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ディープ・パープル武道館公演1993:後編(思い出のパンフレット)

2006年07月13日 | コンサート・レビュー
私が席に着くと、すでに来場していた後輩は虚ろな目で「リッチー脱退って、そりゃないっすよね~」、「うん、今朝の新聞で知ってショックだったよ」と私、「ここに来てはじめて知ったの?」と聞くと「そうです」と力なく頷く始末。まあ、仕方ないと気を取り直して観戦しましたが、やはりリッチーのいないパープルはパープルではありませんでした。
サトリアーニも卓越したテクニックでリッチーに勝るとも劣らぬギターワークを披露するのですが、違うんですよね~
お目当てのギランのボーカルも衰えが目立ち(そう思いたくはないが)、高音部のシャウトはエフェクトで長くしたり、ごまかしが見え見え。リッチーがいないせいかよけい違和感を感じたのでした。
まあ、私としては憧れのギランを生で観れたことは満足でしたが、武道館からの帰り道を歩きながらなんともいえないやるせなさを感じたことを今でも覚えております。

写真はそんな思い出のある日本武道館公演のパンフレットです。1993年も暮れようとしている12月のことでした。

行ってきました!ノア盛岡大会 その2

2006年07月12日 | プロレス館
第5試合の菊池・本田vsKENTA・力皇では、先日タッグ王者に返り咲いた本田多聞が小橋のベルトも2本持って登場。多聞の小橋の分まで。。。という気持ちが伝わってくる。
KENTA・力皇組はスピードとパワーが噛み合ってなかなかよかった。
第6試合の潮崎・田上vs丸藤・森嶋も田上と森嶋のぶつかり合いは近くで見ていて迫力があり面白かったが、やはりKENTA・力皇組と比べるとキャリアの差を感じました。
メインの6人タッグは三沢と秋山の絡みはあまりなく、泉田選手のお笑い路線の一人舞台といった感じ。あ~あ。。。三沢、秋山にもう少し絡んで欲しかった。
正直、調整という感じが否めなかったが、まあ、地方興行なんてこんなものか。。。
ただ、レスラーを近くで見るとやはり迫力が違います。場外乱闘もなかなかの迫力!ドームで見てもこうはいかない。こういうところはやはり地方会場に限る!(苦笑)
それにしても、小橋の抜けた穴は予想していたとはいえ大き過ぎますね~
16日の武道館は健介と病み上がりの高山に頼るしかないのか。。。

第5試合

第6試合

第7試合

行ってきました!ノア盛岡大会

2006年07月12日 | プロレス館
昨日、我々盛岡プロレス同好会は去年の全日に続いて2回目のプロレス観戦を決行いたしました。
当日券があるという情報を得て会社が終わってから岩手県営体育館へ。
会場の前にいるダフ屋から前から6列目のチケットをゲット!
やはり小橋欠場で入りが悪いといっていました。
試合は予定通り夜の7時から開始。
入場はカッコつけるものの、派手なマイク・パフォーマンスもなく黙々と試合を続ける。この辺はノアのいいところ?
正直言って、今の選手はあまりよく知らないのでパンフレットを買って今日のマッチメイクを見たとき、最初の4試合は見なくてもいいかな、と思いました(苦笑)。
しかし、ふたを開けてみるとこの4試合もなかなかガチでよかった。
メキシコから来たルチャドールはなかなか動きがよく去年の全日のように退屈するという試合がありませんでした。
日本人選手では川畑、石森、井上といったところが生きのいいファイトを見せてくれました。
それで期待しすぎたのかそのあとのメインを含めた3試合、特にメインの6人タッグは手抜きに感じましたね~(苦笑)

↓昨日のカードです。


ディープ・パープル武道館公演1993:前編(リッチー脱退の衝撃!)

2006年07月11日 | コンサート・レビュー
1993年12月、ついにその日はやってきました!
日本公演の当日、私はいつもどおり朝、新聞を読んでいました。今日はパープルのコンサートだとワクワクしながら。
その時、新聞の片隅にパープル武道館公演の小さな広告が目に留まりました。
おお、いよいよ今日だ。しかし当日広告を載せるとはチケットが売れていないのかな?などと勝手な想像をしながら新聞を読んでいたのですが、次の瞬間、私の目はその広告に釘付けになりました。

そこにはパープルの写真とメンバーの名前が小さく書かれていたのですが、リッチー・ブラックモアの名前がありません。代わりにジョー・サトリアーニという聞いたこともない人の名前が書かれているではありませんか。何度見直してもリッチーの名前はありません。
私は一緒に行く後輩がリッチー目当てなのを知っていましたので教えてあげようかと思いましたが、気が進まず、彼も新聞を見ているかもしれないと思い留まるのでした。

