○○468『自然と人間の歴史・日本篇』1990年代半ばまでの政治(小選挙区の導入)

2018-06-17 22:19:32 | Weblog

468『自然と人間の歴史・日本篇』1990年代半ばまでの政治(小選挙区の導入)

次なる政治改革については、これも、社会党が右傾化することにより実現の運びとなっていく。
 政治改革関連法のうち、小選挙区比例代表並立制の導入に伴ういわゆる区割り法が1994年11月21日に可決成立、同25日の公布となる。
 それから、すでに成立を見ていた他の関連法とともに1か月の周知期間を経て1994年12月25日に施行される。これ以後公示される衆議院総選挙に際しては、1917年(大正14年)以来続いてきたいわゆる中選挙区制から小選挙区制に選挙制度ががらりと変わった。
 これによると、投票方法も記号式二票式になり、国民と選挙の現場に大いなる驚き、怒り、とまどいが生まれたのは、否めない。また同時に、1995年1月1日から改正政治資金規制法と政党助成法が施行された。
 これにより、「企業、労働組合等の団体の寄付が大幅に制限されるとともに、政治資金は政党が中心になって集めるようにして透明性を高め、同時に法人格を有する政党に対しては国から交付金が公布されるようになります」(総理府広報室「家庭版、今週の日本、94年12月19日付け」)とある。
 かくして、選挙にカネがかかりすぎる、という反省から導入したと、推進勢力によって自認される制度が、ここに実現した。それは、政治資金規制法、政党助成法と法人格付与法、公職選挙法など広範囲に跨り、国民生活の前途に大いなる網をめぐらすものだといえよう。
 その不当性は、一口にいうならば民主主義の否定であり、なかんづく少数勢力が多数勢力になっていくことを拒もうとすることにほかならない。

(続く)

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○○467『自然と人間の歴史・日本篇』1990年代半ばまでの政治(社会党の平和政策の転換)

2018-06-17 22:10:37 | Weblog

467『自然と人間の歴史・日本篇』1990年代半ばまでの政治(社会党の平和政策の転換)

 これらのうち、社会党が大きく政策転換したのは周知のことであるが、政治面で安全保障政策とこれに関連する憲法条項(憲法第9条)、そして小選挙区制導入如何が、のっぴきならぬ命題として提出されるに至る。
我が国の安全保障からいうと、なかなかに電撃的な展開が見られた。時は1994年7月20日の衆議院本会議、出典は『日米関係資料集』(1945-97の1268-1269頁及び『朝日新聞』1994年7月21日朝刊)、村山富市首相の国会答弁には、こうある。
 「冷戦の終結後も国際社会が依然、不安定要因を内包している中で、わが国が引き続き安全を確保していくためには、日米安保条約が必要だ。日米安保体制は、国際社会における広範な日米協力関係の政治的基盤となっており、さらにアジア・太平洋地域の安定要因としての米国の存在を確保し、この地域の平和と繁栄を促進するために不可欠となっている。
 維持と言おうが堅持と言おうが、このような日米安保体制の意義と重要性についての認識は、私の政権でも基本的に変わることはなく、先のナポリ・サミットでの日米首脳会談では、私からこのような認識を踏まえて、日米安保体制についてのわが国の立場を改めて明確に表明した。
 私の政権の下では、今後とも日米安保条約、関連取り決め上の義務を履行するとともに、日米安保体制の円滑かつ効果的運用を確保する。在日米軍駐留経費特別協定の有効期間の終了後については、日米安保体制の円滑かつ効果的運用を図る必要があるとの観点から自主的判断に基き、適切に対応したい。その具体的内容は米側との協議を待って判断したい。」 「私としては専守防衛に徹し、自衛のための必要最小限度の実力組織である自衛隊は、憲法の認めるものであると認識する。同時に、日本国憲法の精神と理念の実現できる世界を目指し、国際情勢の変化を踏まえながら、国際協調体制の確立と軍縮の推進を図りつつ、国際社会で名誉ある地位を占めることができるよう全力を傾ける。
 本来、国家にとって最も基本的な問題である防衛問題で、主要政党間で大きな意見の相違があったのは好ましいことではない。戦後、社会党は平和憲法の精神を具体化するための粘り強い努力を続け、国民の間に、文民統制、専守防衛、徴兵制の不採用、自衛隊の海外派兵の禁止、集団自衛権の不行使、非核三原則の順守、核・化学・生物兵器など大量破壊兵器の不保持、武器輸出禁止などの原則を確立しながら、必要最小限の自衛力の存在を容認するという、穏健でバランスのとれた国民意識を形成したものであろうと思う。
 国際的には冷戦構造が崩壊し、国内的にも大きな政治変革が起きている今日こそ、こうした歴史と現実認識のもと、世界第二位の経済力を持った平和憲法国家日本が、将来どのようにして国際平和の維持に貢献し、併せてどのように自国の安全を図るのかという点で、より良い具体的な政策を提示し合う、未来志向の発想が最も求められている。社会党においてもこうした認識を踏まえて、新しい時代の変化に対応する合意が図られることを期待する。」

(続く)

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○○466『自然と人間の歴史・日本篇』1990年代半ばまでの政治(その流れ)

2018-06-17 22:09:36 | Weblog

466『自然と人間の歴史・日本篇』1990年代半ばまでの政治(その流れ)

