歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

《『書道全集 中国篇』を通読して 要約篇その5中国5、6-a》

2018-07-20 17:37:43 | 書道の歴史

《『書道全集 中国篇』を通読して 要約篇その5中国5、6-a》

5 中国5 南北朝Ⅱ
この篇には南朝の宋の初年から陳の滅亡に至るまで(420-589)、170年間の書蹟を収めている。この期間にあたる新羅の書蹟もあわせてここに収載している。

中国書道史5    神田喜一郎
南朝は、いわば門閥貴族の黄金時代であった。南京にあたる建康を都とした4つの王朝である。文化は奢侈的、装飾的であった。都鄙の間に生じた文化の大きな懸隔は、当時の書法を考える上にも重要なことである。二王の典型は、後世永く中国書法の規範として一般に遵奉せられる。二王をもって、「終古の獨絶にして、百代の楷式なり」(宗の虞龢[ぐか]
の論書表)。個性に基づく相違があり、王羲之の書が荘重味を帯びていたのに対し、王献之の書が軽妙の趣に特色を持っていた。南朝では、王献之の書が一般に喜ばれた。王羲之の書法が一般に行われるのは、劉休に始まるという。
武帝は、「子敬(王献之のあざな)の迹は逸少(王羲之のあざな)に及ばず」(『南史』巻42、蕭子雲伝)と論定している。そして、陳王朝の智永(図60-89)は、当時の書法の巨擘と推されるが、その僧智永により、王羲之の書法はいよいよ書法の規範として尊重せられる。智永は王羲之の七世の孫で、みずから「真草千字文」を八百余本も書き、浙東の諸寺に施入したと伝えられる。
一方、二王の書法にことさら反抗した者として、斉の張融がいる。張融は王羲之の書法に反抗して、旧い時代の古法を墨守することを主張したようだ。そうした古法は、当時の文化の中心地建康を遠く離れた辺陲の地には、まだ遺っていた。今日も雲南に現存する「爨龍顔碑(さんりゅうがんのひ)」(図4-13)は古代の隷法の遺意を伝えている。
南朝に至って、書に対する批評精神が勃興した。後世まで、中国の芸術批評に品等型と比喩型とを生むことになった。
また、今日一般に中国の書法を論ずる者は、南北朝時代の書が南北互いにその風を異にしていたと説く。神田は、清の阮元の南北書風の相違説に疑問を呈している(神田、1頁~7頁)。

千字文について   小川環樹
まず、書物としての千字文の由来と普及について述べている。千字文の著者は、梁の周興嗣(しゅうこうし)である。生まれた年は明らかでないが、470年前後に生まれたと推定され、521年に卒している。
唐の李綽(りしゃく、9世紀後半)の尚書故事によると、梁の武帝は王子たちに書を習わせるため、王羲之の墨蹟の中から重複しない文字一千字の模本を作らせたが、周興嗣を呼び出して、これを韻文になるように順序だてるように命じた。周はたった一日でつくったので、一夜でひげも髪の毛も真っ白になったという。
一晩のうちに白髪になったとは誇張された伝説であろうが、千字文が最初から習字の手本として作られたことを示す点で注意すべきである。手本となるべき文字は、王羲之の筆蹟であったはずであるというのは異説があり、魏の鐘繇(しょうよう、151-230)の筆蹟をこわれた石碑からとったともいう(『宋史』李至伝)。
鐘繇の千字文と称するものも伝本が存し、「魏の大尉鐘繇の千字文、右軍将軍王羲之勅を奉じて書す」と題するものが、宋代の『宣和書譜』巻15の王羲之の条に著録されている。題を信ずると、いかにも鐘繇が編次した千字文がまず有り、この文を王羲之が書いたことになり、周興嗣はさらにその文字の排列をかえただけであるように思われる。しかしもともと『宣和書譜』自身が疑わしい書物で、王羲之の筆蹟なるのも極めて疑わしいという。小川は鐘繇の作(あるいは書)という説を否定している。
一方では、北宋の欧陽脩(1007―1062)は、千字文の中の百字までは漢の章帝(在位76-88)の文をそのまま用いたのだという。『淳化閣帖』には、漢の章帝の書と称する断片があり、「辰宿列張」と今の千字文と同じ句が見出され、章帝は鐘繇よりいっそう古い。この書は
いわゆる章草体で書かれている。
しかし『淳化閣帖』にのせられた章草体の千字文が章帝の筆蹟だとする根拠にはならない。宋代の学者も章帝の書だと信じない人が多い。黄庭堅(1045-1105)らを始め、明・清以後になれば、ほとんど定論となった。
要するに、梁以前から千字文が作られていたと考えるための確実な根拠はないと小川はいう。周興嗣あるいは王羲之の以前に千字文が存在していたという想像は、「周興嗣次韻」の題の誤解から生じたものという。つまり次韻という以上は、それに対する原作がなければならないという推論からうまれたものではないかという。
しかし、他人の詩の押韻の字だけを残して新しい詩を作る「次韻」のやり方は、唐代の元稹、白居易に始まり、8世紀以前にはほとんど例がない。「周興嗣次韻」とは、ペリオが言うように「文字を韻文になるように排列した」の意味に解釈すべきである。
周興嗣の千字文は、一字も重複がなく、これを四字ずつ一句とし、すべて250句、最後の二句をのぞけば、一句おきに脚韻をふむ。重複なしに美文につづった手腕は非凡で、一夜で白髪になったとの伝説もいかにもと思わせると小川は感想をもらしている。
初学の読本として今日まで伝わっているものには、前漢の史游の急就篇があるが、千字文がひろまるにつれて、次第に使われなくなってしまった。その原因の一つとして、急就篇はただ事物の名を列挙したところが多く、千字文のように美文としての体をそなえていないことを挙げている。
唐代に入って、千字文の普及は加速度的になり、日本にも及び、東大寺献物帳(756年に施入された物品目録)にも、王羲之筆の模本千字文一巻の名が見える。
古事記、日本書紀によれば、百済の和邇(王仁)が献上したのは応神天皇の16年(西暦285年)だが、周興嗣の死より260年以上もまえで、日本の古史の紀年が故意にひきのばされた結果である。王仁来朝の年が521年以後であった事実を明示するものだといえる。
20世紀はじめ、敦煌の千仏洞から発見された文書の中には千字文の写本が存在する。
宋代以後、大観3年(1190[ママ、正しくは1109])に智永の千字文が石碑になった。清朝末の劉鶚(りゅうがく)の小説、「老残遊記」の中にも、いなかの本屋の主人が一番よく売れる本は「三百千千」だと語るくだりがある。三は三字経、百は百家姓、千は千字文と千家詩である。
いろいろな物の番号をつけるのに千字文の字をつかうことがある。宋版以来の大蔵経ではこれを利用し、天地玄黄の天は1、地は2、玄は3、黄は4の代用になる。清朝では文官任用試験の試験場で座席の順序を示すのに、これを用いた。日本でイの一番というところを、中国人は「天字第一号」という(小川、8頁~18頁)。

