓作で、『古今図書集成字学典』第85巻)という書家の系譜を紹介している。
(李家正文『書の詩』木耳社、1974年、178頁~180頁)

それは、蔡邕(さいよう)からはじまって、やがて王羲之を経て、崔紓(さいしょ)にいたるまでの書家の系譜である。 
この系図の中で、王羲之は次のように位置づけられている。
衛夫人(衛恒之従妹)―王曠―王羲之(曠之子)―王献之(羲之之子)―(省略)―釈智永(羲之九世孫)―虞世南―欧陽詢―褚遂良
また、欧陽詢の次に褚遂良のほかに、もう一人陸柬之(世南之甥)を挙げている。そして、次のような系図になる。
陸柬之(世南之甥)―陸彦遠(柬之之子)―張旭(彦遠之孫)―顔真卿としている。そして、この系図の中に、張旭の門下で顔真卿の兄弟子に李陽冰(りようひょう)という者がいる。李白の従叔にあたる。

【李家正文『書の詩』木耳社はこちらから】

書の詩 (1974年)

顔真卿について


中唐の革新派に張旭(生没年不詳)がいる。彼は伝統の二王の書法の権威を認めることなしに、新しい書をかいた。こうした風潮が起こった理由はどこにあるのかという問題に関して、社会史的にみた場合に、次のように平山観月は解説している。つまり、そもそも王羲之の書を生み出した社会的基盤は中世の貴族社会である。しかし中唐という時代は、貴族が没落してゆく時代で、それとともに、王羲之のような妍美な書風がすたれるのも当然であるというのである。
これは書だけの問題ではなく、文章の問題でもあった。韓愈は駢儷体の文の改革を試みた。そしてその韓愈は、王羲之の書については姿媚を追う俗書だと罵っている。このように、王羲之の典型を破ろうとする革新の動きが詩文の改革とともに、当時発生しつつあった。その機運の先鋒に立ったのが張旭であり、その彼が玄宗の開元年間の末に没すると、そのあとをうけて大成した人物が顔真卿(709-785)であった。
(平山観月『新中国書道史』有朋堂、1965年[1972年版]、206頁)

【平山観月『新中国書道史』有朋堂はこちらから】

新中国書道史 (1962年)


顔真卿は名門の生まれではあるが、幼時家が貧しかったので、紙筆にとぼしく、黄土で牆(へい)に習字したといわれる。
また家が破れて雨が漏り、その雨痕(あと)の色々な形を見て大いに書法をさとったといわれ、「顔の屋漏痕(おくろうこん)」という。
文に長じ、書に巧みなばかりでなく、一身すべて忠節の権化ともいうべき大人物である。洛陽にのりこんだ安禄山に、義勇軍をあげて立ち向かった。
玄宗から帝位をゆずられた肅宗は、そんな顔真卿を法務大臣に任命して、綱紀の粛清をはかった。「争座位文稿」はそんな時に書かれた56歳の時の書である。それは座位を争って郭僕射に送った文稿である。「祭姪稿」「祭伯稿」とともに顔真卿の三稿として有名である。不用意に書いたといわれる「率意の書」であるために、顔真卿の性情がみられるといわれる。古来、「蘭亭序」とともに行書の二大双璧といわれ、また顔真卿の書として第一位に推されてきたが、「祭姪稿」の方が格調が高いとされる。
ともあれ、「争座位文稿」は「蘭亭序」の媚に対して、率意のうちに醸し出された渾樸の妙趣があるといわれる。顔真卿の楷書を大いにけなした宋代の米芾も、この「争座位文稿」だけは顔書の第一として推称した。
「千福寺多宝塔感応碑」(752年)は、唐の天宝11年(752年)、長安の平福寺に勅建したもので、僧楚金(698-759)の舎利塔碑である。43歳という最もはやい頃の書で、もっぱら欧陽詢・虞世南などの書を学んだと思われる時代のものであるようだ。だから、後半の顔法すなわち風骨遒峻、風稜人を射るごとき趣はいまだみられないといわれる。この多宝塔の拓本は、楷書の手本を適するところから、ひろく書学者の間で愛翫されてきた。
(平山観月『新中国書道史』有朋堂、1965年[1972年版]、228頁~229頁、245頁~246頁。鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』日本習字普及協会、1996年[2010年版]、63頁~65頁。榊莫山『書の歴史―中国と日本―』創元社、1970年[1995年版、62頁~63頁)

「麻姑仙壇記(まこせんだんき)」は63歳の時の書である。麻姑とは仙人のこと、仙壇とは仙人のいる山のことであり、筆力深遠円熟の作であると評される。しかし、脂ぎっている書であるために、日本人の性情に合わないせいか、あまり日本人には迎えられないという。この点、褚遂良の方は日本的情趣が豊かであるために、受け入れやすい。
(鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』日本習字普及協会、1996年[2010年版]、64頁)

【鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』日本習字普及協会はこちらから】

新説和漢書道史


【榊莫山『書の歴史―中国と日本―』創元社はこちらから】

書の歴史―中国と日本 (1970年)


顔真卿は、唐王朝に忠勤をぬきんでた正義感のつよい剛直の士で、王羲之のような貴族的な書は全く意に満たなかった。顔真卿が求めた書風は、妍美なものに反撥し、男性的な重みと、剛気とにみち溢れた主体的なものの表現であったと平山はみている。革新派の流れをくむ宋の蘇軾は、顔真卿の書に、最上級の讃辞を贈っている。ともあれ、顔真卿の書は、王羲之の書と対蹠的な関係に立ち、中国書道史上、王羲之と並んで二大宗師と謳われる。
(平山、1965年[1972年版]、206頁~207頁)

中唐の顔真卿の「祭姪稿(さいてつこう)」は、「争座位稿」「祭伯稿」と共に、三稿として有名である。「祭姪稿」は、明快、ズバズバと書きおろし、独特なふくらみのある逞しい線で書かれている。数多く残されている碑文も、碑ごとに書相を異にしていたので、「真卿の一碑一面貌」といわれている。空海は顔真卿没後に入唐したが、空海の名蹟「灌頂記」はこの「祭姪稿」の影響が多いといわれている。
(鈴木小江『書道入門(行書編)』金園社、1987年、121頁)

【鈴木小江『書道入門(行書編)』金園社はこちらから】

書道入門 (行書編)

顔真卿の個性的な我侭は、書法上に大きく投影していた王羲之を乗り越えて、一格を形成することに成功したと理解されている。この顔真卿あたりから、書は技術的内容から、人間的、精神的内容へと比重が移行しかけ、やがて宋代の書のごとき時代思想の影響を受けた作品が産出されるにいたる。書作上における思想的傾向は、唐代においては顔真卿ばかりでなく、張旭(ちょうきょく)や懐素(かいそ)にも見られる現象だが、宋代に入って蔡襄、蘇軾、黄庭堅、米芾の四家が輩出するにいたる(青山、1971年[1980年版]、117頁)。
顔真卿の楷書の姿は「蚕頭燕尾」と言われる。起筆は蚕の頭のように角を失って丸く大きくなり、燕の尾っぽのように、はらいの先が細く長く伸びている。この形は起筆を送筆気味に紙の奥深くへ打ち込み、その反撥する力にのっかりながら終筆へ向かい、終筆で再び紙の奥深くへ抑えこむ筆蝕によって描き出される。
ところで、高村光太郎は「美について」の中で、顔真卿について次のように書いた。「顔真卿はまつたくその書のやうに人生の造型機構に通達した偉人である」と。
石川九楊はこの説に必ずしも同意していない。その石川は、顔真卿の書について、「筆蝕」つまり「書くこと」の姿を字画の外部に露出させることによって、初唐代とは異なった新しい段階(ステージ)に立ったと語っている
(石川九楊『書と文字は面白い』新潮文庫、1996年、178頁~179頁)。

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書と文字は面白い (新潮文庫)


向勢と背勢について


書に向勢(向きあう)と背勢(背中合わせになる)という二種の文字結構(構成)法がある。書の歴史も向勢と背勢、そして直勢の織りなすドラマであると石川は捉えている。
「楷法の極則」と呼称される、初唐代、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」は、「皇甫誕碑」や「温彦博碑」の背勢を内に含んだ、直勢や背勢によって成立している。起筆を強めることによって生じる直勢や背勢によって楷書の文字の構成美は完成し、頂点を極めたという。この後、顔真卿はあからさまな向勢のなまなましい線によって、表現美へと書の歴史的ステージを押し上げた。
ところで、一般的に、向勢は膨張形と受感され、暖かさ、温(ぬく)み、軟らかさ、鈍さ、安定、解放に馴染むようだ。一方、抑圧に耐える姿を連想するところから、背勢は冷たさ、寒さ、強さ、硬さ、厳しさ、鋭さ、屹立(きつりつ)、閉鎖の雰囲気を醸し出すといわれる(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、109頁~110頁)。

【石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年はこちらから】

現代作家100人の字 (新潮文庫)

則天武后(623~705)の書について


則天武后は、中国史上まれにみる女傑である。并州文水(山西省)の人で、第3代高宗の皇后であった。はじめ太宗の後宮に入って才人に選ばれて、太宗の崩じたとき、剃髪して尼となったが、高宗に望まれて髪をたくわえ、再び後宮に入り、その寵を得て、655年皇后となった。武后33歳の時である。
則天武后の書は太宗の影響をうけて、堂々たるものがあり、同じく太宗を学んだ高宗の書よりも勁いといわれる。
(平山、1965年[1972年版]、254頁~255頁)

高宗が崩じてからは、形式的には実子である中宗・睿宗を立てたが、実権を握り、690年、国号を周と改め、自ら聖神皇帝と号した。その業績については、政治家としてみるべきものがあったとする説と、唐の宗室をほとんど傾けさせたことに対する非難とが相半ばしている。
則天武后は書にも精通しており、「昇仙太子碑(しょうせんたいしひ)」(699年)は今に残っている。この碑は河南省偃師県の東南の緱山(こうざん)の昇仙太子廟にある。昇仙太子というのは、周の霊王の太子晋のことで、王子晋といわれ、仙道をおさめ、白鶴に乗って緱氏山上から昇天したと伝えられている。
則天武后は国号を周と改め、河南の嵩岳(すうがく)に行幸して封禅の礼を行なった。行幸の際、廟の修築を命じ、碑を建立させたのである。
唐の王室は老子をその祖としたのに対して、武氏は周王室の姫姓(きせい)の出であるとして、その宗室の仙人を尊んで、アピールしたのである。
この碑の書は草書で、石刻では最初の例とされ、また女性の書碑として珍しいものとされている。武后の書は太宗の影響をうけ、王羲之の書をよく学んでいる。同じく太宗を学んだ高宗にくらべると、強く豊かであると真田は評している。また、この碑文の中には、武后の時代に作られたいわゆる則天文字(たとえば、○(星)など)が用いられている。
(真田但馬『中国書道史 上巻』木耳社、1967年[1972年版]、201頁~204頁)

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中国書道史〈上巻〉 (1967年)


懐素の「自叙帖」について


書は音楽にも親しい表現であるといわれる。哲学者・西田幾多郎は、「書の美」というエッセイの中で、「音楽と書とは絵画や彫刻の如く対象に捕らはれることなく、直にリズムそのものを表現する」と書いた。
書にかぎらず、中国には春秋戦国時代から同質であって長短等しくないさまを参差(しんし)と言い、「参差不斉」なる言葉があって、参差が美を構成する上で不可欠と考えられていた。ちなみに参差とは竹の管を束ねた簫(笛)のことであるという。書は参差、つまり音階の芸術でもあった。書は強弱を基盤とする書字の律動(筆蝕)の上に成立する。
唐代の懐素の「自叙帖」(777年)は劇的性格を秘めた畏るべき書であるといわれる。石川はその筆蝕をひとつの交響曲として理解している。西欧古典(クラシック)音楽のような規模で現れる書は、この懐素の「自叙帖」を嚆矢とすると捉えている。古法=歴史的書法=二折法は、書史上においては懐素の「自叙帖」によって、完膚なきまでに粉砕されたとみる
(石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、205頁、216頁)。

