歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その6≫

2020-11-23 17:29:03 | 私のブック・レポート
≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その6≫
(2020年11月23日投稿)

【西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』はこちらから】

二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む



【はじめに】


 「モナ・リザ」はなぜルーヴル美術館にあるのか?
 それは、フランス・ルネサンスを開花させたフランソワ1世が入手したからである。
 もう一歩踏み込んで、フランソワ1世はどのようにして「モナ・リザ」を獲得したのかという問いになると、不明が部分が多いことがわかる。
 19世紀後半のウォルター・ペイター氏のように、フランソワ1世がレオナルド・ダ・ヴィンチを招聘して以来、その陳列室にあったという前提で論を進める人もいる。また、レオナルドの遺言執行人メルツィから、フランソワ1世が買い上げたと考える人もいる(この見解は、後述のように、西岡文彦氏の旧著『二時間のモナ・リザ』(河出書房新社、1994年)においてとられていたが、新著『謎解きモナ・リザ』(河出書房新社、2016年)では修正されている)。

 しかし、1990年代初頭に、サライに関する新たな史料が発見され、フランソワ1世が「モナ・リザ」を買い上げた経緯について、研究が進められてきた。
 この問題について、どのように考えたらよいのか。
 今回のブログでは、私の手元にある文献を通して検討しておきたい。
 具体的には、ダイアン・ヘイルズ氏、ツォルナー氏、サスーン氏、スカイエレーズ氏の著作に述べられた箇所を抽出して、この問題を整理してみた。

 取り扱う文献は、次のものである。
〇西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』河出書房新社、1994年
〇西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社、2016年
〇Dianne Hales, Mona Lisa :A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014.
〇ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳) 『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年
〇Frank Zöllner, Leonardo Da Vinci 1452-1519, TASCHEN, 2000.
〇フランク・ツォルナー『レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452-1519』タッシェン・ジャパン、2000年
〇Donald Sassoon, Mona Lisa :The History of the World’s Most Famous Painting,
Harper Collins Publishers, 2002.
〇セシル・スカイエレーズ(花岡敬造訳)『モナリザの真実――ルーヴル美術館公式コレクション』日本テレビ放送網株式会社、2005年
〇Walter Pater, The Renaissance :Studies in Art and Poetry, Dover Publications, INC., 1893[2005].
〇ウォルター・ペイター(富士川義之訳)『ルネサンス 美術と詩の研究』白水社、2004年

※なお、英文の洋書の原文を掲げるので、好学の士に、このブログが「モナ・リザ」探究の“水先案内”の役割を果たせれば、幸いである。
※また、洋書の注釈に掲げられた論文・著作については、筆者は未見であることをお断りしておく。



さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・『モナ・リザ』とフランソワ1世との関係 西岡文彦氏の著作から
・『モナ・リザ』とフランソワ1世との関係 ダイアン・ヘイルズ氏
・『モナ・リザ』とフランソワ1世との関係 ツォルナー氏
・『モナ・リザ』とフランソワ1世との関係 サスーン氏
・『モナ・リザ』とフランソワ1世との関係 スカイエレーズ氏
・ウォルター・ペイター氏によるフランソワ1世とレオナルドの関係の捉え方






『モナ・リザ』とフランソワ1世との関係 西岡文彦氏の著作から



西岡文彦氏は、『二時間のモナ・リザ――謎の名画に全絵画史を読む』(河出書房新社、1994年)において、次のように述べていた。

「レオナルド本人にも、『モナ・リザ』にも未見に終わったヴァザーリだが、レオナルドの死を看取った晩年の弟子フランチェスコ・メルツィには会っている。
メルツィは、レオナルドの最も忠実な弟子であり、師の遺言により、膨大な手記のすべてと絵画と素描(デッサン)全点を贈られている。フランソワ一世は、このメルツィから『モナ・リザ』を買い上げている。」
(西岡文彦氏『二時間のモナ・リザ――謎の名画に全絵画史を読む』河出書房新社、1994年、85頁)

この引用にあるように、当初、西岡氏は、フランソワ1世がメルツィから『モナ・リザ』を買い上げたと解説していた。

ところが、ブログ≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その4≫(2020年11月1日投稿)の「弟子サライと『モナ・リザ』 の売却」でも補足したように、弟子サライが『モナ・リザ』を売却していたとする。
すなわち、『謎解きモナ・リザ』(河出書房新社、2016年)の「6 美少年サライの謎」の中の「モナ・リザは売られていた!」(112頁~117頁)という節では、弟子サライが『モナ・リザ』をダ・ヴィンチの生前に売却していたという。その要点を記しておく。