瘞鶴銘(えいかくのめい)について   外山軍治
本篇の目的は、瘞鶴銘に関する研究の概略を紹介することにある。まず、何故このような盛況をみたのかについて考察している。瘞鶴銘が「蘭亭序」と比肩するほどの声価をかちえたのは、北宋に欧陽脩、黄庭堅がこれを推称したからであるという説がある。
しかし外山はこれだけで、その研究の続出を説明するには無理があるといい、研究熱の根源を問い直している。
瘞鶴銘は、はじめ焦山(江蘇省丹徒県の東)の西南の崖石に刻されたが、その搨摹が困難であることが人々の好奇心をひいた。どう判読するか、刻された時期、撰書人も不明であるから、ますます人々の興味をひいたのも無理はない。いわば、ボナンザグラム的興味がその研究を盛んにしたと外山はいう。
北宋において瘞鶴銘が脚光を浴びたのは、金石学勃興の気運を物語る。金石学に学問的な基礎を与えたといわれる欧陽脩は、瘞鶴銘に心をひかれた。彼は、この銘の筆者について、王羲之の書とする説もあるが、王羲之の筆法には似ていないで、顔真卿に似ているものの、何人の書であるかわからないといった。ところが黄庭堅は、王羲之の書だときめてしまい、この銘に傾倒した。この頃から、瘞鶴銘が珍重されるに至った。
そして実地踏査によって、邵亢と張與(よ)がその全文を紹介した。黄伯思は、邵亢の攷
次したところを紹介し、瘞鶴銘の書者を梁の道士陶弘景と定めた。さらに、黄庭堅の王羲之説、劉燾(とう)の唐の王瓚説の成り立たないことを主張した。この黄伯思の陶弘景説
は強い影響を後世に及ぼした。これに対して、董逌(ゆう)は、黄伯思の説に反対し、撰人は陶弘景としても、書人は上皇山樵であるとした。黄伯思説には、南宋の馬子厳、元の陶宗儀、明末清初の顧炎武、清の呉東發、董逌説には、清の汪士鋐、王澍、翁方綱が賛成している。
宋代についで瘞鶴銘の研究に華々しい展開のみられたのは清初になってからで、これも金石学再興の風潮に応じたものであった(外山、19頁~23頁)。
なお、外山は図版解説において次のように述べている。
瘞鶴銘はもと江蘇省丹徒県東方の長江中に孤峙する焦山の西南、観音庵下の崖石に刻されたが、そのうち落雷のために轟裂して江岸に崩れ落ち、春夏の候には江水に没し、秋冬になって水が涸れたとき、苦心の末やっと近寄って、これを搨することができた。
南宋の淳煕年間、一旦ひきあげられたが、そのうち再び江に没した。そののち、清の康熙51年(1712)、陳鵬年がこれを山上にひきあげ、5個に割れていたのを合わせて一つとし、亭を建てて保護を加えるにいたり、搨摹しやすくなった。
書は正書、ときに隷体をまじえ、大字で左行に刻せられている。書者については、宋の黄庭堅のように、王羲之ときめてかかった人もあったが、黄伯思が『東観余論』で梁の陶弘景に擬してからのちには、この陶弘景説をとるものが多くなった。これに対して董逌は、撰者は陶弘景かもしれないが、書者は上皇山樵であるとして、黄伯思の説を斥けた。
外山軍治は撰者を梁の道士として高名な陶弘景に擬する説を妥当な考えとしている。その理由として、①この銘の撰者である華陽真逸が、華陽隠居として知られる陶弘景の別号と考えられること、②文の内容が仙鶴の死を悼んだものであり、その句法がやはり陶弘景撰とするところの許長史旧館壇銘と同じである点を挙げている。
この瘞鶴銘の書は、いかにも俗界をはなれた人の書らしくおうような気分をたたえているといわれる。古拙奇峭、雄偉飛逸、蕭疎淡遠、字体寛綽とか評せられていて、とにかく一種の趣きをもっている。もっともこの書に傾倒したのは黄庭堅で、彼はこれを王羲之の書と信じ、深くこの書の影響をうけた。その他、曹士冕も筆法之妙、書家の冠冕たり、と激賞している。反対に、この書をそれほど高く評価しない人も少なくない。しかし、王羲之の書風を伝えたものに、このような大字が残っていないだけに、大いに珍重されるべきであろうと、外山軍治は述べている(外山、図22-33、図版解説、141頁~142頁)

南朝の法帖     中田勇次郎
中国の法帖で、もっとも高い位地を占めている時代は東晋である。南朝は東晋と隋から初唐にかけての書の第二の峯の中間にあって、重要な意義をもつ時代である。しかし南朝の現存する法帖は乏しく、ほとんど集帖に刻された墨拓ばかりである。
ただ、幸いに多少の文献が存在している。その大部分は書論に関するものである。その一つは書の優劣上下を品第したもので、梁の廋肩吾(ゆけんご)の書品のごときものである。もう一つは、書を自然現象に比況して批評を加えたもので、たとえば、羊欣の「古来能書人名」、斉の王僧虔の「論書」である。
ところで、現存する南朝の法帖は、3つに分けられるという。
一、宝章集、万歳通天進帖とよばれるものの中に収められているもの
二、『淳化閣帖』に刻されているもの
三、明清の集帖に載せられているもの

一、宝章集の中に収められている南朝の法帖は、697年に鳳閣侍郎の王方慶に命じて王羲之の遺蹟を求められたが、638年太宗が購求されたときに進上してしまって、ただ一巻残っているだけで、これを進上した。進上の諸蹟を群臣に示し、中書舎人の崔融に諸蹟を集めて宝章集を編纂させ序文に事の始末を述べさせた。
宝章集に収められている南朝の法帖は、王僧虔の太子舎人帖以下、次の五帖である。
1. 王僧虔  太子舎人帖 楷書四行三十三字
2. 王慈   栢酒帖   草書四行二十五字
3. 書者不詳 汝比可也帖 草書六行二十九字
4. 書者不詳 尊体安和帖 草書十二行七十二字
5. 王志  一日無申帖 草書六行三十七字

1.王僧虔 太子舎人帖 楷書四行三十三字
 王僧虔の逸事として、宋の文帝が王僧虔の筆蹟は子敬(王献之)よりすぐれているばかりでなく、人物もそれ以上であるといって称賛したことを伝えている。唐の張懐瓘の「書断」に、王僧虔の書を批評して、かれは小王(王献之)を祖述し、とりわけ古直をたっとんだという。その書は質実で、才気の溢れたものであったと中田は推測している。
2.王慈  栢酒帖   楷書四行二十五字
尺牘で、のちに唐懐充と范武騎の署名がある。范武騎は梁の武帝のときの范胤祖という人であると推測でき、この帖は梁の内府にあったと中田はみている。
