≪石川九楊『中国書史』を読んで その16 コメントと雑感≫
(2023年4月30日投稿)
今回は、石川九楊氏の次の著作に関するコメントと雑感を記しておく。
〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年
ただし、執筆項目は、私の関心のあるテーマについて記してある。
なお、本文に出てくる人名について、敬称略であることを最初に断っておきたい。
また、参考文献に挙げた論文は、ネットで閲覧可能である。
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
中国の書と日本の書の相違について、石川九楊は興味深い捉え方をしている。
中国では、紀元前千数百年から初唐代まで2000年近くをかけた前史があり、その歴史的蓄積が、書の美の基本部分を成立させた。このことを象徴的に言えば、石と紙との争闘史であったという。つまり刻ることと書くこととの争闘史であり、また鑿(のみ)と筆との
争闘史であった。
中国の書は、行書、草書を従えた楷書を中心に、楷・行・草の三書体セットで立体的に成立した。その楷書書字法の中心に来るのが、「トン・スー・トン」つまり起筆・送筆・終筆の三過折=三折法の構造である。
楷書は、三折法を運筆筆蝕の中心に据え、中国の陰陽二項対立思想から来る、左右対称の構成法の上に成立する構築的、政治的な書であると定義している。
一方、日本の書は、紙と石との、鑿と毛筆との争闘という書史の前提を知ることがなかった。書くと刻ることの相関を知りえなかった日本の書は、三折法をなだらかな「起筆・送筆・終筆」の階調(グラデーション)と読みかえ、「真・行・草」の深い意味合いに目が届かなかった。
「先、行字可有御習候。行、中庸の故也(まず行書からお習いなさい。行書は中庸ですから)」(『入木抄(じゅぼくしょう)』)と言われる日本の書には、極論すれば、楷書がないという。
日本の書、とりわけ和様の書は、「トン・スー・トン」ではなく、いわば「スイ・スー・スイ」というなだらかな連続法で、ひとつの字画が「S字型」を描き、かつ左右対称性を「くずした」構成を基本とする。日本書史においては、「和様」と「唐様(からよう)」と「墨蹟」しか成立しなかった。「和様」は、三蹟のひとり小野道風の「屏風土代」がその出発であり、三蹟の藤原行成の「白楽天詩巻」で完全に成立する。また、「唐様」は中国の書の輸入との関係で成立した「中国書くずし」であり、「墨蹟」は中国から輸入した書の「くずし」である唐様の書の、禅僧によるよりいっそうの「くずし」である。中国を含む書史の全体から言えば、日本書史はそれ自体豊穣な蓄積をもってはいるものの、「コップの中の嵐」程度のことにすぎないという。
(石川九楊『書とはどういう芸術か』中公新書、1994年、140頁~147頁)
楷、行、草のうち、中国では楷書を基本と考える捉え方であるのに対して、日本では行書を典型(中庸)として捉えている。書における「大陸的」=中国的とは楷書を標準にしている。それに対して「島国的」=日本的とは楷書をくずした行書的な書を基準にしている。このことは、『入木抄(じゅぼくしょう)』などで明らかである。楷書は構築性、直線性、動的、肥の傾向をもつとされ、行書は展開性、曲線性、静的、痩または肥痩の傾向をもち、柔軟、抒情的と表現される。
日本の書史を見た場合、擬似中国文化時代、遣唐使世代に属する三筆(空海、嵯峨天皇、橘逸勢)の書は中国書の吸収、消化期に位置し、中国の書に酷似している。空海の「灌頂記」が顔真卿の影響を受けているという説が流布されるのは、三筆の書が中国色をいまだ払拭しきれない事実を証明している。
ところが、漢語と和語からなる日本語が誕生し、日本が姿を見せはじめたポスト遣唐使世代である三蹟(894年に遣唐使廃止生まれの小野道風、藤原佐里、藤原行成)によって書風は一変した。運筆はなめらかで柔らかく、「S字型曲線」を描くようになり、文字形は円く均整がとれ、肥痩(ひそう)をバランスよく、ないまぜにした美しい和様の日本文字へと昇華した。
つまり、楷書の典型は中国初唐の欧陽詢、虞世南、褚遂良によって、和様・日本文字の典型は日本の三蹟によって完成した。僧寛建が道風の書を携えて入唐し、僧嘉因が佐理の書を宋の太宗に献上したというエピソードが、三蹟の書の中国風からの脱出を示している。(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、199頁~200頁)
書の担い手という問題を考えてみた場合に、どのように要約できるのであろうか。
漢字文化圏における書は、文化の中枢にある表現であるから、政治的・文化的中枢部に存在しつづけてきた。
甲骨文は、史官とでも言うべき存在によって亀甲や獣骨に刻りつけられていた。史官というのは、王、王と神との間の通訳である占人と並び、神政政治の中心を担っている存在であった。中国殷代の最初の文字・甲骨文は、王と占人と史官の三者の創製したものと考えられる。
秦の始皇帝時代の篆書を書き、刻りつけもした李斯も、この史官に相当する存在であった。漢代の隷書の書き手や刻者もまた、この史官に準じる存在である書記官であった。草書の時代になると、王羲之など高級貴族が書の書き手となる。
唐代には、皇帝をはじめ、欧陽詢、虞世南、褚遂良といった皇帝周辺の最高級官僚であった。宋代頃から、高級官僚やその挫折者である士大夫が書の表現を担うようになり、これは清代まで続く。
このように、中国において、書は史官、書記官、皇帝、高級官僚、士大夫という、いずれにしても高級政治家、官僚とその周辺に担われていた。
日本においても、同様で、基本的に天皇や皇后、貴族、あるいはその周辺の僧(知識人)によって書は担われてきた。江戸末期になると、新興町人階級の成熟とともに、この力を背景とした都市知識人(いわゆる日本的文人)もこれに加わり、幕末には儒学で武装した維新の革命家、明治の近代以降は、政府の書記官、さらに作家や詩人や学者によって書は担われた。
(石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、69頁~70頁)
石川九楊は「書は人なり」という言葉について、次のように述べている。
「「書は人なり」と言うのは、書に表現世界なんて存在しないという認識と、個人は固有の性格を具有するという認識とが重なり合った場に生ずる、きわめて現代的な思想である」と。
(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、95頁)
また、石川九楊は、中国宋代の蘇軾の説を紹介している。つまり、蘇軾は、「書は人なり」という説に対して、顔でさえその人を表わすと言いきることができぬのに、書が人を表わすというようなことはないよと、作者と表現の関係のとても深いところから書について語っているという。
これに対して、日本では「書は人を表わす」という説は人口に膾炙され、書についての評価は、すぐに「書は人なり」に帰着してしまう傾向が強いと指摘し、その理由として、5つ挙げている。そのうちの2つを紹介しておこう。
一、日本の書史は中国の書の流入によって左右されるため、その自律的展開が少なく、また真に評価する書が少ないため、書の価値を評することが、作者の違いを言上げすることに転化されたと主張している。日本人が作品の真贋問題を大きくとり上げるのはそのためという。
二、このため、日本では中国のような書評や書論の厚みがなく、評価法が育っていないという。
「書は人なり」という言説に対して、日本と中国とでは受け止め方が異なるのは、その背景にある書の歴史の厚みや、書論などの評価法といった文化史的蓄積の違いなどに由来することを石川が指摘しているのは興味深い(石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、192頁~194頁)。
日本では、とくに禅僧の書を「墨跡」と称して、これを珍重する風習がある。鎌倉時代は禅林様書道の栄えた時代であるといわれる。芸術と人間との相関性を自覚して、その深まりを求めるところに、道におけるきびしい鍛錬、稽古を行なうのが、禅林様の書道精神である。そこには、男性的、個性的、意力的な書風が成立したと理解されている。
鎌倉時代の禅僧で中国に入国した者は、8、90人にのぼり、その墨跡が将来され、無準師範(1177~1249)などの墨跡は今日なお伝存している。
禅僧の墨跡の特色は一般に中国の古い書道の伝統から離れた破格の書であるといわれる。中国のように、根強い文化的伝統を持つ国では、その伝統に反するものは、これを異端として拒否する傾きがつよい。したがって、中国では禅僧の墨跡はむろん疎外されたという。一方、日本においては、書道の一派をなすものとしてその価値を認めている。ここに書に対する両国の相違を平山観月はみている(平山観月『新中国書道史』有朋堂、1965年[1972年版]、296頁)。
青山杉雨には『明清書道図説』(二玄社、1986年)というりっぱな仕事がある。
著者略歴によれば、青山杉雨は、明治45年(1912)に愛知県に生まれた。西川寧に師事し、謙慎書道会理事長をへて、大東文化大学教授についた。また日展常務理事、日本芸術院会員になり、文部大臣賞、日本芸術院賞を受け、そして勲三等旭日中綬章を受けた。
青山は、中国歴代の書を通観してみて、最も「うまい字」を書いたのは誰かと問われたら、宋代では米元章(米芾)、明代では王鐸、清代では趙之謙に躊躇なく指を屈すると答えている。青山杉雨は、明末のロマン派の中心的存在として、王鐸を捉えている。そして、
「王鐸の書は実にうまい。またいい素質にも恵まれている。そうでなければあの様に縦横に筆を駆け廻らせては紙面が破綻してしまう筈なのに、それにうまくけじめがつけれるのは、その豊かな資質の然らしむるところであると見ている。また実によく線が伸び且行きとどく。羲之書を連綿草で書いた作などを見ると、よくあれ丈逸気にまかせて情懐を発展させながら、停る部分ではちゃんとキマリがつけられるものだと感心させられる」と記している。
また、王鐸の書は「うまい字」であるが、しかし傅山の書は「いい字」であり、書におけるロマンチズムの精神を傅山は最高のレベルにまで高めたと結論している。生き方においても、王鐸が清王朝に再出仕して節度を非難されて、その名を埋没させたが、傅山は出仕を固辞し隠棲し、清名を後世にまで語りつがれた点も対蹠的であった(青山杉雨『明清書道図説』二玄社、1986年、16頁~20頁)。
石川九楊は「蘭亭序」および書の勉強の仕方について、次のように述べている。
「詳しい事情はわからぬが、中国のことだから、清の乾隆帝が価値づけたという「第一本」「第二本」「第三本」という序列に意味はあったのではないだろうか。
それにしても、と私は思う。なぜ「第二本」を軽視し、「第三本」を不当に高く買うようなへんてこな常識が書道界にまかり通っているのだろうか。ここに現在の書の学習法の間違いがあると思う。
私はどうしても最近の書の勉強の仕方に疑問を感じる。長老書道家は「最近の書道家は勉強しなくなった」とぼやく。「書道家も文章くらい書けるようにしなければだめだ」と小言を言う。それはそうかもしれない。しかし、この時、長老書道家は「勉強」という言葉にどんな意味を込めているかが問題だ。
最近の「蘭亭叙」の研究というと、墨跡本や拓本の種類を探したり、整理することになる。少し漢文が読めると、中国での「蘭亭叙」についての学説の探索や整理ということになる。あるいは中国史学者や中国文学者の後塵を拝するに決まっている王羲之の伝記的穿鑿に走ろうとする。もっと勉強家は、東洋史を勉強して、中国の時代背景や時代思想と「蘭亭叙」を結びつけようとする。
むろんこれらの研究のひとつひとつの進展が、全体として「蘭亭叙」の研究を進めることだからそのこと自体大切で必要なことではある。しかし、これらの研究は、東洋史や中国文学の一分野であっても、それ自体はまだ書の領域での学問ではない。
書をする者にとって書を勉強するとは、書自体を読み込み、解き明かすことだ。書の鑑賞の仕方なんて各人の自由で、いろいろと解釈できるものだというのは、間違った考え方である。書自体を読むとは、文章を読むのではない。書、つまり筆跡の美を読み込むことなのだ。私自身書家でありながら文章も書いているのだから口はばったい言い方になるが、必ずしも書家が文章を書いた方がいいとは思えない。問題はそんなところにはない。それよりも書自体を読み込むこと。読み込んで、読み込んで書を見る眼を微細な感受性をもつものへと鍛えていくことだ。
むろん書についての「見方や解釈は各人の自由」式の印象批評ではしかたがない。書写の過程を追い、その筆蝕を解き明かし、その筆蝕のよってきたる思想や美を言葉でつかみえた時、はじめて書を読んだと言える。それこそが書の学問の中心に来るべきものだと思う。
それは実作経験者である書の実作者の得意とするところである。「実作者にしかできない」というのは言い過ぎだとしても、日頃筆蝕の中に表現を盛ることに腐心し、筆蝕の意味や価値と苦闘している実作者が最も理解しやすい。有利な位置にあることは確かだ。おそらく微細な読みは、中国歴史家や中国文学者では不可能なことだと思う。もしも書の実作者ががんばって、書を読んで読んで、読み込んだ上で、書について語れるなら(文章に書いた方がいいに決まっているが必ずしも書かなくてもよい。語ってもよいのだ)、そこまでやれれば、その成果は逆に東洋史や中国文学にも益をもたらすことになる。その時、書家や書の研究家は、東洋史や中国文学者や文献学者たちと同列に肩を並べる存在となる。
書の学問というのは、東洋史や中国文学者や文献学者の後塵を拝し、そのまねごとをすることではない。眼前にある書――とりわけその美――を解き明かすことなのだ。
なぜなら、書というのは、意識的か無意識的であるかは別にして、人間の表現したものとして存在している。つまりその表現の美――その意味や価値――を扱わねばならないからだ。」(石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、123頁~124頁)
中国史学者(東洋史学者)や中国文学者が「蘭亭序」を研究する場合と、書家や書の研究家(書を学ぶ者)が書の勉強をする場合とでは、学問の領域が異なることを石川は強調している。例えば、「蘭亭序」を研究する場合、前者は墨跡本や拓本の種類の探索や整理、中国での学説整理、王羲之の伝記的穿鑿、「蘭亭序」と中国の時代背景や時代思想との関係を探究することになる。それに対して、後者の書の領域の学問は、書自体(筆跡の美)を読み込み、解き明かすことであるというのである。すなわち、筆蝕を解き明かし、その筆蝕のよってきたる思想や美を言葉でつかむことであるという。
石川九楊の持論が十分に反映されている記述であろう。
草野紳一「心に慕い手に負う―「書聖」王羲之という幻体への作法」(石川九楊『書の宇宙6 書の古法<アルカイック>王羲之』二玄社、1997年所収)に興味深い話がある。
王羲之は、幼時、訥(とつ、吃音)であったといわれる。成長するや、弁が立ったというが、吃音の克服があったという。
長男でなかったらしい王羲之の「羲之」の名からして、名に呪われている。「羲之」の「之」は道教徒たるを示す符名記号といわれている。また犠牲の羊を鋸(のこぎり)で切った形象の「羲」は、羲皇(ぎこう)、太古淳樸の聖天子伏羲(ふくぎ)のことにほかならないという。「易」の八卦(はっけ、はっか)の創始者に当てられ、文字(書契)の発明者にも擬されている。
二十四孝の王祥(おうしょう)以来、名門化した王一族は、二王のみならず、みな筆をよくしたという。この「羲」の名には、聖天子たれというより、書の名人たれの願いが、託されていたのではないかと草野紳一はみている。
父の曠の事蹟は、謎に包まれ敵軍への降伏説さえあるが、どのような気持ちで「羲」とつけたのかと、草野は疑問を投げかけている
(草野紳一「心に慕い手に負う―「書聖」王羲之という幻体への作法」石川九楊『書の宇宙6 書の古法<アルカイック>王羲之』二玄社、1997年所収、82頁)。
西林昭一は、西林昭一編『中国法書ガイド15 蘭亭叙<五種>東晋 王羲之』(二玄社、1988年[1998年版])において、「蘭亭叙(ママ)」についての見解を述べている。以下、紹介しておこう。
「蘭亭序」28行、全文324字は、東晋の穆帝の永和九年癸丑(353)の歳、王羲之47歳時(魯一同『右軍年譜』による)の行書作で、書の歴史上最高傑作として評価され、現代になお光彩を放っている。
しかし、原跡そのものの真偽問題をはじめ、伝本各種の評価に関しても、さまざまな論議があって、現在になお多くの問題をのこしている。