〇サライのダ・ヴィンチへの弟子入りは、10歳の時であったという。
・当時、38歳のダ・ヴィンチが、本名ジャン・ジャコモ・デ・カプロッティというこの美少年に付けたあだ名がサライであった。当時の騎士道物語『モルガンテ』に登場する小悪魔サライにちなんでの命名という。
以降、サライは、その盗癖、遊蕩癖にもかかわらず、ダ・ヴィンチの晩年に至るまでの20余年にわたって、寛大な保護を受けている。
・ダ・ヴィンチがフランスに向かった際には、行方をくらました。それにもかかわらず、サライは最晩年の巨匠の周辺に再び姿を現している。師の遺言状はサライに葡萄園の権利を与えている。

〇近年の研究によれば、『モナ・リザ』はダ・ヴィンチの生前すでに、このサライの手に渡っていた可能性が大きいとされている。
・従来、この絵は、画家最愛の作として終生手元に置かれ、ダ・ヴィンチの死によってフランス王室に遺贈されたことになっていた。
・ところが、近年、フランス王室文書の中に、サライに対する莫大な金額の支払い記録が発見され、この定説は崩れ去ってしまう。
・支払い名目は絵画代金となっている。その代金は、ダ・ヴィンチがフランス王室の庇護下にあった3年間の俸給の金額に匹敵する巨額であった。
⇒この巨額に匹敵する絵画といえば、『モナ・リザ』以外には考えられない。

〇支払いは、ダ・ヴィンチの死の前年のことである。
⇒従来から謎となっていたダ・ヴィンチの遺言状に、『モナ・リザ』の記述がないことにも説明がつく。
(つまり、遺言状を書いた時点で、『モナ・リザ』はダ・ヴィンチの手を離れていた)
・ダ・ヴィンチが老いを深めるにつれ、フランス王室は、この絵が遺言によって弟子に遺贈されることに対する懸念を抱き始めていたという。
・サライはその王室の懸念を知って、ダ・ヴィンチの自分に対する溺愛につけ込むかたちで、師の生前にこの絵を獲得することに成功し、フランス王室に売り払っていた可能性が大きいという。

(もしサライでなく、ダ・ヴィンチを看取った弟子メルツィにこの絵が遺贈されていたならば、『モナ・リザ』はフランス王室には売却されず、祖国イタリアに持ち帰られたことは、ほぼ確実であろうと西岡氏も考え直している。
メルツィはダ・ヴィンチから遺贈された膨大な手記をすべて祖国に持ち帰り、生涯をその整理と保管に捧げている)

〇サライのフランス滞在が極端に短いことも、以上の推測を裏付けているという。
・サライは『モナ・リザ』の獲得と販売に必要と思われる程度の期間のみ、師匠のいるフランスに渡っていたとする。

〇フランス王室の秘宝『モナ・リザ』は、ダ・ヴィンチが弟子サライに、いわば生前贈与として与えた遺作であり、早々に現金化されてしまったせいで、フランソワ1世の所蔵となったとベルトラン・ジェスタ氏とセシル・スカイエレーズ氏は結論づけている。

〇美術史学者ベルトラン・ジェスタ氏は、フランス王室文書にサライへの支払い記録があることを発見した。ジェスタ氏は、ルーヴル一画にあるエコール・ド・ルーヴル、つまりルーヴル美術学院の教授で、ルネッサンス研究の権威として知られる。

〇この発見の詳細については、セシル・スカイエレーズ氏の『モナリザの真実』(花岡敬造訳、日本テレビ放送網株式会社)という著書で読むことができる。
・スカイエレーズ氏は、ルーヴル美術館絵画部門の主任研究員で、20年来の『モナ・リザ』の主席学芸員でもある。
・なお、『モナリザの真実』は、ルーヴル美術館とフランス国立美術館連盟による共同出版で、ルーヴルの各部門の学芸員が担当分野の論文を発表するシリーズの1冊である。いわば、『モナ・リザ』の公式書籍に近い本である。
・『モナリザの真実』は、ルーヴル美術学院の教授ジェスタ氏と『モナ・リザ』の主席学芸員スカイエレーズ氏が、この絵をめぐるドラマを解き明かした著書であり、その権威とは裏腹に、衝撃的な新事実を教えてくれると西岡氏も推奨している。
(西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社、2016年、112頁~117頁)