 1990年代の始めから半ばまでの政治経済状況については、「錯綜重ねる政界図」というのがふさわしい。
 政治面では、1992年10月に金丸信議員が東京佐川急便事件の責任をとって議員辞職、竹下派会長も辞任した。その後任には、小渕恵三が就任した。「天下、国家のために働いている」と公言してはばからなかったその前議員が、後に自宅で75キログラムの金塊を抱いていた(実のところは冷蔵庫にあったとか)ことが判明した。長らく権力の中枢にある人が、一皮剥けば実はカネまみれであったことは、驚きであった。
 1992年12月になると自民党の最大派閥の竹下派が分裂する。その一部は羽田派を結成、また小渕派はあっけなく党内第4派閥に転落してしまう。政局は麻のごとくに乱れて変動がやまず、1993年6月内閣不信任案に対し、自民党の小沢・羽田グループが合流して可決するのであった。衆議院は解散し、小沢・羽田グループは新生党を結成する。
 1993年8月には細川・非自民党内閣が成立した。新保守三党を含む七党一会派による連立政権という寄り合い所帯の誕生であった。
 その後の1994年4月の羽田内閣を経て、翌1994年6月には今度は自民党も賛成して自社さまがけ連立の村山社会党首班の内閣が発足する。当時の社会党は、衆議院で74議席を占めていた。自民党は在野に下り、主流派は「経世会」を「平成政治研究会」に改称し、返り咲きの機を窺う。
 一方、1994年12月には新進党が結成され、海部党首、小沢幹事長が就任する。この間に民主主義に逆行する小選挙区制が創設される。貧富の差をさらに広げる年金改悪や消費税増税も行われたり、決まる。
 さらに、いわゆる「1955年体制」で40年近くの歳月名を成してきた日本社会党は、この両方の関係をどうするかの政治課題(選択というべきか)に労働者と勤労国民の代表の立場を貫けず、この頃から「現実色」をとみに強め、体制内勢力の一部へと組み込まれていく。

(続く)

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○○399『自然と人間の歴史・日本篇』日韓国交正常化(1965)

2018-06-17 21:00:58 | Weblog

399『自然と人間の歴史・日本篇』日韓国交正常化(1965)

 言うなれば、直ぐ近くの海をへだてて隣接する関係にある、朝鮮半島の二つの国と一日も早く国交を回復することは、第二次大戦後の日本にとって大いなる願いであったにほかならない。これにいたる流れとしては、まで「カイロ宣言」(1943年)において、「前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス」となっていた。
 それを今度は「ポツダム宣言」(1945年)が援用(第8項)し、本宣言を受託後の日本の領土を、本州、北海道、九州それに四国に限るという。さらに第13項において、日本の軍事力を最終的に破壊する用意があることを表明したのであった。
 それからの大いなる契機となったのは、前述のとおり、サンフランシスコ平和条約による、いわゆる韓国との「片面講和」なのであった。そして、この条約の第2条において、「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵(うつりょう)島を含む朝鮮に対するすべての権利、権限及び請求権を放棄する」とあるのが、当時この条約に参加していなかった韓国との間で、戦後の国交関係を打ち立てるには避けては通れないことになるのである。
 この後、別項で述べたような4年半の中断を経て、双方は話し合うことになるのだが、日本側はここでもこれまでの主張を繰り返し、曖昧な態度で責任をとりたくない姿勢をとりつづける。その後、この困難な局面を打開したのは韓国側の譲歩であって、これにより日本がパク・チョンヒ政権に韓国の経済開発のために合計8億ドルを提供する見返りに、韓国は日本の戦争および植民地支配により被った被害を一切問わないことにすることでの政治的な妥協が成立した。両国による基本条約の締結は1965年(昭和40年)6月22日になされる。およそこのような経緯によって、日本は韓国と韓国人民に対しはっきりとした謝罪をすることなく、国交の約束を結んでいくのである。
 そして迎えた1965年12月18日付けで、韓国との間に、「日本と大韓民国の基本関係に関する条約」が結ばれる。その第2条には、こうある。
 「1910年8月22日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される。」(朝日新聞戦後補償問題取材班「戦後補償とは何か」朝日新聞社、1994に掲載のものから引用)
 また、同日付けで、それまでの戦時賠償などに関する両国間の協定「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」も結ばれる。
 その第1条には、こうある。
 「日本国は、大韓民国に対し、
(a)現在において1080億円に換算される3億合衆国ドルに等しい円の価値を有する日本国の生産物及び日本人の役務を、この協定の効力発生の日から10年の期間にわたって無償で供与するものとする。
 各年における生産物及び日本人の役務は、現在において108億円に換算される3000万合衆国ドルに等しい円の額を限度とし、各年における供与がこの額に達しなかったときは、その残額は、次年以降の供与額に加算されるものとする。ただし、各年の供与額の限度は、両締約国政府の合意により増額されることができる。
(b)現在において720億円に換算される2億合衆国ドルに等しい円の額に達するまでの長期金利の貸付けで、大韓民国政府が要請し、かつ、3の規定に基づいて締結される取極に従って決定される事業の実施に必要な日本国の生産物及び日本人の役務の大韓民国による調達に充てられるものをこの協定の効力発生の日から10年の期間にわたって行うものとする。(中略)
2両締約国政府は、この条の規定の実施に関する事項について勧告を行う権限を有する両政府間の協議機関として、両政府の代表者で構成される合同委員会を設置する。
3両締約国政府は、この条の規定の実施のため、必要な取極を締結するものとする。」 
 これにあるよう韓国政府が、日本政府に対する賠償金請求を取り下げた結果、日本側の脳裏にはあたかも「経済協力」だけが約定されたかのように論じる向きが多い。しかしながら、これに至る紆余曲折の経過に鑑みると、日本側に著しい不誠実の態度があったことで手間取ったのは否めない。この点、戦後のドイツが、官民挙げて第二次世界大戦を引き起こしたことに対する大いなる反省と謝罪の上に、真摯な気持ちで再出発していこうと心がけたのとは大きく異なる。