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中国書史



≪書道の歴史概観 その5≫

2021-02-13 18:18:01 | 書道の歴史
≪書道の歴史概観 その5≫
(2021年2月13日投稿)
 



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中国書史


【はじめに】


 今回のブログでは、初唐の三大家について解説してみたい。初唐の三大家とは、唐の太宗期において活躍した虞世南、欧陽詢、褚遂良の三人を指す。
 唐太宗期といえば、中国の書道の歴史においても、最も華やかな時代である。その時代を生きた初唐の三大家の書には、どのような特徴がみられるのだろうか。




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・初唐の三大家について
・欧陽詢の貧相醜顔について
・欧陽詢の影響
・明朝体という活字と欧陽詢について
・欧陽詢に関連して
・写経体と中国の書家(智永、欧陽詢、虞世南)について
・結構法と欧陽詢、顔真卿の書
・褚遂良について
・褚遂良の「雁塔聖教序」について(補足)
・褚遂良臨模本について
・初唐の三大家の書について
・楷書について
・初唐の三大家の書と筆について








初唐の三大家について


ここで、初唐の三大家について紹介しておきたい。
虞世南は、会稽余姚(よよう)の名門の出で、幼時、同郡の智永(王羲之七世の孫)に学び、長じて一家をなした。博覧強記で、太宗に仕えて重用された。
「孔子廟堂碑」(626年)は虞世南70歳頃の書である。その書は平正温雅、沈着悠遠、しかもふっくらとした感触的快味があって少しの厭味もなく、品位においては古来唐朝第一といわれている。初唐のものでは最も優れたもので、智永の千字文の楷書の面影もあり、おだやかであると評される。
(鈴木・伊東、1996年[2010年版]、54頁~55頁)

欧陽詢は潭州臨湘(湖南省長沙県の南)の人で、その父は陳の広州刺史であったが、謀反をもって誅された。欧陽詢が13歳のときのことである。欧陽詢は年少のために罪をまぬかれ、父の友人江総(519-594)に養育された。彼ははじめ王羲之を学び、のちに北派の書(たとえば晋の敦煌の人である索靖の碑)に心を寄せたと推測されている。つまり、欧陽詢は、ある時、索靖(さくせい)の碑を見てその巧妙さに感じ、そこを立ち去りかねて三日間碑の傍に宿ったというエピソードがある。王羲之を学び北碑の長をとり、一家をなした。70歳頃の書として「皇甫府君碑(こうほふくんひ)」があるが、この書は北魏の余韻もあって、険勁痛快な書とされる。

ところで、欧陽詢については、面白いエピソードがある。欧陽詢は容貌のひどく醜い大男であったようだ。高麗からの使者がその書を求めたとき、唐の高祖は「その書を観たなら、もとより形貌の魁梧を想像できまい」と言ったという話が伝えられている。
また、636年に文徳皇后の葬儀の際、欧陽詢の喪服姿があまりに醜かったので、許敬宗という人物が思わず笑ったため、御史に弾劾され、洪州都督府司馬に左遷されたという(『旧唐書』許敬宗伝による)。
この容貌の醜さと、少年時代の不幸の境遇とは欧陽詢の芸術に影響するところが多かったと真田は想像している。そもそも宋代の蘇軾もすでに、「率更(率更令の欧陽詢のこと)の貌寒寝(貧相で醜いこと)、いまその書を観るに、勁険刻厲(けいけんこくれい、つよくけわしい)、まさにその貌に称(かな)うのみ」とも言っている。
欧陽詢の書に見えるきびしいけわしさと非情とも言える美しさは、彼の人間性に深く根ざしたものと見るべきであろうと真田は述べている。つまり、境遇のけわしさが勁さを求め、容貌の醜さが逆に整った美しさを追求させ、楷書の規範といわれる完成がなされたのではないかというのである。これら二つの要因が新時代の風気とともに大きな素因となったと考えている。
「九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれいせんめい)」(632年)は、唐の太宗が632年の夏、九成宮(隋の仁寿宮を修理したもの)に避暑に行き、その一隅に甘美な泉を発見したのを記念するために建てた碑である。銘文は侍中の魏徴、書は率更令の欧陽詢である。欧陽詢が数え年76歳のときの書である。これは欧陽詢の代表作であるばかりでなく、楷書の典型の一頂点を示すものである。
(真田但馬『中国書道史 上巻』木耳社、1967年[1972年版]、166頁~172頁)

【真田但馬『中国書道史 上巻』木耳社はこちらから】

中国書道史〈上巻〉 (1967年)

そして、先述したように、欧陽詢の代表作として「九成宮醴泉銘」がある。76歳の書で、勅命によって書かれたこともあり、一種の荘厳の感がある。晩年の円熟の書であるだけに、点画精妙、意欲精密、間然するところがなく、「皇甫府君碑」より上品であると評される。
(鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』日本習字普及協会、1996年[2010年版]、55頁~56頁)。

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新説和漢書道史


書家の鈴木史楼も、「端整な姿の楷書と言えば、欧陽詢の絶品として知られる九成宮醴泉銘の右に出るものはない」と絶賛している。
(鈴木史楼『書のたのしみかた』新潮選書、1997年[1998年版]、132頁)

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書のたのしみかた (新潮選書)

ただし、書家のすべての人が、初唐の三大家の楷書を楷書作品の最高峰と高く評価しているわけではない。たとえば、松井如流は、北魏の鄭道昭、王遠あたりの書は、初唐の三大家の書より高く評価し、親しみを感じていると明言している。偏食もはなはだしいといわれそうだが、今さら自分の宗旨をかえようとは思わないという。
(松井如流『中国書道史随想』二玄社、1977年、220頁)

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中国書道史随想 (1977年)

欧陽詢の貧相醜顔について


欧陽詢の伝は、『唐書』巻198、『旧唐書』巻189に見える。また、唐代伝奇によると、欧陽詢の父紇(ごち)が奥地に妻を伴った。ここには木簡を読む老いた白猿がいて、美人の紇の妻をさらったが、やがて猿顔の欧陽詢を生んだという奇怪事を紹介している。そのため貧相醜顔であったということになっているようだ。
(李家正文『書の詩』木耳社、1974年、133頁)

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書の詩 (1974年)

欧陽詢の影響


ところで、唐の欧陽詢の書は、日本の書道にどのような影響を与えたのであろうか。
「宇治橋断碑(うじばしだんぴ)」は、大化2年(646)の建碑で、日本に現存する最古の石碑である。現在は宇治川の東畔、常光寺放生院(俗称、橋寺)の境内に保管されている。碑文の内容は、僧の道登の宇治橋架設の功を讃えたものである。全文は24句、96字から成っていたが、現在は6句24字を残すのみとなり、断碑と呼ばれている。
その書風は、一字一字の丈が低い隋風の楷書である。大化2年といえば、中国ではすでに初唐時代に入っており、丈高な楷書が成立していた。たとえば、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」の成ったのは貞観6年(632)である。しかし、日本へはまだ、その新様式の楷書の影響は及んでいないことがわかる。
(堀江知彦『名筆鑑賞入門 中国風の書―日本の名筆・その歴史と美の鑑賞法』知道出版、1991年、38頁~39頁)

【堀江知彦『名筆鑑賞入門 中国風の書―日本の名筆・その歴史と美の鑑賞法』知道出版はこちらから】

中国風の書―日本の名筆・その歴史と美と鑑賞法 (名筆鑑賞入門)

ところが、伝嵯峨天皇宸筆として「李嶠(りきょう)雑詠断簡」には、その影響が認められる。
伝嵯峨天皇宸筆としての「李嶠雑詠断簡」(陽明文庫蔵)は、唐代の詩人李嶠(644-713)の五言律詩を書写したものである。春名好重によれば、字形は縦長にして、結体は緊密である。点画は雄健峻抜にして、筆力が充実しており、用筆は自在で、運筆に緩急抑揚の変化があり、独特の奇癖偏習があるという。しかし、巧秀にして脱俗超妙であり、格調が高い。
この「李嶠雑詠断簡」の書風は、唐の初めの欧陽詢の書風であるといわれる。欧陽詢の書風は白鳳時代から平安時代の初めまで、王羲之の書風の次に愛好されていた。
(春名好重『古筆百話』淡交社、1984年、136頁~137頁)

【春名好重『古筆百話』淡交社はこちらから】

古筆百話

明朝体という活字と欧陽詢について


一般に、現在の活字には、漢字の字体に宋朝体、教科書体(楷書体)、清朝体、明朝体の四活字がある。
宋朝体は中国宋代の版本にならって模刻したのがはじめである。教科書体は楷書をそのまま活字としたものが戦後整えられた。戦前から用いられた楷書体は、名刺などに使用されている清朝体であった。明朝体は印刷体としてもっとも多く用いられており、新聞など出版物の活字はすべてこの字体を主とする。
明朝体と呼ばれるように、中国明時代に用いられている。ただし、それは活字印刷ではなく、木版本(明版)で、一枚の板全面を字面として彫った「整版」という印刷である。
明朝体活字が近代の洋式活版印刷に用いられるようになったのは、明治初年に本木昌造(もときしょうぞう)などが上海にいた米人ウィリアム・ガンブルを長崎に招いて、その指導によって明朝体の鋳造活字を製作したのがはじまりであるという。
明朝体の源流を探った場合、万暦年間の木版本の字体に辿りつくが、中国書道史の上から類型を求めると、初唐の三大家(欧陽詢、虞世南、褚遂良)の一人の欧陽詢の筆法(欧法)に似た結体であるといわれる。洗練されて整った書体はきびしさがあって、難をいえば、懐の狭い感じがなくもない。しかし古来楷法の極致といわれて、学書者必修とさえ称されている書である。他の二家もやはり楷書の規範であるが、欧法を版下の手本としたのは彫りやすいこともあったであろうと推測されている。このように、明朝体は欧法より出ているとされる。また「ハネ(趯法)」の筆法は、顔真卿の筆法の影響が見られるともいう。
(財津永次『書の美―新しい見かた―』社会思想社、1967年[1977年版]、139頁~142頁)

【財津永次『書の美―新しい見かた―』社会思想社はこちらから】

書の美―新しい見かた (1967年)

欧陽詢に関連して


書道博物館には、敦煌出土のもので、他に見られない珍しい唐人の細字の練習の肉筆があることを、日展審査員で帝塚山大学教授であった田中塊堂(1896―1976)は紹介している。
それには、1字を70~80字ぐらいずつ習っている。「覺」や「壽」の字を見ると、欧陽詢の筆法を学んだことがわかるという。例えば、「覺」の下の見の最後のハネ上げるところ、頭が比較的大きいことや、「壽」の結体、横画の長いところなどに、いちじるしくその特徴が見られると解説している。
(田中塊堂『写経入門』創元社、1971年[1984年版]、144頁~145頁)

