昨日はめずらしくブログ更新しましたね。
ここのところ、これ、ちょこっと突破口が見えてきた感じがします。
感情の問題です。
この感情とゆーものが幸福であったり不幸になったりするということです。
不安になったり、興奮したり、恐れたり、愛したりと忙しい感情くん。
この感情は思い込みから主観的に形成されるので、個人的なもののようです。
同じ出来事に触れても人によってとる行動も受け取る感情も違います。
苦しむとゆーのは、起きてきた出来事を判断して、善悪の価値観で、悪に感じられることや、何かが失われた時だと思われます。
そーしたときに意味もなく不安になったり、怒ってしまったり、優しくできなかったり、まあ、マイナスな言動をします。
また欲しいものが得られたり、好きな人と一緒にいたりすると苦しみはなくなります。
そこにいるだけで、幸せな気分ですね。
嬉しいとゆー感情、これが幸せです。
当たり前ですがwwww
この感情と自分がひとつであることが、実は、苦しみの原因かもしれません。
思いも動作も、自分は、そこを見ること、離れて見ることができますが、感情は、なかなかそーはできない。
怒っている!
その怒りがあるのは、自分が怒っているとひとは感じているのです。
それが私とゆーものの登場による苦しみですね。
しかし、この怒りは、どのようにでもコントロールできると言われます。
言われますとゆーか、嫌われる勇気に書いてありましたww
つまり、感情は自分ではなくて、自分に対して起こっているわけです。
とゆーことはです。
この感情を常に自分から離してしまえば、苦しみはあるけれども、影響されないとなります。
これは、かなり有効ではないですかね?
何が起こってきたにせよ感情が、それに伴って反応している。
苦しみは、その胸の痛みです。
そしてその苦しみは、自分がつくっている。
ここで、この、先ほどあるブログで目にした言葉があるのですが、ちょっと恥ずかしいので、まあ言葉を少し変えると、
私は愛だと言うとしましょう。
この私は愛だとゆー認識がもたらす効果はハッキリと感情に現れますね。
つまり愛が私だと規定すると、それ以外は、私ではないとゆーことになります!
不安で一杯のときに、私は愛だと宣言すれば、つまり、その不安は私ではない。
自我の生み出した対象としての不安となります。
そーなってくると、私が不安なのではなく、機械的な不安が起こっていると離れます。
私の中心点は愛であって、つまり、その不安や恐れは私のものにはならないのです。
完璧な解決wwww
しかし本能的な恐怖とかはどうするんだ?笑
あー、まあ、それもいちいち、個別に対処するのではなくて、私ではないと離れることで、常に愛とゆー源泉にあれるかもしれない。
まあ言葉はなんでもいいんですけどね。
神でも仏でも愛でも無心でも。
とにかく、この、感情が、直接に自分だとゆーことから解放されたら楽になります。
不安がある、しかし、それは、わざと作られたものであって、それに自分が、乗らない限りは、苦しみはない。
あとは、まあ、お任せするしかないww
この世界は自分が何かする前にもう完成されているのだけれど、そこに、あとから自分とゆー分離された個が作られた。
この個は、ほんとうはない苦しみをたくさん、与えたのだ。
思い込みや勘違いによる苦しみ。
感情にのしかかる不安や絶望。
このような、ものから離れるには、それが、私ではないと見ることなのである。
そして私は実は、愛なのだとする。
これは、実際にどうなのかはともかく、テクニックとして、そー規定するといい。
私を愛するのではなく、愛である私がある。
行為によって達成されるのではなく。
感情や思考でもなく。
もう最初から、それが私であって、そこにしかいないのである。
苦しむのは、疑っているとゆーことである。
また信頼の話になってくるなwwww
無条件の仲間感覚は、愛とか許しで芽生えてはくるだろう。
この愛が自己であるとは、つまり、愛から外れた行為は自己ではないとなるwwww
それは、機械的な反応によって感情が昂ぶったときに起きやすい。
だから、その、反応を、どのようにして静めるかだけれど、これは私は愛だと宣言すると共に、その胸の奥にあるわたしに帰ることだろう。