(続く)

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♦️79の1『自然と人間の歴史・世界編』ローマの改革(グラックス兄弟)

2018-06-16 21:55:48 | Weblog

79の1『自然と人間の歴史・世界編』ローマの改革(グラックス兄弟)

 共和制のローマは、次々と勢力図を拡大していった。紀元前146年にはカルタゴやギリシアなどを属州に組み入れ、ほぼ地中海全域を掌握した。征服に成功した地域からは、戦利品などの莫大な金品がもたらされた。征服した地にローマの公有地を設定する際には、植民という形で市民が赴任するとともに、そこでの指導者層は彼らの中でも裕福な者たちが占めていく。
 そればかりか、対外戦争で多くの捕虜が奴隷として安価な労働力を提供するようになっていく。そうなると、富裕層は没落した市民などから土地を買い集め、奴隷を使って農場や牧場を経営したり、市民たる者を小作人とする契約関係に縛りつけたりするのに精出すようになっていく。こうした富める者の動きは、一般的な農民の没落を促進するのであった。 
 そして迎えた紀元前133年、名門貴族の出ながら、こうした社会の不平等の拡大を問題にしていた護民官(トリブヌスプレビス)ディベリウス・グラックスは、没落した、あるいはそうなりつつある中小農民の救済に動く。
 大規模土地所有者が不法、不当に占有していた元はといえば公有地を返還させるなりしたうえで、かかる農民たちに分配しようとした。ディベリウスは、民会を拠点に市民大衆に呼びかける際、農民の疲弊は軍隊の動員に支障をきたすことでローマの軍事力を弱めるとも言ったという。しかし、ローマ市民権をもつ、大方の商工業者らの理解はなかなか進まなかったようだ。かれが提案したこの法案は、元老院の大方の反対にあい、賛成派と反対派が揉み合う中、ディベリウスは暗殺されてしまう。
 この兄の無念に触発されてであろうか、紀元前123年には弟のガイウスが、護民官に当選する。彼は、兄の法案に示された政策理念を引き継ぎ、広げようとする。独自の工夫を加えながら、はるかに多くの改革をめざす。例えば、常設法廷の審判人を元老院議員から騎士身分に代える法、同盟市の市民にローマ市民権を付与する法、安価で穀物を分配するための法などを実現しようと奔走するのであった。だが、ローマ市民の支持は彼とその同志が考えたようには拡大せず、やがてその彼も暗殺され、改革は挫折してしまう。

続く

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♦️471『自然と人間の歴史・世界篇』ギニア・ピサウ

2018-06-16 21:49:05 | Weblog

471『自然と人間の歴史・世界篇』ギニア・ピサウ

 ギニア・ピサウ共和国(1973年9月24日に独立、旧宗主国はポルトガル)は、西アフリカに位置する。北にセネガルと、南と南東にギニアと国境を接し、西は大西洋に面する。首都はビサウだ。
 1446年、ポルトガル人が初めて上陸する。1687年、ピサウにポルトガルの貿易基地が設けられる。現地のアフリカ人の抵抗を抑え、ポルトガルがこの地を植民地とする。南北アメリカ大陸への奴隷貿易の中継地となっていく。これは、19世紀半ばまで続く。1879年にベルデ岬諸島と統治状は分離される。1886年、フランス領アフリカとの境界線が確定し、ポルトガルのこの地での覇権が確立したといえよう。
 アジア・アフリカ会議の翌年の1956年、ギニア・ピサウ・カボベルデ・アフリカ独立党(PAIGC)がポルトガル領アフリカのギニア・ピサウで創立となる。なお、同じポルトガル領のアンゴラにおいては、アンゴラ解放人民運動(MPLA)が始動するのであった。
 続いての1959年、ピサウの造船労働者のストライキに、ポルトガル軍が発砲する。PAIGCは武装闘争に切り替える。1965年、アフリカ統一機構がPAIGCを承認する。PAIGCは、1972年にはこの地の4分の3程度を支配するにいたる。
 そして迎えた1973年9月、民族人民議会の第1回大会が開催され、ポルトガルよりの独立を宣言する。同年11月の国連総会において、ギニア・ピサウとして独立が承認される。翌1974年には、国連に加盟を果たす。一方のポルトガルだが、「衆寡敵せず」を悟るほかなく、1974年ついにギニア・ピサウの独立を承認する。
 その国旗は、元はPAIGCの党旗であったが、星印しの下にあったPAIGCの文字が消えることで生まれた。興味深いのは国歌であって、「ラララ」といったスキャットで始まる。歌詞の途中の「われらの血の華から、われら手から生まれた果実、ここはわれらがアイする祖国」とあるのが、いかにもアフリカらしい。
 1980年11月、ヴィエイラ首相がクーデターで政権を奪取し、革命評議会が設置される。1984年4月の総選挙では、PAIGCのみが政党であるため、事実上の信認投票となる。5月に再開の国会においては新憲法か制定される。首相職は廃止となる。国家革命評議会にかわって国会が選んだ15人からなる国家評議会が設置される。
 1994年8月、大統領選挙があり、ヴィエイラが大統領に当選する。1998年6月には、一部軍人による反乱がある。1999年5月、ヴィエイラ大統領亡命、サーニャ国民議会議長が暫定国家の元首に就任する。2000年1月、大統領選挙、クンバ・ヤラ大統領選出。2003年クーデターが発生する。
 2003年10月、暫定政権が発足し、ローザが臨時大統領に就任する。2005年6~7月、大統領選挙でヴィエイラが当選する。2009年3月、ヴィエイラ大統領が殺害されたのを受け、ぺレイラ国民議会議長が暫定大統領に就任する。2009年9月、大統領選挙があり、サーニャが大統領に当選するが、12年に死去する。
 2012年4月、大統領選挙中に一部軍人によるクーデターの動きが発覚し、国連がクーデター首謀者らに制裁を課す。2012年5月、ヌハマジョが暫定大統領に就任する。2014年5月、大統領選挙でヴァス大統領が選出される。2016年10月、 コナクリ合意に全関係政党が署名する。