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写経入門

写経体と中国の書家(智永、欧陽詢、虞世南)について


中国で楷書の典型的なものは初唐の欧陽詢、虞世南のものがよいとされる。田中塊堂はあえて、その一時代前の智永の「真草千字文」を推している。
智永は、書聖王羲之七世の孫で、陳から隋にかけて生存し、呉興の永欣寺に住して、書名が高かった。智永千字文の楷書は遒麗(しゅうれい)秀潤で、豊かな肉があって、見るからに温か味が感じられる。
そして、中国では、隋・唐の7世紀初め頃に楷書の典型ができた。唐の貞観元年には弘文館内で、文武職事五品以上の者は書道を学んでもよいと令が出て、その時の教授の任に当たったのが、欧陽詢と虞世南であった。
虞世南の書は平静温雅で、欧陽詢の書は峻厳端正で、共に初唐における楷書の典型を造り上げた人である。ことに欧陽詢は理想を強く表現し、力感と安定感を具備した建築性の形態を確立したので、古来これを欧法といって、楷書の極則と評された。
この欧・虞の筆法が混然一致して精彩ある唐の写経体はできあがった。日本の天平時代は、この写経体で風靡(ふうび)されている。
そして、このように解説して、田中塊堂は、お薦めの写経体として、次のように述べている。「写経の基礎となる大字の手本には欧・虞の先駆をなす智永の千字文を推し、進んで実際の写経には、虞・欧の混合体である唐代の写経体をお薦めするわけであります。」と。
(田中塊堂『写経入門』創元社、1971年[1984年版]、128頁~130頁、135頁~136頁)

結構法と欧陽詢、顔真卿の書


画を組み合わせて文字ができあがるのだが、その組み立て方には約束がある。それを結構法といっている。譬えていえば、建築のようなものである。
縦画には、背法と向法がある。例えば、「國」という字を見ると、左右に2本の縦画がある。これは向法、背法のどちらを使ったらよいかというのに、どちらでもよい。つまりどちらも筆法にかなっており、どちらが好きかということになる。
歴史的に見れば、初唐の欧陽詢は背法の結構法で、中唐の顔真卿は向法の結構法で、この漢字を書いている。結構法は大切で、手本の字の見方、習い方の「こつ」はここにあるといわれる。
(田中塊堂『写経入門』創元社、1971年[1984年版]、151頁~153頁)

褚遂良について


褚遂良は銭塘(浙江省)の人である。
褚遂良は、虞世南、鐘繇(151-230、三国魏の政治家で、伝統的な書法をよくした)、王羲之を学んで、一家をなした。ある時、太宗が「虞世南の死後、書を論ずる者がない」といわれたので、魏徴が「褚遂良があります。王羲之の筆法を得ています」と答えたので、太宗は即日召して侍書にし、太宗の手許にある多数の王羲之の書の真偽を鑑別せしめたが、少しの誤りもなかったというエピソードがある。褚遂良は欧陽詢に重んじられ、宮廷に入り、王羲之の法書の鑑識にすぐれていた。
褚遂良58歳の書として「雁塔聖教序」がある。「雁塔聖教序」は陝西省西安市の慈恩寺大雁塔にはめこまれている聖教序碑である。玄奘三蔵が、652年、寺内に雁塔を建て、翌年、塔上の石室にこの「聖教序」の碑を立てた。これは褚遂良の代表的な楷書で、細身でありながら、大ぶりの悠然とした書風である。用筆超妙、点画はすべて躍動していうべからざる妙趣があるといわれる。その一方で、勅命で書いた関係か、文字のふところが小さく、筆が割合に暢達していないと評する書家もいる。
(鈴木・伊東、1996年[2010年版]、56頁~59頁)


褚遂良は官僚としては、尚書右僕射(うぼくや)にいたったが、後に愛州刺史に左遷され、不遇のうちに、愛州(北ベトナム)で客死した。つまり、太宗の遺命を受けて、高宗の政を助けていたが、晩年、高宗が武氏昭儀(後の則天武后)を皇后に冊立しようとしたのに反対し、帝の怒りを買い、潭州都督に左遷され、657年、桂州都督、さらに愛州刺史に貶され、その翌年658年、同地において窮死した。だから、初唐の三大家のうちで、褚遂良だけは、ベトナムと無縁ではない人物である。
(角井博ほか『中国法書ガイド34 雁塔聖教序 唐 褚遂良』二玄社、1987年[2013年版]、10頁)

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雁塔聖教序 (中国法書ガイド)


ところで、俳人・加藤楸邨(しゅうそん、1905-1993)は、「雁塔聖教序」をその随筆の中で絶賛している。
その書は、のびのびとして、一つの流れとなった書美の世界が開かれてくるので、鬱屈を覚えるときに、机上にひろげてみていたという。心をのびやかにしてくれるというのである。つまり、虞世南や欧陽詢を見た目で改めて褚遂良に接すると、豊潤な味わいが満ちており、楸邨の鬱屈した思いを解きほぐしたという。一字一字の美しさは、ほとんど比類ない感じで恍惚とさせ、一つの流れの中にあり、抵抗を感じさせず、それでいて、一つ一つの文字は鞭のような撓(しな)いを感じさせ、悠容迫らぬもののなかに、精緻な用意がゆきとどいていることに惹きつけられたと述べている。
石川九楊も、この加藤楸邨の随筆内容に異論はなく、「離れ小島へ持参する一冊の本」は何かと問われたら、文句なしに「雁塔聖教序」という法帖を挙げると答えている
(石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、178頁)。


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中国書史


清の翁方綱は、「米芾は褚遂良を学ぶこと久しいといっているが、それでこそよく晋法を窺うことができたのだ」と批評している。
褚遂良の書は「房玄齢碑」や「雁塔聖教序」に見られるように、碑書でありながら、欧陽詢や虞世南の書とはちがって、微細な筆意をよくあらわしており、南朝人の技巧的に発達した書法を残しているといわれる。つまり欧・虞から南朝人の筆意を窺うことは難しいが、褚からならばそこへ遡る手がかりになる。
そして米芾の書には最後まで褚遂良の筆意が残っている。欧・虞・褚は楷書の完成者であるとされているが、その中で褚の書がもっとも前代の、ことに南朝の法を残していて、六朝へ通じやすいのは、あたかも蘇・黄・米がいずれも晋唐の書を学んで新意を出したが、古法をもっともよく伝えたのは米芾であるということになる。
(神田喜一郎ほか編『書道全集 第15巻』平凡社、1966年、26頁~27頁)

褚遂良の「雁塔聖教序」について(補足)


日展評議員で、奈良教育大学教授であった天石東村は、褚遂良の「雁塔聖教序」について次のように評している。
「外には筆力を露さず、内に巧さを蔵しています。その線は極度に圧縮され、細く張りつめており、快よいリズムで左右に伸びた線は、刻々とその姿をかえ、息の長い、緊張した味わい深い充実したものになっています。また、弾力性のある線質のはしばしにその巧みさを示しています。」と。
つまり緊張した味わい深い充実した線で、しかも弾力性のある線質に巧みさがあるという。概して、外には筆力を露さず、内に巧さを蔵していると、天石も「雁塔聖教序」を高く評価している。
(天石東村『書道入門』保育社、1985年、71頁)

褚遂良臨模本について


黄絹に書かれ、古くから褚遂良の臨模と伝えられている「蘭亭序」は、北宋の米芾の手に帰したことがあり、その跋がある。それには、
「右は唐の中書令河南公褚遂良字は登善の臨した晋の右将軍王羲之の蘭亭宴集序である。本朝の丞相王文恵公(王隨)の故物である。」とある。
そして米芾はこの蘭亭の書法を評して、次のように述べている。
「王の書を臨すと雖も全く是れ褚法である。(中略)永和の字に至ってはその雅韵を全うし、九・觴の字は備さにその真標を著わし、浪の字は書名に異るなく、由の字はますますその楷則を彰わす」とある。つまり褚臨が王羲之の書の雅韵、真標、楷則をよくあらわしているという。
ただ「浪字は書名に異るなし」というのは、浪の旁の良が、褚遂良の名を書すときの良の字と同じ書法であるという意味である。褚遂良の署名は、今日では「雁塔聖教序」に見られるのが一番確かなものであるらしく、その良字の第一画が隷書風にカギ形になっているところは、この蘭亭の良のそれと似ていると内藤乾吉は解説している。
また、褚遂良の「房玄齢碑」や「枯樹賦」には、一つの画から次の画へ筆をうつす時に、ことさらに遊絲を引いている文字が多く、それが褚遂良の書の一つの特徴であるとみられている。この「蘭亭序」の「和暢」の和字の禾偏や「萬殊」の萬字の草冠にも、それが認められることを内藤乾吉は指摘している。そして、この本が褚臨であることの一つの証拠になると考えている。
また、一般的に初唐人の筆意がこの本には認められるという。例えば、第4行の「峻」、第5行の「以」、第8行の「暢」、第9行の「觀」の各第一画の筆の入れ方、すなわち縦画を書く場合に、最初に入れた筆を少し右へ移して下す筆法は、褚遂良を含めて初唐人の筆法であるという。
なお、後に日本の斎藤董盦の有に帰し、博文堂が影印した際に、内藤乾吉の父である内藤湖南が跋を書いたという。
(神田喜一郎ほか『書道全集 第4巻』平凡社、1965年、158頁~159頁)

初唐の三大家の書について


初唐の三大家が書いた楷書の絶品は、それぞれ均衡の美に迫っている。三者三様の味わいがあるが、鈴木史楼はその違いについて、次のような比喩で説明している。欧陽詢の「九成宮醴泉銘」は、ピラミッドの壮重な姿を連想させ、褚遂良の「雁塔聖教序」、とりわけ「有」という字の姿からはミロのヴィーナスの姿が浮かんでくるという。「有」の第一画の斜画は、しなやかでたおやかな曲線である。それでいて、力強い動的な均衡を見せている。そして虞世南の均衡は、欧陽詢と褚遂良の中間にあるという。
(鈴木史楼『書のたのしみかた』新潮選書、1997年[1998年版]、140頁)


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書のたのしみかた (新潮選書)


楷書について


文字造形の基礎はやはり楷書であるといわれる。一般に漢字の場合は楷書からはじめられるのが普通である。
楷書の手本でも唐代の楷書は非常に端正なものである。唐代の楷書、例えば、欧陽詢、虞世南、褚遂良あたりのものはそうである。楷書の力の均衡を極度に発揮して、みごとな安定さを持った巧みさがある。書家の天石東村は、楷書の典型と称せられる唐代のものをまず学ぶべきであると薦めている。つりあいの美を文字の上に極度に発揮したものが唐代の楷書であるから。
一方、仮名の場合では、藤原行成の「和漢朗詠集」あたりが、唐代の楷書に匹敵するものといえるとする。
(天石東村『書道入門』保育社、1985年、117頁~119頁)

書家の榊莫山は、楷書について不満をもらしている。すなわち、
「そもそも書道の根幹は、楷書にある。およそ書法のレッスンは、まず楷書からはじまるほどだ。ところが、専門の書家ですら、惚れ惚れするような楷書のかける人は少ない。名だたる書の展覧会へでかけても、楷書の名作は、まず見あたらない。
楷書がなんとなく嬉しげにならぶのは、小学生の書道展だけである。誰もがいの一番に習ったはずの楷書が、大人になってみたらほとんどかけない――なんて、笑うに笑えぬ現実が、書の世界にひそんでいるのだ。」と榊莫山は記している。
(榊莫山『莫山書話』毎日新聞社、1994年、109頁~110頁)