純真無垢でなければとクリシュナムルティも主張したけれど、その純真さが、目の前の出来事にネガティヴになる自分を癒すのだ。
そして相手は敵ではなく仲間だと思う。
仲間に対してはできることがある。
その仲間感覚が、より広がれば、苦しみも消えていく。
もし、たった一人でも、自分とゆー相手は残る。
この自分とゆー相手は仲間だとwwww
なんか長く書きすぎて意味不明になってきたけど、とにかく、この自分と呼ばれている存在は複雑で、いろんな機能があるけれども、この自分の起きてくる思考、感情、動作は、これは、何人もの人がいるみたいなものなのだ。
そこでお互いの衝突が、すでに自分の中で起きているのである。
この不均衡によって自分とゆー存在は常に混乱しているのだけれど、それは、この一つ一つの機能の反応を自己のものと思っているからなのだ。
言ってしまえは、自分は自分の思うようにできないからこその苦しみである。
だから、自分のとゆー言葉を当てはめないで、この人の思考のように離れる。
感情も動作も離れる。
ここには二人の自己がいる。
一方は機能としての自己であり、もう一方は見ている自己である。
この見ている自己が、私は愛であると、感情の奥からその見ているものに慈愛を起こすことで、苦しみは消えるとゆーことである。
不安や恐れとゆー感情が、よろしくない行為に引っ張るのを、この見ている自己が平和を維持できれば、なくしてしまうかもしれない。
そうなれば調和のとれた自己愛があることによって、対人関係に仲間感覚をもつことが可能かもしれません。
敵と思えば不幸になるのですから、仲間と思うしかありませんwwww
仲間にどう貢献するか。
まあ、そこも、心身の平安があれば自然と整っていくのではないだろうか。
ノンデュアリティで、わたしはいないと知って一切の不安から解放されたら、日常も整ったと言う人もいますし、やっぱり感情は重要ですね。
じゃあ今日はこのへんで!
ここのところ、これ、ちょこっと突破口が見えてきた感じがします。
感情の問題です。
この感情とゆーものが幸福であったり不幸になったりするということです。
不安になったり、興奮したり、恐れたり、愛したりと忙しい感情くん。
この感情は思い込みから主観的に形成されるので、個人的なもののようです。
同じ出来事に触れても人によってとる行動も受け取る感情も違います。
苦しむとゆーのは、起きてきた出来事を判断して、善悪の価値観で、悪に感じられることや、何かが失われた時だと思われます。
そーしたときに意味もなく不安になったり、怒ってしまったり、優しくできなかったり、まあ、マイナスな言動をします。
また欲しいものが得られたり、好きな人と一緒にいたりすると苦しみはなくなります。
そこにいるだけで、幸せな気分ですね。
嬉しいとゆー感情、これが幸せです。
当たり前ですがwwww
この感情と自分がひとつであることが、実は、苦しみの原因かもしれません。
思いも動作も、自分は、そこを見ること、離れて見ることができますが、感情は、なかなかそーはできない。
怒っている!
その怒りがあるのは、自分が怒っているとひとは感じているのです。
それが私とゆーものの登場による苦しみですね。
しかし、この怒りは、どのようにでもコントロールできると言われます。
言われますとゆーか、嫌われる勇気に書いてありましたww
つまり、感情は自分ではなくて、自分に対して起こっているわけです。
とゆーことはです。
この感情を常に自分から離してしまえば、苦しみはあるけれども、影響されないとなります。
これは、かなり有効ではないですかね?
何が起こってきたにせよ感情が、それに伴って反応している。
苦しみは、その胸の痛みです。
そしてその苦しみは、自分がつくっている。
ここで、この、先ほどあるブログで目にした言葉があるのですが、ちょっと恥ずかしいので、まあ言葉を少し変えると、
私は愛だと言うとしましょう。
この私は愛だとゆー認識がもたらす効果はハッキリと感情に現れますね。
つまり愛が私だと規定すると、それ以外は、私ではないとゆーことになります!