(続く)

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♦️417『自然と人間の歴史・世界篇』ポツダム宣言

2018-06-15 21:42:30 | Weblog

417『自然と人間の歴史・世界篇』ポツダム宣言

 1945年7月26日には、「ポツダム宣言」(Potsdam Declaration, Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender, Issued at Potsdam , July 26, 1945)が発表される。これの主旨とは、日本に無条件降伏を迫るものであった。
 (英文)
(1) We—the President of the United States, the President of the National Government of the Republic of China, and the Prime Minister of Great Britain, representing the hundreds of millions of our countrymen, have conferred and agree that Japan shall be given an opportunity to end this war.
(2)The prodigious land, sea and air forces of the United States, the British Empire and of China, many times reinforced by their armies and air fleets from the west, are poised to strike the final blows upon Japan. This military power is sustained and inspired by the determination of all the Allied Nations to prosecute the war against Japan until she ceases to resist.
(3)The result of the futile and senseless German resistance to the might of the aroused free peoples of the world stands forth in awful clarity as an example to the people of Japan . The might that now converges on Japan is immeasurably greater than that which, when applied to the resisting Nazis, necessarily laid waste to the lands, the industry and the method of life of the whole German people. The full application of our military power, backed by our resolve, will mean the inevitable and complete destruction of the Japanese armed forces and just as inevitably the utter devastation of the Japanese homeland.
(4)The time has come for Japan to decide whether she will continue to be controlled by those self˗willed militaristic advisers whose unintelligent calculations have brought the Empire of Japan to the threshold of annihilation, or whether she will follow the path of reason.
 上記の4か条にて、アメリカ、イギリス及び中国の3国、そして対日参戦後に加わったソ連は、日本に戦争終結の機会を与える。
(5)Following are our terms. We will not deviate from them. There are no alternatives. We shall brook no delay.
(6)There must be eliminated for all time the authority and influence of those who have deceived and misled the people of Japan into embarking on world conquest, for we insist that a new order of peace, security and justice will be impossible until irresponsible militarism is driven from the world.
(7)Until such a new order is established and until there is convincing proof that Japan’s war˗making power is destroyed, points in Japanese territory to be designated by the Allies shall be occupied to secure the achievement of the basic objectives we are here setting forth.
(8)The terms of the Cairo Declaration shall be carried out and Japanese sovereignty shall be limited to the islands of Honshu , Hokkaido , Kyushu, Shikoku and such minor islands as we determine.
(9)The Japanese military forces, after being completely disarmed, shall be permitted to return to their homes with the opportunity to lead peaceful and productive lives.
(10)We do not intend that the Japanese shall be enslaved as a race or destroyed as a nation, but stern justice shall be meted out to all war criminals, including those who have visited cruelties upon our prisoners. The Japanese Government shall remove all obstacles to the revival and strengthening of democratic tendencies among the Japanese people. Freedom of speech, of religion, and of thought, as well as respect for the fundamental human rights shall be established.
(11)Japan shall be permitted to maintain such industries as will sustain her economy and permit the exaction of just reparations in kind, but not those which would enable her to re˗arm for war. To this end, access to, as distinguished from control of, raw materials shall be permitted. Eventual Japanese participation in world trade relations shall be permitted.
(12)The occupying forces of the Allies shall be withdrawn from Japan as soon as these objectives have been accomplished and there has been established in accordance with the freely expressed will of the Japanese people a peacefully inclined and responsible government.
(13)We call upon the government of Japan to proclaim now the unconditional surrender of all Japanese armed forces, and to provide proper and adequate assurances of their good faith in such action. The alternative for Japan is prompt and utter destruction.
 これの第8項においては「カイロ宣言」(1943)を援用し、本宣言を受託後の日本の領土を、本州、北海道、九州それに四国に限るという。さらに第13項において、日本の軍事力を最終的に破壊する用意があることを表明している。
(注)出典は、「Department of States Bulletin, ⅩⅢ(July 29, 1945):外務省特別資料課編、「日本占領及び管理重要文書集」第1巻、1949年8月10日」:「日米関係資料集」1945~1997」東京大学出版会・1999年2月25日初版、1999年3月15日第2版から引用)
 顧みると、このポツダム宣言では、第二次世界大戦を、ヨーロッパ戦線と太平洋戦線の二つに分けて考えていたらしいことがある。例えば、ポツダム宣言の会議室にあった第二次大戦における戦死者数についてのメモがあって、それにはこう記されていたという。
 「ソ連2000万人、ドイツ970万人、ポーランド603万人、フランス52万人、イタリア40万人、アメリカ33万人、イギリス32万人」(NHKの番組「視点・論点」における経済学者・野口悠紀夫氏の「数字で世界を考える」で紹介された)