「蘭亭序」について事典風にいえばこうである。王羲之が永和9年3月3日、会稽山陰の蘭亭(いまの浙江省紹興県)に、謝安ら41人の名士を招き、袚禊(ふつけい)の礼に行なったのち、流觴曲水の雅宴を催して詩酒に興じた。この時に成った詩集の序文を、王羲之が書いた。その草稿が現行「蘭亭序」の原跡であると伝えている。内容と状態からみれば、蘭亭詩集序稿とでもいうべきであろうが、唐代以前は「蘭亭集序」また「臨河序(りんかじょ、『世説新語』企羨篇および注引)」といい、唐代以後に「蘭亭序」(序を叙と書くのは家諱を避けた蘇軾以後の襲用)、あるいは禊帖(けいじょう)などともいう。
伝来については、唐の劉餗(りゅうそく)『隋唐嘉詰』、何延之『蘭亭記』ほかで小説用に仕立て、いまさら言うまでもないほど有名であるが、唐の太宗が王書を崇尚し、苦労の末、真跡を内府に納れさせ、崩御に臨み、昭陵に随葬させたという。
したがって現存の「蘭亭序」は、貞観年間(627-649)に、搨書人の趙模(ちょうも)、韓道政、馮承素、諸葛貞にそれぞれ搨摹させたうちのある種のものと、欧陽詢、褚遂良らの名手の臨摹させたと伝えるものがあり、中でも欧陽詢の臨本がすぐれていたため、これを刻石したといい、定武本の原石がこれであるという。
ただし、宋以後も臨摹や模勒が重ねられているため、どれがどこまで原跡の面目を留めているか、まさに“蘭亭衆訟”で定説をみない。
また郭沫若は文章そのものが偽託だとする清の李文田の説を襲ぎ、南京象山新出土の王氏一族の墓誌の書体などをも傍証に、現行「蘭亭序」は、隋の智永の作だと断案した(「由王謝墓誌的出土論到蘭亭序的真偽」『文物』1967-6所収)。ただし、この説は、すでに否定の傾向にあるという。
伝来の「蘭亭序」中、搨摹本および臨本には次の6種が現在ある。
(1)「八柱第一本」(北京故宮博物院蔵)
(2)「八柱第二本」(同上)
(3)「八柱第三本」(同上)
(4)「絹本蘭亭序」(湖南省博物館蔵)
(5)「黄絹本領字従山蘭亭序」(台北故宮博物院蔵)
(6)「陳鑑摹蘭亭序」(北京故宮博物館蔵)
このうち(1)(3)は搨摹であろうが、貞観当時のものかどうかは断定できないと西林はいう。
(2)(4)(5)(6)は褚遂良の臨本およびその摹本とみられているが、これまた確証はない。ところで(1) (2) (3)にいう八柱本とは、清の乾隆帝の収蔵品中、「蘭亭序」および「蘭亭」ゆかりの墨跡計8種を、石柱に刻して、かの円明園に置いたことにちなんでの命名である。
八柱石は、1917年、中山公園に移置され、現在、亭を築いて保護されているが、西南の廊廡にはまた、正面に蘭亭修禊図(らんていしゅうけいず)を線刻し、背面に乾隆帝の題詩三首などを刻した石屏があり、この乾隆帝題詩第一首の注に、乾隆43年(1778)、8冊の墨跡を1冊ずつ柱刻した事情をいっている。
この8冊とは、
(1)虞世南臨蘭亭
(2)褚遂良臨蘭亭
(3)馮承素摹蘭亭
(4)柳公権書蘭亭詩并後序
(5)戯鴻堂刻柳公権書蘭亭詩原本
(6)于敏中補戯鴻堂刻柳公権書蘭亭詩闕筆
(7)董其昌倣柳公権書蘭亭詩并跋
(8)乾隆帝臨董其昌倣柳公権書蘭亭詩并跋・題八柱冊並序
である。八柱帖の三本は、乾隆帝の収儲以前、ともに各種の集帖に刻入され、定武本とともにもっとも著名な蘭亭序である。
「八柱第一本」は、本幅は白麻紙本で、高さ24.8cm。巻末に「臣張金界奴上進」とあることで、一に「張金界奴本」という。本幅内には南宋の高宗の「紹興」印をはじめ、明清の鑑蔵印が鈐されている。後幅には南宋の楊益の淳煕5年(1178)の観題をはじめ、明清人の跋十数種がある。明の董其昌跋の中に、虞世南が臨書したものだろう、という説をうけ、清初にこの巻を収蔵した梁清標(りょうせいひょう)は、巻首に「唐虞永興臨禊帖」と標題したことから、乾隆帝に帰して以後、「石渠宝笈」「蘭亭八柱帖」さらには「蘭亭墨蹟彙編」など、ともに虞世南の臨本としている。ただし虞臨とみるのは董其昌の臆断で、何の根拠もない。清の王澍「虚舟題跋」には、褚遂良の臨摹とし、呉升「大観録」には、宋の王著の臨摹本ではないかというが、これまた単なる印象論でしかないと西林は否定している。
原巻は幾たびかの改装の際、汚れをとるため洗われたりして墨気の抜けたあとへ、淡墨で全面に筆を加えてあり、そのため著しく筆勢が殺がれている。西川寧は精到な様式論的考察を根底として、この帖を双鉤本とみ、搨摹本の第一に推している。
また谷村憙斎は、現存の羲之帖に対し、王羲之が一紙8行で2cm間隔に折罫を付けた料紙(右軍箋と命名する)を使用していることを検証し、八柱三本中、この第一本の原跡は、右軍箋を使用していると考証する。が一方、しばしば原本に接したという啓功は具体例を挙げ、宋人が定武本に拠った臨写本ではないかとみている。
刻帖には、餘清斎帖、戯鴻堂帖、玉煙堂本、秋碧堂帖ほかがある。餘清斎帖本と秋碧堂帖本は佳刻ながら刻調にちがいがあり、評価もまちまちである。
「八柱第二本」は、淡黄紙本で高さ24.0cm。前隔水に清初の収蔵家卡栄誉が、北宋の蘇易簡の筆跡とみる「褚摸王羲之蘭亭帖」の題簽があり、褚遂良の摹本と伝承されてきたが、これまた確証はないと西林はいう。
西川寧は、米芾以後の臨本とみている。啓功は初行「永和九年」の右に鈐された「太簡」印を、卡栄誉が蘇易簡と判定したそれは、他から移して嵌めこんだ印であること、米芾の「題永徽中所摸蘭亭叙」(『宝晋英光集』)の末に、題詩中の語が載せられていて、米芾は褚臨本とはみてないとするなどの新見を示し、米芾の自臨自跋ないしは米芾の臨写の重摹本かと結論している。後幅の米芾題詩がすぐれた作風であることから、種々議論があるが、米芾の題詩とそのあとの観款ごと、他から移して改装されたとも考えられている。
いずれにしても、本幅の書風は、筆がもつれて濁り、生彩に乏しい。翁方綱も米臨かとみているが(『蘇米斎蘭亭考』)、米芾のもつ流滑快利の筆致はない。なお、第15行の「怏然」を、この本のみ「快然」につくっている。なお、刻帖は「三希堂帖」のみである。
「八柱第三本」は、白麻紙本で、高さ24.5cmである。古くは前隔水に題簽の右半が残っているように、唐摹蘭亭と称されていた。しかし元代以後、首行の上方「神・品」連珠印の右紙縫に、唐の中宗(在位705-707)の年号である「神龍」印の左半が、また末行「者亦」左方の紙縫に同印の右半が見えることから、「神龍本」ないし「神龍半印本」とよばれるようになった。ただし、翁方綱はこの印を信用していない。
また、明末の所蔵者である項元汴が、馮承素の搨摹と断定したことで、乾隆内府に帰してのちは、馮承素本ともよばれた。しかし、これまた何の根拠もないと西林はみなしている。
本幅内に「紹興」印がみえ、一時期、南宋の高宗の秘庫にあったことが知られる。南宋末に理宗の皇女が楊鎮に降嫁する際に、持参品の一として出庫した、ということが、元の郭天錫の後跋にみえている。
本幅の前後には、夥しい数の収蔵印が鈐されているほか、後幅には、北宋の熙寧9年(1076)の許将をはじめとし、元の趙孟頫ら著名人の跋や観款がつらなる。
また、本幅がはたして搨摹によるか否かも問題がある。啓功は具体的な問題を例挙して、これこそ原本との距離がきわめて近い搨摹本とみる。が、西川寧は敷き写したものとみている。
この帖は、第8行の「和」の旁を「日」につくり、また首行「歳」、3行「羣」「畢」、7行「觴」、14行「静」「同」、23行「死」にいわゆる破筆(はひつ)が見える点や、13行「因」、17行「向之」、21行「痛」「毎」、25行「夫」、終行「文」は、重ね書きして改写した字であるが、墨色をかえている点などからみても、きわめて忠実な墨跡本であると西林はみている。
この刻帖には、集帖本として、「鬱岡斎帖」、「玉煙堂帖」、「墨池堂帖」、「三希堂帖」、「嶽雪楼帖」などの各本がある。また明代中期に、王済が所蔵していたおり、豊坊が手摹し、章乙甫(しょういつほ)に刻させた精緻な単帖がある。この原石は、のち天一閣に伝わって拓本が流布したが、紙本では末の5、6行の行間が詰まっている(啓功はこの点を搨摹本の条件の一つに数えている)のを、この単帖本は行間をそろえ、字間も少しずつ動かしている。その上、紙本にはない「貞観」「開元」「褚氏」「米芾」その他の偽印を刻入している。
さて、墨跡影印本がなく、刻帖によってしか接することのなかった時代に、もっとも評価を得ていたのは定武本で、この一石にのみ諸家の論議が集中した感さえあるので、定武本には一言付け加えている。定武本の生出や伝来もまた多くの謎に包まれている。
欧陽詢が臨書した「蘭亭序」を、唐の太宗が刻石せしめ、宮中に留められていた。この原石は、五代の石晋の乱に、契丹の耶律徳光が中原から奪い取って北へ帰る途中、殺虎林で遺棄した。その後は所在不明であったが、宋の慶暦中(1041-1048)に李学究が定武軍で発見し、ついで宋祁(そうき)に帰した。この発見にちなんで欧陽詢臨本刻石拓本を、定武本とよんだ。熙寧年間(1068-1077)に至り、薛□(王+尚)が定武軍の太守に官したが、拓本を求める人が多くなったので、別に一石を覆刻した。またその子の薛紹彭も模刻をつくった。このとき原石の湍、帯、右、流、天の五字をわざと欠損した。この五字が備わっているときの拓本を「五字未損本」といい、定武本では珍重される。
原石は長安に持ち帰ったが、徽宗の大観年間(1107-1110)に、詔して原石を取り宣和殿に置いた。しかし、靖康の変(1127)で金人に奪去され、その後は所在不明となった(この石は薛紹彭の模刻とする説もある)。
一体、宋代でさえ幾種の定武系があったか。士大夫の家は、それぞれ翻刻の石を持ったというから、夥しい数にのぼったのである。ちなみに、定武原石の単帖で著名なものに、落水本(五字未損本、所在不明。裴景福旧蔵文明書局影印本を啓功は偽物と断案する)、呉炳本(五字未損本、東京国立博物館蔵)、韓珠船本(五字未損本、中村氏書道博物館蔵)、独孤長老本(五字已損本、東京国立博物館蔵)がある。
「蘭亭序」はその原跡の有無も出現の事情も謎につつまれている。したがって、墨跡本や刻帖のいずれがどれだけ原跡に近いかという議論は空転のおそれが多分にある。ただし、現行蘭亭序の原跡が、かりに隋唐期の偽託であるとしても、書としての評価が無になるわけではない。蘭亭序は一見したところ至って平凡な造型のようであるが、西川寧の説く“力の均衡”による、非凡な造型感覚に裏づけされた、遒勁で変化多端な書風を形成していて、これに匹敵する行書作は見出せない。
たとえば蘭亭序の様式をいうとき、何廷之『蘭亭記』のいう「重なる字があると、ともに別体に構えている。之の字がもっとも多く、20箇あるが、変転ことごとく異なっていて、同じ構えは一つもない」が引き合いに出される。「蘭亭序」がこの話に合わせるように拵えた代物であれば、自然な別構にはできない。全文324字中、2回以上重出している字は45例ある。このうち例えば、「所」(7例)、「其」(5例)、「也」「為」(4例)、「有」(3例)といった字は、さほど別構にしたというほどではないが、その他(5回以上重出する例)は、その構えはもとより、強弱、大小まことに変化多端である。
しかも、それぞれが全幅の中にしっくり納まって、不自然さはみられない。こうした面から捉えても、「蘭亭序」の劇跡たる書道史的位置はゆるがないであろう(なお、原跡はやはり王羲之であろうことを示唆する西川寧の「張金界奴本について」(前掲書)の様式論的解明は是非とも参照してほしいという)(西林昭一編『中国法書ガイド15 蘭亭叙<五種>東晋 王羲之』二玄社、1988年[1998年版]、12頁~21頁)
張旭の狂草が革新の先達とするならば、この気風をなお一層推し進め、発展させたのが顔真卿であるといって過言ではないと田淵保夫はいう。張旭の酒気を帯びた狂草とは異なり、顔真卿の革新的動向は真正面から王法にあたって、王羲之の典型を脱した独特の「顔法」なる書法を創出し、後世への指針たり得るものとしているとみる。
開元年間の末より天宝年間にかけて篆・隷書が流行したが(隷書では徐浩[703―782]、篆書では李陽冰[不詳])、時代の流行から顔真卿も篆隷を熟知していたであろう。特に楷書に篆書の手法を取り入れて新しい楷書の法を完成させたことは、書道史上でも特筆すべきことである。褚遂良は王法のとらなかった隷書をとり入れて褚法となしたが、顔真卿は篆書をとり入れて顔法としたことは正統派に対する反発であり、書道史上における革新といえるものであると、田淵保夫は捉えている(田淵保夫「中唐における革新派懐素の書とその周辺―書道史上よりみた―」『立正大学文学部論叢』53号、1975年、105頁~106頁)。
田淵の参考文献に『書道全集』(平凡社)を挙げていることから、神田喜一郎の見解に影響と受けていることは推測できる。その他の参考文献としては、中田勇次郎『中国書人伝』(中央公論社)、真田但馬『中国書道史』(木耳社)、平山観月『新中国書道史』(有朋堂)、伏見冲敬『書の歴史』(二玄社)などを挙げていることからも、うなづける(田淵、1975年、121頁)。
まだ、1975年には石川九楊の『中国書史』(京都大学学術出版会、1996年)は出版されていない。
石川の連綿論との関連で連綿に関して、他の研究者の見解も紹介しておきたい。
「連綿」という言葉で書を形容したのは梁の袁昂(461-540)が『古今書評』においてであるようだが、書の歴史から見て、字と字を続けて書くことは戦国時代、秦、漢代に遡れるとする見解もある。承春先は秦の木簡や漢簡の出土品、例えば2004年、中国の長沙市で出土された「長沙市走馬楼前漢簡」の中には「属」字や「夫」字はすでに点画の省略と連続線のある書法が現れていると指摘している。
後漢の張芝の登場によって草書はさらに個性化が進んだものと推測され、魏晋南北朝以来、書家の王羲之、王献之父子をはじめ、草書の表現はさらに進んだ。現在二人の確実な真跡と言えるものは残っていないが、搨模本などは相当数ある。それを見ると、草書の中に混在する字と字の連筆の書法はほぼ規範化されている。王羲之が、草書に連綿を表現しようと心懸けていたことは、彼の『題衛夫人筆陣図』の「若し草書を学ばんと欲せば、又た別に法有り。須らく前に緩く後に急にし、字体形勢、状は龍蛇の如く、相い鉤連して断たざるべし。(下略)」(若欲学草書、又有別法。須緩前急後、字体形勢、状如龍蛇、相鉤連不断)といった記事から、承春先は推測できるとみている。
ただし、王羲之の「喪乱帖」「秋月帖」(唐の双鉤塡墨)を見ると、連綿と言えるものはさほど感じとれないと承春先は断っている。例えば、両帖ともに「知足下」という三文字が続けて書かれているが、「喪乱帖」にある「知足下」三字の筆意は強くて連綿より連筆と言ったほうが適切であるという。現在、王羲之の真蹟は残っていないため、彼が言う「相い鉤連して断たざるべし」の実際の姿を確認することはできないが、『淳化閣帖』などの刻本の資料を見ると、「連」と「綿」両方の要素を含んだものはないと承春先は考えている。
唐代の草書は新しい風格を創り出し、王羲之と異なる狂草のスタイルを生み出し、その代表的な作家は張旭と懐素で、その書き方は連綿に近いとみている。張旭の「古詩四首」は初めは小ぶりの字を行書しているが、五行過ぎから最後まで奔放自在な筆法で狂草に近い書である。例えば、「豈岩上登天」五字の書き方は「龍蛇飛動」のように連続する。そして動きの激しい「仙隠不別」「其書非」の連続法は「驚いた蛇が草に入る」という形容を思い出させると説明している(承春先「漢字草書における「連綿」現象再考」『学苑・文化創造学科紀要』第829号、2009年、81頁~85頁)。
承春先は『草書連綿字典』を作ることを試みて、日本で見られる晋の王羲之から清の包世臣まで歴代80人の行草書の法帖にある全ての続き書きを収集し、計6000弱の条目を集めたそうだ。その中、二字の「連綿」は70%以上を占め(4000強)、三字の連綿は15%で(約900)、四、五字の連綿は僅か0.8%で、それ以上の10字を超えたものはたった、1、2点のみであったという。そしてこれらのものも、「連綿」という要素があまり含まれていない連続書きのものであったとする。特に二字連綿の連綿線のほとんどは、上の字の最後の一筆が下の字を書く準備線のような線質で書かれ、連筆としか言えない。三字連綿の場合もほぼ同様で、四、五字のものでようやく「連綿」を感じることができるとしている。また、これらの「連綿」している文字の種類は、「不」「之」「其」「面」「以」「天」「無」「為」「所」という九文字に限られているという。これらの文字の結構はほとんどが独体で、偏と旁からなる他の漢字より「符号」にし易いという特徴を持っていると承春先は指摘している。漢字の草書の連続表現にある程度の制限性が認められるのではないかと推測している(承春先「漢字草書における「連綿」現象再考」『学苑・文化創造学科紀要』第829号、2009年、89頁)。
連綿体について、神田喜一郎も王羲之の「十七帖」との関連で言及していた。
「この法帖に用いられている書体は、単に草書といっても、今日われわれの草書とは異なり、いわゆる独草体と称ばれる種類のものである。一字一字が単独にかかれ、ときには二字ほど続けてかくこともあるが、後に唐代になって発達した張旭とか懐素の書いたような連綿体の草書とは性質がおのずから別のものである。」と。(「中国書道史4東晋」『書道全集』4巻、5頁。神田喜一郎『中国書道史』岩波書店、1985年、86頁に再録)。
