カレーと美女
Photographer 伊藤菜々子氏が撮った2013年のカレンダー
ナチュラルで優しい表情の美女たちが、カレーと一緒に写る12枚の写真
不思議な組み合わせも、月をめくる毎に自然な行為に思えてくる美しい写真ばかり。
絶賛販売中。
信じるとか信じないを、誰かや何かに頼っちゃダメだよ。
溢れてる情報を吟味して判断する力を、知識を、ちゃんと養おうよ。感覚とか、なんとなくとか、かっこよさげとか、そんな曖昧なことだけで、生きていく土台を、未来を決めるんじゃなくてね。
どうやって生きて行きたいか、どんな未来を子供達に見せてあげたいか、なるべくたくさんの情報を集める努力をして、じっくり自分の頭で考えていかないと。
そうして考え抜いた結論を大切にしてくれる社会を選んでいかないと。
感覚に訴える手法に騙されないように努力していかないと。
平和も自由も安定も発展も、ぼやっとしてて、この先もずっとあるなんて思っちゃダメだよ。
もういま、僕たちの社会は取り返しのつかないとこまで来てると思うんだ。
ネットで話題の忌野清志郎の言葉を引用しときます。ま、これも感覚の話なんだけどね。僕自身が考えていた事と近いので、あえて載せておきます。
「地震の後には戦争がやってくる。軍隊を持ちたい政治家がTVででかい事を言い始めてる。国民をバカにして戦争にかり立てる。自分は安全なところで偉そうにしてるだけ。阪神大震災から5年。(中略)
この国の憲法第9条はまるでジョン・レノンの考え方みたいじゃないか? 戦争を放棄して世界の平和のためにがんばるって言ってるんだぜ。俺達はジョン・レノンみたいじゃないか。戦争はやめよう。平和に生きよう。そしてみんな平等に暮らそう、きっと幸せになれるよ。」
写真は冬の原爆ドームです
Midnight Park
昼間は子供たちのはしゃぎ声が響くこの公園も、夜には夜の顔がある。
突き刺すような寒さの中、体を温めようと自転車で公園をぐるぐる回ると、暗闇の中のあちこちにうごめく影がある。まるで遊び足りなかった子供達の魂のようだった。
どうしてみんな、異なることをネタにあげつらったり、蔑んだり、バカにしたり、笑ったりするんだろ???
蔑まれる人たちは、学会であったり、女であったり、ビョーキであったり、在日であったり、共産党であったり、であったり、シナであったり、貧乏であったり、ホモであったり、脱原発であったり・・・「大多数の人」よりほんの少し「数の少ない」ありとあらゆる人を「変わっている」ってレッテル張って蔑む対象にする。
蔑む人たちは、自分たちが「普通」で「大多数」と思い込んでいる。
中には、「普通」も「大多数」もずっと変わらず続くものじゃなく、いつ崩れるか分からない危うい基盤の上に立っていることに、気づいていてる人もいる。
常に誰かと比較し、自分の「普通」さを確認して安堵しているだけなんだということを知りながら、あえて罵る列車に乗っている人たちがいる。
そして、大声で誰かを罵っている人たちの周りには、必ず一緒になって笑う人たちがいる。笑う人たちの多くは決まって言い訳をする、「その場の雰囲気を崩したくなかったから、仕方なく笑った」って。
仕方なくもくそも笑ったことには代わりないんだよ。笑った瞬間にあなたも蔑むことに積極的に加担してるんだよ、って思う。
あるとき、笑う人たちは、途方に暮れる。突然、笑われる立場に、蔑まれる立場になったときに。心の病気なった、家族が犯罪を犯した、障害者になった、兄弟が在日と結婚した、夫が浮気した、子供が引きこもった、出戻ってきた・・・
どこかの学校のいじめのニュースに「ホントひどいことするわねー」と同情しているけど、実は職場で、地域で、飲み屋で、いじめに加わっていることには気づいていない。いじめられている子供たちの多くが親や教師に相談しないのは、きっと、親が、教師が、日頃いじめる側やいじめを止めない側にいることを知っているからなんだろう。
「蔑む列車に乗ってしまうと、駅をどんどん通過して、降りようと思っても降りられなくなるよ」と、笑う人たちに教えてあげたい。
昨夜、近所でいつものようにソーダを飲んでいると、「どこの党にいれるんや?」とヘーキで周りに聴いていた人が「学会」をネタに、周りも一緒になって笑い始めた。以前には「在日」をネタに笑ってる所に遭遇したこともあった。
大声で蔑む人や一緒になって笑っている人たちに囲まれると、気分がとても萎える。気力体力があるときは、大声の人にちゃんと反論をする。気力体力がないときは、一緒に笑う人にだけはなりたくないので、その場から逃げる。
逃げるときまって後味が悪い。
信条の自由をネタに笑うことは止めた方がいいと一言だけでもいうべきだったんじゃないか?
その場の雰囲気を壊すことを避けて一緒に笑う人たちと、同じことをしてしまったんじゃないか?
「やっぱりタカハシさんは変わっている」「そういうとこ、やりにくいなあ」というレッテルを張られないよう、自分の身がかわいくて逃げてしまったことを、いつも少し後悔する。