晋の王羲之は儒雅な書風をつくりだしたが、その子の王献之は、逸気のすぐれた書風を打ち立てた。宋斉の士大夫は王献之の新しい書風を争って学んだ。羊欣(ようきん)、孔琳之、薄紹之などがそれである。南朝の法帖の根底となっているのは、ほとんど王献之の縦逸さであるという。
宋の黄山谷のことばによると、宋斉の間の士大夫の翰墨はすこぶるたくみである。そのすぐれたものは右軍父子に逼っている。南朝の士大夫たちは、なお二王の超逸絶塵、一点の俗気のない書風を相承していることをみとめている。
また右軍父子の草書を論じて、右軍の草書は能品に入り、大令の草書は神品に入る。二王の草書を文章に比べるならば、右軍を左氏に、大令は荘周に似ている。晋代よりこのかた、風塵の気をすっかり脱落したもので、二王のような人物は得がたい。ただ顔魯公(真卿)と楊少師(凝式)だけがいくらか大令に似ているだけであるという。
二王はいずれも超逸絶塵の気象をそなえているが、どちらかといえば、王献之の方がその気象をより強く発揚している。唐の顔真卿は王献之の縦逸さを受けつぎ、宋代では蘇東坡が、顔に心服してまた脱俗の書をつくったと中田はみている。
この帖(王慈の「栢酒帖」)は黄山谷の言葉どおり、高い精神のあらわれを尊び、天然の逸気をそなえていて、筆意の豪健さにおいてとくに傑出している。顔真卿、蘇東坡、黄山谷へのつながりを考える上においても、興味ある暗示を与えてくれる。
3.汝比可也帖について
草書6行29字の尺牘で、書者はよくわからないが、王慈の「栢酒帖」に似ているので、王慈としているものもある。しかし筆意は「栢酒帖」と比べると、もっと放縦であるから、同筆ではないであろうと中田はみている。超脱の気が横溢していて、荘子の意を得て、言を忘るといったような天然の趣がある。
4. 尊体安和帖について
尊体安和帖は、草書12行72字の尺牘である。この帖も筆者を王慈とするものもあるが、筆意にはやはり異なるところがあるので、別人としておいた方がよいであろうと中田はみている。
そして書の品第においては天然と工夫とを論ずる。この帖は工夫よりも天然においてすぐれているように見えるという。高い神仙のような精神を構えて、南朝士大夫の洗練された風流気骨をもって書かれている。「栢酒帖」の豪快と「汝比可也帖」の放縦の中間を行くもので、意趣の豊かさにおいては二帖よりさらにまさっている。
唐の李嗣真の「書後品」に、王献之の草書を批評して、子敬の草書は逸気は父にまさっている。そのさまは丹穴に鳳が舞い、清泉に龍が躍るかのごとくで、倐忽(しゅくこつ)として変化し、成るところを知らない。あるいは、海を蹴り山を移し、あるいは濤を翻えし、嶽を篏(ふる)う、と形容している。
このように南朝の人は、自然現象や動植物に喩えて書を批評する。尊体安和帖が宝章集の南朝の法帖の中ではもっともすぐれているようである。
5.王志の「一日無申帖」
草書6行37字の尺牘である。王志は僧虔の子で、徐希秀という人から書聖と称されたという。54歳で513年に没している。この帖は工夫においてすぐれ、天然において劣っているように見る。後半には王羲之の「喪乱帖」の筆法がある。深字と来字の趯法には智永の千字文に見られるのと同じ書法があり、これは南朝の法帖の一つの技法であると中田は解説している。書風はやはり王献之をよく学んだものであろうという。宋の米芾によく似ているのは米芾が王献之を学んだからである。
二、『淳化閣帖』に収められている南朝の法帖
『淳化閣帖』は宋の太宗の淳化3年(992)翰林侍書の王著に命じて内府所蔵の名蹟を出して模勒上石せしめたもので、10巻である。この中に南朝の法帖として採録されているものがおよそ22帖である。ただし、閣帖は正確には編纂されておらず、宋代の翻刻本の大観帖にも訂正されているが、後に清代の乾隆帝のときに重刻された、いわゆる欽定重刻本にはもっともよく整理されている。真本と偽本の弁別については、宋の米芾、黄伯思、南宋の姜夔(きょうき)、清の王澍が著している。
閣帖に収められている南朝の法帖が代表的なものかどうかについて中田は考えている。それには書人の優劣上下を品第した3つの文献を参照にしている。
1.梁の庾肩吾のあらわした書品
上中下をさらに上中下に分ったいわゆる九品の方法によって品第したもので、たとえば漢の張芝、魏の鐘繇と晋の王羲之の3人を「上の上」としている。
2.唐の李嗣真の書後品
これは九品の上に別格の逸品を設けて、十の等級に分ったものである。たとえば、逸品としては、秦の李斯、漢の張芝、魏の鐘繇、晋の王羲之、王献之の5人を挙げている。
3.唐の張懐瓘の書断
これは神、妙、能の三品に分ち、各品の中をさらに書体によって区別している。たとえば、神品は大篆、籒文、小篆、八分、隷書、行書、章草、飛白、草書の九体に分って、その各々に書人を配している。
中田はこの3つの文献を対照して、次のように述べている。
比較的上位に置かれているのが阮研と羊欣であり、他はすべてそれ以下である。書体では楷行草いずれも妙品に入るものは羊欣、薄紹之、孔琳之、王僧虔の4人であり、阮研、智永はこれに次ぎ、諸体に通じたものには蕭子雲があるという。また3つの文献に共通にでてくるものに宋の文帝と宋の謝霊運と梁の陶弘景があり、宋の文帝は書品に「中の下」、書後品も「中の下」、書断に「楷妙品、行草能品」。謝霊運は書品に「下の上」、書後品にも「中の下」、書断に「楷妙品、草妙品」。陶弘景は書品に「中の下」、書後品に「中の中」、書断に「楷能品、行能品」。いずれも代表的な書人に入るべき人々である。
このほかに宋の范曄(はんよう)、斉の張融、謝朓(しゃちょう)、梁の廋肩吾なども書名の高かった人々である。范曄はことに羊欣の真書、孔琳之の草書、蕭思話の行書とならんで、篆書で有名であった。
三、明清の集帖に刻された南朝の法帖には、5種ある。
1.宋 謝荘 「詩帖」 瑞雪詠楷書十九行 「戯鴻堂帖」「玉煙堂帖」
2.梁 武帝 「異趣帖」 草書二行十四字 「戯鴻堂帖」「三希堂法帖」
3.梁 陶弘景 「茅山紀事」 楷書十九行 「停雲館帖」「秀餐軒帖」
4.梁 羊諮 「期聚帖」 草書三行二十一字 「筠清館法帖」
5.陳 智永 「帰田賦」 行書六行五十五字 「餘清斎帖」