不安で一杯のときに、私は愛だと宣言すれば、つまり、その不安は私ではない。
自我の生み出した対象としての不安となります。
そーなってくると、私が不安なのではなく、機械的な不安が起こっていると離れます。
私の中心点は愛であって、つまり、その不安や恐れは私のものにはならないのです。
完璧な解決wwww
しかし本能的な恐怖とかはどうするんだ?笑
あー、まあ、それもいちいち、個別に対処するのではなくて、私ではないと離れることで、常に愛とゆー源泉にあれるかもしれない。
まあ言葉はなんでもいいんですけどね。
神でも仏でも愛でも無心でも。
とにかく、この、感情が、直接に自分だとゆーことから解放されたら楽になります。
不安がある、しかし、それは、わざと作られたものであって、それに自分が、乗らない限りは、苦しみはない。
あとは、まあ、お任せするしかないww
この世界は自分が何かする前にもう完成されているのだけれど、そこに、あとから自分とゆー分離された個が作られた。
この個は、ほんとうはない苦しみをたくさん、与えたのだ。
思い込みや勘違いによる苦しみ。
感情にのしかかる不安や絶望。
このような、ものから離れるには、それが、私ではないと見ることなのである。
そして私は実は、愛なのだとする。
これは、実際にどうなのかはともかく、テクニックとして、そー規定するといい。
私を愛するのではなく、愛である私がある。
行為によって達成されるのではなく。
感情や思考でもなく。
もう最初から、それが私であって、そこにしかいないのである。
苦しむのは、疑っているとゆーことである。
また信頼の話になってくるなwwww
無条件の仲間感覚は、愛とか許しで芽生えてはくるだろう。
この愛が自己であるとは、つまり、愛から外れた行為は自己ではないとなるwwww
それは、機械的な反応によって感情が昂ぶったときに起きやすい。
だから、その、反応を、どのようにして静めるかだけれど、これは私は愛だと宣言すると共に、その胸の奥にあるわたしに帰ることだろう。
純真無垢でなければとクリシュナムルティも主張したけれど、その純真さが、目の前の出来事にネガティヴになる自分を癒すのだ。
そして相手は敵ではなく仲間だと思う。
仲間に対してはできることがある。
その仲間感覚が、より広がれば、苦しみも消えていく。
もし、たった一人でも、自分とゆー相手は残る。
この自分とゆー相手は仲間だとwwww
なんか長く書きすぎて意味不明になってきたけど、とにかく、この自分と呼ばれている存在は複雑で、いろんな機能があるけれども、この自分の起きてくる思考、感情、動作は、これは、何人もの人がいるみたいなものなのだ。
そこでお互いの衝突が、すでに自分の中で起きているのである。
この不均衡によって自分とゆー存在は常に混乱しているのだけれど、それは、この一つ一つの機能の反応を自己のものと思っているからなのだ。
言ってしまえは、自分は自分の思うようにできないからこその苦しみである。
だから、自分のとゆー言葉を当てはめないで、この人の思考のように離れる。
感情も動作も離れる。
ここには二人の自己がいる。
一方は機能としての自己であり、もう一方は見ている自己である。
この見ている自己が、私は愛であると、感情の奥からその見ているものに慈愛を起こすことで、苦しみは消えるとゆーことである。
不安や恐れとゆー感情が、よろしくない行為に引っ張るのを、この見ている自己が平和を維持できれば、なくしてしまうかもしれない。
そうなれば調和のとれた自己愛があることによって、対人関係に仲間感覚をもつことが可能かもしれません。
敵と思えば不幸になるのですから、仲間と思うしかありませんwwww
仲間にどう貢献するか。
まあ、そこも、心身の平安があれば自然と整っていくのではないだろうか。
ノンデュアリティで、わたしはいないと知って一切の不安から解放されたら、日常も整ったと言う人もいますし、やっぱり感情は重要ですね。
じゃあ今日はこのへんで!