歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その7≫

2020-12-06 16:05:49 | 私のブック・レポート
≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その7≫
(2020年12月6日投稿)



【はじめに】


 今回のブログでは、ドナルド・サスーン氏の洋書の内容のうち、ヴァザーリおよび「モナ・リザ」の記述を中心に紹介してみることにする。
〇Donald Sassoon, Mona Lisa :The History of the World’s Most Famous Painting,
Harper Collins Publishers, 2002.
とりわけ、ヴァザーリの「モナ・リザ」についての叙述、リザ・ゲラルディーニへの言及、レオナルドの死亡についての記述、その場面を描いたスイスの画家カウフマンについて、解説してみたい。



さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・ドナルド・サスーン氏について
・ヴァザーリの「モナ・リザ」についての叙述
・リザ・ゲラルディーニへのサスーン氏による言及
・ヴァザーリのレオナルドの死亡についての記述
・スイスの画家カウフマンについて






ドナルド・サスーン氏について


ドナルド・サスーン(1946~)氏は、イギリスの歴史家、作家、エッセイストである。
ロンドンのクイーン・メアリー大学の比較ヨーロッパ史の名誉教授でもある。

Wikipediaの「モナ・リザ」の項目にも、
「美術史家ドナルド・サスーンが、『モナ・リザ』の評価が高まっていく様子をまとめている」と記されている。
 その際の参考文献としては、次の論文が挙げられている。
 Sassoon, Donald (2001). “Mona Lisa : the Best-Known Girl in the Whole Wide World”.
History Workshop Journal (Oxford University Press) 2001.

ヴァザーリの「モナ・リザ」についての叙述


 そのサスーン氏の著作の中では、ヴァザーリについての叙述をみてみよう。

「モナ・リザ」に関するヴァザーリの叙述は、たぶん1547年に書かれた。レオナルドが死去してから28年が経っていた。フランチェスコ・デル・ジョコンドが死去してから8年経っていた。リザ・ゲラルディーニはまだ生きていた。
(ただし、リザは1542年に死去している)
ヴァザーリは、1524年と1550年との間に、時々フィレンツェに住み、メディチ家の宮殿に滞在した。そこはフランチェスコとリザの家から遠くない所であった。ヴァザーリが彼ら二人を知っており、彼らが著作の情報源だったことはありうる。
絵のモデルの正体に関して確かな証拠が不足していることを考えると、ヴァザーリの説明は信頼に値しないこともない。この短い文章は、私たちが「モナ・リザ」に関して持ちうる16世紀の証拠のほとんど主要部分といってよいと、サスーン氏は述べている。


次のように英語で記されている。

Vasari’s description of the Mona Lisa was probably written in
1547.(28) Leonardo had been dead for twenty-eight years, Francesco
il Giocondo for eight. Lisa Gherardini was still alive. Vasari lived
in Florence on and off between 1524 and 1550 and stayed at the
Medici palace, not far from the home of Francesco and Lisa. It
is possible that he knew them both, and that they were the source
of some of his information. Given the paucity of solid evidence
concerning the identity of the painting’s sitter, Vasari’s version
is the least unreliable. This short passage is almost the entire body
of sixteenth-century evidence we have on the Mona Lisa.
(Donald Sassoon, Mona Lisa :The History of the World’s Most Famous Painting,
Harper Collins Publishers, 2002, p.18.)

(Note 28)
Frank Zöllner, “Leonardo’s Portrait of Mona Lisa del Giocondo”
in Gazette des beaux-arts, March 1993, p.132.
(Donald Sassoon, Mona Lisa :The History of the World’s Most Famous Painting,
Harper Collins Publishers, 2002, p.282.)

※この論文を、スカイエレーズ氏もその註釈に載せている。
(セシル・スカイエレーズ(花岡敬造訳)『モナリザの真実』日本テレビ放送網株式会社、2005年、121頁、註釈110を参照のこと)


【Donald Sassoon, Mona Lisa :The History of the World’s Most Famous Painting,
Harper Collins Publishersはこちらから】

Mona Lisa :The History of the World's Most Famous Painting (Story of the Best-Known Painting in the World)

【単語】
on and off 時々、断続的に
Given (a.)与えられた、仮定された、~と仮定すると(if)、~を考慮に入れると(considering)
paucity  (n.)不足
solid   (a.)信頼できる、確かな
unreliable (a.)あてにならない、信頼できない
version (n.)解釈、~版、(個人的な観点からの)説明、見解
passage  (n.)通行、(文章の)一節
body   (n.)(文章の)主要部