(続く)

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♦️583『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連による「プラハの春」への介入(1968)

2018-06-15 07:29:29 | Weblog

583『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連による「プラハの春」への介入(1968)

 1960年代の東欧社会主義国の中で、大いなる「自由化」の運動が起きます。これを首都の名をとって、「プラハの春」と呼びます。筆者は、この運動をこう紹介しています。
 「1966年、オタ・シク教授の唱える「新経済政策」がチェコスロバキア共産党の党大会で採択されました。これを機に政治・経済・社会全般にわたる「自由化」の機運が党内と社会に強まっていきました。
 1968年1月、「スターリン主義者」といわれたノボトニーが第一書記を解任され、代わってドプチェクが第一書記に就任しました。これが「プラハの春」事件の出発点でした。
 1968年4月、共産党が「行動要領」を発表しました。この中で、「チェコスロバキアの社会主義の道」をめざすことを宣言するとともに、集会と結社の自由、そして検閲の廃止など、それまでの「社会主義」に新風を吹き込むような改革の方向性を鮮明にしました。
 1968年8月20日、労働者・市民主導の「自由化」の行き過ぎを懸念したソ連軍(ワルシャワ条約機構の軍として)が、このチェコスロバキアの動きを止めるために突如として軍事介入しました。
 なぜソ連が軍事介入したのかについては、詳しいことはわかっていません。確かに、集団安全保障の観点からの、「やむを得ざる介入であった」という見方もあったでしょう。しかし、政治的理由ばかりを強調するのは誤りで、政治と経済が一帯となった改革がすすんでいくことが必然的であると、その流れを読み取ったソ連指導部の「これは行き過ぎだ、ソ連・東欧の社会主義勢力を守るために阻止しなければならない」との決意が醸成されていった、と考える向きが多いです。
 そんな当時の「ソ連の経済事情」を伝えるものとして、こんな見方もあります。
 「1962年9月、ソ連共産党機関誌「プラウダ」紙上にリーベルマン論文発表。この論文は、中央集権的計画化を緩和し、企業の自主的決定の権限を拡大し、「計画標準収益率指標」、すなわち利潤率を企業活動の評価基準とすることを勧告した。
 1964年10月に登場したブレジネフ・コスイギン政権はこの面ではフルシチョフ路線をうけついで、1965年9月のソ連共産党中央委員会総会で、いわゆる「コスイギン改革」の開始を決定した。これにならって東欧各国では1964年から1968年にかけていっせいに経済改革に着手する。
 この過程で、チェコの経済改革が上部構造のドラスティックな改革を要求する動きに発展したために、ソ連は(おそらくコスイギン首相その他の反対を押し切って)チェコに軍事介入し、経済改革をソ連なみの限度に押しとどめた。
 このソ連の軍事介入、その背後にある政治決意は、1968年以降の東欧諸国の経済改革に大きなブレーキとなった。経済改革が従来の計画理念を根本的に批判し、上部構造の民主化をともなう経済・社会改革として発展していくことは困難になったのである。」(平田重明「チェコスロバキア「再生」運動の前史的構造ー社会主義への独自の道をめぐる源流と逆流ー」:東京大学社会科学研究所編著「現代社会主義ーその多元的諸相ー」東京大学出版会、1977、247ページより引用。)
 さりとて、このように政治と経済とを結びつけようとする試みについては、誰もが「ははん、そうなのか」と納得するような「確証」が残されている訳ではありません。
 
(続く)

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♦️398『自然と人間の歴史・世界篇』ドイツ、日本、イタリアの三国軍事同盟

2018-06-14 21:21:50 | Weblog

398『自然と人間の歴史・世界篇』ドイツ、日本、イタリアの三国軍事同盟
 
 1940年9月には、ファシスト国家のドイツ、日本そしてイタリアの三国が集まって調印、彼らの同盟関係を構築するにいたる。
 その条文(日本側)には、こうある。
 「日本国、ドイツ国及イチリア国政府は万邦をして各其の所を得しむる以て恒久平和の先決要件なりと認めたるに依り、大東亜及欧州の地域に於て各其の地域に於ける当該民族の共存共栄の実を挙けるに足るへき新秩序を建設し且之を維持せんことを根本義と為し、右地域に於て此の趣旨に拠る努力に付相互に提携し且協力することに決意せり。
 而して三国政府は更に世界到る所に於て同様の努力を為さんとする諸国に対し協力を吝まさるものにして斯くして世界平和に対する三国終局の抱負を実現せんことを欲す。
 依て日本国政府独逸国政府及伊太利国政府は左の通協定せり。
 第一条、日本国は、ドイツ国及イタリア国の欧州に於ける新秩序建設に関し、指導 的地位を認め且之を尊重す。
 第二条、ドイツ国及イタリア国は、日本の大東亜に於ける新秩序建設に関し、指導 的地位を認め且之を尊重す。
第三条、日本国、ドイツ国及イタリア国は、前記の方針に基く努力に付相互に協力 すへきことを約す。更に三締約国中何れか一国か、現に欧州戦争又は 日支紛争に参入し居らさる一国に依て攻撃せられたるときは、三国は 有らゆる政治的、経済的及軍事的方法に依り相互に援助すへきことを 約す。
(中略)
第五条、日本国、ドイツ国及イタリア国は前記諸条項か三締約国の各と『ソヴィエ ト』聯邦との間に現存する政治的状態に何等の影響をも及ほささるも のなることを確認す。
 1940年(昭和十五年)九月二十七日」(「日本外交年表並主要文書」)
 これにより力を得たのは、ヨーロッパとアジアとで、連合国の兵力を分断し、軍事作戦を有利に導くことができると考えたのであろう。
 当時は、ドイツがヨーロッパ戦線で破竹の勢いで進軍していたから、アジア・太平洋で侵略活動を行っていた日本軍は、中国戦線の国民政府軍の支援ルートを遮断したり、戦争の長期化に備えた資源確保などをねらい、ベトナム北部(当時はフランス領への進駐を行いつつあった。三者で国際新秩序をつくろうという意味ではまず自国の権益を増大させるのが先決であったろうし、そのためには「渡りに船」の選択であると考えていたに違いあるまい。 

