地上を旅する教会

私たちのすることは大海のたった一滴の水にすぎないかもしれません。
でもその一滴の水があつまって大海となるのです。

民族的伝統と神様の考え【森禮子氏死去=芥川賞作家】

2014-04-03 00:01:22 | 今日の御言葉




もうじき約束の国へ行きますが、
神様がついておられるので
心配はありません。 

あなたがたなど問題にならないほど
大きな強い国も、
神様には歯が立ちません。 

ヘテ人の国をはじめ、ギルガシ人、
エモリ人、カナン人、ペリジ人、
ヒビ人、エブス人の国々は、
七つとも神様に滅ぼされます。

神様がそう考えておられるのだから、
徹底的に戦いなさい。 

へたな取り引きをしたり、
あわれみをかけたりせず、
敵を一掃するのです。

『申命記』 7章1, 2節 旧約聖書 JLB








占領軍はその国の青少年を、
家庭や教会や民族的伝統から
早急に引き離す必要があるのだ。

彼らを新体制に
役立つようにするために、
また、彼らが新しい時代に
熱狂するようにするために、
洗脳する必要があるのだ。
そのため、新聞やラジオ、
テレビなどが宣伝に用いられる。

(スイス政府『民間防衛』)





(『長崎の鐘』永井隆 写真)



★【ナガサキノート】博士の桜、絶やさない

◆朝日新聞社 2014年04月01日 12時36分


■木場田友次さん(1938年生まれ)

 長崎市上野町に2畳一間の小屋がある。被爆者の救護に尽力し、「長崎の鐘」などを書いた永井隆(ながいたかし)博士(1908~51)が病に伏せながら執筆を続けた如己(にょこ)堂だ。



 1949年秋ごろ、一人の少年が親戚に連れられて如己堂を訪れた。永井博士から結核の診察を受けた後、療養生活を続けていたが、「治ったようだ」と報告しに来たのだ。

 「先生、診て下さい」。少年は博士に言った。博士は起き上がることができず、少年に自分の上に四つんばいになっておなかを出すよう求めた。博士は寝たまま聴診器を当て「良い音だ、良い音だ」とうなずいた。

 少年は、長崎市神ノ島町の木場田友次(こばたともじ)さん(76)。原爆投下の直前に疎開し、自身は被爆を免れたが、家族が犠牲となった。現在、博士を顕彰する長崎如己の会理事。博士の植えた千本桜の2世の植樹などを続け、平和を願う博士の思いを受け継いでいる。
 「永井先生とは見えない糸でつながっているようだ」と振り返る。

 木場田さんは1938年、現在の五島市富江町で生まれた。2、3歳の頃から、長崎市の養父母の元で育てられた。
 自宅があったのは、長崎医科大(現長崎大医学部)のグラウンドそばの同市本尾町。一家は代々、キリスト教の信徒で、近くの浦上天主堂をしばしば訪れた。「天井が高くて、大きく感じた」

 国民学校入学前の冬、せきが続くようになり、長崎医科大付属病院を受診した。後に知ったことだが、この時、診察したのが永井博士だった。大きな体の永井博士を見て、木場田さんの第一印象は「怖い」だった。

 診断は、当時治らないと言われていた結核。木場田さんは「お利口にしていたら治るよ」とやさしく言われたことを記憶している。45年4月から国民学校に上がる予定だったが、療養のため通うことはできなかった。数年後に再会した際、永井博士は「『学校には行けない』と言ったら、泣かれて困ったんだよ」と教えてくれたという。

 45年8月1日、木場田さんの自宅にほど近い長崎医科大付属病院などが空襲の被害を受けた。結核の療養中だった木場田さんも自宅で「ドーン、ドーン」という大きな音を聞いた。「これ以上いると危ない」と、木場田さんは直後に五島に疎開することに。原爆投下の数日前のことだ。長崎市本尾町の自宅は爆心地の東約600メートル。「自宅にいたら100%死んでいただろう」



 8月9日の原爆投下後、大人が「長崎に新型爆弾が落ちたらしい」と話しているのを耳にした。8月下旬には、同病院に近い長崎市坂本町に住んでいた親戚がやってきた。「全滅で誰も生きていない」。養父母の死を知り、涙が出た。

 中学に入ってから、本尾町の自宅跡を訪ねた。「本当に何も残っていなかった」。養父母がどこで亡くなったかは不明で、骨を拾うこともできなかった。墓には自宅跡にあった石や瀬戸物のかけらが、遺骨の代わりに納められているという。

 木場田さんは46年1月、疎開先の五島から長崎市に戻った。市内の病院で療養生活を続けた後、親戚の清川武夫(きよかわたけお)神父が校長だった同市本河内の聖母の騎士小神学校(現・聖母の騎士高校)の寮で暮らした。



 49年ごろに永井博士の如己堂を初めて訪れた後も、木場田さんは如己堂に通った。永井博士は、聖母の騎士修道院を長崎に開いたポーランド出身のコルベ神父を診察し、戦後は、一時的に同校の生徒に授業をするなど同校との縁が深い。コルベ神父が創刊した冊子「聖母の騎士」に連載しており、木場田さんは「原稿を取りに行っていた」と語る。