そして、ヴァザーリは、「モナ・リザ」について次のように述べている。

Lionardo[sic] undertook to paint the portrait of the wife
of Francesco del Giocondo, Monna Lisa. He worked
on this for four years, but did not finish it. The work
is now at Fontanableo with King Francesco of France.
Looking at this face, anyone who wanted to know how
far nature can be imitated by art would understand
immediately, for here even tiny details were reproduced
with artistic subtlety. The eyes were sparkling and moist
as they always are in real life. Around them were reddish
specks and hairs that could only be depicted with
immense subtlety. The brows could not be more natu-
ral: the hair grows thickly in one place and lightly in
another following the pores of the skin. The nose and
its beautiful pinkish and tender nostrils seem alive. The
mouth, united to the flesh-coloured tints of the face
by the red of the parting lips, seems of real flesh and
not paint. Examining very intensively the hollow of the
throat, you can feel its pulsation. All will acknowledge
that the execution of this painting is enough to make
the strongest artist tremble with fear. He also used an
ingenious expedient: while he was painting Monna Lisa,
who was a very beautiful woman, he had her constantly
entertained by singers, musicians and jesters so that she
would be merry and not look melancholic as portraits
often do. As a result, in this painting of Lionardo’s
there was a smile so enchanting that it was more divine
than human; and those who saw it marvelled to find
it so similar to that of the living original.(30)

(Donald Sassoon, Mona Lisa :The History of the World’s Most Famous Painting,
Harper Collins Publishers, 2002, pp.18-19.)

(Note 30)
Giorgio Vasari, Le Vite de’ più eccellenti pittori, scultori e acrchitetti, Newton, Rome, 1991, p.564.
(Donald Sassoon, 2002, p.282.)

【単語】
immediately (ad.)直ちに、直接に
tiny     (a.)ごく小さな
subtlety   (n.)微妙[精妙]なもの
sparkling   (a.)輝く、生気のある
speck    (n.)斑点、小さい点
brow    (n.)ひたい、(通例pl.)まゆ(毛)
pore    (n.)毛穴、細孔
tender   (a.)(皮膚などが)柔らかい、優しい
nostril   (n.)鼻孔
tint    (n.)色合い、ほのかな色
parting   (a.)別れの、最後の、分離する
intensively (ad.)激しく、強く、集中的に
hollow   (n.)穴、くぼみ
pulsation  (n.)脈拍
execution  (n.)実行、(美術品の)制作
tremble   (vi., vt.)震える[わす]
ingenious  (a.)器用な、独創力のある、巧妙な
expedient  (n.)手段、方便 (a.)役に立つ、便宜な
entertain  (vt.)楽しませる、もてなす
jester   (n.)ふざけ好き [歴史](中世の王侯・貴族おかかえの)道化師(fool, clown)
melancholic  (a.)憂うつな、うつ病の (n.)陰気な人
enchanting   (a.)魅惑的な
divine    (a.)神の、神聖な 
marvel   (vi., vt.)驚嘆する
living    (a.)(肖像画が)実物そっくりの、生き写しの
original   (n.)本人、実物

このサスーン氏が引用したヴァザーリの「モナ・リザ」に関する叙述部分を、田中英道氏もその著作に引用している。
≪レオナルドはフランチェスコ・デル・ジョコンドのために、その妻モナ・リザの肖像を描くことになった。4年以上も苦心を重ねた後、未完成のまま残した。この作品は現在フランスのフランチェスコ王の所蔵するところとなりフォンタナブレオにある。芸術がどれほどまで自然を模倣することができるか知りたいと思う人があれば、この肖像において容易に理解することができるであろう。なぜなら、ここには精緻きわまる筆で描きうるすべての細部が写されているからである。眼は、生きているものに常に見られる、あの輝きと潤いをもっている。そして周囲には赤味を帯びた鉛色がつけられ、睫毛はまた繊細きわまりない感覚なくしては描きえないものである。眉毛は毛が肌から生じて、あるいは濃く、あるいは薄く、毛根によってさまざまに変化している様子が描かれているため、これ以上自然であることは不可能である。鼻は、美しき鼻孔のばら色によりやわらかく、まるで生きているようである。口はその開きぐあいといい、また口唇が赤で描きだされている様子や、顔色が真に迫っているところなど、色が着けられたのではなく、肉自身があると思われるほどであった。咽喉のへこみに気をつけて見る人は、脈が打つのが見える。実にかくなる方法で描かれたこの絵は、すべての作家、いかなる才人といえども戦慄させ、恐れさせてしまうということができるのである。彼はまたこんな工夫もした。マドンナ・リザがたいへん美しかったので、彼女の肖像を描いている間、弾き、歌い、かつ絶えず道化る者を傍らにおいて、気持よくさせておいた。肖像画を描くとき、しばしば憂鬱なる気分を絵に与えてしまうのを避けようとするためであった。レオナルドのこの作品のうちには、多くの心地よい微笑がある。そこには人間的というより神的なものが見られる。そしてこれ以外に実物がありようがないというほど見事なものである。≫(註6)
(田中英道『レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と生涯』講談社学術文庫、1992年[2004年版]、253頁~254頁)

(註6)
Vasari, ed. Milanesi, Le Vite, Tomo IV, Firenze, 1906, pp.39-40.
(田中、1992年[2004年版]、283頁)

田中英道氏は、「モナ・リザ」研究では日本を代表する学者である。その学説は、「モナ・リザ」=イザベラ・デステ説をとることでも知られている。
サスーン氏も、この著作において、田中英道氏について次のように言及している。

Isabella pursued Leonardo for nearly eight years, receiving only vague promises from him, and
he did not go further than the drawing of 1500. Unless, of course,
the Mona Lisa is really Isabella d’Este, as claimed in 1946 by
Raymond Stites and, more recently, by Hidemichi Tanaka.(40)
(Donald Sassoon, Mona Lisa :The History of the World’s Most Famous Painting,
Harper Collins Publishers, 2002, p.24.)