1.宋 謝荘 「詩帖」
明のときに真蹟本があって、董其昌がはじめて「戯鴻堂帖」に刻したもので、結体もととのい、筆力も勁健であるが、刻本がよくないので、やや物足りないと中田は評している。
2.梁 武帝 「異趣帖」
明の韓存良が所蔵していたのを、董其昌が戯鴻堂に刻し、のち清の内府に入って、三希堂帖に刻された。この帖は南朝貴族の風流媚好さをもっともよく示す例の一つである。
3.梁 陶弘景 「茅山紀事」
陶弘景は唐の欧陽詢や虞世南も及ばぬほどの楷書をかいたと伝えられているが、これはそれほど精絶なものではないという。
4.梁 羊諮 「期聚帖」
羊諮は伝記のよくわからない人である。閣帖には収められず、「絳帖」を刻するときに増入された帖の一つであるという。
5.陳 智永 「帰田賦」
「宝真斎法書賛」に著録されているのと内容が甚しく異なっており、文章に脱落が多く、帖内の文字に「蘭亭序」と同じものがあるのは不自然で、しばらく疑を存しておくと中田は記している。
以上、南朝の法帖で、もっとも鑑賞に堪えられるものは、まず第一には「宝章集」、次には『淳化閣帖』である。ただし、閣帖には偽作が多く、模勒と鐫刻がよくないが、何といっても、これは法帖の宝庫であり、これなくしては唐以前の法帖を理解することはできない。明清の集帖は真偽まちまちであって、できるならば、真蹟についての鑑識をするのが最も良い(中田、24頁~33頁)。

六朝の陵墓     森鹿三
南京に建都した呉、東晋、宋、斉、梁、陳の六朝の時代の陵墓は合計28が確認されている。そしてこれらは、南京市の郊外と、南京市の東70キロの丹陽県城付近に分布する。一般的にいって、これらの陵墓は平坦地に位置しているために、その墳土はすきくずされてしまっているが、その前に立てられていた碑や石柱や石獣が残存することによって、その遺蹟が知られているという。
これらの残存する墓前の遺物について森は説明している。まず墓の一番手前に向かい合って置かれている一対の高さ3メートルばかりの石獣は、ペルシアあたりの影響を受けたもののようで、その雄偉な姿はライオンを想像させる。しかし、翼をもち、また角のあるものもあって、実在の動物とは受け取れないという。帝陵の石獣は有角で、墓に向かって右が二角、左が一角、それに対して諸王の墓のそれが無角であることは一定している。
次にこの石獣の後には、ギリシア風のフリューティング(たて溝ぼり)のある一対の石柱が立つ。高さ5メートルで、柱頂は傘状に開いてその上に小石獣を置き、柱礎は二段になっていて、上層には怪獣がとりまき、下層には方形の台石で周囲には浅い浮彫が施される。アショカ王の柱を連想させるが、六朝のものは直接、柱に文字を刻さずに、方形の額を加え、それに文字を刻しているところが違う。
古く中国では、墓前に円い木柱を立て、それにおくつきの主の名を記した方版を加えて標示をしたのであるが、六朝陵墓の石柱は、エキゾチックなものでありながらも、その方石版にこの中国固有文化の遺意をとどめている。
さて、蕭景(梁朝世系表)の墓の墳に向かって左側の石柱に方版(幅約1メートル、高さ約70センチ)がある。それは反文であることに異様な感をいだかせる。六朝陵墓のうち石柱が左右ともに存するのは、丹陽県城の東8キロ、三城巷にある梁の文帝の建陵、それから南京の近郊にある蕭宏、蕭績、蕭正立(梁朝世系表)の墓の4箇所である。いま建陵のものについて見ると、右側は正文左行、左側は反文右行になっている。それで蕭景墓の左側石柱の反文も了解されるが、ただこの場合、左行であることが異なっている。先にあげた左右柱両存の4例は、いずれも右側は右から左へ、左側は左から右へ読むのに対して、蕭景墓の場合は左柱であるのにもかかわらず、左読みであるのは異例である。
ではこのような変化はどうして起こったのであろうか。その変化が起こった理由について、建陵の例では、方版が向かい合っていたので、右側の正文左行に対して、左側を右行とするとともに、逆読の注意を喚起するために反文にしたと森は推測している。
その後、方版が左右ともに前向きになってからも、先の形式を踏襲して右を正文左行、左を反文右行のままにするものもあった。しかし左右とも前向きであれば、どちらも右から左へ順読する方が便利なわけで、ただ文字の正反によって左右を区別することだけは従来通りにして、左右とも順読する形式が生まれてもよいはずである。蕭景、蕭秀墓にみる左側石柱方版の反文左行はこの新形式を採用したものと森は考えている。
さらに石柱の後方には碑が一対、向かい合って立っているのが普通である。ただ蕭秀墓の場合が4つあるので、石柱の前後に碑が立てられた。もっとも現在では前の2碑がなくなり、亀趺のみを残している。その碑額(京都大学人文科学研究所蔵)は、「梁故散騎常侍司空安成康王之碑」と読まれる。なお左後の碑の裏側には、大半は剥落しているが、1300名に上る人の名が列記されているが、これらは蕭秀に仕えていた人達である。
蕭秀は、文帝の第7子で武帝の弟にあたる。天監17年(518)薨ずるに及んで(時に44歳)、当時文名高く蕭秀と交わりのあった人達が碑文を作ったという(『梁書』蕭秀伝)。六朝時代には原則として碑を立てることを禁じており、勅許を得てはじめて一対の碑を立てたのであるから、蕭秀墓の場合のように4碑を立てることは異例であって、『梁書』にも「古より未だ之あらざるなり」といっている。
蕭秀墓の2碑のほかに、蕭秀の兄の宏と弟の憺の墓にそれぞれ1碑が残存しているが、この4碑が南京、丹陽地方で調査された六朝陵墓碑の全部なのである。それは亀趺上に碑身をのせるなど、後漢時代の碑の形式を忠実に受け継いでいる。普通3年(522)、時に年45歳で薨じた蕭憺の碑について、上は鐘繇・王羲之を承け、下は欧陽詢、薛稷を開くと朱希祖は評している。普通7年(526)に年54歳で薨じた兄の蕭宏の碑について、朱希祖はその字画精美で、「瘞鶴銘」によく似ているといっている。
以上のように、六朝陵墓について、その墓前の遺物を石獣、石柱、碑に分けて、森は概述
している。
最後に、森は六朝陵墓の研究史を回顧して、次のように記している。この方面に早く手を着けたのは、張璜(Mathias Tchang)で、その研究成果、Tombeau des Liangが、1912年に出版された。梁代陵墓の総説と、蕭順之すなわち梁太祖文皇帝の陵にとどまり、その後は続刊されていない。この書の結語によれば、さらに蕭宏・秀・憺・景・暎・績の墓について研究を続ける旨が記されているが、張璜他界のために断絶した。なおこの書は中国文に反訳され、1930年に『梁代陵墓考』と題して出版された。張璜の書には写真、拓本を相当に収めているので、清末の状況を知るのに好都合である。たとえば、蕭憺の碑なども当時
はまだ碑亭を設けられていないこと、また汚損もより少ないことがわかる。
次にこれもその写真によって著名なスガラン(V. Segalen)らの Mission Archéologique en
Chineが1923年にでたが、スガランの調査は1914年に行われ、陝西、四川省から江蘇省に及ぶものである。その後、六朝陵墓の調査に熱情を傾けたのは、中国史学会のベテランである朱希祖である。その長子朱偰とともに、南京より丹陽にわたる地域を中心に、陵墓をたずね求めた。その後、中央古物保管委員会がこの調査に乗り出してきて、それと合流することになり、丹念な調査が行われ、厖大な六朝陵墓調査報告となり、1935年、『中央古物保管委員会調査報告』第1輯として公刊された。この調査によって確認された28箇所の陵墓のそれぞれについて、その葬地所在、営葬年月、陵墓前遺物、陵墓前状況、陵墓遺文などを記述した報告を主体としたものである。その翌年、朱偰の著わした『建康蘭陵六朝墓図考』は本報告書とは違ったユニークな見解も看取できる。これらによって六朝陵墓の全容が了得されると森はいう(森、35頁~40頁)。

