668『自然と人間の歴史・世界篇』中国の改革・開放政策(1981)
1981年6月には、中国共産党の第11期中央委員会第六回全体会議が開催される。この会議において、毛沢東主導の建国以来の政策について、業績として評価すべき「成果は七割で、誤りは三割」という評価がなされる。これは、概ね、順当な総括なのではないだろうか。
もうひとつある。彼が提唱し、台頭してきていた党内の「政敵」を倒すためにも利用したであろう、その文化大革命については、全国人民代表大会常務委員会決議(1981年)における「路線上の誤りは触れない」との原則が貫かれる。具体的には、この会議において、胡耀邦(hu2yaobang1)が党主席に就任する。「建国以来の党の歴史の若干の問題についての決議」を採択する。
「1966年5月から1976年10月にいたる「文化大革命」によって、党と国家と人民は建国いらい最大の挫折と損失をこうむった。この「文化大革命」は毛沢東同志が起こし、指導したもので、その主な論点はつぎのとおりである。党、政府、軍隊と文化領域の各分野には、ブルジョアジーの代表的人物と反革命の修正主義分子がすでに数多くもぐり込んでおり、かなり多くの部門の指導権はもはやマルクス主義者と人民大衆の手には握られていない。
党内の資本主義の道をあゆむ実権派は、中央でブルジョアジーの司令部をつくり、修正主義の政治路線と組織路線をもち、各省、市、自治区および中央の各部門にそれぞれ代理人をかかえている。これまでの闘争はどれもこの問題を解決することができなかった。走資派の奪いとっている権力を奪いかえすには、文化大革命を実行して、公然と、全面的に、下から上へ広範な大衆を立ちあがらせ、上述の暗黒面をあばき出すよりほかはない。これは,実質的には、一つの階級がもう一つの階級をくつがえす政治大革命であり、今後とも何回もおこなわなければならないものである。
こうした論点は、主として「文化大革命」の綱領的文献としての『5.16通達』と党の第9回全国代表大会の政治報告のなかで明らかにされたもので、「プロレタリア独裁下の継続革命の理論」というものに概括された。したがって,「プロレタリア独裁下の継続革命」という言葉には特定の意味が含まれている。毛沢東同志の起こした「文化大革命」のこれらの左寄りの誤った論点は、マルクス・レーニン主義の普遍的原理と中国革命の具体的実践とを結びつける毛沢東思想の軌道から明らかに逸脱したもので、毛沢東思想とは完全に区別しなければならない。」(6月27日付け中国共産党第11期中央委員会第6回総会での決議の抜粋。)
これについての、ここで後日に語られたの鄧小平の認識は次のようなものであり、冷静沈着な彼にしても、当時は現場に身をおく指導者として「薄氷を踏む」思いで過ごしていたであろうことが窺えるのである。
「誤りについて述べる場合、毛沢東同志ひとりをあげつらってはならない。中央の多くの指導者にもみな誤りはあった。たしかに、「大躍進」のさい、毛沢東同志はのぼせていたが、われわれはのぼせていなかっただろうか?劉少奇同志、周恩来同志やわたしも反対はしなかったし、陳雲同志は何も言わなかった。」(鄧小平「誤りについて」:外交出版「鄧小平文選」『建国以来の党の若干の歴史的問題についての決議』の起草に関する意見」より引用)
(続く)
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669『自然と人間の歴史・世界篇』劉少奇元国家主席の名誉回復(1980)
「中国共産党第十一届中央委員会第五次全体会議公報」(1980年2月29日付け「人民網」に掲載)には、こうある。
「中国共産党第十一届中央委員会第五次全体会議、一九八○年二月二十三日至二十九日在北京召開。到会中央委員二百零一人、候補中央委員一百一十八人。別有各地方各部門負責同志三十七人列席会議。
中国共産党中央委員会主席華国鋒、副主席葉剣英、鄧小平、李先念、陳雲出席会議、開作了重要講話。会議由華国鋒同志主持。」
これにあるように、1980年2月の中国共産党第11期第5回全体会議では、劉少奇氏の名誉回復が決定された。国家主席だった劉少奇は、1966年からの文化大革命中に資本主義への道を歩んでいるとの批判を受け一切の職務を罷免され、1969年11月に失意のうちに河南省開封市で世を去っていた。
彼の名誉回復を受けて、1980年5月17日の追悼大会には華国鋒(hua1guo2feng1)・共産党主席(当時)ら指導者および各界の代表者1万人余りが出席し、鄧小平・国務院副総理(当時)が追悼の辞を述べた後、国歌が演奏されたという。
顧みて、劉少奇は、元々は毛沢東を凌ぐような権力者を志向していた訳ではない。1958年の暮れには大量の餓死者が発生したことで、大躍進政策の失敗の責任をとり国家主席を辞任した毛沢東の後を受けて、1959年4月に国家主席に就任した。
ところが、それから数年後の1966年に毛沢東の肝いりで始まった文化大革命において、その彼が打倒されるべき政治勢力として攻撃の矢面に立たされる。
彼は、農業生産活動面では、自留地(農民個人が占有し、自由な作付けで自分の所有物として収穫できる若干の土地)や農家が行う現金収入獲得のための副業、農村定期市といった創意工夫を復活させ、拡大させようとしていた。
けれども、毛沢東からすれば、これは農業の個人経営と農村の市場経済を容認することから、これを拡大していけば、やがては中国は資本主義への道を歩むようになっていくであろうことを危ぶんだからにほかならない。そして政治的駆け引なりにおいては、毛沢東の方が遙かに力が上であった。
(続く)
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703『自然と人間の歴史・世界篇』米ソの核軍縮(1980年代)
1985年秋、ソ連共産党のゴルバチョフ書記長は、ソ連の核廃絶に方向チェンジするとともに、一方的に核実験の敗死を宣言する。1986年1月、ゴルバチョフは、ヨーロッパに配備されている米ソの中距離核戦力(INF)の全廃を提案する。
1987年11月19日、議会は米ソ首脳会談を約3週間後に控え、SDI(宇宙での核戦争をも視野に入れる)予算を政府要求額の約3分の2に圧縮した。1987年12月、米ソ首脳(レーガンとゴルバチョフ)がINF全廃条約に署名した。
ミサイルの撤去のみならず、双方の査察を規定した。寄せては返すであろう、軍備拡張の競争には、果てしがないのだ。その時、廃棄の対象となるミサイルの数は、アメリカが859、ソ連が1836とされた。
この条約では、射程距離が500キロメートルから550キロメートルまでの、地上発射型の弾道ミサイルと巡航ミサイルの廃棄を規定した。廃棄の期限とされる1991年6月までに、米国側は846基、ソ連側は1846基のINFミサイルを廃棄するということで、両国は条約の規定に従って廃棄後、互いの軍事施設を査察し、相手側が条約内容を遵守しているかを検証したという。
1988年5~6月、アメリカノレーガン大統領がソ連を訪問した。では、なぜこの時期、かくも大胆なミサイル廃棄劇が実現したのだろうか。経済的には、ソ連側が国力(単に経済力の疲弊というレベルを超えつつあったという意味で)の疲弊の見通しを持っていたことが容易に想像できる。
翻ると、そうした国力の低下には、アフガニスタンへの軍事介入の失敗も糸を引いていた。この介入の始まりは、こうである。1978年4月の軍事クーデタでアフガニスタンに非共産主義政権が立ち上がる。南の隣国であるソ連は、その影響を受けることを怖れた。アミン新政権がアメリカとの協力関係でこの地に前線基地を設けるかも知れないとの懸念もあっただろうし、この動きの東側同盟国への波及を怖れたのかもしれない。
ソ連のこの介入は、アフガニスタンの内戦を引き起こしていく。ソ連軍は、アメリカに支援されたイスラム原理主義勢力とも戦わねばならなかった。ほぼ10年に及ぶ介入により、ソ連軍の被害は1万4千人余の使者を数えたと伝えられる。
だが、そればかりではなかった。それとともに、ソ連側に大きな軍縮への意思形成を与えたのはチェルノブイリ原子力発電所の事故であった。そのことを窺わせる後年のゴルバチョフとの一問一答が紹介されている。
「米国には、INF全廃条約を可能にしたのは、米国がSDIを推し進めたためとの意見がある。米国は何でも自分が勝利者でないと気がすまないようだ。決して、SDIのおかげで実現したわけではない。ソ連は、SDIへの対抗手段を持っていた。詳細は公表できないが、レイキャビクでのレーガン大統領との首脳会談でも、そのことははっきりと伝えた。それに、SDIはいずれ下火になるだろうと考えていた。そこで、SDIの宇宙実験を禁止するABM制限条約を7~10年間、お互いに遵守するよう調整を試みた。予想通り、この間にSDIは失速した。」