【西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社はこちらから】

謎解きモナ・リザ (河出文庫)


『モナ・リザ』とフランソワ1世との関係 ダイアン・ヘイルズ氏



さて、それでは、『モナ・リザ』をフランソワ1世が所有するに至った経緯について、ダイアン・ヘイルズ氏、ツォルナー氏、サスーン氏、そしてスカイエレーズ氏の諸氏はどのように考えているのであろうか。改めて検討してみたい。

まず、ダイアン・ヘイルズ氏は次のように叙述している。

「レオナルド・ダヴィンチの遺品には、また別の問題があった。正式に依頼された宮廷芸術家が死亡すると、その人の作品は、普通はパトロンが所有する。ところがフランソワ1世はレオナルドに、彼が選んだ人ならだれでも遺言に従って彼の所持品を譲渡できる例外的な権利を与えていた。レオナルドは、ノートや絵などを助手のメルツィに与え、家屋と庭園は彼がかわいがっていたサライに、カネは異母兄弟たちに、さまざまな召使いたちに贈りものも残した。
 「モナ・リザ」を含む何点かの絵画は、しばらくサライの手元にあったらしいが、5年後の1524年にイタリアで起こった暴動によって、サライは殺されてしまう。1990年代のはじめにミラノの史料館で発見された遺言検認の目録には、レオナルドのオリジナルないしみごとな模写12点の絵がサライの所有と記載されている。筆記者は最初、肖像画の一つを「ラ・ホンダ」と書いていたが、これを消して「ラ・イオコンダ」(ラ・ジョコンダのミラノの綴り)と書き直している。レオナルドのモデルが「ジョコンダ夫人」であるという、もう一つの証拠だ。
 おそらくその肖像画をひと目見たときから欲しがっていたに違いないフランソワ一世は、どのような対価を払ってでも「彼女」を手に入れたいと思っていた。彼は、目もくらむほどの金額を払った。推定では1万2000フラン、今日の1000万ドルに相当する額だ。」
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、303頁~304頁)

【ダイアン・ヘイルズ『モナ・リザ・コード』はこちらから】

モナ・リザ・コード

原文には次のようにある。
Leonardo da Vinci’s estate presented different problems. When an offi-
cial court artist died, his works usually went to his patron. However, King
Francis had granted Leonardo a special exemption allowing him to be-
queath his possessions to whomever he chose. The artist left his note-
books and drawings to his assistant Melzi, a house and garden to his
cherished Salai, money to his stepbrothers, and gifts to various servants.
Several paintings, including the Mona Lisa, may have ended up with
Salai, who was killed in a violent altercation in Italy in 1524, just five years
after his maestro’s death. A probate inventory, discovered in the Milan
archives in the early 1990s, listed twelve paintings in Salai’s possession,
either Leonardo originals or excellent copies. A scribe initially identified
one of two women’s portraits as “La Honda”, but then crossed this out
and wrote “La Ioconda” (the Milanese spelling of La Gioconda) ―― another
possible confirmation of “the Giconda woman” as Leonardo’s model.
King Francis I, who had probably coveted the portrait from first sight,
wanted “her” at any price. He paid a staggering sum: an estimated 12,000
francs, the equivalent of almost $10 million today.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p216.)

【Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discoveredはこちらから】

Mona Lisa: A Life Discovered


【単語】
estate    (n.)財産、遺産
grant    (vt.)許す、授与する
exemption  (n.)免除
bequeath   (vt.)(後世に)伝える、(動産・金を遺言で)遺贈する
cherish   (vt.)かわいがる、育てる →cherished (a.)大事にしている
stepbrother (n.)異父[母]兄弟 ←step- (prep.)「腹違いの、まま…」の意
end up    ついには(~することに)なる、最後には~に入ることになる
altercation  (n.)口論
maestro   (イタリア語)巨匠
probate  (n., a.)遺言検認(の)、(検認ずみ)遺言書の写し (vt.)(遺言書を)検認する
inventory  (n.)財産目録
scribe    (n.)書記、筆写人
initially    (ad.)最初に
cross out   線を横に引いて消す(特に誤りや知られたくない箇所を削る場合)
confirmation  (n.)確定、確認
covet     (vt., vi.)(他人のものを)ひどく欲しがる
staggering   (a.)よろめく[かせる]、びっくりさせる
equivalent  (n., a.)同価値の、相当する物


