「杉田文章は何が問題なのか」
どんなに読み返しても、自民党の杉田水脈議員が新潮に寄せた文章には、
納得できる部分はありませんでした。
そこで杉田文章をひとつひとつ反論していきます。
これ書くのにかなり時間がかかってしまい、仕事が滞っているので、
反論にはなかなか答えられないかもしれません。
ご了承ください。
杉田「LGBTだからと言って、実際そんなに差別されているものでしょうか。
もし自分の男友達がゲイだったり、女友達がレズビアンだったりしても、
私自身は気にせず付き合えます。職場でも仕事さえできれば問題ありません。
多くの人にとっても同じではないでしょうか。」
差別問題を論じる時に、よく言われるのが「僕は君が〇〇だって、なにも気にしないよ」という言い方です。
〇〇に対して自分にはなんら差別心はない。
だから世の中にも◯◯への差別はないという論法ですが、
この個人的体験の一般論化は、論点が飛躍しているどころか、◯◯に向けての差別を矮小化してしまいます。
まして一般の人が個人的な経験を語るのならいざ知らず、国会議員という立場にありながら、
差別問題を個人の見解だけで大鉈を振るってしまうと、これを読んだ人たちが、
差別是正を訴える〇〇に対して、より一層深い差別心を植えつけてしまいます。
杉田「 LGBTの当事者たちの方から聞いた話によれば、生きづらさという観点でいえば、
社会的な差別云々よりも、自分たちの親が理解してくれないことのほうがつらいと言います。
親は自分たちの子供が、自分たちと同じように結婚して、やがて子供をもうけてくれると信じています。
だから、子供が同性愛者だと分かると、すごいショックを受ける。
これは制度を変えることで、どうにかなるものではありません。
LGBTの両親が、彼ら彼女らの性的指向を受け入れてくれるかどうかこそが、生きづらさに関わっています。
そこさえクリアできれば、LGBTの方々にとって、日本はかなり生きやすい社会ではないでしょうか。」
では、どうして親は子供がLGBTだとショックを受けるのでしょうか?
それは、LGBTが、杉田氏のいう「普通」ではないと親が認識しているからなのです。
「普通」でなければ生きにくい社会、「普通」を強要する社会、そう親が自覚しているからこそ、
「普通」からはみ出てしまった我が子に理解を示すことができないのです。
これは、親の内心の問題ではありません。親は、社会です。
社会の中にLGBTに対する偏見や差別があるからこそ、親は理解しないのです。
杉田「 リベラルなメディアは「生きづらさ」を社会制度のせいにして、その解消をうたいますが、
そもそも世の中は生きづらく、理不尽なものです。それを自分の力で乗り越える力をつけさせることが教育の目的のはず。
「生きづらさ」を行政が解決してあげることが悪いとは言いません。しかし、行政が動くということは税金を使うということです。」
差別を受けている人たちの努力によって、差別を解消せよという論法は、差別解消政策の根本をまったく理解していないと言わざるを得ません。
杉田「 例えば、子育て支援や子供ができなカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、
少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。
しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。
彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。」
ここが問題の「生産性」の段落です。ひとを生産性という尺度で測ることの愚かさは、前の投稿に書いているので、そちらを読んでください。
天賦人権説を知らない国会議員というのもいかがなものか・・・。
杉田「 ここまで私もLGBTという表現を使ってきましたが、そもそもLGBTと一括りにすることが自体がおかしいと思っています。
T(トランスジェンダー)は「性同一性障害」という障害なので、これは分けて考えるべきです。
自分の脳が認識している性と、自分の体が一致しないというのは、つらいでしょう。
性転換手術にも保険が利くようにしたり、いかに医療行為として充実させて行くのか、それは政治家としても考えていいことなのかもしれません。
一方、LGBは性的嗜好の話です。」
LGBTの問題の基本として、「性的自認」と「性的指向(嗜好ではない!)」という問題があります。
自分の性がなんなのか自覚することが「性的自認」です。
例えば、生まれながらは男なのに、心は女であると認識することです。トランスジェンダーはこれに該当します。
「性的指向」とは、恋愛や性愛の対象がどこに向かうかを指す言葉です。