では、何がソ連指導部を軍縮に向かわせたのかの問いに対し、こう答えたという。
「1986年に起きたチェルノブイリ原発事故だ。私は、チェルノブイリ事故前の世界と以後の世界を分けて考えている。あの事故で、制御を失った核エネルギーが、どのような惨状を生み出すかを実感させられた。ソ連という核大国が大変な苦労をして、やっとのことで、たった一基の原発の核エネルギーの制御を取り戻すことができた。もし戦争で核兵器の制御を失い、チェルノブイリのような汚染が蔓延したら、もう手に負えない。チェルノブイリ原発事故は、核軍縮に取り組む私にとって、大きな教訓となった。」(吉田文彦「核のアメリカートルーマンからオバマまでー」岩波書店、2009、151~152ページよりゴルバチョフの発言を引用)
1989年12月、レイキャビクでの米ソ首脳会談において、「冷戦の終結」が確認される。翌1990年には、東ドイツが西ドイツに併呑される形でドイツ統一が為された。
(続く)
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454『自然と人間の歴史・日本篇』人物往来(神谷美恵子)
神谷美恵子(かみやみえこ、1914~1979)は、精神科医にして、宗教的な哲学者といおうか、そして類稀な程の謙虚、かつ日頃苦しい思いをしている他人への献身性を備えていた。若くして、病を得て大変なのにもかかわらず、長島愛生園で患者に寄り添う毎日を選び、送る。
やがて、次の言葉が出てくるのだが、深い人間性に裏打ちされている。
「こころとからだを病んで、やっとあなたたちの列に加わった気がする。島の人たちよ、精神病の人たちよ。どうぞ、同志として、うけ入れて下さい。あなたと私のあいだに、もう壁はないものとして。」(「神谷美恵子の世界」)
その体験を元にして、いやが上にも宗教的な感性を研いていく。
「変革体験はただ歓喜と肯定意識への陶酔を意味しているのではなく、多かれ少なかれ使命感を伴っている。つまり生かされていることへの責任感である。
小さな自己、みにくい自己にすぎなくとも、その自己の生が何か大きなものとに、天に、神に、宇宙に、人生に必要とされているのだ、それに対して忠実に生き抜く責任があるのだという責任感である。」(神谷美恵子「生きがいについて」)
要は、困難に直面しても、たじろがない勇気のことなのだろうか。現実の問題に関わる中では、大いなる見地に立つべきだともいう。
「現実の問題は解決しなくとも、それにたちむかう新しい力が湧きあがってくる。現実の世界は苦悩にみちいていも、それはもっと大きな世界の一部にすぎず、そこに身をおいて眺めれば、現世でたどる人生のもろもろのいきさつは、影のように見えてくる。
重要なのは、今自分のうちにあり、自分をとりまくこの大きな力のなかで生きていることなのだ。その方が宇宙万物を支えているのだ。」(同)
より普遍的なものへの思いは、この哲学者にとっては、既成の宗教のみに帰納すべきものではない。もっと人間に根源的なところに根ざした宗教性に至るのだと説くあたり、宗教以前の世界観に思いを馳せているようである。
「そのように精神化された宗教、内面的な宗教は必ずしも既成宗教の形態と必然的な関係はなく、むしろ宗教という形をとる以前の心のありかたを意味するのではないかと思われる。
結局、宗教的な世界というものは表現困難なもので、一定の教義や社会的慣用の形では到底あらわせぬもの、固定されえぬ生きたものであるからである。」(同)
(続く)
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275『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(絵画、彫刻など・葛飾北斎)
江戸後期の浮世絵作家の中で、一際異彩を放っているのが葛飾北斎(かつしかほくさい、1760~1849)と歌川広重(本名は安藤広重、1797~1858)という。彼らには、いうなれば、ずば抜けた個性があった。
まずは葛飾北斎であって、彼は今や世界で「最も有名な日本人」なのだと聞く。現在の東京都墨田区(すみだく)の庶民の家に生まれた。幼い頃から手先が器用だということを自覚していたのではないか。6歳位からは絵に親しんでいたらしい。
12歳頃には貸本屋で働く。その頃の作品も伝わっていて、もうかなりの腕前に達していたとも記される。14歳頃になると、版木彫りの仕事に従事する。もう、おのが一生を浮世絵の世界に託すということで、業界に足を踏み入れていたのかもしれない。
1778年(安永7年)になると、役者絵で人気を博していた勝川春章の門下に入り、画業を志す。始は、兄弟子から絵をけなされたりで、随分悔しい思いを重ねていたらしい。それでも、歯を食いしばり、たゆまぬ努力で腕を磨いていく。
やがて師匠の勝章が死ぬと、北斎は勝川派を去るのであった。古巣を離れて、自分の途というものを模索していく。1794年(寛政6年)には、「宗理」の画号を名乗り、江戸琳派の頭領になる。狂歌の絵本の挿絵もかなり多く手掛けるようになる。仕事が舞い込んでくる位になっていたらしい。
1798年(寛政10年)になると、今度は「北斎辰政」(ほくさいたつまさ)と号して琳派(りんぱ)から独立するといい放ち、自前の途を歩み始める。続いて1801~1804年位の作であったろうか、「風流なくてななくせ遠眼鏡」と名づけられた大判錦絵(おおばんにしきえ)を制作している。人は誰でも何かしらの癖をもっているらしく、ほほえましいものもあろう。そこでの婦人の一人は、右目に遠眼鏡を当て、何やら覗いている。どうやら、物見遊山癖をいいたいらしい。
1804年から1818年にかけての文化年間に入ると、読本挿絵(よみほんさしえ)の制作を精力的に進めていく。俗的に、1804年(文化元年)から1811年(文化8年)までは、「読本挿絵の時代ー人気イラストレーターとして」(葛飾北斎美術館)と位置づけられる。その間、江戸琳派への傾倒があったりもしたという。需要はそれなりにあって、江戸の庶民にとっては、これを読みふけるのが随分の楽しみであったとか。
2018年早々に会館の成った北斎美術館にて数多く並んでいたのを観覧した限りでは、どれもこれもというべきか、かなり「きめ」の細かな人物、文物そして自然の描写となっていた。
1813年(文化1年)作の「潮干狩図」(しおひがりず)では、母とその子たちが中心に描かれ、干潟(ひがた)で貝拾いをしている。場所は、江戸湾か相模湾あたりであろうか、はっきりしない。遠くに低い山並み、さらにその上に雲が見える。常に新しい技法を探求していた、そのことが窺えるのだと評される。横長の構図には開放感が溢れていて、眺めているうちに気分が晴れ晴れしてくるではないか。まだ干潮が続くと見てか、皆ゆっくりした仕草で作業を楽しんでいるらしい。
70歳を迎えた頃には、大いなる境地に達しつつあったのか、意味深長な言葉を発している。
「七十歳前に描いたものは取るに足りない。七十三歳にしてようやく生き物や植物の形を少し描けるようになった。九十歳で奥義を極め、百歳にして精緻の極みに達し百数十歳で、まさに生けるがごとく描けるだろう。」
1830年(天保元年)~1833年(天保4年)は、「錦絵の時代」(葛飾北斎美術館)だとされる。続いての1834年(天保5年)、注目の作品「富岳百景」(ふがくひゃっけい)が刊行されると、市井(しせい)において大いなる人気を博す。人々は、次から次へとこれが摺られ、売り出されるのを、首を長くして待ったのではないか。
そんな中では、「山下白雨(さんかはくう)」や「凱風快晴(がいふうかいせい)」、それに「神奈川沖浪裏」が有名だ。このうち(「神奈川沖」とは、現在の横浜市神奈川区の沖合)が迫力さで群を抜くといわれるのだが。東海道の宿場町・神奈川が舞台とされるものの、陸から描くことができるものなのだろうか。
この絵の波間に見えるのは、押送船(おしおくりぶね)といって、房総や伊豆で穫れた鮮魚を江戸へと運んでいたという。船員達は、この世のものかとも感じられる、力強く立ち上がる大波に翻弄される中、船縁を必至でつかんでいるようだ。そんな中で微動だにしないのが富士であって、その静かなること人間の営みなどは眼中にないかの如くだ。
このシリーズ中には、他にも「御厩川岸(おんまやがし)より両国橋夕陽見(りょうごくばしゆうようみ)」や「隅田川関屋の里」、「本所立川」といった作者の住まいに程近い空間の描写があって、いずれも当時の庶民の暮らしぶりが塊間見える空間構成となっている。