ヘイルズ氏の要点を箇条書きにしておこう。
〇フランソワ1世は、レオナルドに、遺言に従って所持品を譲渡できる権利を与えていた
〇「モナ・リザ」を含む絵画は、しばらくサライの手元にあったらしい
〇レオナルドの死後5年経った1524年に、サライは殺されてしまう
〇1990年代のはじめにミラノで発見された遺言検認の目録には、レオナルドの12点の絵がサライの所有と記載されている
〇筆記者が肖像画の一つを「ラ・イオコンダ」(ラ・ジョコンダのミラノの綴り)と書き直していることは、レオナルドのモデルが「ジョコンダ夫人」であることの証拠となりうる
〇フランソワ1世は、その肖像画を是非とも欲しがり、推定1万2000フランを支払った

ヘイルズ氏は、BIBLIOGRAPHYに、次の参考文献を載せている。
〇Sassoon, Donald. Becoming Mona Lisa. New York: Mariner Books, 2003.
――――. Leonardo and the Mona Lisa Story. New York: Overlook Press, 2006.
――――. “Mona Lisa : The Best-Known Girl in the Whole Wide World.” History Workshop Journal, no.51 (2001): 1-18.
なお、シェルとシローニの論文は、レオナルドの作品「チェチーリア・ガッレラーニ」に関する論文を載せている。
〇Shell, Janice, and Grazioso Sironi. “Cecilia Gallerani: Leonardo’s Lady with an Ermine.”
Artibus et Historiae 13, no.25 (1992): 47-66.

(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p299.)

『モナ・リザ』とフランソワ1世との関係 ツォルナー氏



ツォルナー氏は、「レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯と作品」と題して、レオナルドの年譜を巻末に載せている。
その中に、1520年代から1530年代にかけての事蹟について次のように記している。

1520-1530 レオナルドの愛弟子フランチェスコ・メルツィは、師から相続した手稿を整理し、重要な箇所を抜粋し、いわゆる『絵画論』にした。これは実践、理論両面における画家の手引き書であった。
もう1人の弟子ジャコモ・サライは、レオナルドの絵画の大半を相続した。1525年、サライがミラノで非業の死を遂げた後、≪聖アンナと聖母子≫、≪洗礼者ヨハネ≫、≪レダと白鳥≫、≪モナ・リザ≫、ある1点の肖像画と≪聖ヒエロニムス≫が彼の元にあったことが明るみとなる。
1530年代初頭、フランス王がこれらの絵画の数点を獲得したらしい。それらは、今日でもパリのルーヴル美術館が所蔵している。
(フランク・ツォルナー『レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452-1519』タッシェン・ジャパン、2000年、94頁)。

ここでの要点は次のことである。
〇弟子ジャコモ・サライは、レオナルドの絵画の大半を相続した
〇1525年、サライがミラノで非業の死を遂げた
〇≪聖アンナと聖母子≫、≪洗礼者ヨハネ≫、≪レダと白鳥≫、≪モナ・リザ≫、ある1点の肖像画と≪聖ヒエロニムス≫がサライの元にあった
〇1530年代初頭、フランス王がこれらの絵画の数点を獲得したらしい

ちなみに、原文には次のようにある。
1520-1530 Leonardo’s friend and pupil Francesco Melzi puts in order the manuscripts he has
inherited from his master, and from the most important of these, compiles the so-called Trea-
tise on Painting, a collection of practical and theoretical instructions for painters. Another
pupil, Giacomo Salai, inherits the bulk of the paintings. On the violent death of Salai in Milan
in 1525, his estate is found to contain the Virgin and Child with St. Anne, St. John the Baptist,
Leda and the Swan, the Mona Lisa, another portrait and a painting of St. Hieronymus. It was
probably not until the early 1530s that the King of France acquired some of these paintings,
which are still to be seen in the Louvre today.
(Frank Zöllner, Leonardo Da Vinci 1452-1519, TASCHEN, 2000, p.94.)

