(2022年3月30日投稿)
【はじめに】
今回のブログでも、引き続き、次の参考書をもとにして、『源氏物語』の原文を読んでいきたい。
〇桑原博史『新明解古典シリーズ5 源氏物語』三省堂、1990年[2017年版]
前回のストーリー展開の続きである。
【桑原博史『新明解古典シリーズ5 源氏物語』(三省堂)はこちらから】
桑原博史『新明解古典シリーズ5 源氏物語』(三省堂)
〇桑原博史『新明解古典シリーズ5 源氏物語』三省堂、1990年[2017年版]
【目次】
はじがき
凡例
桐壺
桐壺更衣(いずれの御時にか…)
光源氏の誕生(前の世にも、御契りや…)
桐壺更衣への迫害(かしこき御蔭をば…)
飽かぬ別れ(その年の夏、御息所…)
桐壺更衣の死(御胸のみ、つとふたがりて…)
蓬生の宿(野分だちて、にはかに膚寒き…)
小萩がもと(「目も見えはべらぬに…)
くれまどふ心の闇(くれまどふ心の闇も…)
藤壺宮の入内(年月に添へて、御息所の…)
光る君とかがやく日の宮(源氏の君は、御あたり…)
帚木
源氏の二面性(光源氏、名のみことごとしう…)
頭中将の女性論(「『女の、これはしもと…)
左馬頭の女性論(「『成り上れども、もとより…)
夕顔
夕顔の咲く辺り(六条わたりの御忍び歩きの…)
廃院に物の怪出現する(宵過ぐるほど…)
夕顔の死(帰り入りて探りたまへば…)
若紫
北山の春(わらは病みにわづらひたまひて…)
垣間見(日も、いと長きに…)
初草の生いゆく末(尼君、髪をかき撫でつつ…)
密会(藤壺宮、悩みたまふことありて…)
末摘花
前栽の雪(いとど、憂ふなりつる雪…)
末摘花の容姿(まづ、居丈の高う…)
紅葉賀
源氏と藤壺の苦悩(四月に、内裏へ参りたまふ…)
葵
頼もしげなき心(まことや、かの、六条御息所…)
御禊の日(御禊の日、上達部など…)
車争い(隙もなう、立ち渡りたるに…)
生霊の噂に悩む御息所(おほい殿には、御物の怪…)
生霊の出現(まだ、さるべきほどにもあらず…)
そらに乱るるわが魂を(あまり、いたう泣きたまへば…)
夕霧の誕生と葵の上の死(少し、御声も、しづまりたまへれば…)
賢木
野の宮(つらきものに、思ひ果てたまひ…)
御息所との対面(北の対の、さるべき所に…)
朧月夜との密会(そのころ、かんの君…)
右大臣の暴露(かんの君、いと、わびしう…)
須磨
心づくしの秋風(須磨には、いとど心づくしの…)
恩賜の御衣(前栽の花、いろいろ咲き乱れ…)
明石
明石の月(君は、「このごろ浪の音に…)
澪標
明石の姫君(まことや。「かの、明石に…)
薄雲
うはの空なる心地(冬になりゆくままに…)
母子の別れ(雪・霰がちに、心ぼそさ…)
少女
夕霧の元服(大殿腹のわか君の御元服のこと…)
玉鬘
あかざりし夕顔(とし月へだたりぬれど…)
椿市の宿(からうじて、椿市といふ所に…)
衣装配り(うへも、見たまうて…)
胡蝶
恋文(兵部卿の宮の、ほどなく…)
蛍
絵物語(なが雨、例の年よりもいたくして…)
藤裏葉
わが宿の藤(ここらの年頃のおもひの…)
明石の姫君の入内(その夜は、うへ添ひて…)
若菜 上
いはけなき姫君(三日がほど、かの院よりも…)
几帳のきは(几帳のきは、すこし入りたる…)
若菜 下
浅緑の文(まだ、朝すずみのほどに…)
柏木
薫君の誕生(宮は、この暮れつかたより…)
御法
紫の上逝去(秋待ちつけて、世の中…)
幻
もしほ草(落ちとまりて、かたはなるべき…)
橋姫
黄鐘調のしらべ(秋の末つかた、四季に…)
月見る姫たち(あなたに通ふべかめる透垣の…)
総角
身もなき雛(「よろしき隙あらば…)
空ゆく月(雪の、かきくらし降る日…)
宿木
形代の君(「年ごろは、『世にあらむ』とも…)
東屋
衣のすそ(若君も寝たまへりければ…)
浮舟
橘の小島(「いと、はかなげなる物」と…)
決意(君は、「げに、只今、いと悪しく…)
蜻蛉
行方知れず(かしこには、人々、おはせぬを…)
手習
浮舟の出家(「とまれかくまれ、おぼし立ちて…)
夢浮橋
薫の手紙(尼君、御文ひきときて…)