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新装版 莫山書話


ダウン症の女流書家の金澤翔子の母である泰子は、世界で最も美しいと言われ、楷書のバイブルとされる「九成宮醴泉銘」を、中国まで見に行ったと述べている。そのとき「凄い」とは思ったが、涙は滲まなかったという。
ともあれ、翔子が20歳のときに個展を開いた際に、泰子は書で最も難しいと言われる「楷書」の世界に挑戦してみる気になったと記している(金澤泰子・金澤翔子『愛にはじまる―ダウン症の女流書家と母の20年』ビジネス社、2006年、55頁~57頁)。
書家の柳田泰山も述べているように、楷書は書法では無二と言われる厳しさが求められる世界であり、真剣な眼差しで究極の楷書を学んでいる翔子の姿勢に、人間の純粋性を見出せるかもしれない。それはまるで沼という現世に対し、蓮の如く、時を過ごしているかのごとくである。
また、翔子の「十如是」を鑑賞して、石原慎太郎は次のように記している。「「十如是」は、お釈迦様が説かれた法華経の中の大切な教えです。お釈迦様は、書道に楽しんで打ち込んでいる翔子さんのように、自分で生きる喜びを見出した人の人生が、一番幸せな人生だと言われているのです。」と
(金澤泰子・金澤翔子『愛にはじまる―ダウン症の女流書家と母の20年』ビジネス社、2006年、60頁~61頁、72頁~73頁、76頁)

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愛にはじまる―ダウン症の女流書家と母の20年


初唐の三大家の書と筆について


書には、文房四宝、つまり筆、紙、墨、硯が欠かせない。日本語の筆の語源は、文手(ふみで)、ふむで、ふでとなまったものといわれているが、中国では毛筆の始まりについて、次のような話が伝えられている。
秦の始皇帝が万里の長城を築いている際、蒙恬(もうてん)という将軍が城壁にへばりついている羊毛を見て、これを取って枯れた枝の先へ束ねて作ったのが毛筆の始まりだという。このため、蒙恬のことを筆祖といい、その作り始めたという筆を湖筆(こっぴつ)といて名筆とされている。
「千字文」の中にも、「恬筆倫紙(てんぴつりんし)」、つまり「蒙恬の製筆、蔡倫の紙の発明」とあるように、中国では筆は蒙恬が発明したものとみなされた
(吉丸竹軒『三体千字文』金園社、1976年[1980年版]、154頁。小野鵞堂『三体千字文』秀峰堂、1986年[1999年版]、239頁)

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吉丸竹軒 三体千字文

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三體千字文 【新版】


ところで、毛筆の材料には、羊以外にも、馬、鹿、兎、狸、山馬(やまうま)、猫、てん、いたち、鼠のひげが用いられた。右軍将軍だったので王右軍ともいわれた書聖王羲之は、好んで鼠のひげを用いたといわれ、また欧陽詢の子欧陽通(とう)は、狸の毛を多く用いたという。筆の形質からみると、真(楷書)は雀頭(じゃくとう)、行(行書)は鶏爪(けいそう)、仮名は柳葉(りゅうよう)といわれ、それぞれ形を表した名称である。
筆の質には剛毛、兼毫、羊毛とがあるが、初唐の三大家でいえば、欧陽詢=欧法は剛毛、虞世南=虞法は兼毫、褚遂良=褚法は羊毛が向いているといわれる。つまり、筆との関係でいえば、欧陽詢の字を臨書して字をまねて書く時には、この人の字は線が力強いので、硬い筆でなければ書けないといわれる。逆に褚遂良の字を書く時には、柔らかい筆でなければ、うまく情趣がでない。虞世南の温和な字には、兼毫(剛毛と羊毛の中間)が一番むいているという。つまり、筆というものは、「弘法筆を選ばず」ではなくて、「選ばなければならない」というのが正しいそうである。
(大日方鴻允・宮下雀雪『人生を彩る書道』創友社、1987年、28頁、268頁~269頁)

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人生を彩る書道―世に悪筆者はいない


≪書道の歴史概観 その4≫

2021-02-13 17:50:34 | 書道の歴史
≪書道の歴史概観 その4≫
(2021年2月13日投稿)
 



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中国書史


【はじめに】


 六朝代から初唐代への時代は、中国書道の歴史(中国書史)において、転換期である。この時期の書の歴史はどのように捉えられるのだろうか。この点に焦点をしぼって、概説してみたい。




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・六朝代から初唐代への転移の構造について
・二折法から三折法へ
・唐の太宗と書
・唐の太宗と書家たち






六朝代から初唐代への転移の構造について


六朝代から初唐代への転移の構造について図式的に言えば、六朝代の草書=王羲之=二折法=筆触=自然書法から、初唐代の楷書=三折法=筆蝕=基準書法へということになると石川九楊はいう。
(石川九楊『書と文字は面白い』新潮文庫、1996年、285頁~286頁)

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書と文字は面白い (新潮文庫)

中国書史の750年、つまり六朝代から宋代までの書の歴史(350年頃から1100年頃まで)について、代表的な作品としては、次の8作品を挙げている。
1 王羲之の「喪乱帖」
2 智永の「真草千字文」
3 欧陽詢の「九成宮醴泉銘」
4 褚遂良の「雁塔聖教序」
5 孫過庭の「書譜」
6 張旭の「古詩四帖」(狂草)
7 顔真卿の「顔勤礼碑」
8 黄庭堅の「李白憶旧遊詩巻」
とりわけ、初唐代楷書成立期の頂上劇としては、
632年 欧陽詢の「九成宮醴泉銘」
646年 唐太宗の「晋祠銘」(草書[ママ])
653年 褚遂良の「雁塔聖教序」を挙げて、
646年頃(650年頃、649年に太宗の死)に頂上に達したものと考えている
石川の「書からみた中国史の時代区分への一考察」によれば、649年の太宗皇帝の死を境に、中国史は前史と後史に二分されると石川は考えている。この649年の太宗の死は、初唐代楷書のうち、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」(632年)と、褚遂良の「雁塔聖教序」(653年)との間に位置する。この両者間の20年余りの間に書史の劇的な頂点が想定できるという。「九成宮醴泉銘」は頂上以前であり、「雁塔聖教序」は頂上以降であるとみる。
「雁塔聖教序」は「九成宮醴泉銘」と形態上は似ているが、筆蝕が動きを見せる点においては、むしろ顔真卿の楷書に近いものと捉えている。楷書の成立は「三過折の獲得」ではあるのだが、「九成宮醴泉銘」と「雁塔聖教序」は、その三過折の意味を極限まで減じることによって、成立させているという。
(石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、102頁)

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中国書史


書の表出で言えば、筆触時代と筆蝕時代の分岐点であり、歴史的にも匿名の時代と実名の時代の分岐であるともいう。
太宗の死が中国全史を以前と以後に分ける分水嶺を形成すると石川は試論している。昭陵に「蘭亭序」が眠るという伝説は、その意味においても興味深く、比喩的に言えば太宗の昭陵に中国の前半史は埋まっているという
(石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、98頁~100頁、196頁、403頁)。

また、宋代以降の書史としては、
1100年頃 黄庭堅の「松風閣詩巻」
1650年頃 傳山の明末連綿草
1750年頃 金農の「昔邪之盧詩」を挙げて、
1650年頃に頂上を求めている
(石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、99頁)。


二折法から三折法へ


このように、楷書、行書、草書がセットで存在するものだと考えられる書の構造は、西暦350年頃の中国六朝期から、宋代1100年頃までの750年くらいをかけてゆっくり出来上がったものと石川は考えている。350年頃から650年頃までが前期で、比喩的に名づければ、「王羲之の時代」である。650年頃から1100年頃までが後期で、「脱王羲之の時代」と名づけている。
350年頃から650年頃までが、いわゆる「古法」の時代である。「古法」とは王羲之書法と言ってもよい。書字について言えば、「トン」とおさえて「スー」と引くか、「スー」と入って「グー」とおさえる二折法である。この二折法が、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」(632年)などによって、三折法へと変わる。つまり、「トン・スー・トン」という方式で、起筆、送筆、終筆、転折、撥ね、はらいが構造的に変わる。唐代に入って、いわゆる「永字八法」が成立し、書法がやかましくなる。こうして「唐代の書は『法』である」と言われるようになる
(石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、98頁~100頁)。
「永字八法」の起源については、後漢代に蔡邕(さいよう)が創定したと言われるが、唐代あたりまで下ると考えるのが順当であろうと石川九楊は考えている
(石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、263頁)。
以下、この石川の持論を中心に中国書史について考察してみたい。


唐の太宗と書


唐の太宗は唐王朝300年の礎を築いた英主である。その貞観の治といわれる治世には名臣がその左右に雲集するといった壮観を現出した。その結果唐代初期の文化は新鮮な光彩を放つようになった。この時期、花が咲き揃ったように、書の名手が輩出した。欧陽詢(557-641)、虞世南(558-638)、褚遂良(596-658)はこの時代の王朝の重臣であると同時に、書の名手であった。これら唐初の三大家は、揃いもそろって楷書に傑作を残している。六朝の乱離を収攬した新興王朝にふさわしい清新さが、爽やかな楷書という姿をかりて息づいているといわれる。たとえば、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」(632年)、虞世南の「孔子廟堂碑」(626年)、褚遂良の「雁塔聖教序」(653年)がある。つまり六朝の混乱を治めて建てられた王朝が唐であるように、六朝書法の多様性を統一したのが初唐の書法であるといわれる。ただ、初唐は楷書の黄金時代を迎えたが、隋王朝が滅んだ時(618年)、隋王朝に仕えていた欧陽詢と虞世南はすでに60歳であったし、褚遂良は22歳になっていた。ことに欧陽詢と虞世南の30歳から60歳までは隋王朝で過ごしていた。
(青山杉雨『書の実相―中国書道史話』二玄社、1982年、36頁、鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』日本習字普及協会、1996年[2010年版]、44頁)

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書の実相―中国書道史話

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新説和漢書道史


さて、唐の太宗は、書を愛好し、歴代帝王中でも、第一の能書家といわれた。この唐の太宗の書としては「晋祠銘」(646年)がよく知られている。これは太宗が唐叔虞(とうしゅくぐ)を祭った祠に行幸した時、親ら文を撰び、それを碑に書いたものである。行書の碑刻としては最古のものといわれている。中国の天子の書としては第一等のもので、鷹揚さと品格をもっていると評される。北魏の書のように大きな規模があり、和潤な所もあってよいとされる。
文化を愛する太宗は書道が好きで、中でも史上最高の名手である王羲之の書に心酔していた。有名な「蘭亭序」入手の経緯については逸話が生まれるくらいで、太宗の王羲之への執心を物語っている。王羲之の書を広く天下から集め、苦心に苦心を重ねて、ようやく入手した「蘭亭序」は太宗の死とともに、昭陵に葬らしめたほどである。
また太宗自身、この王羲之の法に則った見事な作品である「温泉銘」(648年)を残している。
ところで、官吏登用試験である科挙の課目にも書を加えて有能の書家を重く用いたこともあって、書道の黄金時代を現出した。先の初唐の三大家がそうである。科挙では、楷書が正しく美しく書けなければ合格できなかった。だから、文字の外見は整った。しかし、その一方で、性情雅致は次第に失われ、その書写も機械的観念的になったとも評される。科挙の制は書を普及発達させる上には大きな力があったが、芸術的発展の上での影響については疑問視する書家もいる。
(鈴木・伊東、1996年[2010年版]、51頁~59頁)

さて、唐の太宗の書として、「温泉銘」がよく知られている。この書は、全体を通じて、起筆して力を抜くだけの二折法の「トン・スー」の筆蝕に主律されていると石川九楊はいう。古法、アルカイック書法は、その二折法と同時に、「転折の不在の傾向」をもつとみる。
たとえば、「口」字の画数を考えてみればよい。この「口」字の画数が三画であると数えられるのは、横筆部と縦筆部が連続的に一画で書かれるべきものであるという古法(アルカイック)時代の名残りであると石川はいう。三折法が成立し、三折法に基づいて書かれるなら、「口」字は四画と数えられるべきものである。しかし、二折法は転折部を露わにせず、横筆から縦筆にまたがる一画がいっきに書かれようとし、結字的にはいわゆる向勢をもたらすことが多く(その典型例としては、鐘繇筆と伝えられる「薦季直表(せんきちょくひょう)」を想定できる)、率意の二折書法と相まってふくよかで穏やかな、アルカイックな姿を見せると石川は解説している
(石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、187頁)。

