[書籍紹介]
これは、拾い物の時代小説。
銀平が南本所の橋のたもとに蕎麦屋の店を出して三十年。
客が5、6人も入れば満席になる小さな店で、
蕎麦を作るのは日に二十杯と決めている。
他の蕎麦屋が一杯十六文取るところを十文。
儲けるつもりはなく、
自分一人が食べていければよいからだ。
かつて銀平は、本所一帯の普請場に人足を手配する
忠兵衛という男のもとで働く人足の一人だった。
博変も強く、その才は注目されていた。
忠兵衛が病で倒れると、
跡目を継いだ息子の丑吉は、頭の度量はなく、
それを機会に、忠兵衛の勧めで、銀平は堅気になった。
その置土産として、
忠兵衛に乞われて「八州博変」(広範囲の博打打ちが集まる大規模なご開帳)で一稼ぎして、
一家の危機を救った。
目立たない場所で、故郷伝来の独特の田舎蕎麦を出すので、
安値に惹かれた常連客しか来ない。
一人は勘次という下っ引き。
もう歳で、同心から引退を勧告されている。
一人で来るおケイという夜鷹。
過去に何かがあるのを匂わせる。
10文さえ出せない乞食の親子。
一杯の蕎麦を二つに分けて食べさせる。
銀平はそうした彼らにも暖かく接していた。
その銀平も六十になり、
最近、腹の奥の痛みがひどくなり、
吐血もした。
父親が死んだ時と同じ症状で、
死期が近いことを悟る。
これで楽になれると思うと同時に、
己の命を何かに役立てようと思い始める。
外道だった人生だったが、
最期に何か納得のできる終わり方をしたいと考えるようになる。
父は、「自分は屁だ」と言って死んだ。
そんな死に方しかないのか。
代わり映えのしない毎日だが、
最近、清太という若者と暮らすようになった。
清太は、博変にのめり込み、
賭場の金を持ち逃げして追われている。
銀平は、このままでは殺されるからと、
昔なじみの親分と渡り合い、
清太の命を救って、
一緒に蕎麦屋をするようになる。
銀平は、清太の中に、
若い頃の自分の姿を重ねる。
また、40年前に男を作って出奔した妻・おようが久しぶりに顔を出した。
金の無心をされ、今の境遇を心配する。
銀平はおようとやり直せるかと考える。
こうして、人生の最後に、
昔の妻と若者との交流の中で、
銀平の心が揺れる。
一旦は清太に裏切られた銀平だが、
遊女を身請けして、まともな暮らしをしたいという
清太の願いをかなえる資金を稼ぐために、
丑吉の代理で、八州博変に行くことになる。
かつての博徒の血が騒ぐ中、
八州博変の場に行った銀平は、
自分の過去の罪に関わるある人物に出会ってしまう・・・
これに、飢饉の国から逃れ、
飢えをしのぎながらの
父と子の流浪の旅路、
その時に犯した罪に責められる心、
一年に一度だけやって来る乞食坊主との交流、
夜鷹のおケイの罪などの話がからむ。
江戸の片隅に生きる初老の男の
人生を描いて切ない。
老いと孤独、
人生の辛さ、切なさ、絶望感が銀平の心を揺さぶる。
どこかで読んだ話のような気もするが、
案外、どこにもなかった話のような気もする、
独特な時代小説だ。
時代は変わっても、
人間の悩み、幸福を求める心は同じなのだな、と思わせる。
生きることは、どう死ぬかということ。
江戸時代の人は、最後の時、
どうやって自分の人生に落とし前をつけたのだろうか。
作者の松下隆一は、元脚本家で、「雲霧仁左衛門」などを書いた人。
しかし、映画やテレビの時代ものの需要が減り、
見切りをつけて、小説家に転身。
記述にいかにも脚本家が小説を書いたような臭みがまだ残っているが、
今後、期待できそうだ。
レビューに、
「池波、山本、藤沢の系譜を感じさせる時代小説の担い手がここに」
とあったが、
そう化けるか、そうではならないのか。
「侠」を「きゃん」と呼ぶ。
「勇み肌でいきなさま。またそのような人」
と表紙裏に書かれている。
説明を受ければ、そうかと思うが、
もう少し良い題名はなかったものか。
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