(Note 40)
See Raymond Stites, ‘Monna Lisa Monna Bella’,
in Parnassus, January 1946, pp.7, 10, 22-3;
Hidemichi Tanaka, ‘Leonardo’s Isabella d’Este: A New Analysis of the Monna Lisa in the Louvre’,
in Annali dell’Istituto Giapponese di Cultura in Roma, No.13, 1976-77.
(Donald Sassoon, 2002, p.282. Notes)

ここで、田中英道氏の見解を紹介しておこう。
田中英道氏は、先のヴァザーリの「モナ・リザ」に関する叙述に対して、次のようなコメントと反論を記している。
ヴァザーリがフォンテーヌブローにあるこの作品自体を一度も見たことがなかったという事実を前にすると、眉に唾しなければならないと田中氏は理解している。
・ ヴァザーリは①重要な背景のことも、②その服装のことも、③優雅な手のことも、一切触れていない。
・ ひたすら顔の美しさのみを賞め讃えている。それも、顔には眉毛があるといい、口唇が赤いと述べており、きわめて内容の不確かなものになっている。
・この、噂にもとづくといってもよい話のうちに、モナ・リザという名が生まれ、このリザが楽師や道化者により心地よくさせられている状態で描かれるという話もなされる。

そして、フランチェスコ・デル・ジョコンドとリザについて、次のように解説している。
フランチェスコ・デル・ジョコンドは1500年頃フィレンツェ市政府で活躍しており、1495年にゲラルディーニ家の娘リザと結婚している。
リザは1479年生まれで、結婚して一女を生んだが、その女の子は1499年に他界しているという。
この経歴からいえば、この婦人像と年齢も一致しているようだし、噂も何らかの根拠があったと考えてもよいかもしれないと田中氏はいう。しかも、1517年にフランスで「故ジュリアーノ・デ・メディチ豪華公の委嘱になる、実物から描かれたあるフィレンツェの貴婦人」の肖像を見たというベアティスの記録は、フィレンツェ婦人という点では、「モナ・リザ」説と一致しているともいう。
しかし、故ジュリアーノ公の委嘱という具体的な記述との関連や、ジョコンド家との具体的な何らかの示唆がレオナルド自身もしくはその周囲の記録にない以上、この肖像を「ある婦人の肖像」以外の名とするには、この段階では正当とは思われないという見解を田中氏はとっていた。

(田中英道『レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と生涯』講談社学術文庫、1992年[2004年版]、254頁~255頁)


【田中英道『レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と生涯』講談社学術文庫はこちらから】

レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と生涯 (講談社学術文庫)

西岡文彦氏は、『二時間のモナ・リザ』(河出書房新社、1994年)においては、先のヴァザーリの記事の一部を引用して、次のように考えていた。
「レオナルドは、フィレンツェの貴族フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻リザの肖像を描いたが、四年を費やしても完成することができなかったので、作品は画家の手もとに残されることになった。
この作品は、現在、フォンテーヌブロー城のフランス王フランソワのもとにある。」

文中のフランチェスコ・デル・ジョコンドの妻のフルネームは、エリザベッタ・ディ・アントン・マリア・ディ・ノルド・ゲラルディーニである。エリザベッタの愛称がリザで、これに貴婦人の敬称モナをつけた『モナ・リザ』で、「リザ夫人」を意味している。

着手時期と推測される1503~5年にエリザベッタは、幼い娘を亡くしている。この事実と、レオナルドが彼女を楽しませようと楽士と道化を雇ったとの「列伝」の記述を合わせて、『モナ・リザ』の微笑の、喜びとも哀しみともつかぬ表情の由来が説明されることは多い。

ラファエロによる『モナ・リザ』様式の作品も、ヴァザーリ説を裏付けている。明らかに『モナ・リザ』の影響を思わせる素描と油絵を、1505年前後にラファエロが描いている。これが『モナ・リザ』を1515年前後の制作とする枢機卿秘書官の説と矛盾している。
(西岡、1994年、83頁~84頁)

先のヴァザーリの記事は、色々な著者により引用されて、コメントが付される箇所である。例えば、佐藤幸三氏は『モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか イタリアにダ・ヴィンチを訪ねる旅』(実業之日本社、2011年)において、次のように述べている。