また、唐太宗の「晋祠銘」の飛白体の題額には、イスラム文字の影響が見られるとも言われ、また「大秦景教流行中国碑」(781年)などには下部にイスラム文字が刻されており、当時の大国際都市・長安の姿を彷彿とさせる
(石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、174頁)。

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中国書史

唐の太宗と書家たち


唐の太宗は、貞観元年(627)、中央政府の文官武官の子弟を弘文館に集めて、もう70歳という虞世南と欧陽詢に書法の教授を開始させた。若い褚遂良は館長に任じられ、カリキュラムの作成に励んだ。
太宗は王羲之の書へ心酔し、その書を勅命により手もとに集めたが、貞観13年(639)、勅命を下して集めた王羲之の書を分類整理した。3000点にも及ぶ王羲之の書を類別し、真偽の鑑定をしたのが、編集長の褚遂良であった。その結果、楷書50点が8巻、行書240点が40巻、草書2000点が80巻にまとめられたという。
編集された王羲之の書は、弘文館の子弟に、習字の手本として与えられた。巻末には、太宗の筆になる「勅」の一字を大きくおいて、その下に「臣・褚遂良校シテ失無シ」と奥付た。この奥付けのある法帖は館本とよばれて、書的権威の象徴とされた。
ともあれ、虞世南は638年に、欧陽詢は641年にこの世を去ったので、二人なきあと、褚遂良はひとり書の第一人者としてたたねばならなかった。
(榊莫山『書の歴史―中国と日本―』創元社、1970年[1995年版]、56頁~57頁)

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書の歴史―中国と日本 (1970年)


さて、このようにして、虞世南、欧陽詢、褚遂良が華やかに楷書の名作を残しながら、その楷法はまたたくうちに、影を潜めてしまう。それはなぜだろうか。この興味ある問題について、榊莫山は次のように推察している。
初唐の名家が生みだした楷法は、太宗と弘文館をぬきにして、つまり唐王朝のバックアップを背景にしなければ考えることができないという点に注目している。すなわち、唐王朝という偉大な組織の中にあってはじめて楷法の爛熟と名家の誕生がもたらされたと考えている。そして、彼ら王朝人の自我の自覚が感受性の解放となって、絢爛とした黄金期を迎えたというよりも、初唐の三大家は、王朝のシステムにどのように迎合し、いかにして有能な書の指導者として立つかという、きわめて普遍的な意志の信奉者であったとして理解できるのではないかと主張している。彼らの書をみたとき、そのことがよりはっきりとうなづけるという。
その姿態は王朝貴族の趣味ともいうべき、一種の冷徹さにおおわれて、人間的なにおいが息をひそめているのではないかとみる。その厳格な様式を通過するのは、結構の斉正さと筆法の精緻さからもたらされるつめたい気韻であっても、人間の精神の豊かさや官能の表象は決して顔を出さず、非情の様式であると榊は評している(榊、1970年[1995年版]、57頁~58頁)。

この唐初と、日本の明治初年の書道事情について、書家の青山杉雨は面白いことを述べている。すなわち、
「このような唐初の書道事情を見ていると、私はいつも日本の明治初年の書道事情を思い浮べます。江戸末期―いわゆる御家流という堕落しきった幕府のご用文字の氾濫を、見事に払拭して新鮮な官用文字として登場したのが、巻菱湖(まきりょうこ)や中沢雪城(なかざわせつじょう)などの書いた、欧陽詢を主とした唐初様式の端正な楷書です。まさに明治政府が志向する新時代を象徴するかの如き感じを、当時の人々はこの楷書に発見したことでしょう。歴史の循環がこんな所にも現われていることに、私はいつも深い興味を感じております。」(青山、1982年、37頁~38頁)。
つまり中国の六朝から唐初へという時代と、日本の江戸末期から明治初年という時代は、政治的には、混乱期から統一期へと収攬した時代であったが、書道事情から見た場合、唐初に三大家の楷書の傑作が出たように、日本の明治初年、欧陽詢を主とした唐初様式の端正な楷書を巻菱湖や中沢雪城が書いたということである。いわゆる御家流という江戸末期の堕落した幕府のご用文字を払拭して、新鮮な官用文字の端正な楷書が登場したという。それはまさに明治政府が志向する新時代を象徴するかのような事であったという
(青山、1982年、36頁~38頁、44頁。榊、1970年[1995年版]、55頁。鈴木・伊東、1996年[2010年版]、51頁~59頁)


≪書道の歴史概観 その3≫

2021-02-13 12:08:10 | 書道の歴史
≪書道の歴史概観 その3≫
(2021年2月13日投稿)




【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史


【はじめに】


 今回のブログは、引き続き、王羲之の「蘭亭序」について考えてみる。松本清張もその推理小説で取り上げているので、それについても紹介してみる。
 また、王羲之の草書「十七帖」や王羲之の書の魅力、および息子王献之について触れてみたい。



さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・「蘭亭序」と松本清張の推理小説について
・王羲之の草書「十七帖」について
・「蘭亭序」に関連して
・王羲之の書の魅力について
・入木道について
・王羲之の書に対する夏目房之介の見方
・王羲之の息子王献之について







「蘭亭序」と松本清張の推理小説について


松本清張の傑作に「書道教授」というのがあり、そこに「蘭亭序」がでてくる(宮部みゆき編『松本清張傑作短篇コレクション 中』文春文庫、2004年所収、73頁~241頁)。
ストーリーを簡単に説明しておく。
呉服屋の主人が亡くなり、未亡人となった50歳すぎの女性、勝村久子が店をたたんで、書道を教えることになる。しかし、裏商売として、盗品の売買をしていたことが後に判明する。
主人公の川上克次は、銀行に勤めているが、古本屋の女房、妙子に好意を寄せるが叶わず、彼女に似たホステスの神谷文子と深い仲になる。しかし金を要求してくるホステス文子に嫌気がさし、その書道教室の家で殺害する。死体処理は弱味につけこんで、その書道教授の久子に任せることになる。
2年が経ち、迷宮入りになりかけたホステス殺害事件も、川上の妻に買ってあげた着物から、意外な方向に展開した。つまり、妻がお気に入りの着物に執着するあまり、探し回り、偶然、自分の着物を着ている女性を町で見かけ、盗品買いの組織を警察が摘発することになる。しかし、このことが結果的に、皮肉にも夫が逮捕されるきっかけになってしまうというストーリーである。
この松本清張の「書道教授」という作品は、『週刊朝日』に連載されたシリーズの一作で、1969年から1970年にかけて発表されたものである。宮部みゆきは、この「書道教授」という作品を次のように要約している。「身近にいる四人の女の、それぞれに腹の据わった生き方に振り回され、勝手に踊りをおどっちゃって自滅する、滑稽で悲しいスケベ男の犯罪譚であります。」と。
四人の女性とは、次の人物である。
①主人公・川上克次の妻、保子。
②主人公の行きつけの古本屋「谷口書店」の女房、妙子。
③呉服店の寡婦で、書道教授をしている勝村久子。
④主人公の愛人で、バー勤めの神谷文子。
宮部みゆきが、主人公の川上に腹が立つのは、文子と切れた彼が、妻の保子に着物を買ってやると言い出し、保子が無邪気に喜ぶくだりであるという。川上は、文子に搾り取られた金を思えば安いものだと思い、「その程度の金で妻がよろこぶのも、平凡な日常生活のありがたさだった」と記されている箇所である。浮気ばかりして、妻をほったらかして、そのうえ女房を舐めるなと宮部は怒っている。
(宮部みゆき編『松本清張傑作短篇コレクション 中』文春文庫、2004年12頁~13頁、204頁、241頁)

【宮部みゆき編『松本清張傑作短篇コレクション 中』文春文庫はこちらから】

宮部みゆき責任編集 松本清張傑作短篇コレクション 中 (文春文庫)

話は横道にそれたが、「書道教授」の勝村久子が「蘭亭序」を手本として、「永字八法」および字の「病勢」について説く場面は、やはり注目に値する(宮部編、2004年、99頁、124頁、140頁、149頁~150頁)。
銀行の外務係をしている川上克次は、呉服店の木の札に書かれた、気品があって惚れぼれするような文字に感心し、書道を習いたいと思った。川上は学生時代に書道を習ったことがあり、銀行の能書家として知られていた。再び書道を始めたいと思ったのは、落ち着きを与える効果があるからであった。
筆法の練習として、手本としたのは、「蘭亭序」である。
「勝村久子は半紙に書いたものを見せた。それは、手本としてよく使われる「蘭亭序」のはじめのところだった。楷書の字は女性とは思われないくらい雄渾で、久子の細い身体からは想像のできないほどの勢いがあった。どこか王羲之の書風を思わせた」(宮部編、2004年、99頁)。

「永字八法」についても、次のような記述がある。「今日も「永和九年歳在」の練習で、当分はここの稽古にとどまりそうだった。ことに「永」の字は「八法」といって筆法の型が集約されている。点書のテンやハネや棒には、いちいち「勒(ろく)」とか「磔(たく)」とかむずかしい名前がついている。」(宮部編、2004年、123頁)。
また、「永字八法」教育には、禁忌すべき書法として「八病八疾」がある。たとえば、八病の一つに、「鶴膝(かくしつ)」というのがある。これは、縦画(弩)とはね(趯)の病である。起筆と終筆が極端に太り、送筆部が細く、かつ終筆部から細く長くはねられた姿は、鶴の膝(ひざ)を連想させるため、この呼称がある。
また、八疾の一つとして「撒箒(さんそう)」がある。左はらい(掠)と右はらい(磔)の先が三角形に収斂しないと、箒(ほうき)や刷毛で書いたような、ハケ目状の収まりのつかないはらいの形状が生まれることをいう。
(石川九楊『書を学ぶ―技法と実践』ちくま新書、1997年、133頁~139頁)

【石川九楊『書を学ぶ―技法と実践』ちくま新書はこちらから】

書を学ぶ―技法と実践 (ちくま新書)


松本清張の「書道教授」でも、「永字八法」の病勢について記している。つまり、「永字八法」の字の病弊について、勝村久子が講義する場面が描かれている。
たとえば、次のように出てくる。
勝村久子は川上に話した。
「……では、病気にかからないようにするにはどうすればよいか、と申しますと、それにはまず癖のない、点画の正しいお手本で習うことがいちばんですが、字の病気をよく知っておき、これにかからぬように気をつけることでございます。字の病勢とは、どんなものを云うかと申しますと、昔から書道のうえで、忌まれている病勢を申しましょう」
久子は、そう云って朱筆を揮い、点書の悪い見本を書いて示した。
「……こんなふうに、打った点がごつごつと角立ったのを牛頭(ぎゅうとう)といいまして、避けなければいけません。……これは角に力を入れすぎて急に力を抜くと出てくる形で、稜角(りょうかく)といい、醜いものにされています。……これは筆の入れかたと止めかたが悪い例で、竹節(ちくせつ)と申しております。……これは、おわかりのように、はじめと終わりに、あまり力を入れすぎて、途中がすっかりお留守になったために形が悪くなったもので、上下が関節のように大きく、その間が細い鶴の足に似ているところから鶴膝(かくしつ)という名がついております。……これは磔法のハネ方が悪くて、箒(ほうき)のようになってしまいますから撒箒(さんそう)といって忌まれています……」
「永字八法」についてだけでも、字の「病勢」を勝村久子は講義し、その見本を書いて示した。書の習いはじめには、この病気にかからぬよう十分に気をつけよ、というのであるが、川上は、聞いているうちに、これは処世の上にも通じていると思い、文子のような女からの苦しみが予防できなかったことをここでも後悔するのだった。勝村久子から書道の講釈を聞いて、人生教訓を感じるのは、やはり彼女の残光のような人柄であった。」
(宮部みゆき編『松本清張傑作短篇コレクション 中』文春文庫、2004年所収、「書道教授」、124頁~125頁)