※「結構」とは、字画を積み重ねて文字をなす、その構成法を、「構えを結ぶ」という意味で、「結構」と呼ぶ。文字の「構え」に力点(アクセント)を置いた呼称である。
(石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、52頁~53頁)
五代(907-960)では、楊凝式(873-954)が「題懐素酒狂帖後」(『全唐詩』巻715)の中で、懐素について次のように詠っている。
十年揮素學臨池 十年素(きぬ)に揮いて臨池を学び
始識王公學衛非 始めて王公(王羲之)の衛(衛夫人)を学ぶことの非なるを識る
草聖未須因酒發 草聖未だ酒に因りて発するを須(もち)いざるに
筆端應解化龍飛 筆端応に解(よ)く龍と化して飛ぶべし
(七言絶句平起式、平声支韻池、平声微韻非飛通用)
十年素(きぬ)に筆を揮い修業を積んで、はじめて王羲之の衛夫人を学んだことの非なるを知った。草書の聖人の域を達すると、酒にたよって書かなくても、龍と化して飛ぶように運筆することができるだろう。
王羲之が衛夫人(272-349)の書を学んだことについては、杜甫が「丹青の引」(曹将軍覇に贈る)詩の中で「書を学びて初め衛夫人を学ぶも、但だ王右軍(王羲之)に過ぐる無きを恨む」と詠っているように、唐にはすでに知られていたようである。
しかしながら、王羲之は「始めて衛夫人の書を学ぶも、徒に年月を費やすのみを知る」(『法書要録』巻1「王右軍(王羲之)題衛夫人筆陣図後」)というように、かつて師事した衛夫人の書を貶めており、その一方で、「張(張芝)は、精熟人に過ぐ。池に臨み書を学べば、池水尽く墨となる。……惟だ鐘(鐘繇)、張(張芝)は故(もと)より絶倫と為す。その余はこれを小佳と為すのみ、意を在(とど)むるに足らず」(『法書要録』巻1「晋王右軍自論書」)というように、魏の鐘繇や漢の張芝の書を称揚したのである。
したがって、楊凝式の詩句にいう「始めて王公の衛を学ぶことの非なるを識る」は、おそらく『法書要録』巻1「王右軍題衛夫人筆陣図後」に「始知學衛夫人書、徒費年月耳」と見える、その意を汲んだものと松永恵子は解釈している。楊凝式は、懐素の草書に対して酒にたよって書くだけでなく、書の修練が備わっているとして高く評価したという。
ところで、張旭の狂草についての記載は、『全唐詩』『全唐文』『全五代詩』『全宋詩』などには全く見られないことから、五代および北宋初期では、張旭への評価は途絶えていたようだ。また懐素の狂草についても、上記の楊凝式の題詩の他、数例しか見られないことから、張旭と懐素の狂草を慕う者はほとんど跡を絶ったと松永はみている。
その代りに、北宋の淳化3年(992)に『淳化閣帖』が作られ、王羲之と王献之の書が尊ばれた。このような状況が生まれた要因として、松永は2点を指摘している。
① 唐末、五代の戦乱によって、おびただしい文物が亡失し、南唐や蜀などの一部の地域を除き、文化全般が壊滅状態に陥ったこと。
② 書の流れから見た要因の一つとして、晩唐頃から、狂逸的な草書は主に僧侶によって書かれるようになり、文人との結びつきを失ってしまったと推察できること。もともと狂草は僧侶や僧侶と繋がりのある一部の限られた士大夫によって書かれ、主に僧侶の世界でもてはやされた。その狂草の多くは狂怪になり、正統的な書風から離れてゆき、次第に衰退していき、それゆえ文人による狂草批評も五代から宋初にかけて衰滅してしまったというのである。
ところが、北宋中期の欧陽脩や蔡襄あたりから、正統的な書と世俗的な書への見直しがなされるようになり、再び張旭と懐素への批評が多く見られるようになった。蘇軾や黄庭堅は張旭と懐素の狂草に対する評価を確立した。蘇軾は張旭の「神逸」さを好み、懐素を「道ある者に近い」とし、黄庭堅は張旭の「超軼絶塵」なるところを称賛し、懐素を「書法の極に臻る者」とした(松永恵子「中晩唐から北宋中後期に至る「狂草」評価の変遷」『書学書道史研究』第15号、2005年、44頁~45頁、50頁)。
石川九楊は『選りぬき一日一書』(新潮文庫、2010年)において、柳公権の「神策軍紀聖徳碑」(843年)の中から、なまなましい書きぶりの「幸」という字に解説を加えている。蚕頭(さんとう)型の第2画の起筆、わざとらしい第3画や第7画の終筆は顔真卿ゆずりであるという。そして中国の書論では二人を対比して、「顔筋柳骨」(顔真卿は筋、柳公権は骨)といわれる。ただ、米芾は柳の書を「醜怪悪札(悪筆)の祖」と断じたが、その因(もと)は顔真卿にあると石川九楊はみている。
(石川九楊は『選りぬき一日一書』(新潮文庫、2010年、61頁)
【唐代から宋代へ】
唐の太宗期には、王羲之の書が普及したが、唐の中ごろからは、かえって俗書とみなされるほどになった。やがて、宋代になって江南に伝えられた伝統文化が主流をなすようになると、もはや士大夫の間では顧みられなくなってしまう(しかし、元代にいたり、趙子昴がでて王羲之の書の復興をとなえるにおよんで、再び「集字聖教序」(唐の僧懐仁がでて、王羲之の書を集めてつくったもの、碑は西安の孔子廟に現存している)の碑が光彩を発揮することになる)。(上條信山『現代書道全書 第二巻 行書・草書』小学館、1970年[1971年版]、14頁~15頁)。
唐代から宋代への書の特徴は、唐の法則的、形式的な書から、宋の飛動的、個性的な書へといった具合に移っていったものと、捉えられている。換言すれば、唐人が書法や型に束縛されて、生気を失ったのを知って、宋人は唐人の形成した殻を破って、自由に自己を表現しようと考えた。そのために、奔放粗野になり、気品において劣るものの、その意気と努力は壮とすべきであるとされる。そのような革新の巨頭が、蔡襄(1012-1067)、蘇東坡(1036-1101)、黄庭堅(こうていけん、1045-1105)、米芾(1051-1107)のいわゆる宋の四大家である。
北宋の末から禅僧の間に蘇東坡、黄庭堅の書風が流行し、自由奔放な書が多く現れ、日本の鎌倉時代の禅林の間に流行し、やがて茶道と結ばれて、広く愛翫された(鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』日本習字普及協会、1996年[2010年版]、67頁~69頁)。
中国の書の歴史を振り返った際に、「書はすべからく晋唐を宗とすべきだ」とよく言われる。一般に中国の書に対する関心は、晋唐時代が中心であり、宋元代以降は従来あまり顧みられなかった。
書をやっている人は、一般に晋代の王羲之や王献之、あるいは唐初の欧陽詢、虞世南、褚遂良、そして顔真卿といった中世(ママ)の書家に関心を抱いてきた。晋唐の書を神経質なまでに分析して、とことん習得しようと努めてきた。つまり中国の書の歴史的視野というものは、晋唐に始まり晋唐で終ると見られてきた。そして近世にあたる宋元代以降の書には従来、あまり関心がなかったのが実情であった。
歴史的な書を研究する場合に大切なのは、その時代の資料(史料)であるが、晋唐時代の書の作品は不明瞭な拓本がほとんどである。それに対して、宋元代以降のものは直接肉筆で見ることのできるものである。書法に対する鮮明という点では、拓本の場合のように彫られた上摩滅した解釈のしにくいものよりは、肉筆の方が明白で、筆の動き方などが一目瞭然でよくわかるという利点がある。
今日では晋唐時代の書を異常に高くする偏向した考え方もだいぶ修正され、近世以降の書も、中世の書と同様に重要であると考えられるようになったという。
北宋で書の名家として、蔡襄、蘇軾、黄庭堅、米芾という四大家がいる。それぞれに異なった持味の書をつくっているが、蔡襄は廉清、蘇軾は重厚、黄庭堅は俊敏、米芾は繊美と表現される。名人の書がその人格にもつながる質のものであるとみなされている。そこには卒意な運筆が随所にみられ、いわゆる唯美的な表現を極力避けようとしていることが看取できるといわれる。唐代の書家とは違い、技術を至上のものとせず、また他人の模倣を厳しく忌みきらう宋人の誇り高き生活態度を感じとることができるという。
ただ、これらの宋代の四大家は晋唐時代の書の伝統と断絶したところから出たのではなく、宋代は唐代以上に王羲之が尊重された時代であるらしく、四人は四人とも揃って王羲之をよく習ったのみならず、顔真卿をも併せて習っていた。つまり、王法・顔法を一度自分のものとして吸引して、自分の書として再表現される時には、主体的な自己主張の方が表に出て、王法・顔法は技術として形の裏にかくされてしまったのだと青山杉雨は理解している(青山杉雨『書の実相―中国書道史話』二玄社、1982年、49頁~51頁、65頁~70頁)。
それでは、米芾自身は、自らの書をどのように見ていたのであろうか。この点について、寺田透は、興味深いことを記している。
すなわち、書学士として徽宗皇帝に呼び出さた米芾が、同時代の名書人について、蔡京は筆を得ず、蔡卞(べん)は筆を得れども逸韻少し、蔡襄は字を勒し、沈遼(しんりょう)は字を排(なら)べ、黄庭堅は字を描き(写すようにえがくが描の原義―寺田注)、蘇軾は字を画く(直線的に書くの意で言っていようか。絵のようだという意だろうか―寺田注)などと称して憚るところがなかった。
これに徽宗が、では卿の書はどうか、と反問すると、臣は書を刷ると答えたと伝えられている。寺田透はこの話に次のようなコメントを付している。描、画、刷などの文字の使い方に理解しがたいものはあるが、米芾の自信の烈しさと、気象の強さを窺われる話であるという。
また別の機会に徽宗の命を受け、宮中の屏風に書いた米芾が、自分の字に見とれて、二王(王羲之、王献之)の悪札を一洗して、皇宋(皇帝の時代なる宋の時代)を万古に輝かしたと独語したという話も伝えられている(寺田透「蘇軾 黄庭堅 米芾」、中田勇次郎編『中国書人伝』中央公論社、1973年所収、165頁)。
「黄州寒食詩巻」の詩文についてみておく。
空庖煮寒菜 空庖 寒菜を煮
破竈燒濕葦 破竈(はそう) 濕葦を燒く
那知是寒食 那(なん)ぞ知らん 是れ寒食なるを
但見烏銜帋 但だ見る 烏の紙を銜(ふく)むを
君門深九重 君門 深きこと九重
墳墓在萬里 墳墓 萬里に在り
也擬哭塗窮 也(ま)た塗(みち)の窮するに哭せんと擬(ほっ)す
死灰吹不起 死灰 吹けども起(た)たず
≪解釈≫
からっぽの台所で粗末な野菜を煮んものと、こわれたかまどに湿った葦をくすべる。どうして寒食の日だと知れよう、ただ紙銭をくわえて飛ぶからすを見るばかり。天子のいますところ、その門は余りにも深く(祭るべき)墳墓は万里のかなた。あの阮籍(210-263、竹林の七賢のひとり)のように、わが生のきわまって道なきを慟哭しようにも、燃えつきた灰にも似て、もはやその力さえも残っていない。
この詩に対して、解説を加えておく。
紙をくわえて烏の飛ぶのを見れば寒食の感慨が湧くのは、烏の嘴にひらひらする紙銭を作って、墳墓を祭るのは寒食の習俗だからである。また「君門 深きこと九重」というのは朝廷に帰ろうにも、その門は九重の深さがあって望みがたいことを意味する。「君門」を言い出したのは、流竄の身とはいえ官吏で、一旦は死に当ると覚悟した罪の一等を減ぜられて、黄州(湖北省)への流刑だけですんだ詩人の心理を暗に伝える措辞と寺田は解釈している。
「九重」「死灰」などいずれも「楚辞」や宋玉の賦に典拠を持つ用語だといわれるが、重要なのは、「也た塗の窮するに哭せんと擬す」という句である。これは杜甫の「章留後侍御に陪して南楼に宴す」の詩に「此の身醒めて復た酔う、塗の窮するに哭すると擬せず」の句を逆転活用したもので、そこに杜子美ほどには現実の中で喜怒哀楽をきわめる詩人でなかった蘇軾の自画像があると寺田はみている。強いて言えば、彼は魏の阮籍のように、塗窮まれば哭して帰ることを自分にふさわしいこととしてひとであるとみる。阮籍も、気のむくままに馬車をやって道をたどらず、車が動けないところに行きつくと、哭(な)いてひき返したという(『書道全集』15巻、165頁。石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、226頁~227頁図版参照のこと。小川環樹・山本和義『蘇東坡詩選』岩波文庫、1975年[1996年版]、207頁~209頁。寺田透「蘇軾 黄庭堅 米芾」『中国書人伝」』所収、1973年、150頁~151頁)。
【黄庭堅の「松風閣詩巻」】
「松風閣詩巻」(『書道全集』15巻、図78-85、黄庭堅、崇寧元年(1102)、紙本)
黄庭堅が晩年四川の地方に流謫されてから後の作には特にすぐれたものが多く、この詩巻もその晩年の作として最も著名なものの一つである。彼の自作の「松風閣詩巻」一首を、楷書で29行に書いたもので、落款はない。
「松風閣詩巻」は、黄庭堅の詩集にも掲載されているもので、彼が流謫の身をもって湖北鄂城県の樊山に遊んだ時、この地の風光を愛し、その山中の松林の間にある一楼閣に「松風」という名をつけた時の詩である。
その詩句に「東坡道人已に泉に沈み、張侯何れの時にか眼前に到らん」とあり、この時、蘇軾はすでに没していたし、同門の張耒がこの地へやって来ることになっていたが未だやって来ないという。この詩巻もほぼこの詩を作った頃、およそ崇寧元年(1102)9月、彼の58歳の秋の作であろうとされる。
黄庭堅は唐の顔真卿の書法を学んだとみずから称しているが、この詩巻は顔の書法をよく学ぶとともに柳公権の筆意をもよく兼ねあわせて、円熟の境地に到っている。黄庭堅の禅家のごとき人物と、文学において名高い江西派の祖となったその詩風を味わいながら、この筆蹟を鑑賞することができると中田勇次郎は解説している(『書道全集』15巻、図版解説、中田勇次郎、171頁)。
『書道全集』17巻の神田喜一郎「中国書道史12」では、祝允明について次のように捉えていた。このことは後の著作『中国書道史』(岩波書店、1985年、232頁~233頁)でも再説している。すなわち、
「明代の書家として、最初に気を吐いた巨匠は文徴明(1470-1559)と祝允明(1460-1526)とである。いずれも明の中ごろ、弘治、正徳、嘉靖の三代にわたって活躍した斯道の大家である。しかもこの二人が相並んでいまの江蘇の蘇州の出身であることを注意せねばならぬ。(中略)文徴明と祝允明とは、いずれも王羲之の典型を宗としたが、明初の諸家よりもはるかに天分に恵まれていたうえに、これまでの書家のように趙孟頫をとおして王羲之の書法を学ぶのではなく、直接に王羲之の書法にさかのぼろうとした。これがこの二人の傑出していた点である。それにこの二人になると王羲之の典型を宗としたけれども、必ずしも王羲之にばかり一辺倒するのではなく、いろんな異なった書法をとりいれた。(中略)
祝允明は、李応禎の女婿で、その書は専ら家学にうけたというが、文徴明に比較すると、いくらか力量の劣るのが感ぜられる。またかれの書は古勁であるが、文徴明の書は遒麗ともいい得るであろう。ただ祝允明の書には、どうかすると放恣を極めた草書があって、これがかれの代表的作品であるかのごとく考えられているが、解縉の草書とともに、これは決して本領ではない」と神田喜一郎はいう。
平山観月は中国書道史のおよその流れを次のように要約している。つまり、上古(秦より以前)に端を発した中国書道は、中古(秦漢から唐)にはいって漢末に大成し、晋魏に興り、唐にいたって整い、近古(宋から明まで)にはいっては、北宋においてくずれ、それ以後、近世(清代以後)を含めて衰退したと平山はみている。
書道の隆昌をみるのは、国家興隆のときであり、またその萎微沈滞をみるのは、国力衰退のときである。まさに書は人をあらわすと同時に、時代の精神、民族の特性を表現するものであるとみる(平山観月『新中国書道史』有朋堂、1965年[1972年版]、21頁~26頁)。
【書の見方・鑑賞について】
絵画を言葉で表現するのが難しいように、書を言葉で形容するのも困難である。その際に大いに参考となるのが、平山観月『書の芸術学』(有朋堂、1965年[1973年版])という著作である。
東晋時代の王羲之の「蘭亭序」は典雅(端正で上品)、唐時代の顔真卿の「自書告身帖」は雄渾(雄大でとどこうりない)、一方、日本の平安時代の空海の「風信帖」は淳和(てあつくやわらぐ)、同じく平安時代の伝小野道風の「三体白楽天詩巻」は優婉(やさしくしとやか)と形容している。この点について詳述してみたい。
平山は、書道における美的範疇の概念を捉え、中国の書の史的流れにそって、画期的な書人の作品を取り上げ、その美的賓辞について検討している。
たとえば、秦の始皇帝はいわゆる「小篆」を作ったが、その代表的な書跡である「石鼓文」(帝の頌徳の石文)は、蒼然たる色を帯び、かつ荘重、雄勁の点も見受けられるが、まず蒼古にはいるべきであろうとする。
東晋の王羲之、王献之父子は楷行草三体をよくし、「楽毅論」はその細楷として第一位に推されるもので、筆力秀勁、筆法の妙をきわむといわれ、行書の「蘭亭序」、「孔侍中帖」、草書の「喪乱帖」など用筆、結体ともに精妙で、毛筆の極致を示すものといわれている。