そんな北斎の最晩年の作といわれるのが、1849年(嘉永2年)1月11日ないし23日に描かれたとされるところの「富士越龍」(ふじこしりゅう)である。この絵は、まるで彼自身が龍となって天に昇っているかのようにも感じられる。龍とは、中国で考案された想像上の生き物であり、不死でなおかつ躍動的だというのが特徴的だ。人間界に現れる時には、人民救済、雨乞(あまご)い、魔除け、鎮火などの「御利益」があるとされる。実際にこの絵の前に立って、富士をも越えていく姿を見ていると、「ジワリジワリ」と鳥肌が立つような、作者の凄まじいまでの気迫さえもが感じられる。
なにしろ、一説によると、その生涯に2万点以上の絵を紙の上に、神社伽藍の天井などにも描いたといわれる稀有(けう)の人にして、しかもそれらのすべてに惜しみない情熱を注いだ。九十歳で亡くなるまでずっと隅田川界隈に暮らし、90回からの引っ越しをしたという。晩年になってからも、娘でこれまた画家のお栄に色々助けられながら、誠に狭苦しい住まいをなにものともせず、おのが画業に邁進した。そんな気まぐれさはベートーヴェン以上かとも思わせる、何しろ破格づくめの天才的画工なのであった。
(続く)
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324『自然と人間の歴史・世界篇』ダーウィンの「種の起源」(1836)
チャールズ・ロバート・ダーウィン(1809~1882)は、イギリスの博物学者にして生物学者。1931年12月~1836年10月まで、海軍の「ビーグル」号に博物学者として乗り組み、太平洋、大西洋の島々、南アメリカ沿岸、それにガラパゴス諸島などを訪れる。行く先々で、動植物相の観察や化石の採集,地質の研究などを行なう。彼は航海中に行なった諸観察から、種が変化する可能性を考えるようになり,1839年に、著作「ピーグル号航海記」(初版)を発表する。
例えば、フォークランド諸島に立ち寄った際、この地の地質について、こういう。
「この群島の地質構造は大体において簡単である。低地は粘板岩と砂岩とで化石を含み、ヨーロッパのシルリア紀に極めてよく似ているが、それと等しいものではない。丘は白い粒状の石英岩である。石英岩の層は往々完全な相称のアーチ形に彎曲(わんきょく)して、従って、集塊の若干のものは極めて奇異な外観を呈する。(中略)この石英岩が断片に砕けずにこれほど轡曲(「ひきょく」と読み、さるぐつわをはめた時の形:引用者)したことを見れば、相当に粘性を持ったものであったに相違ない。
この石英岩は境界が判然とせずに砂岩に移っていることを見ると、前者は砂岩がその起原であって、砂岩が熱せられて粘性となり、次に冷却して結品性のものとなったのは確からしい。まだ柔かな状態の時に、その上にあった地層をつき抜いて、押し上げられたものに相違ない。」
あるいは南アフリカで見つけたある小鳥について、こういう。
「ティノコルス・ミキヴォルスというはなはだ妙な小鳥がここには普通である。その習性や概形はうづらともしぎとも違っているが、双方の性質を等分にとり入れている。この鳥は南アメリカの南部全体にわたって、不毛の平野あるいは開潤した乾草原ならばいたる所に見られ、他の生物のほとんどいない所にも、小さな群をなしている。人が近づけば、かたまってうずくまり、地面との見分けが困難となる。
餌をあさる時は、脚を広く拡げておもむろに歩む。道路や砂の多い場所で砂浴をする。特定の揚所にはよくやって来て、何日間も見かけることがある。やまうづらのように群をなしてとぶ。筋肉性のそ嚢が植物性の食餌に適応していること、曲がったくちばしや肉質の鼻孔、短い脚と足の形、そうした種々の点でこの鳥はうづらと密接な関係があるが、しかしとんでいる様子を見ると、全体の感じが一変して、長くとがった翼は、鶉鶏目(じゅんけいもく)のものとははなはだしく異っており、とび方の不定なことと、上昇の時に発する訴えるような叫び声とはしぎの感じをさせる。」(チャールズ・ダーウィン著(1836)・島地威雄訳「ビーグル号航海記(全3巻、(上)、148~149)」岩波文庫、1994)
いずれも、ここには豪快な好奇心ばかりか、筆のタッチとしては、地質と博物の学者ならではの、超微細な観察眼が光っているのが窺える。
それからも研鑽が続いた後の1959年、代表作の「種の起源」が世に出る。その一説には、こうある。
「何百世代ものあいだ失われていたと思われる形質が再出現するというのは、間違いなく驚くべき事実である。ところが、ただ一度だけ他の品種と交雑させただけなのに、その子孫が交雑相手の形質に戻る傾向を一〇世代とか二〇世代にもわたって示すことがままある。一二世代を経た時点での、いわゆる祖先との血の濃さは、わずか二〇四八分の一でしかない。ところが、先祖返りの傾向は、別の品種の血がたったこれだけ入っていることによって保持されていると、一般には信じられているのである。
交雑がおこなわれたことのない品種で、しかも両親ともが祖先の形質を一部失っている場合、失った形質を再現する傾向は、強いか弱いかは別にして、すでに見たように大方の予想に反してほとんど何世代でも伝わっていく。その品種がとうに失ったはずの形質が多くの世代を経た後に再び出現する場合の最も納得のいく仮説は、子孫が突如として何百世代も前の祖先をまねたのではなく、問題の形質を再現する傾向は世代更新の間もずっと存在していて、それが未知の好条件を受けてついに日の目を見たというものである。」(チャールズ・ダーウィン著(1836)・渡辺政隆訳「種の起源」(上)、光文社古典新訳文庫、2009)
みられるように、この部分は、ある属の種が共通の祖先に由来するという仮説の傍証とされる。圧巻なのは、後段の「その品種がとうに失ったはずの形質が多くの世代を経た後に再び出現する場合の最も納得のいく仮説は、子孫が突如として何百世代も前の祖先をまねたのではなく、問題の形質を再現する傾向は世代更新の間もずっと存在していて、それが未知の好条件を受けてついに日の目を見たというもの」との下りだ。
すなわち、何百世代が経過しても、種というものには、元の形質を再現する傾向があるのだから、それらの種は個別に創造されたのではなく、共通の祖先から変化してきたのだ、という文脈である。これが、当時のキリスト教社会において、大いなる物議を招き、その是非を巡って激しい論争を巻き起こしたのは、当然のことであった。
加えるに、ここでの生物進化の考え方に、これまで人間社会の常であり続けている「優勝劣敗」、すなわち「優れた性質をもつ者がそれの劣った者をけちらし、け落として、富や名誉といった人びとが望むものを手に入れるのは当然だ」という考えとを結びつけて捉えることもなされてきた。
このことに関連して、「適者生存」という差別化著しい言葉が、イギリスの哲学者ハーバード・スペンサー「社会進化論」などで使われている。とはいうものの、ダーウィンのいう「自然淘汰」とは、その時々の環境変化に適応できるかどうかが、その種としての生存と繁殖とに関わるということであって、いわゆる優勝劣敗を推奨しかねない前者の言説と混同すべきではあるまい。ちなみに、「ダーウィン自身はこの言葉が気に入らず、使いませんでした」(長谷川眞理子(進化生物学者)「種の起源、ダーウィン」:NHK放映の「100分de名著」でのテキスト)とされている。
(続く)
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『美作の野は晴れて』、『自然と人間の歴史・世界篇』、『自然と人間の歴史・日本篇』及び『岡山(美作・備前・備中)の今昔』へようこそ
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訪問者のみなさま
ようこそ、美作(みまさか)から小川町へ、わたしの故郷ページへ
わたしのブログ『美作の野は晴れて』、『自然と人間の歴史・世界篇』、『自然と人間の歴史・日本篇』及び『岡山(美作・備前・備中)の今昔』(全てが未定稿)を訪れていただいて光栄です。
一つは、「美作の野は晴れて」です。第一部は私の小学校まで、第二部は中学校から高専までです。そして第三部は、それから現在までの私の歩みです。
二つ目は、『自然と人間の歴史・世界篇』です。これは、宇宙の開闢(かいびゃく)以来の自然と人間の歴史を世界的視野で通覧するものです。主立った歴史史料の紹介を兼ねていまして、その分だけ分量がかさみます(現在の見積もりでは、1000項目程度)。