来日直前のリッチー脱退は、私もショックでしたが、まだ私の場合一番のお目当てはギランなのでなんとか我慢できました、しかし、やはり残念。
そして、会社が終わってから武道館へ行ってみると会場の入り口あたりにリッチー脱退のためサトリアーニが参加という張り紙がしてありました。(と思います)
チラシ(×写真)ももらい、ああ、やっぱり今朝のことは夢じゃなかったんだと思いながら席にたどり着くと、すでに後輩たちは来場して呆然と座っているのでした。。。


ハードロック編:ディープ・パープル5(黄金のメンバーによる復活)

2006年07月10日 | 洋楽のルーツ
1984年、解散から8年の月日を経てついにディープ・パープルは第2期の黄金のメンバーで再結成を果たします。
時はヘヴィ・メタル全盛時代。ハードロックとヘヴィ・メタルの違いはリズムの軽さ?(ヘヴィ・メタルの方が軽くポップな要素を感じます)
アルバム「パーフェクト・ストレンジャー」はヒットしますが、私はあまり好きじゃなかった(苦笑)。
ここで、また揉めたのかギランが脱退、もとレインボーのボーカル、ジョー・リン・ターナーが加入。もうここまでくると私は聴く気にもなれませんでしたが。。。

こんなことを繰り返しながらも約10年が経過した1993年暮れ、パープル結成25周年ということで、なんと、またまた第2期のメンバーで再結成し来日公演を行うと言うではないですか!
場所は日本武道館!役者は揃ったぜ、ベイベー♪
とにかく、第2期のパープルは腐っても鯛!一度はこの目で見ておかねばと後輩やその友人達とチケットを買って心待ちにしておりました。
私の憧れのボーカリスト、イアン・ギランをひとめ生で見たい聴きたい!そしてやはりリッチーのギターも生で聴きたい!

さて、この来日公演にはまたひとつ落ちがあるのですが、私のディープ・パープルはこの武道館公演で完全に終焉を迎えることになるのでした。

ディープ・パープルは今でも活動を続けており、今年も日本にその勇姿を見せています。今でも彼らは偉大なるブリティッシュハードロックバンドであることに変わりはないのです。

ハードロック編:ディープ・パープル4(リッチー脱退~そして解散)

2006年07月09日 | 洋楽のルーツ
結局、第3期のパープルはうまくいかず「紫の炎」「嵐の使者」(写真)という2枚のアルバムを発表したものの、バンドに嫌気が差したリッチーはソロアルバム「銀嶺の覇者/RITCHIE BLACKMORE'S RAINBOW」を製作(1975年2月)、ついにはディープ・パープルを脱退し、(レインボーを結成)第3期は終わります。
私は第3期になると、もうほとんど聴く気になれず、バンドの動向だけは知らず知らず気になってはいましたが。。。
ディープ・パープルはその後リッチーの後にトミー・ボーリンを迎えますが、もうその音はディープ・パープルではありませんでした。76年についに解散。カヴァーディルはソロアルバムを経てホワイトスネイクを結成。後に、ジョンとペイスも合流し完全なパープル・ファミリーバンドとなります。私はよく聴いていませんでしたが、このバンドはかなりの人気があったと思います。この頃のカヴァーディルがまたかっこよかった。
しかし、第2期黄金期を知る私のようなパープルファンは、いつかリッチーとギランのパープルが復活しないかと淡い期待を寄せるのでした。

また、時代も70年代から80年代へと、重厚なハード・ロックからヘヴィ・メタル全盛へと変わっていき昔のパープルやブラック・サバス、ユーライア・ヒープ、アメリカンハ-ドのG・F・R(グランド・ファンク・レイルロード)のようなバンドはツェッペリンを例外として姿を消して行きます。
その、ツェッペリンもドラムのジョン・ボーナムの死により1980年に解散を余儀なくされるのでした。

プロレス秘宝館(雨にぬれても)

2006年07月08日 | プロレス館
この時に色紙にもらったサインです。
私はジャイアント馬場選手にサインをねだりましたが、あっさり断られがっかり。
日本人選手は引退を表明していた吉村選手と函館出身のG小鹿選手にサインを貰えました。
外人選手は意外に気さくでムース・ショーラック、ラリィ・オーディ、ロン・ミラー、(オーストラリアンズ)がでてきたところを荒稼ぎ。
そしてもっともサインを狙っていたキラー・コワルスキーが控え室からふらりとでてきてリング上の試合を見ているのを発見!
薄暗い会場の中でヌッと立っている長身のコワルスキーの後ろ姿は不気味でした。
私はコワルスキーの後ろから足音をしのばせ(じゃないか)近寄り、色紙を差し出しました。
コワルスキーは一瞬、驚いたように私を見ましたが、無言でサインをしてくれました。
怖かったけれど、飛び上がるくらい嬉しかったです!
ただこの日は、すごい雨だったので、持っていった色紙が濡れてしまいあまり状態が良くありません、残念。