王羲之の書体は各体とも貴族的であり、その人間性から発散する縹渺たる仙気は、一種の悠然たる風格が備わっている。この風格は、優婉・淳和・典雅とも呼ばれるべきものであるとする。
続く南北朝時代では、北朝は北方人の雄勁な書風で、南朝は流麗な書風で、互いに対立的であった。しかしその南北の対立は、隋唐において融和し、初唐の三大家といわれる欧陽詢、虞世南、褚遂良の均斉のとれた書風になった。そして盛唐には顔真卿の豊かな生命感にあふれた書が生まれてくる。唐代の書道の盛大をなしたゆえんは、太宗の力に負うところが大きく、その太宗は帝王中第一の能書家といわれ、王羲之の書を敬愛した。初唐の三大家も王羲之に源を求めているが、虞世南の書は典雅においてまさり、欧陽詢の書は雄勁の趣を加え、褚遂良の書は蒼古の風神を湛えている点に特色があると平山は評している。
一方、顔真卿は唐王朝に忠勤をぬきんでた正義感の強い剛直の士で、妍美なものに激しく反発し、男性的な重みと、剛気とに満ちあふれた主体的なものの表現を求めたといわれる。
その書そのものが「自書告身帖」にみられるように、壮重雄渾であった。剛毅であり、野逸でさえあるその書風は、まさに「書は人なり」の感を深くする。
その書風は、当時一般に行なわれていた王羲之風の優雅な書風に刺激を与え、書表現の思想や技術が大きく転向した。当時の楷書が隷書に源を求めていたのに対し、顔真卿はさらにさかのぼって篆書にその根底を求めた。だから、顔真卿の楷書は従来のそれに比して、文字の姿態は丸く、線はほぼ楕円形をなし、千金の量感を呈し、雄渾曠達にして度量も広く悠々たる風情があると評せられる。これが顔真卿の楷書の大きな特色である。
次に、宋代の四大家である蔡襄・蘇軾・黄庭堅・米芾は、それぞれ個性を発揮して清新な書風を開く。蔡襄の「万安橋記」の書法は顔真卿の型で雄偉、遒麗にして堂々たるものがあり、雄渾といわれる。
蘇軾の「黄州寒食詩巻」の書について、黄庭堅は「疏々密々、意のまま緩急して、文字の間に妍媚な美しさが百出するもの」と絶賛している。それは、現存する蘇書の中では神品
第一と称せられる。平山は、趣向斬新、流麗な筆致をもって鳴るものと評している。
蘇軾は、顔真卿の書を学び、その上古人の書をよく消化し、独創的な個性を表現しようとした。
黄庭堅も、蘇軾と同じく、顔法を学んだ。彼はとくに魏晋の書に見られる逸気を重んじ、晩年には唐の張旭・懐素に草書の妙をうかがい、さらに秦漢の篆隷にさかのぼって、古人の用筆と筆意を学んだ。草書の「李白詩憶旧遊」は、超妙脱塵の境地に達した書といわれ、平山は、瓢逸を主として曠達を兼ねるところの逸品と称賛している。
また米芾は晋人の高古の風を尊び、奔放な宋人らしい主観的な書をかいた。「方円庵記」は行書のうちでとくに著名で、その朗暢な書風は宋代随一と称せられている。その書風の淵源するところは、王羲之、褚遂良にあるが、流麗なリズムの中に、斬新な趣向があるといわれる。
このように宋代の書表現は、自由と個性とを中心としたものであった。
それに対して、元代の書は復古主義に戻ったといわれる。元代の趙子昴は典雅な書をかいた。彼は古人の筆跡を慕い、王羲之の書の伝統が唐の中葉以降かき乱され、宋人の書が放縦にして弊が多いのを見て、晋唐への復古を志した。その代表作「行書千字文」は温雅寛博、円熟に達した書であるといわれている。日下部鳴鶴は、「規矩を自然にし、雄奇を清穆に寓す」と評した。平山は、「まさに典雅の賓辞にふさわしい手跡というべきである」と称賛している。
さて、明代にはいっても、書流としては晋唐を目標にし、そこから脱するところまでは行かなかった。その中で董其昌は軽妙で円熟した書をかいた「項元汴墓誌銘」は、行書を交えた楷書で、遒媚にして暢達、当代第一の大家たる気品があるといわれる。
彼は、元の趙孟頫の一派がもっぱら王羲之の形似を得ることに努めた行き方を退けた。そして晋人の書法に造詣の深い米芾や、晋人の精神を得た顔真卿に共感を示したようだ。概して董其昌の書は、枯淡、秀潤、率意の妙においてすぐれているといわれる。平山は、その範疇により、枯淡は蒼古、秀潤は流麗、率意は素朴の賓辞に近いものと理解している。
清代にはいっては、金石学の興起により、再び北朝の書風が復興される。とくに劉石庵と鄧石如が名高い。劉の「砂金箋」は豊潤でしかも気骨を内に蔵し、静かな情趣をたたえた典雅な書風は品格が高いと評される。鄧の「漢崔子玉坐右銘」は、篆隷を当世に生かしたもので、蒼古、渾厚の気がみなぎっていると平山は解説している(平山観月『書の芸術学』有朋堂、1965年[1973年版]、182頁~192頁)。
西川寧は、1902年東京生まれで、書家の西川春洞の三男で、慶応大学文学部支那文学科を卒業し、文学博士で芸術院会員で、北京留学の経験があり、慶応大学名誉教授であった。つまり「慶応ボーイのスマートボーイ」「学者でインテリで、文章がうまく、いわば痩せたソクラテス」、そして“書道界の天皇”であるという。清代の趙之謙(ちょうしけん、1829-1884)に傾倒し、昭和の三筆の一人とされ、1989年に没した。
大溪は、西川に対する尊敬できる点として、次の2点を指摘している。
①結果的に実らなかったが、会津八一を日展に持ってこようとしたこと。
②西川の若い頃の「倉琅先生詩」は、趙之謙ばりで、すばらしい作品である。
ただ、西川が、書は「用」のために在るべきでないと主張し、「用」の無用論を唱え、その弟子が青山杉雨(さんう、1912-1993、大東文化大学教授)である。
中国と日本の書の相違点として、西川寧は次の諸点を指摘している。
①中国の書には根底に建築的な強い骨組があるが、日本の書はそれよりも装飾的なあるいは図案的な平面の調和ということに進みやすい。
②中国の書には深い瞑想的なものが表われているが、日本の書はむしろ叙情的な面に特色を出している。
③中国の書には個性的な体臭というものが強く表われているが、日本の書では、ものやわらかい感覚的な味を求めていく。
④華やかな面をとっても、中国の書には重厚で荘重なものがあるが、日本のは軽い優美さが目立っている。
⑤叙情的な面をとっても、中国の書は強い骨格と重厚な精神とに根ざす複雑なものがあるが、日本の書は軽妙な流れに乗った純粋さが目立つ。
料理に例をとると、中国料理は油っこいが、日本料理は淡白である。日本のは淡白の裏に材料の自然を生かして鋭い味覚に訴えるが、中国の料理は手のこんだ作り方で、色々の材料を綜合的にあつかって、その複雑な味は人間の味覚全体を包んでしまうという。これは、中国の芸術の特色と全く同じであると西川寧は考えている。
もう一歩進めて考えた場合、中国の書は広い意味での論理主義を基礎とし、日本のは直観主義に立っていると西川はいう。これは民族性の違いや風土的な特色でもあり、書のみならず、絵画でも文学でも、この違いがある。
また、日本の優美さや純粋さにはいい所があるが、骨格の弱さや構成力の弱さ、あるいは人間的な深い心がとかく忘れがちになって、味や情緒におぼれやすい所は大きな弱点であると指摘している。西川は、作家の立場としては、この点に注意して、常に中国の書の研究につとめていると述べている(西川寧『書の変相』二玄社、1960年[1973年版]、227頁~228頁)。
一般的推論として、古文から篆隷が生まれ、隷書から楷書、楷書の速書きから行書、行書の略化から草書が生まれたであろうということになっていた。しかし20世紀になって漢代の木簡が楼蘭で発見され、この説はくつがえってしまった。
楷、行、草の三体はいずれも漢代に萌芽して漢末には完成していたが、その成立の順序は、草、行、楷と考えられるようになった。
この点を詳述すると次のようになる。漢代の隷書の特長は「曹全碑(そうぜんひ)」のように、横画の終筆を右にはね、のびのびとした流麗な波勢を長くつくっていることにある。隷書をより平易に便利に速く書きたいという要求から略化が進み、草体が生まれていった。木簡の資料が示すように、一字一字独立したいわゆる章草(しょうそう)とよばれる草書が前漢時代にすでにできていた。これは隷書の波勢をまだ残していた。これがさらに波勢を省略して下に続ける工夫が重ねられて、後漢の初めには今日の草書が確立された。
行書の成立は草書よりずっと遅れているが、漢末には完成している。行書も隷書を簡易にしたものといわれている。楷書は行書よりさらに遅れて、漢隷が波勢を失って次第に楷書の姿をあらわしたのは、漢末から三国時代のころであると考えられるようになった。
ともあれ、行書は書をより速く、より書きよく、より能率的なものにしたいという実用上の要求から、点画を続けたり、省略したり、時には筆順を変化させたりして、できあがった書体である。
たとえば、点画が省かれる場合、「雲」や「草」という字では、「雨」の左右の点や「くさかむり」を二つの点にしたり、「然」や「馬」などでは点を三つにしたり、ときには一本の線にしたりする場合がある。
行書・草書の筆順について補足しておくと、たとえば、「禾(のぎへん)」は、楷書では縦画は第三画であるが、行書では第一画からすぐ縦画に続き、その終筆から横画に続くように書く。そのほうが上から字が続いてきたときに縦の流れが出るし、また速く書け、しかも自然なのである。このように行書では筆順が変わる。
草書になると、点画の省略がいっそう激しくなり、形そのものが変わってしまう。たとえば、「人偏(にんべん)」「彳(ぎょうにんべん)」「氵(さんずい)」「言(ごんべん)」はみな同じ形に書かれる。このように、草書では部首の扁(へん)や冠(かんむり)などのほとんどが、何種類のものを同じ形に書く。
たとえば、唐の孫過庭の撰書として「書譜」がある。これは草書の経典であるばかりでなく、その内容の書論は、六朝以来の諸家の書論を集大成したものである。その「書譜」の中の「断可極於所詣矣」の部分について、「詣」の字は、「臨」とか「治」とかいろいろ読まれている。この点、松井如流は「孫過庭考」において、ヘンは言ベンで、「詣」が正しいものとみなしている。その理由は、「書譜」の中に散水を棒のように書いたものはなく、また「臨」と見ることは無理があると主張している(松井如流『中国書道史随想』二玄社、1977年、193頁、204頁~205頁)。
ところで、隷書や楷書は一点一画を幾何学的に組み立てているので、厳正な整斉美を感じさせる。だから、行書や草書のような流動の美はあまりあらわれない。行書はすらすらと続けて書くから、筆脈が自然に紙面にあらわれ、点画や形に円味が多くなって、自由さと流麗さが加わり、流動感の強いものになっている。
漢代に萌芽して漢末には定形化したと思われる行書は、六朝時代になって、書聖・王羲之の出現によって、完成をとげるにいたった。王羲之は楷行草の完全な普遍的様式化に心血をそそぎ、端正典雅な書風を樹立した。その貴族的気品の高さは、宮廷を中心に中国の人々に愛され、日本においても書法の典型として今日に及んでいる。
王羲之の行書としては、「蘭亭序」、唐の僧懐仁が王羲之の書を集めてつくった「集字聖教序」、そして「興福寺碑」が名高い。「集字聖教序」は、行書の基本的用筆を理解するための千古極則であるといわれる。
行書の古名蹟を見ると、それなりの特徴をもっている。王羲之の「蘭亭序」は、背勢ですっきりとして清冽(せいれつ)そのものであり、唐の顔真卿の「争座位稿」は、向勢で素朴剛健、情熱がほとばしっているといわれる。また唐の太宗の「温泉銘」や「晋祠銘」になると、博大敦厚、悠々としてせまらざるものがあると評せられる(上條信山『現代書道全書 第二巻 行書・草書』小学館、1970年[1971年版]、12頁~13頁、19頁、26頁)。
よいつづけ書きは、一行の下部がだんだん右の方へ流れるという。それはすぐれた筆者のばあい、文字と文字のつづけかたに無理がないからだといえる。
行頭から行末へすすむ(おりる)にしたがって、右へ流れる運筆の例は、漢字ならば、王羲之の「喪乱帖」、空海の「風信帖」の行書書簡などがある。
とくに日本のかな書道は連綿性がきわだっている。伝紀貫之「寸松庵色紙」や伝小野道風「継色紙」の流れが下部におりるにしたがって特別右寄りになっていることは有名である。
「つづけ書き」(連綿)が、いかに正確に右流れに傾斜して運筆されるものであるかがわかる(駒井鵞静『つづけ字の知識と書きかた』東京美術選書、1990年、270頁~273頁)。
鉛筆の持ちかたは、中指がうしろ側で鉛筆の軸を支えているが、だいたい人差し指と親指で、文字を書く鉛筆の執りかたである。人差し指と、親指は器用すぎるくらい発達していて、その分、あとの三本の指(中指・薬指・小指)が、かなり鈍くなっている。本当の毛筆感覚というものは、体の中にある。それを育てるためには、中指や薬指たちの後れをとりもどすことが先決である。手首を折り、折った手首の下部を用紙の上に置き、中指と薬指で文字を書く。人差し指と親指は上の方で軸の安定を助ける程度のはたらきをするだけである。
大切なことは、手首を折ることとともに、親指の先を上の方に向けることである。手首をきちんと屈折させ、働いているのは、中指・薬指である。体の感覚で書くことが重要である。指先だけのわるい持ちかたで、カチカチになって執ったのでは、鉛筆であろうと筆であろうと、百年練習したって同じことであると駒井はいう(駒井鵞静『つづけ字の知識と書きかた』東京美術選書、1990年、253頁~257頁)
《参考文献》
【論文】
・田淵保夫「中唐における革新派懐素の書とその周辺―書道史上よりみた―」『立正大学文学部論叢』53号、1975年
・松永恵子「中晩唐から北宋中後期に至る「狂草」評価の変遷」『書学書道史研究』第15号、2005年
・承春先「漢字草書における「連綿」現象再考」『学苑・文化創造学科紀要』第829号、2009年
※これらの論文は、ネットで閲覧できる。興味のある人は検索して頂きたい。
【著作】
平山観月『新中国書道史』有朋堂、1965年[1972年版]
平山観月『書の芸術学』有朋堂、1965年[1973年版]
伏見冲敬『書の歴史 中国篇』二玄社、1960年[2003年版]
鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』日本習字普及協会、1996年[2010年版]
石川九楊『書とはどういう芸術か』中公新書、1994年
石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年ⓐ
石川九楊『書と文字は面白い』新潮文庫、1996年ⓑ
石川九楊『書を学ぶ―技法と実践』ちくま新書、1997年
石川九楊編『書の宇宙6 書の古法<アルカイック>王羲之』二玄社、1997年
石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年
石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年
石川九楊『書と日本人』新潮文庫、2007年
石川九楊『万葉仮名でよむ『万葉集』』岩波書店、2011年
神田喜一郎ほか編『書道全集』(平凡社刊、1965年~1968年、中国篇、全15冊、別巻2冊、計17冊
神田喜一郎『墨林閒話』岩波書店、1977年[1978年版]
神田喜一郎『中国書道史』岩波書店、1985年
松井如流『中国書道史随想』二玄社、1977年
鈴木史楼『百人一書―日本の書と中国の書―』新潮選書、1995年[1996年版]
鈴木史楼『書のたのしみかた』新潮選書、1997年[1998年版]
会津八一『会津八一書論集』二玄社、1967年[1983年版]
本田春玲『百万人の書道史―日本篇』日貿出版社、1987年
西川寧編『書道』毎日新聞社、1976年
西川寧編『書道講座 第二巻 行書』二玄社、1971年[1980年版]
青山杉雨「行書の歴史」(西川、1971年[1980年版]所収)
青山杉雨『書の実相―中国書道史話』二玄社、1982年
青山杉雨『明清書道図説』二玄社、1986年
西川寧『書の変相』二玄社、1960年[1973年版]
西川寧『書というもの』二玄社、1969年[1984年版]
(2023年4月30日投稿)
【はじめに】
今回は、石川九楊氏の次の著作に関するコメントと雑感を記しておく。
〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年
ただし、執筆項目は、私の関心のあるテーマについて記してある。
なお、本文に出てくる人名について、敬称略であることを最初に断っておきたい。
また、参考文献に挙げた論文は、ネットで閲覧可能である。
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
〇石川九楊『中国書史』(京都大学出版会、1996年)に対するコメント・雑感
・中国の書と日本の書の相違について
・中国と日本の書について
・漢字文化圏における書の担い手について
・「書は人なり」という言葉について
・日本人、中国人の国民性の相違と書に対する評価について