「ともかく、ヴァザーリによる『ルネサンス画人伝』の「モナ・リザ」の項を覗いてみよう。
≪レオナルドはフランチェスコ・デル・ジョコンドのために、その妻、モナ・リーザの肖像画を描くことになった。そして四年以上も苦心を重ねた後、未完成のまま残した。この作品は現在フランスのフランソワ王の所蔵するところとなり、フォンテーヌブローにある。
 芸術がどれほどまで自然を模倣することができるかを知りたいと思う人があればこの肖像によって容易に理解することができるであろう。なぜなら、ここには精緻きわまる筆で描きうるすべての細部が写されているからである。眼は生きているものに常に見られる。あの輝きと潤いをもっている。そして周囲には赤味を帯びた鉛色がつけられ、睫毛はまた繊細きわまりない感覚なくしては描きえないものである。
 眉毛は毛が肌から生じて、あるいは濃く、あるいは薄く、毛根によってさまざまに変化している様子が描かれているため、これ以上自然であることは不可能である。鼻孔の美しいその鼻はばら色でやわらかく、まるで生きているようである。口はその開きぐあいといい、また口唇が赤で描き出されているさまや、顔色が真に迫っているところなど、色が着けられたのではなく、肉そのものと思われるほどであった。咽喉のへこみを気をつけて見る人には脈が打つのが見える。実にかくなる方法で描かれたこの絵は、すべての作家、いかなる才人をも戦慄させ、恐れさせてしまうということができる。
 彼はまたこんな工夫もした。モナ・リーザがたいへん美しかったので、彼女の肖像を描いている間、弾き、歌い、かつ絶えず道化る者をそばにおいて、楽しい雰囲気をつくった。肖像画を描くとき、しばしば憂鬱な気分を絵に与えてしまうのを避けようとするためであった。レオナルドのこの作品には心地よい微笑があるが、そこからは人間的というより神的なものが見てとれる。そしてこれ以上生き生きとしたものはないほど見事なものである。≫(参考文献②)
(佐藤幸三『モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか イタリアにダ・ヴィンチを訪ねる旅』実業之日本社、2011年、94頁~95頁)。

このヴァザーリの引用部分の参考文献は、とりもなおさず、田中英道氏の翻訳本を佐藤幸三氏も参照している。つまり、ジョルジョ・ヴァザーリ著『ルネサンス画人伝』田中英道他訳、白水社がそれである。(佐藤、2011年、172頁)
佐藤氏も、ヴァザーリは「モナ・リザ」を見たことがなく、この項を書くに当たって、この絵を見た人々、当時まだ生存していた神父や楽師たちから話を聞いたとする。そして、ヴァザーリは睫毛や眉毛について詳しく書いているが、「モナ・リザ」には睫毛や眉毛は描かれていない点を指摘している。

だが、佐藤氏の解説は、田中英道氏のそれとは異なる。というのは、その出版年が、2008年のドイツのハイデルベルク大学図書館の新史料発見後であるため、「モナ・リザ」のモデル問題や、リザについての解説が相違している。
「リザ・デル・ジョコンドとはどういう女性だったのか」という問いに対して、次のように述べている。
名前をエリザベッタといい、リザはその愛称である。1479年、フィレンツェのメディチ宮殿裏、ジノーリ通りに生まれた。父の名はアントニオ・マリーア・ディ・ノルド・ゲラルディーニ、母親の名は不明である。父アントニオは政治家で豪華王ロレンツォに属し、メディチ家を支えたが、政治活動のために家運が傾いた。リザが17歳のとき、織物で財を成した36歳のフランチェスコ・デ・バルトロメオ・ディ・ザノービ・デル・ジョコンドのもとに後添いとして嫁いだ。(中略)ジョコンドとの間に五子をもうけた。
美術史家ブルーノ・モタンは、「モナ・リザは次男の誕生を記念して描かれたとみられ、制作年代も1503年頃に絞り込まれる」と指摘している。リザは1542年7月15日に63歳で死亡している。
一方、ダ・ヴィンチがこの絵を依頼した人物として名を挙げていた故マニーフィコ・ジュリアーノ・デ・メディチ閣下とは、豪華王ロレンツォの三男で、1479年、パッツィ家の陰謀事件の翌年に生まれている。この事件でロレンツォの弟ジュリアーノが暗殺されたため、弟を偲んで三男に同じ名を付けた。人文主義者の詩人のポリツィアーノを家庭教師として成長したため温和な性格で、教養豊かな宮廷人として育った。(中略)
当時ウルビーノ公国に仕えていた政治家で文筆家のバルダッサーレ・カスティリオーネは著書『宮廷人』の中でルネサンス的人間の理想像を描き、完成された宮廷人の一人としてジュリアーノ・デ・メディチの名を挙げている。
 1502年6月、ウルビーノ公国はチェーザレ・ボルジアの教皇軍に占領される。モンテフェルトロ公は悪性の痛風でベッドに臥せっていたがかろうじて脱出、しかしジュリアーノは軟禁の身になってしまった。
7月のある日、23歳になっていたジュリアーノはチェーザレ・ボルジアに呼ばれた。部屋に入ると、そこにいたのはダ・ヴィンチであった。翌年フィレンツェに戻ったダ・ヴィンチが「モナ・リザ」を描き始めているのを見ると、このときジュリアーノから、ジュリアーノの記憶に残る幼なじみのリザを描いてくれと頼まれたのではないかと佐藤幸三氏は推測している。ジュリアーノとリザは同い歳で、幼い頃からいつもメディチ宮殿に近いサン・ロレンツォ教会横の小さな広場で遊んでいたという。リザはジュリアーノの初恋の女性だったのかもしれないとする。
1504年、21歳の若きラファエロがサンタ・マリア・ノヴェッラ教会の「教皇の間」にダ・ヴィンチを訪ねた。そのときラファエロがスケッチした「モナ・リザ」を見ると、ダ・ヴィンチは相当なスピードで「モナ・リザ」を描いていたこと、しかし「モナ・リザ」の不思議な背景はまだ描かれていなかったことがわかると解説している。
(佐藤幸三『モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか イタリアにダ・ヴィンチを訪ねる旅』実業之日本社、2011年、94頁~98頁)。