書家の石川九楊は、松本清張のこの推理小説について言及している。
「書の評語はごく月並み。書道教授は中年の未亡人。書を習う理由は心を落ち着かせるため。学習材料が王羲之筆「蘭亭叙」。「永字八法」と「八病八弊(はっぺいはっしつ)」を教えられるという設定。いかにもありそうなことが並んでいる。ありそうなことがこうまで完璧に揃うと、逆に現実感を失ってしまう。プロットを夢中で追いかけるタイプの推理小説の設定としては、この方が邪魔がなくて良いのかもしれない。」と記している。
(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、45頁~46頁)

【石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年はこちらから】

現代作家100人の字 (新潮文庫)

かなり手厳しい書評である。
また、石川九楊は松本清張の書についても批評している。松本清張の書風は、平安王朝末期の爛熟の書や絢爛たる桃山、寛永期の和様の命脈を伝えているという。そして、書画「青木繁像」について評している。素人の私などは、その書を達筆でうまいと思うのだが、石川は、<青><清>に俳優のサイン風の通俗的な歪形(ゆがみ)が見通せるといい、内に俗を孕みながら、外側を高貴に飾り立てた書と言えようと、これまた手厳しい評を述べている。
(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、44頁)。

王羲之の草書「十七帖」について


王羲之の草書「十七帖」の文字群は皆素朴であり、おおらかであり、それでいて雄大であり、いずれの文字の姿も美しい。
王鐸が二王帖と称するものを持っていて、一日はこれを中心として終日臨書をし、翌日は求めに応じて揮毫し、またその翌日は二王帖など習うことを日課としたといわれる。
「十七帖」でどのような筆を使用したかは不明であるが、村上三島は、羊毛のような柔らかい筆ではなく、長鋒でもなく、ある程度、こわい毛の筆であったと想像している。というのは、曲線のたわみが柔らかい毛の筆ででやすい、なまぬるいものではなく、ぐっと張りの強いものを感じるからであるとする。この簡潔さは相当こわい毛でなければ出ないとしている。
(村上三島『独習書道技法講座9 草書・十七帖』二玄社、1984年、33頁)


「蘭亭序」に関連して


大溪は、「町書家の悲劇」と題して、王羲之の「蘭亭序」に関連することを述べている。書とは何かが解っていない書家のことを大溪は「町書家」と呼んで、柳田泰雲という作家を批判している(この書家は金澤泰子の師匠にあたる人物のようである)。
柳田泰雲は、
「羣賢畢至少長咸集
 崇山峻嶺茂林脩竹」を対連として作品にした。
しかしこれでは切れ目で字数が揃わないと批評している。柳田は字数で適当に切って揃えているので、まずいという。
どうしても、「蘭亭序」のこの箇所を書くとしたら、次のように対連にすべきであるという。
①「羣賢畢至少長咸集
  此地有崇山峻嶺」
②もしくは、
「羣賢畢至少長咸集
 此地有崇山峻嶺茂林脩竹」
これらのどちらかであれば、文句はないという。これは脱字ではなく、8字で揃うことを意図して、「此地有」を省略したものである。柳田の作品には、「有」の述語が抜けており、正確には文章として成立しない。述語のない、句だけのこともないではないが、この場合は柳田の文ではない。人の文を借りて書するならば、意味の通るように書くべきであり、それが最低の礼儀であると大溪は主張している。
字が「へた」ならやむをえないが、間違いを書いては駄目で、書家は正しい字を書き、正しく文章も理解せねばならないという。書とは何かが解っていない町書家に、芸術的な書など書けない。もっとも書は芸術である前に文化であり、不見識はいけない。文化にはそれぞれよってきたるべき源があるので、それを理解せよという。
(大溪洗耳『戦後日本の書をダメにした七人』日貿出版社、1985年、88頁~91頁)

【大溪洗耳『戦後日本の書をダメにした七人』日貿出版社はこちらから】

戦後日本の書をダメにした七人

王羲之の書の魅力について


書聖王羲之の書の魅力について、魚住和晃は次のように表現している。
「李柏文書はもとより、楼蘭残紙においても、一字一字を見れば共通点を有するものであったとしても、この字と字との流れという視点においては、ほとんど表現し得ていない。他にほとんど参考にすべき実証資料がないのだから、軽率な断定は許されないが、この二者に比べると、王羲之の書はまさしく飛躍的に洗練されたものである。
そして、喪乱帖(そうらんじょう)、孔侍中帖(こうじちゅうじょう)に見られるあざやかな字間の流れを速度豊かな筆さばきこそが当時における王羲之の書法の傑出した表現力であり、この斬新さが人びとを魅了したものではないかと私は考えている。そうした見方からすれば、一字一字を取り出して組み立てた集字聖教序は、王羲之書法の魅力としては、半減したものであるといわざるをえず、風信帖もまた、このあざやかさを有していない。」

つまり、あざやかな字間の流れと、速度豊かな筆さばきに王羲之の書法の傑出した表現力が現れており、その斬新さに魅了されたという。
(魚住和晃『「書」と漢字 和様生成の道程』講談社選書メチエ、1996年、178頁)

【魚住和晃『「書」と漢字―和様生成の道程』講談社はこちらから】

「書」と漢字 (講談社学術文庫)



この魚住の引用にも出てきたように、王羲之にまつわる書に、「集字聖教序」がある。玄奘三蔵は、インドから持ち帰った仏典の訳に、太宗から序文「聖教序」を賜ったが、これを記念して、述聖記と二つの勅答、般若心経を加えて、碑を建立することになった。興福寺の懐仁(えにん)がこれにあたり、宮中に収蔵されていた王羲之の墨跡から序に使われている字を集め(集字)、25年かけて完成したと伝えられる。魚住の評価は低かったが、この「集字聖教序」は、王羲之の書について考える上で、重要である。
たとえば、最澄の「久隔帖(きゅうかくじょう)」の書風は、王羲之の「集字聖教序」の書風によく似ている。このことは王羲之の書を尊重した奈良時代の風潮を、最澄も若い頃から身につけていたことを物語るものとみなされている。
「久隔帖」は最澄自筆の書状としては、現在唯一のものであり、澄みきった韻(ひび)きの高さは格別であるといわれている。
また天平宝字3年(759)、鑑真和尚の唐招提寺創立にあたり、孝謙天皇から勅筆を賜わって、「唐招提寺」と記した木額(もくがく)を作った。その筆法にも、「集字聖教序」のそれに酷似した字が見られることは注目に値する。
(堀江知彦『名筆鑑賞入門 中国風の書―日本の名筆・その歴史と美の鑑賞法』知道出版、1991年、68頁~69頁、78頁~80頁)

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中国風の書―日本の名筆・その歴史と美と鑑賞法 (名筆鑑賞入門)

入木道について


王羲之の書が抜きんでて秀れていたことを語る伝説はたくさん残っている。その一つにこんな話がある。王羲之の書を版木に彫ろうとしたところ、墨が木のなかに三分も深く沁みこんだという。筆力が強いからである。
入木(じゅぼく)という言葉がそこから生まれ、人々はいつしか書のことを入木道と呼ぶようになったという話である。
伝説というものには真実の力がこもっている。入木というこの話からも、王羲之の卓抜した筆力が伝わってくる。王羲之の作品に「喪乱帖」という有名な尺牘がある。それは筆力が強く、しかも線が深い。
「喪乱帖」の線には王羲之の深い思いがびっしり詰めこまれていると鈴木史楼は推測している。その「喪乱帖」の初めの方には、戦乱で再び祖先の墓が荒れていると聞いて、なんとも残念でならず、悲しみのあまり、心が砕けるほど辛い思いをしていることを述べている。例えば、「痛み心肝を貫く」とあるところなどを見れば、悲憤に耐えない思いを、その筆は一字一字余すところなく書いていることが感じられる。
(鈴木史楼『書のたのしみかた』新潮選書、1997年[1998年版]、236頁)

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書のたのしみかた (新潮選書)




王羲之の書に対する夏目房之介の見方


夏目漱石の孫である夏目房之介は「天才と書聖のちがい」と題するエッセイで、王羲之の書は天才的なひらめきの感じられるものでもなく、見事ではあっても震撼するほどの絶対的価値を感じないと記している。彼にとって、天才的な表現で、絶対的価値のあるものとは、ミロの絵、モーツァルトの音楽、キューブリックの映画、谷岡ヤスジのマンガを指すらしい。
ただ、王羲之の書にも、才気を感じる部分があるという。例えば、「喪乱帖」の「哀」の右のくるりと回る筆の剽軽さとか、「臨」の省略された偏の大胆な太さと旁のやや強気な軽妙さとの対比などを、只者でないと感じるという。しかし、これらの字にビビるほどの天才のひらめきを感じるわけでもないと断りつつも、夏目房之介は次のようにも述べている。
「私の感じる「天才」とはその規範からの逸脱で計られる。だから王羲之について天才のひらめきを考えるのはそもそも天才という存在を可能にする原型そのものに天才を問うようなものじゃないか」と。
(石川九楊編『書の宇宙6 書の古法<アルカイック>王羲之』二玄社、1997年、86頁~87頁)

【石川九楊編『書の宇宙6 書の古法<アルカイック>王羲之』二玄社はこちらから】

書の宇宙〈6〉書の古法アルカイック・王羲之

王羲之の息子王献之について


王羲之の息子(第七子)である王献之も能書家としてよく知られている。父の王羲之を大王、この王献之を小王、父子のことを二王という。
その書に「洛神賦十三行」がある。これは魏の武帝の子曹植(そうち)の洛神賦の一段で、この帖には十三行しかないので、この名がある。特に波法がうまく、スマートで暢びのびしている。総じて貫禄は思慮深い王羲之にあり、王献之は敏感で利巧で才のひらめきがあるので、精彩があると評される。魚にたとえるなら、「羲之が鯛なら、献之は鱸(すずき)である」といわれる。
(鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』日本習字普及協会、1996年[2010年版]、41頁~43頁)

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新説和漢書道史



≪書道の歴史概観 その2≫

2021-02-13 11:50:38 | 書道の歴史
≪書道の歴史概観 その2≫
(2021年2月13日投稿)
 




【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史


【はじめに】


 今回は、構想にしたがって、王羲之および「蘭亭序」について考えてみたい。あわせて、欧陽詢、褚遂良の書いた「蘭亭序」、石川九楊の「蘭亭序」に対する評価について記しておく。




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・王羲之について
・「蘭亭序」の系統について
・「神龍半印本蘭亭序」について
・石川九楊の「神龍半印本」に対する評価について
・「蘭亭序 八柱第三本」について
・欧陽詢と褚遂良の「蘭亭序」について