・石川九楊の書史(中国書道史)の捉え方と中国歴史家や中国文学者の捉え方の相違
・王羲之という名について
・西林昭一の「蘭亭叙」についての見解
・狂草について~張旭と顔真卿と懐素
・書の歴史から見る連綿の表現
・懐素の狂草について
・柳公権について
・宋代の書について
・蘇軾の「黄州寒食詩巻」について
・黄庭堅の「李白憶旧遊詩巻」について
・神田喜一郎による祝允明の捉え方
・平山観月による中国書道史の捉え方
・西川寧による中国の書に対する見解
・【補足】行書の起源と完成について
・【補足】つづけ書きについて
・【補足】行書上達のための筆の持ちかた
(敬称略)
中国の書と日本の書の相違について
中国の書と日本の書の相違について、石川九楊は興味深い捉え方をしている。
中国では、紀元前千数百年から初唐代まで2000年近くをかけた前史があり、その歴史的蓄積が、書の美の基本部分を成立させた。このことを象徴的に言えば、石と紙との争闘史であったという。つまり刻ることと書くこととの争闘史であり、また鑿(のみ)と筆との
争闘史であった。
中国の書は、行書、草書を従えた楷書を中心に、楷・行・草の三書体セットで立体的に成立した。その楷書書字法の中心に来るのが、「トン・スー・トン」つまり起筆・送筆・終筆の三過折=三折法の構造である。
楷書は、三折法を運筆筆蝕の中心に据え、中国の陰陽二項対立思想から来る、左右対称の構成法の上に成立する構築的、政治的な書であると定義している。
一方、日本の書は、紙と石との、鑿と毛筆との争闘という書史の前提を知ることがなかった。書くと刻ることの相関を知りえなかった日本の書は、三折法をなだらかな「起筆・送筆・終筆」の階調(グラデーション)と読みかえ、「真・行・草」の深い意味合いに目が届かなかった。
「先、行字可有御習候。行、中庸の故也(まず行書からお習いなさい。行書は中庸ですから)」(『入木抄(じゅぼくしょう)』)と言われる日本の書には、極論すれば、楷書がないという。
日本の書、とりわけ和様の書は、「トン・スー・トン」ではなく、いわば「スイ・スー・スイ」というなだらかな連続法で、ひとつの字画が「S字型」を描き、かつ左右対称性を「くずした」構成を基本とする。日本書史においては、「和様」と「唐様(からよう)」と「墨蹟」しか成立しなかった。「和様」は、三蹟のひとり小野道風の「屏風土代」がその出発であり、三蹟の藤原行成の「白楽天詩巻」で完全に成立する。また、「唐様」は中国の書の輸入との関係で成立した「中国書くずし」であり、「墨蹟」は中国から輸入した書の「くずし」である唐様の書の、禅僧によるよりいっそうの「くずし」である。中国を含む書史の全体から言えば、日本書史はそれ自体豊穣な蓄積をもってはいるものの、「コップの中の嵐」程度のことにすぎないという。
(石川九楊『書とはどういう芸術か』中公新書、1994年、140頁~147頁)
中国と日本の書について
楷、行、草のうち、中国では楷書を基本と考える捉え方であるのに対して、日本では行書を典型(中庸)として捉えている。書における「大陸的」=中国的とは楷書を標準にしている。それに対して「島国的」=日本的とは楷書をくずした行書的な書を基準にしている。このことは、『入木抄(じゅぼくしょう)』などで明らかである。楷書は構築性、直線性、動的、肥の傾向をもつとされ、行書は展開性、曲線性、静的、痩または肥痩の傾向をもち、柔軟、抒情的と表現される。
日本の書史を見た場合、擬似中国文化時代、遣唐使世代に属する三筆(空海、嵯峨天皇、橘逸勢)の書は中国書の吸収、消化期に位置し、中国の書に酷似している。空海の「灌頂記」が顔真卿の影響を受けているという説が流布されるのは、三筆の書が中国色をいまだ払拭しきれない事実を証明している。
ところが、漢語と和語からなる日本語が誕生し、日本が姿を見せはじめたポスト遣唐使世代である三蹟(894年に遣唐使廃止生まれの小野道風、藤原佐里、藤原行成)によって書風は一変した。運筆はなめらかで柔らかく、「S字型曲線」を描くようになり、文字形は円く均整がとれ、肥痩(ひそう)をバランスよく、ないまぜにした美しい和様の日本文字へと昇華した。
つまり、楷書の典型は中国初唐の欧陽詢、虞世南、褚遂良によって、和様・日本文字の典型は日本の三蹟によって完成した。僧寛建が道風の書を携えて入唐し、僧嘉因が佐理の書を宋の太宗に献上したというエピソードが、三蹟の書の中国風からの脱出を示している。(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、199頁~200頁)
漢字文化圏における書の担い手について
書の担い手という問題を考えてみた場合に、どのように要約できるのであろうか。
漢字文化圏における書は、文化の中枢にある表現であるから、政治的・文化的中枢部に存在しつづけてきた。
甲骨文は、史官とでも言うべき存在によって亀甲や獣骨に刻りつけられていた。史官というのは、王、王と神との間の通訳である占人と並び、神政政治の中心を担っている存在であった。中国殷代の最初の文字・甲骨文は、王と占人と史官の三者の創製したものと考えられる。
秦の始皇帝時代の篆書を書き、刻りつけもした李斯も、この史官に相当する存在であった。漢代の隷書の書き手や刻者もまた、この史官に準じる存在である書記官であった。草書の時代になると、王羲之など高級貴族が書の書き手となる。
唐代には、皇帝をはじめ、欧陽詢、虞世南、褚遂良といった皇帝周辺の最高級官僚であった。宋代頃から、高級官僚やその挫折者である士大夫が書の表現を担うようになり、これは清代まで続く。
このように、中国において、書は史官、書記官、皇帝、高級官僚、士大夫という、いずれにしても高級政治家、官僚とその周辺に担われていた。
日本においても、同様で、基本的に天皇や皇后、貴族、あるいはその周辺の僧(知識人)によって書は担われてきた。江戸末期になると、新興町人階級の成熟とともに、この力を背景とした都市知識人(いわゆる日本的文人)もこれに加わり、幕末には儒学で武装した維新の革命家、明治の近代以降は、政府の書記官、さらに作家や詩人や学者によって書は担われた。
(石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、69頁~70頁)
「書は人なり」という言葉について
石川九楊は「書は人なり」という言葉について、次のように述べている。
「「書は人なり」と言うのは、書に表現世界なんて存在しないという認識と、個人は固有の性格を具有するという認識とが重なり合った場に生ずる、きわめて現代的な思想である」と。
(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、95頁)
また、石川九楊は、中国宋代の蘇軾の説を紹介している。つまり、蘇軾は、「書は人なり」という説に対して、顔でさえその人を表わすと言いきることができぬのに、書が人を表わすというようなことはないよと、作者と表現の関係のとても深いところから書について語っているという。
これに対して、日本では「書は人を表わす」という説は人口に膾炙され、書についての評価は、すぐに「書は人なり」に帰着してしまう傾向が強いと指摘し、その理由として、5つ挙げている。そのうちの2つを紹介しておこう。
一、日本の書史は中国の書の流入によって左右されるため、その自律的展開が少なく、また真に評価する書が少ないため、書の価値を評することが、作者の違いを言上げすることに転化されたと主張している。日本人が作品の真贋問題を大きくとり上げるのはそのためという。
二、このため、日本では中国のような書評や書論の厚みがなく、評価法が育っていないという。
「書は人なり」という言説に対して、日本と中国とでは受け止め方が異なるのは、その背景にある書の歴史の厚みや、書論などの評価法といった文化史的蓄積の違いなどに由来することを石川が指摘しているのは興味深い(石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、192頁~194頁)。
日本人、中国人の国民性の相違と書に対する評価について
日本では、とくに禅僧の書を「墨跡」と称して、これを珍重する風習がある。鎌倉時代は禅林様書道の栄えた時代であるといわれる。芸術と人間との相関性を自覚して、その深まりを求めるところに、道におけるきびしい鍛錬、稽古を行なうのが、禅林様の書道精神である。そこには、男性的、個性的、意力的な書風が成立したと理解されている。
鎌倉時代の禅僧で中国に入国した者は、8、90人にのぼり、その墨跡が将来され、無準師範(1177~1249)などの墨跡は今日なお伝存している。
禅僧の墨跡の特色は一般に中国の古い書道の伝統から離れた破格の書であるといわれる。中国のように、根強い文化的伝統を持つ国では、その伝統に反するものは、これを異端として拒否する傾きがつよい。したがって、中国では禅僧の墨跡はむろん疎外されたという。一方、日本においては、書道の一派をなすものとしてその価値を認めている。ここに書に対する両国の相違を平山観月はみている(平山観月『新中国書道史』有朋堂、1965年[1972年版]、296頁)。
青山杉雨には『明清書道図説』(二玄社、1986年)というりっぱな仕事がある。
著者略歴によれば、青山杉雨は、明治45年(1912)に愛知県に生まれた。西川寧に師事し、謙慎書道会理事長をへて、大東文化大学教授についた。また日展常務理事、日本芸術院会員になり、文部大臣賞、日本芸術院賞を受け、そして勲三等旭日中綬章を受けた。
青山は、中国歴代の書を通観してみて、最も「うまい字」を書いたのは誰かと問われたら、宋代では米元章(米芾)、明代では王鐸、清代では趙之謙に躊躇なく指を屈すると答えている。青山杉雨は、明末のロマン派の中心的存在として、王鐸を捉えている。そして、
「王鐸の書は実にうまい。またいい素質にも恵まれている。そうでなければあの様に縦横に筆を駆け廻らせては紙面が破綻してしまう筈なのに、それにうまくけじめがつけれるのは、その豊かな資質の然らしむるところであると見ている。また実によく線が伸び且行きとどく。羲之書を連綿草で書いた作などを見ると、よくあれ丈逸気にまかせて情懐を発展させながら、停る部分ではちゃんとキマリがつけられるものだと感心させられる」と記している。
また、王鐸の書は「うまい字」であるが、しかし傅山の書は「いい字」であり、書におけるロマンチズムの精神を傅山は最高のレベルにまで高めたと結論している。生き方においても、王鐸が清王朝に再出仕して節度を非難されて、その名を埋没させたが、傅山は出仕を固辞し隠棲し、清名を後世にまで語りつがれた点も対蹠的であった(青山杉雨『明清書道図説』二玄社、1986年、16頁~20頁)。
石川九楊の書史(中国書道史)の捉え方と中国歴史家や中国文学者の捉え方の相違
石川九楊は「蘭亭序」および書の勉強の仕方について、次のように述べている。
「詳しい事情はわからぬが、中国のことだから、清の乾隆帝が価値づけたという「第一本」「第二本」「第三本」という序列に意味はあったのではないだろうか。
それにしても、と私は思う。なぜ「第二本」を軽視し、「第三本」を不当に高く買うようなへんてこな常識が書道界にまかり通っているのだろうか。ここに現在の書の学習法の間違いがあると思う。
私はどうしても最近の書の勉強の仕方に疑問を感じる。長老書道家は「最近の書道家は勉強しなくなった」とぼやく。「書道家も文章くらい書けるようにしなければだめだ」と小言を言う。それはそうかもしれない。しかし、この時、長老書道家は「勉強」という言葉にどんな意味を込めているかが問題だ。
最近の「蘭亭叙」の研究というと、墨跡本や拓本の種類を探したり、整理することになる。少し漢文が読めると、中国での「蘭亭叙」についての学説の探索や整理ということになる。あるいは中国史学者や中国文学者の後塵を拝するに決まっている王羲之の伝記的穿鑿に走ろうとする。もっと勉強家は、東洋史を勉強して、中国の時代背景や時代思想と「蘭亭叙」を結びつけようとする。
むろんこれらの研究のひとつひとつの進展が、全体として「蘭亭叙」の研究を進めることだからそのこと自体大切で必要なことではある。しかし、これらの研究は、東洋史や中国文学の一分野であっても、それ自体はまだ書の領域での学問ではない。
書をする者にとって書を勉強するとは、書自体を読み込み、解き明かすことだ。書の鑑賞の仕方なんて各人の自由で、いろいろと解釈できるものだというのは、間違った考え方である。書自体を読むとは、文章を読むのではない。書、つまり筆跡の美を読み込むことなのだ。私自身書家でありながら文章も書いているのだから口はばったい言い方になるが、必ずしも書家が文章を書いた方がいいとは思えない。問題はそんなところにはない。それよりも書自体を読み込むこと。読み込んで、読み込んで書を見る眼を微細な感受性をもつものへと鍛えていくことだ。
むろん書についての「見方や解釈は各人の自由」式の印象批評ではしかたがない。書写の過程を追い、その筆蝕を解き明かし、その筆蝕のよってきたる思想や美を言葉でつかみえた時、はじめて書を読んだと言える。それこそが書の学問の中心に来るべきものだと思う。
それは実作経験者である書の実作者の得意とするところである。「実作者にしかできない」というのは言い過ぎだとしても、日頃筆蝕の中に表現を盛ることに腐心し、筆蝕の意味や価値と苦闘している実作者が最も理解しやすい。有利な位置にあることは確かだ。おそらく微細な読みは、中国歴史家や中国文学者では不可能なことだと思う。もしも書の実作者ががんばって、書を読んで読んで、読み込んだ上で、書について語れるなら(文章に書いた方がいいに決まっているが必ずしも書かなくてもよい。語ってもよいのだ)、そこまでやれれば、その成果は逆に東洋史や中国文学にも益をもたらすことになる。その時、書家や書の研究家は、東洋史や中国文学者や文献学者たちと同列に肩を並べる存在となる。
書の学問というのは、東洋史や中国文学者や文献学者の後塵を拝し、そのまねごとをすることではない。眼前にある書――とりわけその美――を解き明かすことなのだ。
なぜなら、書というのは、意識的か無意識的であるかは別にして、人間の表現したものとして存在している。つまりその表現の美――その意味や価値――を扱わねばならないからだ。」(石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、123頁~124頁)
中国史学者(東洋史学者)や中国文学者が「蘭亭序」を研究する場合と、書家や書の研究家(書を学ぶ者)が書の勉強をする場合とでは、学問の領域が異なることを石川は強調している。例えば、「蘭亭序」を研究する場合、前者は墨跡本や拓本の種類の探索や整理、中国での学説整理、王羲之の伝記的穿鑿、「蘭亭序」と中国の時代背景や時代思想との関係を探究することになる。それに対して、後者の書の領域の学問は、書自体(筆跡の美)を読み込み、解き明かすことであるというのである。すなわち、筆蝕を解き明かし、その筆蝕のよってきたる思想や美を言葉でつかむことであるという。
石川九楊の持論が十分に反映されている記述であろう。
王羲之という名について
草野紳一「心に慕い手に負う―「書聖」王羲之という幻体への作法」(石川九楊『書の宇宙6 書の古法<アルカイック>王羲之』二玄社、1997年所収)に興味深い話がある。
王羲之は、幼時、訥(とつ、吃音)であったといわれる。成長するや、弁が立ったというが、吃音の克服があったという。
長男でなかったらしい王羲之の「羲之」の名からして、名に呪われている。「羲之」の「之」は道教徒たるを示す符名記号といわれている。また犠牲の羊を鋸(のこぎり)で切った形象の「羲」は、羲皇(ぎこう)、太古淳樸の聖天子伏羲(ふくぎ)のことにほかならないという。「易」の八卦(はっけ、はっか)の創始者に当てられ、文字(書契)の発明者にも擬されている。
二十四孝の王祥(おうしょう)以来、名門化した王一族は、二王のみならず、みな筆をよくしたという。この「羲」の名には、聖天子たれというより、書の名人たれの願いが、託されていたのではないかと草野紳一はみている。
父の曠の事蹟は、謎に包まれ敵軍への降伏説さえあるが、どのような気持ちで「羲」とつけたのかと、草野は疑問を投げかけている
(草野紳一「心に慕い手に負う―「書聖」王羲之という幻体への作法」石川九楊『書の宇宙6 書の古法<アルカイック>王羲之』二玄社、1997年所収、82頁)。
西林昭一の「蘭亭叙」についての見解
西林昭一は、西林昭一編『中国法書ガイド15 蘭亭叙<五種>東晋 王羲之』(二玄社、1988年[1998年版])において、「蘭亭叙(ママ)」についての見解を述べている。以下、紹介しておこう。
「蘭亭序」28行、全文324字は、東晋の穆帝の永和九年癸丑(353)の歳、王羲之47歳時(魯一同『右軍年譜』による)の行書作で、書の歴史上最高傑作として評価され、現代になお光彩を放っている。
しかし、原跡そのものの真偽問題をはじめ、伝本各種の評価に関しても、さまざまな論議があって、現在になお多くの問題をのこしている。
