今日は、固い話題で。
このところのいじめ、自殺報道のあり方について、強い違和感を感じている。
マスコミの報道のやり方に偏りを感じるのだ。
学校、教育委員会をバッシングするばかりで、何が解決すると言うのか。
こんな報道の仕方をしていたら、連鎖反応的な自殺者が出てくるのではないかと懸念していたら、案の定、連日のように自殺の報道がなされる。
この中の幾人かは、もしかしたら過剰な報道がなければ自殺までには至らなかった子どももいるかもしれない。
そんなことを考えていたら、こんなコラムを見つけた。
増える「いじめ自殺」 解決は子ども主体で
著者 渋井 哲也(しぶい・てつや)フリーライター。
私の文章などより分かりやすいので、一部引用します。
こうした過剰な報道が「連鎖自殺」をひき起こすのでは、と思うのは考えすぎだろうか。「いじめなどによる絶望感」を原因とする「自殺」が大きく伝えられることによって、「絶望感」を解決する手段として、子どもたちが「自殺」を頭に浮かべるようになるだろう。さらに、学校などの対応がバッシングされる光景を見た子どもたちが、学校へアピールする方法として「自殺」を選んでしまう可能性もあるだろう。
私は、「死ぬな」、「生きていればいいことがある」ではなく、「逃げろ」と言いたい。不登校でも転校でもよい。いじめなどの絶望的な現状から一度逃げ、現場から距離を置くことを提案したい。そのほうが、「死ぬな」よりも、生きる選択の幅を広げられるように思う。
同じ事を取材し報道するにしても、切り取り方、編集の仕方一つで、
全く違うことになってしまう。
身近な地域の情報を取材された知人の話だが、
まずは結論ありきで、取材者の意図に合わないコメントは完全に削除され、
話した人の意見を全く無視した(むしろ反対の)記事が仕立て上げられたそうだ。
こういう大きな報道でも、同じようにセンセーショナルに煽ることを第一として、
犯人探し、スケープゴート探しをしているようにさえ見える。
報道は大切です。
でも、その方法を誤るととんでもない結果を引き起こすこともあるのだということをマスコミは考えて、報道して欲しいと思う。
別に正義漢ぶるつもりはないけれども、このところの報道には
そんなことを考えさせられている。
このところのいじめ、自殺報道のあり方について、強い違和感を感じている。
マスコミの報道のやり方に偏りを感じるのだ。
学校、教育委員会をバッシングするばかりで、何が解決すると言うのか。
こんな報道の仕方をしていたら、連鎖反応的な自殺者が出てくるのではないかと懸念していたら、案の定、連日のように自殺の報道がなされる。
この中の幾人かは、もしかしたら過剰な報道がなければ自殺までには至らなかった子どももいるかもしれない。
そんなことを考えていたら、こんなコラムを見つけた。
増える「いじめ自殺」 解決は子ども主体で
著者 渋井 哲也(しぶい・てつや)フリーライター。
私の文章などより分かりやすいので、一部引用します。
こうした過剰な報道が「連鎖自殺」をひき起こすのでは、と思うのは考えすぎだろうか。「いじめなどによる絶望感」を原因とする「自殺」が大きく伝えられることによって、「絶望感」を解決する手段として、子どもたちが「自殺」を頭に浮かべるようになるだろう。さらに、学校などの対応がバッシングされる光景を見た子どもたちが、学校へアピールする方法として「自殺」を選んでしまう可能性もあるだろう。
私は、「死ぬな」、「生きていればいいことがある」ではなく、「逃げろ」と言いたい。不登校でも転校でもよい。いじめなどの絶望的な現状から一度逃げ、現場から距離を置くことを提案したい。そのほうが、「死ぬな」よりも、生きる選択の幅を広げられるように思う。
同じ事を取材し報道するにしても、切り取り方、編集の仕方一つで、
全く違うことになってしまう。
身近な地域の情報を取材された知人の話だが、
まずは結論ありきで、取材者の意図に合わないコメントは完全に削除され、
話した人の意見を全く無視した(むしろ反対の)記事が仕立て上げられたそうだ。
こういう大きな報道でも、同じようにセンセーショナルに煽ることを第一として、
犯人探し、スケープゴート探しをしているようにさえ見える。
報道は大切です。
でも、その方法を誤るととんでもない結果を引き起こすこともあるのだということをマスコミは考えて、報道して欲しいと思う。
別に正義漢ぶるつもりはないけれども、このところの報道には
そんなことを考えさせられている。