別刷附録 梁呉平忠侯蕭景神道石柱題字

6中国6 南北朝Ⅱ
この篇には北魏が北涼を滅ぼし華北を統一した時から北周の滅亡に至るまで(439-581)143年間の書蹟を収めている。

中国書道史6    神田喜一郎
モンゴル系の鮮卑族の一部である拓抜部から出た拓抜珪が魏王朝を建てて(398)、いまの山西省の大同にあたる平城に都を定めるに及んで、統一の気運が萌してきた。その孫の世祖太武帝に至って、はじめて華北の統一をなしとげ(439)、江南の宋王朝と対峙することになり、これからいわゆる南北朝時代となる。
北魏(北朝の魏の意味)とよばれる魏王朝は、第6代の高祖孝文帝の世に、都を平城から洛陽に遷して(494)、国勢の隆盛その極に達した。
しかしやがて東西の両魏に分裂し、それが北斉と北周とに引きつがれた。その後、北周は北斉を併せ(577)、やがて外戚の楊堅、すなわち隋の文帝に滅ぼされた(581)。
北朝の文化史は、ある意味からは北方民族の漢化してゆく歴史であるともいいうる。ただ北方民族の漢化といっても、おのずから北方民族の民族性が作用していることは看過しえず、北朝の文化を考察する上に第一に注意すべきことであると神田はみている。
ところでその北方民族の支配した漢民族はもともと中原の地に栄えた漢民族の中でも、いくらか文化の程度の低いものであったという。というのはかつて西晋が滅んだ(316)時、中原の有力な豪族は難を避けて揚子江の南に移住したからである。魏王朝が最初に受容したのは、そうした衰えきったところの漢民族が把持していた文化であって、それは古い西晋の文化の残骸にほかならなかった。この古い西晋の文化を継承している点に、北朝の文化の一つの特色があると神田は理解している。
一方において北朝は当時江南の南朝に発達していた新鮮味のある優麗典雅な貴族的文化を憧憬するようになった。この南朝の文化は西晋が滅んだ時、中原から江南に逃れてきた有力な豪族が、豊饒な土地の生産力を活用して築きあげた富を基礎として、次第に洗練されてきた文化である。それに較べると、北朝の文化は鄙野で、質樸なものであった。北朝人が南朝の文化を次第に渇仰しはじめたのも当然である。
北朝の書道は一千数百年を隔てた今日において、割合豊富な資料に恵まれている。もっともその多くは、清王朝の中期以後、すなわち18世紀後半あたりから新しく発見されたもので、したがって北朝の書道はそれ以後になって、はじめて研究の歩武が進められるに至った。その豊富な資料は次の5種類に分けて神田は解説している。
①碑 ②摩崖 ③造像記 ④墓誌 ⑤写経
①~④の4種類は石刻文字であるが、⑤は肉筆のものである。写経は日本に古く伝来するものを除いては、20世紀の初め頃から名高い敦煌石窟など中国辺陲の土地から発見されたものばかりである。
まず①碑としては、その代表的なものを列挙している。
北魏 
・中岳嵩高霊廟碑(図1)        大安2年(456)
・暉福寺碑(図2)           太和12年(488)
・高慶碑 (図3)           正始5年(508)以後
・賈思伯碑(図22, 23) 神亀2年(519)
・張猛龍碑(図24-29)         正光3年(522)
・馬鳴寺根法師碑(図30-33)       正光4年(523)
・高貞碑   (図34-37)       正光4年(523)
東魏
・程哲碑(図76)             天平元年(534)
・高盛碑(図77)             天平3年(536)
・凝禅寺三級浮図碑(図78)        元象2年(539)
・敬史君顕儁碑(図79-81)        興和2年(540)
・李仲璇修孔子廟碑(図82)        興和3年(541)
北斉
・趙郡王高叡修定国寺頌記(図88)     天保8年(557)
・唐邕写経碑(図95)           武平3年(572)
北周
・西嶽華山神廟碑(図99)         天和2年(567)
・曹恪碑(挿21)             天和5年(570)
以上に挙げたものの他に、魏の太和18年(494)に建てられた「魏孝文帝弔比干墓文」の碑がある。この碑は清の康有為が「広芸舟双楫」の中に、必ず魏の崔浩の書に相違ないと称讃したほどの名碑である。ただ現存のものは遥かに後の宋の元祐5年(1090)の重刻であるので、故意に除いたという。だから北朝の碑は実はまだまだ多いという。
②摩崖について
摩崖とは山や岸の険しくそばだった岩石が自然に露出したところに文字なり絵なりを刻したもののことである。
その古い時代のものとしては後漢の永平6年(63)に刻された「開通褒斜道石刻」のような名高いものがあるが、北朝には特に多い。北朝において、最も古いのはその漢代の褒斜道の石門にあたる陝西省褒城県の石壁に刻された「石門銘」(図4, 5)といわれるもので、魏の永平2年(509)の刻である。しかし北朝には幾つかの摩崖文字の群があって、それが特色をなしている。その第一は山東省の掖県から、その南の平度県にかけて連なる寒同・雲峯(図10-15, 20, 21)・太基(図16, 17)・天柱(図18, 19, 90, 91)の諸峯、および同じ山東省の益都県の南の百峯山の摩崖で、すべて40数種ある。北魏の鄭道昭およびその子の述祖の書と伝えられていて、中でも雲峯山にある鄭羲の碑(図6-9)は特に有名である。鄭氏は北魏の名族で、道昭は学問文才ともにすぐれたというが、書もまた気品極めて高く、おそらく北朝有数の名筆であろうと神田はみなしている。
この鄭氏一家の摩崖についで名高いのは同じく山東省にある仏経の摩崖である。その一つは泰山の半腹にある経石峪(きょうせきよく)の「金剛経」(図92, 93)で、金剛経全部2000余字のうち、約900字を存するに過ぎないが、一字の大きさは1尺以上もあり、もっとも代表的な仏経の摩崖である。
その二は泰山の南に聳える徂徠山の映仏巌にある「大品般若経」で、これは現在300余字を存し、斉の武平元年(570)に王子椿が刻したものである。そのほか鄒県(すうけん)の近郊には、「四山刻経」と称して、崗山・尖山・葛山・鉄山(図100, 101)の摩崖がある。
このうち尖山のものは「大品般若経」で、250余字を存し、斉の武平5年(575)に韋子深の刻したもの、崗山・葛山のものは、いずれも金剛経で、300字内外を存し、周の大象2年(580)に刻すとある。鉄山のものは「大品般若経」で、800余字を存するが、これには年号がなく、大体同時代の刻と推定されるだけである。
以上は山東省にあるものばかりである。その他にも山西省の太原の東南遼州の屋騋嶝(おくらいとう)にも「華厳経成就品」を刻した摩崖があって、これまた同時代のものといわれている。
ところで仏経の摩崖は、今列挙したところを見てもわかる通り、多くは斉周両王朝の時代に刻されたもので、その頃特に流行したのであろう。仏教の摩崖として第一に挙げた泰山の経石峪の金剛経は、実は年代も書者も不明であるが、おそらく斉のものと定めてよいと神田はみている。清の考証学の大家銭大昕も、その筆法が徂徠山の「大品般若経」に似ているという理由で、同じく王子椿の書であろうといっている。なお摩崖とは異なるが、魏王朝以来、山岳を掘鑿して洞窟をつくり、そこに仏像を安置する、いわゆる石窟寺の構築が流行し、それとともに石窟の壁に仏経を刻することが始まった。
その代表的なものに、河北省の北響堂山にある刻経洞の維摩経、勝鬘経、孛経、文殊般若経などがある。これは斉の天統4年(568)から武平3年(572)に至る間に、開国公の唐邕が発願して刻したものであるという。また山西省の太原の西にある風峪には、斉の天保年間(550-558)に華厳経を刻した120余の碑が、地下の洞窟に埋められているとのことである。
④は造像記である。
中国においていつから仏像を製作することがおこったか。その起源を明らかにすることはできないが、諸般の事情から察して、ほぼ西晋の末、すなわち4世紀あたりからようやく盛んになったと考えられる。そうして造像記も次第に現れてくるのであるが、しかし造像記としてその数も多く、もっとも有名なのは龍門石窟のものである。
龍門石窟は魏王朝の孝文帝が洛陽に遷都(493)するとともに、その漢化政策の一端として、洛陽郊外の伊闕龍門に堀鑿しつづけられたもので、大小の石窟や仏龕から成っている。
そしてそれらの石窟や仏龕には、その造顕発願の由来を記した刻記題名が少なくなく、現在その文字の識別しうべきものが、3000種以上もあるといわれている。もっともその中には隋・唐・五代・宋の時代のものも含まれているので、これをすべて北朝のものとすることはできないが、それでも非常な数である。したがって、この龍門石窟の造像記は北朝の書をうかがう一つの大きな宝庫であるともいいうる。古来その中の書法のすぐれたものを選んで、龍門五百品とか、百品、あるいは二十品、十品などと称し、特に貴重する習慣がある。
中でも次のものは龍門四品と称して、最上の絶品とされている。
・「始平公造像記」(図40, 41)           太和22年(498)
・「孫秋生造像記」(図42, 43)           景明3年(502)
・「魏霊蔵造像記」(図46, 47)           無年紀
・「楊大眼造像記」(図48, 49) 無年紀
この龍門のほか、北朝の造像記は多く存在するが、また造像記は必ずしも仏像に限らず、南北朝時代、道教の隆盛にともなって、道像がつくられ、その造像記も少なくない。斉の天統元年(565)の「姜纂造像記」(図96)のような、その文章は仏教の語を用いているが、実は老子の像に題したものであるという。