三つ目は、『自然と人間の歴史・日本篇』です。これは、日本列島ができて以来の日本の自然と倭人・日本人の歴史を通覧するものです。こちらも、主立った歴史史料の紹介を兼ねていまして、その分だけ分量がかさみます(現在の見積もりでは、700項目程度)。
四つめは、「岡山(美作・備前・備中)の今昔」です。これは、岡山の郷土史です。だんだんに足で出向いてつくってくつもりでおります。
これから、全体として徐々になりますが、新しいものに改訂していく予定でおりますので、ご理解をお願いいたします。中でも、新訂のものは、見出しにそれなりの識別を付けます。こちらも、主立った歴史史料の紹介を兼ねていまして、その分だけ分量がかさみます(現在の見積もりでは、200項目程度)。
恐れ入りますがお時間をいただいてご一読の後、よろしかったら、ご感想をお寄せください。これからの紙面づくりに参考にさせて頂きます。
なお、現在までのところ、内容の未熟さ、誤り、表現のまずさ、誤字脱字なども非常に沢山あって、お読み苦しいことと察します。でしょうが、だんだんに訂正していくつもりでおります。なにとぞよろしくお願いします。
それから、このブログの記述が、何らかのことに利用されることから生まれる損害等につきましては、当管理者は責任を負いかねますので、念のため申し添えます。学習会などで使われたりする場合には、その旨を事前にお知らせ戴けるとありがたいです。
以上
2018年6月20日更新、丸尾泰司(在・日本国埼玉県比企郡小川町)
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(参考)
『自然と人間の歴史』(世界と日本の2篇)を記入するに当たって留意したい事項(2018年11月10日時点でのもの、自身への覚書)
記
1.自然の辿ってきた「歴史」についても、人間の歴史の理解を助ける範囲で入れる。これをもって「歴史」といえるのかどうかは、未だに知らないが、あえて試みたい。
1.歴史的真実かどうかが確かめられない、神話や伝説の中にも、某か学ぶものがあると考えている。宗教は、今日まで文化の中の大いなる要素の一つとなってきたのに鑑み、なるべくわかりやすくその動きを記したい。
1.その時々の世界の動きと、日本を含む各国・各地域の動きを関連して理解するよう努めたい。世界篇においては、すべての国・地域の歴史を概観するものにしたい。
1.現代史は、21世紀現在までとして扱うことにする。ただし、歴史はイコール過去(人間自身でいうと、個体としての死の積重ね)であって勝手に変えることはできない。
1.史料の引用に当たっては、ある程度詳しく、丁寧、わかりやすい紹介を加えたい。
1.現在進行中の事象についての評価は、一日経つ毎に、改ざんすることのできない過去へと変化して止まない。この観点から、ぎりぎりの線まで紹介したい。
1.年の記述の中心を、西暦もしくは西暦中心のものにしたい。西暦を先ず入れ、必要ならその後にくる括弧内に、その国内の暦を入れておくのを基本としたい。
1.国語辞書や漢和辞書の類をほとんど引くことなしに読んでもらいたい。そのため、やや難しいと思われる漢字には、「現代かな」をふっておく。「旧かな」は、追々「現代かな」に改めたい。
1.歴史史料の紹介は、できるだけ、ある程度まとまった、一区切りとして行いたい。また、その出所をできるだけ記入すること。
1.特に、漢文での紹介は、おりにふれ、書き下し文や現代語訳を添付すること。
1.歴史上の人物がどのように生き、何をもたらしたかを簡単に紹介する記事を、織り込んでいくこと。人物紹介には、上から目線で人物を選択することはしたくない。
1.歴史事象をどう認識するかについて、説の分かれるところでは、なるべく2説くらいは紹介したい。その際は、筆者の立場がわかるようにしたい。
2018年11月10日現在でのもの、以上
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早いもので、このブログを始めた2004年から数えて10余年になります。日本国内、岡山県内でまだ行っていないところが無数といっても良い程に、実に多く、(自分と家族の健康上のことや、こちらでの用事もかなりあるので当面は無理かもしれませんが)いつか機会を得て、愛用のリュックサックを背中に担ぎ、県内などを巡り歩いてみたいです。
定年退職後の要諦は体を大事にしていくことにあるようで、「日々是好日」のつもりで気持ちはできるだけ明るく、いまの体で自分のできることを精一杯取り組んでいます。
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世界の、この100年間から200年くらいの政治経済社会の歩みを、15本のホームページで概観しています。建設中です。こちらも、ご愛顧のほどよろしくお願いいたします。
中国の政治経済社会の歩み
http://ktmhp.com/hp/maruo9
韓国の政治経済社会の歩み
http://ktmhp.com/hp/maruo10
ソ連・ロシアの政治経済社会の歩み
http://ktmhp.com/hp/maruo11
アメリカの政治経済社会の歩み
http://ktmhp.com/hp/maruo12
ヨーロッパ連合の政治経済社会の歩み
http://ktmhp.com/hp/maruo13
日本の政治経済社会の歩み
http://ktmhp.com/hp/maruo14
ASEAN(アセアン)政治経済社会の歩み
http://www3.hp-ez.com/hp/maruo15/page1
インドの政治経済社会の歩み
http://www4.hp-ez.com/hp/india/page1
ブラジルと中南米諸国の政治経済社会の歩み
http://www5.hp-ez.com/hp/maruo17/page1
アフリカ諸国の政治経済社会の歩み
http://www5.hp-ez.com/hp/maruo18/page1
中東・アラブ諸国の政治経済社会の歩み
http://www5.hp-ez.com/hp/maruo19/page1
カナダ、オセアニア及び太平洋諸国の政治経済社会の歩み
(準備中)
東欧・北欧諸国の政治経済社会の歩み
http://www5.hp-ez.com/hp/maruo20/page1
中央アジアとその周辺国の政治経済社会の歩み
http://www5.hp-ez.com/hp/maruo23/page1
世界の政治経済社会の歩み
(準備中)
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321『自然と人間の歴史・世界篇』エンゲルスの歴史観察(「家族・私有財産・国家の起源」)
フリードリヒ・エンゲルス(1820~1895)の著した「家族・私有財産および国家の起源」(1884年刊)には、2つの本による示唆があったという。その一つは、アメリカの人類学者ルイス・ヘンリー・モルガン(1818~1881)の「古代社会」であった。そしてもう一つは、それを読んで盟友のカール・マルクス(1818~1883)の後年「古代社会ノート」との題にて出版されることになる遺稿なのであった。
エンゲルスは、この二つの研究を役立てながら調査を行うなどして、歴史上の家族の成立と発展を調べ追求していく。種々の婚姻の形を調べていく過程では、なぜその社会においてはそうなったのだろうか。この問いに対するモルガン説においては、古代社会のそもそも初めは母権制が支配的な時代だったというのが、出発点だと単純化されているように見受けられるのだが。
そして、国家・私有財産が登場してくると、それからは女性の世界史的敗北が始まったという。もう少しいうと、つまりは武装権力としての国家ができていく。そして、それにつれて男性が戦士として活躍するようになる。その分、男性が社会の中心になり、かれらによる支配が家庭などに持ち込まれることで母権制が倒れ、父権制の時代が始まったのだと。
そうなると、近親相姦が許される家族形態となっていくとの道筋であろうか。このように直線的に物事を捉えようとするのが「歴史的・論理的」ということなのだろうか、判然とはなっていないきらいが残る。
さて、それからも家族の基本的な在り方の変化は続いた。この説に沿ってざっと述べれば、モルガンのいう「プナルア家族」へ、そして一夫一婦制度への移行へとつながっていく。ここでのエンゲルスは、種々の婚姻の形を調べ、群婚・集団婚を経て単婚(一夫一婦制)へ発達したとしている。同時に、近い血筋の婚姻が排除され、血縁の遠い人々どうしが婚姻を結ぶようになっていく。
