諸漏という言葉がある。
諸々の漏れるもの、
それは何だろうか。
悪因縁から出てくる煩悩である。
それを「漏」というのである。
おのれの心の中に漏れ出てくるもの、
それが煩悩だという。
煩悩というのは、
悪因縁からでてくるマイナスの心を言うのだ。
悪因縁と煩悩とのつながり、
それが漏れるものを生み出す。
だから、
おのれの悪因縁をつかんで、
そこから出てくるもの=煩悩を知ることは大変に重要である。
これが悪因縁から生じてきている煩悩なんだと自覚し、
理解し、そして見つめることで、
その漏れ出ているものが煩悩だという認識が生まれてくる。
その煩悩はおのれの行動を左右するんだから、
その煩悩を出さないようにすることが大事なのだ。
そうして初めて、
漏れ出てくる心を退治することが可能となる。
だから、
おのれの悪因縁をしっかりと掴むことはとても大事だ。
それがなければ、
漏れ出てくる心が煩悩だということに気づけない。
だから、
おのれの悪因縁をしっかりと把握することだ。
そこで初めて、
心の解脱と煩悩の解脱が可能となる。
そのように私は気が付いた。
漏れ出てくるものとは、
悪因縁から出てくる心であることに。
そして、
見本としての良い心の状態を保つようにするのは、
やはりとても助かる修行法だと思う。
それを師より「課業」として指摘していただく。
ということですね。
で、
そういうことに気が付いたのは、
漏れるという言葉に、
その漏れ出ているものが、
悪因縁から出ているものなんだということに気が付いたからです。
今出ているこの良くない心は、
私が持っている『◎◎の因縁』から生じてきているんだと、
そう気が付いたからなんです。
そのとき、
経典になる「漏」という字の意味に気が付いた、
そのように思えたわけです。
そのとき、
釈迦の修行法の構造に気が付いたように思えたわけです。
釈迦は知っていたなと。
釈迦はアシタ仙人から運命学を習った。
そして、
人間に運命の有ることを知った。
そして、
その運命の星をつぶす方法を考えた。
それが運命を転換するという方法だったのだ。
それは私たちが師より指導をうけている方法と全く同じである。
果たして、
釈迦は釈迦は運命の星の動きを、
己の内面を凝視することで、
しっかりと掴んでいった。
これが悪因縁の星の動きなんだと、
己の心の動きを見つめながら掴んでいった。
その悪因縁の心の動きは、
煩悩という言葉で説明された。
その煩悩を断つことが、
運命の転換において必須と釈迦は見たわけだ。
だから、
おのれの心の動きを、
瞑想によってしっかりと観察していかれた。
それが釈迦の瞑想だった!
そして、
その悪しき心が出ないように、
いつも心を見張られたのだ。
だが、
その煩悩という心は、業から生じているので、
まず前世からの業を消滅させることを考えられた。
それが梵行ということだが、
それは完全解脱の上で、
必須の行なのだと思う。
見ただけでは不完全なのだ、
見て悟っただけではいけないのである。
見てそこから、
解決法を探し出して、
その解決法を実践すること。
これが大事なのだ。
今の師の指導法は完璧なんです、
今はっきりと確かめることができた。
それが「成仏法」なのである。
それを今、
あなた方は実践しているということなのだ。
追補
これはある先達の言葉から得たヒントです。
「釈迦の説いたことは、とても分かりやすいことだと思う。
難しいことではないんだと思う」と。
それが心解脱だと言われたわけですね。
彼は何冊かの本を書かれているんですが、
それは心の動きを説明されたものです。
それを考えているうちに、
ある時、ふと直感的にひらめいた。
それが「漏」という言葉です。
今、私の心の中に漏れ出ているある心、
これは私の持っている悪因縁から出ているなと。
そう直感的に理解した。
そこで、
その漏れ出てくるものを出さないようにする、
そして、その心の動きに対抗して、
良い行動を起こす。
それが大切なんだと。
そう思われたのです。
それが私の「悟り」かなと思います。
それが師に対する恩返しなのだと思って、
今、私はこのブログを書いています。
要は、
師に対する『信』しだいなんです。
しっかりと師についていきましょうね。