④次は墓誌である。墓誌とは死者を埋葬するにあたって、多くの場合方形の石に死者の履歴を刻し、その上に蓋(がい)といって同じ大きさの石を重ね、それに死者の姓氏を刻し、墓穴の中に埋めたものである。この墓誌も大体西晋の頃からおこったと考えられるが、もっとも盛んにつくられたのは北朝、殊に魏王朝である。近く150年来、河南省の洛陽をはじめ各地から発見された墓誌は極めて多く、新たに発見されるものも少なくない。そしてそれらの墓誌は久しく土中に埋められ、しかもその表面には蓋がおかれている関係上、文字の摩滅が少なく、大体字画の明瞭なのが特色であって、書法研究の上に大きな価値をもっている。ただ墓誌は一旦出土すると、その石が比較的小さいために、書法のすぐれたものほど摹刻されることが多く、その点は注意を要するという。
例えば、代表的な墓誌として次のものがある。
北魏
「崖敬邕墓誌」(図62)            熙平2年(517)
「刁遵墓誌」(図59)             熙平2年(517)
「張玄(黒女)墓誌」(図72, 73)        普泰元年(531)
東魏
「高湛墓誌」(図86)              元象2年(539)
北斉
「崔頠墓誌」(図97)              天保4年(553)
「朱岱林墓誌」(図98)             武平2年(571)
これらは古来名高いものであるが、いずれも摹刻本があって、その甄別(けんべつ)を必要とする。もっとも墓誌の新たに出土したものには、これらの古来名高い墓誌よりもかえって書法のすぐれたものが少なくなく、それらの新出土のものを絶えず注意することが一層必要であろう。
⑤最後に写経である。
確かな北朝の写経として敦煌その他中央アジアの探検が行われるまでには、京都知恩院に蔵する西魏の大統16年(550)の「菩薩処胎経」(図108, 109)をもって、ほとんど天壤間唯一の遺品としたが今ではそれほど稀らしくなくなった。ロンドンの英国博物館に蔵するスタイン将来の敦煌写経だけについてみても、北朝の写経として、魏の太安元年(455)の「弁意長者子所問経」を最古とし、周の天和4年(569)の「大比丘尼羯磨」に至るまで、すべて27点を算する。またパリのフランス国立図書館にも、ペリオ将来の敦煌古書の中、魏の永平5年(512)の「大般涅槃経」以下、周の保定5年(565)の「十地義疏」に至るまですべて5巻存在する。日本の書道博物館の中村不折の蒐集(図102-105, 112)、京都国立博物館の守屋コレクション、その他中国にも相当の数量を蔵している。
今日世界各国に散在する北朝の写経を算するならば、確かな紀年を有するものが、おそらく百数十巻に上るという。書法研究の資料として石刻の文字とは違う貴重な価値をもっている。
以上、北朝の書道資料は実に豊富である。しかしその多くは新発見のものである上に、古くから知られていたもの、例えば鄭道昭の「鄭羲碑」のようなもの、すでに宋の趙明誠の「金石録」に著録されているのであるが、ほとんど世に忘れられて、近世の新発見といっても差支えないほどである。
したがって北朝の書そのものは、資料の豊富なわりに古来これに注意したものが少なく、いまなお深く真相の究明されていない憾みがあるという。
さて一概に北朝の書といっても、これを歴史的に考察すると、幾たびか大きな変化を遂げている。その変化の境目をなすのは、第一は魏の孝文帝が洛陽に遷都して漢化政策を強行するときであり、第二は東西両魏がそれぞれ斉と周との王朝に替るときである。したがって北朝の書にはおのずから3つの様式があるという。
①魏の孝文帝の出る以前の書は、その系統からいえば、古い西晋の旧様を受け継いだもので、現存する遺品は少ないが、太安2年(456)の「中岳嵩高霊廟碑」をもって代表させることができ、いかにも鄙びた書で、隷書とも楷書ともつかない一種の体をなしている。
この碑の書風が、東晋の義熙元年(405)に、今の雲南省の南寧に建てられた「爨宝子碑」の書風と酷似していることはすでに指摘した。
この点、河南省の登封県にある碑が雲南のような遠く離れた荒遠僻陬(へきすう)の地の碑と、その書風が酷似しているという事実は、興味あることである。つまり南方といわず北方といわず、文化の中枢を距ること遠い地方には、鄙野ないし険陋という一種の田舎臭い書が行われていたことがわかると神田はいう。その時代の文化の中枢はむろん南朝の都建康であった。「中岳嵩高霊廟碑」の建てられた太安2年(456)というと、南朝では宋の孝武帝の孝建3年にあたり、すでに東晋の王羲之・王献之によって新しく優麗典雅な芸術的書風がつくられてその新様式の書が流行していた。その新様式の書が北朝の地に浸潤して、その書風に影響を及ぼすまでには、まだ多くの歳月を要した。ともかく北朝の書は魏王朝に孝文帝が出現するまでは、いわば西晋の旧様の自然発達的な段階に止まっていた。
②しかしそうした情勢は、孝文帝の出現によって一変した。孝文帝は熱烈な漢文化の讃美者であり渇仰者で、性急に漢化政策を実行した。ところで、彼が新たに遷都した洛陽は後漢から西晋にかけて長く中国の首都であった土地で、そこには古い漢文化の伝統が遺っていた。彼はそれをうけ容れるとともに、新しく南朝の首都建康に発達した漢文化をも輸入しようとした。しかしそこに一つの混乱が生じ、結局その二つの漢文化を十分に消化しきれないままに、拓抜族の精神を基調として、彼らなりにそれをまとめて一つの文化をつくりあげた。
それを書の上に示しているのが、龍門の数多い造像記であった。あの造像記に見る勁健な書法は、従来北朝特有のもののようにいわれてきたが、南朝の梁の蕭景の墓前に建つ石柱の題額の文字などと比較すると、親近性があると神田はいう。つまり龍門の造像記は、三国の曹魏の「公卿上尊号奏」や「受禅表」の系統をうけながら、一方では南朝の新様式の楷書を学ぼうとして、そのいずれとも異なって、彼ら流にまとめたものである。
また龍門の造像記より少し時代の降る鄭道昭の書を、南朝の「瘞鶴銘」に較べてみるのもよいとする。その筆法はもとより意態風度も酷似している。龍門の造像記よりも、もっとよく南朝の新様式を学んで成功している。これは鄭道昭が当時第一流の文化人で、南朝の新様式を学ぶという点では龍門の造像記の書者よりも、もっと洗練された手腕と感覚をもっていたからであろうと神田は推測している。もっともこの「瘞鶴銘」は南朝の新様式といっても、多く篆隷の古意を存していて、その点北朝人の伝統に近かったことにもよる。
洛陽から多く発見された墓誌の書を見ると、特に孝文帝時代のものがすぐれており、また貴顕のものほど立派であるが、これはそれらの書者の文化の程度が高かったためと、神田は推察している。しかし魏王朝の末期になると、南朝の新様式と古来の旧様式とを巧みに調和して、かなりすぐれた書をかくものが出てきた。「張猛龍碑」とか「馬鳴寺根法師碑」はその代表的なものであろう。
③孝文帝の死後、その漢化政策は著しく後退したが、魏王朝が東西両魏に分れる頃から斉王朝にかけてまた南朝の文化に憧憬する傾向が強くなった。梁の名高い文士何遜(かそん)の詩集を、洛陽の顕貴が先を争って読んだことは、斉王朝に仕えた顔之推がその家訓に伝えるところの逸話である。このことから当時の文化の趨勢を想像することができると神田はいう。
この時代を境目として、書においても南朝の新様式が急激に普及することになった。そして南朝の新様式の典型である二王の書がおいおい北朝にもたらされてきた。これは西魏が梁の元帝の承聖3年(554)に梁の荊州を襲うて、はじめて二王の書を長安に持ちかえったことが契機となって、北朝でも斉の劉珉とか、周の趙文淵とか、二王の書を宗とするものが出現した結果である。東魏の武定元年(543)の「高帰彦造像記」(図83-85)などは南朝の智永より時代的には早いが、あたかもその書を見るかのようで、二王に胚胎していることは明らかである。斉の天保4年(553)の「崔頠墓誌」(図97)、周の保定元年(561)の「大般涅槃経」(図110, 111)など、もう唐の欧・褚の先蹤をなしている。
ただそうした一方において、一種怪奇な書風の遺品として、周の天和5年(570)の「曹恪碑」のようなものが、多少存在するのが注意されるが、おそらく南朝の新様式を学ぶことができず、旧様の書を堕落させたものが一部の間に歓迎されたのであろうと神田は推測している。
北朝の書法を窺うべき豊富な新資料が発見されるに及んで、北朝と南朝とでは全く書風を異にしたという説が一時盛んに行われた。これを首唱したのは清の阮元である。名高い「南北書派論」を書いて、天下を驚かせた。その後、楊守敬や康有為という学者が出て、阮元
の説に修正を加えたが、それでも「南北書派論」に説くところは、今日なお一般の常識となっているかのようである。ただこの説が果して是か否か、今後の解明を要すべき中国書道史上の一大問題である。
南北両朝の書を比較すると、大局から見てそこに著しい相違の認められることは否定できない。しかしそれは相対立した2つの書派と称してよいものであろうかと神田は問題提起をしている。いったい晋王朝が華北中原を放棄して江南の地に移って以来、中国は南と北とに分れた。この時まで中国の書はもちろん一つの流れとして発達してきた。ところがこの時代はあたかも漢の隷書から楷・行・草の三体が脱化してくるときで、北方ではそれが自然発達的に進んだが、南方では王羲之・王献之の天才書家が出て、これを芸術的に完成した。
ここに中国の書に二つの流れを生じたのであって、これを阮元は南北二つの書派が相対立したと解釈したのであった。したがって阮元の「南北書派論」を全く誤謬と見ることはできないのであるが、しかし南方でも文化の中枢を遠く離れた雲南には「爨宝子碑」のような北方の自然発達的な書と全く同じ書風のものができていることを神田が指摘している。
これらの事実によって考えると、結局南北二つの書派があったのではなくて、文化の中枢で発達した芸術的な書と、それから遠くはなれた辺陲の地の自然発達的な書とがあったということになると神田はみている。換言すれば、南北の別ではなくて都鄙の別ということになる。南北朝時代はその都の書風がおいおい四方に伝播して、鄙の書風を化してゆく過渡期であり、それは初唐に至ってついに統一完成を見たと神田は理解している(神田、1頁~15頁)。