この単婚時代への移行なのだが、その初期においてはどのようであったのだろうか。ともあれ、これについてエンゲルスは、古代ギリシア時代の結婚を取り上げ、こう指摘している。
「家族内での夫の支配と、彼の子であることに疑いがなくて、彼の富の相続者に定められている子を生ませることーーーこれだけが、ギリシャ人があからさまに公言した一夫一婦制の唯一の目的であった。それ以外では、一夫一婦制は彼らにとって一つの重荷であり、神々と国家と自分たちの祖先とにたいして、それだけは果たさなければならない義務であった。アテナイでは、結婚だけでなく、夫のがわでの最小限のいわゆる婚姻上の義務の遂行もまた、法律によって強制されていた。
このように、一夫一婦制が歴史に登場するのは、けっして男女の和合としてではなく、いわんやその和合の最高形態としてではない。その反対である。それが登場するのは、一方の性による他方の性の圧政としてであり、それまで先史の全期をつうじて知られることのなかった両性の抗争の宣言としてである。」(フリードリヒ・エンゲルス著「家族・私有財産・国家の起源」)
このような単婚による家族から大家族共同体へ、氏族制度への発展があったのではないかという。それらの過程においては、農業や牧畜それに手工業といった諸々の産業の発展や、それに伴う奴隷と市民、それに貴族・王侯の誕生などへとつながっていく、あたかも車の両輪であるかのようにして。
そして私有財産を保持できる時代が訪れ、富を蓄積した資本階級とそれを持たない労働階級の形成へとつながっていく。それから、単婚の在り方も変わり、家族はしだいに核家族化し、その支配者としての国家が誕生しあるいはその役割が集合し強まるなど、封建社会の枠組みの中に家族が組み込まれていくのであった。
さらに資本主義にいたると、それに伴うプロレタリート(労働者階級)とブルジョア(資本家階級)の産出へとつづく。このようなエンゲルスによる話の持って行き方については、人類文化の進化の側からも、政治経済の歴史から紐解こうとする側からの異論なしとしないものの、当時としては、斬新な見解の一つを提起したことでの波紋には大きいものがあったであろう。
(続く)
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23『世界と人間の歴史・世界篇』大山脈の形成
今からおよそ2億5000~4000万年前の地球では、世界中の大陸が一か所に集まっていた、史上最大の超大陸パンゲアがあった。あえていうなら、北半球をすっぽりおおう形のそのパンゲア大陸は、先に出来ていたゴンドワナに、ユーラシア部分が少しずつ合体し、つくられていったという考え方がある。
「パンゲアの中央部分は少しくびれており、北半分は「ローラシア大陸」、南半分は「ゴンドワナ大陸」とよばれ、そして、この二つの大陸の間の大きな入り江状の海洋は「テチス海」とよばれている。」(「ヒマラヤ山脈」:雑誌「ニュートン」2013年12月号)
およそこのような配置でのパンゲア大陸は、およそ2億年前まであったとみられている。
それからも、この地球の大陸の在り方は移りゆく。1億2000万年前の地球では、およそ次の配置になっていたと考えられている。なお一説には、この同時期に、南極大陸からインド亜(あ)大陸が分離したのではないかとも推測されているところだ。
「1億2000万年前、ジュラ期の後の時代、ちょうど白亜紀にこの東ゴンドワナ大陸が分裂を始めた。パノチア超大陸以来、少なくとも9億年間分裂しなかった東ゴンドワナ大陸が、この時三つに分裂したのである。
同時に南米、アフリカも分裂した。つまり、ゴンドワナ大陸の五大陸分裂は、およそ10億年に一度あるかないかの大きな大陸分裂だったのだ。」(玉木賢策「生命進化の駆動力ー大陸の分裂と移動」:NHK「地球大進化」プロジェクト編「地球大進化ー46億年・人類への旅5大陸大分裂」NHKブックス、2004)
それからまた、かなりの時が経過していった。5500万前の大陸配置図(アメリカ・北アリゾナ大学ロナルド・ブレーキ博士監修のもの)では、こうなっている。
「ツルガイ海峡によってヨーロッパとアジアが離れている以外にも、細かなところがいくつか違う。目のつくところでは、アフリカ大陸はヨーロッパ大陸から離れ、孤立している。その東にはテチス海という大海がひろがり、アジア大陸にぶつかる前のインド亜大陸がぽっかりと浮かんでいる。
南極大陸には南アメリカ、オーストラリアが陸続きにつながっている。そして南アメリカと北アメリカをつなぐパナマ陸橋はなく、両大陸は分断されている。いまの大陸配置より少しバラバラだということができよう。」(NHK「地球大進化」プロジェクト編「地球大進化ー46億年・人類への旅5大陸大分裂」NHKブックス、2004)
そこでのインド亜大陸が、その後4500万年前までの間に北上を遂げ、アジア大陸に衝突したと考えられている。その北上の距離たるや、6000キロメートル以上にも及んだらしい。
インド亜大陸は、アジア大陸に衝突した後も北上を止めなかった。そのことにより、海底の堆積物が押し上げられ、隆起していく。その時の地球表面の全体の様子は、次の如く推移したのではないかと考えられている。
「インドの北上がつづいた白亜紀(1億4450万~6550万年前)のころは、世界中で火山活動がさかんになり、大気や海水の温度が上昇したと考えられている。そのため海にすむ生物の数も増え、その結果、死骸や排泄物などの大量の有機物が海底に堆積することとなった。」(「ヒマラヤ山脈」:雑誌「ニュートン」2013年12月号)
それからまた大いなる時が経過しての5500年前にさしかかる頃、インドア大陸の北西部はアジア大陸に衝突した。そのことにより、生物たちの「楽園」であったろうテチス海は、4000万年前までに消滅してしまう。
今度は、今日知られるヒマラヤの山脈が徐々に高さを増していく。一説によると、2000万~1500万年前には高さ3000~4000メートル級の、屏風のような峰峰へと成長する。やがて1400万~1000万年前にさしかかると、それまで緩やかに高さを増してきていたところに、標高8000メートルクラスのヒマラヤ山脈が出現したというのだ。
同じくおよそ5000万年前頃、アフリカ大陸が直ぐ北のヨーロッパに接近し、衝突し始めた。この衝突により、やがてヨーロッパに4000~5000メートルクラスのアルプス山脈を形成するのであった。
(続く)
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22『世界と人間の歴史・世界篇』大陸変遷の過程(プレートテクニクス)
ドイツの地球物理学者のアルフレート・ウェーゲナー(1880~1930)は、大陸の移動ということを考えた。はじめは一つしかなかった大陸が、その後分裂し、移動していく。その頃には、そのことの意味を深く考える生物はいなかったらしい。そうしていって、現在私たちが見知っている諸大陸ができたのであると。彼は、こういう。
「南アメリカはかつてアフリカに隣接して、一つの接合した大きな大陸塊をつくっていたが、白亜紀(はくあき)に二つに分裂したにちがいない。(中略)
同様に、かつて北アメリカはヨーロッパと隣接して、それらとグリーンランドとがいっしょになった一つの大陸塊をつくっていた。少なくともニューファンドランドとアイルランドより北の部分は合体していた。この大陸塊の分裂は第三期の後期に始まり、北部では第四期に始まった。(中略)
南極大陸と、オーストラリアとインドとは、ジュラ紀の始めまではアフリカの南部に接していて、さらに南アメリカをも合体して一つの巨大な大陸塊をつくり、その一部分は浅い海に覆われていた。この巨大な大陸塊は、ジュラ紀、白亜紀および第三期の間にもっと小さな個々の大陸塊に分裂しそれぞれ違った方向に漂っていった。(中略)
インドの場合には、過程は他の場合とやや違っていた。最初はアジア大陸から長く突出した陸塊があって、その先端にインドが付いていた。そのころ、そのアジアとインドをつなぐ土地の大部分は浅い海に覆われていた。そのインド陸塊はジュラ紀前期にオーストラリアから分裂し、また白亜紀から第三期に移る頃にマダガスカルから分離した。
そして現在のインドがアジアに近づくにつれて、インドとアジアとの長い連結部分は次第に褶曲(しゅうきょく)の程度をましていった。この地域が今日地球上の最も大規模な褶曲山脈(すなわちヒマラヤ山脈とその他のアジアの高地の褶曲山脈)になっている。」(アルフレッド・ウェーゲナー著、都城秋穂・紫藤文子訳「大陸と海洋の起源」岩波文庫、1981)
