9月最終日曜日、南濃町から養老町~垂井町~関ヶ原町ルートを走ろうと思いましたが、
南濃町では到着する頃に降雨の予報が出ていたので、南濃町で走る予定だった20km分の距離を関ヶ原で延長して補うことにしました。
養老町牧田川
いつもは水が流れていますがこの日は全く流れていませんでした。
12時には大垣も降雨の予定なので養老SAや南宮大社での休憩もそこそこに関ヶ原に向かいました。
いつもの笹尾山とウォーランドを経由して、 玉の火薬庫がある地域に到着しました。
火薬庫営門跡
写真左側にも入り口に設置された門柱の一部(石造り)が残っています。
当時の地図を見ると道路に沿って関ヶ原鍾乳洞までトロッコ軌道が配置されていたようです。
大正3年(1914年)第一次世界大戦が始まった頃、国内の軍事力が強化されていき、
陸軍省は大正5年(1916年)、不破郡玉村(現関ヶ原町玉)に名古屋陸軍兵器補給廠関ヶ原分廠を設置しました。
その敷地面積は270haにおよび火薬庫として国内随一を誇っていました。
火薬庫の建設地の条件として、
山に囲まれ警戒や取締りが容易なこと。
本州の中央に位置し交通機関の利用に利便が良いこと。(江勢鉄道 伊勢四日市〜近江木之本間関ヶ原駅経由の開通)
庫内地域が広く人家から離れ危害のおそれがないこと。
気温が比較的清涼なことなどが挙げられ建設候補地として玉村が選ばれました。
玉村での用地買収は難航したようで、村の面積のほとんどが利用価値の低い丘陵山地で、耕地の少ない玉村の村民にとって貴重な耕地を失うことになる火薬庫の建設は死活問題で、多くの村民が建設に反対していました。
当時の国策に従わざるをえない社会情勢と軍の強硬によって火薬庫の建設が決定しましたが、終戦後、火薬庫は進駐軍によって閉鎖・解体され跡地は村に返還されました。
参照「平和の願い」玉区地域振興委員会
営門と立哨台
洗濯場跡
案内板立ってないので分かりにくいですが火薬庫の遺構です。
半洞窟火薬庫
営門の先には半洞窟火薬庫が残っています。連結棟で15棟ありました。
半洞窟火薬庫とは、倉庫の上に土を被せて樹木を植えて周囲の山と一体化し洞窟風にしたものをいいます。
終戦後、この棟は解体されず、昭和41年(1966年)にスケートセンターとして再開発され、食堂や休憩場、貸靴場として利用されていました。
関ヶ原鍾乳洞の入り口
戦時中、写真の鍾乳洞入り口までに煉瓦やコンクリートでつくられた地上火薬庫が28棟が配置されていましたが、終戦後、進駐軍によって解体されました。
地上火薬庫とは地上に倉庫をつくり周囲を土塁で囲んだものをいいます。
跡地にはメナードランドなどの娯楽施設が開設されたので(現在は廃園)、火薬庫の遺構を探すのは難しいかもしれません。
土塁と隧道跡でしょうか。
この道にもトロッコ軌道が通っていたようです。
立哨台の奥には洞窟火薬庫があります。
洞窟火薬庫
鍾乳洞のある一帯では写真のような洞窟火薬庫を見ることができます。
洞窟火薬庫とは山腹や丘陵を利用し横穴を掘って内部に倉庫をつくったものをいいます。
洞窟火薬庫内部の様子
内部奥の方でたくさんの虫の羽音が聞こえていたのと真っ暗で怖かったのでこれ以上は近づけませんでした。
鍾乳洞売店にはサイクルラックが設置されていました。
行動食
麺類以外は何もなかったのであずきモナカです。
鍾乳洞
鍾乳洞横には玉倉部神社があります。
石には日本武尊と彫られています。
火薬庫ができたときにその敷地内の守護神として建立したと伝えられています。
傍らには「玉倉部の清水」が流れています。
売店にあるそば屋の店主が、壬申の乱は皇位継承争いだけでなく地域の水をめぐった争いでもあると話してくれました。
地元でしか知られていない逸話もありそうなので、また調べてみたいと思います。
ネットに何やらたくさんくっついていました。
ヘビ・・・(つくりものだと思いますが)
道路脇にも何やらあります。
トラ!
壊されなきゃいいけどなあ。
垂井町内を通過して帰ります。
天気予報どうり、帰宅後30分で土砂降り。
走行距離67km。まずまず走れました。