北碑の書法     中田勇次郎
清朝の中ごろ、阮元(1764-1849)が「南北書派論」および「北碑南帖論」をあらわして、北碑と南帖の是非を論じ、南帖をしりぞけて北碑を採った。また包世臣(1775-1855)が北碑の美を称揚してから、北碑の名が次第に世に親しまれるようになった。清末には康有為(1858-1927)が出て、さらに一層北碑の価値を高めた。このようにしていわゆる碑学派の書風が流行して帖学派を圧倒し、ついにその勢力は一世を風靡し、その余波が日本にまでも及んで、今日に到っている。
本来北碑というのは南帖すなわち南朝の法帖に対して北朝の石碑を指していった言葉であるが、上記の人々が北碑といっている場合には単に碑の形式を備えた石刻を意味するだけでなく、広く北朝における各種の石刻を含めていっているのが通例である。すなわち碑のほかに墓誌、摩崖、造像記などもその中に入れて考えている。したがって北碑の書法を論ずるには、これらの各種にわたって観察するのがよいと中田は考えている。中でも摩崖には有名な鄭道昭の数々の題字があり、造像記には龍門の諸品が奇を争っているなど、これらが常に北碑の書の代表作としてとりあげられているところからみても、北碑の書法を論ずるには必ずしも碑に限定しなくてもよい。
しかし北碑の書法は碑・墓誌・摩崖・造像記のいずれにもっともよく窺われるかということも考えてみる必要があると中田は主張している。以下、中田の見解を紹介しておく。
碑には人の墓前に建てられたもの、寺廟祠堂などに建てられたものなど、その建立の目的によって色々異なっているが、碑の形式を備えている点は共通している。ただし、時には摩崖に刻されたものや、造像記のものなども、実際碑の形式に倣ってつくられたものもあり、それを碑の名称で呼ぶこともある。例えば、「鄭羲碑」(図6-9)などは碑文の中に明らかに碑といっているし、龍門の造像にも碑の形式をとっているものがある。けれども素材の上からいえば碑を一類とし、墓誌、摩崖、造像記とは区別した方がよいと中田はいう。
また書風の上からいっても、その4種には多少共通するものもないではないが、やはりそれぞれに特色があるから、本来別々のものとして取扱う方がよいとする。もしその間に相互関係を求めるならば碑と墓誌は緻密な石材に精刻し、紙帛に書いたものとほぼ近い書体をあらわしており、その内容もしかるべき人のつくった立派な文章であるところは同じであるし、書風もほぼ近似している。
これに比べると、摩崖は露出した自然の岩石の表面に彫刻された字であるから、書風も豪放雄大であり、遠望に適するようにできている。また造像記も自然の岩石を利用したものが多く、仏像の彫刻に付随したもので、概して荒けずりの素樸な書風をなしている。だから摩崖と造像記の二種は、素材の生かし方からくる文字の面白さがあり、その内容にも環境にも制限があるので、北碑としても特殊な形においてあらわれたものであると考えてよいと中田はいう。
そして康有為が南碑と魏碑の十美をあげた。魄力雄強、気象渾穆、筆法跳越、点画峻厚、意態奇逸、精神飛動、興趣酣足、骨法調達、結構天成、血肉豊美などは摩崖や造像記に重点がある。
しかし北碑の書法の根本的なものはどちらかといえば碑と墓誌によって捉えられなければならないと中田はみている。北碑は石に刻まれた文字であるが、この時代には別に毛筆で書写されたおびただしい仏典の写経がある。それによって石刻の書法の足らぬところを補うことができる。巻尾の題跋に北朝の年号が書かれている写経を各時代の順次に排列してみると、その書風の変移がみとめられるという。北魏の太和年間までのもの、正始(図102, 103)、永平(図104, 105)、延昌(図106, 107)ごろのもの、正光、孝昌から普泰、永熙ごろまでのもの、西魏では大統(図108, 109)のもの、北斉の天保、天統のもの、北周の武成、保定(図110, 111)、天和(図112)、建徳のもの、それぞれ書風に特色があることがわかるという。
ただ、写経は多くは経生の手になったもので、士大夫の間におこなわれた伝統的で本格的な書法が見られないので、資料としては特殊なものに属するけれども、書風の変遷は時の流れに添うものと見えて、やはり石刻と並行している点があり、書法においてもすぐれたものには石刻の裏づけとなるものがあって、真蹟としての強味を発揮している。
北朝の碑の数は南朝に比べるとはるかに多い。その碑文の書体は隷書(のちの楷書)のものと、八分のものと、篆隷を混用したものとがあるが、その大多数は楷書である。漢代の隷書に対してこの時代には楷書が、ある一つの極点に到達した時代といえると中田はみなしている。だから北碑の書法は楷書を主として述べるのが妥当であるという(この他に碑額の文字があるが、これは楷書でかかれた例もあるが、多くは篆書または雑体の書で特殊な書体として取扱うべきであるとし、ここでは取り上げていない)。
この時代の書法のことを考えるに役立つものとしては、三国魏の鐘繇の関係のものと、晋の王羲之の関係のものとがある。鐘繇の関係のものは、唐の張彦遠の「法書要録」巻2に、「梁武帝観鐘繇書法十二意」という文章がある。梁の武帝が鐘繇の書法の十二の筆意をのべた記録であって、梁武帝の作としてはほぼ疑いのないものであるようだ。
その十二の筆意を次のものである。
1 平(横を謂うなり) 2 直(縦を謂うなり) 3 均(間を謂うなり) 4 密(際を謂うなり) 5 鋒(端を謂うなり) 6 力(体を謂うなり) 7 軽(屈を謂うなり) 8 決(牽掣を謂うなり) 9 補(足らざるを謂うなり) 10 損(余あるを謂うなり) 11 巧(布置を謂うなり) 12称(小大を謂うなり)
1, 2, 3, 4は文字の縦横の筆画の書き方、筆画相互の間隔、文字の構成の緊密さをといたもので、いわゆる間架結構に相当するようだ。5, 6, 7, 8は基礎点画の用筆の法と、筆力と転折、牽掣(ひくとおさえる法)の筆勢をのべたもので、筆法に関することを述べたものであるようだ。9, 10, 11, 12は字画の損益増減、文字の布置と大小の調和をといたもので、いわゆる章法に類することと中田はみている。これによって書法に関しておよそ3つの面が考えられていたことがわかる。これは書をみるための基礎的な方法であり、これによって北碑をみることもできるという。
次に王羲之の関係のものには衛夫人の「筆陣図」の後に題した跋(「法書要録」、「墨池編」、「書苑菁華」)があるが、「筆陣図」については唐以前にも記録がなく、王の跋とともにその内容も唐代に流行した書道の伝授のたぐいで、もちろん跋も王羲之のみずから撰んだものではないであろうという。ただその中に示された7つの基礎点画とその自然現象にたとえられた書法とか、有名な「意は筆前に在り、字は心後に居る」の説などは南北朝の書法を考えるに役立つものがある。
もう一つ、王羲之の撰述として伝えられているものに「筆勢論」(「墨池編」、「書苑菁華」)がある。これは「筆陣図」の書法をさらに詳細にとき、筆勢の妙味を解明にしたもので、最後には王羲之の「楽毅論」を模範としてあげている。これもまた唐代に流行した伝授のたぐいで、王羲之の原撰ではないようだが、六朝以来伝統的な書法を転々相伝する中に生まれでたものらしく、その中には六朝の書法につながるものをもっていると中田はみており、多少の参考に資することができるとする。
以上は古い時代に書法の文献を求めたものである。北碑は清朝になってから注目されるようになったものであり、その書法についても原碑にあたり、その中から新しく見出されてきたのである。清末の康有為の「広芸舟双楫」にはもっとも詳細にそれが述べられている。彼の説によると、書法の妙は運筆にあり、南北朝碑においては方筆と円筆と方円両筆を併用したものとがある。
北碑の方筆の例としては、「龍門造像記」(図40, 41, 46-49)、「張猛龍碑」(図24-29)、「高貞碑」(図34-37)などをあげ、円筆としては「石門銘」(図4, 5)、「鄭羲碑」(図6-9)、「刁遵墓誌」(図59)、「敬史君顕儁碑」(図79-81)、「高湛墓誌」(図86)などをあげ、方円両筆併用としては、「李超墓誌」(図68)、「李仲璇修孔子廟碑」(図82)などをあげている。この説は北碑を学ぶ人々の今日なお多く参考するところである。
北朝の書風は北魏、東西魏、北斉、北周によってそれぞれ分けることができる。その中で北魏はもっとも期間が長く、北魏だけの中でも5世紀と6世紀とではかなり差がある。5世紀に属するものは作品の数もきわめて少なく、碑では「中岳嵩高霊廟碑」(図1)と「暉福寺碑」(図2)が代表的なものである。「霊廟碑」は隷意を帯びた稚拙な書であり、「暉福寺碑」もよく見ると同様の稚拙さがあると中田はみている。この書風は5世紀の末葉から6世紀初にかけての太和、景明年間に造られた「龍門造像記」(図38-49)につながるものである。写経では太和3年(479)書写の「雑阿毘曇心経」巻第6(英国博物館蔵S996)がこの種の書風の真蹟としての実際をもっともよく示している。
6世紀に入ってからは書法は加速度的に発達していった。碑では、神亀2年(519)の「賈思伯碑」(図22, 23)、正光3年(522)の「張猛龍碑」(図24-29)、正光4年(523)の「馬鳴寺根法師伝」(図30-33)、同じく正光4年(523)の「高貞碑」(図34-37)と西紀520年前後に集中して名品が伝えられている。写経や墓誌の実例に照らしてみると、6世紀の初めの頃から既にこのような書風があった。この点を詳細に考えるために中田は北朝の書の中からもっとも代表的な書風のものを3種とりだして、その書法のことを論じている。