(続く)

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♦️397『自然と人間の歴史・世界篇』日本・ドイツの防共協定(1936)

2018-06-14 21:20:51 | Weblog

397『自然と人間の歴史・世界篇』日本・ドイツの防共協定(1936)

 「大日本帝国政府及ドイツ国政府は共産「インタ-ナショナル」(所謂「コミンテルン」)の目的が其の執り得る有らゆる手段に依る現存国家の破壊及暴圧に在ることを認め、共産「インタ-ナショナル」の諸国の国内関係に対する干渉を看過することは其の国内の安寧及社会の福祉を危殆ならしむるのみならず、世界平和全般を脅すものなることを確信し、共産主義的破壊に対する防衛の為協力せんことを欲し左の通り協定せり。(中略)
 その「秘密付属協定」というのもあって、それにはこうある。
 「第一条、締約国の一方が「ソヴィエト」社会主義共和国連邦より挑発に因らざ る攻撃を受け、又は挑発に因らざる攻撃の脅威を受くる場合には、他の締約国は「ソヴィエト」社会主義共和国連邦の地位に付、負担を軽からしむるが如き効果を生ずる一切の措置を講ぜざることを約す。(中略)
 1936年(昭和十一年)十一月二十五日」(「日本外交年表並主要文書」)
 要するにこれは、当時、荒れ狂うファシズムに対する統一戦線戦術を採用し、これを世界の進歩勢力の第一義的課題としていた中心、コンテルンへの対抗を目していた。
 おりしも、アジア・太平洋戦線の中国では、これに対抗すべく、1937年9月に第二次国共合作(国民党と共産党との対日統一戦線を意味する)が準備されていくのであった。これに対抗する日本のファシズム政権としては、「防共」とは日本が中国を侵略する中での当初の大義名分であったものが、この後の1939年には、ドイツとソ連との間で電撃的なドイツ・ソ連不可侵条約が結ばれるに及んで維持できなくなる流れにあった。

(続く)

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♦️396『自然と人間の歴史・世界篇』ドイツ、日本、イタリアの国際連盟脱退

2018-06-14 21:19:37 | Weblog

396『自然と人間の歴史・3世界篇』ドイツ、日本、イタリアの国際連盟脱退

 せっかく設立された国際連盟後なのだが、1930年代に入ってからは、しだいに有名無実の状態へと変化していく。中でも、ファシズムに傾いた日本、ドイツ、イタリアが脱退する。さらにソ連も除名されるなどして有名無実となっていく。
これらのうちドイツは、1926年に際連盟への加盟を認められていたものの、1933年10月にのヒトラー政権は、軍縮会議に組みせずに、再軍備を目指した独自の道を歩むべく、脱退してしまう。また、イタリアは、1937年にエチオピアへ進攻したのを同連盟に咎められたのを契機に、これまた脱退を通告するのであった
 さらに、1933年の日本の国際連盟脱退については、「満州事変」絡みのものであったことが、判明している。
 「本年二月二十四日臨時総会の採択せる報告書は、帝国か東洋の平和を確保せんとする外何等意図なきの精神を顧みさると同時に、事実の認定及之に基く論断に於て甚しき誤謬に陥り、就中九月十八日事件当時及其の後に於ける日本軍の行動を以て自衛権の発動に非すと臆断し、又同事件前の緊張及事件後に於ける事態の悪化か支那側の全責任に属するを看過し、為に東洋の政局に新なる紛糾の因をつくれる一方、満州国成立の真相を無視し、且同国を承認せる帝国の立場を否認し、東洋に於ける事態安定の基礎を破壊せんとするものなり。(中略)
 帝国政府は平和維持の方策殊に東洋平和確立の根本方針に付、連盟と全然其の所信を異にすることを確認せり。 仍て帝国政府は此の上連盟と協力するの余地なきを信し、連盟規約第一条第三項に基き帝国か国際連盟より、脱退することを通告するものなり」(「日本外交年表並主要文書」)
これの手続き面では、同年3月24日の国際連盟総会において、中国の国民政府の統治権を承認し、日本軍の撤退を求める報告案に対して、賛成42、反対1、棄権1で可決したのであった。これに反対票を投じた日本代表が、案の定、同議場から退場する。日本側に一切の反省はなく、3月27日には国際連盟脱退に関する「詔書」を発表し、連盟に脱退を通告するという体(てい)たらくであった。

(続く)