人のかくし据ゑたるにや(所につけて、をかしきあるじなど…)
作品・作者解説
源氏物語年立
系図
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
・若紫 上 几帳のきは
・御法
若紫 上 几帳のきは
几帳のきは、すこし入りたるほどに、袿姿に
て立ちたまへる人あり。階より西の二の間の東
のそばなれば、まぎれ所もなく、あらはに見入
れらる。紅梅にやあらむ、濃き、薄き、すぎす
ぎに、あまた重なりたるけぢめ、はなやかに、草
子のつまのやうに見えて、桜の、織物の細長な
るべし。御髪の、すそまでけざやかに見ゆるは、
糸を縒りかけたるやうに靡きて、裾の房やかに
そがれたる、いと美しげにて、七八寸ばかりぞ、
余りたまへる。御衣の、裾がちに、いと細く、
ささやかにて、姿つき、髪のかかりたまへるそ
ば目、いひ知らず、あてにらうたげなり。夕か
げなれば、さやかならず、奥、暗き心地するも、
いと飽かずくちをし。鞠に身を投ぐる若者だち
の、花の散るを惜しみもあへぬ気色どもを見る
とて、人々、あらはを、ふとも、え見つけぬな
るべし。猫のいたくなけば、見かへりたまへる
おももち・もてなしなど、おいらかにて、「若く、
うつくしの人や」と、ふと見えたり、大将、い
と、かたはら痛けれど、はひ寄らむも、中々、
いと軽々しければ、ただ、心を得させて、うち
しはぶきたまへるにぞ、やをら、ひき入りたま
ふ。さるは、我が心地にも、いと飽かぬ心地し
たまへど、猫の綱、ゆるしつれば、心にもあら
ず、うち嘆かる。まして、さばかり、心を染め
たる衛門督は、胸ふとふたがりて、「たればかり
にかはあらむ。ここらの中に、しるき袿姿より
も、人に紛るべくもあらざりつる御けはひなど、
心にかかりておぼゆ。さらぬ顔にもてなしたれ
ど、「まさに、目とどめじや」と、大将は、いと
ほしくおぼさる。わりなき心地の慰めに、猫を
まねき寄せて、かき抱きたれば、いと香ばしく
て、らうたげにうちなくも、なつかしく思ひよ
そへらるるぞ、すきずきしきや。
【通釈】
几帳のそばから、少し(奥に)入ったあたりに、袿姿で
立っていらっしゃる人がいる。(寝殿の中央の)階段から西の
二番目の柱間の東の端なので、(夕霧と柏木のところからは)
何の邪魔になるものもなく、丸見えに中が見えてしまう。(そ
の人は)紅梅襲(の袿)であろうか、紅色の濃い色や薄い色が、
次々に、たくさん重なっている(その重ね目の)色のちがいが、
華やかで、(いろいろな色の紙を重ねてとじた)草子の端のよ
うに見えて、(その上は)桜襲の、織物の細長であろう。御髪
が、末のほうまであざやかにくっきりと見えるのは、糸をよ
ってうちかけたようになびいて、髪の先がふさふさとして切
りそろえられているのは、たいそうかわいらしいようすで、
(身長より)七、八寸ほど余っていらっしゃる。お召し物が、
(小柄なせいで裾がたっぷり余って)裾ばかりのような感じ
で、たいそうほっそりとして、小柄で、全体の姿や、髪のか
かっていらっしゃる横顔が、何ともいいようのないほど、上
品でかわいらしげである。夕暮れの日の光なので、はっきり
とは見えず、奥が暗い気がするのも、(柏木には)たいそう物
足りなく残念である。蹴鞠に熱中している若い君たちが、花
の散るのを惜しむひまもなく(夢中で蹴っている)ようすを見
ようとして、女房たちは、(姫君が外から)丸見えなのを、す
ぐには見つけることができないのであろう。(御簾の外に出
た)猫がひどく泣く(ママ)ので、(それを)ふり返りなさった(女三の
宮の)顔つきや身のこなしなどは、おっとりとして、「若くて、
かわいい人であるなあ」と、(柏木は)ふと思われた。(夕霧の)
大将は、たいそう、はためにも気の毒で見てはいられない気
がするけれども、(御簾をなおしに)はって近よるのも、かえ
ってたいそう軽率であるので、ただ、気づかせようと、せき
ばらいをなさった(とき)に、(女三の宮は)静かにそっと、(奥
へ)ひっこんでしまわれた。(知らせた)とはいうものの(夕霧