【単語】
treatise  (n.)論説、論文
estate   (n.)財産、遺産
St. John  (n.)聖ヨハネ
the Baptist  洗礼者ヨハネ(John the Baptist) baptist (n.)洗礼をする人
St. Hieronymus 聖ヒエロニムス(347年頃~420年頃) アンブロシウスと併称される初代ラテン教父。ラテン教会四大博士の一人。
acquire  (vt.)得る、獲得する

【Frank Zöllner, Leonardo Da Vinci 1452-1519, TASCHENはこちらから】

Leonardo da Vinci: 1452-1519: Artist and Scientist (Basic Art 2.0)


【ツォルナー『レオナルド・ダ・ヴィンチ』タッシェン・ジャパンはこちらから】


ダ・ヴィンチ NBS-J (タッシェン・ニュー・ベーシック・アート・シリーズ)

『モナ・リザ』とフランソワ1世との関係 サスーン氏



次にサスーン氏が、『モナ・リザ』とフランソワ1世との関係について、どのように考えているのかを考えてみよう。

In 1991 two scholars, Janice Shell and Grazioso Sironi, advanced
a new hypothesis based on their discovery of the inventory of
Andrea Salai (whose real name was Gian Giacomo Caprotti),
Leonardo’s assistant, adoptive son, perhaps lover. They claim that
this find confirms the identification of the Mona Lisa with Lisa
Gherardini and the date of its creation. They suggest that the
Mona Lisa did not remain in France after Leonardo’s death, but
returned to Italy and was subsequently brought back to France.
This scholarly essay, like most things concerned with the Mona
Lisa, made press headlines, including one in the Observer of 27
January 1991: ‘Smile on, Gioconda it really was you’. As the two
authors point out, what happened to the Mona Lisa after Leo-
nardo’s death is uncertain. It was assumed that Francesco Melzi
had inherited it. According to Leonardo’s will (of which we only
have a nineteenth-century transcription), Melzi was to be Leo-
nardo’s executor and receive his books and effects. Salai, who
had subsequently married, was killed by French soldiers in Milan
on 19 January 1524, perhaps after a brawl. He left no will, so an
inventory of his personal effects was made on 21 April 1525 when
a dispute arose over the property. The inventory included a sur-
prisingly large number of pictures: a Leda with Swan, a St Jerome,
a St Anne, a Virgin with Child, a ‘Joconda’ and many others.
Were these Leonardo’s works? Leonardo was not mentioned, but
the generous values given to the paintings suggest that perhaps
they were not thought to be mere copies: the Leda was estimated
to be worth 1,010 lire, nearly as much as Salai’s house; the
‘Joconda’ was worth 505 lire, as was the St Anne. It could be a
precious clutch of Leonardos. Perhaps Leonardo had given them
to Salai before his death.
If Shell and Sironi are right, and the ‘Joconda’ mentioned in
the inventory is in fact the Mona Lisa, it could mean that the
portrait was taken back to Italy by Salai and was later bought by
agents sent by François to scour Italy in the 1530s and 1540s for
artwork to buy. Of course, it is equally possible that Salai made
copies of paintings by Leonardo, and that these were taken to be
authentic by those who made the inventory in Milan.
(Donald Sassoon, Mona Lisa :The History of the World’s Most Famous Painting,
Haper Collins Publishers, 2002. pp.28 -29.)

【Donald Sassoon, Mona Lisa :The History of the World’s Most Famous Painting,
Harper Collins Publishersはこちらから】

Mona Lisa :The History of the World's Most Famous Painting (Story of the Best-Known Painting in the World)

【単語】
hypothesis  (n.)仮説
inventory   (n.)財産目録
adoptive   (a.)養子関係の
confirm   (vt.)確認する、承認する
identification (n.)同一であることの証明、同一視、識別
subsequently  (ad.)後に
uncertain   (a.)不確かな、疑わしい
assume    (vt.)思う、推量する
inherit    (vt., vi.)相続する、受継ぐ
transcription  (n.)転写、写本、写すこと
executor    (n.)指定遺言執行人
effect    (n.)効果 (pl.)動産、所有物
brawl    (n., vi.)口論[けんか](する)
property   (n.)財産、所有物
surprisingly  (ad.)驚くほど
St Jerome  聖ヒエロニモ(347?-420?) ラテン語名Eusebius Hieronymus キリスト教修道士・聖書学者。聖書のラテン語訳を20年かけて完成。
mention   (vt.)言及する、陳述する
generous  (a.)寛大な、豊富な
suggest   (vt.)暗示する、ほのめかす
estimate   (vt., vi.)見積る、概算[評価]する
lire     liraの複数 リラ(イタリアの旧貨幣単位)
clutch    (n.)つかむこと、群
agent    (n.)行為者、代理人、周旋人
scour    (vi., vt.)急いで捜し回る、あさり歩く、疾走する
artwork    (n.)芸術品、[集合的に]絵画
authentic   (a.)確実な、本物の、権威ある