プロレス秘宝館(1972.7.8豪雨の函館大会)

2006年07月08日 | プロレス館
雨足はだんだんと強くなってきます。
しかし、この日は慰霊堂の野外特設リング!
さすがの馬場・坂口の東京タワーズも雨には勝てず、ついに会場変更となります。
急遽会場になったのは、なんと函館朝市!
これには最初ビックリしましたが、当時函館には屋根付きの大きな会場がなくプロレスは野外でやるのが通常だったようで、このような緊急事態に急遽用意できる屋根付きの会場は朝市だけだったのです。
私も大雨の中、早速朝市へ向かいました。
朝市の中は急遽整備されたせいか、座席もいい加減で私はほとんど席に着かず時折姿を見せるレスラーにサインを求め彷徨っていました。

初生観戦ということで舞い上がっていたせいか、試合内容はほとんど覚えていませんが、コワルスキーのふわりと宙に浮くニードロップはまさに妖鬼、妖怪という感じでゾッとしました。これがユーコン・エリックの耳をそぎ落としたニー・ドロップか~と感涙にむせび、ムース・ショーラックはもうとっくに峠を越しておりましたが、おお、これが力道山に怪我をさせたショーラックか~とその巨体に見とれ、前評判の割に期待はずれだったジミー・バリアントに対し、活きのいいファイトを見せてくれたオーストラリアンズも印象に残っています。
しかし、よほど興奮していたのか誰と行ったのか良く覚えていないのです。たぶんM君だと思うのですが。

写真は当日会場で購入したパンフレットです、この頃は本日の試合がゴム印で押印されております。
また、この日の函館の大雨についてはその当時のゴング誌でも取り上げられ、ちょっとした話題になっていたようです。

プロレス秘宝館(ジャイアント馬場サイン会)

2006年07月07日 | プロレス館
さて、当日の昼間、函館市内のデパートでサイン会がありました。
本物のプロレスラーに会えるとワクワクドキドキしていったのを覚えています。
でも、肝心の馬場選手は来てなかったような気がします。
吉村選手はすごく真面目な感じでもくもくと色紙にサインをしていた記憶があります。
この日は雨で、次第に強くなり、このあとの興業に多大なる影響を及ぼすのでした。

さて、このサインは誰のかわかりますか?簡単ですね。
4人の寄せ書きです


そして、これは?そのままですね。

七夕特別企画:プロレス秘宝館

2006年07月07日 | プロレス館
さて今日は7月7日七夕ということで、特別企画です!
7月8日、つまり明日は私が生まれて初めてプロレス生観戦した日なのです。
今日、明日とプロレス初観戦特集を行いたいと思います。
時は1972年、私が中学1年生の時でした。
今日は前夜祭。
まずは当時の新聞広告からどうぞ!

ハードロック編:ディープ・パープル3(紫の炎:第2期から第3期へ)

2006年07月06日 | 洋楽のルーツ
最強といわれた第2期もリッチーとギラン、ロジャーの間に亀裂が入り2人が脱退。ギランのボーカルとロジャーのアイディアに飽きが来てバンドを辞めたがっていたリッチーを引き留めるために、脱退したがっていたギランとロジャーも併せてクビにしたという説もあります。
この二人は、76年にイアン・ギラン・バンド(後にギラン)を結成、人気を博しますが私はあまり好きになれなかった。(苦笑)
パープルには新たにデヴィット・カヴァーディル(v)とグレン・ヒューズ(b、v)が加入します。
カヴァーディルは全くの新人でオーディションによって選ばれ、ヒューズとツインボーカルという形で第3期はスタートしました。
ファーストシングルは「紫の炎」(burn:写真)同名のアルバムから74年にリリース。これは、第2期の流れを汲んだ曲で結構ヒット、私も好きです。しかし、イアン・ギランのボーカルとどうしても比べてしまう。
カヴァーディルのボーカルはまだ線が細かったし(これは致し方ないが)、ヒューズのボーカルも悪くはないのですが荒かった。
カヴァーディルはブルースが基盤で、どちらかというと高音よりも中低音に魅力のあるタイプだったと思います。彼が本領を発揮できたのは、やはり後に参加するホワイトスネイクのようなバンドで第3期のパープルには合わなかったのではないかと思います。
リッチーも路線を変えたかったはずなのに結局は第2期のイメージを引きずってしまった。それは私がそうだったように、その音がファンが望む音だったからかもしれません。