以下順次紹介しておく。
①「張猛龍碑」によって代表される書風のものである。梁の庾肩吾の「書品」に、書人の優劣上下を品第し、漢の張芝と魏の鐘繇と晋の王羲之の3人を上の上の位において、張は工夫は第一で天然はこれに次ぎ、鐘は天然は第一で工夫はこれに次ぎ、王は工夫は張に及ばないが天然はこれ以上であり、天然は鐘に及ばないが工夫はこれ以上であるという。
この見方によって考えてみると、この第一の書風のものは天然と工夫、すなわち精神と技巧において精神の方がすぐれているものに属する。言い換えれば、この意味においては鐘繇の筆法をえているということもいえないこともないと中田は付言している。
この書風のものの特色について中田は次のように述べている。
・字形は正方形のもの、竪に長いもの、横に平たいものなど文字に応じて様々であり、時には傾斜したものもある。
・結体は必ずしも方正でなく、自然のままに変化している。
・中には下部に力を張って一種の安定感を与えるものがある。例えば、州、周の字がそれである。横画をとくに長くかいたものがある。例えば、「張猛龍碑額」(図24)の守、魯の字がそれである。
・左に払う撇、右にひく捺の法はこれも特に長いものがある。例えば、大夫、春秋の字がそれである。
「筆陣図後」に「書は平正安穏であることを貴ばない。先ず用筆には偃があり、仰があり、欹があり、斜があり、あるいは小さく、あるいは大きく、あるいは長く、あるいは短くなければならない」という。
魏晋の書が自然の風神をえていることは唐宋以後において書を論ずる人々の多く一致する見方であるが、第一の書風のものはこの意味から考えても、魏晋の書法につながるものと中田は考えている。
筆法についてみると、線の性質はきわめて力強く、一見して鋼鉄のように緊張した感じを与える。
・起筆も収筆も深く健実(ママ)である。
・点画の動きに応じて随所に筆勢があらわれる。
・鉤法と戈法は簡直で、いわゆる方筆の妙味をよく示している。
・字をかくときには点画によって遅くかくところと急にかくところとがあり、これによ
って形勢が備わることは「筆陣図後」に述べるところであるが、この書においてもこのことが適用されるという。
・文字の布置はかなりの間隔を置いて、士大夫の書らしい品位を示している。
・大小の調和は、「張猛龍碑額」(図24)の「之」の字は筆画が少ない字であるからか特に大きくかいているのがよい例であるとする。この書風に属するものには、ほかに「賈思伯碑」「馬鳴寺根法師碑」がある。
・多少書風は異なるところもあるが、その書法の特色や風神の高妙なところはやはり一類のものと見なしてよいと中田はみている。
・また比較的古いものでは、太和23年(499)の「元景造石窟記」があり、墓誌では「元勰墓誌」(図52)、「元新成李氏墓誌」(図60, 61)、「世宗夫人司馬顕姿墓誌」(図64, 65)、「元倪墓誌」がこれに属する。
・「元勰墓誌」は永平元年(508)の作で、この頃にこの書風のものがあったことがわかる。これらの墓誌は北魏の貴族たちのもので、その書も当時第一流の名手になったものらしく、その書法の精絶なこと、および出土が新しくて保存の良好なことは「張猛龍碑」をはるかに凌駕するものがある。中でも「世宗夫人司馬顕姿墓誌」は上記の特色に最もよくかなうもので、書もとくにすぐれている。
・写経では正始2年(505)の「大般涅槃経巻第四十」(図102, 103)には「根法師碑」を裏づける書法が見られ、永平3年(510)の「大智度経巻第三十」(図104, 105)には「張猛龍碑」の秀美な暢達した筆致に通ずるものがあり、延昌2年(513)の「華厳経巻第
四十七」(図106, 107)には遅筆の中に自然の風神を備えている。
・それぞれ当時の書風の一面をよく真蹟によって明示してくれる。
②第二は「高貞碑」によって代表される書風のものである。これは天然と工夫について見るならば、天然よりも工夫、精神よりも技巧においてすぐれているものということができる。
・字形は方正できわめてよくととのっている。第一の書風のものが自然の風神をえて左右欹斜しているのとは異なっている。
・文字の構成にも一定の規矩を備えていて、いささかのくるいもなく、扁旁の組合せの緊密さにおいても、少しの隙間もない。
・間架結構の整正さにおいて、ある一つの極点に達した感がある。この意味では上は漢代の隷書の碑につらなるものであり、下は東西魏、北斉、北周から隋に及ぶ方正な書風と同一の系統に属するものということができるという。
・この書風のものは規矩を貴ぶがゆえに、北碑の書の技法はこれによって最もよく知ることができる。
・横画と縦画の起筆と収筆は常に一定の角度と法則によって書かれている。
・左に払う撇法、右にひく捺法、あるいは鉤法や戈法などあらゆる筆法は統制された技法にもとづいて確実に運用されている。
・線は肥痩の中庸をえて、筆力は健勁であり、筆勢の鋭さにおいては第一の書風にも劣らず、時にその妙を発揮する。例えば陳字の扁の収筆を右上にはねたり、外字の縦画の収筆を左にはねる(図34-37)がそれである。
・文字は格の中に比較的大きくかかれ、布置大小は整斉である。
・この書風に属するものとしては、「高貞碑」と同筆とみとめられている「高慶碑」(図3)
がある。摩崖の「鄭羲下碑」(図6-9)なども康有為は円筆として取扱っているが、書法の上から見るとやはりこの系統に属させてよい面もあると中田はみている。
・墓誌では永平4年(511)の「司馬紹墓誌」、「元顕儁墓誌」(図53)、「肅宗昭儀胡明相墓誌」(図69)がある。
・永平5年(512)書写の「大般涅槃経巻第三十二」(フランス国立図書館、P2907、敦煌秘籍留真)は書風は自然なところもあるが、技法から見るとこの系統に属するものとしている。
③第三は東魏の「敬史君顕儁碑」(図79-81)によって代表される書風のものである。
・これは第一、二が方筆で書かれているのに対して、円筆で書かれているのが著しい特色となっている。
・字形は横に平たく、結体はさほど緊密ではない。
・方筆のものに見るような風骨のきびしさがなく、温雅でやわらかく、かの智永の「千字文」(5巻図60-83)に似通っている。
・この書風は北魏の普泰元年(531)の「張玄墓誌」(図72, 73)に更に明らかに表されている。この墓誌の書はまた更によく智永の「千字文」に似ている。
・この書風のものは北朝にもとからあったものではなく、南朝に同化されてできたものと解してもよいと中田はみている。
筆法は康有為の説を借りて、方筆が頓筆で書かれているのに対して、円筆は提筆で書かれていると中田は説明している。即ち蔵鋒によっていわゆる錐画沙印印泥の書法を用いている。横画、縦画、撇、捺、鉤、戈などの書法はこれも智永の「千字文」にほとんど変わりはない。
筆力には方筆のような健勁さはないが、内につつまれた力があり、筆勢は簡直ではなく転折の呼吸を入れたうるおいのある王法の美しさを備えている。この意味から考えてみると、この書風のものは庾肩吾の「書品」に、工夫は張に及ばないが天然はそれ以上であり、天然は鐘に及ばないが工夫はそれ以上であるとのべた王の立場にあるものといってよいと中田はみている。すなわち第一と第二の書風に対し、精神と技巧において、特に傑出しているわけではないが、平均した調和を保持していると中田は解釈している。神亀元年(518)の「世宗后高英墓誌」(漢魏南北朝墓、集釈所載)は王羲之の「楽毅論」に似ているし、「司馬昞墓誌」(図63)は鐘繇の「薦季直表」や「宣示表」にそっくりである。その書風も温雅で円筆でかかれている点からいっても、この系統に属するものと中田は考えている。ただ鐘繇や王羲之の書がこのようなものであったかどうかは俄かに断言できないと付言している。むしろ現在伝えられている鐘・王の書がこれらの墓誌と並行する頃に成立したのかもしれないが、南朝に根ざすものであるということは、智永の「千字文」とのつながりにおいて考えられるとする。
また「高帰彦造像記」(図83-85)もこれに属するものであることは、これが智永の「千字文」や唐の虞世南に似ていることによって認められる。写経では孝昌3年(527)書写の「観世音経」が最もこれに近い例であろう。その他6世紀前半に柔軟な円筆でかかれた写経がいくつか存在しており、北魏の末葉にこのような書風の傾向があったものと推察できる。大勢から見れば、写経と石刻には並行する傾向があることが認められるので、少なくとも北魏の末葉、「張玄墓誌」の刻された普泰元年(531)前後のころには、王羲之系統の書風がかなり進んだ形においておこなわれていたことは事実である。
以上、北魏の書法について中田は3つの書風に分類して、その特質を述べてきた。要するに北魏の書法の精神的な面を見るには第一の書風のものがよく、技術的な面を見るには第二の書風のものがよい。いずれも方筆を用いているのが特色となっている。北魏の本領はこの二つのものに備わっていると中田は考えている。第三の書風のものは王羲之の書法に依っており、むしろ南朝の書法に付属させてもよいくらいで、北魏としては第二義的なものであると中田はみなしている。ただ、方筆といい、円筆というのは書の技法の面からいった言葉であり、本質的な言い表し方をすれば、第一のものは自然派、第二のものは技巧派、第三のものは中和派とでも言った方が適当であると付記している(中田、16頁~22頁)。

以上、中国5、6の途中の要約である。



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