は)自分の気持ちにも、たいそう物足りない思いがなさるけれ
ども、猫の綱を放したので、(御簾が下りて何も見えなくなり)
思わず、(夕霧は)ため息をつく。ましてや、あれほど(女三の
宮に)心を奪われている衛門督(柏木)は、胸がふっと一杯にな
って、「(今の方は)どれほどの人であろうか、いや(あの恋し
い女三の宮)その人以外の誰でもない。大勢の(女房たちの)な
かで、はっきりとめだつ袿姿からしても、他の人とみまちが
えるはずのなかった(女三の宮の)ごようすよ」などと、心に
かかってお思いになる。(柏木は)そしらぬ顔にふるまってい
るけれども、「どうして(女三の宮に)目をつけないだろうか、
いや目をつけたに違いない」と、大将(夕霧)は、(女三の宮を)
気の毒にお思いになる。(柏木は)やるせない気持ちの慰めに、
(さっきの)猫をよびよせて、抱いてみると、たいそう(女三の
宮の移り香が)香ばしく、かわいい感じで鳴くにつけても、心
ひかれて(その猫を女三の宮に)自然となぞらえてしまうの
も、好色じみているよ。
【解説】
・蹴鞠の後、夕霧は姿を見られた女三の宮を軽率だと思った。
柏木は恋い焦がれる人の姿を目のあたりにしたことを自分の思いが通じたからだと思っていた。帰りの牛車の中で柏木は源氏の愛情の薄さをあからさまにして女三の宮への同情を示すが、夕霧はそれを打ち消して源氏を弁護した。この後柏木の物思いは深くなり、柏木の乳母の妹の子の小侍従(こじじゅう)が女三の宮の乳母子でおそばに仕えているのを唯一、女三の宮とのつながりにして、手紙を差し上げたりする。
女三の宮は柏木からの手紙で自分が姿を見られたことを知るが、それを恥じるより先に源氏にしかられることを恐れるのであった。小侍従は、どのみちかなわぬ恋ゆえ、あきらめるべきだと柏木に返事を書いた。しかし柏木は、蹴鞠の日の出来事が自分と女三の宮とを結びつける運命の啓示に思われてならないのであった。
◆研究◆
一 次の傍線部を口語訳し、主語を書け。
①あてにらうたげなり
②え見つけぬべし
③はひ寄らむも、中々
④やをら、ひき入りたまふ
⑤さらぬ顔にもてなしたれど
二 次の助動詞を説明せよ。
①まぎれ所もなく、あらはに見入れらる
②桜の、織物の細長なるべし
③裾の房やかにそがれたる
④惜しみもあへぬ気色ども
<解答>
一
①上品で、優美で。女三の宮
②見つけることができない。女房たち
③かえって、むしろ。夕霧
④そっと、静かに。女三の宮
⑤知らん顔。柏木
二
①自発・終止形
②断定・連体形。推量・終止形
③受身・連用形
④打消・連体形
(桑原博史『源氏物語』三省堂、1990年[2017年版]、264頁~269頁)
御法
御法(源氏五十一歳の三月から秋まで)
【梗概】
・紫の上は病に倒れて以来(若紫下)、健康がすぐれず、出家を願うが、源氏が許さない。
せめてもの後世の功徳にと、三月十日桜の盛りに、法華経千部の供養が二条院で行われた。
紫の上は万事これで最後になるのではと死を予感し、明石の上や花散里に別れの歌を贈った。
暑い京都の夏が紫の上を衰弱させ、紫の上の病は重くなるばかり。若宮たちの成長を見届けられぬ残念さをかみしめ、三の宮(匂宮)に、大人になったら二条院に住み、紅梅と桜を大切にしてほしいと遺言する。
八月、少しは涼しくなったころ、紫の上に死が迫っていた。
【主要登場人物】
・紫の上(四十三歳)・明石の中宮(二十三歳)
【紫の上逝去】
秋待ちつけて、世の中、すこし涼しくなりて
は、御心地も、いささか、さわやぐやうなれど、
なほ、ともすれば、かごとがまし。さるは、身
にしむばかりおぼさるべき秋風ならねど、露け
きをりがちにてすぐしたまふ。中宮は、参りた
まひなむとするを、「今しばしは、御覧ぜよ」と
も、聞こえまほしうおぼせども、さかしきやう
にもあり、内裏の御使ひのひまなきにも、わづ
らはしければ、さも聞こえたまはぬに、あなた
にも、え渡りたまはねば、宮ぞ、わたりたまひ
ける。「かたはらいたけれど、げに、み奉らぬも、