「蘭亭序」について事典風にいえばこうである。王羲之が永和9年3月3日、会稽山陰の蘭亭(いまの浙江省紹興県)に、謝安ら41人の名士を招き、袚禊(ふつけい)の礼に行なったのち、流觴曲水の雅宴を催して詩酒に興じた。この時に成った詩集の序文を、王羲之が書いた。その草稿が現行「蘭亭序」の原跡であると伝えている。内容と状態からみれば、蘭亭詩集序稿とでもいうべきであろうが、唐代以前は「蘭亭集序」また「臨河序(りんかじょ、『世説新語』企羨篇および注引)」といい、唐代以後に「蘭亭序」(序を叙と書くのは家諱を避けた蘇軾以後の襲用)、あるいは禊帖(けいじょう)などともいう。
伝来については、唐の劉餗(りゅうそく)『隋唐嘉詰』、何延之『蘭亭記』ほかで小説用に仕立て、いまさら言うまでもないほど有名であるが、唐の太宗が王書を崇尚し、苦労の末、真跡を内府に納れさせ、崩御に臨み、昭陵に随葬させたという。
したがって現存の「蘭亭序」は、貞観年間(627-649)に、搨書人の趙模(ちょうも)、韓道政、馮承素、諸葛貞にそれぞれ搨摹させたうちのある種のものと、欧陽詢、褚遂良らの名手の臨摹させたと伝えるものがあり、中でも欧陽詢の臨本がすぐれていたため、これを刻石したといい、定武本の原石がこれであるという。
ただし、宋以後も臨摹や模勒が重ねられているため、どれがどこまで原跡の面目を留めているか、まさに“蘭亭衆訟”で定説をみない。
また郭沫若は文章そのものが偽託だとする清の李文田の説を襲ぎ、南京象山新出土の王氏一族の墓誌の書体などをも傍証に、現行「蘭亭序」は、隋の智永の作だと断案した(「由王謝墓誌的出土論到蘭亭序的真偽」『文物』1967-6所収)。ただし、この説は、すでに否定の傾向にあるという。
伝来の「蘭亭序」中、搨摹本および臨本には次の6種が現在ある。
(1)「八柱第一本」(北京故宮博物院蔵)
(2)「八柱第二本」(同上)
(3)「八柱第三本」(同上)
(4)「絹本蘭亭序」(湖南省博物館蔵)
(5)「黄絹本領字従山蘭亭序」(台北故宮博物院蔵)
(6)「陳鑑摹蘭亭序」(北京故宮博物館蔵)
このうち(1)(3)は搨摹であろうが、貞観当時のものかどうかは断定できないと西林はいう。
(2)(4)(5)(6)は褚遂良の臨本およびその摹本とみられているが、これまた確証はない。ところで(1) (2) (3)にいう八柱本とは、清の乾隆帝の収蔵品中、「蘭亭序」および「蘭亭」ゆかりの墨跡計8種を、石柱に刻して、かの円明園に置いたことにちなんでの命名である。
八柱石は、1917年、中山公園に移置され、現在、亭を築いて保護されているが、西南の廊廡にはまた、正面に蘭亭修禊図(らんていしゅうけいず)を線刻し、背面に乾隆帝の題詩三首などを刻した石屏があり、この乾隆帝題詩第一首の注に、乾隆43年(1778)、8冊の墨跡を1冊ずつ柱刻した事情をいっている。
この8冊とは、
(1)虞世南臨蘭亭
(2)褚遂良臨蘭亭
(3)馮承素摹蘭亭
(4)柳公権書蘭亭詩并後序
(5)戯鴻堂刻柳公権書蘭亭詩原本
(6)于敏中補戯鴻堂刻柳公権書蘭亭詩闕筆
(7)董其昌倣柳公権書蘭亭詩并跋
(8)乾隆帝臨董其昌倣柳公権書蘭亭詩并跋・題八柱冊並序
である。八柱帖の三本は、乾隆帝の収儲以前、ともに各種の集帖に刻入され、定武本とともにもっとも著名な蘭亭序である。
「八柱第一本」は、本幅は白麻紙本で、高さ24.8cm。巻末に「臣張金界奴上進」とあることで、一に「張金界奴本」という。本幅内には南宋の高宗の「紹興」印をはじめ、明清の鑑蔵印が鈐されている。後幅には南宋の楊益の淳煕5年(1178)の観題をはじめ、明清人の跋十数種がある。明の董其昌跋の中に、虞世南が臨書したものだろう、という説をうけ、清初にこの巻を収蔵した梁清標(りょうせいひょう)は、巻首に「唐虞永興臨禊帖」と標題したことから、乾隆帝に帰して以後、「石渠宝笈」「蘭亭八柱帖」さらには「蘭亭墨蹟彙編」など、ともに虞世南の臨本としている。ただし虞臨とみるのは董其昌の臆断で、何の根拠もない。清の王澍「虚舟題跋」には、褚遂良の臨摹とし、呉升「大観録」には、宋の王著の臨摹本ではないかというが、これまた単なる印象論でしかないと西林は否定している。
原巻は幾たびかの改装の際、汚れをとるため洗われたりして墨気の抜けたあとへ、淡墨で全面に筆を加えてあり、そのため著しく筆勢が殺がれている。西川寧は精到な様式論的考察を根底として、この帖を双鉤本とみ、搨摹本の第一に推している。
また谷村憙斎は、現存の羲之帖に対し、王羲之が一紙8行で2cm間隔に折罫を付けた料紙(右軍箋と命名する)を使用していることを検証し、八柱三本中、この第一本の原跡は、右軍箋を使用していると考証する。が一方、しばしば原本に接したという啓功は具体例を挙げ、宋人が定武本に拠った臨写本ではないかとみている。
刻帖には、餘清斎帖、戯鴻堂帖、玉煙堂本、秋碧堂帖ほかがある。餘清斎帖本と秋碧堂帖本は佳刻ながら刻調にちがいがあり、評価もまちまちである。
「八柱第二本」は、淡黄紙本で高さ24.0cm。前隔水に清初の収蔵家卡栄誉が、北宋の蘇易簡の筆跡とみる「褚摸王羲之蘭亭帖」の題簽があり、褚遂良の摹本と伝承されてきたが、これまた確証はないと西林はいう。
西川寧は、米芾以後の臨本とみている。啓功は初行「永和九年」の右に鈐された「太簡」印を、卡栄誉が蘇易簡と判定したそれは、他から移して嵌めこんだ印であること、米芾の「題永徽中所摸蘭亭叙」(『宝晋英光集』)の末に、題詩中の語が載せられていて、米芾は褚臨本とはみてないとするなどの新見を示し、米芾の自臨自跋ないしは米芾の臨写の重摹本かと結論している。後幅の米芾題詩がすぐれた作風であることから、種々議論があるが、米芾の題詩とそのあとの観款ごと、他から移して改装されたとも考えられている。
いずれにしても、本幅の書風は、筆がもつれて濁り、生彩に乏しい。翁方綱も米臨かとみているが(『蘇米斎蘭亭考』)、米芾のもつ流滑快利の筆致はない。なお、第15行の「怏然」を、この本のみ「快然」につくっている。なお、刻帖は「三希堂帖」のみである。
「八柱第三本」は、白麻紙本で、高さ24.5cmである。古くは前隔水に題簽の右半が残っているように、唐摹蘭亭と称されていた。しかし元代以後、首行の上方「神・品」連珠印の右紙縫に、唐の中宗(在位705-707)の年号である「神龍」印の左半が、また末行「者亦」左方の紙縫に同印の右半が見えることから、「神龍本」ないし「神龍半印本」とよばれるようになった。ただし、翁方綱はこの印を信用していない。
また、明末の所蔵者である項元汴が、馮承素の搨摹と断定したことで、乾隆内府に帰してのちは、馮承素本ともよばれた。しかし、これまた何の根拠もないと西林はみなしている。
本幅内に「紹興」印がみえ、一時期、南宋の高宗の秘庫にあったことが知られる。南宋末に理宗の皇女が楊鎮に降嫁する際に、持参品の一として出庫した、ということが、元の郭天錫の後跋にみえている。
本幅の前後には、夥しい数の収蔵印が鈐されているほか、後幅には、北宋の熙寧9年(1076)の許将をはじめとし、元の趙孟頫ら著名人の跋や観款がつらなる。
また、本幅がはたして搨摹によるか否かも問題がある。啓功は具体的な問題を例挙して、これこそ原本との距離がきわめて近い搨摹本とみる。が、西川寧は敷き写したものとみている。
この帖は、第8行の「和」の旁を「日」につくり、また首行「歳」、3行「羣」「畢」、7行「觴」、14行「静」「同」、23行「死」にいわゆる破筆(はひつ)が見える点や、13行「因」、17行「向之」、21行「痛」「毎」、25行「夫」、終行「文」は、重ね書きして改写した字であるが、墨色をかえている点などからみても、きわめて忠実な墨跡本であると西林はみている。
この刻帖には、集帖本として、「鬱岡斎帖」、「玉煙堂帖」、「墨池堂帖」、「三希堂帖」、「嶽雪楼帖」などの各本がある。また明代中期に、王済が所蔵していたおり、豊坊が手摹し、章乙甫(しょういつほ)に刻させた精緻な単帖がある。この原石は、のち天一閣に伝わって拓本が流布したが、紙本では末の5、6行の行間が詰まっている(啓功はこの点を搨摹本の条件の一つに数えている)のを、この単帖本は行間をそろえ、字間も少しずつ動かしている。その上、紙本にはない「貞観」「開元」「褚氏」「米芾」その他の偽印を刻入している。
さて、墨跡影印本がなく、刻帖によってしか接することのなかった時代に、もっとも評価を得ていたのは定武本で、この一石にのみ諸家の論議が集中した感さえあるので、定武本には一言付け加えている。定武本の生出や伝来もまた多くの謎に包まれている。
欧陽詢が臨書した「蘭亭序」を、唐の太宗が刻石せしめ、宮中に留められていた。この原石は、五代の石晋の乱に、契丹の耶律徳光が中原から奪い取って北へ帰る途中、殺虎林で遺棄した。その後は所在不明であったが、宋の慶暦中(1041-1048)に李学究が定武軍で発見し、ついで宋祁(そうき)に帰した。この発見にちなんで欧陽詢臨本刻石拓本を、定武本とよんだ。熙寧年間(1068-1077)に至り、薛□(王+尚)が定武軍の太守に官したが、拓本を求める人が多くなったので、別に一石を覆刻した。またその子の薛紹彭も模刻をつくった。このとき原石の湍、帯、右、流、天の五字をわざと欠損した。この五字が備わっているときの拓本を「五字未損本」といい、定武本では珍重される。
原石は長安に持ち帰ったが、徽宗の大観年間(1107-1110)に、詔して原石を取り宣和殿に置いた。しかし、靖康の変(1127)で金人に奪去され、その後は所在不明となった(この石は薛紹彭の模刻とする説もある)。
一体、宋代でさえ幾種の定武系があったか。士大夫の家は、それぞれ翻刻の石を持ったというから、夥しい数にのぼったのである。ちなみに、定武原石の単帖で著名なものに、落水本(五字未損本、所在不明。裴景福旧蔵文明書局影印本を啓功は偽物と断案する)、呉炳本(五字未損本、東京国立博物館蔵)、韓珠船本(五字未損本、中村氏書道博物館蔵)、独孤長老本(五字已損本、東京国立博物館蔵)がある。
「蘭亭序」はその原跡の有無も出現の事情も謎につつまれている。したがって、墨跡本や刻帖のいずれがどれだけ原跡に近いかという議論は空転のおそれが多分にある。ただし、現行蘭亭序の原跡が、かりに隋唐期の偽託であるとしても、書としての評価が無になるわけではない。蘭亭序は一見したところ至って平凡な造型のようであるが、西川寧の説く“力の均衡”による、非凡な造型感覚に裏づけされた、遒勁で変化多端な書風を形成していて、これに匹敵する行書作は見出せない。
たとえば蘭亭序の様式をいうとき、何廷之『蘭亭記』のいう「重なる字があると、ともに別体に構えている。之の字がもっとも多く、20箇あるが、変転ことごとく異なっていて、同じ構えは一つもない」が引き合いに出される。「蘭亭序」がこの話に合わせるように拵えた代物であれば、自然な別構にはできない。全文324字中、2回以上重出している字は45例ある。このうち例えば、「所」(7例)、「其」(5例)、「也」「為」(4例)、「有」(3例)といった字は、さほど別構にしたというほどではないが、その他(5回以上重出する例)は、その構えはもとより、強弱、大小まことに変化多端である。
しかも、それぞれが全幅の中にしっくり納まって、不自然さはみられない。こうした面から捉えても、「蘭亭序」の劇跡たる書道史的位置はゆるがないであろう(なお、原跡はやはり王羲之であろうことを示唆する西川寧の「張金界奴本について」(前掲書)の様式論的解明は是非とも参照してほしいという)(西林昭一編『中国法書ガイド15 蘭亭叙<五種>東晋 王羲之』二玄社、1988年[1998年版]、12頁~21頁)
狂草について~張旭と顔真卿と懐素
張旭の狂草が革新の先達とするならば、この気風をなお一層推し進め、発展させたのが顔真卿であるといって過言ではないと田淵保夫はいう。張旭の酒気を帯びた狂草とは異なり、顔真卿の革新的動向は真正面から王法にあたって、王羲之の典型を脱した独特の「顔法」なる書法を創出し、後世への指針たり得るものとしているとみる。
開元年間の末より天宝年間にかけて篆・隷書が流行したが(隷書では徐浩[703―782]、篆書では李陽冰[不詳])、時代の流行から顔真卿も篆隷を熟知していたであろう。特に楷書に篆書の手法を取り入れて新しい楷書の法を完成させたことは、書道史上でも特筆すべきことである。褚遂良は王法のとらなかった隷書をとり入れて褚法となしたが、顔真卿は篆書をとり入れて顔法としたことは正統派に対する反発であり、書道史上における革新といえるものであると、田淵保夫は捉えている(田淵保夫「中唐における革新派懐素の書とその周辺―書道史上よりみた―」『立正大学文学部論叢』53号、1975年、105頁~106頁)。
田淵の参考文献に『書道全集』(平凡社)を挙げていることから、神田喜一郎の見解に影響と受けていることは推測できる。その他の参考文献としては、中田勇次郎『中国書人伝』(中央公論社)、真田但馬『中国書道史』(木耳社)、平山観月『新中国書道史』(有朋堂)、伏見冲敬『書の歴史』(二玄社)などを挙げていることからも、うなづける(田淵、1975年、121頁)。
まだ、1975年には石川九楊の『中国書史』(京都大学学術出版会、1996年)は出版されていない。
書の歴史から見る連綿の表現
石川の連綿論との関連で連綿に関して、他の研究者の見解も紹介しておきたい。
「連綿」という言葉で書を形容したのは梁の袁昂(461-540)が『古今書評』においてであるようだが、書の歴史から見て、字と字を続けて書くことは戦国時代、秦、漢代に遡れるとする見解もある。承春先は秦の木簡や漢簡の出土品、例えば2004年、中国の長沙市で出土された「長沙市走馬楼前漢簡」の中には「属」字や「夫」字はすでに点画の省略と連続線のある書法が現れていると指摘している。
後漢の張芝の登場によって草書はさらに個性化が進んだものと推測され、魏晋南北朝以来、書家の王羲之、王献之父子をはじめ、草書の表現はさらに進んだ。現在二人の確実な真跡と言えるものは残っていないが、搨模本などは相当数ある。それを見ると、草書の中に混在する字と字の連筆の書法はほぼ規範化されている。王羲之が、草書に連綿を表現しようと心懸けていたことは、彼の『題衛夫人筆陣図』の「若し草書を学ばんと欲せば、又た別に法有り。須らく前に緩く後に急にし、字体形勢、状は龍蛇の如く、相い鉤連して断たざるべし。(下略)」(若欲学草書、又有別法。須緩前急後、字体形勢、状如龍蛇、相鉤連不断)といった記事から、承春先は推測できるとみている。
ただし、王羲之の「喪乱帖」「秋月帖」(唐の双鉤塡墨)を見ると、連綿と言えるものはさほど感じとれないと承春先は断っている。例えば、両帖ともに「知足下」という三文字が続けて書かれているが、「喪乱帖」にある「知足下」三字の筆意は強くて連綿より連筆と言ったほうが適切であるという。現在、王羲之の真蹟は残っていないため、彼が言う「相い鉤連して断たざるべし」の実際の姿を確認することはできないが、『淳化閣帖』などの刻本の資料を見ると、「連」と「綿」両方の要素を含んだものはないと承春先は考えている。
唐代の草書は新しい風格を創り出し、王羲之と異なる狂草のスタイルを生み出し、その代表的な作家は張旭と懐素で、その書き方は連綿に近いとみている。張旭の「古詩四首」は初めは小ぶりの字を行書しているが、五行過ぎから最後まで奔放自在な筆法で狂草に近い書である。例えば、「豈岩上登天」五字の書き方は「龍蛇飛動」のように連続する。そして動きの激しい「仙隠不別」「其書非」の連続法は「驚いた蛇が草に入る」という形容を思い出させると説明している(承春先「漢字草書における「連綿」現象再考」『学苑・文化創造学科紀要』第829号、2009年、81頁~85頁)。
承春先は『草書連綿字典』を作ることを試みて、日本で見られる晋の王羲之から清の包世臣まで歴代80人の行草書の法帖にある全ての続き書きを収集し、計6000弱の条目を集めたそうだ。その中、二字の「連綿」は70%以上を占め(4000強)、三字の連綿は15%で(約900)、四、五字の連綿は僅か0.8%で、それ以上の10字を超えたものはたった、1、2点のみであったという。そしてこれらのものも、「連綿」という要素があまり含まれていない連続書きのものであったとする。特に二字連綿の連綿線のほとんどは、上の字の最後の一筆が下の字を書く準備線のような線質で書かれ、連筆としか言えない。三字連綿の場合もほぼ同様で、四、五字のものでようやく「連綿」を感じることができるとしている。また、これらの「連綿」している文字の種類は、「不」「之」「其」「面」「以」「天」「無」「為」「所」という九文字に限られているという。これらの文字の結構はほとんどが独体で、偏と旁からなる他の漢字より「符号」にし易いという特徴を持っていると承春先は指摘している。漢字の草書の連続表現にある程度の制限性が認められるのではないかと推測している(承春先「漢字草書における「連綿」現象再考」『学苑・文化創造学科紀要』第829号、2009年、89頁)。