【佐藤幸三『モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか』実業之日本社はこちらから】

[カラー版]モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか (じっぴコンパクト新書80)

リザ・ゲラルディーニへのサスーン氏による言及


サスーン氏は、リザ・ゲラルディーニについて、その著作の初めから言及している。

西洋美術の有名な作品は、ルーヴル美術館のピーク時の夏場の月々でさえ、ゆっくり凝視できる(毎年ルーヴル美術館には、550万人の訪問があるのだが)。ただ、779番の絵画は例外である。その絵は、フランスでは「ラ・ジョコンド」、イタリアでは「ラ・ジョコンダ」、その他の地域では「モナ・リザ」として知られる絵である。
伝えられるところでは、この絵は、フィレンツェの婦人、リザ・ゲラルディーニの肖像画だとされる。彼女は裕福な商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻である。本来なら、「モンナ」・リザ(「モンナ」はマドンナ(わが婦人の意)の短縮形)と称すべきであろう。「モナ」の綴りは誤りだが、英語の慣例で、サスーン氏も以下、「モナ・リザ」と称すると断っている。

英文には次のようにある。
These works ― among the most celebrated of Western art ―
can all be contemplated at leisure, even in the summer months
when the season is at its peak, by any of the five and a half
million people who visit the Louvre every year. All except number
779, known in France as La Joconde, in Italy as La Gioconda and
everywhere else as the Mona Lisa. This is, allegedly, the portrait
of a Florentine lady, Lisa Gherardini, the wife of Francesco del
Giocondo, a wealthy merchant. She would have been addressed
as ‘Monna’ Lisa, Monna being a contraction for Madonna (mia
donna), or my lady. The spelling ‘Mona’ is erroneous, but has
become established in English and I shall use it throughout.
(Donald Sassoon, Mona Lisa :The History of the World’s Most Famous Painting,
Harper Collins Publishers, 2002. p.2.)

【単語】
contemplate (vt.)凝視する、熟考する
at leisure    ゆっくり、暇で
except   (vt.)除く
allegedly  (ad.)伝えられるところでは
contraction (n.)短縮形
Madonna (Italian=my lady)(n.)聖母マリア
erroneous  (a.)誤りの、間違いの(mistaken) 
(cf.) erroneous assumptions 誤りを含む[に基づく]推定


「モナ・リザ」のモデル問題について、ヴァザーリの記述を疑問視され出したのは、いつ頃なのだろうか。サスーン氏は次のように述べている。
19世紀の作家は、モデルが誰かということについて混乱しなかったようだ。というのは、ジョルジョ・ヴァザーリの記述が正しいと思っていたからである。
ヴァザーリはリザとみなした。リザは、アントンマリア・ディ・ノルド・ゲラルディーニの娘であり、フランチェスコ・ディ・バルトロメオ・ディ・ザノビ・デル・ジョコンドの妻である。以下、「ジョコンダ」(フランス語で「ジョコンド」)と称する。
このヴァザーリの記事は、20世紀に疑問視されるようになった。その最初の一人が、アンドレ=シャルル・コッピエである。「ジョコンド」の著名な版画家で、その印刷はまだルーヴルで売られている。彼はモデルが普通のフィレンツェ人の妻ではなく、理想化された人物であると考えた(註26)。

英文には次のようにある。
The identity of the sitter did not perturb nineteenth-century
writers. They assumed that Giorgio Vasari’s account was correct.
He identified her as Lisa, daughter of Antonmaria di Noldo Gher-
ardini and wife of Francesco di Bartolomeo di Zanobi del
Giocondo, hence the designation of ‘Gioconda’ (‘Joconde’ in
French). This account came under question only in the twentieth
century. One of the first to challenge it was André-Charles
Coppier, a distinguished engraver of the Joconde (his print is still
being sold at the Louvre) who thought the sitter could not be an
ordinary Florentine wife, but was in fact an idealized person.(26)

(Note 26) André-Charles Coppier, ‘La “Joconde” est-elle le portrait de “Mona Lisa”?’,
in Les Arts, No.145, January 1914.

(Donald Sassoon, Mona Lisa :The History of the World’s Most Famous Painting,
Harper Collins Publishers, 2002. p.16, p.282.)