それらの大陸の上で、やがて私たち人類の祖先が発生し、育まれ、いうなれば進化を遂げていったのであろうが、この彼の大陸移動説は、大陸とその底にある「根(ね)」との関係についても、こう説いている。
「容易にわかるように、大陸移動説は、深海底と大陸とは異なった物質からできており、地球の成層構造の中の異なった層を表わしているという推定から出発する。大陸地塊は、地球の一番外側の層を表わすものであるが、地球全体を覆ってはいない(たぶんむかしは覆っていたが、今ではもう覆っていないという方が正しいのかも知れない)。
海洋底は、その下にある層の表面が露出しているのであって、この層は大陸塊の下方にものびていると考えられる。これが大陸移動説の地球物理学的な側面である。(中略)地球上の個々の海洋や大陸がそのままで不変に存続したのではなくて、現在分離している二つの大陸塊が直接に接触していたのである。」(同)
この彼の大陸移動説は、今日「プレートテクニクス」と呼ばれ、大方の地質学者の支持を得ている。これに基づくと、現代に私たちが生き、この地上を中心にあれこれしているうちにも、この大地は動いている。地球に大陸と海ができてからというもの、その在り方は、色々と変わってきた。
例えば、アフリカ大陸を見よう。エチオピア北部からモザンビークにかけては、ほぼ南北に約4500キロメートルにわたり大地の裂け目、アフリカ大地溝帯が確認される。その中でも、この溝帯の北部ダナキル砂漠付近では、アフリカプレートの一部としての、ヌビアプレートとソマリアプレート、アラビアプレートという3つのプレートが分裂中であるとのこと。この場所は、人類発祥の一つでもある(「ダナキル砂漠、裂けゆく灼熱の地」:雑誌「ニュートン」2013年6月号など)。
とはいえ、アフリカ東部でのような分離力としては働いていないので、肉眼で見ることはできにくいという。
次に、日本周辺に目を向けてみよう。驚くことに、この列島をぐるりと囲む形で、実に4枚のプレートがひしめき、せめぎ合うようにして存在している。これを短的にいうと、ユーラシア大陸に対して、弓の弦を張ったように日本列島が張り出している。その西側からはユーラシアプレートが、その北側からは北アメリカプレートが、東側からは太平洋プレートが、南からはフィリピン海プレートが押し寄せている。これらのうち、ユーラシアプレートと北アメリカプレートの境界は、はっきりとはわかっていないようだ。
北アメリカプレートを基準にした場合の各プレートの移動は、どれくらいになっているだろうか。これまでの計測では、1年間で、ユーラシアプレートは東の方向へ数ミリメートル、フィリピン海プレートは北北西から北西方向へ3~4センチメートル、太平洋プレートはほぼ西方向へ約10センチメートルといわれる(「活断層とは何か」:雑誌「ニュートン」2013年3月号)。
(続く)
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874『自然と人間の歴史・世界編』朝鮮の南北共同宣言(2018)
いったい、自らの新たな、そして大方が望むべき運命を切りひらくには、まずもって当事者たち自らが立ち上がるしかない。そのことを、改めて想いださせてくれたのが、2018年春朝鮮半島での出来事であった。その時の「パンムンジョム宣言」には、こうある。
「朝鮮半島の平和と繁栄、統一のためのパンムンジョム宣言
大韓民国のムン・ジェイン大統領と朝鮮民主主義人民共和国のキム・ジョンウン国務委員長は、平和と繁栄、統一を願うすべての同胞のいちずな願いを込めて、朝鮮半島で歴史的な転換が起きている意味深い時期である2018年4月27日に、パンムンジョムの「平和の家」で、南北首脳会談を行った。
両首脳は、朝鮮半島にもはや戦争はなく、新たな平和の時代が開かれたことを8000万のわが同胞と全世界に厳粛に宣言した。
両首脳は、冷戦の産物である長年の分断と対決を一日も早く終息させ、民族的和解と平和繁栄の新しい時代を果敢につくり出し、南北関係をより積極的に改善し発展させなければならないという確固たる意志を込めて、歴史の地、パンムンジョムで次のように宣言した。
1.南と北は、南北関係の全面的で画期的な改善と発展を成し遂げ、途絶えた民族の血脈をつないで共同繁栄と自主統一の未来を早めていく。
南北関係を改善して発展させることは、すべての同胞のいちずな望みであり、これ以上先送りできない時代の切迫した要求だ。
(1)南と北は、わが民族の運命はわれわれがみずから決定するという民族自主の原則を確認し、すでに採択された南北宣言とすべての合意などを徹底的に履行し、関係改善と発展の転換的局面を切り開いていくことにした。
(2)南と北は、高官級会談をはじめとする各分野の対話と協議を早い時期に開催して、首脳会談で合意された問題に取り組むための積極的な対策を立てていくことにした。
(3)南と北は、当局間協議を緊密にし、民間交流と協力を円満にすることを保障するため、双方の当局者が常駐する南北共同連絡事務所をケソン(開城)地域に設置することにした。
(4)南と北は、民族的和解と団結の雰囲気を高めていくために、各界各層の多面的な協力と交流往来と接触を活性化することにした。
対内的には、6・15(2000年6月15日の南北共同宣言)をはじめ、南と北にとって同じように意義がある日を契機に、当局と国会、政党、地方自治体、民間団体など各界各層が参加する民族共同行事を積極推進して和解と協力の雰囲気を高め、対外的には、2018年アジア競技大会をはじめ国際大会に共同で出場して、民族の知恵と才能、団結した姿を全世界に誇示することにした。
(5)南と北は、民族分断で発生した人道的問題を至急解決するために努力し、南北赤十字会談を開催して離散家族・親戚の再会を含む諸問題を協議し、解決していくことにした。
さしあたって、来る8・15(8月15日)を契機に、離散家族・親戚の再会を進めることにした。
(6)南と北は、民族経済の均衡的発展と共同繁栄を実現するために、10・4宣言(2007年10月4日の南北共同宣言)で合意された事業を積極推進していき、1次的にトンヘ(東海)線およびキョンウィ(京義)線鉄道と道路を連結し、現代化して活用するための実践的対策を取っていくことにした。
2.南と北は、朝鮮半島で先鋭化した軍事的緊張状態を緩和して、戦争の危険を実質的に解消するため、共同で努力していく。
(1)南と北は、地上と海上、空中をはじめとするすべての空間で、軍事的緊張と衝突の根源となる相手に対する一切の敵対行為を全面中止することにした。
さしあたって、5月1日から軍事境界線一帯で拡声器放送とビラ散布を含むすべての敵対行為を中止して、その手段を撤廃し、今後、非武装地帯を実質的な平和地帯とすることにした。
(2)南と北は、黄海の北方限界線一帯を平和水域にして、偶発的な軍事的衝突を防止し、安全な漁労活動を保障するための実際的な対策を打ち立てていくことにした。
(3)南と北は、相互協力と交流、往来と接触が活性化することによるさまざまな軍事的保障対策を取ることにした。
南と北は、双方の間で提起される軍事的な問題を遅滞なく協議解決するために、国防相会談をはじめとする軍事当局者会談を頻繁に開催し、5月中にまず、将官級軍事会談を開くことにした。
3.南と北は、朝鮮半島の恒久的で強固な平和体制構築のために積極協力していく。
朝鮮半島で非正常な現在の停戦状態を終息させ、確固たる平和体制を樹立するのは、これ以上先送りできない歴史的課題だ。
(1)南と北は、いかなる形態の武力も互いに使用しないという不可侵合意を再確認して、厳格に遵守していくことにした。
(2)南と北は、軍事的緊張が解消されて互いの軍事的信頼が実質的に構築されることによって段階的に軍縮を実現していくことにした。
(3)南と北は、休戦協定締結65年になることし、終戦を宣言して停戦協定を平和協定に転換し、恒久的で強固な平和体制構築のために、南・北・米の3か国、または南・北・米・中の4か国の協議開催を積極推進することになった。
(4)南と北は、完全な非核化を通じて、核のない朝鮮半島を実現するという共通の目標を確認した。
南と北は、北側が取っている主導的な措置は、朝鮮半島の非核化のために非常に大きな意義があり、重大な措置だという認識をともにし、今後それぞれが、みずからの責任と役割を果たすことにした。
南と北は、朝鮮半島の非核化のための国際社会の支持と協力のために積極努力することにした。
両首脳は、定期的な会談と直通電話を通じて、民族の重大事を随時、真剣に議論し、信頼を強固にして、南北関係の持続的な発展と朝鮮半島の平和と繁栄、統一に向けたよい流れをさらに拡大していくために、一緒に努力することにした。