これは、決して本人の好みという意思の問題ではありません。
性的指向には固定性があるとするのが、法務省や国連の常識となっています。
LGBの方々は、こちらに該当します。
杉田氏が使っている「性的嗜好」という言葉は、まったくLGBの問題とは異なります。
嗜好とは、例えば、大きなおっぱいが大好きとか、背の高い人にセクシーさを感じるとか、男の鎖骨やばいとか、
そういった好みの問題です。
杉田氏は「性的指向」を、本人の意思によって変えられる「性的嗜好」と取り違えている可能性が高いと思われます。
まさか、国会議員が「性的嗜好」と「性的指向」を混同するとは思えないので、
意図的に「嗜好」という言葉を使って、LGBを貶めようとしている可能性も否定できません。
杉田「以前にも書いたことがありますが、私は中高一貫の女子校で、まわりに男性はいませんでした。女子校では、同級生や先輩といった女性が疑似恋愛の対象になります。
ただ、それは一過性のもので、成長するにつれ、みんな男性と恋愛して、普通に結婚していきました。
マスメディアが「多様性の時代だから、女性(男性)が女性(男性)を好きになっても当然」と報道することがいいことなのかどうか。
普通に恋愛して結婚できる人まで、「これ(同性愛)でいいんだ」と、不幸な人を増やすことにつながりかねません。
もう反論するのがバカバカしくなってきましたが、個人の体験の一般論化は、
間違っても国会議員という立場の人がしてはいけません。
また上にも書いた「性的指向」についてもまったく理解されてないようです。
「不幸な人」というこの一言に、杉田氏の差別心と偏見が現れています。
LGBTは不幸なのでしょうか?
杉田氏のいうようにLGBTが「不幸な人」であるとすれば、LGBTであることが不幸なのではなく、
LGBTを取り巻く社会がLGBTを「不幸な人」にしているのです。
杉田「最近の報道でよく目にするのは、学校の制服問題です。例えば、「多様性、選べる制服」(3月25日づけ、大阪朝刊)。
多様な性に対応するために、LGBT向けに自由に制服が選択できるというものです。女子向けのスラックスを採用している学校もあるようです。
こうした試みも「自分が認識した性に合った制服を着るのはいいこと」として報道されています。
では、トイレはどうなるのでしょうか。自分が認識した性に合ったトイレを使用することがいいことになるのでしょうか。
はい、もう多くの企業でトイレ問題は取り組んでいます。米国でも論争になっていますが、日本でもまだこれが正しいという答えは出ていません。
いま、各方面から対案を出し合って検討している最中です。
杉田「 トランプ政権になって、この通達は撤回されています。しかし、保守派とリベラル派の間で激しい論争が続いているようです。
Tに適用されたら、LやGにも適用される可能性だってあります。自分の好きな性別のトイレに誰もが入れるようになったら、世の中は大混乱です。
最近はLGBTに加えて、Qとか、I(インターセクシャル=性の未分化の人や両性具有の人)とか、P(パンセクシャル=全性愛者、性別の認識なしに人を愛する人)とか、
もうわけが分かりません。なぜ男と女、二つの性だけではいけないのでしょう。」
ここでも認識が間違っていると思うのは、「自分の好きな性別のトイレ」という言い方から、
やはり杉田氏は「性的指向」の意味を「嗜好」と取り違えているようです。
国連も日本政府も大手企業もLGBTの人権問題に取り組んでいく方向に舵を切っているにもかかわらず、
ここにきてまだ「二つの性だけではいけないのでしょう」というあたり、
LGBTの根本を理解していないどころか、自ら差別を助長しているとしか思えません。
杉田「 「常識」や「普通であること」を見失っていく社会は「秩序」がなくなり、いずれ崩壊していくことにもなりかねません。私は日本をそうした社会にしたくありません。」
では「常識」や「普通であること」とは、いったい誰がどのようにして決めるのでしょうか?
国によっても異なります。都道府県によっても異なります。
市町村や集落が違うだけでも異なる常識が山ほどあります。
逆に杉田氏に聴きたい、「普通を定義してください」と。
総論として、杉田氏は、
1)天賦人権説を知らない
2)性的指向と嗜好の区別がついていない
3)個人的体験を一般論化する傾向にある
4)差別の構造を理解していない
5)LGBT全般に対する無理解と偏見、差別心がかいまみえる
6)社会に存在する様々なマイノリティーに対して強い差別心がある
まだいろいろありますが、仕事が山積みなので、もうこの辺にしておきます。
生産性について書いた投稿はこちら
鶏とひとの生産性 加筆・修正しました
友人からいただいたメールを掲載したのがこちらです。
だれもが傷つく言葉・・・「生産性」に寄せられた投稿