 永井博士のために、インスタントコーヒーを持って行かされることもあった。「先生はものすごく喜んだ」。横になったまま、チューブで飲むこともあったという。

 木場田さんは、原爆孤児の救済に尽力した同修道院のゼノ・ゼブロフスキー修道士と会ったこともある。「(彼からもらった)星形の砂糖菓子がおいしかった」と懐かしむ。

 「あそこに桜を植えてもらったんだよ」。ある日、如己堂を訪れた木場田さんに、永井博士が寝たまま語りかけた。
 博士が見つめる先にあったのは、崩れた浦上天主堂の跡。今は建物の影となっているが、当時は如己堂から見渡せた。天主堂付近には桜の木が立ち並んでいた。永井博士が人々を勇気づけようと、私財を投じて約1200本を植えたとされる「永井桜」だ。

 永井博士と一緒に見たのか記憶が定かではないが、木場田さんはこの桜が咲いた春の光景を覚えている。一帯をまだがれきが覆う中、桜だけが咲き、鮮やかに色づいていた。「ものすごく印象に残っている」と語る。

 永井博士は51年5月1日、長崎医科大付属病院に入院し、その夜、息を引き取った。その年の4月、聖母の騎士小神学校の中学部に入学していた木場田さんは、葬儀に参列した。ただ、当時は永井博士のことを深くは考えていなかったという。「もう少し熱い心を持って接していれば」と悔やむ。

 永井博士の死後、木場田さんは博士のことを深く考えることはなかった。転機は、聖母の騎士小神学校の元校長で親戚の清川武夫神父の言葉だ。清川神父は10年ほど前に病気で亡くなったが、見舞いに行った際、木場田さんにこう言った。「お前は永井先生のおかげで命拾いしたとばい」。その言葉にハッとした。博士の思いを継いでいこうと思った。

 木場田さんが取り組んだのが永井桜の二世の植樹だ。永井博士は浦上に1200本を植えたとされるが、2008年に平和案内人仲間らと調べ、現存するのは二十数本だけとわかった。その半数は枯れかかっていた。博士を顕彰する長崎如己の会に二世の植樹を提案し、自ら理事となって進めた。一番元気だった浦上天主堂の3本から接ぎ木し、10年から、200本以上を長崎市内や博士が幼少期を過ごした島根県雲南市などに植えた。
 木場田さんは「永井先生の気持ちを目に見える形で後世に伝えられるのは桜しかない。絶対絶やしてはいけない」と語る。

 長崎市橋口町の市立山里小学校には、永井博士の著作の印税で1949年に建てられた「あの子らの碑」がある。爆心地から約600メートルの距離。山里国民学校で犠牲となった子どもや教職員約1300人を悼むためだ。

 碑が建立された11月、同校は毎年、平和祈念式を開いている。2011年の式では、木場田さんがマイクの前に立った。

 「私はこの山里小に入学する予定でした。私にとって幻の学園です」。木場田さんは結核の療養のため、形だけ入学はしたが、通うことはかなわなかった。
 この日は、養父母が爆死したことや永井博士との交流を語った。最後は「永井先生が望んでいる平和を胸の中にしまいながら、勉強に励んで下さい」と呼びかけた。

 永井博士の暮らした如己堂に来る子どもたちに話をしたこともある。如己堂の名の由来は、「己のごとく人を愛せよ」という言葉。博士のその思いまで子どもたちに知ってほしいと願っている。



 木場田さんは、会長を務める聖母の騎士高校の同窓会で、永井博士が外国人神父とともに訳し、1947年に出版された「世界と肉体とスミス神父」の復刻を進めている。ヨーロッパで45年ごろにベストセラーとなった小説だ。

 この本は永井博士の初の出版作。代表作「長崎の鐘」は46年にすでに書き上げていたが、日本軍の残虐行為を連合国軍総司令部(GHQ)がまとめた「マニラの悲劇」の抱き合わせをGHQが条件に付け、出版は49年となったからだ。博士は「世界と肉体とスミス神父」で得た印税を浦上天主堂に寄付し、オルガンの購入に充てられた。その返礼として建てられたとされるのが「如己堂」だ。

 復刻本は4月中にも2千部を印刷し、同校の生徒に配るなどする予定だ。木場田さんは、若い世代に博士のことがあまり知られていないと感じる。「永井先生のことを忘れてはいけない。復刻を機に意識が新たになれば」と願っている。

(岡田将平・32歳)
http://digital.asahi.com/sp/articles/ASG3S6V0MG3SPTIL03B.html





★森禮子氏死去=芥川賞作家

◆時事通信 2014年4月1日


 芥川賞作家の森禮子(もり・れいこ=本名川田禮子=かわた・れいこ)氏が3月28日午前、膵臓(すいぞう)がんのため福岡県志免町の病院で死去した。85歳。福岡市出身。葬儀は近親者で営まれた。

 1957年に「婦人朝日」の懸賞小説に入選。80年、米国の田舎町を舞台に日本人妻の孤独を描いた「モッキングバードのいる町」で芥川賞を受賞。2009年に福岡市文学賞を受けた。近年は九州各地で、自ら信仰するキリスト教の史跡を訪ね、「キリシタン史の謎を歩く」などの紀行本を執筆していた。他の著書に「神女(かみんちゅ)」など。 

(2014/04/01-13:49)



『神父ドロの冒険』森礼子(写真)


【今日の御言葉】