さしあたってムン・ジェイン大統領は、ことし秋にピョンヤンを訪問することにした。
2018年4月27日
パンムンジョム
大韓民国大統領ムン・ジェイン 朝鮮民主主義人民共和国国務委員会委員長キム・ジョンウン」
これにみられる「地均し」があってこそ、続いてのアメリカと北朝鮮との初めての首脳会談(6月)が実現の運びとなった。聴けば、その南北の会談の実現となった背景には、朝鮮の人びとの、南北の平和そして将来の統一に向けた運動の盛り上がりがあったという。そしてこのことは、歴史とは、その決定的場面では、人民大衆によって突き動かされるものだということをわからせてくれた。
(続く)
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540『自然と人間の歴史・日本篇』日朝平壌宣言(2002)
2002年に交わされた、いわゆる日朝平壌宣言には、こうある。
「日本国首相小泉純一郎と金正日朝鮮民主主義人民共和国国防委員長は、2002年9月17日、平壌で出会い会談を行った。
両首脳は、日朝間の不幸な過去を清算し、懸案事項を解決し、実りある政治、経済、文化的関係を樹立することが、双方の基本利益に合致するとともに、地域の平和と安定に大きく寄与するものとなるとの共通の認識を確認した。
1.双方は、この宣言に示された精神及び基本原則に従い、国交正常化を早期に実現させるため、あらゆる努力を傾注することとし、そのために2002年10月中に日朝国交正常化交渉を再開することとした。
双方は、相互の信頼関係に基づき、国交正常化の実現に至る過程においても、日朝間に存在する諸問題に誠意をもって取り組む強い決意を表明した。
2.日本側は、過去の植民地支配によって、朝鮮の人々に多大の損害と苦痛を与えたという歴史の事実を謙虚に受け止め、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明した。
双方は、日本側が朝鮮民主主義人民共和国側に対して、国交正常化の後、双方が適切と考える期間にわたり、無償資金協力、低金利の長期借款供与及び国際機関を通じた人道主義的支援等の経済協力を実施し、また、民間経済活動を支援する見地から国際協力銀行等による融資、信用供与等が実施されることが、この宣言の精神に合致するとの基本認識の下、国交正常化交渉において、経済協力の具体的な規模と内容を誠実に協議することとした。(以下省略)
かつて日本がサンフランシスコ平和条約(いわゆる「片面講和」)で韓国と交わした戦後処理ついて、当時の北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)側は、これを痛烈に批判する。
「朝鮮人民は、日本帝国主義者が朝鮮人民にあたえたすべての人的、物的被害にたいして賠償を要求すべき当然の権利をもっており、日本政府にはこれを履行すべき法的義務がある。
したがって、「対日請求権の解決および経済協力の協定」を通じて、日本当局と朴正煕一味間にやりとりするのは私的な金銭の取引きにすぎず、決して賠償金の支払いではない。朝鮮民主主義人民共和国政府は、対日賠償請求権を保有するということを日本政府に重ねて警告する。」(「「韓日条約」と諸「協定」は無効であるー朝鮮民主主義人民共和国政府の声明」(1965年6月23日付け)
以来、「東西の冷戦構造」の影響もあったりで、両国の間の国交は開かれないままに、いたずらに時が過ぎていった。
そんな両国が、21世紀に入ってのこの時、はからずも顔を合わせることになった。そして確認されたのが、これにある「日朝間の不幸な過去を清算し、懸案事項を解決し、実りある政治、経済、文化的関係を樹立することが、双方の基本利益に合致するとともに、地域の平和と安定に大きく寄与するものとなるとの共通の認識」なのである。
(続く)
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541『自然と人間の歴史・日本篇』日本から北朝鮮への拉致問題(~2014)
さて、第二次世界大戦後の日本に関係した拉致としては、日本人に対し北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が国家絡みで行ったかどうかの問題が、明らかとなっている。これは、日本人側が被害を訴えてのことで、同国の金正日・前国防委員長・前朝鮮労働等総書記が生前にこれを認めたのが、2002年の日朝首脳会談、日本側の小泉純一郎内閣総理大臣(当時)の時であった。かれは、北朝鮮の一部の特殊機関の者たちが、勝手に「現地請負業者」と共謀して、日本人を拉致したもので、国家ぐるみでないとし、口頭で謝罪した。2004年までには、拉致被害者のうち数名や、拉致被害者の夫や、子供数名が日本への帰国を果たした。この問題については、その後膠着状態になり、いまだに全面解決の目処は立っていない。
日本にとっては引き続き、国家主権が侵害された、揺るがせにできない事件となっている。
ちなみに、「拉致問題再調査」に関する双方の合意文書の前文は、こうなっている、2014年5月19日付け各紙に掲載された。
(まずは、日本側文書)
「双方は、日朝平壌宣言にのっとって、不幸な過去を清算し、懸案事項を解決し、国交正常化を実現するために、真摯(しんし)に協議を行った。
日本側は、北朝鮮側に対し、昭和20年前後に北朝鮮域内で死亡した日本人の遺骨および墓地、残留日本人、いわゆる日本人配偶者、拉致被害者および行方不明者を含む全ての日本人に関する調査を要請した。
北朝鮮側は、過去北朝鮮側が拉致問題に関して傾けてきた努力を日本側が認めたことを評価し、従来の立場はあるものの、全ての日本人に関する調査を包括的かつ全面的に実施し、最終的に、日本人に関する全ての問題を解決する意思を表明した。
日本側は、これに応じ、最終的に、現在日本が独自に取っている北朝鮮に対する措置(国連安全保障理事会決議に関連して取っている措置は含まれない)を解除する意思を表明した。
双方が取る行動措置は次の通りである。双方は、速やかに、以下のうち具体的な措置を実行に移すこととし、そのために緊密に協議していくこととなった。
第1に、北朝鮮側とともに、日朝平壌宣言にのっとって、不幸な過去を清算し、懸案事項を解決し、国交正常化を実現する意思をあらためて明らかにし、日朝間の信頼を醸成し関係改善を目指すため、誠実に臨むこととした。
第2に、北朝鮮側が包括的調査のために特別調査委員会を立ち上げ、調査を開始する時点で、人的往来の規制措置、送金報告および携帯輸出届け出の金額に関して北朝鮮に対して講じている特別な規制措置、および人道目的の北朝鮮籍の船舶の日本への入港禁止措置を解除することとした。
第3に、日本人の遺骨問題については、北朝鮮側が遺族の墓参の実現に協力してきたことを高く評価し、北朝鮮内に残置されている日本人の遺骨および墓地の処理、また墓参について、北朝鮮側と引き続き協議し、必要な措置を講じることとした。
第4に、北朝鮮側が提起した過去の行方不明者の問題について、引き続き調査を実施し、北朝鮮側と協議しながら、適切な措置を取ることとした。
第5に、在日朝鮮人の地位に関する問題については、日朝平壌宣言にのっとって、誠実に協議することとした。
第6に、包括的かつ全面的な調査の過程において提起される問題を確認するため、北朝鮮側の提起に対して、日本側関係者との面談や関連資料の共有などについて、適切な措置を取ることとした。
第7に、人道的見地から、適切な時期に、北朝鮮に対する人道支援を実施することを検討することとした。
(次に、北朝鮮側文書)
第1に、昭和20年前後に北朝鮮域内で死亡した日本人の遺骨および墓地、残留日本人、いわゆる日本人配偶者、拉致被害者および行方不明者を含む全ての日本人に関する調査を包括的かつ全面的に実施することとした。
第2に、調査は一部の調査のみを優先するのではなく、全ての分野について、同時並行的に行うこととした。
第3に、全ての対象に対する調査を具体的かつ真摯に進めるために、特別の権限(全ての機関を対象とした調査を行うことのできる権限)が付与された特別調査委員会を立ち上げることとした。
第4に、日本人の遺骨および墓地、残留日本人ならびにいわゆる調査の状況を日本側に随時通報し、その過程で発見された遺骨の処理と生存者の帰国を含む去就の問題について日本側と適切に協議することとした。
第5に、拉致問題については、拉致被害者および行方不明者に対する調査の状況を日本側に随時通報し、調査の過程において日本人の生存者が発見される場合には、その状況を日本側に伝え、帰国させる方向で去就の問題に関して協議し、必要な措置を講じることとした。
