今日のpengelカードメッセージ
自由
自由
思ったように生きるためには
自分が何を思っているのかを知らないとね。
心の声が聞こえたらそれに従うのが自由。
ばいペンジェル
自由に生きるって、まず自分を知らなきゃいけないし、いろんなものに引き摺られるし、ほんとハードなハードルがあるのです(笑)
ワガママかなぁって思えるほど自由で、だけどそこには愛があって。
前も書いたかもしれないけど、私が卒業した高校には、規則がありません。
校則がないから、校風はまさにザ・自由(笑)
卒業アルバムを見せると、みなさま、アメリカンスクールみたい!という感想を持ちますが、まさにそんなイメージの高校でした。
私服だったし、授業中なのに机の上にジュースが出ていたり、それぞれ自由な感じで勉強しているの(笑)
でもね、自由にやっているんだけど、授業の妨げになるようなことはしないの。
それはなんとなくみんな自主的にそうしていました。
というのも先生はいつもこう言っていたのです。
この学校に通う生徒は、自分でやっていいことと悪いことがわかるレベルに達していると思っている。
自分でやっていいかわるいか判断できると信じているから、あえて規則を作って縛る必要などない。
おのおの考えてよりよい高校生活を送ってくれたまえ。
そう言われると、ついつい一生懸命自分の心の声に聞いちゃうのです。
これはやっていいのか悪いのか?
自分たちはその判断をできる人間だと思われているという誇りと、信じているというその期待がなんだかうれしくて。
だからこそ、自分で判断を下すという責任の重さを受け入れて、その中で、自由なんだけど、でもあえてやるかやらないかを決める。
ということをするようになる。
まあ、難しく言いましたが、基本的に、パーマなんていうのはぜんぜんオッケーです。
だけどタバコやお酒はしない。
みたいな暗黙の了解というか。
人に迷惑かけたり法律に違反することは、言われてやめるんじゃなくて自主的にしない、だけど人に迷惑もかけないし、法律に違反しないことなら、高校生でそれはどうよ?ってレベルのことでも、自分がしてみたいならやっちゃっている。
みたいな感じだったと思います。
自由ってやりたい放題のように聞こえるかもしれないけど、自分の魂の声にしたがって、なにかしら基準値があって、その中で、動いているのかもしれないって思います。
自由とは、自分に由るってことなんだと思うけど、その自分とは、俺が私がの自分ではなくて、魂のほうの自分の真我によるってことだってことを書いたと思う、うん。
2002年の3月に書いたメルマガ(翼をたたんで今日はお昼寝)の、
『魂は誰のもの?』というエッセイに書いてありました。
以下その文章~
私は、自分がスピリットから直接感じたことを、マインドが知っていると勘違いしていたことに気がつきました。
スピリットは私でもありすべてでもある、だけど、『和恵』という意識(マインド)と、スピリットは別の存在だったのです。
魂と繋がることができればできるほど、自分が魂であると錯覚をしてしまうのです。
宗教家の方がたまに、私は神であると言いだすのと同じです。
それはある意味正しいけれど、私という存在を何処に置くのかで、まったく意味が違うのです。
自由の定義を自分に由るとし、その自分をどこに置くのかで大きく意味が違うように。
自由の『自分』をマインドに置いてしまうと『人を殺すのも俺の自由だもんね』という発想もまかり通ります。その自分をマインドではなく、魂だと感じることができたら、自由の本当の
エネルギーを感じることができるでしょう。
あらゆるものからの自由、それは、マインドを空っぽにして魂そのものになること。
そのとき人は本当の自由を知ることができるとそう思っています。
2002年から、スピリチュアルなエッセイや小説を書いて発行しているメルマガ(翼をたたんで今日はお昼寝)のバックナンバーからエッセイを拾いだして書いている、自分の書いたものを整理するためでもあるブログ(笑)↓
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