【単語】
identity  (n.)本人であること、身元、正体
sitter   (n.)座る人、(肖像画・写真のために)ポーズをとる人、モデル
perturb  (vt.)混乱させる
hence (ad.)それ故、ここから
designation (n.)説明、名称
come under O (疑い・圧迫など)を受ける
Florentine (n.)フィレンツェ人、(a.)フィレンツェの

リザ・ゲラルディーニについて


サスーン氏は、リザ・ゲラルディーニについて、次のように解説している。

バッティステロ・ディ・サン・ジョバンニの登録簿には、1479年6月15日火曜日に、フィレンツェで生まれたとある。彼女の家族は金持ちではないが、小貴族に属していた。彼女の父親アントンマリアは、彼女のありうる持参金を申告することをすべての住民と同じく、法的に命じられていたが、彼女は何も持っていないと答えた。16歳でリザは、19歳年上で2度(ママ)男やもめになったある男性と結婚した。彼は、フランチェスコ・ディ・バルトロメオ・ディ・ザノービ・デル・ジョコンドという名で、フィレンツェの名士であった。
その時までに、彼女の父親は、何とか手ごろな持参金170フローリンを工面していた。これはマッダレーナ・ストロッツィ・ドーニ(1506年にラファエロが「モナ・リザ」とよく似たポーズで描いた肖像画で有名)8分の1の額にすぎなかった。ただ、マッダレーナは、フィレンツェで最大級の家柄の一人であるストロッツィ家の出身で、同等の大きな家柄であるドーニ家に嫁いだのだが。
当時、リザの持参金は、その社会的地位としておそらく平均的なものであった。レオナルドがリザを描き始めた時までに、リザはもう3人の子供を産んだことがあった。その3人のうちの1人は娘で、1499年に亡くなっていた。

英文には次のようにある。
 Who was Lisa Gherardini? The registry of the Battistero di San
Giovanni confirms she was born in Florence, on Tuesday, 15 June
1479. Her family, though not rich, belonged to the petty nobility.
Her father Antonmaria, legally required like all residents to
declare the amount of her eventual dowry, replied that she had
none. At sixteen Lisa was married to a man nineteen years older
and twice widowed : Francesco di Bartolomeo di Zanobi del
Giocondo, a Florentine notable. By then her father had managed
to assemble a reasonable dowry, 170 florins. This was only one-
eighth that of Maddalena Strozzi Doni (celebrated in a similar
pose by Raphael in 1506) ― but Maddalena came from one of the
richest families in Florence, the Strozzi, and was marrying into an
equally grand family, the Doni. Lisa’s dowry, then, was probably
average for one of her social standing. By the time Leonardo had
started painting her she had already had three children, one of
whom, a girl, had died in 1499.
(Donald Sassoon, Mona Lisa :The History of the World’s Most Famous Painting,
Harper Collins Publishers, 2002. pp.22-23.)


【単語】
registry  (n.)登記、登録(簿)
nobility  (n.)高貴な生まれ(身分)、(the~)貴族(階級)
require  (vt., vi.)要求する、命じる
declare  (vt., vi.)宣言する、申告する
eventual  (a.)終局の(final)、ありうる(possible)
notable  (n.)名士
manage  (vt.)扱う、どうにかして~する(to do)
assemble  (vt., vi.)集める(まる)
reasonable (a.)合理的な、(値が)手ごろな

1503年、フランチェスコ・デル・ジョコンドは、年若い家族の者たちと新居に移った。ツォルナー氏が指摘するように、裕福な商人はこの機会に一流の画家に若い妻の肖像画を描いてもらうよう頼んだのであろう。リザは、既にもう2人の男の子を生んでいた。2番目の男の子は、ちょうど1502年12月に生まれたばかりだったので、さらなるお祝いの意もあったであろう。

さらに、次のように説明している。
今や、上昇指向のある“成金”は、より認められた金持ちの人々からふるまい方について先頭に立っていた。目立った地方の画家から美術品を買うことが流行していたし、フランチェスコは現行利率で支払う余裕があった。そうなら、リザは微笑んだほうがいいのでは。彼女には裕福で愛する夫や2人の少年がいたし、明るい新居もあった。もし、レオナルドが完成された肖像画を引き渡していたなら、フランチェスコとリザはそれを壁に掛け、「モナ・リザ」という絵はルーヴルになかったかもしれない、とサスーン氏は述べている。

サスーン氏の英文を見ておこう。
In 1503 Francesco del Giocondo moved with his young family
into a new house. As Zöllner points out, a prosperous merchant
would have taken this opportunity to ask a leading artist to
portray his young wife. Lisa had already given him two male
children, the second just born (December 1502), thus providing
a further cause of celebration.(36) Then as now, the upwardly mobile
nouveaux riches took their lead on how to behave from those of
more established wealth. Buying art from prominent local pain-
ters was the done thing, and Francesco could afford to pay the
going rate. So why should not Lisa smile? She had a wealthy and
loving husband, two boys, and a bright new home. Had Leonardo
delivered the finished portrait, Francesco and Lisa would have
hung it on the wall, and the Mona Lisa might not be in the
Louvre.
(Donald Sassoon, Mona Lisa :The History of the World’s Most Famous Painting,
Harper Collins Publishers, 2002. p.23.)

(Note 36)
Frank Zöllner, “Leonardo’s Portrait of Mona Lisa del Giocondo”
in Gazette des beaux-arts, March 1993, p.122.
(Donald Sassoon, 2002. p.282.)