かひなし」とて、こなたに、御しつらひを殊に
せさせたまふ。こよなう痩せほそりたまへれど、
「かくてこそ、あてになまめかしきことの限りな
さも、まさりて、めでたかりけれ」と、来し方、
あまり匂ひ多く、あざあざとおはせしさかりは、
中々、この世の花のかをりにも、よそへられた
まひしを、限りもなくらうたげに、をかしげな
る御さまにて、いとかりそめに、世を思ひたま
へる気色、似る物なく心苦しく、すずろに物悲
し。風、すごく吹き出でたる夕暮れに、前栽見
たまふとて、脇息によりゐたまへるを、院、わ
たりて、見奉りたまひて、「今日は、いとよく、
起き居たまふめるは、このお前にては、こよな
く、御心もはればれしげなめりかし」と、聞こ
えたまふ。かばかりの隙あるをも、「いと嬉し」
と、思ひ聞こえたまへる御気色を、見たまふも、
心苦しく「つひに、いかにおぼし騒がむ」と思
ふに、あはれなれば、
おくと見るほどぞはかなきともすれば風に
乱るる萩の上露
げにぞ、折れかへり、とまるべうもあらぬ花の露
も、よそへられたる、をりさへ忍びがたきを、
ややもせば消えを争ふ露の世におくれ先だ
つほどへずもがな
とて、御涙を払ひあへたまはず。宮、
秋風にしばしとまらぬ露の世を誰か草葉の
うへとのみ見む
と、聞こえかはしたまふ。御かたちども、あら
まほしく、見るかひあるにつけても、「かくて、
千年を過ぐすわざもがな」と、おぼさるれど、
心にかなはぬことなれば、かけとめむ方なきぞ、
悲しかりける。「いまは、わたらせたまひぬ。乱
り心地、いと、苦しくなりはべりぬ。いふかひ
なくなりにけるほどと言ひながら、いと、な
めげにはべりや」とて、御几帳ひき寄せて、臥
したまへるさまの、常よりも、いと、頼もしげ
なく見えたまへば、「いかにおぼさるるにか」と
て、宮は、御手をとらへ奉りて、泣く泣く、見
奉りたまふに、まことに、消えゆく露の心地し
て、限りに見えたまへば、御誦経の使ひども、
かずも知らず、たち騒ぎたり。さきざきも、か
くて生き出でたまふをりにならひて、「御物の
怪」と、うたがひたまひて、夜一夜、さまざま
のことを、し尽くさせたまへど、かひもなく、
明け果つるほどに、消えはてたまひぬ。
【通釈】
待ちかねた秋がきて、世の中が少し涼しくなってからは、
(紫の上の)ご気分も少しはさわやかになるようだけれども、(病
気には)やはり、(涼しさが)ともすれば(障害となって)恨み言を
言いたい状態である。そうではあるが、身にしみるほどにお感じ
になるような秋風ではないけれども、(紫の上は)涙にぬれるおり
が多くなってお過ごしなさる。(明石の)中宮は、(内裏に)参内
なさろうとするのを、「もうしばらく、(私の顔を)ご覧ください」
とも申し上げたいと(紫の上は)お思いになるのだが、(それも)差
し出がましいようでもあり、内裏からの(お召しの)お使いがひっ
きりなしなのも気にかかるので、(中宮に)そうも申し上げられず
に、(中宮の住む)あちら(の東の対)にも、(紫の上は)出かけるこ
ともおできになれないので、中宮が(紫の上のほうに)おいでにな
った。(紫の上は)「(こんなに取り乱していて)きまりが悪いので
すが、まったく(あなたに)お目にかからないのも、残念でかいの
ないこと」と言って、こちらにお座席を特別に作らせなさる。(紫
の上は)ひどくやせほそりなさったけれども、「かえってこのほう
が、上品で優雅なことのこのうえなさも、(普段に)まさって、す
ばらしいことだよ」と、今まであまりにつやつやとした美しさが
こぼれるほどで、きわだって鮮やかな美しさでいらっしゃった女
盛りには、かえって俗世間の桜の花の美しさにでも、たとえられ
なさったのだが、(今は)限りもなく愛らしげで美しいごようす
で、たいそうはかないものと、この世を思っていらっしゃるよう
すが、似るものもないほどおいたわしくて、(明石の中宮は)むや
みに物悲しい。風が、気味わるいほど吹き始めた夕暮れに、(紫の
上が)庭の植えこみをご覧になろうとして、脇息によりかかって