サスーン氏の叙述の大意は次のようなものである。
〇シェルとシローニは、1991年に発見されたサライの財産目録をもとに、「モナ・リザ」とリザ・デル・ジョコンドが同一視できること、その制作年代が確認できるという仮説を提示した。

〇「モナ・リザ」はレオナルドの死後、フランスに残ったのではなく、一度イタリアに戻り、後にフランスに帰したと示唆した。

〇レオナルドの死後、「モナ・リザ」がどうなったかについては、不確かである。フランチェスコ・メルツィがそれを相続したと考えられていた。レオナルドの遺言によれば、メルツィがレオナルドの遺言執行人で、その書物や所有物を受け取ることになっていた。

〇サライは、後に結婚し、けんかがもとで1524年1月19日にミラノでフランス人兵士により殺害された。
遺言はなかったが、1525年4月21日に財産目録が作成された。その中には、次のような絵画が含まれていた。
「レダと白鳥」「聖ヒエロニムス」「聖アンナと聖母子」「ジョコンダ」
 これらはレオナルドの作品だったのか。レオナルドは言及していないが、単なる複写とは考えられない。
 ・「レダ」は1010リラ(サライの家とほぼ同額)
 ・「ジョコンダ」は505リラ(「聖アンナと聖母子」と同額)
 おそらくレオナルドは死の前にサライに与えていた。

〇もしシェルやシローニが正しく、財産目録で言及された「ジョコンダ」が「モナ・リザ」であるならば、その肖像画はサライによってイタリアに持ち帰られ、1530年代そして1540年代にイタリアで捜し出されて、フランソワ王の代理人によって買い上げられたことを意味している。

〇もちろん、サライがレオナルドの絵画を複写したりした。これらがミラノでの財産目録作成者によって本物とみなされたということもありうる。


『モナ・リザ』とフランソワ1世との関係 スカイエレーズ氏


スカイエレーズ氏は、その著作『モナリザの真実』(花岡敬造訳、日本テレビ放送網株式会社、2005年)の「ジョコンダとグァランダ(La Gioconda et la Gualanda)」の章の中に、「サライ 1518年にレオナルドとフランソワ1世を仲介 「モナリザ」の売買にまつわる秘密(Salaï, courtier entre Léonard et François 1er en 1518 Le mystérieux achat de La Joconde)」と題して、スカイエレーズ氏は論じている。

まず、次のような問題提起をしている。
「1507年頃に未完のまま終わり、1547年にはじめてフォンテーヌブロー城に姿を現すまでの間、「モナリザ」はどこにあったのだろうか」と。

アントニオ・デ・ベアティスの書いたものに、その運命を知る手がかりはないようだ。
だが、最近になって、サライに関するふたつの文書が見つかった。
発見されたサライに関する文書によって進展したのは、肖像画のモデルの身元探しなどの問題ではなく、フランソワ1世による絵画購入の経緯である。

①ひとつめの文書には、1518年に当時のミラノ公爵つまりフランソワ1世その人が、サライに対し途方もない大金を支払ったことが記されている。
金額はトゥール硬貨の2604リーブル4ソル4ドニエ(神聖ローマ帝国の金貨で6250リーブル)で、「サライから王に渡された、数枚の絵画の代償として」とある。(注73)

(注73)Paris, Archives nationales, J.910, fasc.6.
これは、B.ジェスタの論文«François 1er , Salaï et les tableaux de Léonard »(Revue de l’Art, no 126, 1999-4, p.68-72)において、研究・発見されたとある。
(スカイエレーズ(花岡敬造訳)、2005年、117頁)

どの絵画が取り引きされたのかは書かれていないが、稀に見る莫大な金額である。フランソワ1世がレオナルドに渡した3年間の年金とほぼ等しい。
この文書を見つけて公表したベルトラン・ジェスタ氏が言うように、サライとレオナルドの近しい関係を考えると、取り引きされた絵画は巨匠レオナルドのものだと考えるほかないとスカイエレーズ氏もみている。

②どの絵画かについては、おそらく2番目の文書の中にあるとされる。
それは、1525年4月21日にミラノで作成されたサライの遺産目録の絵画リストである。(注74)

(注74)Milan, Archivio di Stato.
 この文書は、ShellとSironiにより、発表され、研究された。
 (J. Shell and Gr. Sironi, « Salaï and Leonardo’s Legacy », The Burlington Magazine, CXXXIII, février 1991, p.95-108.)