【単語】
prosperous  (a.)繁栄する、裕福な
leading   (a.)主要な、勢力のある、一流な (cf.)a leading painter 一流の画家
provide (vt.)供給する、与える
celebration (n.)祝賀、称賛
mobile   (a.)自由に動く、変わりやすい、流動性のある、
(cf.)upwardly mobile (人や集団が)上昇指向(傾向)のある、上昇の波に乗っている
nouveaux riches (フランス語)成金
take a[the] lead 先頭に立つ、リードする、模範を示す
established  (a.)認められた、既定の、立証された
prominent  (a.)目立つ、顕著な
done     (a.)終わった、社会通念(礼儀)にかなった
(cf.)be quite the done thing 流行している(もの、事)、社会的に受け入れられている、礼儀にかなっている(もの、事)
going   (a.)進行中の、現行の the going rate現行利率(料金)
deliver  (vt.)引き渡す、配達する


ヴァザーリのレオナルドの死亡についての記述


ヴァザーリの「美術家列伝」は、ルネサンス芸術家の伝記集として名高い。その中で、レオナルドは、フランソワ1世の腕の中で息を引き取ったと書かれている。

西岡文彦氏も解説していたように、この記述は、歴史的には正確ではない。
レオナルドの没時にフランソワ1世が別の場所に居たことが確認されているからである。
だから、ヴァザーリの記述は歴史的な事実に反している。この本の記述は、他にも歴史的な事実と相違する部分が指摘されている。
史書というより、説話ないしは寓話として読むべともされている。

ただ、そうした事実に反する記述にこそ、史実をかいま見るという意見もある。
たとえば、摩寿意善郎氏(ますいよしろう、あの若桑みどり氏の恩師であることは、このブログでも触れた)は、ヴァザーリは「事実」とは反する「虚構」によってこそ「真実」を語ろうとした、とする。

以前にも紹介したように、西岡氏が30代初めに、若桑みどり氏の連続講義を聞いた際に、感銘を受けた言葉があったという。
「確かにヴァザーリの記述には<事実>に反することは多いですから、それを<虚構>と批判することはできるでしょう。ですが、大切なのは、ヴァザーリがその<事実>に反する<虚構>をもって描こうとした、<真実>の方にこそあるのです」

この「虚構をもって真実を語る」という表現が、西岡氏にとって、忘れられない言葉となる。これは、若桑みどり氏の恩師の摩寿意善郎氏の教えであったのである。

この言葉から予想もしなかった知恵をもらうことになったと西岡氏はいう。「虚構」も「真実」のためには許されると安易に解釈することは慎むべきであるが、人になにかを伝える場合は、それが「事実」であることに慢心せず、なによりも自分で信じている「真実」や、伝えたいと思っている「真実」に照らして妥当なものかという点検が欠かせない。意図的に選択された「事実」よりは、「虚構」とのそしりを覚悟してでも、みずから信じる「真実」の方に誠実でありたいと願うようになったそうだ。これは、ヴァザーリに関する若桑みどり氏の講義から得た“財産”になったと述べている。


ルネサンス美術に当てはめてみると、ヴァザーリ「を」読むというより、むしろヴァザーリ「で」読むための知恵を教わったという。「事実」に反する「虚構」が「真実」を物語ることもあるという深い知恵によって、眼を大きく開くことが大切だとする。
歴史的な事実に反しているという理由だけで、ヴァザーリが「虚構」のかたちを借りて伝えようとした「真実」に思いをこらすことをやめないことを心がけたいと述べている。
(西岡文彦『モナ・リザの罠』講談社現代新書、2006年、32頁~33頁、41頁~43頁、95頁~99頁)

【西岡文彦『モナ・リザの罠』講談社現代新書はこちらから】

モナ・リザの罠 (講談社現代新書)

西岡文彦氏は、『二時間のモナ・リザ』(河出書房新社、1994年)や『謎解きモナ・リザ』(河出書房新社、2016年)においても、この言葉について、コメントしている。
〇「ヴァザーリの伝えようとした「真実」を集約する言葉であるかもしれない」と。
〇そして、「祖国では不遇であった巨匠が晩年に初めて異国で得た厚遇が象徴されている」と。
そして、西岡氏は、「フランソワ一世が、レオナルドの死の知らせに落涙したのは事実らしい」と付け加えることを忘れていない。
(西岡、1994年、46頁。西岡、2016年、79頁~81頁)

そして、後世、ヴァザーリの記述に基づいて、次のような絵画が描かれたことを、西岡文彦氏は紹介していた。つまり、フランソワ1世の腕の中で息を引き取ったという、伝説的なレオナルドの死を絵画に残した代表的な画家がいる。メナジョ(1744~1816)とアングル(1780~1867)である。2人の画家は『ダ・ヴィンチの死』というタイトルの次のような絵画を描いた。
〇メナジョ『ダ・ヴィンチの死』1781年 油彩 アンボワーズ美術館
メナジョは、古代の英雄の死の場面になぞらえて、ダ・ヴィンチの死の場面を近代において最初に描いたと西岡氏は説明している