連綿体について、神田喜一郎も王羲之の「十七帖」との関連で言及していた。
「この法帖に用いられている書体は、単に草書といっても、今日われわれの草書とは異なり、いわゆる独草体と称ばれる種類のものである。一字一字が単独にかかれ、ときには二字ほど続けてかくこともあるが、後に唐代になって発達した張旭とか懐素の書いたような連綿体の草書とは性質がおのずから別のものである。」と。(「中国書道史4東晋」『書道全集』4巻、5頁。神田喜一郎『中国書道史』岩波書店、1985年、86頁に再録)。
※「結構」とは、字画を積み重ねて文字をなす、その構成法を、「構えを結ぶ」という意味で、「結構」と呼ぶ。文字の「構え」に力点(アクセント)を置いた呼称である。
(石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、52頁~53頁)
懐素の狂草について
五代(907-960)では、楊凝式(873-954)が「題懐素酒狂帖後」(『全唐詩』巻715)の中で、懐素について次のように詠っている。
十年揮素學臨池 十年素(きぬ)に揮いて臨池を学び
始識王公學衛非 始めて王公(王羲之)の衛(衛夫人)を学ぶことの非なるを識る
草聖未須因酒發 草聖未だ酒に因りて発するを須(もち)いざるに
筆端應解化龍飛 筆端応に解(よ)く龍と化して飛ぶべし
(七言絶句平起式、平声支韻池、平声微韻非飛通用)
十年素(きぬ)に筆を揮い修業を積んで、はじめて王羲之の衛夫人を学んだことの非なるを知った。草書の聖人の域を達すると、酒にたよって書かなくても、龍と化して飛ぶように運筆することができるだろう。
王羲之が衛夫人(272-349)の書を学んだことについては、杜甫が「丹青の引」(曹将軍覇に贈る)詩の中で「書を学びて初め衛夫人を学ぶも、但だ王右軍(王羲之)に過ぐる無きを恨む」と詠っているように、唐にはすでに知られていたようである。
しかしながら、王羲之は「始めて衛夫人の書を学ぶも、徒に年月を費やすのみを知る」(『法書要録』巻1「王右軍(王羲之)題衛夫人筆陣図後」)というように、かつて師事した衛夫人の書を貶めており、その一方で、「張(張芝)は、精熟人に過ぐ。池に臨み書を学べば、池水尽く墨となる。……惟だ鐘(鐘繇)、張(張芝)は故(もと)より絶倫と為す。その余はこれを小佳と為すのみ、意を在(とど)むるに足らず」(『法書要録』巻1「晋王右軍自論書」)というように、魏の鐘繇や漢の張芝の書を称揚したのである。
したがって、楊凝式の詩句にいう「始めて王公の衛を学ぶことの非なるを識る」は、おそらく『法書要録』巻1「王右軍題衛夫人筆陣図後」に「始知學衛夫人書、徒費年月耳」と見える、その意を汲んだものと松永恵子は解釈している。楊凝式は、懐素の草書に対して酒にたよって書くだけでなく、書の修練が備わっているとして高く評価したという。
ところで、張旭の狂草についての記載は、『全唐詩』『全唐文』『全五代詩』『全宋詩』などには全く見られないことから、五代および北宋初期では、張旭への評価は途絶えていたようだ。また懐素の狂草についても、上記の楊凝式の題詩の他、数例しか見られないことから、張旭と懐素の狂草を慕う者はほとんど跡を絶ったと松永はみている。
その代りに、北宋の淳化3年(992)に『淳化閣帖』が作られ、王羲之と王献之の書が尊ばれた。このような状況が生まれた要因として、松永は2点を指摘している。
① 唐末、五代の戦乱によって、おびただしい文物が亡失し、南唐や蜀などの一部の地域を除き、文化全般が壊滅状態に陥ったこと。
② 書の流れから見た要因の一つとして、晩唐頃から、狂逸的な草書は主に僧侶によって書かれるようになり、文人との結びつきを失ってしまったと推察できること。もともと狂草は僧侶や僧侶と繋がりのある一部の限られた士大夫によって書かれ、主に僧侶の世界でもてはやされた。その狂草の多くは狂怪になり、正統的な書風から離れてゆき、次第に衰退していき、それゆえ文人による狂草批評も五代から宋初にかけて衰滅してしまったというのである。
ところが、北宋中期の欧陽脩や蔡襄あたりから、正統的な書と世俗的な書への見直しがなされるようになり、再び張旭と懐素への批評が多く見られるようになった。蘇軾や黄庭堅は張旭と懐素の狂草に対する評価を確立した。蘇軾は張旭の「神逸」さを好み、懐素を「道ある者に近い」とし、黄庭堅は張旭の「超軼絶塵」なるところを称賛し、懐素を「書法の極に臻る者」とした(松永恵子「中晩唐から北宋中後期に至る「狂草」評価の変遷」『書学書道史研究』第15号、2005年、44頁~45頁、50頁)。
柳公権について
石川九楊は『選りぬき一日一書』(新潮文庫、2010年)において、柳公権の「神策軍紀聖徳碑」(843年)の中から、なまなましい書きぶりの「幸」という字に解説を加えている。蚕頭(さんとう)型の第2画の起筆、わざとらしい第3画や第7画の終筆は顔真卿ゆずりであるという。そして中国の書論では二人を対比して、「顔筋柳骨」(顔真卿は筋、柳公権は骨)といわれる。ただ、米芾は柳の書を「醜怪悪札(悪筆)の祖」と断じたが、その因(もと)は顔真卿にあると石川九楊はみている。
(石川九楊は『選りぬき一日一書』(新潮文庫、2010年、61頁)
宋代の書について
【唐代から宋代へ】
唐の太宗期には、王羲之の書が普及したが、唐の中ごろからは、かえって俗書とみなされるほどになった。やがて、宋代になって江南に伝えられた伝統文化が主流をなすようになると、もはや士大夫の間では顧みられなくなってしまう(しかし、元代にいたり、趙子昴がでて王羲之の書の復興をとなえるにおよんで、再び「集字聖教序」(唐の僧懐仁がでて、王羲之の書を集めてつくったもの、碑は西安の孔子廟に現存している)の碑が光彩を発揮することになる)。(上條信山『現代書道全書 第二巻 行書・草書』小学館、1970年[1971年版]、14頁~15頁)。
唐代から宋代への書の特徴は、唐の法則的、形式的な書から、宋の飛動的、個性的な書へといった具合に移っていったものと、捉えられている。換言すれば、唐人が書法や型に束縛されて、生気を失ったのを知って、宋人は唐人の形成した殻を破って、自由に自己を表現しようと考えた。そのために、奔放粗野になり、気品において劣るものの、その意気と努力は壮とすべきであるとされる。そのような革新の巨頭が、蔡襄(1012-1067)、蘇東坡(1036-1101)、黄庭堅(こうていけん、1045-1105)、米芾(1051-1107)のいわゆる宋の四大家である。
北宋の末から禅僧の間に蘇東坡、黄庭堅の書風が流行し、自由奔放な書が多く現れ、日本の鎌倉時代の禅林の間に流行し、やがて茶道と結ばれて、広く愛翫された(鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』日本習字普及協会、1996年[2010年版]、67頁~69頁)。
中国の書の歴史を振り返った際に、「書はすべからく晋唐を宗とすべきだ」とよく言われる。一般に中国の書に対する関心は、晋唐時代が中心であり、宋元代以降は従来あまり顧みられなかった。
書をやっている人は、一般に晋代の王羲之や王献之、あるいは唐初の欧陽詢、虞世南、褚遂良、そして顔真卿といった中世(ママ)の書家に関心を抱いてきた。晋唐の書を神経質なまでに分析して、とことん習得しようと努めてきた。つまり中国の書の歴史的視野というものは、晋唐に始まり晋唐で終ると見られてきた。そして近世にあたる宋元代以降の書には従来、あまり関心がなかったのが実情であった。
歴史的な書を研究する場合に大切なのは、その時代の資料(史料)であるが、晋唐時代の書の作品は不明瞭な拓本がほとんどである。それに対して、宋元代以降のものは直接肉筆で見ることのできるものである。書法に対する鮮明という点では、拓本の場合のように彫られた上摩滅した解釈のしにくいものよりは、肉筆の方が明白で、筆の動き方などが一目瞭然でよくわかるという利点がある。
今日では晋唐時代の書を異常に高くする偏向した考え方もだいぶ修正され、近世以降の書も、中世の書と同様に重要であると考えられるようになったという。
北宋で書の名家として、蔡襄、蘇軾、黄庭堅、米芾という四大家がいる。それぞれに異なった持味の書をつくっているが、蔡襄は廉清、蘇軾は重厚、黄庭堅は俊敏、米芾は繊美と表現される。名人の書がその人格にもつながる質のものであるとみなされている。そこには卒意な運筆が随所にみられ、いわゆる唯美的な表現を極力避けようとしていることが看取できるといわれる。唐代の書家とは違い、技術を至上のものとせず、また他人の模倣を厳しく忌みきらう宋人の誇り高き生活態度を感じとることができるという。
ただ、これらの宋代の四大家は晋唐時代の書の伝統と断絶したところから出たのではなく、宋代は唐代以上に王羲之が尊重された時代であるらしく、四人は四人とも揃って王羲之をよく習ったのみならず、顔真卿をも併せて習っていた。つまり、王法・顔法を一度自分のものとして吸引して、自分の書として再表現される時には、主体的な自己主張の方が表に出て、王法・顔法は技術として形の裏にかくされてしまったのだと青山杉雨は理解している(青山杉雨『書の実相―中国書道史話』二玄社、1982年、49頁~51頁、65頁~70頁)。
それでは、米芾自身は、自らの書をどのように見ていたのであろうか。この点について、寺田透は、興味深いことを記している。
すなわち、書学士として徽宗皇帝に呼び出さた米芾が、同時代の名書人について、蔡京は筆を得ず、蔡卞(べん)は筆を得れども逸韻少し、蔡襄は字を勒し、沈遼(しんりょう)は字を排(なら)べ、黄庭堅は字を描き(写すようにえがくが描の原義―寺田注)、蘇軾は字を画く(直線的に書くの意で言っていようか。絵のようだという意だろうか―寺田注)などと称して憚るところがなかった。
これに徽宗が、では卿の書はどうか、と反問すると、臣は書を刷ると答えたと伝えられている。寺田透はこの話に次のようなコメントを付している。描、画、刷などの文字の使い方に理解しがたいものはあるが、米芾の自信の烈しさと、気象の強さを窺われる話であるという。
また別の機会に徽宗の命を受け、宮中の屏風に書いた米芾が、自分の字に見とれて、二王(王羲之、王献之)の悪札を一洗して、皇宋(皇帝の時代なる宋の時代)を万古に輝かしたと独語したという話も伝えられている(寺田透「蘇軾 黄庭堅 米芾」、中田勇次郎編『中国書人伝』中央公論社、1973年所収、165頁)。
蘇軾の「黄州寒食詩巻」について
「黄州寒食詩巻」の詩文についてみておく。
空庖煮寒菜 空庖 寒菜を煮
破竈燒濕葦 破竈(はそう) 濕葦を燒く
那知是寒食 那(なん)ぞ知らん 是れ寒食なるを
但見烏銜帋 但だ見る 烏の紙を銜(ふく)むを
君門深九重 君門 深きこと九重
墳墓在萬里 墳墓 萬里に在り
也擬哭塗窮 也(ま)た塗(みち)の窮するに哭せんと擬(ほっ)す
死灰吹不起 死灰 吹けども起(た)たず
≪解釈≫
からっぽの台所で粗末な野菜を煮んものと、こわれたかまどに湿った葦をくすべる。どうして寒食の日だと知れよう、ただ紙銭をくわえて飛ぶからすを見るばかり。天子のいますところ、その門は余りにも深く(祭るべき)墳墓は万里のかなた。あの阮籍(210-263、竹林の七賢のひとり)のように、わが生のきわまって道なきを慟哭しようにも、燃えつきた灰にも似て、もはやその力さえも残っていない。
この詩に対して、解説を加えておく。
紙をくわえて烏の飛ぶのを見れば寒食の感慨が湧くのは、烏の嘴にひらひらする紙銭を作って、墳墓を祭るのは寒食の習俗だからである。また「君門 深きこと九重」というのは朝廷に帰ろうにも、その門は九重の深さがあって望みがたいことを意味する。「君門」を言い出したのは、流竄の身とはいえ官吏で、一旦は死に当ると覚悟した罪の一等を減ぜられて、黄州(湖北省)への流刑だけですんだ詩人の心理を暗に伝える措辞と寺田は解釈している。
「九重」「死灰」などいずれも「楚辞」や宋玉の賦に典拠を持つ用語だといわれるが、重要なのは、「也た塗の窮するに哭せんと擬す」という句である。これは杜甫の「章留後侍御に陪して南楼に宴す」の詩に「此の身醒めて復た酔う、塗の窮するに哭すると擬せず」の句を逆転活用したもので、そこに杜子美ほどには現実の中で喜怒哀楽をきわめる詩人でなかった蘇軾の自画像があると寺田はみている。強いて言えば、彼は魏の阮籍のように、塗窮まれば哭して帰ることを自分にふさわしいこととしてひとであるとみる。阮籍も、気のむくままに馬車をやって道をたどらず、車が動けないところに行きつくと、哭(な)いてひき返したという(『書道全集』15巻、165頁。石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、226頁~227頁図版参照のこと。小川環樹・山本和義『蘇東坡詩選』岩波文庫、1975年[1996年版]、207頁~209頁。寺田透「蘇軾 黄庭堅 米芾」『中国書人伝」』所収、1973年、150頁~151頁)。
黄庭堅の「李白憶旧遊詩巻」について
【黄庭堅の「松風閣詩巻」】
「松風閣詩巻」(『書道全集』15巻、図78-85、黄庭堅、崇寧元年(1102)、紙本)
黄庭堅が晩年四川の地方に流謫されてから後の作には特にすぐれたものが多く、この詩巻もその晩年の作として最も著名なものの一つである。彼の自作の「松風閣詩巻」一首を、楷書で29行に書いたもので、落款はない。
「松風閣詩巻」は、黄庭堅の詩集にも掲載されているもので、彼が流謫の身をもって湖北鄂城県の樊山に遊んだ時、この地の風光を愛し、その山中の松林の間にある一楼閣に「松風」という名をつけた時の詩である。
その詩句に「東坡道人已に泉に沈み、張侯何れの時にか眼前に到らん」とあり、この時、蘇軾はすでに没していたし、同門の張耒がこの地へやって来ることになっていたが未だやって来ないという。この詩巻もほぼこの詩を作った頃、およそ崇寧元年(1102)9月、彼の58歳の秋の作であろうとされる。
黄庭堅は唐の顔真卿の書法を学んだとみずから称しているが、この詩巻は顔の書法をよく学ぶとともに柳公権の筆意をもよく兼ねあわせて、円熟の境地に到っている。黄庭堅の禅家のごとき人物と、文学において名高い江西派の祖となったその詩風を味わいながら、この筆蹟を鑑賞することができると中田勇次郎は解説している(『書道全集』15巻、図版解説、中田勇次郎、171頁)。
神田喜一郎による祝允明の捉え方
『書道全集』17巻の神田喜一郎「中国書道史12」では、祝允明について次のように捉えていた。このことは後の著作『中国書道史』(岩波書店、1985年、232頁~233頁)でも再説している。すなわち、
「明代の書家として、最初に気を吐いた巨匠は文徴明(1470-1559)と祝允明(1460-1526)とである。いずれも明の中ごろ、弘治、正徳、嘉靖の三代にわたって活躍した斯道の大家である。しかもこの二人が相並んでいまの江蘇の蘇州の出身であることを注意せねばならぬ。(中略)文徴明と祝允明とは、いずれも王羲之の典型を宗としたが、明初の諸家よりもはるかに天分に恵まれていたうえに、これまでの書家のように趙孟頫をとおして王羲之の書法を学ぶのではなく、直接に王羲之の書法にさかのぼろうとした。これがこの二人の傑出していた点である。それにこの二人になると王羲之の典型を宗としたけれども、必ずしも王羲之にばかり一辺倒するのではなく、いろんな異なった書法をとりいれた。(中略)
祝允明は、李応禎の女婿で、その書は専ら家学にうけたというが、文徴明に比較すると、いくらか力量の劣るのが感ぜられる。またかれの書は古勁であるが、文徴明の書は遒麗ともいい得るであろう。ただ祝允明の書には、どうかすると放恣を極めた草書があって、これがかれの代表的作品であるかのごとく考えられているが、解縉の草書とともに、これは決して本領ではない」と神田喜一郎はいう。
平山観月による中国書道史の捉え方
平山観月は中国書道史のおよその流れを次のように要約している。つまり、上古(秦より以前)に端を発した中国書道は、中古(秦漢から唐)にはいって漢末に大成し、晋魏に興り、唐にいたって整い、近古(宋から明まで)にはいっては、北宋においてくずれ、それ以後、近世(清代以後)を含めて衰退したと平山はみている。
書道の隆昌をみるのは、国家興隆のときであり、またその萎微沈滞をみるのは、国力衰退のときである。まさに書は人をあらわすと同時に、時代の精神、民族の特性を表現するものであるとみる(平山観月『新中国書道史』有朋堂、1965年[1972年版]、21頁~26頁)。
【書の見方・鑑賞について】
絵画を言葉で表現するのが難しいように、書を言葉で形容するのも困難である。その際に大いに参考となるのが、平山観月『書の芸術学』(有朋堂、1965年[1973年版])という著作である。
東晋時代の王羲之の「蘭亭序」は典雅(端正で上品)、唐時代の顔真卿の「自書告身帖」は雄渾(雄大でとどこうりない)、一方、日本の平安時代の空海の「風信帖」は淳和(てあつくやわらぐ)、同じく平安時代の伝小野道風の「三体白楽天詩巻」は優婉(やさしくしとやか)と形容している。この点について詳述してみたい。