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♦️372『自然と人間の歴史・世界篇』世界恐慌からの回復過程(アメリカのニューディール政策)

2018-06-14 09:22:38 | Weblog

372『自然と人間の歴史・世界篇』世界恐慌からの回復過程(アメリカのニューディール政策)

 アメリカにおいては、1933年にローズヴェルト政権が発足するや、内外の耳目がその動向に注目する。
 新政権は、さっそく特別会期の議会に、数々の法案を提案し、成立させてゆく。
 農業調整法(1933年5月12日)の第1条には、こうある。
 「農産物商品と他の商品との間の価格の不均衡が農民の工業製品に対する購買力をいちじるしく減退させ、正常な商品の取引を阻害し、国家の信用機構の支柱である農業生産に重大な損害を与えており、そうした不均衡が現在の緊迫した経済の非常事態の原因の一部となっているので、(中略)ここに本法の第一部をただちに制定する必要があることを宣言する。」((大下尚一ほか編「史料が語るアメリカーメイフラワーから包括通商法まで、1584~1988」有斐閣、1989)
 続いてのTVA法(1933年5月18日)の第1条には、こうある。
 「本法により、国防および農工業の振興のために現在アラバマ州マスショールズ一帯にある合衆国政府所有の資産を維持・運用し、またテネシー川の水運の改善、テネシー川流域及びミシシッピー川流域の破壊的洪水の防止を行うことを目的として、「テネシー川流域開発会社」と称する法人を設立する。」(同)
 また、全国産業復興法(1933年6月16日)の第1条には、こうある。
 「ここに州際ならびに対外通商を阻害し、公共の福祉に影響し、アメリカ国民の生活水準を引き下げる広範な失業と産業界の混乱とをひき起こした国家非常事態が存在すると宣言する。
 したがって、州際ならびに対外通商の自由な流れを妨げその量を減少させる傾向にある障害の除去、企業団体間の協力活動のために産業の組織化を促進することによる一般の福祉の増進、政府の適切な認可と監督の下における労使双方の協同行動の導入と維持、不正競争行為の排除、産業の現存生産能力の最大限の利用の促進、不当な生産制限の回避、購買力の増大による工業と農業生産物の消費の増加、失業の減少と救済、労働水準の改善、その他の方法による産業の復興と自然資源の保全、を図ることが連邦議会の政策であることを宣言する。」(同)
 それらに、「ニューディール立法」(1935年)と総称される立法などが加わるのだが、まずはその一つ、「雇用促進局設立に関する行政命令」(1935年5月6日)には、こうある。
 「1935年4月8日に承認された「緊急救済支出法」の下で私に付与されているほかのすべての権限により、ここに以下のように指令する。
 1.私はそれにより政府内に若干の機関を設立し、それらの機能と責務をそれぞれ以下のように規定する。(中略)
 (c)雇用促進局は大統領に対し、雇用救済計画全体を誠実、能率的、かつ迅速に調整を図りながら実施し、また可能な限り短時間に最大限の人びとを救済受給名簿からそうした事業計画あるいは民間の雇用に移すようなやり方でこの政策を実施する責任を有している。」(同)

(続く)

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♦️493『自然と人間の歴史・世界篇』ジブチ

2018-06-13 08:47:59 | Weblog

493『自然と人間の歴史・世界篇』ジブチ

 ジブチ共和国(1977年6月27日に独立、旧宗主国はフランス)は、アラビア半島とアフリカ大陸に囲まれた紅海の出口に位置する。要衝の地だといえる。そうなのだ、ジブチは「アフリカの角(つの)」の部分にある。地理的領域だが、北をエリトリア、西と南をエチオピア、東をソマリアと国境を接する。2017年時点の人口は、約90万人を数える。
 そこで、このあたりの近代に入ってからの歩みを訪ねよう。1862年3月、仏、ジブチ市北方のオボック地方をアファル族より譲り受ける。1885年、仏、イッサ族よりジブチ市近辺を譲り受ける。
 1896年5月、フランス政府は、フランス領ソマリランド(首都ジブチ)に名誉総督を派遣する。フランスは、スエズ運河の建設が開始されると、植民地獲得にさらに積極的になる。タジュラ、ゴバットのスルタン(イスラム教における導引役を兼ねる)と契約を結ぶ。この関係において、オポック港および、ラス・アリからラス・ドウメイラまでの海岸地帯を譲り受ける。
 1946年、フランスの海外領土となる。1967年3月、フランス領アファール・イッサと改名する。そして迎えた1977年6月、フランスより独立し、グーレド大統領が就任する。この国の住民の多くは、ソマリ系のイッサ族とクシ系のアファル族だが、独立までの経緯でいうと、大同団結というにはほど遠かったのではないか。一説には、エチオピア・ソマリア国境紛争の影響もあったという。
 1991年11月、この部族間の対立関係を背景に、政府軍と反政府軍との武力衝突により内戦が勃発する。1992年9月、国民投票で新憲法が採択される。1994年12月、政府と反政府軍との間で和平合意に署名する。1996年3月、FRUDが政党として正式に公認される。
 1999年4月、大統領選挙でゲレが大統領に選出される。2000年2月、政府とFRUDとの間で和平枠組み合意に署名する。2001年5月、政府とFRUDの間で最終和平案を合意する。2003年1月、総選挙で与党連合が国会の全65議席を獲得する。 2005年4月、大統領選挙でゲレ大統領が再選される。2010年4月には、憲法改正が行われる。大統領任期の短縮を6年から5年に短縮することや、再選回数制限の撤廃などがある。この改革については、国情の安定化が働いたのではないか。
 2011年4月、大統領選挙でゲレ大統領が3選される。2012年2月、国民議会選挙が実施される。2016年4月、大統領選挙でゲレ大統領が4選される。
 この国が21世紀に入って注目を集めているものに、列国の軍事・安全保障の面で戦略的要衝としての存在がある。今やここには、アメリカ、フランス、中国をはじめ、各国がここを舞台に作戦・行動を構える。驚くのは、平和憲法で少なくとも海外へ出掛けての軍事活動を禁じられている筈の日本までもが、インド洋につながるアデン湾で「海賊対処活動」を行う自衛隊を展開中だ。いまや、「自衛」というのは、世界のどこにも出掛けていることになっているらしい。
 そんな中でも、「台風の目」ともいうべき圧感の展開を見せているのが、2017年7月にこの地に一大軍事拠点を築いた中国であろう。ジプチ政府がこれを受け入れたのは、賃貸料を始とする関連収入もさることながら、中国の「一帯一路」に標榜されるような世界戦略への理解もあってのことではないだろうか。 