“Imaginem Ioconde Figuram”を含むこれらの絵画のうちのいくつかは、サライの姉妹のLorenziola Caprottiの債権者であるGerolamo da Sormanoの代理人のAmbrogio Vimercateが抵当として保管していた。
(E. Villata, Leonardo da Vinci, I documenti e le testimonianze contemporanee. Ente Raccolta Vinciana, 1999, s.p. nos 347-348.
ShellとSironiがそう考えたように、これらの絵画がオリジナル作品であるとすると、フランソワ1世は1531年12月以降にLorenziola Caprottiからこれらの作品を購入しなければならなくなるが、これはまずありえない話だと、スカイエレーズ氏は(注74)において記している。
(スカイエレーズ(花岡敬造訳)、2005年、117頁)

サライの遺産目録の絵画リストの冒頭にあげられた4枚は、作者名こそ入っていないものの、「レダ」「聖アンナと聖母子像」「ジョコンド」「洗礼者聖ヨハネ」となっている。
これらのタイトルやそのつながりは、すぐにレオナルドとむすびつく。その上、この4枚の評価額は飛びぬけて高く、その後に続く作品の算定額とは全く違うだけに、その感は一層強まる。

だが、サライはその7年前に、フランソワ1世に絵画を何枚か売っている。
それがレオナルドのものだと考えるのは理にかなっている。それでいてサライのもとには、1525年になって、なおレオナルドの絵が残っていたのだろうか。そしてその中に「モナリザ」もあったのだろうかと、スカイエレーズ氏は疑問をさしはさみ、あまり信憑性のない話だとする。

もしそうだとした場合、フランソワ1世のコレクションに収められた「レダ」「聖アンナと聖母子像」「モナリザ」「洗礼者聖ヨハネ」の4作品は、サライの死後、イタリアで手に入れられたと考えなくてはならない。
だが、1525年にそのような取り引きをするのは難しい。
というのもその年、フランソワ1世はスペインで俘虜となっていたからである。

このように、スカイエレーズ氏は推察して、「やはりレオナルドのオリジナル作品は、1518年にサライからフランソワ1世に渡ったに違いない」とみている。
そしてサライが持っていたのは、その精巧な複製だったという方が、ずっとありそうな話だとする。
遺産目録を読み進めれば、サライはかなりの財産を築いていることも分かり、そうするとそれは以前に売ったオリジナルの代金があったからこそだと考えている。

(この文書だけでは分からないのだが、この「レダ」「聖アンナと聖母子像」「ジョコンド」「洗礼者聖ヨハネ」と続く、模作と思われる作品のリストから逆に、サライがフランソワ1世に売った原画のリストを想像することも、不可能ではないと付言している)

ただ、いずれにしても、このリストのおかげで、1519年に作成されたレオナルドの遺言には、なぜこれらの作品についてなにも書かれていないか分かる。つまり、レオナルドの手元には、もうなかったのである。きっと既にサライに譲っていたのだろう。
そして、サライはそんな師匠の溺愛と、レオナルドの絵画を手に入れたいという王の望みを二重に利用して、いわば先渡しで与えられた遺産をすぐに現金化したようだ。
そもそもサライはフランスに短期間しか滞在していない。
(うがった見方をすれば、自分のするべきこと、つまり仲買人の役目を果たすにはぴったりの長さである)

そう考えると、ダン神父から始まった伝説、フランソワ1世は「モナリザ」を破格の高値で手に入れたという話の説明がつく。しかもこれはレオナルドの存命中のことだった。

最後に、サライ文書を発掘したジェスタ氏の文章を、スカイエレーズ氏は引用している。
「1518年はフランソワ1世にとってもっとも幸せな治世の時代だった。戦いに勝利を得た若き王は、気持ちに何の憂いもなく、ラファエロの絵画を献上されたり、買ったり、あるいはアンドレア・デル・サルトを呼び寄せたりして、芸術への愛を思う存分に示せたのだ」(注75)
(注75)B. Jestaz, «François 1er , Salaï et les tableaux de Léonard »(Revue de l’Art, no 126, 1999-4, p.71.)