ハードロック編:ディープ・パープル2(第2期の名曲)

2006年07月05日 | 洋楽のルーツ
イン・ロック、ファイア・ボール、マシン・ヘッド。
この三枚のアルバムにはハイウェイ・スターをはじめスモーク・オン・ザ・ウォーター、ミュール、スペース・トラッキン、ファイアボール、ストレンジ・ウーマン、スピード・キング、チャイルド・イン・タイム、イントゥ・ザ・ファイアーとハード・ロックの名曲がずらり。それにブラック・ナイトを加えると私的パープルのベリーベストの完成です。
特にハイウェイ・スターでのリッチーの早引きソロと曲名そのもののスピード感、チャイルド・イン・タイムでの様式美とギランの絶叫ボーカル、ストレンジ・ウーマンでのリッチーのギターとギランの絡みはこれ以上ないハードロックの醍醐味で我々は熱狂したものです。
スモーク・オン・ザ・ウォーターは後にサザン・オールスターズがカバーして特にメジャーになりましたが、ハード・ロックバンドとしてはメロディのある独特のフレーズが印象的な曲ばかりです。
ブラックナイトは確かハードロック系の曲がヒットしないといわれていた名古屋から火がつき日本で大ヒットしたというようなことを聞いた覚えがありますが本当でしょうか。
同じ時期にやはりブリティッシュ・ハードのレッド・ツェッペリンがおりましたがブルースを基調としており、私的にはパープルの方が判りやすかった。もちろんツェッペリンもすばらしいバンドで「天国への階段」のイントロのギターはコピーしたりしました。
まあ、ペイジ&プラントよりもリッチー&ギランの方が私には判りやすく魅力的だったということでしょう。はっきりした芯のあるボーカルとギターが私の好みに合ったのだと思います。
もともと私はボーカルに魅力を感じる人だったので、イアン・ギランのボーカルはその後の私にとってロックボーカルの基準というか、憧れ的な存在となりそれ以降の私のボーカリストの嗜好に多大なる影響をもたらすことになるのです。

ハードロック編:ディープ・パープル1(第2期黄金期)

2006年07月04日 | 洋楽のルーツ
いきなり第2期から入って恐縮ですが、私が中学1年の時、ディープ・パープルはすでに第2期黄金時代を迎えていました。
第1期は後追いで、ちょっと聴いただけ(苦笑)
ディープ・パープルはイギリスのロックバンドで、私は第2期から第3期への大きな転換期をリアルタイムで見ていたことになります。
第2期のディープ・パープルは、それ以前のジョン・ロード(key)を中心としたクラシックの要素を取り入れたロックからリッチー・ブラックモア(g)を中心としたハード・ロック路線に転換し大成功を納めていました。

マシン・ヘッド - Machine Head (1972)
ライヴ・イン・ジャパン - Live In Japan (1972)
紫の軌跡 - Purple Passages (1972)
紫の肖像 - Who Do We Think Are (1973)
紫の炎 - Burn (1974)

これが、私の中学時代に発表されたアルバムです。
マシン・ヘッド(写真左上)がでる前にイン・ロック(写真左下)、ファイア・ボール(写真右上)をすでに発表しており、これにマシン・ヘッドを加えた俗に言う第2期の3部作、特にマシン・ヘッドは後にロックのバイブルとも呼ばれるぐらいの傑作でした。
さらに72年の「ライブ・イン・ジャパン」(写真右下)は世界的に大ヒット。
ディープ・パールがまさにブリティッシュ・ハード・ロックの雄として君臨していた絶頂期でした。
なんといっても魅力は、リッチーの神業的な早弾きリードギターとイアン・ギランの驚異のボーカルにありましたが、ベースのロジャー・グローバー、ドラムスのイアン・ペイスという強力なリズム・セクションに支えられていたことは言うまでもなく、さらにキーボードのジョン・ロードが英国的な様式美を醸し出すという、まさに、当時最強のハード・ロック・バンドで、私もすぐにその魅力に取り付かれてしまうのでした。

私の音楽のルーツ(MY MIND レーティングス)~古いノートから

2006年07月04日 | 音楽のルーツ
さて、例のノートには1974年中学三年生のときから自分の中でのレーティングスを高校三年生まで作っていました。

1位はもちろんビートルズ。

以下次のとおりです。

2.ディープ・パープル
3.クイーン
4.エマーソン・レイク&パーマー
5.シカゴ
6.サイモン&ガーファンクル
7.ムーディ・ブルース
8.ローリング・ストーンズ
9.イエス
10.バッド・カンパニー