座っておいでになると、院(源氏)が、(こちらへ)おいでになっ
て、(紫の上のようすを)見申し上げなさって、「今日はたいそうよ
く、起きて座っておいでのようですね。この(明石の中宮の)お前
では、このうえもなく、ご気分も晴れ晴れとなさるようですね」と
申し上げなさる。このくらいの(ちょっと気分がよく病気が落ち
着く)ひまがあるのでも、(源氏が)「たいそう嬉しい」と思い申し
上げなさっているごようすをご覧になるのも、(紫の上は)気の毒
でつらく、「しまいに、(私が死んでしまったら)どんなに(源氏が)
嘆き騒ぎなさるであろうか」と思うと、しみじみと胸がしめつけ
られて、
(紫の上は)(萩の上に)置いたかと見る間もはかないこと、
どうかすると(吹く)風に(すぐにも)乱れ落ちてしまう萩
の上の露(のような私)よ、
なるほど、(歌のとおり吹く風に萩の枝が)折れかえり、とどま
ることのできそうにない花の露が、自然と(紫の上の身の上に)た
とえられるのも、おりがおりだけに(悲しさが)忍びがたいのを、
(源氏は)ややもすれば(先に)消えるのを争う露のような
世の中で(私たちは)遅れたり先立ったりする間もおかず
に(二人はいっしょに)いたいものです
と言って、お涙を払いきれないでいらっしゃる。
宮(明石の中宮)は、秋風に(吹かれて)しばらくの間もと
どまっていない露のような世の中を、いったい誰が、草
の上の露のこととばかり見るでしょうか(人の世もまた
はかないものです)
と、ご唱和になる。(紫の上と明石の中宮の)お顔だちが、(ど
ちらも)こうありたいと思われるほど申し分なく、見るかいの
ある美しさであるにつけても、(源氏は)「このままで千年を
過ごす方法があったらなあ」とお思いになるけれども、思う
にまかせぬことなので、(逝く人を)ひきとめる方法がないの
が悲しいのであった。(紫の上は)「もう、お帰りくださいま
せ。気分がたいそう苦しくなりました。どうにもならなくな
った状態とはいいながら、たいそう失礼なことですから」と
言って、御几帳を引き寄せて、横になられたようすが、いつ
もよりひどく頼りなさそうにおみえになるので、(明石の中宮
は)「どんな具合でいらっしゃいますか」と、(紫の上の)お手
をとり申し上げて、泣きながら見申し上げなさると、本当に、
消えてゆく露のような感じがして、(とうとう)最期におみえ
になるので、御誦経の使いたちが、(寺々へ)数知れず(差し向
けられ)、大騒ぎである。以前にも、このようになって生き返
りなさったときにならって、「(今度も)御物の怪(のせいか)」
と、(源氏は)お疑いになって、一晩中、さまざまな(加持祈祷
などの)ことをお尽くしなさったけれども、そのかいもなく、
夜が明けきるころ、(露のように)消えはてなさった。
◆研究◆
一 「かばかりの隙」とは誰のどのような状態か。
二 「思ひ聞こえたまへる」の「聞こゆ」と「たまふ」は、それぞれ誰の誰に対する敬意か。
三 「つひにいかにおぼし騒がむ」の「つひに」とは、どういうことを指しているか。
四 「おくと見る……」の歌から掛け詞をあげて説明せよ。
五 「おくれ先だつほどへずもがな」を訳せ。
<解答>
一 紫の上の病気が小康状態で起き上がって前栽を見ている状態。
二 聞こゆ=作者の紫の上への敬意
たまふ=作者の光源氏への敬意
三 紫の上の死
四 「おく」に、露が「置く」と、紫の上が「起く」が掛けてある。
五 とり残されたり先立ったりする間をおかないで一緒に死にたいものだなあ。
【解説】
・紫のゆかりとして源氏に迎えられてから三十数年、生涯の伴侶として喜びも悲しみも共に歩んできた紫の上は、明石中宮に手をとられたまま意識が遠のき、露のように消え果ててしまう。
紫の上をひそかに恋い慕っていた夕霧が中心となって、翌日の八月十五日、葬送が行われた。
源氏は魂が抜けたようになり、ひたすら仏事に専念し、出家を願うのであった。
(桑原博史『源氏物語』三省堂、1990年[2017年版]、281頁~287頁)