平山は、書道における美的範疇の概念を捉え、中国の書の史的流れにそって、画期的な書人の作品を取り上げ、その美的賓辞について検討している。
たとえば、秦の始皇帝はいわゆる「小篆」を作ったが、その代表的な書跡である「石鼓文」(帝の頌徳の石文)は、蒼然たる色を帯び、かつ荘重、雄勁の点も見受けられるが、まず蒼古にはいるべきであろうとする。
東晋の王羲之、王献之父子は楷行草三体をよくし、「楽毅論」はその細楷として第一位に推されるもので、筆力秀勁、筆法の妙をきわむといわれ、行書の「蘭亭序」、「孔侍中帖」、草書の「喪乱帖」など用筆、結体ともに精妙で、毛筆の極致を示すものといわれている。
王羲之の書体は各体とも貴族的であり、その人間性から発散する縹渺たる仙気は、一種の悠然たる風格が備わっている。この風格は、優婉・淳和・典雅とも呼ばれるべきものであるとする。
続く南北朝時代では、北朝は北方人の雄勁な書風で、南朝は流麗な書風で、互いに対立的であった。しかしその南北の対立は、隋唐において融和し、初唐の三大家といわれる欧陽詢、虞世南、褚遂良の均斉のとれた書風になった。そして盛唐には顔真卿の豊かな生命感にあふれた書が生まれてくる。唐代の書道の盛大をなしたゆえんは、太宗の力に負うところが大きく、その太宗は帝王中第一の能書家といわれ、王羲之の書を敬愛した。初唐の三大家も王羲之に源を求めているが、虞世南の書は典雅においてまさり、欧陽詢の書は雄勁の趣を加え、褚遂良の書は蒼古の風神を湛えている点に特色があると平山は評している。
一方、顔真卿は唐王朝に忠勤をぬきんでた正義感の強い剛直の士で、妍美なものに激しく反発し、男性的な重みと、剛気とに満ちあふれた主体的なものの表現を求めたといわれる。
その書そのものが「自書告身帖」にみられるように、壮重雄渾であった。剛毅であり、野逸でさえあるその書風は、まさに「書は人なり」の感を深くする。
その書風は、当時一般に行なわれていた王羲之風の優雅な書風に刺激を与え、書表現の思想や技術が大きく転向した。当時の楷書が隷書に源を求めていたのに対し、顔真卿はさらにさかのぼって篆書にその根底を求めた。だから、顔真卿の楷書は従来のそれに比して、文字の姿態は丸く、線はほぼ楕円形をなし、千金の量感を呈し、雄渾曠達にして度量も広く悠々たる風情があると評せられる。これが顔真卿の楷書の大きな特色である。
次に、宋代の四大家である蔡襄・蘇軾・黄庭堅・米芾は、それぞれ個性を発揮して清新な書風を開く。蔡襄の「万安橋記」の書法は顔真卿の型で雄偉、遒麗にして堂々たるものがあり、雄渾といわれる。
蘇軾の「黄州寒食詩巻」の書について、黄庭堅は「疏々密々、意のまま緩急して、文字の間に妍媚な美しさが百出するもの」と絶賛している。それは、現存する蘇書の中では神品
第一と称せられる。平山は、趣向斬新、流麗な筆致をもって鳴るものと評している。
蘇軾は、顔真卿の書を学び、その上古人の書をよく消化し、独創的な個性を表現しようとした。
黄庭堅も、蘇軾と同じく、顔法を学んだ。彼はとくに魏晋の書に見られる逸気を重んじ、晩年には唐の張旭・懐素に草書の妙をうかがい、さらに秦漢の篆隷にさかのぼって、古人の用筆と筆意を学んだ。草書の「李白詩憶旧遊」は、超妙脱塵の境地に達した書といわれ、平山は、瓢逸を主として曠達を兼ねるところの逸品と称賛している。
また米芾は晋人の高古の風を尊び、奔放な宋人らしい主観的な書をかいた。「方円庵記」は行書のうちでとくに著名で、その朗暢な書風は宋代随一と称せられている。その書風の淵源するところは、王羲之、褚遂良にあるが、流麗なリズムの中に、斬新な趣向があるといわれる。
このように宋代の書表現は、自由と個性とを中心としたものであった。
それに対して、元代の書は復古主義に戻ったといわれる。元代の趙子昴は典雅な書をかいた。彼は古人の筆跡を慕い、王羲之の書の伝統が唐の中葉以降かき乱され、宋人の書が放縦にして弊が多いのを見て、晋唐への復古を志した。その代表作「行書千字文」は温雅寛博、円熟に達した書であるといわれている。日下部鳴鶴は、「規矩を自然にし、雄奇を清穆に寓す」と評した。平山は、「まさに典雅の賓辞にふさわしい手跡というべきである」と称賛している。
さて、明代にはいっても、書流としては晋唐を目標にし、そこから脱するところまでは行かなかった。その中で董其昌は軽妙で円熟した書をかいた「項元汴墓誌銘」は、行書を交えた楷書で、遒媚にして暢達、当代第一の大家たる気品があるといわれる。
彼は、元の趙孟頫の一派がもっぱら王羲之の形似を得ることに努めた行き方を退けた。そして晋人の書法に造詣の深い米芾や、晋人の精神を得た顔真卿に共感を示したようだ。概して董其昌の書は、枯淡、秀潤、率意の妙においてすぐれているといわれる。平山は、その範疇により、枯淡は蒼古、秀潤は流麗、率意は素朴の賓辞に近いものと理解している。
清代にはいっては、金石学の興起により、再び北朝の書風が復興される。とくに劉石庵と鄧石如が名高い。劉の「砂金箋」は豊潤でしかも気骨を内に蔵し、静かな情趣をたたえた典雅な書風は品格が高いと評される。鄧の「漢崔子玉坐右銘」は、篆隷を当世に生かしたもので、蒼古、渾厚の気がみなぎっていると平山は解説している(平山観月『書の芸術学』有朋堂、1965年[1973年版]、182頁~192頁)。
西川寧による中国の書に対する見解
西川寧は、1902年東京生まれで、書家の西川春洞の三男で、慶応大学文学部支那文学科を卒業し、文学博士で芸術院会員で、北京留学の経験があり、慶応大学名誉教授であった。つまり「慶応ボーイのスマートボーイ」「学者でインテリで、文章がうまく、いわば痩せたソクラテス」、そして“書道界の天皇”であるという。清代の趙之謙(ちょうしけん、1829-1884)に傾倒し、昭和の三筆の一人とされ、1989年に没した。
大溪は、西川に対する尊敬できる点として、次の2点を指摘している。
①結果的に実らなかったが、会津八一を日展に持ってこようとしたこと。
②西川の若い頃の「倉琅先生詩」は、趙之謙ばりで、すばらしい作品である。
ただ、西川が、書は「用」のために在るべきでないと主張し、「用」の無用論を唱え、その弟子が青山杉雨(さんう、1912-1993、大東文化大学教授)である。
中国と日本の書の相違点として、西川寧は次の諸点を指摘している。
①中国の書には根底に建築的な強い骨組があるが、日本の書はそれよりも装飾的なあるいは図案的な平面の調和ということに進みやすい。
②中国の書には深い瞑想的なものが表われているが、日本の書はむしろ叙情的な面に特色を出している。
③中国の書には個性的な体臭というものが強く表われているが、日本の書では、ものやわらかい感覚的な味を求めていく。
④華やかな面をとっても、中国の書には重厚で荘重なものがあるが、日本のは軽い優美さが目立っている。
⑤叙情的な面をとっても、中国の書は強い骨格と重厚な精神とに根ざす複雑なものがあるが、日本の書は軽妙な流れに乗った純粋さが目立つ。
料理に例をとると、中国料理は油っこいが、日本料理は淡白である。日本のは淡白の裏に材料の自然を生かして鋭い味覚に訴えるが、中国の料理は手のこんだ作り方で、色々の材料を綜合的にあつかって、その複雑な味は人間の味覚全体を包んでしまうという。これは、中国の芸術の特色と全く同じであると西川寧は考えている。
もう一歩進めて考えた場合、中国の書は広い意味での論理主義を基礎とし、日本のは直観主義に立っていると西川はいう。これは民族性の違いや風土的な特色でもあり、書のみならず、絵画でも文学でも、この違いがある。
また、日本の優美さや純粋さにはいい所があるが、骨格の弱さや構成力の弱さ、あるいは人間的な深い心がとかく忘れがちになって、味や情緒におぼれやすい所は大きな弱点であると指摘している。西川は、作家の立場としては、この点に注意して、常に中国の書の研究につとめていると述べている(西川寧『書の変相』二玄社、1960年[1973年版]、227頁~228頁)。
【補足】行書の起源と完成について
一般的推論として、古文から篆隷が生まれ、隷書から楷書、楷書の速書きから行書、行書の略化から草書が生まれたであろうということになっていた。しかし20世紀になって漢代の木簡が楼蘭で発見され、この説はくつがえってしまった。
楷、行、草の三体はいずれも漢代に萌芽して漢末には完成していたが、その成立の順序は、草、行、楷と考えられるようになった。
この点を詳述すると次のようになる。漢代の隷書の特長は「曹全碑(そうぜんひ)」のように、横画の終筆を右にはね、のびのびとした流麗な波勢を長くつくっていることにある。隷書をより平易に便利に速く書きたいという要求から略化が進み、草体が生まれていった。木簡の資料が示すように、一字一字独立したいわゆる章草(しょうそう)とよばれる草書が前漢時代にすでにできていた。これは隷書の波勢をまだ残していた。これがさらに波勢を省略して下に続ける工夫が重ねられて、後漢の初めには今日の草書が確立された。
行書の成立は草書よりずっと遅れているが、漢末には完成している。行書も隷書を簡易にしたものといわれている。楷書は行書よりさらに遅れて、漢隷が波勢を失って次第に楷書の姿をあらわしたのは、漢末から三国時代のころであると考えられるようになった。
ともあれ、行書は書をより速く、より書きよく、より能率的なものにしたいという実用上の要求から、点画を続けたり、省略したり、時には筆順を変化させたりして、できあがった書体である。
たとえば、点画が省かれる場合、「雲」や「草」という字では、「雨」の左右の点や「くさかむり」を二つの点にしたり、「然」や「馬」などでは点を三つにしたり、ときには一本の線にしたりする場合がある。
行書・草書の筆順について補足しておくと、たとえば、「禾(のぎへん)」は、楷書では縦画は第三画であるが、行書では第一画からすぐ縦画に続き、その終筆から横画に続くように書く。そのほうが上から字が続いてきたときに縦の流れが出るし、また速く書け、しかも自然なのである。このように行書では筆順が変わる。
草書になると、点画の省略がいっそう激しくなり、形そのものが変わってしまう。たとえば、「人偏(にんべん)」「彳(ぎょうにんべん)」「氵(さんずい)」「言(ごんべん)」はみな同じ形に書かれる。このように、草書では部首の扁(へん)や冠(かんむり)などのほとんどが、何種類のものを同じ形に書く。
たとえば、唐の孫過庭の撰書として「書譜」がある。これは草書の経典であるばかりでなく、その内容の書論は、六朝以来の諸家の書論を集大成したものである。その「書譜」の中の「断可極於所詣矣」の部分について、「詣」の字は、「臨」とか「治」とかいろいろ読まれている。この点、松井如流は「孫過庭考」において、ヘンは言ベンで、「詣」が正しいものとみなしている。その理由は、「書譜」の中に散水を棒のように書いたものはなく、また「臨」と見ることは無理があると主張している(松井如流『中国書道史随想』二玄社、1977年、193頁、204頁~205頁)。
ところで、隷書や楷書は一点一画を幾何学的に組み立てているので、厳正な整斉美を感じさせる。だから、行書や草書のような流動の美はあまりあらわれない。行書はすらすらと続けて書くから、筆脈が自然に紙面にあらわれ、点画や形に円味が多くなって、自由さと流麗さが加わり、流動感の強いものになっている。
漢代に萌芽して漢末には定形化したと思われる行書は、六朝時代になって、書聖・王羲之の出現によって、完成をとげるにいたった。王羲之は楷行草の完全な普遍的様式化に心血をそそぎ、端正典雅な書風を樹立した。その貴族的気品の高さは、宮廷を中心に中国の人々に愛され、日本においても書法の典型として今日に及んでいる。
王羲之の行書としては、「蘭亭序」、唐の僧懐仁が王羲之の書を集めてつくった「集字聖教序」、そして「興福寺碑」が名高い。「集字聖教序」は、行書の基本的用筆を理解するための千古極則であるといわれる。
行書の古名蹟を見ると、それなりの特徴をもっている。王羲之の「蘭亭序」は、背勢ですっきりとして清冽(せいれつ)そのものであり、唐の顔真卿の「争座位稿」は、向勢で素朴剛健、情熱がほとばしっているといわれる。また唐の太宗の「温泉銘」や「晋祠銘」になると、博大敦厚、悠々としてせまらざるものがあると評せられる(上條信山『現代書道全書 第二巻 行書・草書』小学館、1970年[1971年版]、12頁~13頁、19頁、26頁)。
【補足】つづけ書きについて
よいつづけ書きは、一行の下部がだんだん右の方へ流れるという。それはすぐれた筆者のばあい、文字と文字のつづけかたに無理がないからだといえる。
行頭から行末へすすむ(おりる)にしたがって、右へ流れる運筆の例は、漢字ならば、王羲之の「喪乱帖」、空海の「風信帖」の行書書簡などがある。
とくに日本のかな書道は連綿性がきわだっている。伝紀貫之「寸松庵色紙」や伝小野道風「継色紙」の流れが下部におりるにしたがって特別右寄りになっていることは有名である。
「つづけ書き」(連綿)が、いかに正確に右流れに傾斜して運筆されるものであるかがわかる(駒井鵞静『つづけ字の知識と書きかた』東京美術選書、1990年、270頁~273頁)。
【補足】行書上達のための筆の持ちかた
鉛筆の持ちかたは、中指がうしろ側で鉛筆の軸を支えているが、だいたい人差し指と親指で、文字を書く鉛筆の執りかたである。人差し指と、親指は器用すぎるくらい発達していて、その分、あとの三本の指(中指・薬指・小指)が、かなり鈍くなっている。本当の毛筆感覚というものは、体の中にある。それを育てるためには、中指や薬指たちの後れをとりもどすことが先決である。手首を折り、折った手首の下部を用紙の上に置き、中指と薬指で文字を書く。人差し指と親指は上の方で軸の安定を助ける程度のはたらきをするだけである。
大切なことは、手首を折ることとともに、親指の先を上の方に向けることである。手首をきちんと屈折させ、働いているのは、中指・薬指である。体の感覚で書くことが重要である。指先だけのわるい持ちかたで、カチカチになって執ったのでは、鉛筆であろうと筆であろうと、百年練習したって同じことであると駒井はいう(駒井鵞静『つづけ字の知識と書きかた』東京美術選書、1990年、253頁~257頁)
《参考文献》
【論文】
・田淵保夫「中唐における革新派懐素の書とその周辺―書道史上よりみた―」『立正大学文学部論叢』53号、1975年
・松永恵子「中晩唐から北宋中後期に至る「狂草」評価の変遷」『書学書道史研究』第15号、2005年
・承春先「漢字草書における「連綿」現象再考」『学苑・文化創造学科紀要』第829号、2009年
※これらの論文は、ネットで閲覧できる。興味のある人は検索して頂きたい。
【著作】
平山観月『新中国書道史』有朋堂、1965年[1972年版]
平山観月『書の芸術学』有朋堂、1965年[1973年版]
伏見冲敬『書の歴史 中国篇』二玄社、1960年[2003年版]
鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』日本習字普及協会、1996年[2010年版]
石川九楊『書とはどういう芸術か』中公新書、1994年
石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年ⓐ
石川九楊『書と文字は面白い』新潮文庫、1996年ⓑ
石川九楊『書を学ぶ―技法と実践』ちくま新書、1997年
石川九楊編『書の宇宙6 書の古法<アルカイック>王羲之』二玄社、1997年
石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年
石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年
石川九楊『書と日本人』新潮文庫、2007年
石川九楊『万葉仮名でよむ『万葉集』』岩波書店、2011年
神田喜一郎ほか編『書道全集』(平凡社刊、1965年~1968年、中国篇、全15冊、別巻2冊、計17冊
神田喜一郎『墨林閒話』岩波書店、1977年[1978年版]
神田喜一郎『中国書道史』岩波書店、1985年
松井如流『中国書道史随想』二玄社、1977年
鈴木史楼『百人一書―日本の書と中国の書―』新潮選書、1995年[1996年版]
鈴木史楼『書のたのしみかた』新潮選書、1997年[1998年版]
会津八一『会津八一書論集』二玄社、1967年[1983年版]
本田春玲『百万人の書道史―日本篇』日貿出版社、1987年
西川寧編『書道』毎日新聞社、1976年
西川寧編『書道講座 第二巻 行書』二玄社、1971年[1980年版]
青山杉雨「行書の歴史」(西川、1971年[1980年版]所収)
青山杉雨『書の実相―中国書道史話』二玄社、1982年
青山杉雨『明清書道図説』二玄社、1986年
西川寧『書の変相』二玄社、1960年[1973年版]
西川寧『書というもの』二玄社、1969年[1984年版]
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