豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

一枚の絵

2016-11-23 16:00:58 | 読者に人気の記事
こんばんは!

今日は久しぶりに思いついて坐禅1時間やりました。

何ヶ月ぶりやら、分からないレベルw

それから奇跡を求めてを一章だけ読みました。

何度読んでも意味不明です笑

妹たちが家族で遊びにきてくれて仕事前の食事の時に軽い会話をする。

姪っ子の絵が格段にうまくなっている。

坐禅って久しぶりにすると、スッキリ感がすごい記憶があったのだが、今日はまるっきりないw

なんも変わらない坐禅wwww

読書も新たな発見もなく、まあ、これね、これ。

みたいに落ち着いて読む。

昨日働いているときに思いついたんだけど、一枚の絵として見るのはよくないかな?

目の前の風景を個々別々な様々な生命や物質があるけれども、それら全部が一枚の絵。

そして、それは変化している。

けれど、ここでの変化は絵の方が動いているのだ。

普通の感覚では、自分が動いたと思う。

絵の方が動いていて、自分はその中にいない。

自分がいるとしたら、その絵の向こう側である。

しかし、その絵の向こう側は空。

つまり無いともあるとも言えない。

その絵と空はひとつなのだ。

そこが色即是空である。

この空とゆーのは、あるとは言えないのだが、便宜上空間があるとすると、その空間と絵の内容物の両方が自己である。

ここには感覚や感情が登場していないが、その感覚や感情も一枚の絵の中にある。

この絵の方に一体化するとゆーのは、絵、そのものしかないとゆーことだ。

普通の意識の持ちようでは、こちら側、つまり自分側とゆー感覚があり、自分が絵を見ていると思っている。

ところが、そんなこっち側とゆーのはない。

それも絵の中に含まれているのである。

そこにおいて、一切が消失してまた創造されている、そこ、それが、自己である。

その自己は存在するのだが、普通の感覚で言えば、私などいないと言える。

全てが起こっているけど起こっていないとは、そーゆーことではなかろうか?

このやり方は、こういった悟りの話に起点がないとゆーか、掴み所がないと思う人には非常に有効であると考える。

もちろん、それは認識の変更であり、それそのものが悟りではないが、そのような可能性を見ることができるのだ。

つまり、そこから解脱とゆー、離れるとゆー可能性の話が、理解しやすくなる。

道が見えれば、やりやすい。

この、こっち側、見ている自己とゆーのはない。

すべてがバレバレなのだ爆笑

その自己だと思う、耳目の裏側の空間は、外側にあり、その外側しかないのだ。

そして、もっとゆーと、その世界からの視点、こそが内面なのである。

真に主観的なもの。

人間存在のすべてである。

それが空である。

つまり元々、そこには、実体がないのであるが、それはないともあるともいえない。

完全なるおのれである。

完全とゆーのは欠けることなく、永久である。

しつこいけれど、それは、ないのだ。

無があるわけでない。

そこのところの理解は非常に難しい。

しかし、私は、それである!