(セシル・スカイエレーズ(花岡敬造訳)『モナリザの真実』日本テレビ放送網株式会社、2005年、35頁~36頁、117頁)

【スカイエレーズ『モナリザの真実』日本テレビ放送網株式会社はこちらから】

モナリザの真実―ルーヴル美術館公式コレクション


スカイエレーズ氏の議論をみると、「モナ・リザ」がフランソワ1世に買い上げられた経緯の問題を考える際のポイントとして、次のように考えると、よいのではないか。
①レオナルドの生前か死後か。
②サライの存命中か死後か
③「モナ・リザ」(ジョコンダ)のオリジナルか模作か
④フランソワ1世のおかれた歴史的状況

スカイエレーズ氏の見解はこうである。
「モナ・リザ」は、サライへの生前贈与という形で、サライの存命中に贈られ、1518年にフランソワ1世に売られていたとする。その時の「モナ・リザ」がオリジナル品で、サライの死後、1525年に作成された遺産目録にある「モナ・リザ(ジョコンド)」の方は模作であろうとスカイエレーズ氏は考えている。
なお、サライの死後、1525年に、フランソワ1世はスペインで俘虜となっていたので、「モナ・リザ」の取り引きをすることは難しかったと付言している。

このように考えると、1519年に作成されたレオナルドの遺言には、「モナ・リザ(ジョコンド)」などの作品について何も書かれていないことも分かるし、サライがフランスに短期間しか滞在していないことも説明がつく。

ウォルター・ペイター氏によるフランソワ1世とレオナルドの関係の捉え方



ウォルター・ペイター氏は、1869年、つまり19世紀後半においては、フランソワ1世がレオナルドをフランスに招聘して以降、『ラ・ジョコンダ』は、すでに王の陳列室に納められたと想定していた。
このことは、次の文章からわかる。

 France was about to become an Italy more Italian than Italy
itself. Francis the First, like Lewis the Twelfth before him, was
attracted by the finesse of Leonardo’s work; La Gioconda was
already in his cabinet, and he offered Leonardo the little
Château de Clou, with its vineyards and meadows, in the pleas-
ant valley of the Masse, just outside the walls of the town of
Amboise, where, especially in the hunting season, the court
then frequently resided. A Monsieur Lyonard, peinteur du Roy
pour Amboyse: ―― so the letter of Francis the First is headed. It
opens a prospect, one of the most interesting in the history of
art, where, in a peculiarly blent atmosphere, Italian art dies
away as a French exotic.
(Walter Pater, The Renaissance :Studies in Art and Poetry, Dover Publications, INC., 1893[2005]., p.85.)

【Walter Pater, The Renaissanceはこちらから】

The Renaissance: Studies in Art and Poetry

【単語】
attract  (vt.)引きつける、魅惑する
finesse  (n.)手腕、巧妙
cabinet  (n.)飾り棚、陳列室
Château  (n.)(フランスの)城、大邸宅、ブドウ園
vineyard  (n.)ブドウ園
meadow  (n.)牧草地
reside   (vi.)住む、存する
head    (vt.)[通例be headed]~に見出し[題名]がついている、(タイトルなどが)~の最初にある
prospect  (n.)眺め、見通し
peculiarly  (ad.)独特に、特に
blent   (v.)blend(混ぜる)の過去分詞
die away   次第に消え去る
exotic   (a.)外国の、異国風の (n.)外来の物

≪訳文≫
フランスは、イタリア自身よりもずっとイタリア風にいまやなりつつあった。フランソワ1世は、先王ルイ12世と同じく、レオナルドの作品の巧緻さ(finesse)に魅せられていた。≪ラ・ジョコンダ≫はすでに彼の陳列室に納められていて、彼はレオナルドに葡萄畑と牧草地付きのクルーの小さな館を提供した。そこはアンボワーズの町の城壁のすぐ外の、マス川の心地よい谷間にあって、とりわけ狩猟の季節には、宮廷がしばしばそこに移された。「アンボワーズの王室画家レオナルド殿へ」――とフランソワ1世の手紙に書き出されている。この手紙は、独特な混淆した雰囲気のなかで、イタリア芸術がフランスの外国趣味として絶えてゆくという、芸術史上で最も興味深いもののひとつである眺望を切りひらいて見せているのである。
(ウォルター・ペイター(富士川義之訳)『ルネサンス 美術と詩の研究』白水社、2004年、131頁)


【ウォルター・ペイター(富士川義之訳)『ルネサンス 美術と詩の研究』白水社はこちらから】


ルネサンス―美術と詩の研究 (白水uブックス)


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