王羲之について


王羲之(307-365、異説あり)は、東晋の名族、琅邪の王氏の出身で、右軍将軍なる官についたことから、世に王右軍とも称される。王羲之は幼少の頃、汝陰太守李矩の妻である衛鑠(えいしゃく、272-349)を師としたと伝えられる。鐘繇より衛夫人、衛夫人から王羲之にと筆法が伝えられたとする説が残っている。
ところで、王羲之が44歳のとき、右軍将軍、会稽の内史となり任地におもむき、在任4年ののち官を辞し、その後、山水の風光に富む会稽にとどまり、悠々自適の生活を送り、58歳でこの地で生涯を終えた。
書は八分、隷、楷、行、草、章草、飛白の各書体をよくしたと伝えられるが、今日伝存する書跡はすべて楷、行、草の三体に限られる。これらの三体の書体はいかにも貴族的で典雅端正、その人間性から生まれ、縹渺たる仙気を含み、一種の風格がそなわっているとされる。隋唐以来、書聖と仰がれ、その子王献之とともに二王と称され、中国書道の正統となった。
王献之(344-388)は王羲之の第七子で、父を大王と呼ぶのに対して、小王と呼ばれ、父の書より逸気に富み、妍媚な書風を成した。
(平山観月『新中国書道史』有朋堂、1965年[1972年版]、154頁~155頁)

【平山観月『新中国書道史』有朋堂はこちらから】

新中国書道史 (1962年)

さて、中国の書法史において、王羲之の占める位置は重要である。今日、王羲之の真筆は残念ながら地球上に一作も現存していないといわれる。
ひと口に王羲之の書といっても、今日的な立場から見ると、その表現は3つのパターンに分けられる。
①「楽毅論」、「黄庭経」、「東方朔画讃」に見る小さい楷書
 字形が比較的ばったく、起筆が唐代の楷書のように明確でない、いわゆる魏晋小楷に類せられるもの。
②「蘭亭序」に見る行書
③尺牘(せきとく)に見る草書
これら3つが主であるが、もう一つ、いわば合成体ともいうべき王羲之の書のスタイルとして、「集字聖教序」がある。
(魚住和晃『「書」と漢字 和様生成の道程』講談社選書メチエ、1996年、167頁~172頁)

【魚住和晃『「書」と漢字―和様生成の道程』講談社はこちらから】

「書」と漢字 (講談社学術文庫)


このうち、②の「蘭亭序」について詳述しておこう。
永和九年(353)3月3日、東晋の穆宗皇帝のとき、王羲之をはじめ42人が集まり、禊事(けいじ、厄払い)をした。水の流れに觴(さかずき、盃)を流しながら、詩を作った。その時、王羲之が詩の序文を作った。これが「蘭亭序」である。
蘭亭は、会稽郡山陰県の西南20里(約8キロ)あまりに位置する名勝の地である。この会稽郡山陰県は現在の浙江省紹興市で、魯迅の故郷でもある。会稽の名は、夏王朝の創始者である禹王が、浙江、すなわち銭塘江の東にあたるために浙東とよばれるこの地に、天下の諸侯をあつめてそれぞれの政治の成績を採点したことに由来するという。会稽とは、「会(あつ)め稽(かん)がえる」という意味である。その禹王はそのままその地に果て、いわゆる会稽山に葬られたという。伝説時代のことはともかくとして、春秋時代にはこの地方を中心に越の国が建国され、越王勾践と呉王夫差とのあいだに戦われた凄絶な復讐合戦は、「臥薪嘗胆」の故事とともに有名である。秦の始皇帝は、紀元前210年には、会稽山に禹王を祭るとともに、南海にのぞむ地にみずからの頌徳碑を建設した。中国のヘロドトスとよばれる漢の司馬遷は、青年時代におこなった長途の旅行にあたって、会稽にも足跡をしるした。
永和7年(351)、会稽の長官として赴任してきた王羲之が、そこを終焉の地とひそかに心にきめたのも、会稽の自然につよくひかれたためであった。会稽は、都の建康にもけっしてひけをとらぬ文人の中心でもあった。哲学討論ないし機智のさびをきかせた談論、つまりいわゆる清談や、仏典の講釈やらがさかんにおこなわれた。吉川忠夫は、会稽を日本の軽井沢に比している。
(吉川忠夫『王羲之―六朝貴族の世界』清水新書、1984年[1988年版]、36頁~39頁)

【吉川忠夫『王羲之―六朝貴族の世界』清水新書はこちらから】

新・人と歴史 拡大版 05 六朝貴族の世界 王羲之〔新訂版〕

ところで、「蘭亭序」は
「永和九年、歳ハ癸丑ニ在リ。暮春ノ初、会稽山陰ノ蘭亭ニ会ス。禊事ヲ脩スル也。群賢畢ク至リ、少長咸集マル。」という書き出しである。この文章は、28行で、324字であった。
その時に用いた紙は蚕繭紙(さんけんし)という紙で、筆は鼠鬚筆(そしゅひつ)であった。紙は楮(こうぞ)をもって漉いた粗製のものであったが、繊維が光り、紙面が蚕の繭のようだったので、蚕繭紙といわれた。また、鼠の鬚(ひげ)で作った剛い筆であったので、鼠鬚筆といわれた。
王羲之の「蘭亭序」といえば、古来行書の学習の規範として、「集字聖教序」ともに双璧とされている。欧法、褚法、虞法それぞれの「蘭亭序」が伝えられているが、褚遂良書と伝えられる「神龍半印本蘭亭序」が最も好まれる(ただ、この点については、後述するように、石川九楊が異を唱えている。)。細部まで筆路筆鋒が明快で、神経が行き届いているからである。
(吉丸竹軒『楽しく学ぶ 四体蘭亭叙』金園社、2012年、3頁、16頁、20頁)

【吉丸竹軒『楽しく学ぶ 四体蘭亭叙』金園社はこちらから】

楽しく学ぶ吉丸竹軒 四体蘭亭叙 (最高のお手本シリーズ)

「蘭亭序」の系統について


藤原鶴来は、伝存する「蘭亭序」を次のように大別している。
①欧陽詢の臨書系統に属する定武本
②褚遂良の臨書系統に属する神龍半印本
③虞世南の臨と伝えられる張金界奴本
④馮承素(ふうしょうそ)の臨と伝えられる馮承素本
⑤その他、太宗から潘貴妃(はんきひ)に贈った「賜潘貴妃本蘭亭序」や、洛陽宮本(らくようきゅうぼん)などがある。
①の定武本は不鮮明ではあるが、高雅で骨力に優れているのが特徴である。②の神龍半印本は、点画が鮮明で爽快、筆勢が盛んで神彩がある。肉筆の感が強いから初学者の学習に恰好であるとされる。帖の首と尾に「神龍」の半印があるので、この名がある。
③の「張金界奴本」は精刻で鮮明で、末尾に「臣張金界奴上進」の七字があるのでこの名がある。神龍半印本にも似ており、筆路が明らかで精彩があるから、初学者にも習いやすい。北京でこの双鉤塡墨(籠字にとって墨をうずめたもの)が発見され印行されている。
(藤原、1927年[1981年版]、59頁~61頁)


④馮承素の臨と伝えられる馮承素本について、佘雪曼が、少し異なった解説を加えている。
馮承素は褚遂良と年輩が近い。彼は弘文館の搨書(とうしょ)人の代表で、また立派な摹印の技術をもっていた。その摹製の方法は、まず用紙を原本の上におき、各々の字の輪郭をとって、濃淡を見比べながら、墨をぬる。一毫といえどもおろそかにせず、原本と極めて真にせまったものとする。こうした摹本の一つは、神龍の小印を押してあり、唐摹と断ずべき一確証であるとされる。
神龍は中宗の年号であって、中宗は太宗の孫、高宗の子である。太宗が弘文館の摹本を皇子たちに分かち賜ったとき、高宗はそのうちの一本をもらっているはずであり、伝えて中宗に与えられ、一顆押された。そこで「神龍本」とよばれたとする。
ところで、唐の高宗のとき、懐仁和尚が王羲之の行書を集めて、「大唐三蔵聖教序」つまり「集字聖教序」をつくった。「蘭亭序」は行書の龍で、字数も最も多いので、採選のもっともよい対象であった。この「集字聖教序」と「蘭亭序」各本と同一の字を比較検討すると、欧陽詢の定武刻本や、宋人重摹の虞世南臨本、褚遂良臨本よりは、馮承素摹本の神龍本の字形に相合し、姿態は真にせまっており、懐仁の採ったところの祖本であると佘雪曼は主張している。
(佘雪曼編『書道技法講座7 行書 王羲之』二玄社、1970年[1982年版]、2頁~4頁)

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蘭亭叙[行書/東晋・王羲之] (改訂版 書道技法講座 7)

ところで、正倉院の宝庫には「東大寺献物帳」という目録がある。その中に、王羲之の書法二十巻というものがある。各巻いずれも上に「搨(とう)」と書き添えられている。このことから、王羲之の真筆そのものではなく、写しであったことがわかる。
この写しの方法は、真跡の上にごく薄い紙を載せ、原本の文字を一字一字輪郭どりをし、その輪郭の中に、原本の墨色を忠実に模して、墨を埋めてゆくものである。こうしてできた写しのことを「双鉤塡墨本(そうこうてんぼくぼん)」という。「搨」ということばはそれを意味している。
これらの双鉤本二十巻は、弘仁11年(820)10月3日に宝庫から出たまま、ゆくえを失ってしまったという。ただ、「喪乱帖」(御物)と「孔侍中帖」(九月十七日帖ともいう)」(前田育徳会蔵)という双鉤本は、書法二十巻の一部がかろうじて残ったものと想像されている。
(堀江知彦『書道の歴史』至文堂、1966年[1981年版]、10頁~12頁)

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書道の歴史 (1963年) (日本歴史新書)

「神龍半印本蘭亭序」について


北京の故宮博物院の「蘭亭序」の唐摹本の一本、蘭亭八柱第三帖にあたる横巻は、神龍の印があるので、神龍本とも呼ばれている。
松井如流は、この神龍本が一番王羲之の原本にもっとも忠実なものと考えている。その理由として、次の3点を挙げている。
①この神龍本は、鋒先きが鋭く且つ筆勢の勁い点を指摘している。王羲之は「蘭亭序」を書くのに鼠鬚筆を用いたと伝えられるから、その書はおそらく鋭い鋒先きを示していたにちがいなく、その上「喪乱帖」などの古い搨本の鋒先きの鋭い書であることをあわせて思うべきであろうとする。こうした点からしても、八柱第一帖(張金界奴本)、同第二帖よりも、この第三帖が優っていると松井は考えている。また、「定武本」などの鋒先きのあらわれていないもののほうが、いかにも古い趣を持っているかのように昔から言われてきたが、王羲之の真蹟は決してそんなものでなかったといってよいと主張している。
②「蘭亭序」に文字を訂正したところが数箇所あるが、神龍本では墨の濃淡によってはっきりさせている点を挙げている。原本は必ずしもそうではなかったであろうけれども、訂正の箇所をわかりよくするために、特に意を用いたものと推測している。
③「崇山峻領」の崇字について、注目して、検討している。つまり、崇字を書くのに、縦に一直画を書き、それを中心にして八を書く、あたかも小字のように見え、それに横画を添えて、山カンムリとしている。山カンムリを書くのに、「蘭亭序」の崇字のように小字に一横画を添える書き方をしているものに、唐の太宗の書「温泉銘」がある。「巌虹曜巌」の巌字の山カンムリがそれである。このことから、太宗が日頃から熱愛してやまなかった「蘭亭序」の崇字を思い出して、このように書いたのではないかと推察している。この神龍本は、王羲之の原本に忠実に摹取した証左であるという。このような理由から、神龍本をもっとも尊重されるべきであると松井如流は主張している(松井、1977年、106頁~108頁)。
筒井茂徳は、「張金界奴本蘭亭序」「神龍半印本蘭亭序」「定武本蘭亭序」の三本のうち、「神龍半印本蘭亭序」を底本としている。その理由として、「三本のうち、筆路が最も見やすく、筆遣いの細部にいたるまで克明に見え、行書の手本としてふさわしいからである」と述べている。
(筒井茂徳『行書がうまくなる本 蘭亭序を習う』二玄社、2009年[2013年版]、7頁)