(続く)

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♦️446『自然と人間の歴史・世界篇』朝鮮戦争(泥沼化~停戦)

2018-06-12 21:08:11 | Weblog

446『自然と人間の歴史・世界篇』朝鮮戦争(泥沼化~停戦)

 このままでは戦況が劣勢になる。そう考えたアメリカ政府は1950年12月15日には、国家非常事態宣言をし、それまで150万であった兵力を350万人に増やす。
 ここでトルーマンは、戦況の立て直しをはかるためには原爆投下も辞さずの態度をほのめかし、またマッカーサーは中国東北部への爆撃を主張する。ここで、事態が大規模化するのを恐れたイギリス首相クレメント・R・アトリーが朝鮮に限定すべきだとアメリカに進言する。
 折しも、アメリカ自身も局地戦争から広範囲への戦争拡大への懸念が増してくる。ここに及んで、中国側への大規模攻撃を思いとどまる。それとともに、1951年4月11日には強硬派のマッカーサーを解任する。
 1951年6月23日になって、ソ連のマリク国連代表による停戦案が出される。これを国連軍側が受け入れる形で、7月10日には停戦交渉が始まる。しかし、これに手間取り、1953年7月27日になってようやく停戦交渉の妥結にこぎ着ける。この間、アメリカの連邦予算に占める軍事費は「1940年代後半の45.5%から1950年代前半には62.2%に増加した。この戦争でのアメリカ軍の死者は約3万3千人と伝えられる。
 果たして、中国軍が北朝鮮を支援して参戦してからの戦局は、膠着状態になっていく。1953年に、北緯38度線で双方による休戦協定が成立した。
 約4年にわたる民族内戦争で、全国の国土、生産設備は焦土と化した。その後のことだが、1961年末頃までの韓国経済は、まだ経済後進国に過ぎなかった。天然資源に乏しく、国民生活に必要な物資はもとより、さまざまな一次産品も輸入に頼っていた。

(続く)

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♦️446『自然と人間の歴史・世界篇』朝鮮戦争(発端)

2018-06-12 21:06:49 | Weblog

446『自然と人間の歴史・世界篇』朝鮮戦争(発端)

 第二次世界大戦後、朝鮮半島は南北に分断される。1948年8月、南に位置する大韓民国で憲法が制定された。これから李承晩(イ・スンマン)政権が倒壊するまでを第一共和制(1948年~1960年)と呼ぶ。
 1950年1月末、アメリカと大韓民国(韓国)とは米韓相互防衛援助協定を締結した。
これより前の1948年12月、国際連合(国連)の第三回総会で世界人権宣言を採択したばかりの出来事であった。
 この軍事同盟に勢いを得たアメリカのトルーマン政権は、1950年1月30日に全面的な軍事介入を指令した。
 そのアメリカの参戦理由については、トルーマン大統領の弁(その一部)にこうある。
 「韓国への攻撃は、共産勢力が独立国家を征服するために転覆工作以上の手段にまで踏み込み、軍事侵略や戦争に訴えるのも辞さないことを疑う余地のないほど明確に示した。
 共産勢力は、国際平和と安全を確保するための国連安全保障理事会が発した命令に挑戦してきたのである。
 このような状況の下では、共産軍による台湾の占領も、太平洋地域の安全とこの地域で合法的かつ不可欠な任務を果たしている合衆国軍に対して、直接的な脅威になるものである。」(トルーマンの挑戦戦争介入についての声明(1950年):大下尚一ほか編「史料が語るアメリカーメイフラワーから包括通商法まで、1584~1988」有斐閣、1989)
 そして迎えた1950年6月25日、北朝鮮軍が南朝鮮に進攻し、同8月には釜山周辺以外の地域が北側の支配下に入れる。同6月26日、国連が緊急安全保障理事会を開いて、北朝鮮軍の攻撃即時停止を求める決議案を、これに反対するソ連の欠席のうちに9対0で採択した。
 この年の10月7日には、国連が朝鮮半島の武力統一のため38度線以北への軍の進攻を容認した。10月1日、「国連軍」は中国からの警告を無視して38度線を突破した。中国はこれに対抗するべく義勇軍を派遣し、国連軍の動きを牽制する。そらに11月末の中国軍総攻撃で、「国連軍」は38度線以南に退却を余儀なくされていく。

(続く)

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