〇アングル『ダ・ヴィンチの死』1818年 油彩 プティ・パレ美術館
アングルも、巨匠レオナルドの死の場面を、ヴァザーリ「画人列伝」の記述に基づいて描いた
(西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社、2016年、78頁~81頁)

【西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社はこちらから】

謎解きモナ・リザ (河出文庫)

スイスの画家カウフマンについて


サスーン氏も、レオナルドの臨終シーンの絵画について、解説している。
ただ、メナジョ以前に、スイスの画家カウフマンについて言及している。
原文には次のようにある。

 The vogue for historically based works of art played its part
in such myth-making. The first known pictorial representation
of Leonardo dying in the arms of the king was by Angelica
Kauffmann (1741-1807), a Swiss painter who lived in London,
Rome and Venice, and who worked indefatigably to meet the
enormous demand for Italian paintings brought about by the
increasingly popular Grand Tour…
Kauffmann was extremely popular. Stendhal referred to her as
la célèbre peintre. When Goethe stayed in Rome she was his
regular companion and a dear friend, and introduced him to the
great works of the Renaissance. Goethe described her as a talented
and financially successful artist, growing increasingly tired of
commissions but entreated to persevere by her husband, who
thought it ‘wonderful that so much money should roll in for what
is often easy work’. A founding member of the Royal Academy,
she produced more than five hundred paintings. Her Leonardo’s
Death in the Arms of François I ― now lost, and presumably painted
in Venice ― was exhibited at the Royal Academy in 1778.
 In 1781, three years after Angelica Kauffmann’s painting was
shown, the French artist François-Guillaume Ménageot exhibited
his own version of Leonardo’s death at the Salon (it is now
at the Musée de l’Hôtel de Ville, Amboise)....
The deathbed scene was also painted in Italy in 1811 by
Santi Soldaini (the watercolour is now at the Brera, Milan) and
by Cesare Mussini in 1828. In some later lithographs, such as
Gigoux’s Derniers moments de Léonard de Vinci (c.1835), the king
is absent. The best-known of these death scenes was painted in
1818 by Ingres (see plate 24), and later engraved by Claude-Marie
Dien.
(Donald Sassoon, Mona Lisa :The History of the World’s Most Famous Painting,
Harper Collins Publishers, 2002. pp.83-84. )

そして、図版24には、次のような解説文を記している。
24. The Death of Leonardo in the Arms of King François I by Jean-Auguste
Dominique Ingres (1818, Musée du Petit Palais, Paris). This is the best-known of
the many death scenes of Leonardo. Death scenes were a popular genre, amounting
to pictorial biographies. The artist would fill the picture with the images and works
of those who had been important in the life of the central character. As in modern
biographical films, they blended history and fiction to produce a more exciting
narrative.

【単語】
vogue      (n.)流行、人気
indefatigably  (ad.)疲れを知らず、根気強く
la célèbre peintre (フランス語)célèbre (a.) 有名な peintre (n.m.) 画家
companion   (n.)連れ、友人、仲間
financially  (ad.)財政的に、金銭的に
entreat    (vt.)懇願する
persevere   (vi.)辛抱する、忍耐する、たゆまずやり通す
roll in    (金が)ころげ込む、どんどん入ってくる
the Royal Academy 英国王立美術院
found    (vt.)創設する
presumably   (ad.)どうも~らしい、たぶん
exhibit    (vt.)公開する、陳列する、出品する
deathbed   (n.)死の床、臨終
watercolour  (n.)水彩画
lithograph  (n.)石版刷り[画]
Derniers moments de qn (フランス語)~の臨終、断末魔(sb’s last moments)
engrave  (vt.)彫る、版画で印刷する

amount   (vi.)結局~になる
biography (n.)伝記
the central character  主要登場人物
narrative (n., a.)物語(の)


アンゲリカ・カウフマン(Angelica Kauffmann、1741-1807)は、スイス出身のオーストリア人の新古典主義画家である。
カウフマンは、スイスのグラウビュンデン州クールに生まれた。しかし育ったのは一家の出身地であるオーストリアだった。
父親は貧しいものの熟練した画家で、絵のためによく旅をしていた。娘にも絵を教えた。母親からは複数の言語を教わった。カウフマンは音楽家としての才能も示したが、際立っていたのは絵画だった。
カウフマンは、ドイツの美術史家ヴィンケルマン(1717-1768)の半身肖像画とエッチングを描いている。ヴィンケルマンによると、カウフマンはドイツ語と同じくらい上手にイタリア語を話し、フランス語、英語も解し、ローマを訪れたイギリス人たちに人気の肖像画家になっていたようだ。
カウフマンは、1781年にヴェネツィアの画家と再婚したが、まもなくローマに行き、そこでゲーテ(1749-1832)と親交を得た。ゲーテはカウフマンのことを、自分の知っているどんな画家よりも忙しく働き、熟達し、いつもそれ以上のことを望んで強情だと書いている(ゲーテ『イタリア紀行』1786年~1788年)。
カウフマンの作品に対しては、優美な才能とかなりの技術を持っていたが、描かれた人物には多様性と表情が欠けているとも評される。



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