
こういうわけで、
今やキリスト・イエスにある者は
罪に定められることがない。
なぜなら、キリスト・イエスに
あるいのちの御霊の法則は、
罪と死との法則からあなたを
解放したからである。
「ローマ人への手紙」 8章1, 2 節
JA1955 新約聖書

http://ikkennhitorigoto.com/372.html
★特集ワイド:8億円借り入れで揺れる渡辺喜美さんへ
ミッチーが泣いてるぞ
◆毎日新聞 2014年04月07日 東京夕刊

▲借入金について記者の質問に答える渡辺喜美みんなの党代表
=国会内で2014年3月27日午後4時24分、
藤井太郎撮影
◇父の遺訓「理屈じゃない、まごころだ」/地元有権者「謙虚さ足りぬ」
政治リーダーの器量、人望は逆風の中でこそ浮き彫りになる。8億円借り入れ問題で追い詰められたみんなの党の渡辺喜美代表(62)の姿を見るにつけ、思い出すのは父・美智雄氏(1995年死去)である。問題発言で物議を醸しながらも愛され続けた大衆政治家ミッチー。父にあって息子にないものとは。親子の地元・栃木県を訪ねた。【樋口淳也、浦松丈二】
サクラのつぼみを見上げながら上った坂道の先に、渡辺家の墓はあった。栃木県大田原市の光真寺。掃除が行き届き、鮮やかな花もたむけられていた。墓参した人が名刺を入れるポストもある。
「閉塞(へいそく)感打破のための捨て石になります」。喜美氏が父の墓前に自民離党の決意を報告したのは2009年1月12日、雪の降る日だった。それから5年。「政界再編の触媒」を目指した党は分裂し、喜美氏は化粧品会社会長の告発によって窮地に立たされている。
「8億円の問題? 驚いたし、あきれました。公務員制度改革とか言っていることは立派だけどねえ」。近くの花店で出会った女性(72)は表情を曇らせた。「お父さんは地元に帰って支持者と握手をするとき、『やあ○○さん』と必ず名前を呼んでくれた。どんどん偉くなっていったけど、『地元の人』という感覚はいつまでも変わらなかった。喜美さんはあまり帰ってこないし、あの人の代になって政治が遠くなったような気がします」

前大田原市長の千保(せんぼ)一夫氏(71)は地元後援会幹部として渡辺親子を支えてきたが、10年の市長選で多選批判の出ていた千保氏を喜美氏が支援しなかったのをきっかけにたもとを分かった。
「喜美さんは頭もいいし、信念もある。しかし、政治家として一番大事な部分がぽっかり空いている気がします。それは人への気配りや謙虚さです。お父さんの後を継いで衆院議員になった直後、そういうところが見えたので注意したこともあります。やはりミッチーに比べれば苦労が少なかったからでしょう」
「信言不美 美言不信」(信言は飾らず、美言は信ならず)。美智雄氏はよく色紙にそう書いた。その言葉通り飾らずおおらかな人柄だった。千保氏によると、美智雄氏は秘書として仕えていた息子の優秀さを高く評価しながらも「政治家には向いていないかもなあ」と周囲に語っていたという。「今の事態をミッチーが見れば『やっぱり』と思ったかもしれないね」
美智雄氏は幼くして生母を亡くし親類の家に2度、里子に出されている。22歳で終戦を迎え郷里に戻って行商人、税理士に。数字に強く蔵相、通産相などを歴任した。中曽根派を譲り受け、派閥の領袖(りょうしゅう)に納まるとともに副総理兼外相にまで到達したが、がんに倒れた。わかりやすさと本音がブレンドされた「ミッチー節」のルーツは行商人時代、雑貨を売りながら天下国家を論じた頃にさかのぼる。

http://matome.naver.jp/m/odai/2134883260842257001?page=2
そのミッチー節はしばしば脱線した。「野党は税金を負けろなどとうまい話ばかりするが、毛針で釣りをするようなもの。釣られる魚は知能指数が高くない」「クレジットカードが盛んな向こう(米国)では黒人だとかいっぱいいて『あしたから何も払わなくてもいい』、それだけだ。ケロケロケロ、アッケラカーのカーだよ」などは政治史に刻まれている。なのに致命傷にならなかった。「すぐに撤回して謝罪しただけでなく、例えば黒人蔑視発言の後には米テネシー州にある黒人のための医学校に5年間、毎年1000万円を寄付し続けた。“リカバリー”がうまいんですよ」(政治ジャーナリスト)
「先生の、あの独特のキャラクターが問題を収束させたように思う。徳と言い換えてもいい」と話すのは美智雄氏の秘書を15年間務めた中川幹雄・栃木県議(63)=みんなの党=だ。「ただ、喜美さんは自民党を離れて新党をつくっており、その意味では(自民党を出なかった)師を超えたと言えるのではないか。今回の問題にしても、資産の報告を修正すればいいこと。もちろん、早めにきちんと説明をして有権者に納得してもらう必要はありますが」
美智雄氏もカネの問題でつまずいている。88年に発覚したリクルート事件で当時秘書だった喜美氏が未公開株5000株を受け取っていたことが判明。「単なる経済活動」と言い募り、このときばかりは強い反発を招いたが、90年の衆院選は10万票を集め危なげなく乗り切った。
94年、細川護熙内閣退陣の際、美智雄氏は小沢一郎氏から自民党からの離党を条件に首相就任を打診され一時、前向きな姿勢を見せた。だが結局は離党せず、95年9月に亡くなった。「ミッチー新党」に踏み切れなかったのは、自民党に残る子飼い議員らが干されることに耐えられなかったからとされる。「情の人」らしいエピソードだ。
「ミッチーが首相になれなかったのは情に流されたからだと喜美さんは思っている。父親を乗り越えるため、あえてドライな政治姿勢を貫いている節がありますね」。そう指摘するのは後援会のある古参幹部である。
ドライも度を越すとイメージを損ねる。結いの党の分裂騒ぎでは「円満な独立」をぎりぎりまで認めようとせず、喜美氏の「器量」への疑問を抱かせる結果となった。
喜美氏は自身のホームページにこう書いている。<ミッチーは亡くなる直前、私にこんなことを言い残した。『喜美、お前の話は理屈が多すぎる。理屈で人を説得しようと思うな。大事なことは、まごころだ』。私にとってはとてつもなく重い言葉となった>

「騒動の本質はみんなの党から分かれた江田憲司氏の結いの党が仕掛けた権力抗争」「理不尽なスケープゴート祭りは必ず潮目が変わる」。8億円ものカネが公にされず動いていたこと自体が不信を招いているのに、喜美氏の反論は「開き直り」と受け取られ傷口を広げている。「理屈で説得するな、まごころだ」と語ったミッチーの真意が伝わっているとは言い難い。
「去後民思」(去りて後に民思う)。これも美智雄氏がよく口にした言葉だ。民衆が政治家の本当の功績を知るのは彼が去って後のこと--との意。ミッチーは「愛された政治家」として名を残した。喜美氏はどうか。
帰り際、新幹線の駅がある那須塩原市の郊外に立つ美智雄氏の銅像の前に立った。風雨にさらされ、どこか悲しげに見えた。
(毎日新聞 2014年04月07日 東京夕刊)

▲http://3748.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-3408.html?optimized=0
【今日の御言葉】