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行書がうまくなる本[蘭亭序を習う]


石川九楊の「神龍半印本」に対する評価について


北京故宮博物院に「蘭亭序」の墨跡本「八柱第一本(張金界奴本)」、「八柱第二本」、「八柱第三本(神龍半印本)」が所蔵されている。
近年の書道界では「八柱第一本」と「八柱第三本」を高く評価する傾向があるが、「八柱第三本」を評価するのは誤りであると石川は主張している。「馮承素摹本」と題され、「神龍半印本」と通称される墨跡本「八柱第三本」は、書としての体裁すらなさない、まったくひどい代物であると断言している。
墨跡本の「八柱第一本」と「八柱第三本」を、双鉤塡墨とみなしている。つまり、文字を敷き写して、輪郭を先に写し取り、後にそのカゴ取りした中を墨で塗りつぶすことによってつくられたものである。

①「八柱第一本」は、多くの初唐楷書書法つまり三折法も姿を見せるが、一部に初期六朝書法つまり二折法で書かれた痕跡があり、また隷書体の残渣をとどめる箇所もある。この意味において、三者の中で、最も王羲之時代に近い書きぶりを残した双鉤塡墨の書跡であるとみなしている。
②「八柱第二本」は、まったく古法・二折法の姿を見せず、初唐代以降の新法・三折法以降の書で、おそらく臨本であるという。文字構成の点から見て、翁方綱や啓功が唱える米芾作の臨本である可能性は十分あると同意している。
③「八柱第三本」は、二折法・古法についての理解も、また書や文字についても理解の浅い者になるものである。つまり、「八柱第一本」や「八柱第二本」と比較対象にもならない拙劣な双鉤塡墨であると石川はみなしている。
書は「筆蝕」を読むところからしか明らかにならないという石川の持論から判断する限り、上記のような評価を「蘭亭序」の「八柱第一本」「八柱第二本」「八柱第三本」に対して下している。
繰り返すが、現在、一般に書道界は、北京故宮博物院に所蔵されている墨跡本「八柱第三本(神龍半印本)」を高く評価している。しかし、石川九楊はこの説はどう考えても理解できないと主張している。つまり、「八柱第三本」を評価する書家は、その書を「読ん」でいないと批判している。「書を読む」とは、「筆蝕」を読むことであり、筆跡から、字画を描いている時の力の入り方、抜き方、その速度、展開を順に追っていくことを意味する。
「八柱第三本(神龍半印本)」については、伝えられる拓本(刻本)の方が、墨跡本より書の質がましであるというが、墨跡本「八柱第三本」は「奇想天外のヒゲ蘭亭」と名づけて、石川は低く評価している。
筆跡(ふであと)を辿り、筆蝕を読んでいくと、この書が双鉤塡墨本で、原本にワクをとり、墨を塗り込めてつくったとしても、原本の文字の形の意味を十分に解さずにつくり上げたものであることは、明らかであるとする。
なぜ書家が、それを「軽快なリズムで書き進む鋒先の動きが自由で華麗だ」とほめる気が知れないという。ピンピンとひげのように細く長くなった起筆や撥ねなど部分の動きだけをつまみ食い的に目をとめて、その印象を語っているにすぎず、書字の骨格を追わず、その筆蝕を読み込んでいないからだという。
たとえば、「蘭亭序」の「永和九年歳在癸丑暮春之初會」の13文字を検討すると、「暮」字について、次の点を指摘している。
「八柱第三本」の「癸」が細く、「丑」で極端に太くなり、「暮」で中程度に戻っており、その落差が評価できない。つまり統一と脈絡を欠いていて醜いという。また、「暮」字の上の「日」部の囲みの太さと下の「日」部との落差が不自然である。拓本の「神龍半印本」ではこれほどの落差はない。このように、石川は検討している。
「八柱第三本」は、中国の政治家である郭沫若、中国書法家協会の会長の啓功が一定の評価をした。この「八柱第三本」重視説は、その評価を無批判に追随する書道界の一部の性向と書を読み込む眼の未成熟とが生んだ珍奇な現象であると石川はみなしている。中国の言説は絶えず政治的であるので、その判断は慎重にすべきであるとも警告している。
そして、石川は、「八柱第一本(張金界奴本)」は、六朝書法と楷書書法の合成体(サイボーグ)であるとし、また宋代米芾の臨本かともいえる「八柱第二本」を出色としている。
(石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、105頁、110頁~112頁、115頁~117頁、123頁~124頁)

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中国書史

「蘭亭序 八柱第三本」について


「蘭亭序 八柱第三本」について、内藤乾吉は次のように解説している。
清内府旧蔵で、三希堂法帖第三冊および蘭亭八柱冊第三に刻されたものの原本であるが、それ以前にも刻本がいろいろある。
「式古堂書画彙考」「大観録」に著録されている。帖首と帖尾に、「神龍」という印の半分ずつがあるので神龍本または神龍半印本と呼ばれている。「式古堂書画彙考」には、縫に貞観、紹興の印があるといい、「大観録」にも貞観神龍の唐璽、紹興の宋璽ありといっているが、写真版で見る限りでは紹興の印はあるが貞観の印は認められないという。
刻本によっては、貞観や開元の印があるのもあるが、元の郭天錫の跋からヒントを得て偽作したものであろうと内藤乾吉はみている。
米芾の「書史」に、「古帖で貞観と開元の印を同用したものは一つもない、それは貞観の時のものが武后時代に宮外へ流出したが、開元の時に買上げに応じたものはみな貞観の印を切り取って出したからだ」といっている。これから考えても、貞観、神龍、開元と印が揃うのはおかしいことになると内藤乾吉は推察している。
ところで、張彦遠の『歴代名画記』の「敍古今公私印記」にも、貞観、開元の印は著録されているが、神龍の印は載せていない。郭天錫は張彦遠が捜訪し尽さなかったのであろうとしているが、これが果して神龍の時のものかどうかは疑問であるという。
また「唐模蘭亭」と題して、その下の縫上に押された模糊とした印を「式古堂書画彙考」には「神龍書府」と読んであるが、この点も疑問であるという。というのは、もしそう読めるならば、神龍の印が半分切れた縫上に「神龍書府」の全印があるのはおかしいから、これは神龍半印よりさらに後の偽印ということになるからである。翁方綱はこれら諸印はみな後人が加えたものだとしていると内藤乾吉は解説している。
さて、「蘭亭序八柱第三」は、三希堂法帖に「馮承素書」と題してあるが、これは郭天錫の跋に馮承素等の搨書人の双鉤塡墨と鑑定しているのによって、馮承素の書ときめてしまったのであろうと内藤乾吉は推測している。
これに反して翁方綱は、刻本神龍本を褚臨原本ではないけれども、褚臨系統であるとしている。

ところで、この本と褚臨黄絹本と内藤は比較して、次の点を指摘している。
①「和暢」の和字の口が、曰のようになっている点、娯字の女の横画に遊絲のある点など、相似たところがあるけれども、書風に黄絹本ほどの古気はない。
②この本には黄絹本には見られない羣字の雙杈や崇字の冗点があるところを見ると、むしろ搨書人の双鉤塡墨の系統と見るべきではないかという。ただ、この本は「八柱第二」と同様に、形の悪い字やなまくらな筆が多く、終わりの方はことに悪い。
唐初の宮廷の搨書人の作った双鉤塡墨本ならば、これほど形が崩れているはずはないから、この本は遥かに時代の降った模本と見るべきであると内藤はみている。そしてその点からいっても、神龍の印が中宗の時のものであるとは受け取りにくいという。
以上が、内藤乾吉の「蘭亭序八柱第三」に対する解説である。
(神田喜一郎ほか編『書道全集 巻4』平凡社刊、1965年、162頁~163頁)


ところで、石川九楊によれば、初唐代楷書以降の三過折法は、起筆・送筆・終筆を、「トン・スー・トン」と描き出す。「八柱第一本(張金界奴本)」は、第12行の「悟言一室之内」の「一」を描く筆触は、起筆+
送筆+終筆という構造は成立しておらず、古い六朝書法に従って書かれており、軽く触れるだけの起筆から、送筆とも終筆とも分化できないプロセスで描き出されており、「スー・グー」である。
いわば、時間と空間の分化の未成熟な筆触上で「アルカイックな豊潤さ」が感じられ、通俗的に表現するなら、「ぽってり蘭亭」と石川は呼んでいる。
(石川九楊『書とはどういう芸術か』中公新書、1994年、116頁~118頁。石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996、118頁~120頁)。

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書とはどういう芸術か―筆蝕の美学 (中公新書)

 前述したように、「蘭亭序」は永和九年(353)に会稽内史をつとめる王羲之が、三月三日の節句に曲水の宴を催し、そのときに作られた詩を集めて、自からその序文を著したものである。あまりの名品としての名高さに、唐太宗は策をめぐらしてこれを手に入れ、ついには死後も自身の陵墓である昭陵に副葬品として納めさせたといういわく因縁つきのものであるが、この「蘭亭序」は時の名手、欧陽詢、虞世南、褚遂良の各家に臨書による模本を作らせており、さらには完璧な写し取りである響搨本も作らせているので、それらを底本とした伝本は数多く残存する。
いま一つは尺牘(せきとく)で、草書が中心である。
もう一つ、いわば合成体ともいうべき王羲之書のスタイルがある。それが「集字聖教序(しゅうじしょうぎょうのじょ)」である(魚住、1996年、167頁~172頁)。
また、定武本と神龍本の「蘭亭序」について神田喜一郎も言及している。定武本は唐の太宗の勅命によって、欧陽詢がつくった模本を石に刻したが、その石が五代の戦乱に際し、一時行方不明になっていたが、宋初、河北省の正定にある定武というところから発見された拓本であるとする。
一方、神龍本は、欧陽詢と相並ぶ書道の大家褚遂良が、唐の太宗の命によってつくった模本から出たもので、神龍という印が押されているから、この名があると神田喜一郎は解説している。また、神龍は、先述したように、唐の中宗の年号で、太宗の死後になる。そこで、この神龍本は、則天武后の時に、太宗の墓をあばいて、そこに葬られた「蘭亭序」の原本を取出し、それを褚遂良が模したのであるというような説もあることを紹介している。(神田喜一郎『墨林閒話』岩波書店、1977年[1978年版]、49頁~54頁)

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墨林間話

欧陽詢と褚遂良の「蘭亭序」について


「蘭亭序」について王羲之が書いた肉筆は今は何も残っていない。私達が見ている神品の誉れが高い「蘭亭序」は、王羲之が書いた肉筆はないが、初唐の三大家の欧陽詢、褚遂良が写し取ったものが残っている。しかし欧陽詢と褚遂良の「蘭亭序」は趣きが異なっている。欧陽詢の方は深い静かな線で、沈着とみえ、褚遂良の方は明るく暢びやかな線で、痛快であるといわれる。二人の「蘭亭序」の書きぶりには、彼らの楷書の名品として知られている「九成宮醴泉銘」と「雁塔聖教序」の姿がおのずと浮かんでくるという。
(鈴木史楼『書のたのしみかた』新潮選書、1997年[1998年版]、233頁~234頁)

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書のたのしみかた (新潮選書)