第6に、調査の進捗に合わせ、日本側の提起に対し、それを確認できるよう、日本側関係者による北朝鮮滞在、関係者との面談、関係場所の訪問を実現させ、関連資料を日本側と共有し、適切な措置を取ることとした。
第7に、調査は迅速に進め、その他、調査過程で提起される問題はさまざまな形式と方法によって引き続き協議し、適切な措置を講じることとした。
(続く)
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539『自然と人間の歴史・日本篇』日本への強制連行への判決(~2014)
国際間で、強制連行とか、拉致が実際にどのように行われたのかを吟味するのは、誠に難しい。戦後70年を経て事実を特定するのが容易でないし、双方の国民感情が昂じて先走りする傾向があるからだ。この際に重要になるのは、事実の掘り起こしに当たっては、中立・公平・公正の姿勢を堅持することではなかろうか。とりわけ、偏狭な民族主義に凝り固まっては、双方ともに、見えるものも見えなくなってしまうと考えられる。ともあれ、この種の問題は、次の世代へと先延ばしにしていくようでは、真の解決はおぼつかない。できるかぎりの人事を尽くした上で、あとは歴史の審判に委ねてほしいものだ。
顧みれば、先の大戦までの間、日本は強制連行(犯罪の嫌疑がかかっての狭義の「連行」とは異なるので、むしろ「拉致」とするべきか)した中国人や朝鮮人を企業で働かせていた。これを「強制労働」と呼ぶ。日本における外国人労働者の強制連行の始まりは、1938年(昭和13年)4月に公布された国家総動員法にもとづいていた。翌年7月には、国民徴用令が施行された。これらにより、民需産業の労働者が軍需産業に強制徴用が合法化される。それは中国人や朝鮮人などにも適用されていく。中国や朝鮮で暮らしている同国の民間人を拉致を含めて強制連行が実施されていった。
戦後この不当な扱いを強いられた人々からの訴えが、相次いで法廷に出される。21世紀に入ってからの2007年4月、最高裁が広島県の西松建設による強制連行に係る訴訟で、中国人元労働者らの請求に対する初めての判決をくだした。原告の訴えの向きは、1944年ごろに日本に連行され、同県加計町(現在の安芸太田町)の安野発電所を建設するため、1日12時間以上、導水トンネル工事などに従事させられた。そこで、中国人の元労働者ら5人が会社を相手に約 2700万円の損害賠償を求めたもの。この強制連行をめぐる訴訟が最高裁で実質審理され、判決が出るのは初めてのことであった。
そして迎えた判決の日、最高裁第二小法廷(中川了滋裁判長)は、訴訟の上告審判決を次のように述べ、棄却した。それによると、「71年の日中共同声明は個人の損害賠償等の請求権を含め、戦争の遂行中に生じたすべての請求権を放棄する旨を定めたものと解され、裁判上請求する権能を 失った」とある。この土台には、戦後補償問題は日中共同声明によって決着済みであるとの認識がある。したがって、個人が裁判で賠償を求める権利は認めない。ただし、「被害者らの被った精神的、肉体的苦痛が極めて大きく、西松建設が強制労働に従事させて利益を受けていることにかんがみ、同社ら 関係者が救済に向けた努力をすることが期待される」との見解を付した。
この判決に関する新聞報道によると、中国は、日本政府に注文をつけた。外交部の劉建超報道官は記者会見で、「労働者の強制連行は日本軍国主義が第二次世界大戦中に侵した重大な犯罪行為であり、日本政府は、誠実な態度でしかるべき責任を担い強制連行問題に真剣に対処し、これを適切に処理すべきだ」と述べた。また「『中日共同声明』は中日両国政府が調印した厳粛な政治文書であり、戦後の中日関係の回復と発展の政治的基盤をなしていることから、いかなる一方もこの文書の重要な原則と事項に対し、司法的解釈を含む一方的な解釈を加えるべきでない。中国側は原則に基づき関連問題を処理するよう日本側に要求する」というもの。
外務省の資料などによると、強制連行の中国人被害者は約4万人とされ、日本企業20~35社が関与したとされる(両方の数には、諸説あり。日本の各紙、例えば2016年6月2日付け)。これと同様の被害に遭った人々からの訴えの経緯の一端をもう少し拾うと、次のものがある。2009年10月、広島県安野水力発電所工事で強制労働させられた中国人被害者と、西松建設との間で和解成立となる。2010年4月、新潟県の信濃川でのダム工事で強制労働させられた中国人被害者(360人が対象。)と、西松建設との間で和解が成立する。2004年9月、工事で強制労働させられた中国人被害者(183人が対象)と、西松建設との間で和解に漕ぎ着ける。京都府加悦(かや)町のニッケル鉱山での労働で強制労働させられた中国人被害者(裁判の原告6人が対象。)との間で日本冶金工業との間で和解が成る(朝日新聞2016年6月2日付けなどから)。
このほか、2014年末までに、先に中国で訴訟を起こされていた三菱マテリアル(旧三菱鉱業)が、飯塚鉱業所(静岡県)などで働かされていた和解対象者3765人に1人当たり10万元(約170万円)を支払うとの和解案を提示して、交渉を進めていた。裁判の長期化による中国市場でのイメージへの影響を避けたい、との思いが背景にあったことは、疑いあるまい。そのことで、2016年6月、基本的な受け入れ姿勢になっていた1団体を除く5団体との間で、過去最大規模の和解枠組みで合意に漕ぎ着けた。
この和解に当たって同社は、「『中国人労働者の皆様の人権が侵害された歴史的事実を率直かつ誠実に認め、痛切なる反省の意を表する』」(朝日新聞2016年6月2日付けなどから)との謝罪を公にした。求められるのは、心の底からの根本的な和解であり、同社のこの判断はそのことをわきまえたものといえよう。とはいうものの、和解を受け入れたグループは3つで、残る1グループは、「和解協定には誠意がない」として法廷闘争を続けるとの声明を発表している。同社は「和解に応じるよう、働きかけていく」としているが、同社にとって最終決着までにはまだ一定の時間がかかる見通しだ。
とはいえ、一方で中国においては、このような強制連行訴訟がこの先も続く見通し。当地の原告弁護団の中には、日本企業との和解枠組みを拒否して訴訟を続ける被害者団体もあるとのことで、日本側の対応が引き続き注視されているところだ。
強制連行された元労働者からの訴えについては、韓国にも同様の未解決の問題がある。例えば、三菱重工業に対し、韓国人の元徴用工の男性5人や元女子勤労挺身(ていしん)隊員4人と遺族1人らから戦時中に強制的に労働されられたとして、損害賠償を請求されている。このうち女子挺身隊員らに関しては、2015年6月、韓国の高裁で1人当たり1億~1億2千万ウォン(当時の円建てで約900万~1100万円)の支払いを命じる判決が出たと、伝わる。また徴用工らからの訴訟については、この時点で最高裁に相当する大法院に上告し審理中とのことである。同社は、1965年の日韓請求権協定によって賠償が放棄されているとし、2016年6月時点ではなお、この問題も解決済みという立場を取っているようだ。
とはいえ、韓国の最高裁は、2012年に自国の訴訟で請求権を広く認める判決を下しているので、今後も韓国国民による当該日本企業を相手どっての訴訟は、この先もしばらく止むことはないだろうに。
(続く)
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469『自然と人間の歴史・日本篇』1990年代半ばまでの政治(植民地支配と侵略への謝罪)
1995年8月15日には、遅ればせながら、「村山談話」と呼ばれる首相談話が公にされた。閣議決定に基づいたものであって、それなりの重みを伴っていた。
「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道が進んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略とによって、多くの国々、とりわけアジアの人びとに対して多大な損害と苦痛を与えました。
私は、ここに改めて痛切な反省の意を表し、心からお詫びの気持ちを表明いたします。」
それにしても、この当たり前のことをいうのに、かれこれ50年もの歳月がかかった訳である。
惜しむらくは、この中に、日本国憲法下での平和の理念がどうなっているかについて、憲法第9条をしっかりと守っていく、という決意表明は見当たらない。
(続く)
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